戦争問題その他(ウクライナとロシアの陰で・・・)-1


2024.01.30-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240130-LSATJZQRUJJZ5COIIBBAYIPXPY/
米無人機、敵機と同時帰還で混乱 迎撃できず ヨルダン軍基地3人死亡で

  ヨルダン北東部の米軍施設で米兵3人が死亡した無人機攻撃を巡り、米主要メディアは29日、米軍の無人機の帰還と同じタイミングで敵の無人機が接近したため混乱が起き、迎撃できなかったと伝えた。国防総省によると、負傷者は40人を超えており、具体的な報復措置を検討している。

  米政府は、シリアとイラクで活動する親イラン武装勢力による攻撃とみている。ブリンケン国務長官は記者会見で、報復措置について「段階的に実施し、長期にわたる可能性がある」と語った。
  攻撃を仕掛けた無人機は28日「タワー22」と呼ばれる米軍施設の宿舎近くに突っ込んだ。帰還する米無人機の後を追うように施設に近づいた。米軍は敵か味方か判断できなかった可能性がある。(共同)


2023.12.14-読売新聞-https://www.yomiuri.co.jp/national/20231213-OYT1T50185/
ガザ巡りサイバー戦も激化、日本も標的…「イスラエル寄り」理由に
(大井雅之、割田謙一郎)

(1)
  イスラエルとイスラム主義組織ハマスの戦闘激化に合わせ、それぞれの主張を支持するハッカー集団によるサイバー攻撃の応酬が起きている日本の企業や団体も標的とされ、サイトの改ざんや通信障害が確認されている。専門家は、今後も被害が発生する可能性があるとして注意を呼びかけている。(大井雅之、割田謙一郎)

<日本を攻撃する>。-パキスタン系のハッカー集団は先月1日、通信アプリ「テレグラム」でそう宣言した。「日本政府の関係機関や企業はイスラエルを支持している」「イスラエル製のサイバーセキュリティーシステムを利用している」と一方的な主張を繰り広げた。
  その数時間後、経団連(東京)のサイトには、世界各地の4000以上の発信源からアクセスが集中し、約30分間にわたって接続しにくい状況に陥った。膨大な量のデータを送りつけ、サーバーをマヒさせようとする「DDoS 攻撃」とみられる。
  大量のデータは、多数のパソコンを複雑に経由して送信されている可能性が高く、経団連の担当者は「攻撃者の特定は困難だ」と話す。
  この日は、東京スカイツリーやNTTPCコミュニケーションズ、電源開発(Jパワー)などのサイトでも一時的に接続しづらい障害が起きた。ハッカー集団はテレグラムに「日本の13サイトをダウンさせた」と書き込んだ
(2)
  ハッカーの動きを追跡している「NTTセキュリティ・ジャパン」(東京)によると、イスラエルとハマスの戦闘が始まった直後から、各地で政治的意図でハッキングを行う「ハクティビスト」の動きが活発化した。
  ロケット弾の警戒情報を提供するイスラエルのサイトは、ハマスによる攻撃開始からわずか約12分後にDDoS攻撃を受けた。水道関連施設や発電所といった重要インフラの制御システムも標的になっている。
  150集団が参戦  一方、ハマスの関連サイトが攻撃されたとの指摘もある。
  イスラエル、パレスチナ双方の側に立った攻撃が激化し、参戦した集団は少なくとも150に上る。内訳はイスラエル側が、同国内やインドにある20グループ、パレスチナ側は中東やアジアなどイスラム圏で活動する130グループとされる。
  影響は世界に広がる。米セキュリティー企業「チェックポイント」によると、イスラエルを支持したとして米英独仏伊の機関や企業などがパレスチナ側の集団から攻撃を受けた。
  イスラエル製のシステムに対する攻撃は続いており、米国では先月末以降、水道制御装置が狙われたという。
都内ペットサロン、パレスチナ派に改ざん
  国内での攻撃対象は、政府や大企業にとどまらない。東京都目黒区のペットサロンのサイトも、パレスチナを支持する画面に改ざんされた。経営者の男性(50)が取材に応じ、「中東の戦闘の影響が降りかかってくるとは……」と戸惑いの言葉を口にした。
(3)
  「ホームページがハッキングされています」―。地元の警察署から連絡があったのは10月25日午後だった。サイトを開くと、背景が黒く改ざんされ、英語で<我々はアッラーの戦士><パレスチナ人の同胞を支援している>と表示されていた。サイトは約12年前に開設し、10年ほどは更新していなかった。
  攻撃を仕掛けたのはバングラデシュ系のハッカー集団とみられる。男性には全く心当たりがなかったが、サイトを閉鎖し、新たに制作し直す準備を進めている。
  ウイルスソフトを最新のものにし、パスワードもこまめに変更するなど、被害を防ぐことが大切だと痛感した」と話した。
「思いもよらぬ集団の標的に」
  中曽根平和研究所の大沢淳・主任研究員(サイバー安全保障)の話「今回は、直接戦闘を交わしているイスラエルとパレスチナ側だけではなく、双方を支援する立場の集団も攻撃に加わっている点が特徴だ。日本も政府の見解や政治家の発言によっては、引き続き、思いもよらぬ集団の標的になる。警戒が必要だ」


2022.06.06-P55ページ-
第3章  国益と世界全体の利益を増進する外交
日本と国際社会の平和と 安定に向けた取組


第1節 日本と国際社会の平和と安定に向けた取組・・・・・・ ・・・・138
第2節 日本の国際協力(ODAと地球規模の課題への取組)・・・・192
第3節 経済外交  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・212
第4節 日本への理解と信頼の促進に向けた取組 ・・・・・・・・・・・ 237



2023.10.15-
「中東余波」台湾有事で対応迫られる日本 第三次世界大戦前夜の状況に
高橋洋一-(元内閣参事官・嘉悦大教授)

  イスラム組織ハマスが7日、イスラエルを急襲し、同国は「戦争状態」と表現した。日本にはどのような影響が出てくるのか考えてみたい。
  これまでの状況は、ハマスが大規模なミサイル攻撃をし、複数の箇所でイスラエル領内に侵入した。不意を突かれたイスラエルは今後、さらに猛烈な報復に出るだろう。

  まず、イスラエルとハマス、パレスチナ、アラブ諸国の関係を整理しておこう。ハマスはイスラエル殲滅を目標としているが、パレスチナを代表していない。ガザを実効支配し、パレスチナ人を抑圧している。
  パレスチナはイスラエルと長い間争っているが、その背景をたどると、第一次世界大戦中に秘密協定を結んだ英国が、アラブ人にもユダヤ人にも独立国家建設を約束した「二枚舌」に行き着く。また、イスラエルとパレスチナ問題は、国際的には「二国家解決」という方向性が出ている。イスラエルと米国はこれに反対してきたが、バイデン政権は容認に転じている。
  アラブ諸国は心情的にパレスチナを応援している。ただし、イスラエルとサウジアラビアの宥和路線のように、ここ数年、イスラエルとアラブ諸国は急速に関係改善が進んでおり、ハマスはこの宥和路線を苦々しく思っていたとされる。
  今回のハマスの急襲は、歴史問題というより「テロ行為」として理解すべきだ。平和的な音楽祭を襲い、欧米人を含む多くの人を惨殺し、人質にしたことも、単なるテロ行為であることを明白に示している。また、ハマス急襲の背後には、イスラエルに核で対抗したいイランがいるとの指摘も一部にある。

  いずれにせよ、イスラエル問題への優先度が高い米国は、イスラエルへの軍事支援を行う。その結果、下院議長の解任でただでさえウクライナ支援がやりにくくなっている米国の状況により拍車がかかるだろう
  率直に言って、今の米国は、イスラエルとウクライナ両国の支援はできない。ウクライナは長期的にはドイツなど欧州で支援せざるを得なくなる。
  そうした玉突きのような国際情勢が日本にどのような影響をもたらすか。差し当たっての問題が台湾有事だ。
  岸田文雄首相のXへの投稿は他の欧米首脳より遅れた。しかも、出だしで「ハマス等パレスチナ武装勢力を非難する」と、パレスチナを出してしまった。しかも「全ての当事者に最大限の自制を求める」との結論だ。テロなので、イスラエルに自制を求めるべきではない。米国、英国、ドイツ、フランス、イタリアの各国首脳は電話会談し共同声明を出したが、日本の異質さが浮き彫りになった
  今回の事件では人質も取られているので解決は長引きそうだ。その結果、ウクライナは欧州で、イスラエルは米国で、北朝鮮は韓国での対応となる可能性もある

