クリミア半島問題-1



2021.04.23-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/210423/wor2104230015-n1.html
クリミア「水危機」続く 露、併合の重い代償 海底の淡水探査に着手

  ロシアが2014年に併合したウクライナ南部クリミア半島深刻な水不足が続いており、ロシアの地質調査会社が淡水を求めて近海海底の探査作業に着手した。クリミアはもともと淡水需要の85%をウクライナ本土に依存していたが、併合後に供給を絶たれたことが水不足の根本原因だ。ロシアが半島を一方的に併合し、人工的な「国境線」を引いた代償は重い。

  クリミア半島の中心都市シンフェロポリや保養地ヤルタでは昨年12月から厳しい給水制限が導入され、大半の地区で水供給が午前6~9時と午後6~9時の1日計6時間に限られている。蛇口から濁った水が出ることも多いといい、住民は不満を強めている。
  併合前のクリミア半島ではウクライナ本土から「北クリミア運河」を通じて淡水が供給されていた。しかし、併合によってロシアとウクライナの関係が決定的に悪化し、運河の使用は停止された。その後は半島内に23カ所ある貯水池で一般の水需要をまかなってきたが、昨年以降は降雨・降雪量が少なく、貯水量が危機的に減少している。

  この事態を受け、露政府は25年までに480億ルーブル(約676億円)を投じて水問題を解決する計画を策定。露企業はこのほど、アゾフ海海底の地中に淡水が埋蔵されている可能性があるとみて探査に乗り出した。同海底ではソ連時代、石油探査の際に淡水が出てきたことがあったという。
  クリミア当局はさらに、シンフェロポリ郊外とヤルタに海水を淡水化する装置を導入する意向だ。ただ、露独立新聞によると、逆浸透膜法という世界で標準となっている淡水化の技術がロシアにはない。海外からの設備輸入は、クリミア併合に伴う米欧の対露経済制裁に抵触することから難しいとみられている。

  プーチン露政権は、ウクライナ本土から人為的に分断されたクリミア半島の実効支配を強化しようと、露南部からクリミアへ橋を架けたり、海底送電ケーブルを敷設したりしてきた。ロシアは併合からの5年間だけでクリミアに1兆5千万ルーブル(約2兆1300億円)を投じたと推計されている。
  クリミア併合を受けて一時、プーチン大統領の支持率は9割近くに跳ね上がったが、近年は長引く経済低迷で反政権機運が高まっている。クリミアにばかり巨費が投じられることに不満を抱く国民も増えつつある。(モスクワ支局)



クリミア半島
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  クリミア半島または単にクリミア英語: Crimea)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。
  ソビエト連邦時代は短期間クリミア・ソビエト社会主義共和国ロシア・ソビエト社会主義共和国の統治下にあったが、1954年以降はウクライナ・ソビエト共和国に属していた。1991年の独立以後はウクライナの構成国家であるクリミア自治共和国に属していたが、2014年クリミア危機ロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われ、以降はロシアによる実効支配が行われている(ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入)。しかしウクライナ側はウクライナ憲法CIS憲章などに違反しているとして編入は無効であると主張し、国際連合総会決議68/262などに見られるように、国際社会の多くがウクライナ側を支持している。

歴史(詳細は「クリミアの歴史」を参照)
  古代には、キンメリア人スキタイ人の居住地であるとともに、ギリシア人の植民都市が建設された。この時代の主要都市であるケルソネソスは現在のセヴァストポリの近郊にあった。その後、ローマ人ゴート人フン人ブルガール人ハザール人キエフ大公国ビザンティン帝国キプチャク人などによる支配を受けた。13世紀にはモンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下に入り、沿岸の一部がヴェネツィアジェノヴァの統治下におかれた。

