イラン問題-1



2022.12.25-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221225-W754BTVAPBOH5CWVUF4BB6LNPQ/
イランのデモ3カ月超 収束の気配みえず 著名人からも政府批判続々

  【カイロ=佐藤貴生】イランで女性が頭髪を覆うスカーフ「ヘジャブ」を適切に着用していなかったとして拘束され、不審死を遂げたことに抗議する反政府デモが9月に起きて3カ月以上が過ぎたこれほど大規模で長期に及ぶデモは近年では例がなく、著名人の政府批判も後を絶たない政府によるデモの鎮圧は困難だという見方も出ている。

  ロイター通信によるとイランでは12月17日、「偽ニュースを拡散した」として著名な女性俳優、タラネ・アリドゥスティさんが逮捕された。2017年の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「セールスマン」に主演した俳優で、ヘジャブを脱いでデモの合言葉になった「女性、命、自由」と書かれた紙を持った自分の姿などを交流サイト(SNS)に投稿した。
  ほかにもスポーツ選手や映画監督などの著名人が政府の対応を批判最高指導者ハメネイ師の親類や元大統領など、政府中枢に近い人々も加わっている
  政府は12日、2人目となるデモ参加者の処刑を公開で行った。デモ隊への警告とみられるが、反政府の機運は衰えていない。17日には首都テヘランの地下鉄駅で「政治犯を釈放しろ」と叫ぶ群衆の動画がSNSに投稿された。19日には南部シスタン・バルチスタン州で最高指導者直属の革命防衛隊のメンバーら4人が襲撃されて死亡した。
  イランの人権弾圧を監視する非政府組織「HRANA」は、18日までにデモ参加者の502人と治安部隊メンバーの62人が死亡したとしている。
  このほか、石油関連の労働者や消防士らの賃上げ要求デモが起きるなど、社会各層で反政府運動のうねりが続いている。米カーネギー国際平和財団のカリーム・サジャドプール上級フェローは12日付の米紙ニューヨーク・タイムズ電子版への寄稿で、1978~79年のイラン革命前の状況に似てきたと指摘し、現体制の崩壊は「もはや起きるかどうかではなく、いつ起きるかだ」との見方を示した。

  デモは西部クルディスタン州出身のマフサ・アミニさん(22)が9月中旬、街頭で服装を監視するテヘランの「風紀警察」に拘束され、急死したのを機に全土に広がった。
「統治の正当性失った」現体制
  国際関係に詳しいエジプトの評論家、ハニ・ソリマン氏(40)は産経新聞の電話取材に応じ、イスラム教シーア派の法学者が統治するイランの体制はデモ鎮圧のため、「殺人や逮捕、拷問や脅迫などあらゆる手段を使ったが成功していない。鎮圧が困難なのは明らかだ」と指摘した。
  ソリマン氏はイランの現状について、「問題はもはやヘジャブや女性の死亡ではない。体制が統治の正当性や(民衆への)影響力を失ったことだ」と述べ、仮に事態が収束したとしても一時的なもので、統治はさらに難しくなるとの見方を示した。
  ソリマン氏は、イラン革命で1979年に崩壊したパーレビ王朝では、「当時の秘密警察組織サバクは、現在の革命防衛隊ほど民衆への影響力を持っていなかった」とする半面、「(イスラム教の教えに至上の価値を置く)革命の意義は地に落ちており、これが体制の行方を占う重要な要素になる」と予測した。
  そのうえで今後は、デモがいつまで続くか各地のデモ隊が組織化されるか海外の国々が体制崩壊を求め、イランの反体制勢力と連携するか
  -が焦点になると分析した。


2022.12.18-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20221218-Z2ZB3TTZUZI7VE7TZOMZVRO72Y/
イラン、著名女優を逮捕 デモ参加者の処刑巡り投稿

  イラン当局は18日までに、反スカーフデモを巡り「偽情報を広めて反体制運動を支援した」として、イランの著名女性俳優タラネ・アリドゥスティさんを逮捕した。中東メディアなどが伝えた。アリドゥスティさんは2017年の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「セールスマン」で主演した。

  アリドゥスティさんは、デモに参加して処刑された男性を巡り「流血を傍観し、何も行動しない国際組織は人類の恥だ」などと交流サイト(SNS)に投稿していた。
  イラン当局は、アリドゥスティさんが自身の主張に沿う書類を提出しなかったため逮捕したとしているという。
  イランでは9月、イスラム教徒女性の髪を隠すスカーフの着け方が不適切だとしてマフサ・アミニさん=当時(22)=が風紀警察に拘束された後に急死。事件に対する抗議デモが続いて治安当局が徹底的に弾圧し、デモを巡って2人に死刑を執行した。(共同)


2022.11.28-REUTERS-https://www.reuters.com/article/iran-women-formin-idJPKBN2SI0Z5
イラン、抗議デモに関する国連調査を拒否

  [ドバイ 28日 ロイター] - イラン外務省は28日、抗議デモへの弾圧などに関し国連が新たに設置を発表した調査団の調査を拒否すると表明した。

  イランでは、イスラム教徒の女性の髪を隠すスカーフの着用法が不適切だとして拘束されたクルド人女性が死亡したことに対する抗議デモが続く。国連人権理事会は24日開いたイランの人権状況について特別会合で調査団を設置する動議を可決した。
  イラン外務省報道官は、「イランは、国連人権理事会が設置した政治委員会に協力するつもりはない」と述べた。
  イランの人権活動家通信(HRANA)によると、2カ月あまり続くデモおよびその取り締まりに死者は11月26日の時点で450人。うち63人が未成年者。1万8173人のデモ参加者が拘束された。治安部隊側でも60人が死亡したとしている。


2022.11.06-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20221106-TGUWWP2BJNO33FLDIAKVJ64MNQ/
イラン、ロシアへの無人機供与認める ウクライナ侵攻前

  イランのアブドラヒアン外相は5日、ロシアがウクライナに侵攻する数カ月前に無人機(ドローン)をロシアに供与したと記者団に明らかにした。国営テレビが伝えた。イランはこれまで、ウクライナで使用される武器を送っていないと重ねて主張していた。

  一方、一部米メディアが報じた弾道ミサイルの供与については「ロシアに対していかなるミサイルも送っていない。完全に間違っている」と改めて否定した。
  ロシアは、無人機によるウクライナのインフラ攻撃を激化させており、米欧はイラン製が使用されているとして、同国を強く非難。対イラン制裁で圧力を強めている。戦場ではロシア語が記された残骸が確認されており、米国は、ロシアがイラン製の機体を塗り直して使っているとみている。
  アブドラヒアン氏は供与した無人機は少数だと説明。「ロシアがウクライナに対してイラン製無人機を使用したことが証明されれば、われわれは無関心ではいられない」と強調した。(共同)


2022.10.21-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221021-6W62XKAP7BOG7KNTY4HAK6E2QA/
イラン、クリミアに要員派遣 無人機運用でロシア支援

