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2021.06.23-NHK NEWS WEB -https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013098951000.html
ジャーナリスト・作家 立花隆さん死去 幅広いテーマ取材

  田中内閣退陣のきっかけになったと言われる「田中角栄研究」をはじめ、政治や科学、医療など幅広いテーマで取材や評論活動を行ってきたジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆さんが、ことし4月、急性冠症候群のため亡くなりました。80歳でした。
  立花隆さんは昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業したあと出版社の文藝春秋に入社しました。

  入社から2年余りで出版社を離れたあとも取材活動や記事の執筆を続け、昭和49年に現職の総理大臣だった田中角栄氏の金脈問題を膨大な資料を検証して追及した「田中角栄研究」を発表して大きな反響を呼び、田中内閣が退陣するきっかけになったと言われています。
  その後も鋭い着眼点と徹底した取材をもとにしたルポルタージュを次々と発表し、扱うテーマも政治だけでなく、最先端の科学や医療、宇宙や脳死など多岐にわたり、「知の巨人」と称されました。
  平成7年からは東京大学の客員教授を務めてユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いできました。
  平成19年にはぼうこうがんが見つかったことを公表し、病気や死をテーマにした作品の執筆やドキュメンタリー番組の制作にも携わってきました。
   家族によりますと、立花さんは糖尿病や心臓病などを抱えて入退院を繰り返したあと旧知の病院で入院を続け、4月30日、急性冠症候群のため亡くなったということです。80歳でした。
家族がHPで詳細を公表
  立花隆さんが亡くなったことについて、家族が23日朝、立花さんの教え子が運営するサイトに詳細を公表しました。
  それによりますと、立花さんはことし4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため亡くなりました。
  亡くなるまでのいきさつについては、「長年 痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気をかかえ、入退院を繰り返してまいりました。一年前大学病院に再度入院しましたが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため、旧知の病院に転院しました」と説明しています。
  この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をとったものの、到着を待たずに急逝したということです。
  葬儀は家族のみで執り行ったということです。
ルポライターの鎌田慧さん「一時代を作ったライター」
  同じライターとして仕事で交流のあったルポライターの鎌田慧さんは「エッセーの連載がなかったので病状が悪くなっているのかなと思っていましたが、ついに亡くなってしまったのかという感慨があります。同じ時代を生きたライターで、今ではほとんどいなくなってしまった『ルポライター』と呼ばれる存在の1人でした」と振り返りました。
  そのうえで、立花さんの功績について「若い時から凝り性で、その性格が膨大な量のデータの分析した『田中角栄研究』を生み出す原動力になったのではと思います。幅広いジャンルに関心を持って資料を徹底的に調べ上げ、時には取材チームを作ってその力を結集させる立花さんの好奇心と総合力は傑出しており、彼のような存在はそれまでいなかったし、これからも出てこないのではないかと思います。まさに一時代を作ったライターでした」と話していました。
ジャーナリスト 田原総一朗さん「命懸けのジャーナリスト」

立花さんと親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、立花さんが文藝春秋で「田中角栄研究」を発表したことについて「当時、田中角栄が金権政治を行っていたことは他の報道機関も知っていて、田中角栄自身も、どこもそのことを書かないと思っていた。文春で記事が出たあとも、どこの新聞も書かず、その後、田中角栄が開くことになった日本外国特派員協会での会見をきっかけに、初めて日本の新聞が報じた」と振り返ったうえで「金権政治が当たり前の時代に体を張って、命がけで書いた。日本には、なかなか命懸けのジャーナリストはおらず、そこがえらいと思う」と立花さんをたたえました。

田原さんは、立花さんが「田中角栄研究」を発表した当時、テレビのディレクターをしていて、政治にはそれほど関心は無かったと言うことですが、立花さんの発表がきっかけで、世の中が田中角栄のバッシング一色になる中、田原さん自身も田中角栄について調べ、政治家としてのすごさを記した論考を直後に中央公論で発表することになり、そうした経緯からも立花さんとは「近々、田中角栄論を一緒に本で書こう」と話していたということです。

そのうえで、立花さんや田原さんが扱ってきた政治の世界について「その頃は、政権の支持率が下がれば党内や野党から俺がやるというムードがあったが、いまはそれが弱まっている。政権を批判するだけでなく、日本をどうするのか、という気概を持った政治家やジャーナリストが出てきてほしい」と話していました
京都大 山中伸弥教授「 立花さんの言葉に励まされた」
  立花隆さんと交流があった京都大学の山中伸弥教授は、NHKの取材に対して「立花隆さんとはiPS細胞研究所が開設された11年ほど前に対談させていただきました。立花さんは、iPS細胞の倫理的な課題を見据えつつ、生命の謎を解明する研究を進めることの重要性を理解しておられ、立花さんの言葉にずいぶん励まされました。このたびの訃報に接し、心より哀悼の意を表します」とコメントしています。
毛利衛さん「宇宙飛行士になりたいと決心させてくれた」
  立花さんと30年以上にわたって交流があり、日本人宇宙飛行士として初めてスペースシャトルに搭乗した毛利衛さんは立花さんの著書、「宇宙からの帰還」を読んだことなどがきっかけで宇宙飛行士の募集に応募したということです。
  毛利さんは「科学技術ではなく宇宙飛行士の個人に焦点を当てた本で、宇宙体験をした人がどのように意識が変わるのかや人類全体、地球生命といった大きな捉え方をしていて、目からうろこが落ちるような思いでした。この本を読んで単なる研究者ではなくてもっと大きなことに挑戦したいと思い、本当に宇宙飛行士になりたいと決心させてくれました」と話しました。
  宇宙飛行士に選ばれたあと、スペースシャトルに搭乗する前に、立花さんと初めて対談したときの印象については「立花さん自身が本物の宇宙飛行士をインタビューしているので、私がそれに耐えられるかどうか立花さんの目で見ていたのではないかなと思います」と話していました。
  立花さんも生前、宇宙に行きたいと話していたということで、「『自分病気だからだめなんだよね』と言っていて、立花さんのような人が宇宙に行って地球を見ると私と全く違った発見ができるのでぜひ頑張ってくださいねと冗談のような話を何度もしました」と振り返っていました。
  そのうえで、「立花さんは作家でありつつ、政治や科学技術のことをよく知っていて、科学技術政策の面でも日本がどのように進むべきか、考えをしっかり持って提言していました。日本の科学技術が危機になりつつあると感じる中で、立花さんの作品をもう一度静かに読み返して、政策を決めていく必要があると思います」と話していました。
編集者「彼の書いたものは宝物」
立花隆さんが亡くなったことについて、立花さんとおよそ20年にわたってつきあいのあった、文藝春秋文春新書編集部の石橋俊澄さんは「立花さんの活躍は本当に縦横無尽でした。例えば『このことは専門だ』という人は、たくさんいると思いますが、あらゆる事でトップのレベルまで突き詰められるというのは、この人以外にはいないのではないでしょうか」と話しました。

そのうえで、立花さんについて「本当に仕事に生きた人で、朝起きると8紙くらいの新聞を丹念に読んで、必要な箇所は全部スクラップするという生活を50年ぐらい続けていた。もともと脳みそがはるかにいいことに付け加えて、努力も怠らない。努力しようとしていたというよりも、知的好奇心がものすごい推進力になっている」と指摘し、仕事の進め方についても「自分が興味のあるテーマがあると、それに関する資料は、とにかく手に入るものは全部読むということが基本でした。尋常じゃない人だということは、誰でも想像がつくと思うんですけれど、立花さんは巨大なエネルギーの塊であって、何かを突き詰めようとなったときの集中力と頭脳のすごさは異常なくらいだと思う」と話していました。

また、印象に残っている話として、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進さんへの取材の際のエピソードをあげ「立花さんは最初、利根川さんの研究については、まるで何も知らなかったが、高校の生物の教科書から読み始め、最後は英語の論文を読みこなすまで、膨大な時間をかけて勉強していった」と話しました。

