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露-ロシア問題



2019.12.19-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191219/k10012221731000.html
プーチン大統領 平和条約交渉「引き分けでなければならない」

ロシアのプーチン大統領は、年末恒例の記者会見で、日本との平和条約交渉について「『引き分け』でなければならない」と述べ、日ロ双方が受け入れ可能な解決策を見いだすべきだとする立場を確認しました。一方で、北方領土の島々を日本に引き渡した場合、日米同盟によってアメリカ軍が展開することにあらためて懸念を示しました。
  ロシアのプーチン大統領は19日、年末恒例の記者会見を開き、4時間余りにわたって、内外のメディアの質問に答えました。
  このうち、日本との平和条約交渉については「日本の指導者との間に信頼関係があり、ともに出口を模索している」としたうえで、「『引き分け』でなければならない」と述べて、柔道の「引き分け」という日本語を再び使って、日ロ双方が受け入れ可能な解決策を見いだすべきだとする立場を確認しました。
  一方で、アメリカが将来的に地上発射型の中距離ミサイルのアジアへの配備を目指していることについても言及し「島々にアメリカの新しい攻撃兵器が配備されないという保証はどこにあるのか」と指摘して、島々を日本に引き渡した場合、日米同盟によってアメリカ軍が展開することにあらためて懸念を示しました。
  またプーチン大統領は、ロシアが中国のミサイル警戒システムの構築を支援するなど軍事協力を深めていることについて「軍事同盟を結ぶ計画はない」と述べたうえで「アメリカと日本、韓国が軍事同盟をつくろうとしているようだ。非生産的でよいことにはならない」と述べました。


2019.12.7-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/191207/wor1912070016-n1.html
中露の蜜月、象徴するパイプライン稼働 「準軍事同盟」エネも協調
(1)
【モスクワ=小野田雄一】ロシアの東シベリアから中国に天然ガスを輸出する両国間で初のガス・パイプライン「シベリアの力」がこのほど稼働した。世界屈指の天然ガス生産量を誇るロシアだが、従来の輸出は欧州向けが大半だった。「シベリアの力」は、欧米との関係悪化を背景に、ロシアが経済や軍事など各分野で中国と結束を強めていることを象徴する事業だ。
 2日に操業を始めた「シベリアの力」は、東シベリア産のガスを極東アムール州経由で中国の黒竜江省に運ぶ。ロシア国内のルートは全長3000キロに及ぶ。ガス売買の契約期間は30年で、年間最大380億立方メートルのガスが輸送される。
 中露が8年越しの交渉を経て、このパイプラインの建設に合意したのは2014年5月だった。ロシアが同年3月、ウクライナ南部クリミア半島を併合し、米欧に経済制裁を科されたことが交渉に弾みをつけた。
 プーチン政権は国際的孤立からの脱却を図ろうと、中国などアジア諸国との関係を重視する「東方シフト」にかじを切った。「シベリアの力」はその象徴的な事業だとされた。
 ロシアは伝統的に欧州方面を主要なガス輸出先としており、ウクライナを経由するソ連時代からのルートや、バルト海底のパイプライン「ノルドストリーム」でガスを輸出している。「ノルドストリーム2」やトルコを経由する「トルコストリーム」も近く完工する見通しだ。
 しかし、露経済紙ベドモスチによると、欧州のガス需要は増加傾向にあるものの、ロシアからの輸入は減少している。欧州諸国がエネルギー安全保障や価格の観点からガス調達を多角化しているからだ。
 ノルドストリーム2をめぐっては、米国が「ロシア依存リスクを高める」と欧州諸国に警告し、事業に参加する欧州企業への制裁も検討している。米国には、自国産の液化天然ガス(LNG)の欧州向け輸出を増やしたい思惑があるとされる。 こうした状況で、プーチン政権がガスの対中輸出にかける期待は大きい。
(2)
近年の中露両国は「準軍事同盟」と称されるほどに関係を深め、米欧への対抗姿勢を鮮明にしている。今年7月には、中露の爆撃機などが日本海上空で初の合同パトロール飛行を行い、露軍機が竹島(島根県隠岐の島町)周辺の日本領空を侵犯した。ロシア国内の軍事演習には2年連続で中国軍が参加している。
 その一方、ロシアにとっては、中国との関係が深まるほど、ロシアが中国の「弟分」として埋没する危険性がつきまとう。
 「シベリアの力」をめぐっては、ロシアが弱みを抱えた状況で契約が結ばれたため、ガス価格などでロシア側が大幅に譲歩した可能性が指摘されている。
 4日付のベドモスチ紙は、事業の採算性に疑問を投げかけつつ、「14年はロシアが兄(庇護=ひご=者)を必要とした時期だった」とし、政治的な思惑がパイプライン建設につながったと分析した。


2019.11.7-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/column/news/191207/clm1912070004-n1.html
【赤の広場で】DVはロシアの伝統か

先日、帰宅途中の路上で、若い男性が同年代の女性を怒鳴り散らしている光景に出くわした。横目で見ていると、突然、男性が女性を強く平手打ちした。女性は泣き叫び、通行人が割って入って男性を諭していたが、男性は女性に激しい言葉を浴びせ続けていた。
 ロシアでは「女は殴られることで男の愛を感じる」という趣旨の格言があるほど、男性中心の価値観が根強い。2017年には家庭内暴力(DV)の罰則が一部軽減された。露紙は先月、国連の統計などを基に、ロシアでは年間1万〜1万4千人(!)の女性が家族の手で殺害されていると伝えた。
 国連など国際社会はロシアに女性の人権状況を改善するよう求めているが、露政府は最近、「ロシアのDVは大きな問題ではない。問題が誇張されている」と反論。リベラル派議員らがDVから女性を守る法案を準備していることに対しても、保守派の議員や市民団体が「伝統的価値観の破壊につながる」と反発するなど、状況の改善は当面、期待薄だ。
 ただ、地下鉄で女性に席を譲ったり、階段で老婦人の荷物を肩代わりして運んだりする若い男性を見かけることも多い。ロシアの若者の価値観は欧米化しつつあるといわれ、この傾向が将来的な状況改善につながることを願う。(小野田雄一)


2019.11.19-NHK NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/191119/wor1911190001-n1.html
【ロシアを読む】学校でライフル組み立て…進む“軍国化”教育 
(1)
愛国精神を育むとの名の下に、ロシア政府が幼少期から青年期の子供たちに対する軍国主義的な教育政策を強化している。露教育省は10月、学校現場に対し、児童・生徒にライフル銃の分解や組立を体験させるよう勧奨。ある学校では児童に反テロをテーマとした絵画を描く課題が出された。国防省も子供を愛国教育プログラムで組織化する活動を進めている。こうした動きに対し、露メディアは「文化ではなく軍事を通した愛国教育は子供の成長に悪影響を及ぼしかねない」と警鐘を鳴らしている。(モスクワ 小野田雄一)
■ 複数の露メディアは10月末、ライフル銃「AK47」の開発者で、11月10日が生誕100周年となるカラシニコフ氏を記念するためとして、露教育省が各地の小中高校に対し、カラシニコフ氏の伝記やAK47の組立・分解などを体験させるよう勧奨したと報じた。
 勧奨文書によると、カラシニコフ氏やAK47を学ばせる目的は「ロシア人の国民的自己認識の基礎としての精神的・道徳的な愛国主義の形成」「児童における国民的・市民的・文化的アイデンティティーの陶冶(とうや)」だという。
 どの程度の数の学校で実際にカラシニコフ氏に関する教育が実施されたのかは不明だが、教育省の勧奨は実質的には命令に近い性質があるとされるため、かなりの数の児童が銃の組立などを体験したとみられている。
■  一方、シベリア西部の都市チュメニの学校では10月下旬、絵画コンクールを開くためとして、教師が小学2年生のクラスに「反テロ」をテーマにした絵を描いて提出するよう命じた。地元メディアによると、保護者らは「小学2年生にテロの概念は理解できない」などと困惑しているという。

 露国家反テロ委員会は昨年5月、児童らによる反テロをテーマとした絵画コンクールを極東沿海地方の自治体と共催しており、チュメニの絵画コンクールもこうした文脈の中で企画されたとみられる。
 同委員会のサイトに掲載されているコンクールに出展された絵画は、子供特有の筆運びで描かれた人物像の横に、刃物や銃、爆発物が描かれているものが多く、アンバランスな印象を受けざるを得ない。
■  国防分野でも、軍事的な愛国教育が加速している。
(2)
露経済紙「RBK」は7月、露国防省が40億ルーブル(約68億円)をかけて首都モスクワ近郊に「軍事愛国心教育センター」を建設する方針を決めたと伝えた。
 同紙によると、センターの完成後は、近隣の男子高校生に対して週1回、18歳以上の男性の義務である兵役に向けた基礎訓練が行われることになる。訓練参加が義務となるか任意となるかは検討中という。
 さらに国防省が精力的に進めてるのが、青少年に愛国心を植え付けることを主眼に、16年から全国的に展開しているプログラム「ユナルミヤ(若き軍隊)」だ。8〜18歳の少年少女を対象に、戦史研究やスポーツ活動、登山やキャンプなどを通じて愛国的な人格の涵養(かんよう)を図るとうたうユナルミヤには、既に55万人以上が参加している。
 戦前のドイツで、ナチスの支配を支えた青少年教化組織、ヒトラー・ユーゲントを想起させる運動だ。
■  露政府がこうした愛国主義教育を進める背景には、14年のクリミア併合で国際的に孤立し、経済制裁による景気低迷も続く中、ロシアの“正しさ”を若者層に植え付け、政府に対する疑問や反感を芽生えさせないようにする狙いがあるとみられている。しかし、こうした軍国主義的な愛国教育の強化をめぐっては、露国内に危惧も根強い。
  教育省による銃組立体験の勧奨について、10月30日付の経済紙ベドモスチは「ロシア政府は近年、学校教育よりも愛国教育を重視する姿勢を示してきたが、教育省の勧奨から明らかになったのは、愛国教育の優れたツールが銃の組立と分解だということだ」と皮肉を込めて報道。「もちろん偉大な同胞の伝記を学ぶことは愛国主義の涵養に役立つが、現在のロシアではあまりにも軍事寄りに偏っている」とも指摘した。
 別の経済紙コメルサントも「(教育省の勧奨は)軍国主義化への傾斜を示している。ロシアではなぜ、愛国主義が芸術や科学ではなく軍事と結びついてしまうのかという、お決まりの疑問を呼び起こすものだ」とする人権活動家シェルバク氏の見解を伝えた。
 ベドモスチは別の記事でも、近年のロシア政府の教育政策は、子供に積極的な愛国教育を施していたソ連時代を彷彿(ほうふつ)させるとも指摘。「ソ連時代の愛国教育がソ連を崩壊から救えなかったことを思い出すべきだ。幼すぎる子供への“ワクチン接種”(愛国教育)は有害にもなりうるのだ」と警告している。


