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ドナルド・トランプとウクライナ論争
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ドナルド・トランプとウクライナ論争は、2019年に行われたドナルド・トランプによるウクライナへの働きかけと、それを問題視して弾劾手続の開始を模索する民主党による論争。

ウクライナのガス会社をめぐる疑惑
  元アメリカ合衆国副大統領2020年アメリカ合衆国大統領選挙への立候補を目指すジョー・バイデンの次男であるハンター・バイデンは、2014年から2019年まで、ウクライナ天然ガス会社であるブリスマ・ホールディングスの取締役を務めていた。同社は、2016年までに何らかの疑惑を抱えウクライナ検察当局の捜査対象となっていたが、父親のバイデン副大統領がウクライナを訪問した際に同国の検事総長を罷免するよう要求すると、まもなくウクライナ議会は検事総長を罷免。会社は、検察当局からの追及を免れていた。
  2019年7月25日ドナルド・トランプ大統領は、ウクライナへの軍事支援を進めているタイミングでウォロディミル・ゼレンスキー大統領と電話で会談。秘密裏にバイデン親子のウクライナにおける活動について捜査するよう要請していたが、同年8月頃、会談の内容が何者かの手で明るみになった。ナンシー・ペロシ下院議長を始めとした民主党議員らは、職権乱用であるとして大統領の姿勢を一斉に批判し始めた

大統領弾劾手続きの模索
  民主党側は、2017年のトランプ政権誕生以降、大統領選挙におけるロシアとの共謀疑惑などを足がかりに大統領弾劾を模索してきた。明るみになったウクライナへの要請は、軍事支援を背景とした干渉で、国の安全保障と引き換えに政敵への妨害を試みたとの解釈もできることから、大統領の弾劾に向けた新たな材料となった。2019年9月24日、ペロシ下院議長は民主党の会合後、弾劾調査を開始すると発表した。
  2019年9月26日、トランプ側は電話会談の記録を公表。ウクライナ側に捜査を促す発言はあったが、軍事支援関連のやりとりはなく「いかなる圧力もなかった」と改めて主張した。また、ウクライナのゼレンスキー大統領も、会談記録の公表に合わせてトランプからの圧力を否定するコメントを発表した
  2019年10月8日、トランプは証人喚問や証拠提出を求める下院民主党に反発し、ペロシらにあてた書簡で弾劾に向けた調査には協力しないと表明。全面対決の姿勢を鮮明にした。弾劾に関してホワイトハウスの顧問は、ペロシらあての書簡の中で手続きを始めるためには下院本会議で採決にかける必要があると主張。一方の民主党側は、下院本会議での採決は憲法で義務付けられていないと指摘して対立した。
  2019年10月9日、ウクライナ論争の切っ掛けを作ったったジョー・バイデンは、ニューハンプシャー州で行われた選挙集会に出席。「トランプが国を裏切り就任宣誓を破った」、「大統領は弾劾されるべき」として初めてウクライナ論争に関する批判を行った。民主党から大統領選への立候補者を選ぶ戦いで終始リードしてきたジョー・バイデンではあったが、夏場以降、健康問題なども加わり支持率が低下。批判を行った前日には、二番手候補だったエリザベス・ウォーレンに支持率で逆転を許したとする調査結果も現れていた。


BBC NEWS JAPAN(https://www.bbc.com/japanese/48008943)
コメディー俳優が大統領に ウクライナでゼレンスキー氏が勝利

ウクライナで21日、大統領選挙の決選投票が行われ、コメディー俳優のヴォロディミル・ゼレンスキー氏(41)が勝利した。出口調査での得票率は73%と、現職のペトロ・ポロシェンコ大統領の26%を大きく上回った。ポロシェンコ氏は敗北を認めている。
  ゼレンスキー氏はテレビ番組で大統領を演じたことがあるが、政治キャリアはない。3月30日に行われた第1回投票では30.4%で第1位だった
  ゼレンスキー氏は勝利演説で、「私は絶対に貴方たちを失望させない」と述べた。「まだ正式な大統領ではないが、ウクライナ国民として、全ての旧ソ連国に言いたい。私たちを見てほしい、不可能なことは何もない!」ウクライナでは大統領が安全保障や国防、外交政策などに大きな権限を持つ。