  【ワシントン=大内清】ロシアがウクライナをイランの自爆型ドローン(無人機)で攻撃していることをめぐり、米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は20日、イランがドローンの運用を支援するために要員をロシア支配下のウクライナ南部クリミア半島に送り込んでいると明らかにした。バイデン米政権は、ロシアの戦争遂行に協力するイランに対し今後、新たな制裁措置を発表するとしている。

  カービー氏はまた、イランがロシアの戦争遂行に協力している現状では、バイデン政権が模索してきたイラン核合意の再建に向けた同国との外交協議は当面、「関心事ではない」と語った。核合意の再建協議を巡っては今夏以降、欧州などの合意当事国間で新たな合意案が回覧されたと伝えられるなど妥結が近いとの見方が強まったが、ここにきて再び機運が遠のいた。
  バイデン政権は、イランで警察に拘束された女性の不審死を機に広がった抗議活動に対する当局の弾圧を非難しており、そのことからも協議進展を急ぐべきではないと判断した
  一方、イランがクリミアに派遣している要員についてカービー氏は「比較的少人数」だと指摘イランが供与したドローンが「(露側の)期待通りに作動していないことから、イランは訓練官や技術支援要員を送ることを決めた」とも分析した。実際のドローンの運用は露側が行っているとみられるという。

  バイデン政権には、こうした分析を公表することで米国がイランの動きや技術水準を把握していることを示し、同国に対露協力から手を引くよう警告する狙いがあるとみられる。


2022.10.17-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221017-HPXQISUWZVIPBPCB4BY3LRTKDU/
イランデモ拡大、体制揺らす 死者200人超

  【カイロ=佐藤貴生】イランでマフサ・アミニさん(22)が頭髪を覆うスカーフ「ヘジャブ」を適切に着用していないとして警察に拘束され、不審死を遂げたことに抗議するデモが始まって17日で1カ月。デモは社会各層へと拡大し、収束する兆しはない。イスラム教シーア派の政教一致体制の正当性は傷つき、崩壊に向けて歩み始めたとの見方も出ている。

  ロイター通信によるとデモは16日も各地で行われ、交流サイト(SNS)に投稿された動画では、首都のテヘラン大学の学生らが「イランは巨大な刑務所になった」と政府を非難した。15日には政治犯も収容するテヘラン北部の刑務所で8人が死亡、60人以上が負傷する火災が起き、社会の混乱が深まっている
  政府がインターネット接続を規制するなか、デモはヘジャブを燃やすなどして女性が主導してきた。女子高では生徒たちが初代最高指導者ホメイニ師らの写真を踏みつけ、来校した軍関係者に「出ていけ」と叫ぶなど臆する様子はない。治安部隊との衝突で死者は200人を超えたとされる。
  アミニさんは9月13日、ヘジャブで頭髪をきちんと覆っていないとして首都テヘランで服装を取り締まる「風紀警察」に拘束され、同16日に死亡した。警察は心臓発作が原因だとしたが、父親らが警察に暴行された疑いがあると主張し、翌17日にデモが始まった。
  イラン政府はイスラム教の教えに基づいて女性にヘジャブ着用を義務付けている。アミニさんの不審死が引き金となり、国民の自由を抑圧する政府への反発が噴き出した。デモはアバダンなどペルシャ湾岸の石油施設でも起き、ラフサンジャニ元大統領の娘や有名俳優も批判に加わっている。

  アミニさんは人口の1割を占める少数民族クルド人で、出身地の西部クルディスタン州のデモは最大規模に膨れ上がった。ロイターによると、政府は忠誠を誓う民兵組織「バシジ」のメンバーを同州に投入、一般人や民家に実弾を発射している。
  イランのように女性の服装を厳格に規定する国はイスラム圏でも少ない。そのうちの一つで原理主義勢力タリバンが実効支配するアフガニスタンの首都カブールでは9月末、約30人の女性が、イラン国内のデモ隊と同じ「女性、命、自由」とのスローガンを叫んで、共闘をアピールした。タリバンは女性に上半身を覆い隠す衣装「ブルカ」の着用を強制し、女性への教育を制限している。
  イラン最高指導者ハメネイ師は今月14日、1979年に成立したイスラム革命体制を「巨大な樹木」にたとえ、「倒しうると考えるべきではない」と述べて自信を示した。ただ、頻繁に起きる大規模デモが「(政府の)正当性を一枚ずつ引きはがしてきた」(米紙ニューヨーク・タイムズ)ことも事実だ。
  国際関係に詳しいカイロの評論家ハニ・ソリマン氏(39)は産経新聞の取材に「イラン政府は(最高指導者直属の)革命防衛隊やバシジを擁し、デモに対抗する余力がある。デモ隊には指導者がおらず、体制が短期間に崩壊することはない」としながらも、女子高生も加わるなど抗議は過去にない広がりをみせているとし、「体制崩壊の問題が現実味を帯びてきた」と述べた。


2022.10.05-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/6569fd2bff0e60baebc8cc61a7290c4b6e68b662
対イラン制裁相次ぐ 米に続きカナダ 欧州も検討

  【カイロ=佐藤貴生】イランで続く大規模な反政府デモを受け、カナダは5日までに「女性を組織的に迫害している」などとして、イランの「風紀警察」など34の個人・団体を制裁対象に指定した。カナダ国内の資産を凍結し、カナダ人との取引を禁止する。

  イラン政府はデモ隊に実弾を発射して鎮圧しているとみられ、欧米で非難が高まっている。
  米政府が9月下旬、風紀警察などを制裁対象に指定したほか、フランスのコロナ外相は4日、欧州連合(EU)も近く対イラン制裁を行うとの見通しを示した。
  イランの大規模な反政府デモは発生から3週間目に入った。

長期化の背景をQ&A形式で解説する。
Q デモが起きた理由は
  A 西部クルディスタン州出身のマフサ・アミニさん(22)が9月13日、「ヘジャブ」と呼ばれるスカーフで頭部をきちんと覆っていないとして、首都テヘランで「風紀警察」に拘束され16日に死亡した。
  警察は心臓発作が原因だとしたが、父親らが暴行の可能性を指摘し、17日からデモが始まった。
  イランはイスラム教を国教とし、聖典コーランに基づき女性に全身が隠れる服装を義務付けている。ヘジャブもその一環だ。風紀警察は街頭で女性の服装を監視し、連行して指導するケースもある。 イランメディアは先週、死者は41人だとしたが、人権団体は130人超とするなど差が広がっている。
Q なぜ長期化したのか
  A 警察によるアミニさんへの暴行疑惑が起爆剤となり、長年の抑圧で鬱積した政府への怒りが噴出したからだ。交流サイト(SNS)の動画では、女性だけでなく多くの若い男性もデモに参加している。
  イランでは政府に忠実な民兵組織「バシジ」などが反体制派の動向に目を光らせ、言論や集会の自由を妨げてきた。米国の制裁で経済低迷が長期化し、汚職の拡大も批判のやり玉にあがっている。 ライシ大統領はアミニさんの死亡直後、遺族に電話をかけて「愛するわが子を失ったようだ」と弔意を表した。若者たちの怒りを鎮める狙いもにじむが、デモ隊の非難の矛先は最高指導者ハメネイ師や革命体制そのものへと向かっている
Q 今後はどうなる
  A ライシ師はアミニさんの死因究明を約束したが、政府に対する不信感は強まっており、仮に死因が発表されてもデモ隊が引き下がるとは考えにくい。
  政府が事態の収束を目指すのならヘジャブの着用を自由化するのが一番の早道だが、これもまずあり得ない。譲歩すれば言論の自由などさらなる要求が次々と突きつけられ、政教一致のシーア派体制が危機に陥りかねないからだ。