2019.11.19-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191119/k10012182331000.html
ロシア ウクライナ軍艦船3隻返還 交渉有利に進めたいねらいか

ロシアが1年近く拿捕(だほ)していたウクライナ軍の艦船3隻を返還しました。両国は5年前のロシアによるクリミア併合後、ウクライナ東部で続く紛争の解決を目指して、近くフランス、ドイツの仲介で首脳会談を開く予定で、ロシアには今後の交渉を有利に進めたいねらいがあると見られます。
  ウクライナでは5年前、ロシアが南部のクリミアを併合したあと、両国の国境に近い東部でロシアを後ろ盾とする親ロシア派と欧米寄りのウクライナ政府軍の紛争が続いています。
  この紛争の解決を目指し、両国は来月9日、フランスとドイツの仲介のもと、およそ3年ぶりとなる首脳会談を開きますが、これを前にロシアは18日、拿捕していたウクライナ海軍の艦船3隻を返還しました。
  3隻は小型警備艇2隻とタグボート1隻で、去年11月、クリミア沖の黒海でロシアの国境警備船に銃撃された後、拿捕されました。
  ロシアはことし9月、拿捕した艦船に乗っていたウクライナの兵士を同じ数の兵士やジャーナリストと引き換えに解放していて、今回の返還の理由については「必要な捜査が終了した」と説明しています。
  これについてプーチン大統領は18日、フランスのマクロン大統領との電話会談で艦船の返還に言及したうえで「ウクライナ政府は義務を果たすべきだ」と述べたということで、返還と引き換えに今後の交渉を有利に進めたいねらいがあると見られます。


2019.11.3-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/191103/wor1911030023-n1.html
露「ネット主権法」施行 有事に国外から切り離し 情報遮断に危惧

【モスクワ=小野田雄一】ロシア政府は3日までに、国外からのサイバー攻撃など“脅威”が起きた際に国内のインターネットを国外から切り離すことを可能にする「ネット主権法」を施行した。政府は通信経路を一元管理し、必要に応じて特定のサイトへの接続を遮断したり、国外からの情報流入を防いだりすることが可能になる。露国内では「定義が曖昧な脅威の名の下に政権に都合の悪い情報を遮断することが真の狙いだ」との危惧が強まっている。
 同法は国外からのサイバー攻撃や情報干渉に備え、国外との接続を切断しても稼働できる露独自のネットを構築するとの名目で成立し、今月1日に施行された。通信を一元的に監視・管理するセンターを設立するほか、通信監督当局の権限を強化し、通常時は通信事業者が行う不適切な情報へのアクセス遮断などを、必要に応じて当局側の判断で行えるようにする。
 露メディアによると、法の施行に先駆けて通信監督当局や露連邦保安局(FSB)が中部ウラル地方で実証実験を行ったが、結果は公表されていない。運用に必要な専用設備も通信事業者に行き渡っておらず、遮断が可能になるのは約1年後の見通しという。運用に伴う通信速度の低下や想定外のトラブルが起きる懸念も指摘されている。

 ネットの防衛を掲げる同法だが、露国内の危惧は根強い。ロシアではネットの発達により、政権の統制下にあり国民の主要な情報源だったテレビの影響力が低下。露政府はネット上の反政府機運の高まりや他国のロシア批判報道などに神経をとがらせ、ネット規制を強化しているためだ。
 露政府は今年、国家や政府への「不敬な投稿」や「フェイクニュース」に罰則を科す法律を施行。10月には通信監督当局が中国の厳格なネット統制システムを研究する方針を表明し、露ネット利用者には「自由なネットが奪われる」と危機感が高まっている。
 1日付の露リベラル紙ノーバヤ・ガゼータは「ネット主権法は(クリミア併合に端を発した)2014年以降のロシアの孤立主義の論理的帰結だ。ロシアのネットは以前のようには存在しなくなる」と懸念した。


2019.10.9-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/191009/wor1910090016-n1.html
デモ参加者弾圧で政権批判 ロシア社会に広がる異変
(1)
【モスクワ=小野田雄一】多数の拘束者が出たモスクワ市議会選の抗議デモに関連し、ロシア社会に異変が起きている。聖職者や教師、研究者など幅広い同業者グループが、政権側に対して拘束者の刑事裁判の中止や釈放を求める請願を相次いで公表したのだ。政権側の決定に無批判的とされてきた露社会で起きたこの現象を、専門家は「国民が公正さを求め始めた」と分析。ただ、露政権側が権威主義的体質を見直す可能性は低いとみられている。
■ 一連の請願の引き金となったのは、デモ警戒中の警察官への暴行罪で起訴された俳優、パベル・ウスチノフ被告(23)の事件だ。弁護側は「現場近くで人を待っていただけだ。暴行をしていない証拠の動画もある」と主張した。しかし裁判所は9月16日、動画を証拠採用せず、禁錮3年6月の実刑を下した。
 この判決に対し、ロシア正教会の司祭約200人が17日、判決の見直しや他の被告の釈放を求める請願をインターネット上で公表。露正教会はプーチン政権との関係が深く、複数の露メディアは「ロシア史上初の異例の動きだ」と伝えた。
 同時期には教師グループ3500人も「現在の状況では生徒に正しさとは何かを教えられない」とし、公正な裁判や法執行を求める請願を公表。心理学者や科学者、医師、出版関係者、報道関係者らのグループも同様の請願を行っている。
 ウスチノフ氏をめぐっては、拘束直後から10万人分以上の釈放を求める署名がネット上で集まっていた。
(2)
ロシアでは近年、ネットや言論統制の強化、住民の意向を無視した行政決定、治安機関の権限強化など政権側の権威主義的体質に不満が高まっている。今回の一連の請願も、こうした機運の表れとみられる。
■ 判決への批判が強まる中、政権側は態度を変化させた。治安機関「国家親衛隊」のゾロトフ隊長や、露政権与党「統一ロシア」のトゥルチャク総評議会書記らが判決を見直すべきだとの見解を表明。30日に開かれた控訴審で、ウスチノフ氏は禁錮1年(執行猶予2年)に減刑された。反発を恐れた政権側の意向が判決に反映されたのは確実だ。
 露経済紙ベドモスチは「ソ連崩壊後、国民は社会の運営を権力者の恣意(しい)に任せてきたが、万人に公平な社会システムがより望ましいと理解しはじめた」とする政治学者、マカルキン氏の見解を紹介。一方で「政権側が権威主義体質を根本的に改めることはないだろう。それが現政権の権力基盤だからだ」とする社会評論家、クリーシン氏の見方も伝えている。
 9月8日に行われたモスクワ市議会選では、政権側が反体制派の立候補を妨害した疑惑が浮上。計10万人以上が抗議デモに参加し、2千人以上が拘束された。一部の拘束者は警察官への暴行罪などで起訴された。


2019.9.21-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190921/wor1909210021-n1.html
北朝鮮の増長に露が警告か 密漁の大規模摘発

【モスクワ=小野田雄一】北朝鮮による密漁に比較的寛容だったとされるロシアが北朝鮮漁船の大規模摘発を実施したことに関し、北朝鮮に対する不満の高まりが背景にあるとの指摘が出ている。露専門家は、密漁や一連のミサイル発射実験といった北朝鮮の“増長”に対して露政府が強硬対応にかじを切った可能性があるとみている。
 露連邦保安局(FSB)は9月12日、日本海でのロシアの排他的経済水域(EEZ)でイカを密漁していたとして北朝鮮漁船16隻を拿捕(だほ)し、乗組員250人超を拘束したと発表した。17〜18日にも漁船2隻とモーターボート11隻を拿捕し、161人を拘束した。
 FSBによると、17日の摘発では北朝鮮側の乗組員が銃撃などで抵抗し、露国境警備隊員4人が負傷したという。ロシアは法執行官の生命を脅かしたとする刑事罰の適用も視野に捜査を進めている。
 日本海の一部では、北朝鮮や中国による乱獲などで水産資源が減少しているとされ、これまでも日本のEEZに侵入した北朝鮮漁船による密漁が問題となってきた。 露メディアによると、北朝鮮漁船は以前からロシアのEEZで密漁を行ってきたが、ロシア側は摘発してもすぐに解放することが多かった。ただその結果、近年は北朝鮮漁船の密漁が拡大していたという。
 露経済紙ベドモスチは「露政府は、核問題でのロシアの支援に感謝せず、(ロシアとの)国境付近でミサイル発射を繰り返し、ロシア漁船を拿捕するなど非友好的な態度を示している北朝鮮に不満を募らせている」とする専門家の見解を紹介した。