そのうえで「最先端の研究について、彼の頭で理解して、それを一般の人たちまでわかるようなことばにして送り届けてくれる。彼の書いたものは、われわれにとって宝物であり、非常にありがたいものでした」と話していました。
ノンフィクション作家 柳田邦男さん「調査分析報道家」
  立花さんと同時期にライターとして活躍したノンフィクション作家の柳田邦男さんは「立花さんは世界と人間を理解しようととことん自分なりに探求しようとしていた方でした。まだまだ書きたい課題を抱えていたはずなので、もっと仕事してほしかった。惜しい人を亡くしてしまったなという思いです」と立花さんの死を惜しみました。

立花さんが果たした役割について、昭和49年に発表した『田中角栄研究』を例にあげ、「日本のジャーナリズムや報道の在り方に大きな刺激を与え、時代の転換点を作ったと言えるものであり、彼のエネルギッシュな姿に非常に強烈な印象を受けました。徹底的な取材によって資料を収集し、分析を加えるというのが立花さんの仕事の特徴で、その分析のしかたに彼ならではの鋭さがあった。調査報道の新しい在り方をみずから実践した立花さんは『調査分析報道家』と呼ぶべきだと思います」と功績をたたえていました。

そのうえで、「今はすべてのことがSNSなどで情報化してしまう時代で、真実が非常に不透明になっている。それだけに立花さんが取り組んだような真実をとことん探求するアプローチのしかたはとても大事で、知的理解の在り方を考え直すいい手本になる。その人が何を考え、どんな生き方をして、どのようなことばを残したかが人間の存在の証しであり、そういう意味では立花隆という男の存在はこれからも生きていくと思います」と話していました。ゼミ生「社会のレンズのような存在」
立花さんが平成17年に東京大学で開講したゼミで、ゼミ生の代表を務めた加藤淳さんは「立花先生は好奇心のかたまりで、毎回決められたことを話す講義ではなく、そのつど、興味のあることを話したり、取り組んでいる仕事の話をしたりして、私たちを刺激してくれました。自分の考えている先生像とは違っていて、立花先生を通して世の中を見せてくれる、社会のレンズのような存在でした」と振り返りました。

ゼミは、最先端の科学技術について専門家に取材して記事を書くというもので、加藤さんは立花さんとともに取材した経験について「あらゆるジャンルの人に、相手のポテンシャルを引き出す質問をしていて、その人だけでは出てこなかったような知を引き出していました。相手と知的な好奇心を競うようにことばを探し、おもしろい対話が出来上がっていく体験は、今の自分に影響を与えたと思います」と話しました。

加藤さんは現在、産業技術総合研究所でコンピューターサイエンスの研究者として働いていて「進路について伝えたとき、“自分がいま学生だったら絶対にコンピューターを専門にしている”と言ってくれて、ガッツポーズをしました。知ることに貪欲になってほしいと考えて、ゼミを運営してくれていたと思うので、私も立花さんのように決まった枠にとらわれずに知を追い求めていくことを、自分なりにやっていきたいと思っています」と話していました。


2021.06.14-Yahoo!Japanニュース(AERA dot.)https://news.yahoo.co.jp/articles/7f61320545482b9af2974b659d994d9adaf32a9e
小林亜星さん死去「医学部からバンドマン、『北の宿から』、『寺内貫太郎一家』…」本人が語ったマルチ人生〈週刊朝日〉
(1)
  「北の宿から」などを手がけた作曲家で、「寺内寛太郎一家」にも主演し、黒縁の丸メガネの“巨漢”タレントとしても人気があった小林亜星さん5月30日に亡くなっていたことがわかった。享年88歳だった。死因は心不全で5月30日に容体が急変し、そのまま病院で亡くなったという。小林さんは週刊朝日2018年9月28日号の「もう一つの自分史」に登場。それまでの人生を振り返った貴重なインタビューを再録する。

