ウクライナ大統領 他



2022.03.24-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220324/k10013548461000.html
【全文】ウクライナ ゼレンスキー大統領 国会演説

  ウクライナのゼレンスキー大統領が23日、日本の国会でオンライン形式の演説を行いました。全文は以下のとおりです。
   (※ウクライナ大統領府発表の文書に基づく※)

  議長、総理、国会議員、日本国民の皆さん

  ウクライナの大統領として、史上初めて日本の国会で話をすることができ光栄です
  両国の首都は8193キロ離れていて、飛行機では15時間かかりますが、自由を望む気持ち、生きたいという気持ち、それに平和を大切に思う気持ちに距離がないことを、2月24日に実感しました。両国の間には1ミリたりとも距離はなく、私たちの気持ちに隔たりがないことを。
  日本はすぐに援助の手を差し伸べてくれました。心から感謝しています。
  ロシアがウクライナ全土の平和を破壊し始めたとき、世界中が戦争に反対し、自由、世界の安全、すべての社会における調和のとれた発展を望んでいることを実感しました。
  日本はこうした役割を果たすアジアのリーダーです。日本はロシアが始めたこの残酷な戦争を止めるため、ウクライナの平和のため、すぐに動きだしてくれました
  これはヨーロッパにとっても、地球上のすべての人にとっても重要なことです。なぜなら、ウクライナに平和がないかぎり、世界中の人たちは未来に自信を持つことができないからです。

  チェルノブイリのことをご存じだと思います。ウクライナにある原子力発電所で、1986年に大きな爆発事故が起きた所です。放射性物質が放出され、地球上のさまざまな場所で影響が出ました。今も原発の周囲30キロ圏内への立ち入りが禁止され、汚染された多くの資材やがれきが土の中に埋もれたままとなっています。
  2月24日にその上をロシア軍の装甲車両が通りました。そして放射性物質のほこりを巻き上げました。チェルノブイリ原発は武力で占拠されたのです。
  大惨事が起きた原子力発電所を想像してみてください。破壊された原子炉の上は覆われ、放射性廃棄物の保管施設があります。ロシアは、この施設をも戦争の舞台にしてしまいました。そしてロシアは、この閉鎖された30キロ圏内の区域を利用して、われわれに新たな攻撃を仕掛けるための準備をしているのです。
  ロシア軍がチェルノブイリ原発に与えた損傷について調査するには、彼らが撤退してから何年もかかるでしょう。放射性廃棄物のどの保管施設が損傷し、放射性物質のほこりがどの程度広がったかのかなどです。

  皆さん!ウクライナには、稼働中の原子力発電所が4か所あり、合わせて15の原子炉があります。すべてが脅威にさらされています。ロシア軍はすでにヨーロッパ最大のザポリージャ原発を攻撃しました。
  また戦闘によって何百もの工場が損傷し、爆撃によってガスや石油のパイプライン、それに炭鉱が脅威に直面しています。ロシア軍は先日、スムイ州にある化学工場を攻撃し、アンモニアが流出しました。
  私たちは、シリアであったように化学兵器、特にサリンを使った攻撃が起きる可能性があると、警告を受けています。
  そして、世界中の政治家たちが議論すべき大きな課題が、もしロシアが核兵器を使用した場合、どう対応すべきかです。どんな国でも完全に破壊されてしまうおそれがあります。

  ウクライナ軍はすでに28日間にわたって、祖国を勇敢に防衛しています。ロシアという世界最大規模の国が28日間にわたり全面的な侵攻を続けていますが、能力や影響力はそれほどではなく、モラルの面では最低です。ウクライナの平和な場所に1000発以上のミサイルを打ち込み、数え切れないほど多くの爆弾を落としています。
  ロシア軍は私たちの数十もの町を破壊し、完全に焼け落ちてしまったところもあります。ロシア軍に占領された多くの町や村では、人々は亡くなった家族や友人、それに隣人を尊厳を持って埋葬することもできません。壊れた家の庭先や道路脇など、どこでも可能なところに葬るしかありません。
  数千人が殺され、そのうち121人は子どもです。およそ900万人のウクライナ人がロシア軍から逃れ、自宅や住み慣れた土地を追われました。多くの人が生命の危険から逃れているため、ウクライナの北部、東部、それに南部から人がいなくなっています。