2019.9.10-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190910/wor1909100002-n1.html
【遠藤良介のロシア深層】プーチン流「疑似民主主義」
(1)
ロシアの地方知事らがクレムリンでプーチン大統領と面会する際、ある物を非常に恐れている。「緑のファイル」と呼ばれる。プーチン氏がこれを手に現れたら、知事は近くクビになるか、そうでなくとも相当に厳しい叱責を受ける。
 緑のファイルはプーチン氏のえんま帳である。書類には、当該地方の問題点や知事の評点が詳細に記されている。大統領府や情報機関が調べた現地情勢に加え、世論調査や住民の「直訴」も反映されている。
 住民の抗議機運が強いなど知事の働きぶりに「難あり」と判断されれば、緑のファイルの出番となる。
 8日にロシアで統一地方選が行われた。今回は州や共和国、特別市など85ある連邦構成体(自治体)のうち16構成体で知事など首長の選挙があった。首都モスクワの市議選など地方議会の選挙も多数行われた。
 強権体制のイメージが強いため、こうした選挙が行われていること自体が意外かもしれない。選挙は確かに行われているのだが、実態は管理選挙による「疑似民主主義」である。
 首長の直接選挙は2004年に廃止され、12年に復活された。11年末からモスクワで大規模な反政権デモが起き、政権は懐柔策として選挙を再開したのだ。ただ、首長の解任権はプーチン氏にあり、事実上の任命制が続いている。
 8日に首長選が行われた16構成体のうち実に13カ所では、前任の首長が任期途中で解任され、プーチン氏によって新たな「首長代行」が任命されていた。その地方と全く縁のない者が据えられることも多い。
 ロシアの選挙では現職が圧倒的に有利だ。報道での露出度が非常に高く、政権や地方当局は、公務員や国営企業の従業員を投票に大量動員できるためである。
 プーチン氏は「選挙は危うい」と思われる首長を事前に退任させ、「首長代行」を有利な現職の立場で選挙に臨ませるのである。
(2)
反体制派の立候補登録には、地方議員の署名を多数集めねばならないといった高いハードルがある。対抗馬は親大統領の「体制内野党」からの候補者だけであり、仮にプーチン氏が決めた与党候補が敗北しても打撃は限定的だ。
 今回の統一地方選については「与党圧勝の勢い」と報じられている。それはしかし、事前の首長すげ替えを含むさまざまな策を弄し、政権が必死のてこ入れを行った結果だ。もはや20年近くとなったプーチン体制の綻びは、今回の選挙結果をもっても変わらない。
 モスクワ市議選(定数45)をめぐっては7月、反体制派の10人以上が市選管に候補者登録を拒否された。議会に議席を持たない政党の候補者には大量の有権者署名を提出することが義務づけられており、それに不備があったとされる。
 モスクワでは8月にかけて断続的に抗議デモが起き、多い時には5万人が参加。治安当局に拘束された者は2千人を優に超える。
 中央集権の進んだロシアで、モスクワ市議会が重要な役割を担ってきたとはいえない。それにもかかわらず、人々が公正な選挙や地方自治を求め、声を上げ始めた事実は重い。
 「疑似民主主義」の限界を認識せねば、政権は遅かれ早かれ手痛いしっぺ返しを受けるのではないか。(外信部編集委員兼論説委員)


2019.9.6-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190905/wor1909050020-n1.html
ロシア「平和条約進展なし」 11月にも再び日露首脳会談

【ウラジオストク=小野田雄一】ロシアのウシャコフ大統領補佐官は5日、同日行われた日露首脳会談での平和条約締結問題に関する協議の結果について、記者団に「これまでと同じ状況だ」と述べ、大きな進展はなかったとの認識を示した。インタファクス通信が伝えた。
 ウシャコフ氏はまた、11月にチリで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で、両国の協力に関して日露首脳が「深い意見交換」を行うことで合意したとも明らかにした。


2019.9.3-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190903/wor1909030003-n1.html
露「領土交渉急がず」 首脳の加速合意2カ月後

日露平和条約締結交渉をめぐり、ロシアが今年1月の国家安全保障会議で「交渉を急がず、日本側のペースで進めない」との方針を決めていたことが2日、分かった。安倍晋三首相とプーチン露大統領が昨年11月に締結交渉の加速化で合意した2カ月後の決定で、以後、露側は交渉に否定的な言動を繰り返すようになった。5日には露極東ウラジオストクで日露首脳会談が予定されており、首相は首脳外交で打開策を見いだす考えだ。
 日露外交筋が明らかにした。同筋によると、ロシアは1月中旬、条約締結交渉を議題の一つとした安保会議を開催。第二次大戦の結果、北方四島がロシア領となったことを日本が認めることや、性急に交渉を進めず、徹底的な検討が必要であることなどを交渉方針として決めた。プーチン氏もこの内容を了承しているという。

 条約締結をめぐっては、首相とプーチン氏が昨年11月14日のシンガポールでの会談で、1956(昭和31)年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速化することで合意。12月1日のブエノスアイレスでの会談では、河野太郎、ラブロフ両外相を交渉責任者に指名した。
 しかし、安保会議直後の今年1月22日にモスクワで開かれた首脳会談では、プーチン氏が共同記者発表で「相互に受け入れ可能な決定を得るためには、綿密な作業が控えている」と交渉に後ろ向きな考えを示した。

 プーチン氏はその後、モスクワで開かれた財界人との非公開会合で「(交渉の)勢いは失われた」(3月14日)と述べ、露国営テレビのインタビューでも「(島を日本に引き渡す)計画はない」(6月22日)と明言するようになった。
北方四島での共同経済活動は、6月の大阪での首脳会談で観光とごみ処理の2分野でパイロット(試行)事業の実施で合意するなど一定の進展が見られるが、ロシア側は北方四島の実効支配を強める動きを続けている。8月2日にはメドベージェフ首相が択捉(えとろふ)島を訪問し、河野氏が抗議の談話を出したが、5日には露軍が国後(くなしり)島の周辺海域で射撃訓練を開始した。


2019.8.22-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190822/wor1908220013-n1.html
露、中距離ミサイル再開発 米の欧州配備警戒、対抗も

米国が今月2日に失効した中距離核戦力(INF)全廃条約が禁じていたミサイルの発射実験を行ったことを受け、ロシアのプーチン大統領は21日、ロシアも「同様のミサイルの開発を再開する」と表明した。米国による同ミサイルの欧州配備を警戒しているとし、そうなれば「相応の対抗措置を取る」と警告した。ヘルシンキでフィンランドのニーニスト大統領と行った共同記者会見で表明した。
 プーチン氏は、米国がルーマニアやポーランドに設置するミサイル防衛(MD)システムから、プログラムを変更するだけで発射できると主張した。
 プーチン氏は一方で、中距離ミサイルに関し、ロシアは再開発するが「米国が地球上のどこかの地域に配備しない限り、配備に踏み切らない」と強調。米国に配備を控えるよう改めて呼び掛けた。(モスクワ 共同)


2019.8.14-YAHOO!!NEWS-読売新聞-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190814-00050227-yom-int
ロシア反政権デモ「宣伝するな」グーグルに警告

【モスクワ=工藤武人】ロシアのプーチン政権が、9月のモスクワ市議選を巡る市選管の不正疑惑に端を発した反政権デモの拡大に神経質になっている。11日には露通信監督局が、米情報技術(IT)大手グーグルに対し、傘下の動画投稿サイト「ユーチューブ」が無許可デモの宣伝を許可しているとして抗議した。

 露通信監督局は、動画配信を利用者に伝えるユーチューブの「プッシュ通知」機能が、デモ開催を周知する役割を果たしているとして問題視し、グーグルが対応しなければ「内政干渉や、ロシアの民主的な選挙を阻害する行為とみなす」などと書面で警告した。ロシアでは若い世代を中心にユーチューブが主要な情報源として浸透している.
 露外務省も9日、在モスクワ米大使館がサイトに掲載したデモ開催に関する「警戒情報」が「デモ参加の呼びかけ」にあたるとして、米大使館に抗議した。
 7月中旬から毎週続くモスクワでの反政権デモは規模が拡大しており、今月10日は参加者数が5万人を超えた。タス通信によると、ペスコフ露大統領報道官は13日、一連のデモに関し「政治危機を示すものではない」との認識を示した。


2019.8.13-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190813/wor1908130012-n1.html
ロシアの爆発は「新型兵器」 米側は「原子力巡航ミサイル」と指摘
(小野田雄一、ワシントン 黒瀬悦成)

 ロシア北西部アルハンゲリスク州の軍事施設で起きた爆発事故で、露国営原子力企業「ロスアトム」のリハチョフ社長は12日、死亡した5人の従業員の葬儀に出席し、「悲劇は新たな特殊製品の実験中に起きた。新型兵器の完成にこぎ着けることが最善の供養になる」と述べた。インタファクス通信が伝えた。
 同社の幹部技術者も国営テレビに対し、事故は小型原子炉の開発に関係したものだったと明らかにした。これらの発言から、爆発事故が原子力を利用した新型兵器開発に関係していたことが確実となった。

 トランプ米大統領は12日、この事故について、ロシアが開発中の原子力推進式巡航ミサイル「9M730ブレベスニク」が爆発したものだとツイッターで指摘した。トランプ氏は「米国にも同様の技術はあるが、より発達している」と誇示し、「爆発は施設の周辺と、より広い地域の大気(汚染)について人々を不安がらせている。良くないことだ!」と批判した。
 爆発事故は8日に発生。現場に近いセベロドビンスク市は事故後、大気中の放射線量の数値が一時急上昇したと発表したが、後にこれを取り下げた。国防省などは「同市の放射線量に目立った変化はなかった」としている。
 米核専門家のルイス氏は、包括的核実験禁止条約機構(CTBTO)の監視システムが計測した結果に基づき、爆発が協定世界時(UTC)で8日午前6時(日本時間同日午後3時)ごろに起きたとする分析を明らかにした。
ルイス氏によると、爆発事故現場の近くに同日、核燃料運搬船「セレブリャンカ」が停泊していたことが商業衛星画像で判明。同氏はCNNテレビに対し、ロシアが原子力巡航ミサイルの実験を行っていたことを示していると語った。
 ロシアが昨年夏、北極海のノバヤゼムリャ列島で原子力巡航ミサイルの実験に失敗した際も、同船が原子力推進装置の残骸の回収作業を行ったという。 プーチン露大統領は昨年3月の年次教書演説で、原子力巡航ミサイルなどの新戦略兵器を開発・保有していると強調し、米国を牽制(けんせい)していた。

原子力巡航ミサイルは事実上無制限の航続距離を持ち、米ミサイル防衛(MD)網に捕捉されない複雑な飛行経路をとることができるとされる。(小野田雄一、ワシントン 黒瀬悦成)


2019.8.11-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190811/wor1908110012-n1.html
露軍事施設で爆発事故 「原子力ミサイル」との関連を指摘する声も

【モスクワ=小野田雄一】ロシア北西部アルハンゲリスク州の軍事施設で8日、爆発事故が起き、露国営原子力企業「ロスアトム」は10日、この事故で従業員5人が死亡したと明らかにした。同社は「ミサイルを構成する放射性同位体の動力源」に関わる実験中に事故が起きたと説明。周辺地域では事故後に放射線量の上昇が観測されたとの情報もあり、事故はロシアが開発を進める原子力推進式の新型ミサイルとの関連が指摘されている。
 露国防省は8日、「液体燃料式エンジンの実験中に事故が起きた。6人が負傷し、2人が死亡した」「周辺の放射線量に変化はない」と発表していた。
 しかし、現場に近いセベロドビンスク市は事故後、一時的に1時間当たり2マイクロシーベルトの高い放射線量が観測されたと発表。ロイター通信は「同市は9日、発表を説明なく取り下げた」と報じた。露当局はその後、「一連の測定の結果、ここ1週間に同市で放射線量の目立った変化はなかった」と説明。露地元メディアは住民らが放射能の体内蓄積を防ぐためにヨウ素剤を購入していると伝えている。