  高校(旧制慶応義塾普通部)の同じクラスに冨田勲君(作曲家)と林光君(作曲家)がいたんですよ。作曲家になったやつが同じクラスに3人もいたなんて。変なクラスだよね。休み時間になると3人で音楽談議。コーラスの曲を作って文化祭で発表もしました。結構評判がよくてね。それが悪かったんだな。気分良くてね。味をしめちゃった。
  ――日本レコード大賞を受賞した都はるみの「北の宿から」をはじめ、小林亜星の曲を一曲も知らないという人は、いないだろう。意外なことに、作曲家になる一本道を歩んできたわけではなく、何度か横道にそれた。
   うちは祖父が医者だったから大学は医学部へ行けと。ろくに勉強もしない落ちこぼれだったから大変ですよ。大学は高校3年のときの成績で進路が決まるんです。それで1年間猛勉強。進学試験のとき、15分ぐらいで答案を書き上げて教室を出ちゃった。勉強しすぎちゃったんだな。背中に同級生のため息を聞きながらね。まったく嫌みなやつだよね(笑)。
   それで医学部へ入ったはいいけど、もう俺はやることはやった、っていう気になっちゃってね。ところが、大学の医学部っていうのはいろんなところから頭のいい人がきている。まるで太刀打ちできない。
   1、2年生の教養課程のうちは医学的な授業もないし、好きな音楽ばっかりやってました。子どものころ、木琴を習ってましてね。それを生かして、ビブラフォンを演奏してジャズバンドを組んだ。
   そのころ、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島で戦ってきた米軍兵たちが、休暇になると日本の基地まで引き揚げてきて疲れを癒やすんですよ。おかげで基地内のナイトクラブは大忙し。僕たちみたいなへたくそなバンドでさえ、引く手あまたでした。横浜にWAC、Women’s Army Clubっていうのがあったんです。軍属の女性専用のクラブで、お客さんのほとんどは従軍看護婦だったな。あとは軍人の奥さん方ね。そこの専属バンドになっちゃって。サラリーマンの初任給が8500円ぐらいの時代に、一晩で3千円もらえたんですよ。
   結局、途中で学部を変わってね。経済学部に移って、卒業するまで親にはバレなかったな。
(2)
――やがて朝鮮戦争は休戦。バンドもジャズも廃れていったという。世の中の景気は後退し始めていた。  すごい就職難でね。一度は入れるところに就職したんです。製紙会社の営業マンになりました。  営業っていったって何の苦労もなかったんです。1950年代は三白景気っていってね。三つの白いもの、硫安(硫酸アンモニウム=肥料)、砂糖、そして紙。これが不足していて、何しろ作るそばから奪い合い。営業は「ちょっと待ってください」っていうのが仕事だったんです。楽だったからってわけじゃないけど、営業の仕事は意外と向いてましたね。やってみて、あ、この仕事好きだなぁって思った。  でもね、どこか自分の人生じゃない気もしていた。仕事をしながら、頭の中は音楽のことばっかりなんです。まったく失礼な話だよね。 ――結局、ひと月も続かず、会社を辞めた。音楽のプロになるため、国立音楽大学教授を務めた服部正氏の門をたたいた。  服部先生は当時、ダークダックスの曲を作曲・編曲してらっしゃって、僕たち弟子もそのお手伝いであちこちの放送局へ出入りするようになったんです。最初はNHKだったな。  今と違って、外部の人間がいつでもふらっと入っていけましたからね。「こんちはー! 何かお仕事、ないですか?」って。そうすると「あ、頼みたい!」とか「おーい、回せる仕事ない?」なんてね。当時はまだラジオが主流で音楽番組は大人気でした。音楽番組をアレンジャーとして担当するようになりました。  NHKテレビの実験放送で、藤城清治さんの影絵のバックで演奏したこともあります。当時は収録なんてありませんから、影絵も演奏もすべて生。一度なんて、木の上の妖精がラッパを吹くシーンで、トランペッターがミスって音が出なかったんですよ。そしたら藤城さんが怒って裏へやってきて、そいつの頭をぽかっ! 今度は楽団みんなが怒って、仕事をボイコットして帰っちゃった。無音になっちゃってね。実験放送とはいえ、立派な放送事故だよね
(3)
  ――テレビの普及とともに、アレンジ(編曲)の仕事は民放からも舞い込むようになり、多忙を極めた。だが、そこでアレンジの仕事をやめるという大英断を下す。それが、作曲家の道への転機となった。
   仕事はたくさんあるけれど、どれもこれもアレンジの仕事。日本は音楽に飢えていたんです。海外からはどんどん、オペラもクラシックも流行歌も入ってくる。それを日本人がカバーするには、編曲が必要でした。
   アレンジばっかりやっていると、ものすごく安いんですよ。ギャラが。それにね、アレンジは人の作ったものを編曲するわけですから、「左脳」の仕事なんですよ。作曲は「右脳」。似ているようで、まったく違う。左脳ばっかり使ってるとね、作曲が下手になるんです。これじゃやばいなと思ってね。よし、編曲をやめようと。何のあてもないのに、来る仕事来る仕事すべて友達や後輩に振り分けて断っちゃった。
   さてどうしようかと思っていたら、助けてくれたのが妹だったんです。妹は当時、アパレルメーカーのレナウンの宣伝部にいましてね。美大を出てイラストレーターをしてた。新しいコマーシャルを作るスタッフになったとき「兄貴が作曲できるらしいです」って言ってくれた。
  ――初めて世に出したのが「ワンサカ娘」。そのヒットを皮切りに、アニメ主題歌「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」も手掛けた。あの、「狼少年ケン」の「ボバンボバンボン ブンバボン」も「魔法使いサリー」の「マハリクマハリタ」も小林の作。作曲には学生時代のジャズバンドが肥やしになったという。 「ワンサカ娘」は、作詞も僕。「ワンサカワンサ、ワンサカワンサ、イェーイイェーイ、イェイェイ」って。意味というより語感。ああいうのが好きでね。頭に浮かぶんですよ。
   やっぱりなんか、音が出てくるんだな。それまでのアニメソングって、オーケストラとか児童合唱団が主流だったんです。ジャズっぽい音楽を作る人間が僕ぐらいしかいなかったんじゃないかな。
   大学時代、米軍基地へ行ってたでしょ。そこで鍛えられましたね。誰がどこから手に入れたんだか『1001』(センイチ)っていう本があって、そこにスタンダードジャズの譜面が1001曲分、載ってるの。それをみんな暗記してね。なにしろいつ、何をリクエストされても弾かなきゃなんないから。「A列車で行こう」「イン・ザ・ムード」「枯葉」……いまだに頭に入ってますよ。
(4)
  私にとって音楽のルーツはジャズ。基礎としてのクラシックを服部先生に学んだことも大きかった。それが混ざって、肥やしになりましたね。
   本格的に作曲に乗り出さなかったら人生違ってたでしょうね。でも、たくさんの曲をアレンジしたことは作曲の仕事に、ものすごく役に立ってます。アレンジャー時代に培った人脈だとか、仕事の流儀みたいなものは、間違いなく作曲家としての仕事の基礎になりましたから。その意味では、岐路というよりは、蓄積といったほうがいいかもしれません。
   ――その後、テレビは黄金期を迎える。数々の音楽番組、アニメ、ドラマ、CMに携わってきた。人気ドラマに役者としても参加し、お茶の間を沸かせた。
   テレビドラマにもね、役者でもないのに、僕まで出るようになっちゃって。「寺内貫太郎一家」の貫太郎は、原作者・向田邦子さんのお父さんがモデル。当時私は長髪だったんですが、配役を決めるときにプロデューサーの久世光彦さんに「丸刈りにしてこい!」って言われて。
   テレビ局はクライアントですから逆らえません。仕方なく髪をばっさり切って戻ったら、向田先生が「イメージにぴったりよ!」って。それで決まっちゃった。何でもありの時代でしたねえ。まさか続編までできて、新橋演舞場で舞台になるまで続くとは思ってもいませんでした。
   われわれ世代の人間は、テレビっていうのはこれからの時代を代表する文化だと思っていました。テレビなら今までできなかったことができる!と、そりゃエキサイティングでしたよ。挑戦の連続ですから。
   ――時代は変わって今、テレビも、音楽業界も苦境に立たされている。テレビ文化を創り出した者の目にはどのように映るのか。
   昔はどのレコード会社にもカリスマプロデューサーがいて、会議でみんなが反対しても「これは売れる!」って言った曲や歌手はヒットした。今は合議制なんです。全員が70点をつけないと世に出せない。そんなやり方で大ヒットは出ませんよ。そこそこの評価で出てきたものは、そこそこで終わるんです。
   この時代の音楽が、エンターテインメントがどうなっていくのか、見届けて、向こうにいる盟友たちに報告しなくちゃと思ってます。「寺内貫太郎一家」に出ていた男性陣なんて、もうほとんど残ってないですよ。僕たち世代はテレビと共に大きくなって、テレビと共に終わっていくのかな。
   レコード大賞の盾の前で写真とか、いやですよ。どうも過去の栄光みたいでね。 (聞き手/浅野裕見子) ※週刊朝日 2018年9月28日号


2021.06.13-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20210613-73NBRWSK6VN5BD2ORNUVFGVM6I/
大坂処分の正当性強調 全仏テニス主催側

  テニスの全仏オープンで精神的負担を理由に記者会見を拒否し、「うつ」を告白した上で棄権した大坂なおみ(日清食品)をめぐり、大会を主催するフランス連盟のモレトン会長は13日の会見で、罰金処分を科すなどした対応に問題はなかったとの見解を示した。「選手全員の公平性が必要だ。ツアー大会にはルールがある。われわれは正しい選択をしたと思う」と強調した。

  男子の元トップ選手で大会責任者のフォルジェ氏は、会見出席は「選手の責務だ」と指摘。ツイッターで会見拒否を表明した大坂に接触を試みたものの実現できず、同選手の代理人でさえ本心を確認できていなかったことを明らかにした。その上で「来年全仏で再会できることを楽しみにしている」と期待した。(共同)


2021.06.12-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210612/k10013081121000.html
ノーベル化学賞受賞 根岸英一さん死去 85歳

  薬や液晶テレビなどの製造に欠かせない、有機化合物どうしを結び付ける新しい化学合成の手法を発見してノーベル化学賞を受賞した、アメリカ・パデュー大学名誉教授の根岸英一さんが今月6日、インディアナ州で亡くなったと大学が発表しました。85歳でした。

  根岸さんは旧満州の出身で、東京大学工学部を卒業後、繊維メーカー大手の「帝人」を経てアメリカにわたり、パデュー大学の教授などを歴任しました。
  根岸さんは、合成することが難しかった構造が異なる有機化合物どうしを結び付ける「クロスカップリング」と呼ばれる反応の研究に取り組みました。
  「クロスカップリング」は昭和40年代ごろから本格的に研究が始まり、当時は化学反応を促す「触媒」としてニッケルという金属などが主に使われていましたが、根岸さんはパラジウムという金属を触媒にしたうえで、合成したい有機化合物の一方に「亜鉛」を加えると、安定して効率よく合成することができることを発見しました。
  こうした手法によって、血圧降下剤をはじめ新しい薬が開発されたほか、液晶テレビといった工業製品など幅広い分野で活用されています。
  こうした功績から、根岸さんは2010年、北海道大学名誉教授の鈴木章さんらとともにノーベル化学賞を受賞しました。

  根岸さんはアメリカに拠点を置いて研究を続けるとともに、日本の大学や研究機関とともに二酸化炭素から燃料などを作り出す「人工光合成」の研究にも携わっていましたが、おととし、パデュー大学から引退しました。
  パデュー大学の発表によりますと、根岸さんは最近、体調を崩してインディアナ州インディアナポリスの病院に入院していましたが、今月6日、家族に見守られながら亡くなったということです。