ゼレンスキー氏とは?
  政界でのキャリアがないため、ゼレンスキー氏の選挙活動は他の候補との違いを強調するもので、確固とした政策案などは打ち出されなかった。
  それにもかかわらず、第1回投票では30%以上の票を獲得し、ポロシェンコ氏の17.8%を大きく上回った。アナリストは、ポロシェンコ政権に幻滅した有権者が、ゼレンスキー氏の形式ばらないスタイルや、汚職撲滅の約束に飛びついたとみている。
  従来の選挙活動の戦術に囚われず、汚職の排除や富豪による権力掌握を緩和することを約束し、ドラマのキャラクターを自分に結び付けた。一方、ゼレンスキー氏は富豪のイホリ・コロモイスキー氏との関係が取りざたされており、信用できるか疑わしいとの批判もある。国内で有力な富豪らを退け、ロシアのウラディミール・プーチン大統領に対抗できるか疑問だという声も挙がっている。
  ゼレンスキー氏はウクライナのテレビドラマ「Servant of the People(直訳:国民のしもべ)」で、アクシデントで大統領になってしまう教師を演じた。この教師は、政界の汚職について激しい口調で批判。ソーシャルメディアで拡散され、それがきっかけで大統領になる。
  ゼレンスキー氏はこの番組名と同じ名前の政党から立候補した。政界でのキャリアがないため、ゼレンスキー氏の選挙活動は他の候補との違いを強調するもので、確固とした政策案などは打ち出されなかった。それにもかかわらず、第1回投票では30%以上の票を獲得し、ポロシェンコ氏の17.8%を大きく上回った。
  アナリストは、ポロシェンコ政権に幻滅した有権者が、ゼレンスキー氏の形式ばらないスタイルや、汚職撲滅の約束に飛びついたとみている。従来の選挙活動の戦術に囚われず、汚職の排除や富豪による権力掌握を緩和することを約束し、ドラマのキャラクターを自分に結び付けた。一方、ゼレンスキー氏は富豪のイホリ・コロモイスキー氏との関係が取りざたされており、信用できるか疑わしいとの批判もある。国内で有力な富豪らを退け、ロシアのウラディミール・プーチン大統領に対抗できるか疑問だという声も挙がっている。

「先行き不透明で予測のつかない状況に」
  現職のポロシェンコ氏は出口調査の結果が出た段階で、「この選挙によって、我々は先行き不透明で予測のつかない状況に置かれた」と述べた。その上で、「私は大統領職を去るが、政界から引退しないとはっきり言っておく」と話した。ポロシェンコ氏は2014年、それまでの親ロシア派の政権を覆す形で大統領に就任した。
  ロシアはこの年の3月にクリミア半島を併合し、国際的な批判を浴びている。これ以降、ウクライナ国内では、東部の分離派とウクライナ軍の紛争がこう着状態に陥っている。ポロシェンコ氏はツイッターで、「新しい、経験不足のウクライナ大統領は(中略)すぐにロシアの影響下に戻ってしまうかもしれない」と述べた。

  一方ロシアの外務省は、ウクライナの有権者は政治に変化が欲しかったのだと指摘した。グリゴリー・カラシン外務次官は国営メディアRIAノヴォスチの取材に対し、「新たな大統領は、支持者の願いを理解し実現しなくてはならない。もちろん、内政だけでなく外交についても」と語った。なおゼレンスキー氏は記者会見で、分離派との和平交渉を「再開」すると話した。ミンスク協定を続行する。(中略)協議を再開するつもりだ」「担当者を変えるつもりだ。いずれにせよ、これまでの(停戦合意の)ミンスク協定の方向性で、停戦を履行する方針だ」


ウクライナ
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ウクライナ(ウクライナ語: Україна[ukrɑˈjinɑ])は、東ヨーロッパ国。東にロシア連邦、西にハンガリーポーランドスロバキアルーマニアモルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

概要
16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。
  キエフ大公国13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国ポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサック国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。
  本来の「ルーシ」「ロシア」とは、現在のロシア連邦よりもウクライナを指した。歴史的・文化的には中欧東欧諸国との関係も深い。
国名
ウクライナの最高法規たるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」([ukrɑˈjinɑ])である。日本語の表記は「ウクライナ」となっている。漢字表記は現在の日本では滅多にされないが、「宇克蘭」、または「烏克蘭」。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)である。
  「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、「ウクライナ」という形で『原初年代記イパチー写本の『キエフ年代記』、1187年の条である。この地名は、キエフ公国チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記に1189年の条、1213年の条、1280年の条にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。
  13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国ポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している。
  「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にもみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している。しかし、ヘーチマン国家がロシア保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ルーシという地名の同義語となった。
  19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくに連れて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた。1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなる。
ウクライナ独立戦争
(詳細は「ウクライナ人民共和国」、「ウクライナ国」、「西ウクライナ人民共和国」、「ウクライナ・ソビエト戦争」、および「ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)」を参照)