 露国防省やロスアトムは実験内容やミサイルの種類について詳細を公表していないが、露メディアによると、爆発が起きたのは巡航ミサイルなどの実験施設だった。ロイター通信は「事故は原子力推進式ミサイルの実験中に起きた可能性がある」とする米専門家の見方や、「(放射線量に変化はなかったとする)ロシア側の説明は信用しにくい」とする米政府高官らの見解を伝えた。
 プーチン露大統領は2018年の年次教書演説で、「米国のミサイル防衛(MD)システムでは防げない原子力推進ミサイルの実験に成功した」などと述べていた。


2019.8.10-朝日新聞 DIGITAL-https://www.asahi.com/articles/ASM8B55S4M8BUHBI01B.html
ロシア実験場で爆発、国営原子力企業の職員死亡

ロシア北部アルハンゲリスク州の海軍ミサイル実験場で起きた爆発事故をめぐり、同国の国営原子力企業「ロスアトム」は10日、同社職員5人が死亡、3人が負傷したと明らかにした。国防省は同省職員と関連企業職員の2人が死亡、6人が負傷と発表していたが、5人との関係は不明。ただ同省筋も同日、インタファクス通信にロスアトムの専門家らの死亡を認めた。

爆発は8日、同州セベロドビンスク近郊のニョノクサにあるミサイル実験場で起きた。国防省は液体燃料エンジンの実験中だったと発表したが、ロスアトムは職員らが放射性同位元素を使った装置の実験に立ち会っていたとした。
 インタファクス通信によると、爆発後の放射能レベルについて、国防省が「正常値」とする一方で、セベロドビンスクの市当局は一時的に危険とされるレベルを超えて毎時2マイクロシーベルトに上昇したとしていた。爆発後、実験場が接する広い湾の一帯で1カ月間の航行制限が発表された。専門家からは、爆発はプーチン大統領が開発を明らかにした原子力推進型ミサイルの実験と関係しているとの見方も出ている。


2019.8.8-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190808/wor1908080009-n1.html
親権剥奪、刑事罰適用…ロシア当局、強硬姿勢強める モスクワ市議会選抗議デモ

【モスクワ=小野田雄一】9月に予定されるモスクワ市議会選(定数45)をめぐる不正疑惑への一連の抗議デモで、ロシア当局がデモ参加者らへの強硬姿勢を強めている。モスクワの検察当局は8日までに、男児(1)を連れてデモに参加したとされる両親から親権を剥奪する手続きを開始。警察当局は参加者らを2千人規模で拘束し、刑事罰の適用も拡大させている。デモの沈静化を狙った当局側の強権的手法にデモ側は反発を強めており、事態の推移は予断を許さない状況だ。
 モスクワ市検察当局は6日、7月27日に行われた無許可デモに1歳の男児を連れて参加し、男児の命を危険な状態に置いたとして、両親からの親権剥奪をモスクワの裁判所に請求したとする声明を発表した。
 声明によると、両親は無許可デモに参加中、男児を第三者に手渡した。この行為は子供の保護を両親に義務付けたロシアの法律に反し、親権剥奪の理由になるとしている。子供を連れていた他のデモ参加者についても捜査を進めるとした。

 露メディアによると、両親の弁護人は「男児を手渡した相手は近親者で、男児に危険はなかった。両親はデモ参加者ではなく近くを通りかかっただけで、違法行為もなかった」と検察側に反論。今後、裁判所が審理して判断する。
 警察当局も圧力を強めている。7月中旬以降に毎週行われているデモには、これまでに計数万人が参加したとみられ、警察当局は秩序維持などの名目で計約1700人を拘束したと発表。露人権団体は拘束者数を2千人以上としている。
 警察・検察当局は従来、拘束者には原則的に罰金や短期収監などの行政罰で対応してきた。しかし事態の沈静化を狙う当局側は無許可デモを「暴動」とみなし、より罰則の重い刑事罰を適用する姿勢を強めている。露メディアによると、既に約10人が刑事事件として立件され、有罪の場合は2〜8年にわたって収監される可能性があるという。

 モスクワ市議会選をめぐっては、反体制派の活動家ら10人以上が、候補者登録に必要な有権者の署名5千人分を市選管に提出したものの、市選管は署名の偽造を理由に登録を却下。反体制派の立候補を阻止するために有効な署名が故意に無効にされた疑いが指摘され、立候補を却下された活動家らの呼びかけで抗議デモが続いている。


2019.8.3-産経新聞 THE SANKEI NEWS -https://www.sankei.com/life/news/190803/lif1908030020-n1.html
シベリアで記録的山火事、ロシア放置 鎮火不能で雨乞いあるのみ

【モスクワ=小野田雄一】6月に世界規模で観測された熱波が原因とみられる山火事がシベリア地方を中心とするロシア東部で多発し、計330万ヘクタール(日本の国土面積の11分の1)が焼失する記録的な被害となっている。露政府は7月31日になってようやく消火活動に本腰を入れ始めたが、効果は限定的で制御不能に近い状態だ。露メディアは、近年の消火関連法の改正で加えられた新たな規定が山火事の放置を招き、被害を拡大させたと指摘している。
 ロシアでは6月ごろからシベリアや極東など広範な地域で山火事が多発。7月末時点で計330万ヘクタールが焼失した。煙はシベリアのノボシビルスクや中部ウラル地方のエカテリンブルクなど大都市まで飛来し、SNS(会員制交流サイト)上には住民らの「煙で呼吸できない」との悲鳴が相次いでいる。当局側に緊急対応を求める署名も50万人分以上集まった。
 露政府は7月31日、航空機を使った消火活動を本格化させるなど対策に乗り出したが、それまでに鎮火した火災は全体の3%にとどまっていた。

 複数の露メディアはその要因として、2015年の消火関連法の改正で「消火費用が山火事による損害を上回る場合、消火しなくてもよい」との規定が加えられ、当局側がその規定を根拠に山火事を放置していたと指摘する。この規定は、財政難や人員不足に対処するため、シベリアなど住民が少なく、消火部隊の派遣が困難な僻地を対象として新設された。
 露メディアは、当局は山火事が小規模だった段階で消火活動をしておくべきだったと指摘。露経済紙コメルサントは7月30日、「これほど大規模になった火災の鎮火はもはや不可能で、できることは雨を願うだけだ」とする専門家の悲観的なコメントを伝えた。

 世界気象機関(WMO)は7月、欧州など各地に地球温暖化に伴う熱波が到来し、世界の6月の気温は観測史上最高を記録したと発表。シベリアの6月の平均気温は、1981年から2010年の平均を約10度上回った。米国のアラスカ州は観測史上2番目に暑い6月となり、フランス南部でも6月末、本土の観測史上最高となる45・9度を記録。シベリア北部などの北極圏では6月以降、大規模な山火事が100件以上起き、WMOは「これほど高緯度での大規模な山火事は異例」との見方を示した。


2019.7.28-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190728/wor1907280005-n1.html
モスクワ拘束者1300人超に 市議選の不正疑惑に抗議

9月のモスクワ市議選に出馬予定だった独立系候補が出馬を阻まれた疑惑を巡り、野党支持者ら3500人以上が27日、モスクワ市役所前で抗議集会を開こうとして治安当局と衝突した。警官隊は当局が許可していないとして市役所周辺から市民を排除し、1300人以上(野党系サイト)を拘束した。
 独立系候補はプーチン政権に批判的な立場。立候補登録に必要な有権者の署名が実際は有効だったにもかかわらず、モスクワ市選管に「無効」と判断された疑惑が強まっており、20日にも数万人規模の抗議集会が行われたばかり。
 27日は市役所周辺の歩道が封鎖されて通行不能となり、抗議する市民らは「通らせろ」などと訴えた。治安当局は特殊部隊も動員し群衆を立ち退かせる一方で、警棒も振り上げ次々に拘束した。(共同)


2019.7.27-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190727/wor1907270009-n1.html
露デモ約500人超拘束 モスクワ市議選の候補者排除に抗議

【モスクワ=小野田雄一】モスクワ中心部で27日、9月に予定されるモスクワ市議会選(定数45)の候補者排除に抗議するデモがあり、少なくとも520人が治安当局に拘束された。市議選に関するデモは3週末連続。前回の20日には推定約2万2千人が参加し、近年の政治デモとしては異例の規模だった。
 デモは、汚職追及で知られる反政権派指導者、ナワリヌイ氏周辺の活動家など10人以上が立候補登録を拒否されたことに抗議して行われた。候補者らは登録に必要とされる有権者の署名5千人分を市選管に提出したが、署名の「偽造」を理由に却下された。選管が政権の意を受け、多くの署名を意図的に「無効」とした疑いが指摘されている。
 ロシアでは経済低迷の長期化や公職者の腐敗を背景に、政権が統制する管理選挙に厳しい目が向けられつつある。
 27日のデモは市の許可を受けておらず、治安当局は開始直後から参加者の強制排除に乗り出した。負傷者が出ており、拘束される人数もさらに増えそうだ。