  パデュー大学によりますと、根岸さんの家族はアメリカでは葬儀を行わず、来年、日本で弔う意向だということです。


2021.06.08-日刊スポーツ-https://www.nikkansports.com/sports/golf/news/202106080000390.html
実は非常に仲が良い笹生優花と渋野日向子 慕う“姉”へパンの差し入れも

  笹生優花(19=ICTSI)が、全米女子オープンで日本人女子3人目のメジャー優勝を果たした。7日付の最新世界ランキングでは、前週の40位から9位に急浮上。初のトップ10入りを果たした。優勝賞金100万ドル(約1億1000万円)を加え、今季の賞金ランキングは、メンバー入りしたばかりの米女子ツアーで、リディア・コ(ニュージーランド)を2位に退け、いきなりトップに躍り出た。

  77年全米女子プロ選手権で、樋口久子(75)が男女を通じて日本人で初めてメジャーを制した。その樋口はツアーを離れて久しいが、笹生が全米女子オープンを制したことで、第一線に日本人メジャー女王が同時に2人もいるという、新たな時代に突入した。もう1人はもちろん、19年AIG全英女子オープンを制した渋野日向子(22=サントリー)だ。

  実は渋野と笹生は、はた目から見ても非常に仲が良い。ある時、渋野がパッティング練習していると、笹生は邪魔しないようにそっと近づいてくるが、その様子に気付いた渋野がツッコミを入れて2人で大爆笑。また新型コロナウイルスの影響で、開催時期がずれた昨年の全米女子オープンでは、笹生が優勝争い真っただ中の渋野に、パンの差し入れをして癒やす場面もあった。渋野は首位から最終ラウンドに臨む予定だった12月13日、雨でスタートできないまま、クラブハウスで3時間も待ちぼうけ。そこへ笹生が、ブルーベリーとピーナツバターのパンを持って現れた。
  結局、その日は試合が再開されず、最終ラウンドは翌日に持ち越された。渋野は「笹生優花が、おいしいパンを持ってきてくれて、それを食べながら、みんなで楽しくおしゃべりしていました」と、笹生も含めた日本人選手で集まって談笑。優勝争いの緊張感から解き放たれた。いつ試合が再開されるか分からないまま、3時間を1人でモンモンと過ごし、精神的なスタミナを消費するのと、逆に楽しい時間としてエネルギーをチャージできたように感じて過ごすのでは、心身の疲労度はまるで違う。結局、渋野は翌日に仕切り直しとなった最終ラウンドで4位に終わったが、笹生の気遣いに感謝していた。

  笹生は、その時のことを「米国にしかない甘くて、おいしいパンです。『これ、おいしいですよ』って言って、渡しました。特別に買ってきたものではなくて、選手やキャディーさん用に用意されていたもの。バナナとかを取りに行った時にあったので。みんなで食べました」と振り返った。2度目のメジャー制覇に迫った渋野を「すごいなと思ったし、頑張ってほしいという気持ちもあった」と、応援していた。

  フィリピンで生まれ、4歳で日本に来た時に、日本語をうまく話せず、疎外感を覚えたという8歳にして将来プロになることを決意し、再びフィリピンに行ってからは、ゴルフ漬けともいえる生活となった。そんな笹生にとって、渋野は出会ったことのないタイプだったのかもしれない。個人主義の欧米とは違う。メジャーの大舞台でも、中断の合間に井戸端会議を始めてしまう、渋野の日本人らしいところ、肝の据わったところ、すぐに仲間として輪の中に招き入れてくれる度量の大きなところ。そこに引かれていっても不思議ではない。
  1月に笹生をインタビューした際、渋野について聞いたことがあった。当時はもちろん、渋野の方が実績で何段階も上を行っており、今後の良い目標になるかたずねると「自分は誰かを超えないといけないとかは、あまり考えていないですね。ゴルフはコースとの戦いなので。コースとの戦いの方が楽しい。でも先輩として尊敬しています」と、落ち着いて話していた。渋野のことは、純粋に姉のように慕っている印象だ。

  4月に米ハワイで行われた、米ツアーのロッテ選手権では、第1日を終え、主催者推薦で出場の笹生が首位に立った。渋野も4打差の14位と好発進。同大会の2週間前に、オーガスタ・ナショナル女子アマチュア選手権で、兵庫・滝川二高3年の梶谷翼が優勝し、前週には男子メジャーのマスターズで松山英樹が優勝。米国での日本人3連勝の気運が高まっていたが、渋野は「優勝争いは、笹生優花に任せます」と話し、大笑いしていた。笹生がいたことで、より表情が明るくなったことがあった。

  男子の松山を含め、日本人のメジャー覇者が、同時期に何人もいる状況など、ほんの3、4年前には、多くの人が予想できなかっただろう。複数人いることによる化学反応、後進への影響は、さらに予想のできない未来をつくり出すかもしれない。
  松山はマスターズで優勝した際に「今までは『日本人にはできないんじゃないか』という考えがあったと思う。初めてのメジャーチャンピオンになって、そこを覆すことができた」と話していた。日本人にもできる-。笹生の優勝で、一段とその思いを強くした子どもたちは増えたかもしれない。渋野と笹生が談笑する姿は、これまで以上に、まぶしく映るだろう。現在、女子の世界ランキング1~3位は韓国勢が独占。将来、日本ゴルフ界が韓国同様に黄金期を迎えるための分岐点が、まさに笹生の全米女子オープン優勝であり、渋野と笹生のメジャー女王2人が米ツアーなどで共演する、これからなのかもしれない。【高田文太】


2021.06.01-Yahoo!Japanニュース(毎日新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/e1b3f3b055880ddea2d771e4a6172ec984aba291
大坂なおみの「うつ状態」告白 全仏棄権、東京五輪への影響は

  女子テニスの大坂なおみ選手(23)=日清食品=が5月31日に全仏オープンの棄権と、うつ状態にあることを公表した。関係者によると、金メダルが期待される東京オリンピックへの出場には意欲を見せているという。大坂選手は以前、「東京でプレーすることはとても特別なこと」と話していた。
   テニスの五輪出場選手は、全仏終了後の14日付の世界ランキングで決定する。男女のシングルスは1カ国・地域最大4人までで、上位56人が出場権を獲得する。世界ランキング2位の大坂の出場は確実だ。
   大坂選手はハイチ出身の父と日本人の母の間に大阪市で生まれ、3歳から米国に移住した。日本と米国の国籍を持っていたが、日本代表としてメダルを目指す意向で、2019年10月に日本国籍を選択する手続きを行った。「東京五輪に出場するため(関係者)というほど、五輪出場への思いは強い。  大坂選手は5月31日に公表したツイッターで、「しばらくコートから離れますが、時期が来ればツアーと協力し、選手やメディア、ファンにとって(環境を)より良くするための方法を話し合いたい」とつづった。
   大坂選手の関係者によると、ロンドンで28日に開幕する4大大会のウィンブルドン選手権の出場については、本人の精神状況などをみて判断するという。ある関係者は「東京五輪は本人の夢でもあるし、絶対に出る」と語った。【浅妻博之】


2021.06.01-NHKNEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210601/
大坂なおみ 全仏オープン棄権を表明 “誰もが集中できるよう”

  テニスの大坂なおみ選手が全仏オープンを棄権しました。大坂選手は1回戦のあと記者会見に出席せず主催者から罰金を科されていて自身のツイッターで「大会やほかの選手、私自身にとって撤退することがベストだと思った」などとコメントしています。