  1443年から1783年まで、ジョチ・ウルスの継承政権であるクリミア・ハン国オスマン帝国の属国となって存続した。1783年にロシア帝国エカチェリーナ2世がクリミア・ハン国を併合した。1853年から1856年にかけてはフランスイギリス、オスマン帝国およびサルデーニャ王国の同盟軍とロシア帝国が激突したクリミア戦争の主要な戦場となった。
  1917年に始まるロシア内戦では、クリミアは白軍(反革命側)に占拠されていた。白軍が赤軍によって駆逐された後、クリミアはソビエト連邦の一部となり、1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が置かれた。第二次世界大戦では、独ソ戦において数年にわたってナチス・ドイツの占領下にあった。
  1954年、クリミアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国へとソ連構成国間の移管が行われた。1991年のソビエト連邦の崩壊により独立したウクライナに属するクリミア自治共和国となった。なお、1991年のソビエト連邦の崩壊に絡む12月1日のウクライナの住民投票では、54%のクリミア住民がウクライナがソ連から独立することを支持している。
  2014年クリミア危機の結果、クリミア半島の帰属はウクライナとロシア連邦との間で現在係争状態にある。クリミア半島全域がロシアと親ロシア派によって掌握される中、ウクライナに留まって自治を拡大するかロシア連邦に編入されるかが問われた住民投票を受けて、ロシアはクリミア編入を行ったが、ウクライナ政府および国際社会の多数派はこれを認めていない。

政治(「2014年クリミア危機」および「ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入」を参照)
  2014年クリミア住民投票の結果、3月18日にロシアクリミア半島の編入を宣言し、クリミア共和国セヴァストポリ連邦市を自国の連邦構成主体とした。事実上、ロシアの実効支配下にあるが、ウクライナ政府および国際社会の多数派は、住民投票およびロシアによる編入を非合法のものであったとして承認しておらず、国際連合総会は住民投票を無効とする決議を賛成100か国、反対11か国(棄権58か国)で採択した。
  国際社会がロシアによる事実上の編入以降も法的に存続しているとみなすウクライナ領のクリミア自治共和国は、1991年に設立された。1990年代には一時期、大統領がいたこともあったが、その後はウクライナ中央政府が派遣する大統領特別代表の下に、議院内閣制を採用していた。立法府は100議席のクリミア自治共和最高会議で、ウクライナ実効支配下で最後に行われた2010年選挙ではクリミア住民の大半を占めるロシア人などのロシア語話者を支持基盤とした地域党が50選挙区のうちの48区で勝利した。クリミアにおけるウクライナ大統領特別代表は、2014年5月22日よりナタリア・ポポビッチが務めている。
  政府による公式の統治機構と別に、クリミア・タタール人の民族自治機関としてクリミア・タタール民族会議(メジュリス)が活動している。
行政区分(詳細は「クリミア自治共和国」、「クリミア共和国」、および「クリミアの行政区画」を参照)
  ウクライナ領としてはクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市、ロシア領としてはクリミア共和国とセヴァストポリ連邦市が置かれる。
  クリミア自治共和国は単一国家であるウクライナでは唯一の自治共和国であり、セヴァストポリはロシア海軍黒海艦隊が租借する基地があるという重要性から自治共和国の管轄外でウクライナ中央に直属する特別市となっている。ロシアはクリミア自治共和国をクリミア共和国として編入し、セヴァストポリは都市単独で州や共和国と対等な連邦構成主体である連邦市とした。ロシアはクリミア半島の連邦構成主体を管轄させるため、クリミア連邦管区を設置し、その後南部連邦管区に吸収合併させた。
  クリミア自治共和国/クリミア共和国は14郡と11の基礎自治体からなり、セヴァストポリは5区に分かれている。
地理
  クリミア半島の位置は、北緯44度23分-44度23分(約322km)、東経32度30分-32度30分(約177km)。面積は2万6844km2で、日本列島と比較すると四国より大きく、九州より小さい。北部は幅5-8kmのペレコープ地峡によってユーラシア大陸ウクライナヘルソン州)とつながっている。ペレコープ地峡の東は、アゾフ海にかけて極めて浅い干潟のような腐海(スィヴァーシュ)と呼ばれるが広がり、大陸側から突き出したチョンガル半島との間の浅く狭い海峡にも自動車と鉄道の渡れる短い橋で接続している。クリミアの東端はケルチ半島と呼ばれる細長い陸地で、最狭部の幅が3.1kmほどのケルチ海峡を挟んでロシアクラスノダール地方から伸びるタマン半島と向かい合っている。ロシアによるクリミア半島の事実上の編入後にはクリミア大橋が開通した。