2019年4月8日
露に領土返還の意思は毛頭ない 北海道大学名誉教授・三村 汎
産経新聞・・・正論

ロシアでの世論調査結果は、たしかに信用しがたい。まず、3大世論調査組織のうち2つまでが、官製機関である。次いで、調査方法も適切といいがたい。
     固定電話にかけて設問するので、若年層でなく、自宅にいる年金生活者の声を反映しがちである。
  このような欠陥をもつ調査とはいえ、参考になる点がある。1は時期別の数字の変化が分かること。2は政権がどのような項目について、
     調査を欲しているのかが明らかになることだ。具体例を挙げて説明しよう。
≪人気凋落にあえぐプーチン氏≫
プーチン大統領の人気は多少水増しされているとはいえ、概して高いので、必ず3大機関はこの種の調査を実施する。その結果、ロシア国民間の
     プーチン大統領支持率の相対的な変化が判明する。プーチン氏の人気は、2014年のクリミア併合後に86・2%、15年のシリア空爆開始後に
     89・9%へと急上昇した。ところが現時点では64%へと落ちている。1月には、同氏を信頼すると答えた者は33・4%、「ロシアが誤った方向へ
     進みつつある」とみなす者は45%。全て06年以来、最も悪い数字である。
   プーチン大統領の人気凋落(ちょうらく)傾向の理由は、明らかといえよう。一言でいうと、同大統領がこれまで実施した対外的冒険行使のつけが
     回ってきたのだ。同大統領は、ウクライナやシリアで「勝利を導く小さな戦争」を敢行し、ロシア国民から拍手喝采を浴びた。だが、
     戦争は始めるのは容易だが、終結するのはむずかしい。その後、二正面作戦の泥沼から足を抜け出せないために戦費や駐留費がかさみ、
     ロシア経済を圧迫している。ロシア国民は、対外的成果の美酒に暫しの間酔っていたが、振り返ってみると己の冷蔵庫がすっかり空っぽに
     なっていることに気づかざるを得なかった。彼らは、経済上深刻な“三重苦”に見舞われている。原油価格の暴落、ロシアの通貨ルーブルの
     急降下、先進7カ国による経済制裁である。プーチン政権は、国庫収入を増大させようとして、年金支給年齢の引き上げや付加価値税の増額
     を図ろうとした。ところが、政治的不自由には耐えるロシア国民も、物質的生活水準の低下には抵抗を示す。
   1917年の二月革命も「パンよこせ!」の抗議運動からはじまった。また、2004〜05年、プーチン政権が社会保障関連の諸特典をソビエト期の
     現物支給制から現金化へ移行させたときも、国民は彼らが従来受けとってきた権利や便宜を目減りさせる政策転換とみなし、街頭デモを繰り返した。
≪脈ある交渉は秘密裏に進む≫
領土「引き渡し」の是非を問うべきか、否か。現ロシアで世論調査実施の是非は、プーチン政権の意向次第で決定される。このことを如実に示したのは
     中露間国境線の決定時だった。プーチン政権は04年、中国との領土紛争に終止符を打った。すなわち同政権は、ウスリー川とアムール川の
     合流点の三角州に位置する3つの島(ボリショイ、タラバーロフ、大ウスリー島)の主権帰属先問題に関して、係争3島の全面積を2等分し、
     その半分を中国領と認めることに同意した。
   現文脈で重要なのは、しかしながら、このときプーチン政権は同交渉の経緯をロシア国民に一切知らせず秘密裏に話を進めた事実だった。
     なぜ、そうしたのか。その理由は明らかだろう。もしロシア国民、とくにその極東地域の住民たちが交渉の進行状態を知った場合、必ずや彼らは
     プーチン政権の最終決定に猛反対するに違いない。同政権は、こう危惧したからである。
   実際、同三角州を己の行政下においているハバロフスク地方のビクトル・イシャーエフ知事は、たとえ1平方メートルの土地ですら中国に引き渡すことに
     反対していた。それを熟知していたプーチン政権は中国との交渉を隠密裏に進め、ロシア国民に向かい世論調査を実施し、彼らの意向を前もって
     質(ただ)すつもりなど毛頭示さなかったのだ。
≪世論調査の実施は何を物語るか≫
右の歴史的先例は、北方領土問題解決の展望に関して悲観的なヒントを提供する。というのも、プーチン政権は、日本との国境線画定問題ではまさに
     正反対の手法を取っているからだ。すなわち、北方領土の対日引き渡しの是非をロシア国民の意向を問う世論調査を積極的に実施している。
   筆者は、北方領土の島民たちに同調査を実施している様子をロシア・テレビ「ベドモスチ」で見たが、何と係官が回答者1人ずつに面接し答えを
     書き込む手法だ。このような直接インタビュー方式で領土の対日返還に賛成と答える勇気のある者など現れるはずはなかろう。案の定、
     ロシア人住民の77%、島民の96%が反対と答えた。手法はともあれ、日本との領土交渉に関してはプーチン政権は世論調査を行わせている−
     このこと自体が、島を引き渡さない政権の意向を明確に物語っている。日本側はこのメッセージを厳粛な事実として受け止める必要があろう。
(きむら ひろし)

露のクリミア併合

2019年3月18日
【主張】クリミア併合5年 露の暴挙を忘れてならぬ-産経新聞
ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を一方的に併合して18日で5年となる。 ロシアはこの間、自国本土からクリミア半島に架橋し、現地に発電所を
     建設するなど実効支配を強めてきた。ウクライナの領土を強奪した暴挙を日本と国際社会は決して許してはならない。
  ウクライナでは2014年2月、首都キエフなどでの大規模デモで親露派政権が崩壊し、親欧米派が実権を握った。クリミア併合は、これに怒った
     プーチン露政権が強行したことだった。 プーチン政権は、ロシア系住民の多いクリミア半島に軍の特殊部隊を投入し、行政庁舎や議会、
     テレビ放送拠点といった中枢施設を占拠させた。その上で「キエフには民族主義のファシスト政権が発足した。ロシア系住民には危険が迫っている」
     といったプロパガンダ(政治宣伝)を行った。
  ロシアは、クリミアで同年3月に行われた住民投票で「ロシア編入」が支持されたと主張する。しかし、ウクライナ憲法に反し、武力を背景に行われた
     投票を認められないのは当然だ。 旧ソ連で第2の構成国だったウクライナは1994年のブダペスト覚書で、核兵器を放棄する見返りに、
     米英露から安全保障の約束を得た。ロシアがこの合意を踏みにじったことの悪影響は、核不拡散の面でも重大だ。
  プーチン露大統領が、クリミア併合に際し、核戦力を臨戦態勢に置く用意があったと発言した事実も忘れるべきでない。 ロシアは2014年春、
     クリミア併合の余勢を駆って、ウクライナ東部でも親露派武装勢力を支援して同国軍との戦闘をたきつけた。この紛争は1万人超の死者を出し、
     今も終結していない。 昨年11月にはクリミア半島の近海で、ロシアの沿岸警備艇がウクライナ海軍の艦艇に発砲し、3隻を拿捕(だほ)した。
     ロシアは乗員24人の拘束を続けている。 クリミア併合は現在進行形の問題であるとの認識を持ち、対露制裁を維持する必要がある。
  武力による現状変更という意味で、クリミア併合は北方領土問題と同根である。中国が、南シナ海の人工島で軍事拠点化を進めていることも
     然(しか)りだ。 北方領土問題を抱えているわが国こそが、クリミア併合を厳しく糾弾せねばならない。


2017..3.8-NewsWeek-https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/03/post-7124.php
止まらないプーチンの暗殺指令-(ジェフ・スタイン)
トランプは「殺人者」プーチンを擁護するが、ロシア政府の関与が疑われる暗殺の犠牲者30人以上のリストがアメリカで発表された
(1)
  ロシア大統領ウラジーミル・プーチンの関与が疑われる暗殺(未遂を含む)事件はたくさんある。整理すれば、かなり長いリストになるはずだ。
  2月初め、ドナルド・トランプ米大統領がFOXニュースのインタビュー番組に出演した。司会者のビル・オライリーが、プーチンとその仲間は「殺人者だ」と言うと、すぐ反撃に出た。いわく「殺人者はいっぱいいる。われわれの国にだっていっぱいいる」。あのときトランプに、長い暗殺リストを突き付けられなかったのは実に残念だ。

  しかしつい最近、元情報機関職員協会(AFIO)の季刊誌インテリジェンサーで、まさにそれが発表された。AFIOはCIA、FBI、軍の諜報関係機関に在籍した4500人の会員を擁する協会。リストには、ロシア政府の命令で殺害されたに違いない30人以上の犠牲者の名が並ぶ。作成者は米国防総省情報局(DIA)の元補佐官ピーター・オールソンだ。
  リストの完成後も、不審な死は続いている。昨年12月にはモスクワで、旧ソ連の情報機関KGBの幹部だったオレグ・エロビンキンの遺体が自家用車の後部座席で発見された。
  エロビンキンはMI6(英国情報部国外部門)の元職員クリストファー・スティールの情報源と考えられている。スティールは、トランプ陣営とプーチンの癒着の原因とされるトランプと売春婦のスキャンダラスな情報をリークした人物だ(現在、彼は地下に潜っている)。
  さらに今年2月、ロシアの反体制派ウラジーミル・カラムルザが昏睡状態になり、モスクワの病院に 運び込まれた。
  プーチン政権下で不審な死に方をした反体制派や亡命者、ジャーナリスト、離反した元側近や政敵の数を考えれば、疑惑が生じるのは当然だとオールソンは言う。「1人や2人、3人の死ならなんとでも説明がつく。しかし何十人となると?」
  ロシア政府の敵には毒物が使われることが多い。2月2日に病院に搬送されたカラムルザは35歳。以前はテレビ局のワシントン駐在特派員だったが、ロシアに戻り、リベラル派として活動してきた。妻によると、病院では「特定不能な物質による急性中毒」と診断されたそうだ。
  カラムルザが原因不明の重体に陥ったのは2度目だ。この事件はアレクサンドル・リトビネンコの悲劇を思い出させる。ロシア連邦保安局(FSB)の職員だったリトビネンコは06年、ロンドンで放射性物質ポロニウムを使って暗殺された。
  ロンドン警視庁は、「証拠から唯一説明できるのは、いずれにせよ、リトビネンコ殺害にロシアが関与していることだ」と発表した。イギリス政府はロシアに容疑者アンドレイ・ルゴボイの身柄引き渡しを要求したが、ロシア側は拒否した。
(2)
  ルゴボイは自分にかけられた嫌疑を「でっち上げ、推測、噂」にすぎないと一蹴。今は下院議員なので、ルゴボイには免責特権がある。
  00年にイギリスに亡命したリトビネンコは、英情報機関から援助を受けていた。彼はロシアマフィアとスペインのつながりを調査していたという。ルゴボイはKGBの元職員で、リトビネンコのお茶にポロニウムを混入したと考えられている。
  イギリス人ジャーナリスト、ルーク・ハーディングはこの事件をたどる『ひどく高価な毒物』を出版。「リトビネンコはジェームズ・ボンドではなかった」と、ガーディアン紙の元モスクワ特派員のハーディングは書いている。
  「しかし英情報機関に、ヨーロッパで暗躍するロシアマフィアと、プーチンを含むロシアの権力層の関係についての貴重な情報を渡していた」
  リトビネンコなら、きっと言ったに違いない。プーチンと閣僚とその仲間が「マフィア国家」としか呼びようのないものをつくり上げている、と。あるいはオライリーがトランプに言ったように、プーチンを「殺人者」と呼んだかもしれない。
  しかしトランプは「殺人者はこの国にもいっぱいいる」と、プーチン擁護とも取れる発言をして大きな非難を浴びた。
「米ロは道徳的に異なる」
  AFIOのオールソンが作成したリストに載っているどの件についても、プーチンや側近が関与した疑いこそあれ、それを証明するのは不可能だ。
  それでも謎めいた死に方をしたロシアの反体制派やジャーナリストはあまりに多い。そのためオールソンは、いくつか誤りがあったとしても、すべてをリストに入れることにした。
  その1人がプーチンの元側近で、15年11月にワシントンのホテルの部屋で変死したミハイル・レシンだ。「自分を汚職容疑で告発しないようFBIに掛け合っていた」との話もあったと、オールソンは書いている。警察は最終的に、急性アルコール中毒のために転倒して生じた外傷が死因だと結論付けた。
  一方、2月に倒れたカラムルザは15年に飲まされた毒物による症状から回復しておらず、杖を使って歩いていた。前の事件と同じく、今回も毒物を特定できないという。妻は原因を突き止めるため、彼の血液サンプル、毛髪、爪をイスラエルの研究所に送った。
  プーチン政権の被害者と思われる多くの人々と違って、カラムルザには有力なアメリカ人の友人がいる。その1人が共和党のジョン・マケイン上院議員。彼は議会で、トランプが曖昧な表現ながらもロシアとアメリカは似た者同士だと言ったことを激しく非難した。
  カラムルザは「プーチンのロシアとアメリカに道徳上の等価性がないことを理解していた」。マケインはそう言った。「繰り返す。あの殺し屋でならず者のKGB(のプーチン)と、この国に道徳上の等価性はない。あると主張するのは勘違いも甚だしいか、あるいは偏見に凝り固まった考えだ」
  さあ、オールソンのリストの出番だ。オライリーは次の機会にリストをトランプに見せ、こう質問すればいい。「これまでアメリカ大統領を批判して、その大統領の指示で殺害された者はいるか?」
  [2017年3月7日号掲載]