  大坂選手は全仏オープンを前に試合後に行われる記者会見に応じない意向を示し、30日の1回戦のあと会見に出席しなかったため、主催者から罰金を科されました。
  大坂選手の一連の対応について選手からは、心情を察する声やメディア対応の必要性を指摘する声などが上がっていました。
  こうした中、大坂選手は31日、自身のツイッターを更新し「誰もが大会に再び集中できるようにするため、大会やほかの選手、そして、私自身にとって私が撤退することがベストだと思った」として、大会を棄権すると表明しました。
  そして、大坂選手は「2018年の全米オープン以来、長い間、気分が落ち込むことがあって対処するのに本当に苦労した」と自身の状況について明らかにしたうえで、「少しの間コートから離れるつもりだが、今後ツアーと協力して選手や記者、ファンのために物事をよりよくする方法について話し合いたいと思っている」として、試合後の取材などについて大会側や競技団体などと協議したい考えを示しています。
  これを受けて全仏オープンの主催者は「大坂選手の棄権は残念だ。彼女の早い回復を祈るとともに来年の大会に参加してくれることを楽しみにしている」とコメントしています。
全仏オープン主催者「棄権は非常に残念 早い回復を祈る」
  大坂なおみ選手が全仏オープンの棄権を表明したことについて大会の主催者は公式ホームページで「何よりも大坂選手について非常に悲しく残念に思う。大坂選手が全仏オープンを棄権することは非常に残念だ。彼女の早い回復を祈るとともに来年の大会に参加してくれることを楽しみにしている」とコメントしています。四大大会 23回優勝のセリーナ「彼女はベストを尽くしている」
  大坂選手が大会を棄権したことについて、テニスの四大大会で23回の優勝を誇るアメリカのセリーナ・ウィリアムズ選手が、全仏オープン1回戦のあとの記者会見でコメントしました。
  ウィリアムズ選手は「会見場へ行くのがすごく難しかったことが私にも何回もあったが、それが私を強くしてくれた。私は大坂選手の気持ちがわかる。彼女がやりたいように、彼女が考える最善の方法で対処してもらうしかない。それが私が言える唯一のことだ。彼女はベストを尽くしていると思う」と述べて理解を示しました。
大坂 棄権でも五輪出場権獲得の見通し
  今回の全仏オープン終了後に発表される女子シングルスの世界ランキングの上位56人は東京オリンピックの出場権を獲得します。
  現在世界ランキング2位の大坂選手は大会を棄権してもほかの選手の成績にかかわらず、オリンピックの出場権を得られる見通しです。
精神科医「精神面への影響とスポーツに精通した医師が関与を」
  精神科医で日本スポーツ精神医学会の理事を務める早稲田大学の堀正士教授はこれまでスポーツ選手と関わった経験をもとに「大坂選手のようにトップアスリートであればあるほど、ライバルに心の状態を知られることは、競技を行う上で大きなハンディキャップになるので、通常なら精神科で治療を受けるようなうつ状態であっても、受診せずに表に出てこないことはある」と指摘しています。

  そのうえで堀教授は「大坂選手は大会を棄権する理由を説明するために、心の状態を明かさないといけないという状況にまで追い込まれていたのかもしれない。プロスポーツでは大きな批判やプレッシャーを受ける中で報酬を受け取っているという現実もあるが、記者会見に応じるかどうかなどについて、もう少し選手の自主性を尊重することは大事だと思う」と話しています。
  またケアのあり方について「スポーツ選手に精神科の医師が関わる機会はまだ少ないが、症状によっては薬を使った治療が必要な場合もある。ドーピングになるおそれもあり精神面への影響とスポーツの両方に精通した医師が積極的に関わることが必要だ」と指摘しました。


2021.05.31-Yahoo!Japanニュース(Tennis Classic)https://news.yahoo.co.jp/articles/1dabfd26563e43d4e74227e510ea02b9b32303d6
大坂なおみの記者会見拒否にグランドスラムが声明。続けば大会から追放や出場停止の可能性も。これに対して大坂はツイートで反論[全仏オープン]【テニス】

  5月30日、全仏オープンをはじめとする全豪オープン、ウィンブルドン、USオープンのグランドスラムは、記者会見を行わないことを表明した大坂なおみ(日清食品/世界ランク2位)に対しての声明を発表。グランドスラムの規約により罰金を科すこと、そして今後も同様の行動を続けると大会からの失格や将来のグランドスラム出場停止につながると警告した。

  「アスリートのメンタルヘルスを無視している」「何度も聞かれたことのある質問をされたり、疑念を抱かせるような質問をされたりする」として、全仏オープン開幕前に記者会見を行わないと宣言していた大坂。

  これに対し、大会側は大坂の再考を求め、対話しようとしたもののうまくいかず。さらに、全仏オープンや他の3つのグランドスラムは、共同で大坂に手紙を送り、対話を提案。大坂の義務やそれを果たさなかった場合の影響を再認識させたという。

  だが、同日に行われた1回戦後の記者会見に応じず。大会は大坂に罰金1万5千ドル(約165万円)を科した。 また、声明では、選手とメディアが関わりを持つことで、テニスというスポーツの発展と成長、選手のファンの拡大に貢献しているとし、今後もメディアへの義務を無視し続けると、さらなる規約違反につながると警告。大会からの追放や多額の罰金、今後のグランドスラム出場停止にまで及ぶとした。

  大坂の発言について、男子テニスのノバク・ジョコビッチ(セルビア)やラファエル・ナダル(スペイン)、女子テニスのアシュリー・バーティ(オーストラリア)らトップ選手は、大坂の行動に一定の理解を示したものの、「選手の仕事の一部」だとコメント。
  錦織圭(日清食品)も「彼女の真意がどこにあるのかわからないので何とも言いづらいですが、(記者会見で)嫌なことを聞かれるときもあるし、なおみちゃんの場合は特にそういう(社会的な)活動もしている。立ち位置的なところで、嫌な質問を聞かれることが僕より断然多いと思うので、理解はできたりします。
  けど、大会のプロモーションの一環として選手がやらなければいけない一つのことかなとも思う
」と語っていた。

   (以下追記)
この声明に対するものであろう。現地22時37分に、大坂は自身のTwitterで怒りは理解の欠如。変化は人を不快にさせる」と綴っている。対話をする気はないという意味なのか、試合での集中力にも影響しそうなだけに、早く決着をしてほしいところである。


2021.05.19-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210518/k10013038271000.html
俳優 田村正和さん死去 77歳 多くのテレビドラマで活躍