  イランでは2019年にもガソリン値上げに端を発する大規模デモが起き、政府は狙撃手を投入してデモ参加者を射殺するなどして鎮圧した。
  1979年のイスラム革命以降では最大規模で、1500人が死亡したとの見方もある。 現時点では各地のデモ隊への実弾発射は散発的で、国内外の反発を避けるために若者たちが疲れるのを待つ戦術ではないか-との見方も出ている。


2022.10.02-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221002-7PKMCXIQ7ZIELBECCKGDGRTW3Y/
イラン、デモ収まらず 死者50人超か

  【カイロ=佐藤貴生】イラン女性が髪を覆うスカーフを適切に着用していないとして警察に拘束され、不審死したことに抗議するデモが起きてから2週間が過ぎた。全土に拡大したデモの勢いは衰えず、治安部隊が実弾を発射して鎮圧しているとの情報もある。イラン情報省はデモに関連して欧州の国籍保有者9人を拘束したと発表、欧米との対立が深まりそうだ。

  ロイター通信によると、イランでは1日も抗議デモやストライキが各地で行われた。多くの大学で学生がデモを行い、首都のテヘラン大学では数十人が拘束されたもようだ。交流サイト(SNS)には「(イランの最高指導者)ハメネイに死を」と叫んだり、主要道路を封鎖したりするデモ隊の様子が投稿されている。
 
  国営テレビは9月30日、南東部ザヘダンの警察署に何者かが発砲して治安部隊が応戦し、19人が死亡したと伝えた。
  イランのメディアはデモ発生以来の死者を41人としているが、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは30日、少なくとも52人が死亡して数百人が負傷したと発表した
  「デモ隊の大半は治安部隊が発射した実弾で死亡した」とし、実際の死者数ははるかに多いとの見方を示した。
  一方、イラン情報省は30日、「暴動に参加したか背後で陰謀を企てた」とし、仏独伊やポーランド、オランダなど欧州諸国の国籍を持つ9人を拘束した。また、米国が体制の不安定化を狙ってデモを扇動していると批判しており、欧米の反発も予想される。
  不審死を遂げたのは西部クルディスタン州出身のマフサ・アミニさん(22)。首都テヘラン滞在中の13日、スカーフをきちんとかぶっていないとして風紀を取り締まる警察に拘束され、16日に死亡した。
  アミニさんの父親が「娘に健康上の問題はなく、死の責任は警察にある」と主張して暴行疑惑が浮上し、17日に抗議デモが始まった。イスラム教が国教のイランでは、聖典コーランに基づき女性は頭部をすべてスカーフで覆うよう義務付けられている


2022.09.21-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220921-RBRKZSBRUJK2PC5NKZ2X4Z6VPU/
イランで抗議デモ拡大 スカーフ着用めぐり拘束された女性死亡

  【カイロ=佐藤貴生】イランの首都テヘランで先週、国教のイスラム教に準じた服装をしていないとして警察に拘束された女性が死亡し、国内各地に抗議デモが拡大している。昨年就任したライシ大統領は保守派の聖職者で、女性の服装の取り締まりが強化されるとの見方が出ていた。

  死亡したのは西部クルディスタン州出身のマフサ・アミニさん(22)。ロイター通信によると、テヘランに滞在していた先週、頭髪を覆うスカーフ「ヘジャブ」の着用の仕方が不適切だとして、風紀を取り締まる警察に拘束された後に死亡した。
  警察は心臓発作が原因だとしたが、父親はアミニさんに健康上の問題はなく、拘束中に足を負傷して苦しんでいたと述べ、警察に責任があると主張した。
  これを受け、アミニさんの出身地クルディスタン州のほか中部イスファハンなどに抗議デモが拡大。治安部隊が鎮圧に乗り出して少なくとも3人が死亡した。イランの人権団体は13の都市でデモが行われ、250人が拘束されたとしている。テヘランでは最高指導者ハメネイ師を非難して行進する一団もいたという。

  イスラム教シーア派の法学者が統治するイランでは、女性はヘジャブで頭髪を覆い隠すよう義務付けられている自由を求める女性の間では反発が強く、数年前には抗議のためにヘジャブを脱いだ動画をSNS(交流サイト)に投稿する運動が広がり、数十人が拘束された。


2022.09.13-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220913-J5X62JWH4ZKLLKD6VWVDC2YIMU/
イラン女性がサッカー観戦 国内リーグ、79年革命後初

  1979年の革命以降は女性が男子サッカーを観戦することが事実上、禁じられてきたイランで8月下旬、女性のサッカー観戦が認められた国際サッカー連盟(FIFA)の働きかけによるもので、英BBC放送は地元報道を引用しながら「女性が国内リーグの試合に公式に入場を認められたのは革命後初」と意義を伝えた。

  厳しいイスラム体制下のイランでは、公共の場で男女が同席することは好ましくないとの考えがある。
  テヘランのアザディ競技場で行われた8月25日の試合は約500人の女性たちが見届け、同31日の試合でも同様に入場が認められた。ロイター通信の取材に応じた女性ファンは「女性がスタジアムに入ることを許されるのは、素晴らしいこと。私たちと男性の違いは何?」と訴えた。(共同)


2022.07.13-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220713-MFOBBGPESRMVTPEWSQTUNPFBQY/
露大統領、イラン訪問へ トルコ大統領と3首脳会談

  ロシアのペスコフ大統領報道官は12日、プーチン大統領が今月19日にイランの首都テヘランを訪問し、ライシ大統領やトルコのエルドアン大統領と会談すると明らかにした。インタファクス通信などが伝えた。3首脳会合のほか、2国間会談も行われる予定という。

  トルコは交戦を続けるロシアとウクライナの停戦仲介や、ロシアによる黒海封鎖で停滞しているウクライナの穀物輸出再開に向けた外交努力を続けており、プーチン、エルドアン両氏の会談ではウクライナ問題が主要議題になるとみられる。3首脳の会談ではシリア問題も協議される見込み。 トルコは3月末にイスタンブールで開かれたロシアとウクライナの停戦交渉を仲介。エルドアン氏はプーチン氏との5月の電話会談で、ロシアとウクライナに国連を加えた会談開催を提唱した。両氏は今月11日にも電話会談し、ウクライナ問題のほかシリア問題などを協議した。(共同)