  全体的な地形は、北部・中部のステップと、南部の山岳地帯、および沿岸部に分かれる。海岸は浸食されて多くの入り江を形成している。ペレコープ地峡の西側には複数の港を持つカーキニット湾がある。カラミタ湾のある南西の海岸には、イェウパトーリヤセヴァストポリバラクラヴァの港があり、1854年クリミア戦争など何度かの戦争で激戦地となった。ケルチ海峡の北側には、アラバト湾またはイエニカレ湾があり、同じく南側には、ジェノヴァ共和国オスマン帝国が黒海交易の拠点としたカッファ港のあるフェオドシヤ湾(カッファ湾)がある。
  南東の海岸は、クリミア山脈(ヤイラ山地)にそって、すぐ8-12kmのところにある。内陸部にはもう一つアルピンメドゥーの山々が並んでいる。これらの山々は、ヘラクレス半島の南西の先端では、黒海の海底から標高600から750mまで、急勾配にそびえ立っている。そのフィオレンテ岬の頂上には、ギリシャ人の女司祭イーピゲネイアが仕えたアルテミスの神殿があったと考えられている。
  半島の中央部から北部は山地から北西方向になだらかに傾斜し、東ヨーロッパ平原に連なるステップになっている。ステップは半島の75%を占め、古代からロシア併合まで遊牧民が放牧を行っていた地域で、古代スキタイ人の墓や古墳が点在している。ヤイラ山地の背面の風景はまた違ったものになっていて、細い海岸線や山地の斜面は、草木で覆われている。ロシアのリビエラと言われる場所が、サールィチ岬からフェオドシヤまでの南岸である。そこには、フォロスアルプカヤルタグルスフアルシタスダクフェオドシヤなど、夏の海水浴リゾート地が軒をつらねている。また、タタール人の村の遺跡や、モスク、カトリックの修道院も数多くある。ロシアの皇族や貴族たちがよく訪れた場所でもあり、古代ギリシアの趣ある遺跡や、中世に建てられた要塞なども見ることができる観光地である。
経済
  工業地帯は主にクリミア半島の北部に位置する。主要な工業都市はクリミア半島内の各地とウクライナの本土(大陸)側を結ぶ鉄道の結節点となっているジャンコイである。ほかの都市にクラスノペレコプスクアルミャンスクなどがある。クリミアにおける主要な工業分野には食品、化学、機械製造、金属加工、および燃料生産が含まれる。工業市場の60%は食品製造業が占める。製造業の企業数は大規模なものが291社、小規模なものが1002社である。
  農業は穀物、野菜、園芸と、ウクライナワインの一種として知られ、特にヤルタマッサンドラで盛んなブドウ果樹栽培などが行われている。畜産は牧畜、養鶏、畜羊などである。クリミア半島のその他の生産物には(海塩)、斑岩石灰岩鉄鉱石ケルチ近郊で採掘される)がある。
  このほか、クリミアは陸上および海中の両方にガス田を有する。これらはすべてウクライナのパイプラインに接続され、西側の石油・ガス会社によって開発されていた。陸上のものはチェルノモルスク郡ジャンコイにあり、海中のものは西海底の黒海と北東海底のアゾフ海にある
住民
  2014年1月1日時点の人口は235万3100人で、2001年ウクライナ国勢調査で報告された237万6151人からわずかに減少している。このうち約200万人がクリミア自治共和国、約35万人がセヴァストポリ特別市に居住する。
人口の変遷
  クリミアの民族構成は20世紀前半に劇的な民族移動が起こった結果の産物である。1783年のロシア併合以前の住民はイスラム教スンナ派を信仰するクリミア・タタール人が多数派で、そのほかに正教会信徒のギリシャ人(言語的にクリミアゴート語を話したゴート人やクリミアタタール語を話したウルム人を含む)、アルメニア教会のアルメニア人と、ユダヤ教を信じるユダヤ人がおり、併合後にロシア人やウクライナ人などの東スラブ系民族が入植した。1879年にクリミア半島を含む地域を管轄したロシア帝国のタヴリダ県で行われた調査によると、当時の人口はクリミア・タタール人が194,294人 (35.55%) 、ロシア人が180,963人 (33.11%)、ウクライナ人が64,703 (11.84%)であった