  民放のドラマ「古畑任三郎」シリーズなどに出演し、多くのテレビドラマで活躍した俳優の田村正和さんが先月3日、心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。77歳でした。田村正和さんは京都で生まれ、父親は往年の大スター阪東妻三郎さん、兄の高廣さんと弟の亮さんも俳優という役者一家の中で育ちました。
  昭和36年に映画「永遠の人」で俳優として本格的にデビューし、その後、テレビドラマを中心に活躍して、「眠狂四郎」のような時代劇でのニヒルな剣客の役や、「うちの子にかぎって・・・」でのコミカルな教師役などで人気を集めました。
  中でも、三谷幸喜さんが脚本を務めたドラマ「古畑任三郎」シリーズでは、完全犯罪をもくろむ犯人を徐々に追い詰めていく刑事の役を演じて話題となりました。
  NHKでも三島由紀夫原作の「長時間ドラマ 鹿鳴館」や、昭和52年から放送された時代劇の「連続ドラマ 鳴門秘帖」に出演するなど、幅広い役柄を演じて活躍してきました。
  関係者によりますと、田村さんは平成30年に放送されたドラマ「眠狂四郎The Final」に出演したのを最後に仕事から離れていました。
  そして先月3日、心不全のため東京都内の病院で亡くなったということです。77歳でした。
弟の田村亮さん「兄は幸せな人生を送った」
  俳優の田村正和さんが亡くなったことを受けて、弟で俳優の田村亮さんが自身の公式ホームページでコメントを発表しました。
  この中で亮さんは「正和兄貴の奥さんからの突然の知らせで一瞬何のことか理解出来ずぼう然としました」と知らせを受けた時の状況を記したうえで、「兄は幸せな人生を送ったと思います。仕事でもプライベートでも何事も自分のライフスタイルを崩さず全うしたと思います。葬儀も派手にせず静かに見送ってくれと家族に言っていたそうです。生前、兄に関わって下さった方々に、私からも心より厚く御礼申し上げます」とコメントしています。
「古畑任三郎」の企画担当者「田村さんなくして古畑なし」
  田村正和さんの代表作、「古畑任三郎」シリーズは、フジテレビで平成6年から放送されました。
  企画を担当した石原隆取締役は、「『古畑任三郎』の企画を始めたとき、真っ先に名前が思い浮かんだのが田村正和さんでした。収録が始まり、飄々と、そしてねちっこく犯人に迫っていく古畑任三郎を演じる田村さんを見たとき、やはりこの方にお願いして良かったと思ったのが、つい昨日のように思い出されます。田村さんなくして、あのドラマはありませんでした。この度の訃報に接し、とても残念な思いでいっぱいです。謹んで哀悼の意を表したいと思います」とコメントしています。
ドラマ共演の岸本加世子さん「もう一度抱きついて甘えたい」
  田村正和さんの訃報を受け、昭和63年の民放のドラマ「ニューヨーク恋物語」で共演した岸本加世子さんは、「突然の訃報に身体の震えが止まりません。『ニューヨーク恋物語』で相手役をさせて頂いてからずっと大好きな俳優さんでした。いつも私のバカ笑いを『その笑い方やめろ!』と注意され、その注意される事が嬉しくてまたガハハとバカ笑いをし、でも最後は優しく微笑みながら頭をコツンとしてくれました。もう一度『正和さーん』と抱きついて甘えたいです。淋しいです」とコメントしています。
西村まさ彦さん「多くのこと学び、感謝の気持ち」
  俳優の田村正和さんが亡くなってことを受けて、民放のドラマ「古畑任三郎」シリーズで共演した西村まさ彦さんがコメントを出しました。
  この中では「『古畑任三郎』でご一緒させていただいたことは私にとって飛躍の大きなきっかけとなりました。作品、役に向き合う真摯でストイックな姿勢。多くのことを学ばさせていただきました。田村さんには感謝の気持ちでいっぱいです。お元気でいらっしゃるだろうかと、時折思うことがありました。生きていてくだされば、ただそれだけでお話しする機会もあっただろうにと残念でなりません。心静かに、ご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。
渋谷の街でも惜しむ声
  俳優の田村正和さんが亡くなったことについて東京 渋谷で話を聞きました。
  40代の女性は、「出演しているドラマをたくさん見たことがあり亡くなったと聞いてとても驚きました。ものまねをされるくらい有名な人だったのでとても残念です」と話していました。
  また、40代の男性は、「優しい雰囲気が印象的な俳優でした。最近はテレビで見ることは少なくなっていましたが、『お疲れさまでした』と声をかけたいです」と話していました。
  70代の男性は、「多くの作品を見てきましたがクールで頭のいい印象でした。お悔やみ申し上げます」と話していました。


2021.04.26-Yahoo!Japanニュース(HUFFPOST)-https://news.yahoo.co.jp/articles/3b70d66044533cb0d54b5dad823363c120c3fe64
アカデミー賞2021、監督賞はクロエ・ジャオ。女性監督は史上2人目

  日本時間4月26日に授賞式が行われた第93回アカデミー賞。【若田悠希・ハフポスト日本版】 監督部門では、『ノマドランド』のクロエ・ジャオ監督が受賞した。女性監督としては2人目、アジア系女性としては史上初となる快挙となった。これまで、女性が監督賞を受賞したのは、2009年の『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー監督だけだった。ジャオ監督は中国で生まれ、現在はアメリカを拠点に映画を撮っている。

   プレゼンターを務めたのは昨年監督賞を受賞したポン・ジュノで、アジアにルーツを持つ監督が2年連続の受賞となった。 クロエ・ジャオ監督は授賞式で「最近よく考えるのです。大変な時にどうやったら前進できるのかと」といい、中国で育った時のことを回顧した。
  そして「心から信じていることがあります。いつも人々の心に善があると信じています世界のどこに行ってもそうです。善良な心があるのです。信じる人たち、勇気のある人たち、善のある人たち。相手のよきところを守ろうとする人たち。(この賞を)その人たちに捧げたいと思います」と述べ、感謝を伝えた。


2021.04.15-Yahoo!Japanニュース(東洋経済 ONLINE)-https://news.yahoo.co.jp/articles/5613abf18370b3439cb5d845bca0e41e7a08ace5
松山より先にオーガスタV「梶谷翼」17歳の凄さ
(1)
  男子メジャー「マスターズ」で松山英樹が日本選手初のメジャー制覇を果たし、日本中がわいた。その松山に「エール」を送った17歳がいる。

  マスターズの前週に行われる「オーガスタ・ナショナル女子アマチュア選手権」会場はマスターズと同じアメリカのジョージア州オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ世界のトップアマが招待される大会で、梶谷翼(滝川二高3年)がプレーオフでミリアッチョ(アメリカ)を破り、日本選手として初めての優勝を飾った日本選手がオーガスタを2週連続で制覇したことになる。

  マスターズ期間中、松山は69で2位と好スタートを切った第1ラウンドと、65をマークして首位に立った第3ラウンド後に海外メディアから梶谷のことを聞かれている。現地では「KAJITANI」の印象がよほど強かったのだろう。松山は映像を見ていないとしたうえで「彼女はすごいことをやったと思う。僕もそれに続けるようにしたい」と話している。それが、現実になった。ある意味、立役者でもある。
■タイガー・ウッズも祝福のコメント
  梶谷の優勝直後、「マスターズならこの人」と言われるタイガー・ウッズが自動車事故で重傷の病床からツイッターに「ツバサ・カジタニさん、優勝おめでとう。素晴らしいプレーオフだった。特別な瞬間を楽しんでください」と投稿している。世界のトッププロに注目された優勝だった。

   梶谷は「オーガスタは憧れ。目標が実現した。日本人、アジア人初というのがうれしい」とコメントした。報じられた優勝写真をみて、笑いがこみあげてきた。トロフィーを頭の上に掲げる。懐かしい光景だった。あの内気で人見知りだった子が世界一のトロフィーを掲げている。ゴルフ界でこの先、顔と名前が出てくる選手だと思うので、紹介させていただきたい。

  毎年7月にアメリカ・サンディエゴで「世界ジュニア選手権」が行われる。6歳以下から2歳刻みの年齢カテゴリーになっており、最後は15~18歳で、世界中の同年代の選手たちと争う大会になる。筆者は2011年から取材に関わっている。
   梶谷が初めて出場したのは2012年だった。7~8歳の部の日本予選、決勝を勝ち抜いて日本代表として日の丸をつけて戦い、優勝を果たした。

   大きなトロフィーをもらってご満悦の梶谷。撮影していた筆者が「何か、ポーズ作ろうか」と思案していると、梶谷は頭の上にトロフィーを載せる。以後、世界ジュニアの表彰式でトロフィーを頭に載せる選手が多くなっている。17歳になっても、このポーズを決めてくれた。
(2)
■幼少期の梶谷は内気な子だった
  岡山県出身の梶谷は、7歳のときに父の教義(たかよし)さんにゴルフ練習場に連れていってもらったのがきっかけで、ゴルフを始めている。2011年以降、多くのジュニアゴルファーにアンケートを取っているが、お父さんに練習場に連れていかれたことをきっかけに、プロゴルファーを目指す、というのが多くの子どもたちのゴルフの始まりだ。
   その後「プロ」を前提に、親からゴルフを「やらされる」選手も少なくないのが、日本に限らず世界の現状でもある。親の将来を子どもに預ける。親の考え方なので「問題だ」とは言わないが、子どもにとっては大きなプレッシャーを感じるだろうし、成功するのはほんの一握りというのが現実でもある。