  第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで東部戦線が形成された。
  1917年2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラードロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキエフでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会が成立した。10月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党ソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発したあと、1918年1月9日ウクライナ人民共和国独立を宣言した。
  同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナとドイツオーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した。4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した。国号は再びウクライナ人民共和国となった。

  しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日、ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ社会主義ソビエト共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけて、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍イギリス軍ポーランド軍ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した。

  一方、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィアブコビナ地方に住んでいたウクライナ人リヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランスイギリスルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日リガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。
  またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。
社会主義時代(詳細は「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」、「ホロドモール」、「カルパト・ウクライナ」、「ウクライナ民族主義者組織」、および「ウクライナ蜂起軍」を参照)

  1922年12月30日ウクライナ社会主義共和国は、ロシアベラルーシザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。
  1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。

ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
  この背景には、レーニンスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。
  大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
  一方、西ウクライナはポーランドルーマニアチェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。
第二次世界大戦(詳細は「第二次世界大戦」、「独ソ戦」、および「ウクライナ蜂起軍」を参照)
  1939年8月24日ソ連ドイツ不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年9月1日にドイツが、続いて9月17日にソ連がポーランドを侵略した。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された[63]。ドイツがフランスを占領したあと、1940年6月28日にソ連はルーマニアにベッサラビアと北ブゴヴィナの割譲を要求した。ルーマニアはこの要求を呑み、北ブゴヴィナとベッサラビアはウクライナSSRに併合された。その後、北ブゴヴィナと南ベッサラビアを除く地域にはモルドバSSRが設置された。1940年7月14日にソ連軍はバルト三国を占領し、1941年6月1日にドイツ軍はバルカン半島を支配下に置いた。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。
  1940年12月18日、ドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月22日にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどはドイツ側に与して派兵など軍事的支援を行った。独ソ戦は約4年間続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人は共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。
  1941年9月19日ドイツ軍キエフ右岸ウクライナを占領し、10月24日ハルキウ左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いた。1943年2月、ソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にクルスクの戦いでドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。
  1943年11月6日にソ連はキエフを奪還し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、ドイツが占領するか、枢軸国に参加していた東欧・中欧諸国への侵攻を開始した。1945年5月2日にソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、5月8日にドイツ側の無条件降伏により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国ではソ連の衛星国が樹立された。

  第二次世界大戦においてウクライナはハリコフ攻防戦など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされている。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した。バビ・ヤール大虐殺などナチス・ドイツによるホロコーストも行われ、ウクライナ系のユダヤ人ロマ人などの共同体は完全に破壊された。ソ連政府はウクライナ在住のドイツ人クリミア・タタール人などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の親衛隊にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦った
戦後
  白ロシア共和国(現・ベラルーシ)とともに、ソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年ハンガリー動乱1968年プラハの春の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃したりしている。1953年のスターリンの死後、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。

  1954年ニキータ・フルシチョフ政権により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
  1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの非スターリン化の時代には、ウクライナ・ソビエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフ政権の「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。冷戦で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳ったヘルシンキ宣言1975年)を受けて、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。
  ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの大粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。
  1986年4月26日チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内にあたる地域には220万人ほどが住んでいた[66]。事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。国際原子力機関(IAEA)世界保健機関(WHO)によって行われた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が死んでおり、それ以外にもこの事故を原因とするによって4,000名ほどが死んだといわれる。(「チェルノブイリ原子力発電所事故」および「チェルノブイリ原子力発電所」も参照)

  1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた。
  ソ連はミハイル・ゴルバチョフ政権下で「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起きた。1960年代ごろから民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソビエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは水面下で根強く活動を続け、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化(10月)、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。
  1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成される。1990年1月22日(1918年の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。さまざまな国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。
  崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。
独立
  1991年ソビエト連邦の崩壊に伴いソビエト最高会議の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、独立国家共同体ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であったウクライナ中央議会の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。