レオニード・ブレジネフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  レオニード・イリイチ・ブレジネフ(1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家ソ連共産党中央委員会書記長(当初は第一書記)、最高会議幹部会議長として、18年間に渡って同国の最高指導者であった。

概要
  1964年10月のニキータ・フルシチョフの失脚により、党中央委員会第一書記[3] に就任してから18年間に亘って同国の最高指導者として実権を掌握し、首相のアレクセイ・コスイギン最高会議幹部会議長(国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと共にトロイカ体制(集団指導体制)を敷いた。1977年6月から死去する1982年11月までの間は最高会議幹部会議長を兼任し、ソ連邦元帥にもなっている。
  称号ブルガリア人民共和国英雄称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄を3回、同国労働英雄を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄を3回授与されている。国歌を編集したことでも知られる。ウクライナに於ける少数民族のロシア人だったが、生涯ウクライナ訛りと風習を保った。
生い立ちから権力の掌握まで
  1906年12月19日にロシア帝国エカテリノスラフ県カメンスコエ(現在のウクライナカーミヤンシケ市)で誕生した。父のイリヤは祖父の代以来の地元の金属工場の労働者であった。1921年に家族と共にクルスクへ転居。15歳で地元の製鉄所に勤務し、1923年には共産党青年組織であるコムソモール[注 1]に加わった。共産党はコムソモールの若い労働者を大学で学ばせ、指導者及び専門家に育て上げるという方針を採り、彼はその方針下で育った「60年代ソ連指導者の典型」であった。ロシア革命後の多くの労働者階級青年のように彼は1924年から1927年までクルスクの職業技術学校に学び、初級農業技師となって土壌改良業務に就く。1930年にカメンスコエに戻り、1931年10月に共産党に入党した。その後彼はドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年5月に卒業して東ウクライナの製鉄所技師になった。

  同年10月には赤軍(後のソビエト連邦地上軍)に入隊し、戦車訓練校を修了すると戦車部隊政治委員となった。1936年末にはドニエプロジェルジンスク冶金大学の校長になった。1937年にウクライナ共産党幹部、モルダヴィア(現在のモルドバ)党委員会第一書記、1939年5月にドニエプロペトロフスク州党委員会書記になり、防衛産業の組織を行った。
  彼はロシア革命前に成人していなかった共産党員の最初の世代であった。また、1924年1月のレーニン死後の共産党の主導権争いには若過ぎたため参加できなかった。ブレジネフが入党したときスターリンは絶対的な指導者であり、ブレジネフを含む多くの若い共産党員が純粋なスターリン主義者として成長した。スターリンの大粛清を免れた者達は党及び国家の重要ポストに就くこととなった。
  1941年6月にドイツ軍バルバロッサ作戦でソ連に侵入した。ドニエプロペトロフスクは8月26日にドイツ軍の手に落ちたが、ブレジネフは市の産業を疎開させるために努力した。彼は戦争の始まりと同時に軍の政治委員として働いた。赤軍では専門の士官と政治委員による二重システムによって部隊が運用された。このシステムは非効率的であり、職業軍人にとっては不満の募るものであった。同年10月にブレジネフは旅団人民委員の階級を与えられると同時に南部方面軍政治指導部次長に就任した。
  1942年にウクライナが完全に失われ、ブレジネフはザカフカス正面の政治指導部次長としてカフカスに派遣された。1943年4月に彼は第18軍の政治部長になった。同年末に赤軍は主導権を回復し、第18軍は第1ウクライナ正面軍の一部となりウクライナを通り西方に進撃した。正面軍の上級政治委員は後にブレジネフの重要な後援者になるニキータ・フルシチョフだった。大祖国戦争の終了時、ブレジネフは第4ウクライナ方面軍政治指導部部長としてプラハに入っていた。
  1946年8月にブレジネフは少将の階級で赤軍を去った。彼は軍司令官では無く政治委員として大祖国戦争(独ソ戦)を戦った。ウクライナ共産党ザポロージェ州委員会で再建計画に携わった後、彼はドニエプロペトロフスク州党委員会第一書記になった。1950年3月に最高会議代議員となり、同年6月にモルダヴィア共産党中央委員会第一書記に就任した。1952年10月に共産党中央委員会及び最高会議幹部会のメンバーとなった。
  ブレジネフはドニエプロペトロフスク州・モルダヴィア、後のカザフスタンなどの任地で築いた人脈を後年の権力強化に大いに利用した。「ドニエプロペトロフスク・マフィア」や「モルダヴィア・マフィア」等と称される人々の中には、コンスタンティン・チェルネンコディンムハメッド・クナーエフニコライ・チーホノフなどのちに頭角を現す人物も含まれている。
ブレジネフとフルシチョフ
  1953年3月にスターリンが死去し、党幹部会が廃止され、より小さな政治局が再構成された。ブレジネフは政治局員にこそならなかったが、その代わりに中将の階級と共にソ連軍政治総局長第一代理に任命された。これは恐らく彼の後援者フルシチョフによる人事だった。1954年カザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年5月にカザフスタン共産党中央委員会第一書記として、カザフスタンの開拓事業を指導した。
  1956年2月にブレジネフはモスクワへ呼び戻され、共産党中央委員会政治局員候補兼書記として防衛産業・宇宙計画・重工業及び首都建設指揮の任務を与えられた。彼はフルシチョフの側近となり、1957年6月にヴャチェスラフ・モロトフ率いるスターリンの古老グループ、ゲオルギー・マレンコフラーザリ・カガノーヴィチらとフルシチョフとの党の指導権争いに於いてフルシチョフを支持した。古老グループを排除した後、ブレジネフは正式に政治局員となった。
  1959年にブレジネフはソビエト連邦最高会議幹部会副議長となり、1960年5月に議長に就任し、名目上の国家元首になった。実権は党第一書記のフルシチョフが握っていたが、議長のポストは外国への旅行を可能にした。彼は高価な西側の衣服や自動車に対する興味を深め、それは後に彼に対する悪評となった。
  1962年までフルシチョフの党指導者としての地位は安泰だった。しかし彼が年老いると共に、その指導力の低下が他の指導陣の信頼を弱め、地位も不安定なものとなった。さらにソ連の経済問題の悪化がフルシチョフに対する圧力を増加させた。表面上ブレジネフはフルシチョフに忠実であったが、ニコライ・イグナトフやアレクサンドル・シェレーピンの働きかけで1963年にはフルシチョフの追放計画に加担することとなった。この年にはまたフルシチョフの後継者とされていたが、酒により健康を害したフロル・コズロフの後任(一時短期間ミハイル・スースロフが担当)として第二書記も兼ねたが、翌1964年7月に最高会議幹部会議長をフルシチョフと親しかったアナスタス・ミコヤンに譲らされ、第二書記に専念する事になる。その3か月後の10月13日及び14日に開かれた臨時の中央委員会総会でフルシチョフは年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の地位を辞任した(事実上の解任)。ブレジネフは党第一書記となり、アレクセイ・コスイギンは首相になった。ミコヤンは最高会議幹部会議長にしばらく留まったが、1965年12月に事実上失脚し(1966年4月に政治局員も解任される。)、後任にニコライ・ポドゴルヌイが就任する。
最高指導者として
  ブレジネフはフルシチョフの下でスターリン個人崇拝批判・スターリンの大粛清による犠牲者の名誉回復とソビエト連邦の知的及び文化的政策の慎重な自由化・集団指導体制を支援していた。しかし、自らが指導者に就任すると直ちにこのプロセスを逆に行い始めた。対ドイツ戦勝20周年を記念する1965年5月のスピーチでブレジネフは初めてスターリンに言及し、1966年4月には第一書記をスターリンの肩書きであった書記長へと改称した。1966年の作家ユーリ・ダニエル及びアンドレイ・シニャーフスキーの裁判は、抑圧的な文化的政策への回帰の象徴だった。ユーリ・アンドロポフ指揮下のKGB(ソ連国家保安委員会)は、1930年代と1940年代のような粛清こそ行わなかったが、スターリンのもとで享受した力の多くを回復した。また、政治局の8割以上自らと同じエンジニア出身者を選んでテクノクラシーを敷いた。
  1974年3月には中将から大将を経ずに上級大将に昇進し、さらに1976年5月にはソ連邦元帥となった。それはスターリン時代以来初の「政治的な元帥」だった。ブレジネフは軍を実際に指揮した経験がなく、職業軍人の間で彼の元帥就任に対して不満が募ったが、彼らの権力と名声はブレジネフ政権下での持続的な支援として保証された。また国内外からの数多くの勲章授与など、ブレジネフ自身の権威付けも強められた。ソビエト連邦共産党の党員証を改訂し、党員第1号たるレーニンの党員証に署名するといった「演出」も行われた。