  梶谷の場合、どんな「育ち方」をしたのだろう。筆者が出会ったときから、父の教義さんは看護師をしている。父、母、弟の4人家族。ゴルフが趣味の教義さんは80台、よければ70台で回れる腕を持っていたそうだ。

   「翼は内気な子でした。ゴルフは個人スポーツですけど、一緒に回る人がいてコミュニケーションが必要ですし、自分が審判をする、マナーを学べる、そう思ってさせてみました。クラブにボールを当てるというのは初めてだとなかなかできないのですが、翼はしっかりヒットしていた」
  素質はありそうと思ったそうだ。練習場で見知らぬ人からこう言われた。
  「娘をプロにしたいんなら、お父さんはゴルフをやめなさい
   子どもは大人の真似をする。変な癖がつかないようにというアドバイスで、教義さんは趣味をあきらめた。
   世界ジュニアとのかかわりはすぐ来る。教義さんが偶然見つけた世界ジュニアの日本予選に、ゴルフを始めて間もない2011年に出場。会場の千葉県には、「家族旅行の気分で車で行きました」(教義さん)。結果は2位で世界には行けなかったが「前半トップに立ちまして、本人も『あれ?』みたいな。世界が見えたなと(笑)。本人がやる気になりました」。
(3)
  梶谷がゴルフを本格的に始めたのは「本人の意思」だったのが、その後につながってくる。教義さんは「自分で気づくことが大事だと思います」という。そうなると、ゴルフはお金がかかるスポーツでもある。
   「家計は大変でした。今もそうですけど」と教義さんは笑う。贅沢を考えず、娘の目標=世界を達成できるように家族が見守った。「遊びのパター合戦であろうが、ゴルフに関しては勝ちにこだわらないといけないよ、と(梶谷には)言った。そしてお金のあるないで練習環境が違うことを負けた理由にしない、創意工夫をしてやろう、と」。
■ジュニアの育成に熱心な岡山県
  岡山県のジュニアゴルフの環境も、梶谷を育てた要因に1つでもある。岡山県ゴルフ協会では20年以上前から、「ジュニア育成として県内35の加盟クラブにジュニア特別料金の設定を依頼し、ゴルフ場側も低料金で応じてくれています」(小川慎二事務局長)。
   ジュニア会員(小1~高3)の登録をすると、土日も含めて1ラウンド1000~3000円前後でプレーできるコースが多い。各都道府県でジュニア料金が設定されているが、岡山県は特に低価格といえる。

  「翼が子どものころは、練習場では300円程度で打ち放題にしてくれた。コースも午後からハーフ(9ホール)をキャディーバッグ担いで回れば1000~2000円でした。ありがたかった」と教義さん。こうした土壌があって、岡山県からは渋野日向子らも育っている。  多くのジュニアゴルファーは、平日が練習場、土日がラウンドというサイクルが多い。ところが梶谷の場合、週末は弟の駿くんとショートコースに行ってアプローチの練習をずっとやっていたという。小中学生時代にはコーチについていなかった。費用の面もあるが、教義さんが言う「自分で気づく」「創意工夫」の1つだ。

  2012年、ゴルフを始めて2年足らずで世界ジュニア7~8歳の部の優勝を果たす。その後も世界ジュニアへの出場にこだわった。小学生世代の大会が少ないのも理由だが、「経験」を大事にした。
   9~10歳の部では、3位、2位となり、優勝できなかった。同年代では飛距離も技術も抜きんでていたが、梶谷にとって全長2435ヤード(パー56)のコースが短すぎて戸惑ったきらいがあった。
   11~12歳の部で5653ヤード(パー72)のコースになり、2015年、2016年と2年連続優勝。年代別世界一に計3度なった。「世界ジュニアに育ててもらったという気持ちはあります」と教義さんは振り返る。
(4)
  プロゴルファーであり、日本予選を開催して世界ジュニアへの選手派遣権を持つ国際ジュニアゴルフ育成協会の井上透代表理事は、梶谷父娘から多くの相談を受けている。「翼はいい意味で勝ち癖があるのと、小さいころから世界で戦う慣れがあったのは間違いない」と言う。
   井上代表理事が父娘へのアドバイスとしていちばん重要と思ったのは「技術的なことよりも、内気で話が苦手なタイプでしたので、会話ができること、自分が伝えたいことを言葉にできることが大事と言ってきました。思っていることを相手に伝えられないと、アドバイスもできません」。
■在学中の滝川二高で「キャプテン翼」に
  梶谷が苦手だったコミュニケーションは、ナショナルチーム入りと、高校進学を機に変わっていったという。2019年に日本ゴルフ協会(JGA)のナショナルチームに選ばれた。日本ジュニアに勝ち、日本女子オープン9位でローアマ(アマの最上位)を獲得
  現在、日本女子アマランク1位だ。  ナショナルチームの活動で多いのが海外で戦う「団体戦」。2020年はコロナ禍で大会がなかったが、2019年には3試合で日本代表として戦っている。合宿やコーチング、トレーニングなどのサポートもあって、女子ツアーを席巻している「黄金世代」「プラチナ世代」もナショナルチームから生まれているといってもいい。
  日の丸を背負う団体としての活動が、梶谷にとっては内気を克服する環境にもなった。その表れが、在学中の兵庫・滝川二高のゴルフ部主将に「自分の成長になれば」と、立候補した。「キャプテン翼」の誕生だ。教義さんは「ナショナルチーム、高校で、自覚や覚悟、責任感など、人間性を成長させてくれたんだと思います。今は自分の思いや疑問を伝えられるようになりました」と言う。
   オーガスタ・ナショナル女子アマチュア選手権に出発前、使っているアイアンの飛ぶ高さとスピン量に疑問を持ち、メーカーに自ら相談してロフト角(垂直面に対するクラブフェースの角度)を2度寝かせてもらったという勝利の要因になった。
(5)
  「創意工夫」「自分で気づく」「言葉で伝える」といったことは、ゴルフに限らず、どの世界でも必要。梶谷は子どものころから、そんな環境に相次いで身を置けたのが、よかったのかもしれない。
   まだ17歳、これからが大変だ。今年の女子プロテストを受験する予定だが、その前に今回の優勝で女子ツアーのトーナメントから推薦の出場オファーがいくつも届いているという。すでに5月の中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンへの出場が決まっている。
  教義さんは「今年の女子ツアーは2年間で1シーズンになっていますが、アマチュアが出られる試合数が規定で8試合。あと2試合しか出られないんです」と、悩ましい選択に迫られている。
   2021年は37試合開催予定で、2020年に行われた14試合と合わせて51試合で1シーズンとなる。今年は新型コロナウイルス感染防止対策のうえでの有観客試合もでてきている。学業との兼ね合いはあるが、梶谷を見たいファンも多いだろう。
■ゴルフ界にとっては明るい材料
  岡山県ゴルフ協会のジュニア会員登録。石川遼が出てきた2009年ごろに500人を超えたが、その後減少に転じていた。「渋野選手の活躍で増えてきて今は230人ほどです」(小川事務局長)。梶谷優勝で問い合わせもあり「さらに」と期待感がある。

   梶谷が育った世界ジュニアの開催はコロナ禍で不透明だが、日本代表を決める日本予選が現在各地で開催されている。国際ジュニアゴルフ育成協会ではこれまで日本代表の渡航費用の補助をしてきたが、今年はコロナ禍で協賛スポンサーが減っている。男女ツアーには時松隆光、畑岡奈紗らここ10年ほどの世界ジュニア経験者は多い。「翼のような選手が出てくるよう、これからも続けます」と井上代表理事。今年も約1000人がかつての梶谷のように世界を目指している。

  子どもたちが「自分から」ゴルフを始めたい、「世界を目指してみよう」と思えるような目標に、年齢的にも身近な梶谷がなっていくなら、ゴルフ界には明るい材料だ。こうした選手が多く出るように「環境」をつくる家族、地域、組織(協会)であることも大切なことを、あらためて梶谷が教えてくれた。同時にそうした環境をなくさないことも、今後の子どもたちのために大事だ。(一部敬称略)
 赤坂 厚 :スポーツライター


