ゴルバチョフ元大統領-1
ミハイル・ゴルバチョフ-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ラテン文字表記:
Mikhail Sergeevich Gorbachev、
1931年3月2日 - 2022年8月30日)は、ロシア、旧ソ連の
政治家である。
ソビエト連邦の第8代にして最後の指導者であり、1985年から1991年まで
ソビエト連邦共産党書記長を務めた。1988年から1991年まで同国の国家元首でもあり、1988年から1989年まで
最高会議常任委員長、1989年から1990年まで最高会議議長、1990年から1991年まで
ソビエト連邦大統領を歴任した。
ゴルバチョフは、思想的には当初
マルクス・レーニン主義を信奉していたが、
1990年代初頭には
社会民主主義に移行していた。
ゴルバチョフは、
スタヴロポリ地方のプリヴォルノエで、ロシアとウクライナの血を引く貧しい農民の家に生まれた。
スターリンの支配下で育ち、
集団農場で
コンバインを運転した後、共産党に入党し、マルクス・レーニン主義の解釈で
一党独裁のソビエト連邦を統治した。
モスクワ大学在学中の1953年に同級生の
ライサ・ティタレンコと結婚し、1955年に法学博士号を取得した。
スターリンの死後、
ニキータ・フルシチョフによる脱スターリン改革の熱心な推進者となる。1970年、
スタヴロポリ地方委員会の第一書記に就任し、スタブロポリ大運河の建設を指揮した。1978年、モスクワに戻り、
党中央委員会書記となり、1979年、
党政治局委員となる。
ブレジネフの死後、
ユーリ・アンドロポフと
コンスタンチン・チェルネンコを経て、1985年、事実上の政府首脳である書記長に選出された。
ゴルバチョフは、ソ連邦の維持と
社会主義の理想にこだわりながらも、1986年の
チェルノブイリ原発事故以降、大幅な改革が必要だと考えていた。
ソ連・アフガン戦争から撤退し、
ロナルド・レーガン大統領との首脳会談で
核兵器の制限と
冷戦の終結に乗り出した。国内では、
言論・報道の自由を認める
グラスノスチ(開放)政策、経済の意思決定を分散して効率化を図る
ペレストロイカ(再構築)政策がとられた。また、民主化政策や選挙で選ばれる
人民代議員会議の設立は、一党独裁の国家を弱体化させた。1989年から1990年にかけて、
東欧諸国が
マルクス・レーニン主義の統治を放棄した際、
ゴルバチョフは軍事的な介入を断念した。国内では、
民族主義的な感情が高まり、ソ連邦の崩壊の危機を招き、マルクス・レーニン主義の強硬派は1991年に
ゴルバチョフに対する
8月クーデターを起こし、失敗した。その結果、
ゴルバチョフの意に反してソ連は解体され、
ゴルバチョフは辞任した。退任後は、
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の資金援助により
ゴルバチョフ財団(ゴルバチョフ友好平和財団)を設立し活動した。
ゴルバチョフは西側諸国では人気が高いが、ロシア並びにポスト・ソビエト諸国では、ソ連の解体を加速させ経済崩壊を招き、
統一教会の資金援助による
ゴルバチョフ財団の運営と
ソビエト諸国での布教活動の協力などへの批判がされていた。 2022年8月30日に亡くなった。
来歴・人物
生い立ち
1931年3月2日、
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の
スタヴロポリ地方プリヴォリノエ村にて
コルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれた。幼年時代に
スターリンの
大粛清に遭遇する。この時祖父のアンドレイ(1890〜1962)が
サボタージュの嫌疑で投獄された。
1941年6月に
独ソ戦が始まると、農業技術者だった父親のセルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフ(1909〜76)が従軍した。
1944年に夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、本人から無事を伝える手紙が3日後に届いた。スタヴロポリ地方は一時期、
ドイツ国防軍に占領されている。
戦後は14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で
労働赤旗勲章を授与される機会に恵まれ、
1950年、19歳の時にスタヴロポリ市当局の推薦で
モスクワ大学法学部に入学した。
同大学在学中に後に妻となる哲学科の学生である
ライーサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会う。5年間の大学生活中に
ゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間に
チェコスロバキアから留学していた
ズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは後の「
プラハの春」の推進者の1人となり、その後の
ゴルバチョフに大きな影響を与えた。
1952年10月、
ソビエト連邦共産党に入党する。
大学卒業後、
ゴルバチョフはソビエト連邦検察庁の国家試験を受験する。一旦は内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元の
コムソモール活動に従事し、書記になった。やがてスタヴロポリ地域の農業行政官となり地区書記に昇進した。
権力への階段
1955年8月にスタヴロポリ市コムソモール
第一書記、
1962年3月にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、
1966年9月にスタヴロポリ市党第一書記、
1968年8月にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、
1970年4月にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任し、
1971年には40歳で
党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、
1967年に科学的
農業経済学者の資格を得ている。
ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の
党官僚として階梯を登り始めた時期は、
ニキータ・フルシチョフ第一書記の
非スターリン化が実施された時期であり、
ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者の
ミハイル・スースロフや、同郷の
ユーリ・アンドロポフの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であった
ボリス・エリツィン(
スヴェルドロフスク州党第一書記)や
エドゥアルド・シェワルナゼ(
グルジア共産党第一書記)らと交流を持つに至る。