  2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第3回投票で勝利したユシチェンコ2005年1月、大統領に就任した。
  2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格に合わせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・ウクライナガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。
  2006年6月22日、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロスが最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチの首相指名を提案。結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。
  2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。
クリミア・東部紛争(「クリミア危機・ウクライナ東部紛争」も参照)
2014年ウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の併合
  
2013年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。2014年1月後半より、抗議者の中に右派セクターなどの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)[71] と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱[72][73]
  親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章をつけていない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた(ロシアのクリミア侵攻)。
  このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発した一方、クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択し、3月16日にクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票をウクライナ国内法に違反する形で実施した。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、さまざまな違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。
  ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認したうえで、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアのアクショーノフ首相とともに編入に関する国家間条約に署名した(ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入)。5月12日にはドネツィク州ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。

  欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。
  その後、2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州、ハルキウ州ルハーンシク州オデッサ州において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が州庁舎や警察機関などを占領した。またその際、ギルキンなどロシアの特殊部隊の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ国民による自発的反乱とみなすのは難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。
  以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む 欧米諸国およびウクライナは、衛星写真や各報道などを根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであり、ロシア軍の直接侵攻は否定し続けており、両者間の意見の対立が続いている。
ポロシェンコ政権・ミンスク合意
  2014年6月に大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領に就任。以降も、引き続き、東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派(ノヴォロシア人民共和国連邦)による戦闘(東部ウクライナ紛争)が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。
  9月5日にはベラルーシミンスクで、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され(ミンスク合意)、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、欧州安全保障協力機構のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが、ミンスク合意のあとも戦闘は続き、結果として一般市民を含む死者数が2014年7月17日に発生したマレーシア航空17便撃墜事件クラボボ村)なども含めれば5,000人以上に上るなど、欧州では旧ユーゴ内戦以来の死者数を出した。
  2015年2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ東部の紛争終結に向けた体制の枠組みについて再度の合意が行われた(ミンスク合意2)。
経済(詳細は「ウクライナの経済」を参照)
  IMFの統計によると、2013年のウクライナのGDPは1,783億ドルである。1人あたりGDP(為替レート)は3,930ドルであり、西隣にあるポーランド(1万3,393ドル)の約30%、北隣にあるベラルーシ(7,577ドル)の約半分、世界平均の約40%程度の水準しかなく、グルジア(3,604ドル)、アルメニア(3,208ドル)、モルドバ(2,229ドル)と並ぶ欧州最貧国のひとつである。最新の2015年の推計によると、1人あたりGDP(為替レート)は2,001ドルまでに低下し、旧ソ連の最貧国レベルとなっている。タタール人リナト・アフメトフイスラエル国籍も持つユダヤ人イーホル・コロモイスキーなどの一部のオリガルヒによる寡頭制資本主義体制が続いている。

  ソ連時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。しかしその一方で国家腐敗が進行している為、事態は深刻さを極めるものとなっている。
  1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。1993年の末ごろには、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。
  1994年に大統領に就任したレオニード・クチマは、IMFの支援を受けながら経済改革を推進し、1996年8月には10万分の1のデノミを実施し、新通貨フリヴニャを導入した。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。
  1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、2000年国内総生産は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。
  2001年から2004年までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。

  ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出などによって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカ合衆国などとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(ロシア・ウクライナガス紛争を参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。

  2008年以降は世界金融危機の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、債務不履行の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した。
  2014年クリミア危機とその後現在まで継続しているウクライナ東部での戦闘により、ロシアとの関係が極度に悪化した。それにより深刻な経済危機に陥り、2015年の経済成長率は-11.6% となっている。1人あたりGDPも2,109ドルにまで落ち込むなど欧州最貧国となっている。
  2015年12月31日、ロシアに対する30億ドルの債務を返済しなかったことを根拠に、ロシア財務省はウクライナはデフォルト状態であると指摘した。
  2016年5月時点のIMFの統計によると1人あたりのGDPはさらに低下し、1,854ドルと現在欧州最貧国のモルドバ(1,712ドル)とほとんど変わらず、現在の経済成長率を反映すると来年にはモルドバに抜かされ、名目GDPも欧州最貧国になるのは確実と思われる。