  その場合、台湾は日本となる。まるで第三次世界大戦前夜のような状況だが、日本は大丈夫なのだろうか(元内閣参事官・嘉悦大教授)


2022.05.25-Bloomberg-https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-05-24/RCE0DMDWLU6801
食料危機を深刻化させるロシアが得る利益-穀物を「戦争の武器」に

  ロシアのウクライナ侵攻は世界的な食料危機を深刻化させている一方で、小麦価格の高騰などを引き起こした張本人であるロシアには利益をもたらしている。
  戦争によってウクライナからの穀物の海上輸送は阻害され、ソマリアからエジプトに至る国々への重要な供給が断たれている。世界の他の地域では高温と干ばつが小麦の収穫に打撃を与えており、小麦価格は過去最高値水準に上昇。中東と北アフリカの一部では飢餓の脅威が迫っている。
  ロシアは価格の高騰した小麦の輸出を続けており、1トン当たりの収入を増やしている。同国の小麦は来季に豊作が見込まれており、収入増の傾向は継続するとみられる。世界の小麦価格は今年に入って50%余り上昇しており、ロシアの大手農業コンサルティング会社ソベコンの推計によると、同国の今季ここまでの小麦輸出税収入は19億ドル(約2400億円)に上る。

  英王立国際問題研究所(チャタムハウス)のリサーチディレクター、ティム・ベントン氏は、オデーサ(オデッサ)港の封鎖を解除するのは制裁が緩和された場合のみとしたロシアの主張を念頭に「これは世界的なレバレッジを通じて食料を戦争の武器として使っているということだ」と述べた。
  ロシアに港を封鎖されたウクライナは陸路での穀物輸送を余儀なくされ、輸出は通常の潜在的な量の4分の1程度にとどまるとみられる。
  国連の世界食糧計画(WFP)のデービッド・ビーズリー事務局長は「港湾を再開させない行為は世界の食料安保に対する宣戦布告だ」と指摘。食料危機は大量移住を招きかねないと、世界経済フォーラム(WEF)の年次総会ダボス会議)で語った。


2022.05.14-JIJI.COM.-https://www.jiji.com/jc/article?k=20220513042981a&g=afp
ロシア兵治療は「必要悪」 ウクライナの医師-【翻訳編集AFPBBNews】

  【ザポリージャAFP=時事】ウクライナ南部ザポリージャ市の軍の病院。ファラド・アリシャク医師は2か月以上、寝る間も惜しみウクライナ兵と市民を治療してきた。捕虜交換の対象になるかもしれないためロシア兵の治療をすることもあるが、気乗りはしない。(ウクライナ南部ザポリージャ市の軍の病院で、負傷した兵士の手術に当たる医師ら)

  病院に住んでいるようなものだと、ファラド氏。ザポリージャは前線から数十キロしか離れておらず、夜になると遠くで爆発音が聞こえることもある。毎日20時間働き、最大20人の手術を次々と行う。

  ほぼ切断され、皮一枚でつながっている脚。「ここではよくある」とアリシャク氏は話す。「血管をつなぎ、皮膚を再び接着することができた」 別の写真には、もげそうな腕が写っている。この患者も治療ができたと落ち着いた声で説明する。こうした恐ろしい傷を治療し続けなければならないことによる精神的影響はあるかと尋ねると、アリシャク氏は肩をすくめこう言った。「私たちはこのような傷に対処できるよう訓練を受けている。厳しい仕事だが、国を支えている」
  「ロシア兵さえも治療する。すべきではないかもしれない。放置して、この国の肥やしにすればいいのかも」 ロシア兵の治療は「モチベーションに欠ける」と認める。「しかし、私たちが回復を助ければ、(ロシア軍の捕虜になっている)ウクライナ兵と交換できる」
  病院の責任者ビクトル・ピサンコ少佐は、「けだもの」の治療に限られた物資を使わなければいけないことにため息をつく。
  ロシア兵はプロパガンダ漬けにされた無分別な若者だと指摘。ウクライナを解放したいと言いながら、「できるだけ多くのウクライナ人を殺したい」と主張するという。
  それでも、この病院では、「ウクライナ兵と交換すること」だけを目標に、できるだけ多くのロシア兵の命を救うと語った。ウクライナ侵攻開始以来、捕虜交換は何度か行われている。
  6日にはウクライナ兵28人と民間人13人が解放された。うち11人が女性、1人が聖職者だった。ウクライナ政府は、交換したロシア兵捕虜の数を公開していない。ザポリージャの私立病院に4月上旬、負傷したロシア兵3人が搬送されてきた。
  この病院で働くワシリー医師によると、3人は常に監視下に置かれ、3週間入院し、4月末にウクライナ当局に引き渡された。その後、兵士らがどうなったかは知らないという。
  「彼らはひどく落ち込んでいて、攻撃的ではなかった。怯えていた」「だから、軽蔑の念はわかなかった」 同医師によると、医師たちはよく、ロシア兵を痛めつけてやろうというようなブラックジョークを交わしている。「だが、実際は職業倫理を守っている」と話す。 ロシア兵は「私たちの敵だ。でも、ベッドに横たわる彼らを絞め殺したいと思ったことはない」。「そう思うようなら、医師としては働けない」
【翻訳編集AFPBBNews】


2022.05.20-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220520-L7UHY3K2RNK7XK7SISWHDNQBQ4/
露軍兵 初の「戦争犯罪」裁判 検察が終身刑求刑

  ロシアによるウクライナ侵攻で、東部スムイ州で非武装の民間人男性(62)を殺害したとして殺人罪などに問われた露軍の軍曹、ワディム・シシマリン被告(21)の公判が18~20日、首都キーウ(キエフ)の裁判所で開かれた。被告は起訴内容を認め、検察側は最高刑の終身刑を求刑した。公判は侵攻した露軍兵の「戦争犯罪」を裁く初のケースとして、国際的にも注視されている。

  ウクライナメディアによると、シシマリン被告は殺人罪のほか、一般市民への攻撃などを禁じた「戦争に関する法律と慣習への違反」罪で起訴された。
  同国刑法は同罪の構成要件について、戦争犯罪などを定めた国際法と同一と規定。シシマリン被告の有罪が確定すれば、同国の検察当局や国際刑事裁判所(ICC)が進めている露軍による戦争犯罪の追及が前進する形となる。23日にも判決が言い渡される。
  同国のベネディクトワ検事総長によると、現在、民間人殺害などで露軍兵45人に対する刑事裁判を予定。ほかに約1万1600件の戦争犯罪の疑いがあるとして証拠収集を進めている。
  ウクライナメディアや米CNNテレビによると、シシマリン被告の所属部隊は侵攻開始から数日後にスムイ州に侵入。携帯電話で通話中の男性と鉢合わせた。被告は部隊の場所を通報されることを恐れた他の隊員から指示を受け、男性を射殺したとされる。その後、部隊はウクライナ側に投降した。
  シシマリン被告は法廷で男性の妻に「許してもらえないことは理解しているが、申し訳ありませんでした」と謝罪。「当時、神経が高ぶっていたが、殺したくはなかった」とも陳述した。妻は終身刑を望むとする一方、被告が東部マリウポリの製鉄所から投降し、ロシアで捕虜となっているウクライナ部隊「アゾフ大隊」兵士との捕虜交換の対象になるなら、反対しないとした。

  ロシアはアゾフ大隊を捕虜交換対象とせず、戦争犯罪人として訴追する準備を進めている。ただ、露メディアによると、露下院は20日までに、アゾフ大隊を念頭に「ナチス犯罪者を捕虜交換対象としない」と定める法案の審議を無期延期した。事後立法は無効とする「法の不遡及(そきゅう)の原則」により、法が成立してもアゾフ大隊への適用が困難なためだとみられる。


2022.04.23-AFP BB NEWS-https://www.afpbb.com/articles/-/3401708
米、ソロモン諸島に警告 中国軍常駐なら対抗措置

  【4月23日 AFP】南太平洋のソロモン諸島を訪問中の米政府代表団は22日、ソロモンが中国と安全保障協定を締結したことを受け、中国が軍を常駐させることになれば、対抗措置を取ると警告した。
   同日、中国大使はソロモンのマナセ・ソガバレ首相と共にイベントに出席。米中両国にとってのソロモンの重要性が示された。