モスクワへ
1978年11月、急死した
フョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。
ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会総会において満場一致で承認された。
ゴルバチョフと妻のライサはモスクワに引っ越し、国家から邸宅が与えられることになった。
1979年には
政治局員候補として政治局入りする。彼はその新しい役職で、しばしば1日あたり12時間から16時間働いたという。この際、ゴルバチョフは過度に中央集権化された国の農業管理システムに対する懸念を強めていき、
1978年の中央委員会で問題提起を行った。彼は、他のソビエトの政策についても問題意識を持ち始めた。
1979年のソ連軍による
アフガニスタン侵攻も誤った政策だと考えていた。
しかし、時に彼は公然と政府の立場を支持した。例えば、
1980年10月にソビエト政府が
ポーランド政府に対して同国内での批判意見の取り締まりを要請した際にはそれを支持した。そして同月の党中央委員会総会で史上最年少の政治局員となる。
1982年11月に
党書記長の
レオニード・ブレジネフが死去し、新たに
ユーリ・アンドロポフが書記長に就任する。アンドロポフは同じ改革派である
ゴルバチョフに目をかけ、
ゴルバチョフの中央への昇進に重要な役割を果たしたと同時に、
ゴルバチョフにとって同郷の先輩でもあり、政治局内で最も信頼の置ける人物であった。
ゴルバチョフは政治局内におけるアンドロポフの最側近として、時には同書記長の指名により政治局会議の議長を任せられた。アンドロポフは
ゴルバチョフを自身の後継者に考えていたようであり、
ゴルバチョフに農業以外の政策分野へも携わらせ、経験を積ませた。
1983年4月には
レーニン生誕113周年記念集会での演説を任せられた(前年に演説したのはアンドロポフ)。
ゴルバチョフはアンドロポフが自由化改革を実行することを期待していたが、同書記長の健康状態の悪化などから人事異動のみが実施されるに留まった。
1983年に
カナダを訪問し、カナダの
ピエール・トルドー首相(当時)と会談する。この時に駐カナダ大使で、後に
ゴルバチョフの側近として
ペレストロイカを牽引する
アレクサンドル・ヤコブレフと面識を持つ。さらに
イギリスを訪問し、
マーガレット・サッチャー首相(当時)から「
彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。
1984年2月にアンドロポフが死去すると、同書記長による後継指名にも関わらず、
ゴルバチョフは書記長に選出されなかった。
中央委員会の多くは53歳の
ゴルバチョフでは若すぎであり経験不足であると判断したことに加え、改革派である
ゴルバチョフの選出を保守派の
ニコライ・チーホノフ首相や
ドミトリー・ウスチノフ国防相らが頑なに阻んだためである。代わりに書記長となったのはアンドロポフの政敵で、保守派の
コンスタンティン・チェルネンコであった。
しかし就任当初から病弱であったチェルネンコは、直々に
ゴルバチョフを事実上のソ連ナンバー2にあたる「第二書記」へ指名した。しかしこの際、チーホノフらがチェルネンコの発案に反発したため、
ゴルバチョフは正式な承認を経ずして同職を遂行することとなった。結果的に、チェルネンコの不在時には
ゴルバチョフが中央委員会の職務に当たることとなり、
ゴルバチョフの役割は拡大していくこととなった。そして、
ゴルバチョフは次第に改革派としてその名が知られるようになる。
書記長就任
1985年3月、チェルネンコの死去を受けて党書記長に就任する(54歳)。チェルネンコが死去した3月10日、夜遅くまで
クレムリンで仕事をしていた
ゴルバチョフは、帰宅後に第二書記として医師から電話で報告を受ける。
ゴルバチョフは他の幹部へも連絡し、後継者選出のための拡大政治局会議が急遽招集された。書記長の座を巡って、
ゴルバチョフの有力なライバルとしては、重工業・軍事工業担当書記の
グリゴリー・ロマノフや、
モスクワ党第一書記の
ヴィクトル・グリシンがいた。他にも野心のある人物が数名いると考えられ、ウクライナ党第一書記の
ウラジーミル・シチェルビツキーや、高齢だが
ニコライ・チーホノフ首相もその中に含まれた。
外相・第一副首相の
アンドレイ・グロムイコもその中の1人と思われたが、高齢となったグロムイコは書記長の座よりも形式上の
国家元首ポストである
最高会議幹部会議長の職に意欲を燃やしていた。
ゴルバチョフはグロムイコへ接触し、取引の結果、グロムイコの推薦を得るに至る。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔は素晴らしいが、鉄の歯を持っている」と語った。
高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさは『
プラウダ』紙での
ゴルバチョフの写真が、死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。
ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」に相応しい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」には
エゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢のチーホノフ
首相を解任し、共産党中央委員会書記の
ニコライ・ルイシコフ(経済担当)を後任に充てた。また、グロムイコを
最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だった
エドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。
また経済担当の閣僚では、1985年10月に
ゴスプラン(国家計画委員会)議長
ニコライ・バイバコフを解任し、後任に
ニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられて若返った。
ペレストロイカ(「
ペレストロイカ」も参照)
本人の南ロシアなまり(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「
(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的な
ロシア語表現ならば「
(プロツェース・ナチャルシャー)」となるが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろ
モスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。
書記長就任から8か月後の
1985年11月、
スイス・
ジュネーヴにて、当時の
アメリカ大統領ロナルド・レーガンと米ソ
首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。