  ロシアは私たちの交易路である海さえも封鎖しています。世界のほかの、潜在的な侵略者に、海路を封鎖すれば自由国家を脅すことができると示しているのです。
  皆さん!ウクライナとそのパートナーの国々、そして私たちの反戦の連帯こそが、世界の安全を崩壊させず、国家の自由、人々、社会の多様性、それに国境の安全確保のための土台を保障するのです。それは私たちと子どもたち、それに孫たちの平和を守るためです。
  国際機関が機能しなかったことを目の当たりにしたと思います。国連や安全保障理事会でさえも…。いったい何ができるのでしょうか。機能するため、ただ議論するだけでなく真に決断し影響力を及ぼすためには、改革、そして誠実さが必要です。

  ロシアによるウクライナへの攻撃によって世界が不安定化し、多くの新たな危機にさらされています。あすのことさえ、誰も予想できなくなっています。
  資源を輸入している国にとって、世界市場の不安定化は大きな問題です。環境面と食料面の危機はかつてないほど深刻です。そして最も大切なのは、地球上のすべての侵略者たちに、戦争を始めたり世界を破壊したりすれば大きな罰を受けることになると知らしめ、思いとどまらせることです。責任ある国々がまとまって平和を守るのは、全く論理的で正しいことです。
  日本がこの歴史的な時期に、道義に基づいた立場をとり、ウクライナに真の支援をしてくれていることに感謝しています。日本はアジアで初めて、平和を取り戻すためロシアに圧力をかけ、ロシアに対する制裁に踏み切ってくれました。
  どうかこれを続けてください。ロシアが平和を追求し、ウクライナへの残忍な侵略の津波を止めるよう、アジアのほかの国々とともに力を合わせ、状況の安定化に取り組んでください。
  ロシアとの輸出入を禁止し、軍に資金が流れないよう、ロシア市場から企業を引き揚げる必要があります。ロシア軍に対抗しているわれわれの国と兵士をよりいっそう助ける必要があります。ロシアによる攻撃で破壊された都市に人々が戻れるよう、ウクライナの復興について考え始める必要があります。
  皆さんもこの気持ちは分かると思いますが、人々は子ども時代に過ごしたふるさとに、住み慣れた故郷に戻らないといけないのです。平和が脅かされるたびに強く、予防的に行動できるよう、新しい安全保障体制を構築しなければなりません。

  既存の安全保障体制を基盤にして、それはできるのでしょうか。
  この戦争を見れば、絶対にできません。私たちはどんな侵略行為に対しても予防的に機能し、役に立つ、新たなツールや新たな保障体制が必要です。その発展のため、日本のリーダシップが不可欠です。
  ウクライナのため、世界のため、私からのお願いです。世界が再び、平和で安定した明日が訪れ、次世代の将来に自信を持てるようにしてください。
  日本の皆さん!私たちが力を合わせれば、想像以上に多くのことを成し遂げられます。私は、皆さんのすばらしい発展の歴史を知っています。

  いかに調和を作りだし、守れるかを。
  範に従い、命を大切にしているかを。
  境を守れるかを。

  これらはウクライナ人も大好きな、皆さんの文化に根付いています。これは本当のことです。
  ほんの一例ですが、2019年、私が大統領に就任して半年がたったころ、妻のオレナが目の不自由な子どものためにオーディオブックを作るプロジェクトに参加しました。このとき彼女がウクライナ語で音声を吹き込んだのが、日本のおとぎ話だったのです。私たちにとって、そして子どもたちにとって、共感できる内容だったからです。
  遠く離れた両国ですが、私たちは似たような価値観を持っています。同じように温かい心を持っているので、実際には両国間の距離は感じません。両国の協力、そしてロシアに対するさらなる圧力によって、平和がもたらされるでしょう。
  そして私たちの国を復興し、国際機関の改革も実現できるでしょう。
  そしてそのときも、今と同じように、日本が私たちと反戦の連帯を組んでくれていると確信しています。
  私たち全員にとって、極めて重要な時期なのです。
ありがとうございます。

ウクライナに栄光あれ!日本に栄光あれ!