  ブレジネフの国内的な権力は、1970年代後半から始まったソ連経済の停滞に起因して衰退し始めた。ソ連経済が停滞に陥った原因は、2つの根本的な要因があった。先ずソ連経済はスターリンの大規模な工業化政策にもかかわらず、依然として農業に極度に依存していたことが挙げられる。小麦大麦ライ麦の生産量は世界一だったものの、1970年代前半の大旱魃により国際市場で大量の穀物買い付けを行って大穀物強盗と呼ばれた。スターリンが強制的に進めた農業集産化は独立した自営農民を無くしていた。加えて1930年代及び第二次世界大戦後にスターリンによって復興し、構築されたソ連の産業経済は国家によって管理され市場の反応に応えられず、技術革新が進まなかったことも影響した。大粛清は組織革新のための人的資源を多く失わせることとなり、その後を継いだ党官僚と国家・産業における官僚もジェロントクラート化して世代交代が進まなかった。ブレジネフ時代のソ連経済はオイルショックにおいては世界最大の産油国[7] として西側より繁栄した側面はあるものの、天然資源に依存して外貨の殆どを西側からのハイテク機器・穀物・奢侈品などの輸入に浪費して重工業が中心の産業構造の転換は遅れた。この2つの要因は互いに組み合わさって悪化した。冷戦で対抗し得る軍事力を維持するための軍備や宇宙開発計画のような国威発揚プロジェクト・パイプラインコンビナートの建設などの重厚長大産業には莫大な支出が投じられ、国内で不足した食料も市場価格より高く輸入された皺寄せから、生活水準向上に向けられた投資額は減少した。この問題は後のゴルバチョフ政権によってコンベルシアが政策化される原因となった。また、アパラチキノーメンクラトゥーラが需要者となった「非公式経済(闇市場)」には限定された消費財やサービスが優先的に供給され、ソ連構成初期には見られなかった大規模な汚職を促すことにもなった。
  何よりブレジネフ自身が、イギリス製のロールス・ロイス、西ドイツ製のメルセデス・ベンツ・W100フランス製のシトロエン、アメリカ製のリンカーン・コンチネンタルなど西側の高級な外車や洋服を好む趣味がある汚職体質の持ち主で、身内にもスキャンダルが絶えなかった。娘のガリーナの交友関係や派手な私生活が噂された他、息子のユーリーも横領の疑いで取り調べを受けている。こうした一族をめぐる醜聞は側近でイデオロギー担当書記のミハイル・スースロフが揉み消すことで明らかにならなかったが、彼が亡くなると隠し様が無く、スースロフ後継のイデオロギー担当(第二書記)で国家保安委員会 (KGB) 議長としてブレジネフに仕えていたユーリ・アンドロポフさえもこれには看過出来ず、ブレジネフの死後に自らが最高指導者となるとブレジネフの親族や遺族を汚職容疑で逮捕・摘発している。
  ブレジネフの支配は1976年12月の70歳の誕生日でピークに達した。スターリンの支配とは異なりブレジネフ支配は尊敬も恐れも集めることが出来なかった。このことにブレジネフ自身がどれくらい気付いていたかは、彼が1979年6月にアメリカのジミー・カーター大統領と調印したSALT II条約のような国際的首脳会談の運営に夢中になり、国内問題を無視したため不明確である。国内問題は彼の部下、農業担当書記のミハイル・ゴルバチョフのように根本的な改革が必要だとますます確信するようになった者達に残された。しかしながらゴルバチョフはブレジネフに対する指導権で策略を講じなかった。ブレジネフは彼の健康が低下すると共に指導力も弱まっていった。その間にブレジネフはソ連内での自らの地位を強化した。1977年6月にポドゴルヌイに引退を強要し、ソビエト連邦最高会議幹部会議長の地位を党書記長と同等にして議長職に復帰し、名実共に最高指導者となった。コスイギンは1980年12月の死の直前まで首相として留まったものの、ブレジネフはコスイギンの担当していた経済政策分野に干渉するなど、その影響力を拡大していった。
外交
プラハの春
  ブレジネフ政権最初の危機は1968年チェコスロバキア共産党アレクサンデル・ドゥプチェク第一書記による改革によってもたらされた。ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」のスローガンのもと、言論の自由化など「上からの改革」を推し進めた。それに呼応して様々な改革運動が展開していった。これは「プラハの春」と呼ばれている(音楽祭の名に由来する)。チェコスロバキアの改革運動が他の社会主義国にも波及し、ソ連の共産党体制の基盤を掘り崩すとの惧れ、さらにはソ連ブロック全体を揺るがす危険性からこれを座視することができず、ブレジネフは7月にドゥプチェクを「修正主義者」と批判、さらに8月20日ワルシャワ条約機構軍を投入し、プラハの春は終わりを告げた。一方、中国共産党はドゥプチェクとソ連指導部の双方を修正主義と非難していた。
  「『社会主義を保護する』ためには衛星国の国内問題にも関与せざるを得ない」とする主張は、フルシチョフが1956年にハンガリーで行ったようにソ連の既存の政策の再声明に過ぎなかったが、これは「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」として知られるようになった。
中華人民共和国との紛争
  同じく共産党による一党独裁制の社会主義共和国である中華人民共和国とは、1960年代初めに対立が始まり悪化を続けた。西側とソ連の平和共存路線に中国が反修正主義を掲げて猛反発したためである。ヨシフ・スターリン時代のソ連は、1950年2月に中国と中ソ友好同盟相互援助条約で軍事同盟を締結し、ソ連は中国に対して多額の経済援助や技術援助を行っていた。
  しかし、スターリン批判を行ったフルシチョフに代替わりすると、次第に中国はソ連に対し挑戦的な態度を取り始める。さらに毛沢東はソ連の掲げるマルクス・レーニン主義を独自に解釈した毛沢東思想を唱え始め、日本を含む各国の共産党でソ連派中国派が対立した。チベットダライ・ラマ14世の亡命をインドが受け入れたことなどから、中国がパキスタンを支援してインドを敵視すると、ソ連はインドを支援し、ダライ・ラマもソ連を訪問している。1964年に周恩来がモスクワを訪れたものの、関係の改善には至らず、1969年3月にはウスリー川のダマンスキー島(中国名は珍宝島)において両国の軍隊による武力衝突が発生(中ソ国境紛争)。だが第一次インドシナ戦争からベトナム戦争まで両国とも、北ベトナム側を支持した。しかし、ベトナムの南北統一後は両国の対応が分かれる。ソ連の支援するベトナム社会主義共和国カンボジア・ベトナム戦争クメール・ルージュ民主カンプチアに侵攻してカンプチア人民共和国を樹立。カンプチア王国民族連合政府の時代からカンボジアを支援してきた中国は懲罰として中越戦争を行った。アメリカと中国はノロドム・シハヌーク元国王とポル・ポトらによる三派連合政府を援助し、ソ連はベトナムとヘン・サムリン政権を支持する構図であった。同様にオガデン戦争アンゴラ内戦アフガニスタン紛争などもアメリカ・中国とソ連の代理戦争の様相を呈した。
アメリカ合衆国との関係
  1971年国際連合でのアルバニア決議にはソ連も賛成して中国が国際社会から承認を得るも、1972年2月のニクソン大統領の中国訪問に始まった中国とアメリカの接近を受け、ソ連に対する米中同盟を防ぐためにブレジネフはアメリカとの交渉の新ラウンドを開いた。同年5月にリチャード・ニクソン大統領がモスクワを訪問し、米ソ両首脳は戦略兵器制限条約 (SALT I) に調印し、「デタント」(緊張緩和)の始まりとなった。1973年1月のパリ和平協定はベトナム戦争の公式な終了となり、米ソ関係の障害は取り除かれた。ブレジネフは5月に西ドイツを訪問し、6月にはアメリカへの公式訪問を行った。
  1975年7月のフィンランドのヘルシンキにおける全欧安全保障協力会議 (CSCE) でヤルタ体制を認めさせたことは、「デタント」時代におけるブレジネフの功績であった。引き替えにソ連は「参加国は思想・良心・宗教・信仰の自由を含む人権及び基本的自由を人種・性別・言語あるいは宗教に関する区別無く尊重する」ことに合意した。しかし、これらの成果は国民からは尊敬されなかった。また、アメリカ国内ではデタント・プロセスを「緊張の弛緩」に関する楽観的なレトリックだとして政治的な反対が募り、ソ連とその衛星国での国内自由化とは一致しなかった。第三次中東戦争で高まったソ連国内のユダヤ人迫害からの移住問題は米ソ関係の障害となり、1974年11月にウラジオストクにてブレジネフとジェラルド・R・フォードが会談を行ったが、これらの問題の解決には至らなかった。