1986年4月、
ゴルバチョフは
ロシア語で「建て直し」「再建」を意味する
ペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生した
チェルノブイリ原発事故を契機に、情報公開(
グラスノスチ)を推進する。
当初、レーガンや
西側の
保守派は
ゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の
社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、
ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった。
経済改革では、社会主義による
計画経済・統制経済に対して、個人営業や
協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、
1987年8月に
国営企業法を制定した。
ペレストロイカは次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えた
サハロフ博士をはじめとするソ連国内の反体制派(
異論派)が政治的自由を獲得し、
スターリン時代の
大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。
ゴルバチョフは自身を
ソビエト連邦の崩壊のその日まで「
共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「
欧州共通の家」「
新世界秩序」といった新たな価値によって国内政治および
外交政策において大胆な転換を実行していった。
1986年7月、
ゴルバチョフは
ウラジオストク演説で
アフガニスタンからの撤退と
中ソ関係改善を表明した。10月には
アイスランドの
レイキャビクにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカの大統領ロナルド・レーガンが掲げていた
戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(
Intermediate-range
Nuclear
Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、
1987年12月に成立する
中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に繋がっていく。
ゴルバチョフは信仰の自由を認める姿勢を打ち出し、1988年4月29日に
ロシア正教会の総司教ピメンら6人の指導者と会談した。
ソ連政府の最高指導者が教会指導者と会談したのは1943年以来のことで、
ゴルバチョフは会談で、ソ連が過去に教会と信者に過ちをおかしたことを認めた。
1988年10月、
ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、国家
元首となる。
同年12月、
最高会議を改組し、
人民代議員大会を設置する
憲法改正法案が採択される。この頃より守旧派に接近を余儀無くされる。
1990年3月、求心力が低下したゴルバチョフは
複数政党制と強力な
大統領制を導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)する
憲法改正法案を人民代議員大会で採択させた。
3月15日、人民代議員大会において実施された
大統領選挙において、
ゴルバチョフは初代ソビエト連邦大統領に選出(これにより、ソビエト連邦の国家最高責任者は書記長から大統領に移行した)されたが、
ゴルバチョフがロシアに導入した
1991年ロシア大統領選挙のような
直接選挙では無く、人民代議員大会による
間接選挙で選出されたことは、
ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった。
副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を電撃的に辞任して世界中を震撼させた。
ゴルバチョフは
ゲンナジー・ヤナーエフ政治局員を副大統領に指名した。
一方で人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任された
ボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、1991年には
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の大統領となり、さらには共産党から離党を宣言して党外改革派の代表として
ゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。
国内政策での保守派への妥協にも関わらず、
ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来の
ブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な
東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、
ハンガリー事件や
プラハの春で起こった
ソビエト連邦軍による
民主化運動の
弾圧はもう起こらないことを示した。
事実、1989年の
ポーランドにおける
円卓会議を起点とする一連の
東欧革命に関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年には
東ドイツの
西ドイツへの統合(
ドイツ再統一)まで実現することになった。
ゴルバチョフは
ベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者である
エーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土への
NATO軍(
アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツの
ヘルムート・コール首相が示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。
冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた
軍産複合体の中には
ゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派として
ゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。
ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から
1991年2月に
リトアニアの首都
ヴィリニュスで発生した
リトアニア独立革命に対するソビエト連邦軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった(