ロシアとの関係(詳細は「宇露関係」を参照)
  ウクライナとロシアは歴史上複雑な関係を持つが、ソ連崩壊後現在に至るまで緊張が続いている。

  ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU(欧州連合)諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジア、アゼルバイジャン、モルドバとともにGUAM(4か国の頭文字)と呼ばれる連合を結成。同国自身が将来のEU加盟を希望し、2017年時点でもそのための外交努力を続けている(後述の「欧米との関係」を参照)。
  一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことなどを理由に急速に悪化した。大統領はロシアとの関係に対する見解の相違などからティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。2010年の大統領選挙で当選したヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進むものと見られていた。
  ヤヌコーヴィチ政権時、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)やロシア主導のCSTOのような軍事同盟加盟を目指さない中立主義を法律で定めた。

  しかし、2013年末から生じたウクライナ騒乱に続き、ロシアによるクリミア併合・東部不安定化以降、ロシアとの関係は再び悪化した。新政権は、一方でアメリカ合衆国やEUを中心とした欧米諸国との関係を重視している。ポロシェンコ-ヤツェニュク政権は、在ウクライナ米国大使館勤務経験のあるアメリカ人やグルジアのサーカシビリ政権の側近らを要職に就かせるなど、親欧米・反露路線を鮮明にしている。
  なお、2016年時点でウクライナはロシアに対し30億ドルの負債を負っており、今後国際裁判所で争われることとなっている。
  また、司法分野においては、ロシアに対し、2014年6月ごろルハーンシク州内の戦闘中に拘束され、ロシアに連れ出され勾留されたウクライナ人女性のナジーヤ・サウチェンコの即時釈放を訴えている。ロシア当局は、同女性がウクライナ西部においてロシア人ジャーナリスト2名を殺害した嫌疑があると主張していたが、ウクライナをはじめアメリカ、ドイツフランスなどの各国政府、欧州議会などがロシアによるサウチェンコの拘束には根拠がないとして、ミンスク合意に従ってロシアはサウチェンコを解放すべきとした。

  ウクライナとロシアの旅客流動は最大であったが、2015年10月以降、ウクライナとロシアを結ぶ航空旅客便は全便の運行が停止している。
  また、2017年にはポロシェンコ大統領の大統領令を通じて、対露制裁の一環で、VKontakteOdnoklassnikiなどのロシア系SMSサービス、YandexMail.ruなどのロシア系のウェブサイトへのアクセスを禁止した。
  ウクライナ政府はロシアからの天然ガス輸入を2016年は打ち切り、2017年も再開しない見通しであると表明している。さらに2018年9月、1997年にロシアと締結した友好協力条約を延長しないとロシア政府に通告した。
欧米との関係
  ポロシェンコ政権はEU加盟を希望している。具体的な加盟交渉に至ってはいないが、東欧諸国を対象とするEU安定化・連合プロセスの要となる連合協定について、EU加盟国で唯一未批准だったオランダの上院が2017年5月に批准を承認した。同年6月11日からは、イギリスアイルランドを除くEU加盟国へウクライナ国民が90日の査証(ビザ)なし渡航が可能になった。
  ロシアによるクリミア編入宣言や東部ウクライナ紛争への関与疑惑に対して、欧米諸国は対露制裁でウクライナを支援している。米軍はウクライナ軍へ兵器供給と訓練を実施している。
日本との関係(詳細は「日宇関係」を参照)
  日本はユシチェンコ大統領期の2005年3月に同国とのODA円借款契約を初めて締結しているが(190億9,200万円、償還期間30年)、ヤヌコーヴィチ大統領およびティモシェンコ首相の時期は契約を行っておらず、2014年6月7日にポロシェンコが大統領となり9年ぶりに契約の締結を再開した。2014年7月には100億円(償還期間20年間)、2015年6月に1,081億9,300万円(同40年間)、12月に369億6,900万円(同20年間)と、巨額の資金貸付けが行われた。

  2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(ただし、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら2014年7月時点、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である


クリミア・タタール人
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  クリミア・タタール人は、クリミア半島に起源を持つテュルク先住民族である。 クリミア・タタール語母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。
  クリミアの先住民族であることを強調して、「クルムル」という名称で言及されることもある。