  クリミア・タタール人は、2001年の国勢調査ではクリミア自治共和国の12.1%、クリミア半島全域の10.2%を占めるに過ぎないが、クリミア・ハン国が成立した中世後期以降にクリミア半島内でキプチャク系のノガイ族の遊牧民とオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む元キリスト教徒の諸民族の子孫が混交して形成された土着の民族である。1944年にヨシフ・スターリンの政策で中央アジア強制移住させられ、ソ連末期の1980年代末からクリミア半島に帰還し始めた。
  クリミア半島のユダヤ人は、歴史的にはラビ派を信仰しテュルク諸語クリムチャク語を使用したクリムチャク人カライ派を信仰しクリムチャク語とは異なるテュルク諸語のカライム語を使用したクリミア・カライム人からなる。1879年のタヴリダ県の人口調査によると、ラビ派のユダヤ人は4.20%、カライム人は0.43%であった。1939年の時点で約6万5000人いたユダヤ人(クリムチャク人を含み、カライム人は含まない)は第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる占領下で、ホロコーストの犠牲になっている。
  クリミア・ドイツ人も1939年の時点で6万人いたが、第二次大戦で独ソ戦が始まると、スターリンの命令で追放された。少数がソ連崩壊後に帰還しており、2001年の国勢調査によると約2500人(0.1%)のドイツ人がクリミアに居住している。クリミア・タタール人、ドイツ人のほか、スターリンは1944年に2万人のギリシャ人と1万4000人のブルガリア人も追放した。一連の民族移動の結果、第二次世界大戦後にはロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の東スラブ系民族以外で規模の大きい民族はクリミア半島から激減して現在に至っている。
宗教(「ウクライナの宗教」も参照)
  クリミアはキリスト教の受容が早くに進み、沿岸部に住むギリシャ人や山岳地帯に住むゴート人正教会を信仰していた。8世紀のゴート主教イオアンニスがよく知られている。988年にキエフ大公国ウラジーミル1世はクリミア半島のギリシャ人都市ケルソネソス(現在のセヴァストポリ)でキリスト教に改宗した。中部・北部のステップでは、ハザールユダヤ教を信仰していた時代もあったが、13世紀にクリミア半島の支配者となったジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)がイスラム教を受容した。スタールイ・クルイムには支配下の部族をイスラムに集団改宗させたことで知られるウズベク・ハンが1314年に建立したモスクがある。
  オスマン帝国支配下のクリミア・ハン国時代、クリミア半島ではイスラム教が浸透していたが、1783年のロシア帝国の併合以降は東スラブ系の正教会が再び優勢となった。現在も全人口の10%ほどのクリミア・タタール人の大部分がイスラム教徒であるが、80%以上を占める東スラブ系民族はロシア正教会などのキリスト教徒または無宗教である。
文化
  クリミア半島には古代ギリシア、ローマ以来の遺跡が数多くある。クリミア・ハン国時代の遺跡は、旧都バフチサライに現存するハン宮殿(ハンサライ)が知られる。また、ロシア帝国時代に作られた建物も現存しており、その中で代表的なものはマサンドラ宮殿がある。この宮殿は19世紀に設けられており現在、アルプキン歴史保護区の一部門として管轄されている。
  ロシアへの併合以降、クリミアはロシアや周辺地域のロマン派に大きな影響を与えた。ロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンは、1820年にバフチサライの宮殿を訪問し、代表作のひとつ「バフチサライの泉」の着想を得た。ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチにとっては、連作「クリミアのソネット」の背景となった。クリミアを旅行した際に得た詩情を込めた18連作のソネットは、祖国を追われた絶望を東方の文化と自然のロマン主義的な叙述で表現している。レフ・トルストイアントン・チェーホフらも一時期クリミアに滞在し、作品を執筆している。
  クリミア出身の芸術家としては、イヴァン・アイヴァゾフスキーが著名である。アイヴァゾフスキーは19世紀にフェオドシヤアルメニア人の家系に生まれ、生涯のほとんどをクリミアで過ごした。存命中から海をモチーフにした作品を発表する海洋画家として非常に高名で、彼の作品の多くは黒海を描いている。クリミア戦争中には戦闘についての作品を描いたことも知られる


ロシアによるクリミアの併合
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(2014年クリミア危機 > ロシアによるクリミアの併合)