ステパーン・バンデーラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  ステパーン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ 1909年1月1日  1959年10月15日)は、ウクライナの政治家、ウクライナ民族解放運動の指導者である。

生涯
  アンドリーイ・バンデーラ神父の子として、オーストリア・ハンガリー帝国ガリツィア地方に属していたスタルィーイ・ウフルィーニウ村(現在は、ウクライナのイヴァーノ=フランキーウシク州に属する)で生まれた。
  1928年ウクライナ軍事組織(UVO)の一員となり、1929年ウクライナ民族主義者組織(OUN)に入党した。1931年にOUNの西ウクライナ支部の幹部に入り、1932年に同部の副幹事長に選ばれ、1933年に幹事長となった。ポーランド政府が西ウクライナで行った同化政策とウクライナ人の弾圧への対抗を唱えた。
  1935年にポーランドの警察により、前年6月15日のブロニスワフ・ピエラツキ内務大臣暗殺事件に関与した容疑で逮捕され、1936年ワルシャワ裁判とリヴィウ裁判において死刑判決を受けたが、終身刑に減刑された。1936年から1939年にかけてワルシャワの刑務所「聖十字架」に収容されていた。

  第二次世界大戦がきっかけで、1939年にポーランド第二共和国が滅亡すると、ドイツ軍によって解放され、OUNの幹部に戻ってOUNの中でのリーダーとなった。1941年4月に第2ウクライナ民族主義者組織大会においてOUNの総裁に選ばれ、当初は「敵の敵は味方」論からウクライナを管轄下に置いていたソ連からの解放軍と認識し、独ソ戦争直前はドイツ側を支持した。バンデラはウクライナ国家再生宣言を執筆し、宣言は1941年6月30日にドイツ軍に占領されたリヴィウでヤロスラフ・ステツコによって読み上げられた。しかしドイツはこの宣言を認めず、バンデラは7月5日にドイツ占領当局によって軟禁された後にザクセンハウゼン強制収容所に送られた。その出来事によってウクライナにおける対ソ対独双方と戦う象徴となった。1944年9月のベルリンの獄中でバンデーラは反ソ連武力闘争の指導を提案されたが、ナチス・ドイツとの協力を拒否した。連合軍によってウクライナはドイツ支配下からは解放されたが、ソ連に再占領されたためにウクライナへ戻れず、ドイツ南部へ移住した。
  1952年にOUNの幹部を離れたが、西ウクライナでソ連軍に抵抗を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携をとった。1956年から1959年にかけて海外のOUNの活動を管理した。1959年10月15日西ドイツミュンヘンでソ連のKGBスパイボグダン・スタシンスキーによって暗殺された。彼の墓はミュンヘンにある。
評価
  ウクライナ民族主義運動のリーダーであり、その生涯をウクライナ独立に捧げたバンデーラは、ドイツがウクライナ独立を支持してくれるとの期待から独ソ戦でドイツ側を支持したが、1941年6月30日にバンデラはウクライナ国家再生宣言したことで逮捕・強制収容所送りにされて以降はナチスとソ連の両方から迫害されることになる。
  1991年のソビエト連邦の崩壊より前は、ソ連からのウクライナ独立を主張した反ソの人物であったことで、ソ連は「公式史観」として「ファシスト」「ソ連の最悪の敵」として扱い、ソ連の構成国家となっていたウクライナ人民共和国の歴史教育でもこのように教えていた。ソ連崩壊後のロシア連邦でもステパン・バンデラを「ヒトラーの右腕」とイメージづけようとしたが、実際はバンデラはヒトラーに会ったこともなく、実際にドイツ占領下ウクライナで独立宣言した1941年6月30日以降は両国から迫害されている。
  ソ連下のウクライナ人民共和国では反ソ活動・ウクライナ独立運動の主導的立場であったため、悪者扱いをされていたバンデーラが英雄視されるようになるのは、ソ連崩壊によるウクライナ共和国として独立後して、反ソ言動が罪に問われなくなってからである。1940年のモロトフ・リッペンドロップ協定における秘密議定書によって、ソ連構成国として強制的に併合されたバルト三国と同じく、ソ連ら独立した旧ソ連構成国・東欧ではソ連統治に置かれる以前・以降の自国民の反ソ活動への再評価が始まる。独立後のウクライナでは特に、反ロシア政権下で活性化された。
  2004年のオレンジ革命を経てウクライナ大統領に就任した反露派のヴィクトル・ユシチェンコは、2010年、バンデーラに「ウクライナ英雄」の称号を授与したしかし国内外のユダヤ系の人々からの反発を受け、裁判所は彼が亡命したためウクライナ市民ではないという判決理由により、バンデーラの英雄称号に関する大統領布告を無効とした。
ソ連におけるユダヤ系・ロシア正教の復権と反ソによる反ユダヤ主義