血の日曜日事件)。
また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、
1989年5月に中国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは
六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。
1990年8月の
湾岸戦争では
国際連合安全保障理事会で
武力行使容認決議に賛成して米ソの和解を演出する一方、アメリカと
イラクの停戦を仲介した(
ゴルバチョフの案は当時の
アメリカ軍統合参謀本部議長コリン・パウエルと
アメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフによって修正され、協定が結ばれた)。
1991年4月にはソビエト連邦最高指導者として初めて日本も訪れ、海部俊樹首相(当時)と日ソ平和条約の締結交渉や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。
1990年11月7日の革命記念日にモスクワの
赤の広場で軍事パレードが行われていたとき、
ゴルバチョフ暗殺未遂事件が発生した。労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、
ゴルバチョフめがけて2発の銃弾を放った。しかし、弾は外れた。シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。彼は、
1991年の
ソビエト連邦の崩壊前最後のソビエト時代の暗殺者であり、その後4年間を精神病院で過ごした。ソ連中央テレビは一時放送を中断し、午前11時25分に通常放送を再開した。
8月クーデター(詳細は「
ソ連8月クーデター」を参照)
1991年、
ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のエリツィン、
カザフ・ソビエト社会主義共和国の
ヌルスルタン・ナザルバエフの2人と会談し、
新連邦条約を
8月20日に調印する運びとなった。
ところが
8月19日、クリミア半島フォロスの大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、副大統領のヤナーエフ、そして、ヴァレンチン・パヴロフ首相らの「国家非常事態委員会」を名のる保守派が起こしたクーデターによって、妻のライーサや家族、外交政策担当大統領補佐官のアナトリー・チェルニャーエフら側近たちとともに別荘に軟禁された。
ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。(ライーサ夫人は救出後に「軟禁中、『ソニー』が一番役立った」とコメントしている。)
上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜した。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。
ソ連共産党解体とソ連崩壊(詳細は「
ソビエト連邦の崩壊」を参照)
8月23日に
ゴルバチョフは
ロシア最高会議で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちは
ゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。同時に、ロシアSFSRのエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。
翌
8月24日、
ゴルバチョフはソ連共産党書記長の辞任と共産党の
資産凍結を発表するとともにソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、
エストニアと
ラトビアの独立を承認した。クーデターからおよそ10日後の
8月29日、最高会議の臨時
両院合同会議でパブロフ首相の不信任案が可決され、ソ連共産党の活動全面停止を決定した。
同年末には、この時点で
ゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト連邦からの脱退を進めたことにより、ソビエト連邦は崩壊した。
12月25日に
ゴルバチョフはテレビ演説で「私は不安を持って去る」と大統領を辞任し、結果的にソ連時代唯一の大統領となった。
ソ連崩壊後
ソビエト連邦の崩壊を不本意な形で迎えた
ゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。
ゴルバチョフに対して政治への参加を求める声は多く、また世界中の財団や基金の代表への就任や、
広告への出演の声がかかった。
1991年12月より
国際社会経済・政治研究基金(通称、
ゴルバチョフ基金または
ゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。また、
環境問題に主な活動を移し、
グリーンクロス・インターナショナル会長として元
地球サミット事務局長の
モーリス・ストロングとの
地球憲章の作成や
アースデイへの署名など国際環境保護運動に積極的に参画した。政治活動として
1996年の
ロシア大統領選挙に立候補したが、得票率は0.5パーセントで落選した。その後
ピザハットのCMに出演するなど、政治以外の活動も開始する。
1999年9月20日、妻のライーサを
白血病で失う。最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。
2001年11月、
ロシア社会民主党党首に就任したが、
2004年5月22日には同職の辞職を発表し、事実上の政界引退となった。なお、ロシア社会民主党はロシア連邦最高裁判所から解散命令が出され、
ゴルバチョフは不快感を表明した。
2006年11月には右
頚動脈に異常が認められ、
ドイツの
ミュンヘンの病院に入院、
11月21日に手術を受け、経過は良好であると発表された。
2007年には
フランスの高級バッグメーカーの
ルイ・ヴィトン社の広告に登場した際には、脇に
アレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、
ウラジーミル・プーチン政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。
しかし2007年10月20日、
2007年ロシア下院選挙を目前に
社会民主同盟(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出され、就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。
左派の理念も
自由主義も取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙では
ウラジーミル・プーチン政権与党の
統一ロシアへの投票を呼びかけた.
ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに(ソ連崩壊後の)安定と経済的繁栄をもたらした」「強いソ連(ロシア)を復活させた」として評価している。しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、
2009年に入って
AP通信の
インタビューで「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している。
2011年ロシア下院選挙の不正疑惑や
2012年ロシア大統領選挙の事前審査で
グリゴリー・ヤヴリンスキーらが立候補を制限されたことなどを受けて、プーチン政権批判を強める。
2012年1月28日、「専制」を排除し、政治改革を実現するための国民投票実施を提唱する論文を発表したとインタファクス通信は報道した。
2008年に勃発した
南オセチア紛争については、
8月14日に
CNNの番組「
ラリー・キング・ライブ」に出演した際、「ロシアの軍事介入は
南オセチア・
ツヒンバリの惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。また、
西側のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。また、アメリカが推し進めている
東欧ミサイル防衛構想を批判し、「再び
冷戦を繰り返さないようにしよう」と述べている。
民主系新聞「
ノーバヤ・ガゼータ」紙の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーである
イタリアの自動車メーカーの
ランチアのテレビCMに、元・ポーランド大統領
レフ・ワレサや
ミャンマーの非暴力民主化活動家である
アウン・サン・スー・チー、
イングリッド・ベタンクールなどとともに出演した。
新党結成以降
2008年9月、ゴルバチョフは、
アレクサンドル・レベデフとともに
ロシア独立民主党という新党を結成したことを発表し、
2009年5月には、活動がまもなく開始されることも発表した。その際に多数の支持者がいることも述べた。これは2001年の
ロシア社会民主党結成および
社会民主同盟以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試みである
。
2019年に中距離核戦力廃棄条約が失効すると、条約の失効は新たな軍拡競争を生み出すと懸念を表明した。また、全ての国が
核兵器の廃絶を宣言すべきだとしている。
2021年4月にソ連崩壊から30年を機にJNNが行ったインタビューでは「ロシアの未来はただ一つ、民主主義だけ」、「ペレストロイカは正しかった」などと回答している。また、同年8月には8月クーデター30年に際して
東京新聞・
北海道新聞の共同書面インタビューに応じ、「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」であり、「(ロシアと欧米が)通常の関係を取り戻すには政治的な意志も必要で、対話以外に道はない。」、「訪日準備を開始した当時、わが国には熟考された対日政策がなかったため、日本社会のさまざまな分野の代表者との多くの会合を計画し、中曽根康弘首相、土井たか子・日本社会党委員長、宇野宗佑外相、枝村純郎駐ソ連大使、池田大作・創価学会名誉会長、与党・自民党の小沢一郎幹事長や財界人、文化人らとのいくつかの会談を持った。」と回想する一方、北方領土問題については「領土に関する戦後の決定は最終的で覆せないものだと考えており、この問題を議論したくはなかった。
日本の対話の相手がこの(領土)問題を直接的、間接的に提起したことが、訪日が先延ばしされてきた理由の一つだった。」として、日本側の交渉姿勢に問題があったとの認識を示した。
また、「1991年の訪日後、多くの時間が失われたことは残念だ。このような問題においてテンポを失ってはいけない。チェスの選手の言うように(テンポの喪失は)敗北につながる。交渉を恐れてはいけない。最も困難で深刻な問題を議論するべきだ。互いの信頼関係を築くことが必要だ。お互いを信頼しないパートナーは真剣な交渉を行うことはできない。」と指摘した。
2022年ロシアのウクライナ侵攻について「一刻も早い戦闘停止と、相互の尊重や双方の利益の考慮に基づいた和平交渉が必要。それが解決できる唯一の方法だ」と、
ゴルバチョフ財団を通して声明を発した。
死去
2022年8月31日に
タス通信により入院先のモスクワ
中央臨床病院で
8月30日に
以前より患っていた腎臓疾患のため死去したことが発表された。
91歳没。
ゴルバチョフの死により、ソビエト連邦最高指導者は全員が亡くなった。最も長く生きたソビエト連邦最高指導者経験者であった。
31日未明にロシア通信は、
プーチン大統領は
ゴルバチョフの死去に関して深い哀悼の意を表し、31日の朝に
ゴルバチョフ氏の遺族や友人に弔電を送る予定と報道した。
また、
イギリスの
ジョンソン首相は
ツイッターにて、「ゴルバチョフ氏の死去の報道を受け悲しんでいる。私はゴルバチョフ氏が冷戦を平和的な結末に導くために見せた勇気と高潔さを、常に尊敬していた。
プーチンがウクライナを侵略している今、
ゴルバチョフ氏がソビエト連邦を開放するために行った、たゆまぬ献身は、私達全員にとって見本となり続ける」と
ツイートした.