  ロシアによるクリミアの併合は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア半島を構成するクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後初の、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、併合要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで併合宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法違反などを理由としてこれを認めず、現在、併合は国際的な承認を得られていない。
歴史的背景(詳細は「クリミアの歴史」を参照)
  ロシアは、988年に全ルーシの共通の祖先であるウラジーミル1世洗礼を受けルーシのキリスト教化の端緒を開いたのは、当時東ローマ帝国の支配下にあった古代ギリシャ都市ケルソネソスであったとして、クリミアが「ロシア固有の領土」であることを主張している。一方、ウクライナは、モスクワに関するはじめての記述は1147年であるとし、そもそもキエフ・ルーシをロシアの起源であるとの立場を認めない立場を採っている[1]。国家起源は、ロシア史とウクライナ史の歴史観の相違の見られる重要点の一つである。キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。
  1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルクモンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。
  クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)であるハジ・ギレイハンとしてクリミア・ハン国を形成した。
  クリミア・ハン国が形成されたのと同じ15世紀頃、モスクワ大公国リトアニア大公国とハン国との間の緩衝地帯となったステップ(現在のウクライナとロシアの南部)に住み着いた正教徒の人々が、コサック(コザーク、カザーク)と呼ばれる武装集団を形成した。1550年代、ウクライナ・コサックヘトマンドミトロ・ヴィシネヴェツキーは、コサックを軍事組織化し、ドニエプル川の中洲にタタールの侵入に対抗するための要塞を建設した。これにより形成されたザポロージャ・シーチのコサックは、クリミア半島やオスマン帝国への襲撃を行うようになった。
  コサックがポーランド・リトアニア共和国からの自立を目指したフメリニツキーの乱(1648年-1657年)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハン国と同盟して挙兵した。
  1682年、第二次ウィーン包囲により大トルコ戦争が開始されると、ロシアも参戦して露土戦争(1686年-1700年)を有利に進め、1700年にコンスタンティノープル条約が締結された。
  1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。1778年にはロシアによって正教徒の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。
  当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導でクリミア半島とその北のノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。このときには開発のために移住させられたものの多くはウクライナ・コサックであった。
  南下政策を推し進めていたロシア帝国にとってはクリミアは格好の不凍港の建設地でありセヴァストポリ要塞などが建設されるとともに黒海艦隊が創設され、これを母港とした。
  1854年クリミア戦争ではセヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は黒海戦線では最大の激戦地となった。

  比較的温暖な気候であることから、アレクサンドル3世ヤルタリヴァディア宮殿を営んだように、クリミアはロシア人の保養地としてにぎわうようになった。アレクサンドル・プーシキンバフチサライを訪れ、クリミア・ハン国の伝説に基づいた『バフチサライの泉』を著したり、レフ・トルストイアントン・チェーホフがヤルタに一時居を構えたりしており、チェーホフの『犬を連れた奥さん』の舞台にもなっている。このようにクリミアはロシア・ロマン主義の中心地となった。
  20世紀に入りソビエト連邦が成立し、クリミア・ハン国の流れをくむクリミア・タタール人の他に、多くのロシア人が移住しクリミアの住民を構成することとなった[2] 第二次世界大戦中にクリミア半島に進撃してきたドイツ国防軍に民族の一部が協力したとの疑惑から、ヨシフ・スターリンはクリミア・タタール人民族全体をシベリアウズベクなど中央アジアへと強制追放し、その過程で同民族の約半数が死亡する事態となった。