  ソロモンと長らく同盟関係にある米豪両国は安全保障協定について、中国による南太平洋で中国によるソロモンの軍事拠点化が進む恐れがあるとして警戒している。 
  米ホワイトハウスによると、米政府代表団はソガバレ氏に対し、安全保障協定は米国とその同盟諸国の地域安全保障に影響を及ぼしかねないとして、「事実上の軍の常駐や戦力展開、軍事施設を確立する措置が取られるならば、米国は対抗措置を取る」と伝えた。
   ホワイトハウスによると、ソガバレ氏は従来通り、軍事基地や軍の長期駐留、戦力展開はないとの主張を繰り返したという。(c)AFP


インド・パキスタン関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  インドとパキスタンの関係は、多数の歴史的・政治的事件により、複雑で全体として敵対的な関係である。両国の関係をまず決めたのは1947年の強引なインド・パキスタン分離独立であり、それによってカシミール紛争が始まったほか、両国間では印パ戦争など何度もの紛争が起き、その結果両国の関係は敵意と疑念に包まれている。北インドとパキスタンは、人口構成や共通言語(主にパンジャーブ語とヒンドゥスターニー語)において多少重なる部分がある。
概略
  1947年にイギリス領インド帝国が解消すると、二つの新しい主権国家(インド連邦パキスタン)が建国された。旧イギリス領インド帝国のその後の分裂によって、最大1250万人が故郷を離れざるを得なくなり、推定数十万から100万人まで死者を出した。人口で多数派を占めるムスリムと大きな少数派のヒンズー教徒のいるパキスタンが後にイスラム共和国になった(ただし憲法はいかなる宗教にも信教の自由を保証している)一方で、インドは人口で多数派を占めるヒンズー教徒と大きな少数派のムスリムのいる世俗国家としてまとまった。パキスタンは後に、移民の流出と、バングラデシュ独立戦争による東パキスタン分離によって、少数派ヒンズー教徒のほとんどを失った。
  独立して間もなくインドとパキスタンは公式の外交関係を樹立したが、乱暴な分離と数多くの領土問題は、両国の関係に暗い影を投げかけることになる。独立以降の両国は3つの大きな戦争や一つの宣戦布告なき戦争をしてきたし、無数の小競り合いや軍事的対立を経験している。これら紛争の中心となったのはカシミール紛争であるが、例外として第三次印パ戦争や、東パキスタン(今のバングラデシュ)の分離につながったバングラデシュ独立戦争もあった。
  関係改善の試みは数多く行われている(有名なところではシムラー協定アグラサミットラホール宣言がある)。1980年代前半以降両国関係はシアチェン紛争や1989年のカシミール暴動の激化、1998年のインドパキスタンの核実験、1999年のカルギル戦争によって特に険悪になった。一部の信頼構築手段は(2003年の停戦合意やデリー・ラホール間バスのように)事態の沈静化に成功した。しかしこういった努力は断続的なテロ攻撃によって妨害されている。2001年のインド議会攻撃では両国はほとんど核戦争の瀬戸際まで行った。また民間人68人(ほとんどはパキスタン人)が死亡した2007年のサムジャウタ急行爆破も両国関係における大きな転回点であった。パキスタンの武装勢力によるムンバイ同時多発テロは当時進行中のインド・パキスタン和平会談に対して深刻な打撃となった。

  両国の新政権選挙が済んでからの僅かな雪解け期間が終わると、両国の対話はまたも2016年のプサコット襲撃事件によって行き詰まった[5]。2016年9月、インドが管轄するカシミールでのインド軍基地に対するテロ攻撃ではインド陸軍兵士19名が死亡し、これは近年において最悪の被害者数である。インド側は、襲撃はパキスタンが支援するジハーディスト集団が起こしたものと主張したが、パキスタン側はこれを否定し、襲撃はインド治安部隊による過度の力の行使が原因となった地域の騒乱に対する現地の反応だったとしている。この襲撃は管理ライン (Line of Control) をはさんでの軍事衝突を引き起こし、停戦協定違反とさらなるインド治安部隊に対する武装勢力の襲撃が増大した。2016年以来、絶え間ない衝突、継続的なテロ攻撃、両国での民族主義的発言の増大によって両国関係は崩壊し、関係修復の可能性がほとんど見えていない。特に2019年プルワマ襲撃事件の後でインド政府は1996年にパキスタンに保証したパキスタンの最恵国待遇を廃止した。インドも主にパキスタン製のアパレル製品とセメントの貿易に対する関税率を200%に引き上げた。

  2010年代前半のインドとパキスタン両国の新政権の選挙以降、関係改善の試みもいくつかあった。特に互いに貿易を自由化する互恵原則に基づく無差別市場参加(NDMARB)の合意に向けてのコンセンサスの発展がそうである。インドとパキスタン両国は、南アジア地域協力連合南アジア自由貿易地域に加盟している。パキスタンは大人数を集める毎年のインド国際見本市にずっとパビリオンを出展してきた。しかし両国関係の悪化によって、パキスタンの貿易会社は出展を拒否されるようになった。
  2015年11月、新しいインドの首相ナレンドラ・モディとパキスタンの首相ナワーズ・シャリーフは、両国の交渉再開に合意し、翌月モディ首相は、インドへの帰途にパキスタンを短期間予定外で訪問し、2004年以来パキスタンを訪れた最初のインド首相となった。こういった努力にもかかわらず、両国関係は国境を越えて繰り返されるテロリズム活動のせいで依然として冷たいものになっている。2017年のBBCワールドサービスの世論調査によると、インド人のうちパキスタンの影響を肯定的に見ているのは5%のみで85%は否定的であり、一方でパキスタン人のうちインドの影響を肯定的に見ているのは11%、否定的に見ているのは62%であった。
  2019年8月、ジャンムー・カシミール連邦直轄領の特別な地位を廃止するインドの国会でのジャンムー・カシミール連邦直轄領再編成法改正を受けて両国間にさらに緊張が高まった。パキスタンは外交関係を格下げし、領空を封鎖し、インドとの二国間貿易を中断した
独立時に生まれた紛争の種(詳細は「インド・パキスタン分離独立」を参照)
  インド・パキスタン分離独立に続いた各地の暴動で、数十万人のムスリムとヒンドゥー教徒が死んだ。インドに暮らすムスリムとパキスタンに暮らすヒンドゥー教徒やシク教徒数百万人の移住は、現代において最大級の人口移動であった。両国は自国領を通って移住する少数民族に十分な安全を提供していないと非難し合った。これは新たに生れた両国間の緊張を高める要因となった。
  イギリス領インドの分離独立にあたってのイギリスの計画では、680あった藩王国はそれぞれ2つの国のどちらに加わるかを自ら選べるようになっていた。少数の例外があるものの、ヒンドゥー教徒が多数を占める藩王国のほとんどはインドに加わり、他方ムスリムが多数を占める藩王国のほとんどはパキスタンに加盟した。しかしこの時の一部の藩王国の判断が、後にパキスタン・インド関係に強い緊張をもたらすことになる。
ジュナーガド問題(詳細は「ジュナーガド併合」を参照)
  ジュナーガドグジャラート州の南西端の県で、マナヴァダール公国マングロル公国バブリアワード公国の3公国があった。ジュナーガドはパキスタンに隣接しておらず、間に他の県がいくつもはさまっていた。住民は圧倒的にヒンドゥー教徒が多く80%を占めていたが、統治者ナワブ・マハバート・カーンはムスリムであった。マハバート・カーンは1947年8月15日にパキスタンに加盟した。パキスタンは1947年9月15日に加入を最終的に承認した。
  インドはこの加入を正当なものと認めなかった。インドの立場は、ジュナーガドはパキスタンに隣接しておらず、多数を占めるジュナーガドのヒンドゥー教徒はインドへの加入を欲しており、この県は3方をインド領に囲まれているというものであった。
  パキスタンの立場は、ジュナーガドには統治者と政権があってそれがパキスタンへの加入を選択したのだから、それが認められるべきだというものであった。またジュナーガドには海岸線があるため、インド国内の飛地としてパキスタンとの海運を維持できた。