評価
ゴルバチョフに対する評価は二分している。前述したように現役当時から西側諸国では絶大な支持がある。
西ドイツの
首都である
ボンに訪問した時など「ゴルビー! ゴルビー!!」と、冷戦当時に西ドイツを訪問したアメリカの
ジョン・F・ケネディ以来の熱狂的な支持があった。
アメリカの『
タイム』誌の特集「20世紀の重要人物100人」に、ロシア出身の政治家からは
レーニンと
ゴルバチョフのみが選ばれている。
一方のロシアでは、就任当初を除いて在任中から不人気であり続けた。風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされたことが、エリツィンの人気を一層引き立てる結果になった。
ソ連崩壊後のロシアではエリツィンの失政もあって、経済・軍事などあらゆる面でアメリカとの国力差がさらに広がったため、保守派から「“偉大で強い”古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。
また、
ゴルバチョフが政権初期に飲酒制限政策(酒類供給量の制限や販売時間の制限等)を展開したことで、酒好きで知られるロシア人からさらなる反感を買うこととなった。
逸話
マスメディアへの露出
ドイツの
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『
時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』に本人役で出演した。『
ピーターと狼』(
プロコフィエフ作曲)のCDでは、元
アメリカ大統領の
ビル・クリントンらとともにナレーションで出演しており、第46回
グラミー賞で最優秀子供向け朗読アルバム賞に選ばれた。
イギリスのテクノグループ
シェイメンのアルバムに『
In Gorbachev We Trust』(1989年)があり、ジャケットに
ゴルバチョフの肖像画が使われている。
1997年には
ピザハットのテレビCMに出演、また、前述の通り、ルイ・ヴィトンの
2007年秋の広告に
カトリーヌ・ドヌーブや
アンドレ・アガシ、
シュテフィ・グラフ夫妻と出演している。撮影は
ベルリンの壁の前で行われたが、これは
ゴルバチョフのリクエストによるもの。出演料は自身が設立した環境保護団体と、元
アメリカ副大統領アル・ゴアの
地球温暖化防止事業に寄付されたという。
ビデオゲームでの登場
1991年4月12日に当人の名を冠した
ファミリーコンピュータ用
ゲームソフト『
ゴルビーのパイプライン大作戦』が
徳間書店より発売された。また、
セガの携帯ゲーム機
ゲームギア用ソフトで『
がんばれゴルビー!』というタイトルがある。ゲーム内容は主人公のゴルビーを操作し、
工場内で
警備員の目を盗んで
食料などの物資を貧しい民衆に送り届けるというもの。なお、いずれのタイトルも日本のみの発売で、後者はキャラクターを差し替えて『
Factory Panic』のタイトルで欧州で発売された。
ストリートファイターIIでは登場キャラクターの
ザンギエフのエンディングにおいてヘリコプターから姿を現してレスリングによる国際交流に努めたことに対する礼を述べたあとに、ザンギエフおよび
KGBの護衛3人とともにコサックダンスを踊る。ただし、その本名はゲームには登場しない。
ゴルバチョフと日本
妻との初めてのデートは
日本のコーラスグループ、
ロイヤルナイツのコンサートであったと
五木寛之に語っている。また、初来日の際、
鯉のぼりを見て非常に驚いたというエピソードがある。書記長・ソ連大統領時代の
1991年4月16日 - 19日には日露(日ソ)会談のため来日、
海部俊樹首相(当時)や元
外務大臣の
安倍晋太郎と会談を行っている。この時同伴したライサ夫人の
銀座での買い物シーンがテレビを通じて報道され、ソ連国内で「国民が経済不調で苦しんでいるのに」と不評を買った。
政界引退後は各種団体やマスコミなどの招きで頻繁に来日し、そのつどテレビ番組などに出演しているほか、地方都市にも足を伸ばし、講演会なども催している。
1993年4月には
創価大学、
大阪工業大学の両校で講演を行い、同年の創価大学と
2003年11月には
日本大学より、それぞれ
名誉博士号を授与され、同年および
2005年5月の2度にわたり日本大学にて講演を行った。
2005年6月に来日した折には、
徹子の部屋に出演(同年7月5日放送)。また、同年12月にも再び来日し、
12月24日放送の
日本テレビ系のバラエティー番組『
世界一受けたい授業』に講師として出演。同番組内の講義の中で「日本には毎年何回も来ており、正確な来日回数は自分でも分からない」と述べている。
同番組では
2003年に勃発した