  第二次世界大戦集結以前、正確にはイスラエル建国以前に反ソ連≒反ユダヤとなっていた背景には、当時自民族国家を持たなかったロシア帝国内でロシア人からも差別されていたユダヤ人が共産主義の思想に共感する者が多く、彼らは共産主義者となったこと、マルクスだけでなく、ソ連の幹部にユダヤ人が多数いたことがある。そのため、白系ロシア人などのように行動せずとも反ソ連感情を持っていた非共産主義者の一般ロシア人は「ユダヤ人に母国を乗っ取られた」、ソ連に侵略された地域・国家の人々は「ユダヤ人に自国を侵略された」として、反ユダヤの思想となっていた。ソ連政府指導層におけるユダヤ人の割合は当時の他国を圧倒し、国内外のユダヤ人も資本主義を支持する富裕層以外はソ連にシンパシーを持つほどであった。ただし、1948年にイスラエルが建国されると、裕福でもないユダヤ人もソ連からイスラエルへ心が移った。
  日本記者クラブも革命前のロシア帝国でも、ユダヤ人迫害はたびたび起きていたこと、ロシア帝政下で、ロシア帝国はユダヤ人はウクライナに定住させ、移動を禁止するなどの政策をとってきたこと、多くのユダヤ人がロシア帝国に不満を持っていたため、若いユダヤ人たちがロシア革命に参加したことは事実であると指摘している[10]。更には、『資本論』を書いたマルクスはユダヤ人であり、第二次ロシア革命である十月革命でロシア帝国からソ連になり、成立した当初のレーニン内閣のメンバーは半分以上がユダヤ系だった。更にソ連という共産主義国家の誕生で、ソ連国内では宗教活動が制限された。そのため、ソ連が行き詰まると、ソ連国内の人々は再びロシア正教に救いを求めた一方で反ユダヤ主義が台頭した。ソ連の人々は経済の不満を「ユダヤ人が作った共産主義」のせいだと噂し、ソ連右翼団体等がユダヤ人襲撃さえ起こしていた。ソ連崩壊後にロシア人からユダヤ人への憎悪が高まると、多くのユダヤ人がイスラエルに移住している。ソ連崩壊前後のロシアにおける反ユダヤ主義の台頭のため、イスラエルへの大移動がおこり、2016年4月時点イスラエルの人口は現在840万人に増えているが、そのうちロシアからの移民は120万人にも達し、人口の15%を占めるほどになっえいる。
マイダン革命以後
  マイダン革命と呼ばれる2014年ウクライナ騒乱により親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚し、2014年ウクライナ大統領選挙で反露派のペトロ・ポロシェンコ大統領が当選した。就任したポロシェンコ政権はソ連・ロシアの「残滓」を除去する政策を数多く打ち出した。これに伴い、バンデーラやウクライナ民族主義者組織、ウクライナ蜂起軍についても「ウクライナ独立のために戦っていた英雄たち」として讃えられるようになり、ウクライナの法律でも同様に定められた。
  2016年、ウクライナの首都であるキエフの「モスクワ通り」は、キエフ市議会の決議により、バンデーラを顕彰して「ステパーン・バンデーラ通り」に改名された。しかしこれらの動きは、バンデーラを反ソ連・ウクライナ民族主義者とみなしているロシアを刺激し、ウクライナ危機の要因の1つになったとする意見もある。
  2022年1月1日にウクライナの20の地域でウクライナ民族運動指導者であるステパン・バンデーラの生誕113周年を祝う56の関連大型行事が開催され、参加者は計3,500人で警察国家親衛隊が各行事の警備にあたり、いずれも騒動なく開催された[14]。このパレードは、2009年頃に定着したものである。
  同2022年2月末ロシアのウクライナ侵攻においては、市民らが作った火炎瓶を「バンデーラ・スムージー」と呼ぶ者もいた。
肯定的評価
  元産経新聞モスクワ支局長の佐々木正明は、「ソ連による占領への抵抗から「敵の敵は味方」として、ナチスと協力した時期があるものの、近年のウクライナでは、独立のためにソ連と戦ったバンデラの名誉回復がなされた。」と主張している。
  米ブルッキングス研究所のクリフォード・G・ガディとフィオナ・フィルは、「バンデラの指導するウクライナ民族主義者組織(OUN)がドイツと協力関係にあったという史実を利用して、プーチンは、ステパン・バンデラをヒトラーの右腕とイメージづけようとしたが、実際のところ、バンデラはヒトラーに会ったこともなく、最後にはナチスとソ連の両方から迫害された。さらにプーチンは、ウクライナの新政府がステパン・バンデラの思想の流れを引くものだと印象づけようとした。」と主張している。
  元駐ウクライナ大使の黒川祐次は、「プーチン大統領がゼレンスキー政権をネオナチとして批判する根拠はウクライナの民族主義者バンデーラだろうが、バンデーラはナチズムと同じ思想を持っておらず、プーチン氏はバンデーラがナチスと組んだことを宣伝材料として、ありとあらゆることに「ネオナチ」というレッテルを貼ってゼレンスキー政権を攻撃している。」と主張している。