  第二次世界大戦後の世界情勢を決定づけたヤルタ会談が開催されたのは上述ヤルタのリヴァディア宮殿においてである。 スターリン死後の1954年ニキータ・フルシチョフによりクリミアはロシア共和国からウクライナ共和国へ両国の友好の証として割譲された。1991年ソビエト連邦は崩壊し、追放されていたクリミア・タタール人もクリミアへと帰還した。しかしソビエト連邦の崩壊後にウクライナがセヴァストポリに駐留する黒海艦隊の一部の所有権を主張したためロシアとウクライナの間に対立が発生し、クリミアではウクライナへの帰属を望まないロシア人住民を中心に分離独立を求める声が起こったが、最終的にクリミア自治共和国としてウクライナの一部となった。
ロシアによる併合(詳細は「2014年クリミア危機」を参照)
ウクライナ政変(詳細は「2014年ウクライナ騒乱」を参照)
  2014年のウクライナにおける政変で親ロシアのヤヌコーヴィチ政権が崩壊し親欧米の暫定政権が発足したことにクリミア住民の一部が抗議し、親政権派と衝突。クリミア自治共和国最高会議(議会)をロシア兵が制圧し、内部の様子が不明なまま、クリミア自治共和国は「クリミア共和国」となるとの宣言が採択されたとの発表がなされ、ウクライナ政権の支持を表明したアナトリー・モギリョフ閣僚会議議長(首相に相当)は解任され、クリミア自治共和国議会における小政党「ロシアの統一」党の党首であったセルゲイ・アクショーノフが首相に指名され、ウクライナ法に反する形で、アクショーノフ政権が発足したことが発表された。
  クリミア共和国議会とセヴァストポリ市議会はロシアへの併合を問う住民投票を3月16日に行うことを決定したが、領土変更は国民投票によってのみ議決することができるとウクライナ憲法第73条で定められており、このためキエフの暫定政権や国際連合や日米欧G7をはじめとする国々・組織は住民投票の中止を訴え、結果を受け入れないと表明する一方、ロシアは結果を尊重するとした。投票5日前の3月11日にクリミアとセヴァストポリはウクライナからの独立宣言を行い、住民投票でロシア併合が賛成多数となれば即時に独立、ロシアへの併合を求めるとの内容を決議した。これは、国際法上、当該国同士の合意なしに領土の帰属変更を行うことは認められない懸念があるため、独立宣言を行うことでウクライナからの分離を既成事実化し、独立国家としてロシアに併合されるための体裁を整えるためのものとされた
  住民投票は16日にウクライナ国内法に反する形で行われ、その結果、クリミア共和国中央選挙管理委員会は、クリミアとセヴァストポリの両方で9割以上の賛成票が投じられたと発表した。NGOの有権者委員会は、投票者リストの内容の変更手続が容易であったため多くの不正が可能であったと発表するなど、多くのメディアが投票日当日の不正の様子を報道した。さらに、セヴァストポリでは、登録有権者数を99万も超える投票数があったことがわかっている。また、ロシア大統領直轄市民社会・人権発展評議会が後日行った報告では、実際の投票率は30-50%であり、そのうちクリミアのロシア併合に賛成したのは50-60%であったとしている。国際社会が早々に同住民投票を認めないと発表する中、ロシアは、この住民投票の結果に従って3月17日に両者はウクライナからの独立と、ロシアに併合を求める決議を採択した。
併合条約の締結
  2014年3月17日、ロシアは「クリミア共和国」の独立を承認。翌18日、ウラジーミル・プーチン大統領はクレムリンで上下両院議員、地域指導者、社会団体代表らの前で演説し、住民投票の投票率が8割を超えたことに触れ、投票は民主主義的な手続きに則ったものであり、国際法に完全に準拠した形で行われたとした。また9割以上がロシア併合に賛成したことは、十分に説得力のある数字だとも指摘した。