イラク戦争開戦当時は丁度来日していて、一般乗客として
山手線に乗車していた最中にニュースを聞いて初めて知ったと述べている(なお、同番組では
アメリカ軍の
イラクへの侵攻を「政治的な大きな誤り」であると批判した)。
ちなみにこの番組には生徒役(ゲスト)として、当時の
小泉純一郎首相の長男で俳優の
小泉孝太郎が同席しており、同年9月に行われた
第44回衆議院議員総選挙(
郵政解散)を高く評価した。また、
沖縄県知事の
翁長雄志と何度も面会したことがあり、2018年に翁長が死去した際には地元紙の
琉球新報に追悼メッセージを寄稿した。
このほかに来日こそしていないものの、
2006年の
24時間テレビの
CMに出演しメッセージを送っている。2014年3月28日の『
笑っていいとも』(金曜日最後の放送分)の「
テレフォンショッキング」で
黒柳徹子が出演した際は、ゴルバチョフ財団の名義で花を贈っている。
2009年12月の来日では
鳩山由紀夫首相(当時)と会談したほか、
1990年より親交のある創価学会の池田大作名誉会長とも対談した(対談内容は
潮出版社発行の雑誌『
潮』に全文が掲載)。このほかに
明治大学で学生との対話集会を催し、その模様が同月および
2010年1月に「ゴルバチョフ 若者たちとの対話」として
NHK衛星第1にて放送された。
また、『世界一受けたい授業』の2010年新春スペシャルの収録にも講師として再び出演した(『世界一受けたい授業』2010年新春スペシャルは2010年1月2日に放送)。
2010年2月にも再来日し、
関西テレビ・
フジテレビ系列のバラエティー番組『
SMAP×SMAP』の「
BISTRO SMAP」にゲストとして出演し、ソ連時代の自分の周囲の出来事を
SMAPリーダーの
中居正広に語っていた。
演説集を出版するなど、
読売新聞とは関係が深く、日本テレビ系列の番組に多く出演しているのもその繋がりである。また、創価学会の池田大作名誉会長とは
1990年7月27日に
クレムリンで行われた初めての会談を皮切りに来日時には毎回面会している。逆に池田名誉会長がロシアを訪問する際にも面会し、ほぼ毎回対談しており、面会・対談の様子は『潮』や
聖教新聞社発行の写真雑誌『グラフSGI』などに掲載されている。
日本大学名誉博士・
明治大学名誉博士・
創価大学名誉博士などの
名誉学位を有する。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係
ゴルバチョフは米国の
ロナルド・レーガン大統領と同じく
統一教会を支持し、
ゴルバチョフが設立した
ゴルバチョフ財団は、
長きにわたり統一教会の資金で運営されてきた。
1990年4月、
統一教会開祖の
文鮮明はソビエト連邦を訪問し、国家元首であったゴルバチョフと会談。
クレムリンの敷地内にある
ロシア正教会の重要な教会、
ウスペンスキー大聖堂で
統一教会の儀式を行なった。文鮮明は「統一教会はやがてロシアで
国教として受け入れられるだろう」と発言した。
統一教会は
1980年代から
ソビエト連邦にて活動を始めていたが、ソ連で
ペレストロイカが始まると、堂々と布教活動をするようになった。統一教会とゴルバチョフにより開催された「第11回世界言論人会議 モスクワ大会」では、
松本十郎前防衛庁長官(
安倍晋太郎元
自民党幹事長代理)も参加した。
ロシア宗教・宗派研究センター協会会長のアレクサンドル・ドヴォルキンは、「ソ連の国家元首が、現役の一国のトップとして一番最初に文鮮明に会ってしまった。周囲の人々のプロ意識がなかったとしか思えない」と語っている。
統一教会はまず、莫大な資金を注ぎ込んで
ロシア教育省と太いパイプを築いた。学校の教師らをロシア南部・ビーチリゾートの
サナトリウムへ旅行に連れていき、そこでセミナーを行い、ビデオを見せるなどして
啓蒙活動を展開した。
「
統一教会は、ソビエト人のメンタリティというものをあまり理解できていなかったと思います。無料でビーチに行きたいから行っただけ、戻ってきてからは何もしないという人が多かったのです。しかし強く感化された人もいて、ひとクラス丸ごと生徒を統一教会の儀式に連れていった教師もいた。それをフランスのテレビ局が取材していたので、よく覚えています。」とドヴォルキンは話している。
統一教会は
ロシア語で「私の世界と私」という教科書を作った。この教科書はロシア全土のおよそ一万の学校で採用され、特にカルムキヤ共和国では、当時の首長と関係を築き、共和国内の全ての学校が採用した。カルムキヤはロシアの中でも数少ない
仏教国である。統一教会は一応キリスト教系の新宗教であるはずだが、ドヴォルキンは全く関係ないと否定する。
ドヴォルキンは、「ロシアは多民族の国ですから、