  埼玉工業大学で20世紀ドイツを中心とする思想史研究をしている藤崎剛人は、ゼレンスキー政権には全ウクライナ連合「自由」(スヴォボーダ)の参画はなく、当のプーチンもネオナチに関係するドイツのAfD議員など親ロシア右翼の欧米勢力を利用していると主張している。
  在モスクワ国際関係研究者のアントン・バーバシンとフォーリン・ポリシー・イニシアティブのユーラシア分析担当のハンナ・ソバーンは、「プーチンはソ連崩壊後のロシアで注目されている思想家イワン・イリインに強く影響を受けており、イリインはファシズム志向をもつ国家主義者である。」と主張している[19]。また、ジェームスタウン財団のロシア研究者であるユーリ・ザラコビッチは「イリインは、1933年に出版された自著の中で、ボルシェヴィズムからヨーロッパを守っているとしてヒトラーを容認した。」と主張している。しかし一方でザラコビッチは「イリインは、敵対勢力や教会の弾圧といったファシズムの誤りを批判し、宗教、メディア、政党はその忠誠心の程度によっては許容されるかもしれないと示唆していた。」とも補足している。
  国際政治学者で日本ウクライナ文化交流協会の政治担当部長でもあるアンドリー・グレンコは、「ソ連崩壊に伴ってウクライナは1991年に独立を果たした[21]当初ソ連時代の歴史教育の影響での否定的なものから、親ロシア地域が「独立」したことで2019年時点でウクライナの管轄領土におけるバンデーラへの評価・ウクライナ民族主義者組織への評価・ウクライナ蜂起軍への評価はロシア領土とならなかった東部でも肯定的に変遷した。」と主張している
否定的評価
  ガボール・ラグジによれば、OUNはその前身であるUVOの頃からドイツの諜報機関であるアプヴェーアから資金や武器を提供され活動を支援されており、1927年までに9000ライヒスマルクを受け取ったとされる。
  アントン・シェホフツォフによれば、バンデーラの所属したOUNは極右思想を集合させた国粋主義団体として1929年に設立され、ヒトラーの著作を翻訳するなどしてウクライナ固有のファシズムを形成したとされる。
  マルコ・カリーニクによれば、OUN創始者のイェウヘン・コノヴァレットはポーランド人、ロシア人、ユダヤ人を国家再生の敵と考え、単一民族国家形成の為に暴力と暗殺を用いたのでポーランド政府から弾圧され、更に先鋭化したとされる。
  ロゾリンスキー・リーベによれば、1939年にバンデーラはOUN指導者アンドレイ・アタナソビッチ・メルニクと接触するが、両者の政治観の違いから対立。OUNはメルニク派のOUN-M(OUN-Melnyk)と、バンデーラ派のOUN-B(OUN-Bandera)に分裂しバンデーラはOUN-Bの指導者となるが、OUN-Mと比べてバンデーラ派のOUN-Bはナチスに近く過激な組織だったとされる。