2022.06.11-niftyニュース(時事通信社)-https://news.nifty.com/article/world/worldall/12145-1681876/
イラン、カメラ27台撤去へ=核合意再建に「致命的」―IAEA

  【ベルリン時事】国際原子力機関(IAEA)のグロッシ事務局長は9日にウィーンで記者会見し、IAEAがイランの核施設に設置した監視カメラのうち27台を撤去するとイランが通告してきたと明らかにした。米欧主導で、IAEA理事会がイランを非難する決議を採択したことに同国が対抗措置を取った。

  これらのカメラは、イラン核合意が定めるウラン濃縮活動の制限が順守されているか確認するため、中部ナタンズの核施設などに設置された。核拡散防止条約(NPT)の下での査察などを定めた「包括的保障措置協定」に基づき設置されたカメラ約40台は、引き続き稼働するという。
  イランは主要国と核合意の再建交渉を行ってきたが、グロッシ氏は、3~4週間で解決策が見つからなければ、核合意への「致命的な打撃」になると語った。グロッシ氏は6日、イランにある濃縮ウランが、核兵器への使用も排除できない水準を示す「有意量」に達するまであと数週間だとの認識を示していた。 
【時事通信社:JIJI  PRESS】



2021.11.29-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/e3cfb057ce4ff017fae165b11e8d264edc7842f9
イラン核協議再開 開発阻止に歯止めなく 米「別の選択肢」も

  【カイロ=佐藤貴生、ワシントン=大内清】イラン核合意の修復をめぐる同国と米国の間接協議を含む合意当事国の協議が29日、ウィーンで再開した。
  イランは核爆弾に必要な核物質を1カ月前後で製造できるともされ、当事国は危機感を強めている。バイデン米政権は対話による解決が不調に終われば「別の選択肢」を検討するとしており、行方は予断を許さない。
  イラン外務省報道官は29日、同国の首都テヘランで記者会見し、交渉団は「真剣な決意と意思」を持ってウィーン入りしたとし、米国がイランに科した制裁の解除を改めて要求した。

   核協議の開催は約5カ月ぶりで、イランで反米保守強硬派のライシ政権が発足してから初めて。2018年に核合意を離脱してイランへの制裁を再開した米国は、英仏独中露とイランの当事国協議に同席せず、欧州連合(EU)の仲介でイランと間接的に協議する。
  イラン側は米国の全制裁の一斉解除が協議再開の目的と強調し、米国に「二度と核合意から離脱しない」との確約を要求している。合意内容を条約とする方法が考えられるが、米国としては議会で与野党が拮抗し、条約批准に必要な票数を確保する見通しが立たない現状では受け入れがたい。
  イラン側の強気の背景には核開発の進展がある。 イランは米国の制裁再開に反発し、合意を逸脱する核関連活動を拡大。今年4月に、核兵器転用可能な濃縮度90%に大きく近づく同60%のウラン製造を始め、加速させている。核爆弾1個分の高濃縮ウラン製造にかかる「ブレークアウト・タイム」は1カ月前後に縮まったとの見方もある。
  イランは国際原子力機関(IAEA)に対し、首都テヘラン西方のカラジの施設への監視も拒否。カラジでは高性能遠心分離機の部品を製造しており、IAEAのグロッシ事務局長は24日、継続的な状況把握が「保証できない段階に近づいている」と危機感を示した。
  イランの核開発に歯止めが利かなくなる中、米政権はウラン濃縮凍結と引き換えに、制裁を限定的に緩和する暫定措置を検討しているとの報道もある。協議の時間を引き延ばす狙いだ。しかし、イランは中国への原油売却を増やして制裁の無力化を進めており、妥協案に応じる見通しは低い。 このためバイデン政権に対しては、中国など第三国によるイラン産原油の購入阻止のために制裁圧力を強化したり、イランの核保有を警戒するイスラエルによる妨害工作を支援したりするなど、強硬な措置を検討すべきだとの声も強い。
  イスラエルのベネット首相は29日、協議開始に先立って声明を出し、「イランには交渉したり、制裁を緩和したりする価値がない」と強い懸念を示した。
  イスラエルは近年、イランの核開発妨害のため、同国内の核施設の破壊工作などに関与してきたとされる。イスラエル軍幹部は11月、イランへの軍事作戦を急ピッチで策定していると述べた。イランに融和姿勢をみせないよう米国にクギを刺す狙いもうかがえる。


2021.09.22-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/0d917422c0bbe5cb4f686ab73819a3a56e62be29
イラン大統領「制裁解除に役立つ対話を検討」 国連演説

  【ニューヨーク=平田雄介】イランのライシ大統領は21日、就任後初となる国連総会での一般討論演説を事前収録したビデオで行った。イラン核合意の修復に向け、米国などによる「全ての制裁が最終的に解除されるために役立つ対話を検討している」と述べた。

  イデン米政権は全面解除には応じない方針で、両者の隔たりが鮮明になった。 イランのロウハニ前政権は制裁解除を求め米国と間接協議を行っていたが、6月の大統領選で反米強硬派のライシ師が勝利してから停止していた。ロイター通信は同日、イラン当局の話として核合意の当事国による修復に向けたウィーンでの交渉が「数週間以内に再開される」と伝えた。
   ライシ師は国連での演説で、トランプ米前政権が核合意を離脱してイランにかけた「最大限の圧力政策は今も続いている」と非難。「米政府の約束は信用しない」と述べ、制裁解除に向けて言葉だけでなく、具体的な行動を取るよう要求した。また、新型コロナウイルス禍の中で行われる制裁は「人道に対する罪だ」とも述べた


2021.08.04-SankeiBiz-https://www.sankeibiz.jp/macro/news/210804/mcb2108040558003-n1.htm
イラン 反米ライシ師が大統領就任

  【カイロ=佐藤貴生】6月のイラン大統領選で当選した反米の保守強硬派、イブラヒム・ライシ前司法府代表(60)は3日、最高指導者ハメネイ師の認証を受け大統領に就任した。ライシ師は認証式での演説で「非道な経済制裁の解除に向けて行動する」と述べ、米国への対抗姿勢を強調した。国際協調を掲げた穏健派のロウハニ政権に代わり核問題などで強硬姿勢に転じる見通しで、米欧との関係が冷え込みそうだ。

  イランのメディアによると、ライシ師の後ろ盾で反米保守に軸足を置くハメネイ師は認証式の演説で「政権交代は希望を作り出す」と述べ、ライシ師の大統領就任を評価した。同師は5日に国会で就任宣誓し、今月中旬にも新内閣が発足する見通し。反米保守政権の発足は8年ぶりで、ライシ師は1979年のイラン革命以来、8人目の大統領となる。

  ロウハニ政権は2015年、制裁解除の見返りに核開発を自制する核合意を欧米など6カ国と結んだが、トランプ前米政権が18年に合意を離脱して経済制裁を再開。イランも合意に逸脱する行為を重ね、核合意は崩壊寸前の事態にある。ロウハニ政権は4月以降、合意立て直しのため、バイデン米政権と間接協議を行ってきたが、膠着(こうちゃく)状態が続き、次回日程も未定だ。