統一教会は地域によって、自分たちの主張を変えていました。カルムキヤでは仏教徒に、イスラム教の地域ではムスリムに対し、それぞれ耳ざわりの良いことを吹き込んでいたわけです。また、最初はロシア正教会の聖職者が
統一教会のセミナーに参加することもありました。文鮮明は、色々な宗教の代表者を自分たちのイベントに招くことを好んだからです。しかしロシア正教会の方は、これはおかしいと気づき、行くのをやめました。」としている。
日本では
安倍晋三銃撃事件での容疑者のように「
2世」の悲劇が注目されがちだが、ロシアでは親の意に反して子どもが入信してしまうケースが目立ったという。
ドヴォルキンによると、「
霊感商法や
寄付などで日本が
統一教会の資金源になっていることは有名ですが、ロシアの場合は、90年代から2000年代にかけては市民が寄付できるほどのお金を持っていませんでした。ロシアにおける手口はこうです。若い信者は、縁もゆかりもない他の町に引っ越しさせられ、アパートの一室に押し込められて集団で生活します。朝から晩まで路上に立って、通行人に施しを求めます。大体は、冷たくされるわけですね。でも、信者は、その冷たくされることこそが、試練だと捉えています。狭い部屋に戻ると、一番寄付を集められなかった人が罰を受けます。そんな中でも、他に友達や頼れる人がいないので、信者の信仰の心は強まり、自分たちは正しいことをしているという気持ちがさらに高まるのです。」とされている。
統一教会は、米国と日本のメディアに大きな影響を及ぼしたが、ロシアではその試みはうまくいかなかった。ドヴォルキンは「特に
統一教会が盛んに活動した90年代は、私有財産という概念が誕生したばかりで、社会の何もかもが瞬く間に変化し、盗みや殺人も日常茶飯事だった」と振り返る。そこへ乗り込んでいくのはリスクが大きすぎた。注いだ活動資金の額に比べると結果が見合わなかったため、文鮮明は徐々にロシアへの関心を失っていった。
ドヴォルキンは、
統一教会が衰退したのは他にもいくつかの要素が重なったためだと指摘する。例えばゴルバチョフ財団は、長きにわたり
統一教会の資金で運営されてきた。しかしゴルバチョフは西側では人気があるが、ロシアでの人気はさほどない。ゴルバチョフ財団は、
統一教会が望むような影響力を持てなかった。
「
オウム真理教がロシアで有名になったことは、
統一教会の活動にも影響を与えました。オウムの危険性がクローズアップされたことで、
統一教会もそれと同列で、危ない存在ではないかと、社会全体が危機感を抱き始めました。それ以外にも他のカルト宗教がどんどん出てきて、競争も激しくなり、
統一教会の衰退は、2012年の文鮮明の死去とそれに伴う家族間の継承権争いによって決定的となりました。
90年代というロシアが最も混乱した時期と、
統一教会の全盛期が重なったことは、不幸中の幸いでした。ロシアがもっと安定した時期に彼らが入り込んできていたら、より大きい影響を及ぼす存在になっていたことでしょう。」とドヴォルキンは語っている。
ロシアを含む多くの
ポスト・ソビエト諸国(ロシア寄りの旧ソビエト諸国)の宗教当局は、
統一教会を安全保障上の問題があるとして規制と監視対象とした。ロシアを含む多くのポスト・ソビエト国家の宗教当局は、
統一教会の運動を
セクト(
ネオナチ)と呼び厳しく批判し、その結果それらの場所で
統一教会の活動が抑制された。
2012年2月の始め、旧
ソビエト国家である
キルギスでは、キルギス国家保安委員会、キルギス検察庁、および州宗教問題局が、
統一教会の活動が適切な登録なしに非伝統的な宗教的見解を強制的に広めることにより、キルギスの
国家安全保障に脅威を与えたと主張。裁判所に苦情を申し立てた。
ビシュケク裁判所は、キルギスの領土での
統一教会の活動を実質上不可能とする判決を下した。
016年、
ウラジミール・プーチン及びプーチン政権は、
ネオナチ勢力(
セクト勢力)への新たな対テロ法として、新興宗教勢力に対する布教活動や私的な参拝を禁ずるとし、すべての伝道師や布教者は「登録済み」の組織に所属していなければならない事を取り決めた。これにより、ロシア国内における
統一教会の活動は事実上不可能となった
ウクライナでは現在も拠点が存在している。
2022年2月24日からのウクライナ侵攻後、
ウクライナの家庭連合(ウクライナ統一教会)会長アーニャ・カルマツカヤは、「ウクライナとはロシアと戦っているだけではありません。
人類の平和、自由、人権の為に戦っているのです。」とメディアやSNS上などを通じてウクライナ
愛国心と
反ロシア思想を世界へ向けて説いている。(詳細は「
ウクライナの政治」を参照)
家族
1953年9月には
ライーサ・チタレンコと結婚し、
1957年1月に娘のイリーナが誕生した。