  この結果を根拠とし、クリミアとセヴァストポリを新しい連邦構成主体としてロシア連邦に併合する関連法案の可決をロシア議会に求めて演説を終え、引き続いてプーチンとクリミアのアクショーノフ首相、クリミア国家評議会(「最高会議」から改称)のウラジーミル・コンスタンチノフ議長、そしてセヴァストポリ特別市評議会のアレクセイ・チャリ議長が、ロシアとクリミア共和国の二国間条約(セヴァストポリは単独で独立せずクリミア共和国に特別な地位を有する都市として包括されるとしていた)の形式をとった「クリミア共和国をロシア連邦に併合し、ロシア連邦に新たな連邦構成主体を設立することに関するロシア連邦とクリミア共和国との間の条約)」に調印した。
  プーチンはロシア併合を宣言した演説の中で次のようなことを述べている。
 ・1954年にフルシチョフがクリミアをロシアからウクライナに割譲したのは法的な根拠がなく、違法なものであった。
 ・クリミア内のロシア系住民は脅威にさらされており、クリミアは強力な主権国家の一部でなくてはならない。それはロシア以外にはありえない。
 ・ロシアはウクライナの分割を望まず、これ以上の領土的野心はない。
 ・ウクライナの暫定政権は違法なものであり、これを認める西側諸国は偽善である。
 ・西側諸国によるロシアへの制裁は打撃となるものではない。
 ・ロシアは今後も、ウクライナに住むロシア人、ロシア語を話す人々の利益を守る。
  クリミアとセヴァストポリの併合に関する条約は3月20日、ロシア下院が443対1で批准。翌21日にロシア上院で出席議員155人が全会一致で批准した。これにより2016年1月1日までクリミアではウクライナ通貨フリヴニャとロシアのルーブルが併用され以降はルーブルのみが流通することや、併合後にクリミアのうち、もとの自治共和国はロシア連邦の連邦構成主体としてのクリミア共和国に、セヴァストポリは都市単独で連邦構成主体である連邦市となることなどが定められた[24]。ただし通貨については、3月18日にクリミアのテミルガリエフ副首相が3月いっぱいをもってフリヴニャの流通を終了しルーブルに一本化することを表明している
  3月19日にはロシアのアントン・シルアノフ財務大臣が、クリミアとセヴァストポリが抱える財政赤字550億ルーブル(約15億3000万USドル)をロシアが負担すると発表。3月20日には、ロシアがクリミア住民に対しロシア旅券の発給を開始。20日にはアメリカとロシアが双方に制裁を拡大すると発表し、制裁合戦の様相を呈した。
ウクライナによるロシアの主張に対する反論
  ウクライナは、様々な場面により、ロシアによるクリミア併合などの論理に反論している。在日ウクライナ大使館が2014年8月から9月にかけて日本語FacebookTwitterの公式アカウントでウクライナの立場を主に以下のように表明している。
 ・ロシア国史全体において(モスクワに関するはじめての記述は1147年)クリミア半島がロシア領だったのは171年間だけ(1783年~1954年)。
 ・クリミア半島は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ソ連時代)には33年間(1921年から1954年)しか入っていない。ウクライナ・ソビエト連邦社会主義共和国への編入が行われてから、2018年時点で既に64年間、クリミア半島はウクライナ領土。
 1954年のクリミア編入手続きは合法的に行われた(1954年6月2日のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議で、ロシア共和国憲法とソ連憲法の間に齟齬のないことを満場一致で確認し、共和国構成主体について書かれたロシア共和国憲法第14条の変更に賛成、クリミア州の法的な離脱を確定)。
 ・国際連合や欧州安全保障協力機構が行った様々な調査により、逆にロシア人の人権やロシア語話者の権利は守られていることが明らかになっている。
 ウクライナの東・南部で実施された世論調査(2014年4月)によると、72%の市民が、ロシア語話者の権利が奪われているとの意見に賛成しないと回答している。
 