  両国ともこの問題を平和的に解決できず、すでに熱気を帯びた状況を悪化させただけであった。ヴァッラブバーイー・パテール(インドの内務大臣)は、ジュナーガドのパキスタン加盟を認めてしまったら、グジャラート州全体に騒乱が起きるおそれがあると感じていた。インド政府はグジャラート州での暴動を予防するために、パキスタンに同意をいったん無効にし住民投票を行う猶予を与えた。サマルダス・ガンジーはジュナーガドの人民の亡命政府としてArzi Hukumatを樹立した。パテールはジュナーガドの3公国の併合を命じた。
  インドはジュナーガドへの燃料と石炭の供給を絶ち、航空と郵便を遮断し、県境に部隊を派遣し、すでにインドに加盟していたマングロル公国とババリアワード公国を占領した。10月26日、インド軍との衝突が起こると、ジュナーガドのナワブと家族はパキスタンに逃げこんだ。11月7日、崩壊に直面するジュナーガドの宮廷は、インド政府に国の行政を引き継ぐことを依頼した。ジュナーガドのデワン(シャー・ナワーズ・ブットー卿、有名なズルフィカール・アリー・ブットーの父)は、インド政府に介入を依頼することに決心し、インド政府のサウラシュトラ地域代表ブッチ氏にその旨の書簡を送った。パキスタン政府は抗議した。インド政府はパキスタンの抗議を却下し、デワンの求めに応じて介入を決めた。インド軍は1947年11月9日にジュナーガドを占領した。1948年2月には住民投票が行われ、ほぼ全員一致でインドへの併合が支持された。しかしながら、パキスタンはインドによるこの併合を正式には認めておらず、パキスタン国内の地図ではジュナーガドもパキスタン領となっているものが存在する

カシミール紛争(詳細は「カシミール紛争」を参照)
  カシミールはムスリムが大半を占める王侯国だが、統治するのはヒンドゥー教徒の王マハーラージャハリ・シングであった。インド・パキスタン分離独立の時、国の統治者マハーラージャ・ハリ・シングは独立を保つことを望み、インド連邦にもパキスタンにも参加したがらなかった。インドとパキスタンの両国が王侯国を独立した中立国と認めてくれることを望んでいたのである。
  パキスタンとの停戦合意があったにも関わらず、パキスタン軍の一部がカシミールに派遣された。パキスタンの民兵組織の支援を受けて、パシュトゥーン人マースード族が1947年10月に「グルマーグ作戦」の名の下にカシミールに侵攻し、同地を占領しようとした。部隊は10月25日にバーラームーラに到達し確保した。そしてわずか50km先のシュリーナガルに進めば無防備な飛行場を確保できたのにそうしようとせず、数日間バーラームーラに留まった。カシミールの保安部隊は、弱体で装備も貧弱なためパキスタン軍とは戦えないことが判明した。マハーラージャはこの侵攻がパキスタンへの併合につながることを恐れてインドに接触し、カシミールを守る部隊の派遣を要請した。インドのネール首相は部隊を送る準備をしたが、インドの副総督ルイス・マウントバッテン卿は、インドが部隊を送る前にインドに加盟するようマハーラージャに助言した。そこで彼は、猶予を許さない事態に鑑みて1947年10月26日にインド連邦に加盟する証書に署名した。(チャールズ・チェネヴィクス・トレンチは著書『The Frontier Scouts』(1985年)でこう書いている。)

 1947年10月…部族兵はトラックに乗って(明らかに公式の補給支援を受けながら)カシミールに入った…この作戦には少なくともイギリスの将校1名、ハーヴィー・ケリーが参加していた。この部族民部隊がきわめて重要な飛行場のあるシュリーナガルを奪取することを防ぐものは何もないようだった。たしかにそうだったのだ、彼ら自身の欲以外には。特にマースード族は略奪や強姦、殺人にふけって時間をむだにした。その間にインド軍が空輸され、部族兵はカシミールの盆地から山岳地帯へと押し出された。マースード族は殺伐とした雰囲気で帰国した――楽勝のチャンスを逃し、シュリーナガルでの略奪もできず、物笑いの種になったのだ。

  パキスタンのムハンマド・アクバル・カーン将軍によると侵攻部隊は「なにか不明の理由でバーラームーラで(丸)二日を無駄にした」。
  侵攻したパキスタン軍が州内に展開し、州都シュリーナガルからわずか50kmのバーラームーラを1947年10月25日から数日間略奪する一方で、マハーラージャは1947年10月26日にインド自治領への加入証書に署名した。シェイク・ムハンマド・アブドゥラは、すでにその前日10月25日にデリーに到着し、軍を送るようネルーを説得にかかっていた。彼は同州が直面する危険について率直に話し、すぐに加入を承認し、インド軍を迅速に同州に派兵するようネルーに求めた。(シェイク・アブドゥラは著書『Aatish-e-Chinaar』の中でこの話を裏付け(416ページと417ページ)、さらにV.P.メノンが署名した加入証書を携えて10月26日にデリーに戻ったと記録している(417ページ))翌1947年10月27日、インド総督は証書を受領承認した。マハーラージャの署名と総督の受領承認によって、ジャム・カシミール王侯国は、イギリス議会が可決した1947年インド独立法に従ってインド自治領の一部となった。

  この時までに侵攻部隊は州都シュリーナガルに迫っていたが、インド軍がデリーから空輸され、1947年10月27日にカシミールのシュリーナガル空港に着陸し、空港を確保した後、続いて侵攻部隊をカシミール盆地から排除した。
  インド軍はカシミール各地からの侵攻部隊をなんとか撃退したが、冬が始まると同州の多くの場所が通行不能になった。パキスタンとインドの激しい戦いが何週間か続くと、パキスタン指導部とネルー首相は停戦を表明し、住民投票の約束をして国際連合の調停を要請した。1957年、カシミール北西部は完全にパキスタンに統一され、アザド・カシミール(パキスタン統治下のカシミール)となった。その後1962年には、中国がラダックに接する北東部国境地帯のアクサイチンを占領した。また1984年、インドはメグドゥート作戦を開始し、シアチェン氷河の8割以上を確保した。

  パキスタンは現在、住民投票によるカシミールの民族自決権を支持し、約束された住民投票でカシミール住民の運命を決めるべきだとしている。一方のインドは、マハーラージャが加入証書に署名した以上、カシミール全域がインドと一体になったと主張している。
  こうしたさまざまな政治的相違のため、この地域の領有をめぐって1947年1965年の戦争、さらに1999年にも紛争が起きている。カシミール州は今も、1947年の紛争で合意された停戦ラインである管理ライン(LoC: Line of Control)(1972年のシムラー協定で一部修正)によって2つの国に分断されたままである。
戦争、紛争、論争(詳細は「印パ戦争」を参照-詳細は「第一次印パ戦争」、「第二次印パ戦争」、「第三次印パ戦争」、「カルギル戦争」、「シアチェン紛争」、および「ジャムとカシミールにおける暴動」を参照)
  インドとパキスタンは、独立時から多数の紛争を戦っている。両国間には3つの大きな戦争、即ち1947年と1965年の戦争、1971年のバングラデシュ独立戦争があった。加えて1999年の非公式なカルギル戦争と何件かの国境での小戦闘があった。
第二次印パ戦争(詳細は「第二次印パ戦争」を参照)
  第二次印パ戦争は、1965年4月から1965年9月にかけて生じた複数の小戦闘と、パキスタンのジブラルタル作戦によって始まった。この作戦は、ジャンム・カシミールに部隊を浸透させて、インドの統治に対する暴動を起こさせようとしたものである。インドは報復として、西パキスタンへの本格的な軍事攻撃を開始した。17日間の戦闘で双方とも数千人の損害を受け、第二次世界大戦以来最大の装甲車両による戦闘、最大の戦車戦が起こった。ソビエト連邦とアメリカ合衆国による外交的介入によって国際連合主導の停戦が成立し、続くタシケント宣言の発出によって両国の戦闘行為は終わった。戦闘のほとんどは双方の歩兵および機甲部隊どうしで戦われ、空軍もかなりの支援を行ない、また海戦も行われた。
第三次印パ戦争(詳細「第三次印パ戦争」、「バングラデシュ独立戦争」、および「1971年の印パ海戦」を参照)
  独立してからのパキスタンは、地政学的に二つの地域(西パキスタン東パキスタン)に分かれていた。東パキスタンに住むのはほとんどがベンガル人であった。東パキスタンの政治危機に続いて、1971年12月のパキスタンの軍事作戦ベンガル人に対する虐殺が起こると、すぐに東パキスタンの状況は制御不能となり、インドが反乱を起こしたベンガル人に味方して介入を始めた。この短いが激しい戦争は、東パキスタンの独立をもたらした。この戦争でインド陸軍は三方向から東パキスタンに侵攻し、同時にインド海軍は空母ヴィクラントを使って東パキスタンの海上封鎖を行った。この戦争ではインド海軍による初めての敵港湾への攻勢作戦、トライデント作戦 (1971年)パイソン作戦が行われ、カラチ港が二度攻撃された。この攻撃でパキスタンの海軍戦力は相当部分を失ったが、インド側の艦船喪失はなかった。しかしフリゲートINSククリ (F149)がパキスタン潜水艦の魚雷攻撃を受け、インド海軍は一隻を失うことになった。東パキスタン侵攻から13日後、9万人のパキスタン軍人がインド陸軍ムクティバヒニに降伏した。パキスタン軍が降伏すると、東パキスタンは独立国バングラデシュになった。
カルギル戦争(詳細は「カルギル戦争」を参照)
  1998年-1999年の冬、インド陸軍は例年と同じように、カシミールカルギル地方の非常に高い山頂の駐屯地から撤退していた。パキスタン陸軍は管理ラインを越えてこれら駐屯地を占領した。インド陸軍は雪が溶けた1999年5月にこのことに気付いた。その結果インドとパキスタン両軍部隊の激しい戦闘が発生し、これがカルギル戦争と呼ばれている。インド陸軍はインド空軍の支援を受けて、パキスタンが占領していた駐屯地の多くを奪回した。パキスタンは国際的な圧力と多くの死傷者により残りの駐屯地からも後に撤退した。
他の領有権争いシアチェン氷河コリ湾など他の領有権争いでも関係は膠着している。)
水域を巡る論争
  インダス川水域条約はインドからパキスタンに流入する川を管理している。水は両国の武力紛争の原因ともなり得ると指摘されたことがあるが、現在までのところニムーバズゴ水力発電所のような問題は、外交を通じて解決されている。
ベンガル難民危機(1949年)(詳細は「東ベンガル難民」を参照)
  1949年、インドは、共同体での暴力、脅迫、当局の抑圧のために東パキスタン(現在のバングラデシュ)から西ベンガル州などの州に流れ込んだ100万人に迫るヒンドゥー教徒の難民を記録した。難民の状況はヒンドゥー教徒やインドの民族主義者を憤慨させたし、難民を吸収しきれないインドの各州において資金上の負担となった。ネルー首相とサルダル・パテルは、戦争の可能性も否定しないまま、交渉のためにリアカット・アリー・カーンをデリーに招いた。多くのインド人がこのことを宥和政策と呼んだが、ネルーはカーンとともに、両国が少数民族の保護と少数民族委員会の創設を約束する条約に署名した。カーンとネルーは通商条約にも署名し、平和的な手法で双方の紛争を解決すると約束した。数十万人のヒンドゥー教徒がじょじょに東パキスタンに帰還したが、両国の関係におけるこの雪解けは、主としてカシミール紛争のために長くは続かなかった。