人口
  ロシアによるクリミアの併合宣言(2014年)直前には、ウクライナクリミア自治共和国内に24万人のクリミア・タタール人が居住していた(半島の総人口の12%)。また、トルコ共和国には、アンカラエスキシェヒルを中心に、旧クリミア・ハン国からの移住者の子孫が数百万人居住しているとされ、ルーマニアブルガリアにも同様の住民が約2万7千人住んでいる。また、クリミアがソビエト連邦の一部であったスターリン時代、ウズベキスタンなどに強制移住させられた人々の子孫が中央アジア諸国に約15万人がいる。
歴史
民族形成
  クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。
  クリミア・ハン国時代のタタールは、クリミア半島中央部を中心とするクリミア・タタールと、黒海北岸にかけて広がるノガイ(ノガイ・タタール)の二大グループに分かれており、タタール人は主に農民、ノガイ人は遊牧民であった
  この時代のクリミア経済を支えた重要な柱にウクライナ人奴隷の貿易があり、クリミア・ハン国の宗主権下で自立的な行動を行っていたノガイ人たちは15世紀から18世紀にかけて、毎年のようにリトアニア大公国ポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへの襲撃を繰り返し、捕虜を奴隷としてタタール人に売却していた。タタール人に捕らえられて売却されたウクライナ出身奴隷としては、スレイマン1世治下のオスマン帝国に奴隷として売られ、後に後宮(ハーレム)での権力争いを制してスレイマン1世の正式な皇后にまで登り詰めたヒュッレムが有名である。
  現在のクリミア・タタール民族は、キプチャク系遊牧民のノガイとオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む非テュルクの諸民族の子孫が混交して形成された。ノガイらテュルク系民族はクリミア半島においては北部のステップに居住し、遊牧生活をやめた後も牧畜を中心に生計を立てていたが、南部の人々はギリシャ人ジェノヴァ人ゴート系、スキタイ系、キンメリア系、ハザールなどの子孫からなる混成集団で、園芸、菜園、手工業、牧羊などで生活を営んでいた。今日のクリミア・タタール人は北部の遊牧民の末裔と南部の14世紀以降にキリスト教からイスラム教に改宗した諸民族が混交して形成され、現在も南北で別々のサブグループに分かれると考えられている。
ロシア支配下でのクリミア・タタール人社会
  1768-1774年の露土戦争の結果、1783年に、クリミアはロシア帝国に併合され、旧クリミア・ハン国の有力者層の多くは、オスマン帝国領内に亡命した。また、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となる。

  19世紀末には、旧ハン国の貴族階級出身のイスマイル・ガスプラリ(ガスプリンスキー)が、クリミアのバフチサライで、西洋式教育の普及運動(ジャディード運動)を開始し、クリミア・タタール人から多くの民族知識人が輩出された。
  1917年のロシア革命時には、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメトら民族派知識人により、「クリミア人民共和国」の設立が宣言されるが、ソビエト政権がこれを解散させて1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国を設立させた。
  第二次世界大戦独ソ戦)中、クリミアは戦場となった(クリミアの戦い (1941年-1942年)クリミアの戦い (1944年))。クリミアタタール人の多くが赤軍に参加させられたが、1944年には、スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、約20万人が中央アジアやシベリアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、住民の多くが命を落とした。この出来事はクリミア・タタール人追放として、現在でも、クリミア・タタール人の間で広く記憶されている。
  スターリンの死後、1967年にクリミア・タタール人への追放措置は解除され、クリミアへの帰還運動が始められた。1991年には、ムスタファ・ジェミーレフ(クルムオグル)ら民族活動家の運動により、ソ連邦内の全クリミア・タタール人から代議員が選出され、最高意思決定機関であるクリミア・タタール民族大会(クルルタイ)が開催され、クリミアへの帰還に向けての努力が進められた。クルルタイは常設機関としてクリミア・タタール民族会議(メジュリス)を設置し、ジェミーレフが初代議長となった。
  クリミア・タタール人はクリミアへの帰還を果たし、クリミアの全人口の約1割を占めるまでになったが、移民の生活基盤の整備、政治参加の方法等、移住後の問題は残った。
2014年クリミア危機による影響
  2014年ウクライナ騒乱の後に生じたクリミア危機で、クリミア・タタール人は1944年のクリミア・タタール人追放と同様の強制移住につながると懸念を表明していたが、2014年3月16日にクリミア半島地域での「住民投票」でロシアとの統合が多数を占め、3月17日にクリミア共和国の主権が宣言された。これに対してメジュリスのムスタファ・ジェミーレフ前議長は「住民投票をタタール人が認めたことも、認めることもない」と主張している。しかし2015年の3月14日の時点で、クリミア・タタール住民約26万人のうち、ロシア国籍ではなくウクライナ国籍を選んだ者は500人にすぎない。なお、メジュリスはロシア政府によって過激派と認定され、活動禁止を命じられた。ロシアは、ジェミーレフに対して2034年までの「入国」禁止措置をとっている。
  クリミア共和国では、公式にクリミア・タタール語が公用語とされ共和国議会への議席割り当てがされるなどロシア中央政府が大幅な譲歩を行った。
  しかし国際司法裁判所(ICJ)は2017年4月19日、クリミア・タタール人への差別が存在すると認定し、ウクライナ語教育の機会提供やメジュリスへの活動制限の停止などを求める仮保全措置を命じた。
  ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、クリミア併合に反対したタタール人は、ロシアから迫害を受けていると報告している。クリミア・タタール資料センターによると、クリミア・タタール人のうち、ロシアにより政治犯扱いされて者は158人、25人が殺害され、15人が拉致されたと主張した。タタール語テレビ局の放送禁止、学校でのタタール語教育の削減といった文化への弾圧も行われているとしている。ウクライナ本土への避難民も2万~4万人に達した。ウクライナ最高会議はスターリンによる追放をジェノサイドと2015年に決議し、国際社会へも働きかけている。2021年5月5日にはG7(先進7か国)外務大臣がクリミア・タタール人への人権侵害を非難する共同声明を発表した