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ロシア大統領は、クリミア併合を決めたのは、「ウクライナの合法的なヤヌコーヴィチ大統領が追い出された(2014年2月22日)あと」とか「クリミアの住民がキエフのバンデラ政府に脅されたあと」、クリミアの住民への世論調査の結果を見て決めたと言っているが、アナリスト達は、クリミアの武力による占領の準備が数年前には始められていて、2013年秋から冬にかけての時期が、その準備の最終段階だったと説明している。証拠1:2013年12月28日、ロシア大統領が署名して、公の場でロシア領土の一体性を侵害するような言動の刑事責任を問えるようにする法律が作られたこと。証拠2:クリミア併合に直接関わった人物に授与されたロシア国防省のメダルに「2014年2月20日〜3月18日クリミア回帰」と書かれており、ヤヌコーヴィチ大統領が国外逃亡する以前の日付にクリミア編入計画が始まったことが示唆されていること。

 ・ウクライナのクリミア自治共和国を含め一部の地域だけで住民投票を実施するのは、ウクライナ法に違反。ウクライナの「国民投票法」によると、一部の地域だけで行う住民投票は規定されていない。クリミアや他の地域が住民の意志でウクライナから離脱することが法的に認められても、その住民投票を行う場合、国際法の観点から、以下3つのルールを守る必要あり。1:非軍事化(軍事力は、実施地域から排除されねばならない)。2民主化(自由で民主的に意思表示を行うための条件が整えられなければならない)。3:非過激化(過激な武装勢力の活動は禁止されねばならない)。プロセスは全て国連の管理の下で行われなければならず、外国軍が占領している状態で実施された住民投票に、法的効力はない。クリミア自治共和国では、どの条件も満たされていなかった。クリミアでは、閣僚会議が違法に解散され、自称「政府」や「議会」が「住民投票」を決定・準備・実施し、その間、ロシア軍がずっと監視をしていた。ロシアは、ずっと「軍はいない」と主張していたが、「住民投票」が終わってから、プーチン大統領はロシア軍が活動していたことを自白。

 「住民投票」の結果は、投票率がクリミア自治共和国で81.4%、セヴァストーポリで89.5%、そしてロシアへの併合賛成は96.77%と95.6%だったと発表されたが、この数値は、ロシア大統領直轄の市民社会・人権発展会議のサイトに短期間公開された情報で否定された。そのサイトで発表された情報では、「住民投票」に参加したのは、30%以下で、その中の50%程度の人が併合に賛成。「住民投票」をボイコットしたクリミア・タタール人の代表機関メジュリスの調査では、投票したクリミア住民は30-40%ぐらいだった。International Republican Institute (IRI)が2011年11月と2013年5月に行った世論調査では、クリミアのロシア併合を望むのは23~33%、ウクライナに残ることに賛成するのは49~53%だった。
  また、ウクライナの主権と領土保全を誓約した1991年のCIS創設に関する協定や1997年のロシア・ウクライナ友好協力条約などロシアが締結してきた諸協定に反していることも指摘された。
併合条約
  2014年3月18日に署名された「クリミア共和国をロシア連邦に併合し、ロシア連邦に新たな連邦構成主体を設立することに関するロシア連邦とクリミア共和国との間の条約」の中身は次のようなものである。
 ・条約に調印した日をもって、クリミア共和国(セヴァストポリを特別な地位を有する都市として包括する)はロシア連邦への併合されたものとする。(第1条)
 ・クリミア共和国とセヴァストポリ連邦市は、クリミアがロシアへ併合された日をもって、ロシアの新たな連邦構成主体となる。(第2条)
ロシア連邦はクリミア共和国とセヴァストポリにおいて母語を維持し、その教育発展を行うことを住民に保障する。クリミア共和国の公用語はロシア語ウクライナ語クリミア・タタール語とする。(第3条)
 ・クリミア共和国がロシアに併合された日をもって、クリミアやセヴァストポリに恒久的に居住しているウクライナ国民や無国籍の市民はロシア国民となる。ただし、併合から1ヶ月以内に現在の国籍を維持したいと届け出た者はこの限りではない。(第5条)
 ・クリミア併合から2015年1月1日までを移行期間とし、経済、財政、法律上などの問題を処理する。(第6条)
 ・クリミア共和国とセヴァストポリで徴兵されたロシア市民は、2016年までクリミアとセヴァストポリの領土内で任務につく。(第7条)
 ・ロシア連邦の構成主体としてのクリミア共和国とセヴァストポリの政府を発足させるための選挙は、2015年9月の第2日曜日(9月14日)に実施される。それまではクリミアとセヴァストポリの議会が政府機関として引き続き任を担う。(第8条)
予定事項
 ・2015年1月1日 併合に伴う移行期間が終了。この日までに経済、財政、法律上などの問題を処理することとされている。
 ・2015年9月14日 クリミアとセヴァストポリで地方政府発足のための選挙を執行。
国際社会の反応(詳細は「2014年クリミア危機での国際社会の対応」を参照)
  2014年2月28日にウクライナは「ウクライナの領土保全を脅かすクリミア自治共和国における状況の悪化」を理由に国連安保理緊急会合の開催を求める訴状を提出した。この訴状を受けて3月15日には安保理会合が開催され住民投票を認めないよう国連加盟国に求める安保理決議案が採決されたが、この決議案はロシアの拒否権行使により否決された。そこで3月27日にこの安保理決議案とほぼ同趣旨の国連総会決議68/262が採決され、賛成100、反対11、棄権58(欠席24)で採択された








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