  ガブリエル・フィンダーアレキサンダー・プルシン、及びカレル・バーコフによれば、1941年6月にOUN-Bの宣伝工作を担当したステパーン・レンカブスキーはウクライナのユダヤ人の物理的破壊を提唱し、またOUN-Bでバンデーラの副官だったヤロスラフ・ステツコはユダヤ人とウクライナ人の同化を否定し、ユダヤ人絶滅の為のドイツの手法をウクライナに持ち込む事を支持したとされる。
  OUN-Bの指導者バンデラが宣言文を執筆し、ステツコが1941年6月30日にウクライナの独立復帰を宣言すると、ドイツ当局は7月5日にバンデラを、7月12日にステツコをそれぞれ逮捕しベルリンに移送し、軟禁した。
  この6月30日の宣言には、ウクライナがアドルフ・ヒトラーの下で国家社会主義大ゲルマン帝国と緊密に協力する事が明記されており、OUN-Bはその後にリヴィウポグロムの虐殺事件を引き起こしたとされている。

  元外交官の佐藤優は、反ユダヤ主義のナチス・ドイツと提携しナチス占領下でウクライナ独立を宣言したために逮捕されたバンデーラ自身も反ユダヤ主義者であり、ユダヤ民族虐殺に関与していたと主張している。佐藤は、ウクライナ政府にバンデーラを尊敬する者もいることが「ネオナチ政権から守るため」というプーチン大統領のウクライナ侵攻正当化の詭弁に利用されたと主張している。
  佐藤優によれば、例年バンデーラの誕生日である1月1日には記念行事が行われ、2015年1月1日の夜のキエフで開催されたバンデーラの生誕106年記念行事はロシアとチェコからの反発を呼んだ。佐藤は、反発はウクライナ民族至上主義者と反ユダヤ主義のネオナチが掲げる「たいまつ行進」がナチスを彷彿とさせたからである、としている。また佐藤は、参加者はウクライナの極右ネオナチ政党全ウクライナ連合「自由」(スヴォボーダ)らのバンデーラ主義者であり、これは、ナチスのプロパガンダであった「たいまつ行進」に倣ったもので、ネオナチ思想が喧伝された、と主張している。
  ウクライナではユダヤ系ウクライナ人のコメディアン、ウォロディミル・ゼレンスキーがテレビドラマで大統領に就任する役柄を務め、ゼレンスキーは2019年に現実の大統領となった。東京新聞はこれについて、「当初、国内の民族主義者への配慮から、バンデーラの評価を曖昧にしていた。」と主張している。また、東京新聞によれば、ウクライナの政治学者ポグレビンスキーはゼレンスキー大統領の姿勢を、「バビ・ヤールに追悼施設を造る一方で、国内の排外的な国粋主義を放置するのは矛盾している」と批判したとされている。
  euromaidanpressによれば、ウクライナのイスラエル大使館は「ナチスのイデオロギーを支持した人々への賞賛はウクライナのホロコースト犠牲者の記憶を傷つける。私たちは2021年に採択された法律に従って行進中に起こった反ユダヤ主義の兆候の調査を要求する。」として「たいまつ行進」を批判したとされている。
  朝日新聞国際報道部の出版した『プーチンの実像 証言で暴く「皇帝」の素顔』によれば、2014年にはバンデーラ自身への意見はウクライナ人からは肯定的な意見が占めるようになっているが、自己をロシア人と考える者が占める東部2共和国民とクリミア半島民からは否定的な意見が占め、更にバンデーラ派と呼ばれるほど強力な肯定派ウクライナ人の中にネオナチが多く占めることが国外における評価を難しくしているとされている

  同2015年5月、ウクライナでは共産主義とナチスの賞賛を禁止する「脱共産主義法」が発効した。しかしこの法律にはウクライナ蜂起軍(UPA)は顕彰してもよいなど例外もあり、翌年以降も開催されているバンデーラ生誕記念「たいまつ行進」にはネオナチ勢力であるスヴォボーダの党旗などが掲げられている








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