アフガニスタン(詳細は「アフガニスタンとインドの関係」および「アフガニスタンとパキスタンの関係」を参照)
  アフガニスタンとパキスタンも、国境(デュアランド・ライン)を巡り歴史的に対立してきた。歴代のアフガニスタン政権はこのラインを国境として承認することを拒否してきた。このことは両国間に強い緊張をもたらし、さらには軍事衝突まで引き起こしたが、ここではパキスタンが勝利した。パキスタンは、アフガニスタンがバルーチスターンの分離主義反徒を匿い、遠く1950年代からパシュトゥン人とバルーチスターン人の分離主義的傾向に資金援助しようとしてきたと以前から非難している。1970年代、ズルフィカール・アリー・ブットーの下でパキスタンは報復としてアフガニスタンのイスラム主義派閥を支援し始めたと考えられている。これらの派閥は、ソビエト連邦や南アジアの同盟国インドと友好的であったアフガニスタン政権に対して反抗的であることが判明した。
  後にソビエト連邦は、アフガニスタンのイスラム主義者がさらに力を得て最終的に国権を奪取するのを防ごうと介入したが、これは後に大失敗に終わった。アメリカ合衆国とその同盟諸国は、ソ連が直接にアフガニスタンに関与することを恐れて、ソ連の力を削ごうとアフガニスタン国内のムジャヒディンに対するパキスタンの支援に手を貸し始めた。1978年からのアフガニスタン紛争では、すべての勢力が大きな損害を受けて手詰まり状態になり、ソ連にとって大きな損失となった。国際合意に従ってソ連は撤退した。しかしさまざまなアフガニスタンの派閥は、誰が権力を握るかについて一致できず、互いに、またソ連やイラン、パキスタンなどの外部支援勢力とも戦った。
  外部からの支援が続いたため、1989年からは内戦に発展した。そこではパキスタンがターリバーンを支援して、アフガニスタン国内の利権を確保し戦略的支援を提供しようとしたのに対し、インドはじめ他の周辺国は北部同盟を支援した。
  ターリバーンアフガニスタン紛争において多くの地域で北部同盟を破ると、ターリバーン政権はパキスタンほか2か国から支援を受け続けた――そこに9月11日の攻撃が起きた。インドは断固としてターリバーンに反対し、支援するパキスタンを批判した。インドは正式に国際連合と共に北部同盟の政権を承認し、北部同盟との関係を確固たるものにした。インドがパキスタンの隣国アフガニスタンとの関係を深め、同国内で存在感を増したことは、パキスタンを悩ませた。
  カーブルでの2008年インド大使館爆破は、アフガニスタンのカーブルにあるインド大使館へのテロとしての自殺爆弾攻撃で、現地時間2008年7月7日午前8時30分に起こった。アメリカの諜報関係者は、この攻撃はパキスタンの軍統合情報局が計画したものだと述べた。パキスタンはいかなる責任も否定しようとしたがジョージ・W・ブッシュ大統領はパキスタンのユースフ・ラザー・ギーラーニー首相に証拠を突きつけ、もう一度同じような攻撃があれば「重大な行動」を取らねばならないと警告した。
  パキスタンは、ジャンムとカシミールの暴動とアフガニスタンでのテロに関わっているとしてインドやアフガニスタン、アメリカ合衆国、イギリスから非難されている。2009年7月、アースィフ・アリー・ザルダーリー元パキスタン大統領は、パキスタン政府が短期的な外交目標を達成するために複数のテロ集団を「創設し養成していた」ことを認めた。2008年にブルッキングズ研究所中東政策センターが発表した分析によると、パキスタンはテロ集団を援助するなどテロ支援について世界で「最も活動的な」国であり、カシミールでインドと戦うさまざまなテロ集団を昔から援助してきたほか、アメリカを後ろ盾としたアフガニスタン政府と戦っているタリバンの主要な援助国でもある。
カシミールでの暴力事件(1989年-現在)(詳細は「ジャンム・カシミールでの暴力事件」を参照)
  アメリカの外交問題評議会が公表した複数の報告書によると、パキスタン軍と軍統合情報局(ISI)は、アルカーイダの一員であるジャイシュ=エ=ムハンマドをはじめカシミールで活動するテロ集団への密かな支援を行った。パキスタンは、カシミールでのテロ活動との関わりをいっさい否定し、インドの支配から逃れようとする分離派集団への政治的・精神的な支援をしているに過ぎないと主張している。カシミールの武装組織の多くは、カシミールのパキスタン支配地域に本拠を置いており、インド政府はこれを支援のさらなる証拠だとしている。
  ジャーナリストのスティーブン・スレイマン・シュウォーツは、複数の武装組織や犯罪組織が「パキスタン軍の高官、諜報機関ISI、その他同国の軍事組織から支援を受けている」と記している。
暴力事件の例
  ・ジャンム・カシミール州議会に対する暴動:2001年10月1日、ジャンム・カシミール州議会近くで自動車爆弾が爆発し、27人が死んだ。カシミール分離派によるものとされている。2001年12月のインド国会に対する攻撃に次いで有名なインドに対する攻撃の一つであった。テロリストの遺体とそこから回収されたデータは、この攻撃の責任がパキスタンにのみあることを示していた。
  ・カシムナガル攻撃:2003年7月13日、ラシュカレトイバの一部と考えられる武装団がシュリーナガルのカシムナガル市場に手榴弾を投げ、近くの市民に発砲した。27人が死亡し、さらに多数が負傷した。
  ・アブドゥル・ガニ・ロネ暗殺:有名な全党フリヤット会議の指導者がシュリーナガルの追悼デモのさなかに身元不明の男に暗殺された。この暗殺はロネ氏に対する十分な警護を行っていなかったとして駐留インド軍に対する広範な示威行動に発展した。
  ・2005年7月20日のシュリーナガル爆破事件:自動車爆弾が有名な教会通り付近のインド陸軍装甲車の近くで爆発し、インド陸軍軍人4人と市民1名、自爆者1名が死亡した。テロ組織ヒズブル・ムジャーヒディーンがこの攻撃に対して犯行声明を行った。
  ・ブドシャーチョーク襲撃事件シュリーナガルの中心部ブドシャーチョーク付近で2005年7月29日のテロ攻撃で2人が死亡し17人以上が負傷した。負傷者のほとんどは、メディアの記者であった。
  ・グラム・ナビ・ロネ殺害事件:2005年10月18日、容疑者が当時のジャンム・カシミール州教育相グラム・ナビ・ロネを殺害した。どこのテロ集団もこの襲撃事件に対する犯行声明を出さなかった。
  ・2016年ウリ襲撃事件:2016年9月18日、インドのジャンム・カシミール州のウリ近くで、重装備のテロリスト4人によるテロ攻撃が発生、18人が死亡し20人以上が負傷した。「カシミールにおいてこの20年間で最悪の死者数を出した治安部隊への襲撃事件」と報じられた。
  ・2019年プルワマ襲撃事件:2019年2月14日、ジャンム・シュリーナガル国道で治安部隊を運ぶ車列が、インド・ジャンム・カシミール州プルワマ区アワンティポラ近くのレトポラで車に乗った自爆者に襲撃された。この襲撃事件で中央予備警察部隊(CRPF)員38人と襲撃者1人が死亡した。襲撃の犯行声明は、パキスタンに拠点を置くイスラム主義武装組織ジャイシュエモハメッドが行った。2月26日、インド空軍が報復として48年ぶりに管理ラインを超えてパキスタン国内への空爆(バーラーコート空爆)を行った。
その他の暴力事件
  パキスタンのテロリストが行ったとされる事件のうち、断然衝撃が大きかったのはインド国会への襲撃であった。インドはパキスタンが多数の襲撃を行なったと非難し、パキスタンはこれを強く否定して、2001年から02年にかけて両国は核戦争の瀬戸際にまで進んだ。しかし国際的な平和への努力によって、核能力ある両国の緊張は緩和に向かった。