パルチザン (軍事)
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  パルチザン: partisan)とは、他国の軍隊または反乱軍等による占領支配に抵抗するために結成された非正規軍の構成員である。英語ではレジスタンス運動の一部にも適用される。第二次世界大戦中のナチス・ドイツファシズム時代のイタリアの支配に抵抗した各国の抵抗運動がその例である。
  イタリア語のpartigianoからきたフランス語で、占領軍への抵抗運動内戦革命戦争といった非正規の軍事活動を行なう遊撃隊 およびその構成員[2] を指す単語である。ゲリラの類義語である。
歴史
  ラテン語由来の、「partisan」というフランス語が初めて現れたのは、17世紀において戦争を支持する党派の指導者を指すために用いられた時である。
  パルチザン闘争の初めの概念は、戦闘地域の現地民(場合によっては正規軍)によって構成される部隊を使うことを含んでいた。彼らの目的は、敵戦線の背後で通信を妨害することや、前線基地として使われた拠点や村を占拠すること、輸送部隊を奇襲すること、戦争税や寄付を募ること、敵物資を略奪すること、敵が分散して軍事行動の拠点を守らざるを得なくさせることであった。
  18世紀においてパルチザン戦術の教本として最初に使われたもののうちの一つは、1756年から1763年までの七年戦争中にプロイセン軍工兵大尉を務めたハンガリー人の将校であったイェネイ・ミハーイ・ラヨシュが1756年にデン・ハーグで出版した「Le Partisan ou l'art de faire la petite-guerre avec succès selon le génie de nos jours」(パルチザン、または、私たちの時代の技術で小さな戦争を成功裏に遂行する方法)である。ヨハン・フォン・エーヴァルトはパルチザンの戦略・戦術を1789年に執筆した「Abhandlung über den kleinen Krieg」(小さな戦争に関する論文)で詳細に説明した。

  パルチザン戦闘の概念は、後にアメリカ合衆国における南北戦争の「パルチザン・レンジャーズ」の基礎を形作ることとなった。アメリカ連合国陸軍ジョン・モスビーのようなパルチザンの指導者は、ヨハン・フォン・エーヴァルト(後にアントワーヌ=アンリ・ジョミニカール・フォン・クラウゼヴィッツの両者も)が解説した手順に沿って作戦行動を行った。本質的に、19世紀のアメリカのパルチザンは、ドイツ占領下のヨーロッパで軍事行動をしていた「パルチザン」よりも、第二次世界大戦中に結成されたコマンド部隊に近い。モスビー式の兵士であれば、合法的に自らの州軍の正規兵として考えられていただろう。
  19世紀半ばのパルチザンは実質的に軽騎兵や非組織的または半組織的ゲリラとは異なるものではなかった。ロシアのパルチザンは彼らの激しい抵抗と持続的な襲撃によって1812年のフランスとの戦争でフランス軍をロシアから追いやることに寄与し、ナポレオンの凋落に大きな役割を果たした。
  ロシア帝国は第一次世界大戦でも、スタニスラフ・ブラク=バラホーヴィッチ等のパルチザンを利用した。
ウクライナ蜂起軍(詳細は「ウクライナ蜂起軍」を参照)
  ウクライナ蜂起軍, (UPA) はウクライナのナショナリズムを基盤とする反体制武装組織、後にパルチザンとして、第二次世界大戦中のナチス・ドイツソ連チェコスロバキアポーランド地下国家ポーランド人民共和国の両者に対する一連のゲリラ紛争を行った軍事組織である。
  その集団はウクライナ民族主義者組織の軍事派閥―元々は1943年の春と夏にヴォルィーニで結成されたステパーン・バンデーラ派(OUN-B)であり、その公式な結成日は生神女庇護祭の日である1942年の10月14日であった。