  ライシ師は米国との間接協議を引き継ぐ方針だ。ただ、大統領選直後には「イランの国益を保証する」ことが目的だとし、米国が科したすべての制裁の解除を要求バイデン政権が目指すミサイル開発などに制限を拡大する交渉には応じないと強調するなど、米国との隔たりは大きい。

  イランは今年、核兵器級に一気に近づく濃縮度60%のウランを製造するなど、核開発技術は合意締結時から格段の進歩を遂げた。保守強硬派のライシ政権は協議を有利に進めるため、一段の核開発を進めて国際社会の不安をあおり、米国に対する圧力を強化する可能性もある。
  半面、米国の制裁が長期化すれば、低迷中の経済のさらなる悪化につながり、国民の不満の矛先が体制に向かう懸念は拭えない。イラン南西部では7月中旬、水不足に抗議するデモが起きたばかりで、治安当局が実弾を発砲して鎮圧したとも伝えられる。

  ライシ師は3日の演説で、外圧に左右されない経済発展を目指すと述べたが、その実現に向けた有効な手立ては見当たらないのが実情だ。
  イランと敵対するイスラエルとの緊張も高まりそうだ。7月29日にはオマーン沖でイスラエル系企業のタンカーが攻撃を受けて英国人ら2人が死亡する事件があり、イスラエルや米英はイランが関与したとして非難を強めている。

  ライシ師は大統領選で約62%を得票して圧勝したが政治経験やカリスマ性に乏しく、投票率は革命後の大統領選としては初めて50%を割り込んだ。支持基盤は盤石とはいえず、国内外に難題を抱えながらの船出となる。


イラン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  イラン・イスラム共和国(通称イラン)は、アジア中東に位置するイスラム共和制国家。北西にアルメニアアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンパキスタン、南にペルシア湾オマーン湾、西にトルコイラククルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェートサウジアラビアバーレーンカタールアラブ首長国連邦に、オマーン湾を挟んでオマーンに面する。首都テヘランペルシアペルシャともいう。公用語はペルシャ語
概要
成立
  前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し、サーサーン朝時代にはゾロアスター教が国教だったが、642年にアラブ人に滅ぼされ、イスラム教が広まった。16世紀初めに成立したサファビー朝シーア派十二イマーム派国教とし、イラン人の国民意識を形成した。18世紀カージャール朝を経て、1925年からパフラヴィー朝になったが、1979年ルーホッラー・ホメイニー師によるイラン革命により王政は廃され、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制が樹立された。
政治体制
  1979年に制定されたイラン・イスラーム共和国憲法によって規定されており、国の元首である最高指導者の地位は、宗教法学者に賦与され、自由は「イスラムの原則に反しない限り」でしか認められない。憲法では三権分立が規定され、立法権は一院制の国民議会、行政権は大統領にあるが、実質的には最高指導者が三権を掌握しており、大統領の地位はこれに劣る。イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要求される。ヒューマン・ライツ・ウォッチは政府が抗議者に対して恣意的な逮捕を行い、治安当局や諜報当局による深刻な虐待が行われていることを報告している。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界151位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも173位と後順位で最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。
外交
  パフラヴィー朝時代にはアメリカ合衆国の強い影響下にあったが、革命によりアメリカとの関係が悪化、特にアメリカ大使館人質事件以降、公然たる敵対関係に入った。アメリカからはテロ支援国家に指定されている。 他方でイラン革命指導者は反共主義者が多いため、ソビエト連邦とも友好的ではなく、革命後の外交は排外主義的な非同盟中立路線を基本とする。近年は核兵器開発を行っている疑惑から経済制裁を受けている。2015年オバマ政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたが、トランプ政権が破棄し制裁が再開されたため、段階的に核合意履行停止を進めている。
経済
  パフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、高度経済成長を成し遂げた。イラン革命の混乱とイラン・イラク戦争で経済は停滞したが、その後立て直しが図られた。世界有数の石油の産出地であり、それが国の主要財源である。しかし近年は長引くアメリカの制裁と新型コロナウイルスのパンデミックにより経済状態が深刻化している
軍事
  イランは王政時代からの伝統を持つ国軍と別に、革命後に創設されたイスラム革命防衛隊という最高指導者直轄の軍事組織が存在することが特徴である。イスラム革命防衛隊は、国外の対外工作にも深くかかわり、アメリカ合衆国のトランプ政権から「テロ組織」に指定された。男性に2年の兵役を課す徴兵制を採用しており、兵力は61万人ほどである(2020年時)。
民族と宗教
  2017年の国勢調査によると人口は約8千万人で、世界でも17位であった。多くの民族言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (35%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%がスンニ派を信仰している。極めて少数派としてユダヤ教キリスト教ゾロアスター教バハイ教の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている。言語はペルシア語が公用語で大半を占めているが、他にクルド語アゼルバイジャン語などがある。
地理
  総面積は1,648,195 平方キロメートル (km2) で、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、その間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある。同国はユーラシアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最大都市であり、経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。
国名(詳細は「イランの国名」を参照)
  イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。
  1935年3月21日レザー・シャーは諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られた。
  1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。
  その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
  公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」、通称イランであり、漢字表記では伊朗伊蘭とも当てた。
歴史(詳細は「イランの歴史」を参照)
古代
  イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まる。アーリア人の到来以降、王朝が建設され、やがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興。紀元前550年キュロス大王メディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国した。紀元前539年バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。
  アケメネス朝はマケドニア王国アレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。
  パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年シャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国イスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。
イスラーム化
  7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国ヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊。636年カーディスィーヤの戦い642年ニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。
  イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系ブワイフ朝シーア派イスラームの十二イマーム派国教とした最初の王朝となった。11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝セルジューク朝ホラズム・シャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語外交行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた。
  1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。
サファヴィー朝期
  1501年サファヴィー教団の教主であったイスマーイール1世タブリーズサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラーム十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服した。また、レバノンバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ。1514年チャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。
  第五代皇帝のアッバース1世エスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した。1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。
  しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年ガスレ・シーリーン条約でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後は政治的混乱が続いた。
ガージャール朝期
  1796年テュルクガージャール族アーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリスロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム)。ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した。1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた。モハンマド・シャーの没後、1848年ナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した。ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた。
  こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。1872年ロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた。第二次アフガン戦争1878年1880年)では、ガンダマク条約1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。
  このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派ウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した。
  第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年モザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザムが留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった。しかしながら1905年日露戦争にて日本ロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物不作コレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった。イラン人は国王に対して議会 (majles) の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者ストライキ農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年ロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーン油田が発見されている。
  1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作チフスによる死者が続出した。1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。
パフラヴィー朝期
  パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィー不平等条約破棄、軍備増強、民法刑法商法の西欧化、財政再建近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの事業を進めたが、1931年社会主義者共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた官僚制軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1,000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している。1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、 1941年8月25日ソ連軍イギリス軍がそれぞれ国境を超えてイランに侵攻。イラン軍は敗北し、イギリスソ連によって領土を分割された。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党トゥーデ党が結成された。
  1943年11月30日には連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談が開催された。その際、会議の主題とは別に各首脳らによってイランの独立と領土の保障に関する宣言書に署名が行われた。イラン国民のご機嫌を取るためのジェスチャーとも評されたが、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日アゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された
  1940年代国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリスアングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった。
  このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝皇帝シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年CIAFBIモサドの協力を得て国家情報治安機構 (SAVAK) を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発した。特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。
  1978年に入るとテヘランで1万人規模の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暴徒が銀行に放火するなどした。
イラン・イスラーム共和国
  シャーの独裁的統治は1979年イラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年アメリカ大使館人質事件革命の輸出政策、レバノンヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。
  クルド人はイラン革命を支持し、自治権の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部のケルマーンシャー州西アーザルバーイジャーン州の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された。
  革命による混乱が続く1980年には隣国イラクサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争イラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。
  国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。
  2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。
  2021年6月18日に投票が行われたイラン大統領選挙では、エブラーヒーム・ライースィーが当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ、立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり、投票率は著しく低迷した。
  2022年9月13日ヒジャブの着用が不適切だとして女性が逮捕され、3日後に死亡した。これ以降警察の暴行を指摘する若者らによる反政府デモが頻発しており、情勢は再び不安定になっている。
政治(詳細は「イランの政治」を参照)
  イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。
法学者の統治
  イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者(モジュタヒド)に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。
選挙制度
  イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した。
  特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2, 3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。
  しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2・第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された。
  護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査(選挙資格を満たしているか否か)を行なっている。
最高指導者
  ヴェラーヤテ・ファギーフ法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政司法立法三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊(イスラム革命防衛隊、IRGC)総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー
大統領
  大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。
議会
  議会は「マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī」(イスラーム議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語報道では国会とも表記される。
専門家会議
  専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。
監督者評議会
  監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。
公益判別会議
  公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。
司法府(詳細は「イランの法制」を参照)
  最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。
国際関係(詳細は「イランの国際関係」を参照)
対外政策の基本
  2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである
 日本-「日本とイランの関係」を参照
 ロシア-「イランとロシアの関係」を参照
 北朝鮮-「イランと北朝鮮の関係」を参照
 シリア-「イランとシリアの関係」を参照
      シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加え、イラン・イラク戦争ではシリア・バース党イラク・バース党との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年ではシリア内戦でイランがアサド政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
 サウジアラビア-「イランとサウジアラビアの関係」を参照
      近年ではイラク戦争アラブの春の混乱で、イラク・シリア・エジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。それぞれシーア派とスンナ派の盟主として、シリアやイエメンの内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈している他、両国の外交官の追放など対立が表面化している。
 アメリカ合衆国-「アメリカ合衆国とイランの関係」も参照
      米国は、第二次世界大戦の結果としてイランの統治への干渉を開始した。そこでは、ジャン・チャールズ・ブロトンズが彼の著書「U.S.当局者とシャーの崩壊: いくつかの安全で接触の解釈」、1941年にアメリカの支援を求めたのはイランの当局者であり、イギリスとソビエトの占領による分裂を恐れていた。その結果、ルーズベルト政権は「3万人近くの非戦闘員を派遣し、イラン軍への諮問任務を確立した」。
      1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。オンライン出版のSageJournalsに「イランと米国の関係における代表、認識、外交政策」に関する論文を書いたコンスタンス・ダンコムによれば、米国とイランとの関係は、米国がシャを尊重する関係に移行した。モハンマド・モサデグは、トルーマン政権時代のイランの政治と米国の関係において中心的な役割を果たした。モサデグは、人口の大部分に支持されたイラン国民戦線のリーダーであり、世界の石油埋蔵量の3分の1がイランにある石油産業に対する当時の英国の占領に反対していた。国有化法案は1951年3月に可決され、モサド首相の任命は、1909年以来イランに関与していたアンロイラン石油会社(AIOC)との合意を阻止したため、米国の政策に影響を与えた。