  このほかでもっとも有名なのは、インディアン航空814便がネパールのカトマンズからニューデリーに向かう途中でハイジャックされた事件である。同機は1999年12月24日、離陸から約1時間後にハイジャックされ、アムリトサル空港に、それからパキスタンのラホールに行かされた。燃料の補給後に航空機はドバイに向けて離陸し、最終的にアフガニスタンのカンダハールに着陸した。激しいメディアの圧力を受けながら、インド政府はハイジャック犯の要求を飲み、機中のインド人乗客の解放と引き換えにマスード・アズハルを釈放した。しかしこの決定はインド政府に多くの犠牲を払わせることになる。マスード・アズハルはカラチに潜伏していると考えられ、後にカシミールのインド治安部隊に何度もテロ活動を行った組織ジャイシュ=エ=ムハンマドの指導者になった。
  2000年12月22日、ラシュカレトイバに属するテロ集団がニューデリーの有名な赤い城(レッド・フォート)を強襲した。この城にはインド陸軍部隊が配備され、中央捜査局インド陸軍が共用する警備厳重な尋問室がある。テロリストは赤い城周辺の警備をうまく破って、勤務中のインド軍人に銃撃を開始し、その場で2人を殺害した。これはインドとパキスタンが停戦を宣言してわずか2日後の事件であった点が特に注目された。
  2002年、インドは再び、ジャンム・カシミールからのテロリストがインドに潜入してきていると主張し、パルヴェーズ・ムシャラフパキスタン大統領はこの種の潜入はすでに止んでいると否定した。インド外務省の報道官はこれを「ことばの使い方がおかしい」と切り捨てた。わずか2か月後、ジャイシュ=エ=ムハンマドに属するカシミールのテロリスト2人がグジャラート州アフマダーバードスワミ・ナラヤン寺総合ビルを襲撃し、女性18人と子供5人を含む30人を殺害した。この襲撃はジャンム・カシミールで州選挙が行われてからわずか数日後の2002年9月25日に発生した。2人のテロリストからは同じ文面の手紙が見つかり、この襲撃が2002年グジャラート州暴動で数千のムスリムが死亡したことに対する報復として行うものだと主張する内容であった。
  2003年8月25日には2個の自動車爆弾が南ムンバイで爆発した。1個はインド門近くで、もう1個は有名なザヴェリバザールで爆発し、少なくとも48人が死亡し150人が負傷した。どこのテロ集団も犯行声明を出さなかったが、ムンバイ警察RAWは2つの爆発についてラシュカレトイバの関与を疑った。
  2005年7月5日には、失敗に終わったが、ラシュカレトイバに属する6人のテロリストがアヨーディヤーバーブリー・マスジドを襲撃した。テロリストたちは主な係争中の場所に達する前にインド治安部隊に射殺された。ヒンドゥー教礼拝者1名と警官2名がこの事件で負傷した。
2001年インド議会襲撃事件(詳細は「2001年インド議会襲撃事件」を参照
  2001年インド議会襲撃事件は2001年12月13日に起きたニューデリーのインド国会議事堂への襲撃事件で、襲撃犯5人を含む14人が死亡した。実行犯はラシュカレトイバジャイシュ=エ=ムハンマドのテロリストであった。この襲撃でテロリスト5人、デリー警察職員6人、議会警備員2人、庭師1人の計14人が死亡し、これによってインドパキスタンの緊張は高まり、2001年-2002年の印パ対立を引き起こした。
2001年-2002年の印パ対立詳細は「2001年-2002年の印パ対立」を参照
  2001年-2002年の印パ対立はインドとパキスタンの軍事的なにらみあいで、双方が国境およびカシミール地区の管理ライン(LoC)の両側に軍を集結させた。この事件は1999年のカルギル戦争以来初めての大規模な軍事的対立であった。先に軍の集結を始めたのはインドで、2001年インド議会襲撃事件2001年ジャンム・カシミール立法府自動車爆弾事件への対応としてであった。インドは、これらの事件はパキスタンに本拠を置く2つのテロ集団(ラシュカレトイバジャイシュ=エ=ムハンマド)により行われ、彼らは共にパキスタンのISIの支援を受けていると主張したが、パキスタンは否定した。国際的な外交上の調停により緊張は収まり、2002年10月にインドとパキスタンの部隊はともに国境地域から撤退した。
2007年サムジャウタ急行爆破事件(詳細は「2007年サムジャウタ急行爆破事件」を参照)
  2007年サムジャウタ急行爆破事件サムジャウタ急行を狙った2月18日のテロ攻撃であった。サムジャウタ急行はインドのニューデリーとパキスタンのラホールを結ぶ国際列車で、印パ国境を越える2本の列車のひとつである。少なくとも68人が死亡し、ほとんどはパキスタン国民であったが、一部はインドの治安部隊員や民間人であった。
ムンバイ同時多発テロ(詳細は「ムンバイ同時多発テロ」を参照)
  パキスタンのテロリスト10人によるムンバイ同時多発テロでは173人を超える人が死亡し308人が負傷した。犯人側の唯一の生き残りで事件中に逮捕されたアジマル・カサブはパキスタン国籍であることが判明した。この事実はパキスタン当局が認めた。2010年5月、インドの裁判所は、4件の殺人、インドに対する戦争遂行、共謀テロの罪で有罪とし、死刑判決を言い渡した。
  インドは襲撃事件を計画し実行したとしてパキスタンに拠点を置く武装組織ラシュカレトイバを非難した。インドの当局者は、審理のため容疑者を引き渡すようパキスタンに要求した。当局者はまた、襲撃の高度な手法から見て実行犯は「パキスタンの公的機関の支援を受けているに違いない」とも言った。2009年7月、パキスタン当局は、ラシュカレトイバがカラチとタッターの拠点から襲撃事件を計画し資金提供したことを認めた。2009年11月、パキスタン当局は襲撃事件を計画し実行したとして先に逮捕していた7人を起訴した。
  2015年4月9日、襲撃の最大の指導者ザキウル・レーマン・ラフヴィは、パキスタンで20万パキスタン・ルピーの保釈金を積んで保釈を承認された。
  インドの情報局RAWは、パキスタンを中傷しパキスタンのバロチスタンの暴動のために暴徒を訓練・支援する秘密工作を行っていると言われている。
大量破壊兵器インドと大量破壊兵器」、「パキスタンと大量破壊兵器」、および「核兵器開発競争」も参照)
  インドには核兵器開発の長い歴史がある。インドの核(原子力)開発計画は、独立後間もなく計画を始めた1944年にまでさかのぼる。1940年代から1960年代に、インドの核開発は、軍事転用できるまでにゆっくりと進歩し、国中に核電力インフラを広げた。核兵器開発の決定は、中国の侵攻北インドの併合後にインド首脳陣により行われた。1967年、インドの核計画は核兵器開発を目指すこととなり、インディラ・ガンディーが注意深く監督にあたった。1971年、インドは軍事作戦に勝利するとパキスタンに対する軍事的・政治的主導権を得た。1972年に核実験の準備を開始すると、インドは1974年ついにポカラン実験地域で(コードネーム:微笑む仏陀)最初の核爆弾を爆発させた。1980年代から1990年代、インドは宇宙ロケットと核ミサイルの開発を開始し、これに応えてパキスタンもインドとの宇宙開発競争に参入した。パキスタン自身の計画は宇宙ロケットと核ミサイルを開発し、1990年代中頃に無人の宇宙船の飛行試験を始め、この努力は今日まで続いている。
  1971年の第三次印パ戦争で敗れたパキスタンは1972年に自身の核爆弾開発計画を開始し、1974年にインドがポカラン実験地域で初めての核爆弾実験に成功すると、その努力に拍車をかけた。この大規模な核爆弾開発計画は、核開発計画に対する直接の対応として出てきたものである。1983年、パキスタンは密かに一連の分裂なしの実験(コードネーム:キラナⅠ)を成功させるという画期的な成果を収めた。パキスタン政府はこれらの冷たい実験について公式の発表は行わなかった。次の数年の間、パキスタンは全国的に核電力計画の拡大・近代化を行ない、電力を供給するとともに国家経済への下支えとした。1988年、いずれの国も核施設を攻撃しないと約束する相互取り決めが両国間でなされた。同じく1988年には文化交流と民間航空機に関する合意も開始された。1998年、インドは2回目の核実験を行ない(「インドの核実験 (1998年)」の記事参照)、これに応える形でパキスタンも初の核実験を成功させた(チャガイⅠチャガイⅡ参照)。