  1970年代のアメリカ合衆国とソビエト連邦は共に政治的・戦略的パワーのピークに達し、SALT I条約は両超大国間の核兵器バランスを確立した。ヘルシンキ条約は東ヨーロッパに於けるソ連の覇権を合法と認めた。また、アメリカのベトナム戦争での敗北及びウォーターゲート事件はアメリカの影響力低下を招き、ソビエト連邦軍海軍はセルゲイ・ゴルシコフのもと、積極的に海洋進出して初めて世界的な力を持つことになり、ソ連は南イエメンアデン湾・ベトナムのカムラン湾シリアタルトゥースなどに不凍港を得て中東及びアフリカに進出し、1971年12月の第三次印パ戦争ではインドを支援して軍艦を派遣し、1973年10月の第四次中東戦争でもアラブ諸国側を物資支援して実戦部隊の展開準備を行い、キューバを代理としてアメリカの裏庭とされる中南米紛争1975年3月のアンゴラ内戦1977年7月から1978年3月のオガデン戦争などへの軍事的介入にも成功した。
  米ソ関係は核拡散防止条約が締結されたことに象徴された時は良好であった。リンドン・ジョンソンのモスクワ訪問が予定されていたが、チェコスロバキアへの軍事介入に対する抗議として訪問は中止された。しかし、アメリカ及びNATO諸国は、口頭での非難以外に具体的な行動を採らなかった。このことはヨーロッパにおけるソ連の勢力圏には干渉しないという暗黙のルールが承認されていることを意味した。
日本との関係
  1973年10月に田中角栄首相と発表した日ソ共同声明では、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題[17]」という文言で北方領土問題を解決した上で平和条約を締結することを認め、ヤクートの天然ガス・チュメニ油田サハリン大陸棚の共同開発などのプロジェクトによる日本との経済協力を打ち出した。
アフガニスタン侵攻
  1979年12月に反政府ゲリラへの対応に苦慮していたアフガニスタン干渉する決定を下した事は、ブレジネフの後継者に対する最終及び致命的な遺産となった。アフガンへの介入はデタントの終焉を招き、アメリカが課した穀物取引停止などの経済制裁や1986年サウジアラビアの石油増産による原油価格下落[18] と同時にソ連の経済問題を急速に悪化させた。アメリカはカーター政権で軍拡プログラムを開始し、後任のロナルド・レーガン政権で加速された。アメリカとの軍拡競争における大きな経済負担はソ連の経済状態をより一層の悪化に導き、後のゴルバチョフによるペレストロイカと、更にはソビエト連邦の崩壊に結びついた。加えて侵攻行為は国際的非難を招き、1980年7月に開催されたモスクワオリンピックでは日本を含めた西側諸国・中国・イスラム諸国などからボイコットされる結果となった。
死去と国葬
健康状態の悪化と権力構造の変化
  1981年におけるブレジネフの健康状態は比較的良好で、2月から3月の第26回党大会、4月のチェコスロバキア党大会への出席及びキエフ訪問、5月のグルジア・ソビエト社会主義共和国訪問、11月の党中央委総会及び西ドイツ訪問などの重要行事をこなした。この間11月にはブレジネフの「回想録」が出版され、12月の生誕75周年には東ヨーロッパモンゴルの首脳も駆けつけて大々的な祝賀行事が行われるなど、ブレジネフ書記長の権威を高める行事が行われた。
  1982年1月にブレジネフを庇い続けた実力者のミハイル・スースロフ第二書記が死去した。それ以降ブレジネフの近親者を巡る一連のスキャンダルが西側において報じられ、またブレジネフの泣く姿がソ連のテレビで放映される(2月のグルシポイ・モスクワ軍管区政治部長の告別式の際)など同書記長の権力を卜する上で注目すべき現象が起こった。かかる状況の中で、ブレジネフは、3月1日から3月2日ポーランド統一労働者党第一書記のヴォイチェフ・ヤルゼルスキと会談。3月5日国際婦人デーのレセプションに出席。3月9日から、3月10日フィンランドマウノ・コイヴィスト大統領と会談。16日に全ソ労組大会において演説。22日から25日までウズベク・ソビエト社会主義共和国タシュケントを訪問するなど、あたかも権力失墜説を打ち消すかのように過密なスケジュールをこなしたが、その後ブレジネフは公の場から姿を消し、健康を巡り重体入院説も流れた。実はこの間にブレジネフは心臓発作を起こし、治療の渦中にあった。そして暫く後に行われる4月22日レーニン生誕記念行事に至るまで公式行事に姿を現わさなかった。この時期を境にポスト・ブレジネフを巡る動きが俄かに活発になる。その後、滅多に公の場に登場しなくなったブレジネフであったが、注意深く休養を取りつつ年中を通して諸行事を無事に消化した。
急死
  同年11月7日に重病のブレジネフは、赤の広場で行われた革命65周年の軍事パレードと労働者の行進を冬のモスクワの極寒の中でレーニン廟上の雛壇から観閲した。これが最後の公の場への登場となった。
  その3日後の11月10日午前8時30分にモスクワで心臓発作によって亡くなった。75歳であった。翌日の11月11日にブレジネフの死はラジオ等を通して全世界に伝えられた。日本ではNHKが、同日午後4時33分(日本時間)に「ブレジネフ書記長死去と北京発共同電伝える」と速報を表示した。服喪期間が設けられ、執り行われた国葬には日本の鈴木善幸首相ら70余カ国の首脳等の要人が参列した。赤の広場の元勲墓に埋葬される際にはブレジネフの亡骸が見えるように棺の蓋が開いた状態で運ばれ、ソ連国歌が流れる中、フェリックス・ジェルジンスキーヤーコフ・スヴェルドロフの間に埋葬された。後継者にはブレジネフの腹心であったチェルネンコではなく、第二書記のアンドロポフが就任した。
  なお、ブレジネフ死去の発表が遅れた背景にはソ連共産党政治局内で後継の主導権を巡る権力闘争があったとの見方がある。ブレジネフが亡くなった当日(死が発表される前日)、ソ連のテレビ局は娯楽番組等の通常放送を打ち切り、レーニンの功績を称える番組や第二次大戦独ソ戦(大祖国戦争)を回想する番組を放送した他、キャスターも改まった服装で番組に臨んでいた。ラジオをつけても聞こえてくるのは沈んだクラシック音楽ばかりであり、明らかに不穏な空気に包まれていた。これらの異変に鑑み、誰かソ連の要人が亡くなったとの噂がソ連国内外で立ち始めた。初めは3日前に行われた革命65周年記念パレードに出席しておらず、引退が確実視されていたアンドレイ・キリレンコ政治局員が亡くなったと推測された。しかし、友好国であるアンゴラ共和国の独立記念日に際して、ドス・サントス大統領宛ての祝電に、慣例に反してブレジネフ書記長の署名が無かったことから、徐々にブレジネフが亡くなったとの観測が有力となっていった。
評価
  ・ブレジネフはスターリンに次ぐ長期間に渡ってソビエト連邦を統治した。彼は基本的経済問題を無視してソ連の政治体制の衰退を黙認し、「沈滞の時代」を長引かせたことで非難され、そして彼の貪欲な虚栄心はさらに非難された。ただ経済問題はスターリンから受け継いだ社会主義体制が本質的に保有するものでもあった。社会体制改良の試みは、彼よりはるかに若く最終的な後継者であるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。しかし、ソ連崩壊後の現在のロシアではブレジネフ時代を安定した福祉と生活が保証された時代と評価する向きも少なくない。
  ・その一方、功績としてソ連が彼の指導下で前例の無い国力と国威を得たことが挙げられる。彼は外交における熟練したネゴシエーターでもあった。ゴルバチョフへの評価がロシア国内で低いのは、ブレジネフ時代の国威を貶めたとされるのが一因である。
  ・晩年のブレジネフについては、「頭が完全に老化し、ろれつが回らず、体はむくみ、足もふらつきながら、服のいたるところに勲章を飾り付けて、権力だけは手放さない人物」というイメージが定着した。現在のロシアのテレビ番組でも、そのようなモノマネが披露され、笑いを誘うネタとなっている。1980年ころに流行ったジョーク(いわゆるアネクドート)に、以下のようなものがある。
  ・A「赤の広場で、『ブレジネフはバカだ』と叫んだ男が逮捕されたよ。」
  ・B「国家の最高指導者を侮辱した罪でかい?」
  ・A「国家の重大機密を漏らした罪でだよ。」
  ・ただしこのジョークはフルシチョフからチェルネンコまで4代の書記長が引き合いに出されている。しかも最後の部分が「書記長本人が『逮捕は国家の最高機密を漏らした罪だ』とおどけ、如何を問うた記者会見を和ませた」などと変わっているものもある。
表彰
  死去時の追悼文(「プラウダ」1982年11月12日号掲載)によれば、以下の栄典を授与されたという。
   1-ソ連邦英雄の称号4回、社会主義労働英雄の称号、勝利勲章[22]レーニン勲章8個、10月革命勲章2個、赤旗勲章2個、ボグダン・フメリニツキー2級勲章、祖国戦争1級勲章、赤星勲章、ソ連栄誉剣とメダル、カール・マルクス記念金メダル、レーニン賞
   2-ブルガリア人民共和国英雄の称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄の称号を3回、同国労働英雄の称号を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄の称号を3回、キューバ共和国英雄、ベトナム社会主義共和国労働英雄の称号、ポーランド人民共和国ハンガリー人民共和国ルーマニア社会主義共和国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国朝鮮民主主義人民共和国、ラオス、その他の国の最高の賞
   3-国際レーニン賞とディミトロフ賞、フレデリク・ジョリオ=キュリー記念「平和金メダル」
顕彰
  ・タタールスタン自治共和国にある自動車工業都市ナーベレジヌイェ・チェルヌイは、ブレジネフの死から1988年まで「ブレジネフ市」に改称されていた。
  ・アルクティカ級砕氷船1番船「アルクティカ」は、ブレジネフの死から1988年まで「レオニード・ブレジネフ」の船名で運用されていた。
   ・1982年に起工された空母「アドミラル・クズネツォフ」は、建造中に「レオニード・ブレジネフ」に改名されていた時期があった。
家族
  1927年11月にヴィクトリア・ペトロヴナ・ブレジネワと結婚し、長女のガリーナと長男のユーリが誕生した。


グラスノスチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  グラスノスチは、ゴルバチョフ時代のソビエト連邦においてペレストロイカ(改革)の重要な一環として展開された情報政策である。日本語では「情報公開」などと訳される。

解説
  1986年4月に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故では、書記長であるゴルバチョフの元になかなか情報が届かず、ソ連のセクショナリズム秘密主義が、国の最高指導者の行政にまで影響を与えている現実を突きつけた。業を煮やしたゴルバチョフによって、体制の硬直化による種々の社会問題を解決するために、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。

  ペレストロイカ推進のためには、従来の社会主義的イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、それまで抑圧され続けていた改革派の知識人、あるいは学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。1986年末までには、一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判できるようになった。また、ブレジネフ政権のアフガニスタン侵攻を批判してゴーリキー(現・ニジニ・ノヴゴロド)に幽閉されていた科学者アンドレイ・サハロフも釈放された。
  1987年頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた映画が次々と公開された。党の統制下に置かれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においてもネップ(新経済政策)の再評価、1930年代の大飢饉の考察や、大粛清における犠牲者の名誉回復など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。
  それまで西側にとって秘密のヴェールにつつまれていた軍事面の情報も徐々に公にされるようになり、1986年には、空軍の新鋭戦闘機MiG-29フィンランドのクオピオ・リッサラ基地を親善訪問した映像が世界に配信され、1988年にはイギリスのファーンボロー国際航空ショーに出展、さらに翌年にはSu-27Su-25Mi-28など最新鋭の軍用機がパリ航空ショーに出品披露されるなど、積極的な公開が進んだ。

  このように、一連の改革はソ連邦の民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的にはソ連解体へと国家を進めていく結果となった。







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