      1952年、英国秘密情報部 (SIS) と米国中央情報局 (CIA) は、アイゼンハワー大統領の下で成功したモサデグを倒す計画を立てた。 イランに対するアメリカの影響力は、白色革命計画改革プログラムがシャーによって発表された「進歩的政府」に向けた政治改革を助言したケネディ政権の間に最も明白であった。 この計画には、農地改革、「国有工場の売却、企業収益における労働者の利益分配、女性の選挙権」が含まれ、「非イスラム教徒と女性の州および地方議会選挙への参加」が許可された。 
      これはイスラム法と一致していなかったため、イランの聖職者から反発を受け、アヨットラー・ルーホッラー・ホメイニーの登場を扇動した。
      これが1978年から1979年のイラン革命につながり、シャー政権の転覆を促し、「シャーの独裁政治を後援したことによる米国」は、「イランと変化する戦略的環境」というタイトルの論文でアミン・サイカルを書いた。
      本質的に「優勢」であると示唆されていた現在のイスラム共和制体制とは対照的に、パフラビの権力の時代は繁栄し、前向きであ 1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。
       「イラン人質事件は、1979年11月4日にホメイニーの過激派支持者がアメリカ大使館を乗っ取り、外交官のうち52人を444日間拘束したときに発生した」とサイカルは書いている。その結果、米国はイラン・イラク戦争を引き起こし、制裁を課し、軍事介入を脅かし、イスラエルの支援を受けた。
      カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2020年現在まで指定を継続している[61]。アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを悪の枢軸と表現して批判した。アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーハマースイスラム過激派と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート・バーレーン・アラブ首長国連邦・サウジアラビアおよびエジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。「イランによるシーア派の軍事的代理人中東研究所の使用」に書いたアレックス・ヴァタンカによれば、「イランイスラム共和国は、影響力を行使するための軍事作戦で代理人として機能するように中東中の宗派の非国家グループを扇動した。中東に対する支配を促進し、シーア派の影響力を高めるための「地域的および国際的政治 オバマ政権下の米国とイランは、アラブの春後の共通の敵、特にシリアで一致しました。両国は、ISISが統治を宣言することを望んでいませんでした。 ISISの存在がイラクのShi’i人口を脅かしたので。
       ヴァタンカはまた、イランのより宗派的な動員への移行についても論じている。「スンニ派は、イランとその代理人の主要な外部の敵として、米国とイスラエルにある程度取って代わった」。
      2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した(詳しくは「アメリカ合衆国とイランの関係」を参照)。
      日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米『Newsweek』誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ(イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた)、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている
      イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している。
      ブッシュ (子) 政権→オバマ政権→トランプ政権の間でイランとの関わりに向けていくつかの重要な変化が起こり、両方の変化は核兵器の交渉を通じて描かれています。ダンコムは、そのような異なる政治的ダイナミクスについて論じ、「イラン政府は核の野心で世界に挑んでおり、世界の国々はイラン政権が核兵器を取得することを許可してはならない」と述べたブッシュ前大統領を引用した。アメリカはこれらの脅威に立ち向かうために世界を結集し続けるでしょう。」
      相変わらずアメリカは制裁に積極的で、2015年にP5+1とイラン間で合意された暫定の制裁解除や翌年の国連による制裁解除にもかかわらず、2018年5月8日にはドナルド・トランプ米大統領が、アメリカのイラン核合意からの離脱を発表した。アメリカによる制裁は2018年11月に復活し、イランの原油生産量・輸出量は再び急落した。
      2020年1月、アメリカはイラン革命防衛隊司令官ガーセム・ソレイマーニーを殺害した。
核開発問題(詳細は「イランの核開発問題」を参照)
  イランは1970年代に様々な国と原子力協力協定を結び、原子力技術移転を目指したが、イスラエルと繋がりの深い米国等の圧力により進まず、自主開発を始めた。秘密裏に行っていたため、2002年に暴露されると、翌年にはIAEA理事会から開発の停止を求められた。しかし、イランは続行したため、欧米との対立が起きた。
  イラン政府は自国の核開発問題について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(『Newsweek』誌2009年10月7日号)。欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国のトルコブラジル、また、ベネズエラキューバエジプトその他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、トルコのエルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領は『Newsweek』誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合 (AU) 首脳会議に招かれた際、イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している。2006年9月の第14回非同盟諸国首脳会議では、イランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択され、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。
  核兵器開発については、IAEAや敵対するイスラエルも否定することとなるが、核技術開発自体認めない欧米諸国の圧力は止まらず、イランも無視したことで、2012年に米国とEUからイラン産原油輸入を経済制裁の対象にされ、実質GDP成長率は前年比マイナス8.4%にもなった。2013年に穏健派のロウハーニーが大統領になると協議は進み、2015年に最終的な核合意に至った。これによりGDPは急回復を見せたが、2018年にイスラエル寄りのドナルド・トランプ米大統領が一方的に合意を破棄し、SWIFT排除も含めた経済制裁を再開すると、経済は再び急落した。もっとも、これにより国産技術が発展したという面もある。また、米国の行動に対し、ロウハニ大統領は核合意から離脱はしないが、核合意を遵守するわけでもないという演説を行い、核開発を再開。2021年にジョー・バイデンが米大統領に就任してからは協議が再開したが溝は深く、2022年7月にはイスラエルメディアのインタビューで、バイデンがイラン攻撃の可能性も示した。その後、イラン側は最高指導者顧問と原子力庁長官が核兵器製造は可能だがしないと発言した。
欧米での反イスラーム的行為(「国際クルアーン焼却日」も参照)
  2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛される中で、また、アメリカ同時多発テロ事件で破壊されたニューヨーク世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった。
  聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた。
  このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。
  そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した。この事件に対し、インドカシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした。
悪魔の詩事件
  元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。
軍事(詳細は「イラン・イスラム共和国軍」を参照 )
  国軍として、陸軍海軍英語版空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。
  イランは核拡散防止条約 (NPT) に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。
準軍事組織(詳細は「イスラム革命防衛隊」を参照 )
  また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。
    ・内務省法秩序警備軍:国家憲兵に相当。   ・スラム革命防衛隊(パースダーラーン)    。ゴドス軍 (Quds Force)   ・バスィージ (Basij): 民兵部隊
地方行政区分 (詳細は「イランの地方行政区画」および「イランの州」を参照 )
・・・
地理(詳細は「イランの地理」を参照)
  イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432 km。以下同様)、アルメニア (35 km) と国境を接する。北にはカスピ海に臨み、北東にはトルクメニスタン (992 km) がある。東にはパキスタン (909 km) とアフガニスタン (936 km)、西にはトルコ (499 km) とイラク (1,458 km) と接し、南にはペルシア湾オマーン湾が広がる。面積は1,648,000 km2で、うち陸地面積が1,636,000 km2、水面積が12,000 km2であり、ほぼアラスカの面積に相当する。
  イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山 (標高: 5,604 m) を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠ルート砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。
  平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。
気候
  全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680 mm、西部で1700 mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーンアルダビールタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850 mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200 mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135 mmから355 mmほどである。
経済(詳細は「イランの経済」を参照)
  イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。
  イラン・イスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている。
  財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。
  イランはOPEC第2位の石油生産国で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。
  農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシピスタチオ花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。
  イランはバイオテクノロジー医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランスドイツ日本イタリアスペインロシア韓国中国などである。1990年代後半からはシリアインドキューバベネズエラ南アフリカ共和国など発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア中央アジア市場統合のビジョンを共有している。
観光(詳細は「イランの観光」を参照)・・・2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており、近年観光客数は増加している。
交通(詳細は「イランの交通」を参照)
航空(詳細は「イランの航空会社」および「イランの空港の一覧」を参照)
  国際線の拠点空港としてテヘランエマーム・ホメイニー国際空港が存在している。 フラッグキャリアであるイラン航空が国内路線および国際路線を運行している。 また、アーリヤー航空 イラン・アーセマーン航空 サーハー航空も運行している。
鉄道(詳細は「イランの鉄道」を参照)
  国有鉄道であるイラン・イスラーム共和国鉄道が全土を結んでいる。
  主要都市では地下鉄として・テヘラン・メトロ  ・マシュハド都市鉄道  ・イスファハーン・メトロ  ・シーラーズ・メトロ  ・タブリーズ・メトロ  ・アフヴァーズ・メトロが設置されている。
国民・人口統計(詳細は「イランの人口統計」を参照)
  人口・・・イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々en:Iranian diaspora)が北アメリカイラン系アメリカ人en:Iranian Americanイラン系カナダ人en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ在イギリスイラン人en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ日本在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。
民族(詳細は「イランの民族」を参照)
  イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語インド・ヨーロッパ語族イラン語群ペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系アゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。ペルシア人(ペルシア語を語る人々: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人々: 25%)、ギーラキーおよびマーザンダラーニーギーラキー語マーザンダラーニー語を語る人々: 8%)、クルド人 (7%)、アラブ人 (4%)、バローチ (2%)、ロル (2%)、トルクメン (2%)、ガシュガーイーアルメニア人グルジア人ユダヤ人アッシリア人タリシュ人タート人、その他 (1%) である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。
  国際連合の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。
 イラン人
   イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。
 狭義
   イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、クルド人ロル族ならびにバフティヤーリー族バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー(アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン(トルクメン人)、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。
 広義
   ホラズム生まれのビールーニー、ブハラ生まれのブハーリー、その近郊生まれのイブン・スィーナー、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・ガザーリーは、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人(カリフォルニア州に約半数が集中し、ロサンゼルスは「テヘランゼルス」と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い)、バーレーンドバイに数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる。
言語(詳細は「イランの言語」を参照)
  主要な言語は、ペルシア語アゼルバイジャン語南アゼルバイジャン語)、クルド語ソラニークルマンジー南部クルド語ラーク語)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語マーザンダラーン語バローチー語アラビア語アラビア語イラク方言アラビア語湾岸方言)、トルクメン語ドマーリー語(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語タリシュ語である。
  イランにおけるイラン系言語の分布状況は以下の通り
  1.北部及びカスピ海沿岸部  1)タート語   2)ターレシュ語  3)カスピ海方言-西方にギラキ語(ペルシア語でギーラキー)、東方にマーザンダラーン語の二大方言がある。  4)セムナーン語及びサンゲサル語  5)クルド語-トルコ国境からイラク国境一帯にかけての、コルデスターン(ペルシア語で「クルド(人)の地」)地方を中心に居住する、クルド人の母語。クルド人の居住域は、イラン・イラク・トルコ・シリアの4国に分断されている。クルド語全体の話者人口は、統計のとり方によって数百万から千百万の間を上下する。  6)グーラーニー語  7)ザーザー語
  2.中央部  8)タフレシュ方言(ハマダーンからサーヴェにかけて)  9)北西方言(ゴムからエスファハーンにかけて分布)  10)北東方言(カーシャーン及びナタンズ方言)  11)南西方言(エスファハーン周辺)  12)南東方言(ヤズドケルマーン、ナーイーン周辺)-ギャブリー語(あるいはヤズド語、ケルマーン語)と呼ばれ、ヤズドからケルマーン周辺地域に在住するゾロアスター教徒が使用する言語を含む。ギャブリーは「異教徒の(言語)」という意味で、イスラーム教徒から区別する他称である。話者は自分たちの言語をダリー語と呼んでいる。  13)キャヴィール方言  
  キャヴィール方言で話される方言の総称である。フール語など
  3. 南西部  14)ファールス方言群 -カーゼルーン周辺やシーラーズの北西地域など、ファールス地方で使用される方言の総称。  15)ロル語-ファールス州からフーゼスターン州エスファハーンの西方の広大な地域で話される、ロル系遊牧民の言語。バフティヤーリー語はこの下位方言に属している。  16)スィーヴァンド語-ーラーズの北方スィーヴァンドで話される言語。南西イランに位置しながら、言語学的には北西言語に属し、言語島を成している。  17)ラーレスターン語
  4. 南東部  18)バルーチー語-パキスタン、アフガニスタン南西部、イランに及ぶ広範囲で使用される。音韻面では最も保守的な言語の一つである。  19)バーシュキャルド語(あるいはバシャーケルド語)
婚姻   婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、夫の姓を後ろに加える女性もいる
宗教   詳細は「イランの宗教」を参照
  大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人クルド人アラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハイ教ゾロアスター教サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教キリスト教諸派などがある。
  このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。(「ペルシャ神話」も参照)
  一方、バハイ教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハイ教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害されている(これについてはバハイ教の迫害およびイランの宗教的マイノリティーイランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハイ教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。
教育(詳細は「イランの教育」を参照)
  2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性83.5%/女性70.4%)であり、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている。
  2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。
  主な高等教育機関としては、テヘラン大学 (1934)、アミール・キャビール工科大学 (1958)、アルザフラー大学 (1964)、イスラーム自由大学 (1982)、シャリーフ工科大学などの名が挙げられる。
教育制度
  イランの教育制度は次の四段階に分けられる。
   1. 初等教育(小学校):学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。
   2. 進路指導教育(中学校):ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。
   3. 中等教育(高等学校):4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに (a)文化・文学専攻と (b)社会・経済専攻に、また、後者は (c)数学・物理専攻と (d)実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学・技術・農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書が与えられる。
   4. 大学(単科大学):全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。
   それ以外の教育機関(1) パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。   (2) 私学・イスラーム自由大学は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。(3) 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセである。外国語学校、コンピュータ学校などの各種学校に当たるものはモアッセセという。
  そのほかに幼稚園、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。
教育スタイル
  イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。「学ぶ・勉強する」は、「声を出して教科書を読む」ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである。
  森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている。
   1. 小学校での授業方法
  現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)である。まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は「読む」段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。
  第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。
   2. 私立男子中学校で行われた科学発表会
  研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。
   3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書
  そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。
治安(詳細は「イランにおける犯罪」を参照)
  イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都テヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日に米国によるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生するおそれを孕んでいる。
  また同国において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。
法執行機関国家法執行司令部が主体となっている。)
  この組織はかつて存在していたイラン国家憲兵隊という警察組織を前身としている。
人権問題(詳細は「イラン・イスラーム共和国における人権」、「イランにおける信教の自由」、および「イランにおける同性愛者迫害」を参照)
  1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。
  憲法では公式にシーア派イスラーム十二イマーム派国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒キリスト教徒ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハイ教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性ムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。
  女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動・性行為恋愛などの自由も著しく制限されており、道徳警察による服装の取締りが行われている[注 4]。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。(「イランの女性」も参照)
  また刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、さらに未成年者への死刑も行われている。
  イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会政府国際機関NGOや、隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。しかし近年ではイラン人男性がヒジャブを着用し始める動きが表れ出している。これはイランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている。
マスコミ(詳細は「イランのメディア」を参照)
新聞
  イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。
  第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。
  通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある。
  新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。
  エッテラーアート
  イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。
  このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。
  ケイハーン
  ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。
  その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。
ラジオ
  イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。
  イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。
  また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。
文化(詳細は「イランの文化」を参照)
  イランは文化、すなわち美術音楽建築哲学思想伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。
  イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される。
文学(詳細は「ペルシア文学」を参照)
  ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。
  20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。
 小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。
哲学(詳細は「ペルシア哲学」を参照)
  イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナーラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。
スポーツ(詳細は「イランのスポーツ」を参照)
 サッカー(詳細は「イランのサッカー」を参照)
  イラン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1970年にサッカーリーグのペルシアン・ガルフ・プロリーグが創設された。イランサッカー協会(FFIRI)によって構成されるサッカーイラン代表は、これまでFIFAワールドカップには6度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかしAFCアジアカップでは、最多優勝の日本代表に次いで3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られるアリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、1993年から2006年にかけて国際Aマッチに149試合出場し、ポルトガル代表クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ109得点をあげている。
 オリンピック(詳細は「オリンピックのイラン選手団」を参照)
  イランは、夏季オリンピックにはガージャール朝時代の1900年パリ大会で1人の選手により初出場しており、その後の空白期を経て1948年のロンドン大会から復帰した。冬季オリンピックには1956年コルチナ・ダンペッツオ大会で初出場を果たした。イランの国技レスリングでありアジア屈指の強豪国として知られており、2012年ロンドン大会では金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した他、2021年東京大会までで獲得した全76個のメダルのうち47個をレスリングが占めている。







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