対話などの信頼構築手段
  1971年の戦争後、パキスタンとインドは、関係正常化に向けて緩やかに前進した。1972年7月、インドのインディラ・ガンディー首相とパキスタンのズルフィカール・アリー・ブットー大統領は、シムラーのインド軍駐留地で会談した。2人はシムラー協定に署名し、それによってインドは(9万人を超える)パキスタン兵と西側の獲得した領土を返還し、「双方の交渉を通じて平和的な手法で紛争を解決する」ことになった。外交関係と通商関係も1976年に再開した。
1990年代
  1997年、高官級の対話が3年の中断を経て再開した。パキスタンとインドの両首相も二度会い、外務大臣どうしは3次にわたる会談を行った。1997年6月、両外務大臣は今後の会談のテーマとなるべき8つの「重要問題」を明らかにした。独立時からの問題である(インドがジャンム・カシミールと呼ぶ)カシミールの状態に関する紛争は、今も両国の対話における最大の障害物である。インドはかつての王侯国全体がインド連邦と一体になったとの立場を崩さず、他方パキスタンは州や県の住民による自決を求める国連決議を重視すべきだとしている。しかしパキスタンは同じ決議の前半が定めたすべての占領地域からの退去には従っていない。
  1997年9月には、カシミールの問題と、平和や安全保障の問題をどう扱うかの枠組み作りを巡って対話は決裂した。パキスタンは2つの問題を個別の審議会で扱うべきだと主張した。インドは2つの問題は他の6つの問題と共に同時並行で取り扱うべきだと応じた。
  1999年2月には、ラホールにおいて両国首相の会談と3つの合意文書への署名があり、対話再開への努力が一気に大きな力を得た。
  しかし同年10月には、民主的に選ばれたナワーズ・シャリーフ政権がパキスタンの軍事クーデターによって転覆し、両国関係はまた後退した。
2000年代
  2001年、アーグラで首脳会談が開かれ、パキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ大統領が同地を訪れてインドのアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相と会った。会談は失敗に終わった。
  2004年6月20日、インドで新政権が機能すると、両国は核実験禁止協定を延長し、核戦争に発展しかねない誤解を防ぐために両国の外務大臣間にホットラインを設置することに合意した。
  バグリハールダム問題は2005年にパキスタンから提起された新しい問題である。
  マンモハン・シン博士が2004年5月にインドの首相になると、パキスタンのパンジャブ州政府は敬意を表して誕生地ガーを模範的な村として開発し、ある学校に彼の名をつけると発表した。またインド国内には「パキスタン」という名前の村があり、長年のうち折に触れて名前を変えるよう圧力を受けながらも村の住民はこれに抗している。この地域の暴力的な活動は2004年に沈静化していった。大きな理由が二つある。両国政府間の緊張緩和によって2003年に停戦が成立したこと、そしてインド陸軍管理ラインにフェンスを設置したことである。さらに、国際社会から厳しい圧力を受けて、パキスタン政府は国内にある武装組織の訓練キャンプに対する対策を取らざるを得なくなった。2004年、両国はこの地域所在の部隊を減らすことでも合意した。
  圧力を受けてカシミールの武装組織もインド政府に対話と交渉を申し入れ、インドはこれを歓迎した。
  インド国境警備隊は、テロリストがパキスタンからインドに潜入する際にはパキスタン軍が必ず掩護射撃をしていると非難した。同様にパキスタンも、バルーチスターン解放軍などパキスタン国内で展開するテロ組織を支援しているとインドを非難した。
  2005年には、パキスタンの情報相シェイク・ラシッドがパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州で1990年にテロリスト訓練キャンプを運営していたとの訴えが出た。パキスタン政府は、これは両国の現在の平和に向けた動きを妨害しようとするものだとして、大臣に対する告発を却下した。
  インドもパキスタンもともに、両国間の緊張を緩和するいくつかの相互信頼構築措置(CBMs)を開始している。この中には高官どうしの対話の増加、査証発給制限の緩和、両国間のクリケット国際試合の再開といったものがあった。シュリーナガルムザファラバード間のバス路線開設も、両国を近付ける助けになった。パキスタンとインドはまた経済面で互いに協力することも決定した。
  関係改善のしるしは印パ国境近くの一連の輸送網再開に見られ、中でも特に重要なのはバス路線と鉄道路線である。
  2005年7月には、武装勢力の一グループがパキスタンからカシミールに潜入を図り、インド治安部隊と武装勢力との大きな衝突が起こった。同月にはカシミールの武装勢力がアヨーディヤーシュリーナガルを攻撃した。しかしこの新事態は平和に向けた動きに殆ど影響を与えなかった。
  2008年3月3日、スパイ容疑で1975年からパキスタンに収監されていたインド人1名が国境を歩いて越え、自由の身となった。この無条件釈放は両国の関係を改善するために行われたとパキスタンは言っている。
  2006年、「国境なき友人」計画が二人のイギリス人旅行者の助けを得て始まった。アイデアはインドの子供とパキスタンの子供がペンフレンドになって友好的な手紙を出し合うというものであった。この発想は両国で非常に成功し、主催した団体が「とても対応しきれない」と述べるほどになった。また最近、世界最大のラブレターがインドからパキスタンに送られた。
2010年代
  2010年12月、パキスタンの新聞数紙が、インド政府上層部とパキスタン国内武装勢力との関係についての記事を掲載し、それはアメリカ外交公電ウィキリークス流出事件で判明したと主張した。イギリスの新聞『ガーディアン』にはウィキリークスが流出させた公電があったので、調査した結果、パキスタンでの主張は「正確でなく」「ウィキリークスはプロパガンダ目的で悪用されていた」と結論した。
  2011年2月10日、インドは11月26日のムンバイ襲撃事件の後で一時中断したパキスタンとの対話を再開することに合意した。インドはあらゆる外交関係を中断し、パキスタンがムンバイ襲撃事件の被告人に対して行動しない限り継続はあり得ないとしていた。
  2012年4月13日には、インドがパキスタン国内で最恵国待遇を獲得したという関係改善を受けて、インドはパキスタンからインドに対する直接投資に関する制限を撤廃することを発表した。
  2012年7月11日、パキスタンの外務大臣はプノンペンで、パキスタンは過去に締結した合意に基づいてサー・クリーク、シアチャンなど一部の紛争を解決する意思があると述べた。2012年9月7日、インドの外務大臣は、パキスタン外務大臣とともに両国間の対話の進捗を検討するために3日間パキスタンを訪問すると発表した。
自然災害への対応
 2001年インド西部地震
  インド西部地震への対応としてパキスタンのパルヴェーズ・ムシャラフ大統領は、イスラマバードからアフマダーバードへの救援物資を積み込んだ飛行機1機を送った。同機は200張のテントと2000枚以上の毛布を運んだ。更に大統領はインド首相に電話で、地震での損害についての「同情」を表明した。
 2005年パキスタン地震