  当時ウクライナ民族主義者組織が宣言した目標は、結束し、独立した主権国家をウクライナ人の住む地域に再び建設することだった。彼らは占領軍を追放し、すべての地域と社会集団を代表する政府を建設するため、暴力を他国の敵と同様に国内の敵である独裁政権ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に対する政治的手段として認めていた。その組織はレジスタンス組織として始まり、 ゲリラにまで発展した。
  ウクライナ民族主義者組織が存在していた間、ポーランドとソビエト連邦を主な敵国として戦い、1943年2月よりナチス・ドイツとの戦闘を開始した。1944年の春の終わりからは、ソビエト連邦の侵攻に直面したウクライナ蜂起軍とウクライナ民族主義者組織-バンデーラ派(OUN-B)は、ウクライナ人の独立国家を建設できるという希望の下、ドイツとも共闘してポーランドとソビエト連邦と戦っていた。また、ウクライナ蜂起軍はヴォルィーニガリツィアポーランド人の大虐殺を犯し 、大戦後はポーランド共産政府によるポーランド南東部のウクライナ人の追放を妨害した(ポーランドにおけるウクライナ人の追放)。
赤軍パルチザン(詳細は「赤軍パルチザン」を参照)
  第二次世界大戦中のソビエト連邦のパルチザン、特にベラルーシでのそれらのパルチザン行動は、効果的にドイツ国防軍を攻撃し、彼らのその地域での軍事行動を著しく阻止した。結果として、ソビエト連邦の支配がドイツ占領下の地域に再び深く確立することとなった。パルチザンのコルホーズが食料を得るために穀物や家畜を育てていた地域もあった。しかし、この例は一般的ではなく、パルチザンは地域の全住民から時として強制的に物資を徴発した。
  フィンランドにおける赤軍パルチザンは村を攻撃し、無差別に住民を狙っていたことが知られている。東カレリアでは、パルチザンのほとんどがフィンランドの軍事物資や通信施設を攻撃したが、フィンランド国内では、ほぼ3分の2の攻撃は市民を対象としたもので、200人の死者と50人の負傷者を出し、その多くは女性や子供、老人であった。
ユーゴスラビア・パルチザン(詳細は「パルチザン (ユーゴスラビア)」を参照)
  パルチザンあるいは国民解放軍、(正式には国民解放軍とユーゴスラビア・パルチザン分遣隊)はヨーロッパの、反ナチスの最も効果的なレジスタンス運動であった。第二次世界大戦中ユーゴスラビア共産党が主導したもので、その司令塔は、最高指揮官ヨシップ・ブロズ・チトーであった。共産主義によるパルチザンは、ユーゴスラビア人民解放戦争においてユーゴスラビアの中心的な部隊であった。

  1943年の半ばまでには、ドイツやその同盟国へのパルチザンの抵抗は、単なる厄介ごとに過ぎなかった規模から、全般的な状況における主要な要素の次元にまで成長した。占領下のヨーロッパの多くでは、敵はパルチザンの手による損失を被り、不快な状況下にあった。ユーゴスラビア以上に損失が発生した地はなかったであろう。(バジル・ダビットソン
  1944年末ごろにはパルチザン部隊の総数は、男女合わせて65万人にも上り、4個と52個師団を編成し通常戦に参加した。1945年の4月には、パルチザンの人数は80万人以上となった。
  終戦直前の1945年の3月、すべてのパルチザンはユーゴスラビアの正規軍に再編され、ユーゴスラビア軍と改名された。その名前は1951年まで続き、改名された後ユーゴスラビア人民軍となった。(詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照)
  第二次世界大戦後のユーゴスラビアは、第二次世界大戦中に自国の軍事力を主力として解放されたヨーロッパ国家の一つであった。また、ユーゴスラビアはベオグラード攻撃中にソビエト連邦から多くの支援を受けており、バルカン航空軍た。結果の一部として、ユーゴスラビアは冷戦の始まりの際、両陣営の間にいることとなった。







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