  インドは10月8日の2005年パキスタン地震への対応としてパキスタンにふんだんな援助を送った。インドとパキスタンの高等弁務官は、援助作業での協力について協議した。インドは食料や毛布、医薬品など25トンの援助物資をパキスタンに送った。インフォシスなどのインドの大企業は22万6000ドルの義援金を提供した。10月12日にはIl-76輸送機1機がトラック7台分(約82トン)の軍の医薬品、1万5000枚の毛布、50張のテントを空輸し、ニューデリーに戻った。ある空軍幹部は、もう一度同様の空輸ができるよう準備しておくようインド政府から要請を受けたとも述べた。10月14日、インドはワーガを通る鉄道でパキスタンに2度目の援助物資を発送した。内容は5000枚の毛布、370張のテント、5トンの樹脂製シート、12トンの医薬品などである。さらに3度目の医薬品や援助物資もすぐ後で鉄道で送られた。インド政府はパキスタンへの援助として2,500万ドルの供与も約束した。インドはパキスタン地震の救援作業のために印パ間の管理ラインにあるプンチ地区チャカンダバグの3か所の検問所のひとつを開放した。このような温かい態度は、インドとパキスタン両国の信頼、親善、協同の新しい時代の兆しとなった。
逃亡犯
  インドは、ダウード・イブラヒムなど、最重要の指名手配されたインド人逃亡犯がパキスタンにいると非難してきた。2011年5月11日、インドはパキスタンに隠れている「指名手配された最重要逃亡犯」50人のリストを公表した。これはアボタバードの屋敷ウサーマ・ビン・ラーディンが殺害された後のことで、パキスタンに戦術的な圧力をかけるためであった。
  このリストの誤り2件が報道されると、インド中央調査局は再調査を行なうとしてリストをウェブサイトから削除した。その後、パキスタン内務省はインドからパキスタン政府に送られたインドの最重要指名手配犯50人のリストを拒絶し、リストに挙がった人々が国内で生きているかどうかをまず確かめるべきだとした。
社会的な関係
 文化的なつながり
  インドとパキスタン、特に北インドと東パキスタンにはインド・アーリア系共通の歴史遺産としてある程度まで同種の文化や料理、言語があり、それは両国と亜大陸北部の大部分に広がって、両国の歴史的なつながりも支えてきた。パキスタンの歌手や音楽家、漫才師、芸人はインドでも広範な人気を博し、インドの映画産業ボリウッドで一夜にして名声を得る者も多い。同様にインドの音楽映画はパキスタンでも非常に人気がある。南アジアの最北端に位置するパキスタンの文化は、北インド、特に北西部の文化に通ずるところがある。
  パンジャーブ地方は1947年に両国が分裂独立した際にパキスタンのパンジャーブ州インドのパンジャーブに分かれた。パンジャーブ人は今日パキスタンで最大の民族であり北インドで重要な民族でもある。シク教の教祖は、今日のパキスタンのパンジャーブ州(ナンカーナサーヒブ市)で生まれた。毎年数百万のインド人シク教巡礼者がナンカーナサーヒブのシク教の聖地を訪れるために国境を越えている。シンド人はパキスタンのシンド州の先住民族である。ヒンドゥー教シンド人の多くは1947年にインドに移住し、同国にかなりの規模のシンド人社会をもたらした。加えて独立時にインドから新たに建国したパキスタンに移住した数百万のムスリムはムハジル人と呼ばれるようになり、主にカラチに住んで今もインドと家族的なつながりを維持している。
  パキスタンとインドの関係は、メディアや通信といった手段によっても続いている。「平和への希望」はザ・タイムズ・オブ・インディアジャングメディアグループの間の共同事業、運動として相互の平和と外交的・文化的関係の発展を求めている。
 地理上のつながり(詳細は「インド=パキスタン国境」を参照)
  インド・パキスタン国境はパキスタンのパンジャーブ州およびシンド州と、インドのパンジャーブ州、ラージャスターン州グジャラート州との境界を定める正式な国境である。ワーガの国境はインド・パキスタン国境と道路が交差する唯一の地点であり、パキスタンのラホールをインドのアムリトサルとつなぐ有名な大幹道上にある。毎日夕方になると、両国の国旗を降ろし、双方の衛兵がことさらに軍事的なポーズを示して握手を交わすワーガ・アタリの国境式典が行われている。
 言語上の結びつき
  ヒンドゥスターニー語は北インドとパキスタンのリングワ・フランカ(共通語)で、さらにそれぞれの国の標準語であるヒンディー語ウルドゥー語も同様である。標準語のウルドゥー語は、標準語のヒンディー語と相互理解が可能である。ヒンドゥスターニー語も広くスリランカ人ネパール人バングラディシュ人などの南アジア人の間のリングワ・フランカとして聞く・話すが行なわれ、またインド亜大陸のほとんどの地域が楽しむボリウッド映画の言語でもある。
  ヒンドゥスターニー語に加えて、インドとパキスタンでは、主に人の交流を通じてパンジャーブ語(インドのパンジャーブ州ではグルムキー文字が、パキスタンのパンジャーブ州ではシャームキー文字が使われる)、カシミール語シンド語が共通して分布している。これらの言語はインド亜大陸の国々で話される共通のインド語群に属している。
 結婚を通しての結びつき
  時にはインド人とパキスタン人が国際結婚をすることもある。また両国の文化には広範な類似点があるため、離散したインド人とパキスタン人の間では結婚が多く、特にアメリカ合衆国でそうである。。
  2010年4月、パキスタン注目のクリケット選手ショアイブ・マリクインドのテニススター、サニア・ミルザと結婚した。この結婚は多くのメディアの注目を集め、インドとパキスタン両国を呆然とさせたと言われた。
 スポーツでの結びつき(詳細は「政治とスポーツ」を参照、 「インド・パキスタンのクリケットのライバル関係」も参照)
  両国間のクリケットやフィールドホッケーの試合は(SAARC競技大会などでは他の競技の試合もある程度)、しばしば政治的な色合いを帯びてきた。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻のころ、ムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍はインドが第二戦線を作ってソ連を支援することを思い留まらせようと「クリケット外交」のためにインドに向かった。パルヴェーズ・ムシャラフも10年以上経って同じことをしようとしたが、効果はなかった。
  テニスではインドのローハン・ボパーナとパキスタンのアイサム=ウル=ハク・クレシが男子ダブルスのペアを組んで好成績を上げ、「印パ急行 (Indo-Pak Express)」とあだ名された。
離散者間の関係
  世界中さまざまな国にインド系移民と在外インド人、および在外パキスタン人が相当な規模でいるため、両者は離散者どうしとしてしっかりとした関係を築いている。イギリスに住む少数民族のうち人口で第1位と第2位にあたる在英インド人在英パキスタン人とは、互いに友好的な関係であると言われている。他の国でも南アジア系の居住地域に「リトルインディア」と「リトルパキスタン」とが共存していることは多い。在英インド人と在英パキスタン人とが同じ地域に平和的に協調して住んでいる都市としてバーミンガムブラックバーンマンチェスターなどがある。イギリスに住むインド人とパキスタン人は共に在英アジア人に分類されている。イギリスはパキスタンとインドの友好交流の中心地でもある。アメリカ合衆国ではインド人とパキスタン人は、南アジア系アメリカ人に分類され、多くの文化的特徴を共有している。アメリカ合衆国ではインド人とパキスタン人の通婚は珍しくない。
  イギリスの欧州議会議員サッジド・カリムはパキスタンの出身で、欧州議会インド友好議員連盟の会員である。カリムはヨーロッパをインドとの自由貿易に開放するのにも与った。彼は2008年のホテルタージでのムンバイ襲撃事件を辛うじて逃れた。残虐行為があったにもかかわらず、カリムは生き残った犯人アジマル・カサブに死刑判決を言い渡すことを望んでいない。「公平かつ透明な審理が行われたと考え有罪判決を支持する。しかし死刑制度には賛成しない。終身刑を下すべきだと思うが、それは文字通りの(つまり保釈なしの)終身刑だ」と言った







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