2021.04.12-Yahoo!Japanニュース(my caddie)-https://news.yahoo.co.jp/articles/dcacf2e750da252f9ae55dc3c391cb1319d8ccc3
松山英樹、アジア人初のマスターズ制覇 悲願のメジャータイトル獲得

  海外男子メジャーのマスターズは11日、米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード・パー72)で最終ラウンドが行われ、松山英樹が通算10アンダーで悲願のメジャー初制覇を果たした。

  4打差リードの単独トップから出た松山は、出だしの1番パー4はティーショットを右に曲げボギーとしたが、2番パー5でバンカーからの第3打目を寄せてバーディを奪う。3番から7番はパーとし、8番パー5はグリーン奥からの第3打目を約1メートルに寄せてバーディ。続く9番パー4も第2打目を約1メートルにつけバーディと2アンダーで折り返した。
   10番、11番はパー。12番パー3はティーショットを奥のバンカーに入れて寄せきれずボギーとしたが、13番パー5でグリーン奥からのアプローチを約30センチにつけタップインバーディ。14番はパーセーブ、15番パー5は第2打目がグリーン奥の池に入りボギー、16番パー3はグリーンを捉えるも約12メートルの難しいバーディパットから3パットのボギー。17番はパー、18番はボギーとしたが、トータル4バーディ、5ボギーの1オーバー「73」を記録し快挙を成し遂げた。

   この優勝で松山は、マスターズ覇者に贈られるグリーンジャケットに袖を通す初のアジア人選手に。また、樋口久子(1977年/全米女子プロゴルフ選手権)、井戸木鴻樹(2013年/全米プロシニアゴルフ選手権)、渋野日向子(2019年/AIG全英女子オープン)に次ぐ、海外メジャー大会を制した4人目の日本人選手となった。  さらにマスターズ前週に開催されたオーガスタ・ナショナル女子アマで梶谷翼が優勝と、2週連続で日本人選手がゴルフの聖地で頂点に立った。
   通算9アンダー単独2位にウィル・ザラトリス(米)、通算7アンダー3位タイにジョーダン・スピース(米)、ザンダー・シャウフェレ(米)が入った。


2021.04.06-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20210406/k00/00m/040/321000c
三島由紀夫の掌編小説「恋文」発掘 専門家「力量示す作品」

  作家の三島由紀夫(1925~70年)が24歳で新聞に発表し、そのまま埋もれていた「恋文」と題した掌編小説の存在が確認された。匿名の手紙を巡る秘密と家庭内の不穏な空気を通じて、米占領下の日本社会の状況が暗示されている。7日発売の文芸誌「新潮」5月号に掲載される。
  49年10月30日付の朝日新聞大阪版と西部版の「400字小説」特集の一編として掲載された。単行本や全集には未収録で、研究者の間でも存在が知られていなかった。日本近代文学が専門の斎藤理生(まさお)・大阪大教授が、当時の新聞の文芸欄を調べる中で今年2月に見つけた。

  三島は48年に専業作家となり、49年7月に出世作「仮面の告白」を刊行。掲載当時は新鋭作家として注目を集め始めたところだった。
   小説の冒頭、「支店長」の男が宴会の席でハンカチを取り出そうとして、知らぬ間に入っていた手紙を見つける。その恋文の秘密を通じて、男が自らの家庭の状況を把握できていないことが示される。


   斎藤教授は「占領下の日本を表しているように読める」と指摘。「若き三島の物語作家としての力量を示す作品」と話している。【関雄輔】


2021.04.05-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210405/k10012957451000.html
脚本家の橋田壽賀子さん死去「おしん」など手がける 95歳

  「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など、数多くのテレビドラマを手がけ、文化勲章を受章した脚本家の橋田壽賀子さんが、4日急性リンパ腫のため静岡県内の自宅で亡くなりました。95歳でした。

  橋田さんは大正14年に現在の韓国・ソウルで生まれ、終戦後の昭和24年に映画会社の「松竹」に入社、その後、フリーの脚本家としてテレビドラマの人気作品を数多く手がけました。
  民放のテレビドラマ「愛と死をみつめて」などの作品で知られるようになり、「おんな太閤記」や「春日局」などのNHK大河ドラマも担当しました。
  中でも昭和58年から59年にかけてNHKで放送された連続テレビ小説「おしん」は、明治から昭和にかけて力強く生きる女性を描いて国民的な人気ドラマとなりました。
  ビデオリサーチによりますと、最高視聴率は「62.9%」で、これは国内のテレビドラマで歴代最高の視聴率だということです。
  「おしん」は、アジアや中東、アフリカを中心に60以上の国や地域でも放送され、世界的なブームを巻き起こしました。
  また、民放のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」は、平成2年の放送開始から500回以上放送される長寿番組となり、ありふれた日常の暮らしを描きながら社会で起きている現象を織り込み、辛口ホームドラマの代表作として高く評価されています。
  平成4年には新人脚本家の育成を目的に、「橋田文化財団」を設立し、日本人の心やふれあいを温かく取り上げた番組や人に贈る「橋田賞」を毎年主催するなど、後進の育成にも力を注いできました。
  橋田さんは、平成27年に文化功労者に選ばれ、令和2年には文化勲章を受章しています。
  橋田さんは90歳を超えてからの雑誌への寄稿や著書の中で、自身が認知症や寝たきりになった場合には、安楽死を望んでいることを明らかにし、死の公表や葬儀を行わないよう、周囲に伝えていると、記していました。
  また、文化勲章を受章した時には、NHKの取材に対し「安楽死をテーマにした作品を書きたいという思いをずっと持ち続けています。お年寄りが1人で生きる覚悟をして、どう生きるかを考えて書いてみたいです」と話していました。
  橋田文化財団によりますと、橋田さんは、ことし2月下旬に都内の病院に入院し、先月中旬からは静岡県熱海市内の病院に転院、3日、熱海市内の自宅に戻ったということで、4日、急性リンパ腫のため、自宅で亡くなりました。
  95歳でした。
  また、財団によりますと、本人の遺志によって通夜と告別式は執り行わず、お別れの会も行う予定はないということです。
泉ピン子さん「最後はずっとそばにいられた」
  橋田壽賀子さんが亡くなったことを受けて、橋田さんのドラマに数多く出演してきた俳優の泉ピン子さんは次のようなコメントを発表しました。
  「きのう意識がなくなったとき 『ママ』って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。橋田さんは『悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから』といつも言っていました。『でも、私が先に逝くとは限らないけど』と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。ですから最後は『千の風になって』をかけて送りました。今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから 熱海に越してきた意味があったと思います」
小林綾子さん 「先生のおかげ 人生の幅を大きく」
  NHKの連続テレビ小説「おしん」で主人公の子ども時代を演じた小林綾子さんは「あまりにも突然の訃報に、信じられず、寂しい気持ちでいっぱいです。私が『おしん』に出演させていただいたのは10歳の時でしたが、それ以来、橋田先生のドラマや舞台にたくさん出演させていただき、本当にお世話になりました。心から感謝しております。どんなときも、温かく見守ってくださるお優しい先生です。今こうして私が仕事をさせていただけているのは、橋田先生のおかげです。先生が『おしん』を書いて下さったおかげで、人生の幅を大きく広げていただきました。先生の作品は、いつまでもみんなの心の中で生きています。橋田先生、本当にありがとうございました」とコメントを寄せました。
石井ふく子さん「こんなに急だなんて 悔しくて」
  橋田さんが脚本を務めたドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のプロデューサーの石井ふく子さんは「橋田さんとは60年のお付き合いです。年中けんかをしたり、相談したり、家族のように付き合ってきました。1日電話をしないと『どうしたの?』と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて 悔しくて、なんと言っていいかわかりません。『あなた1人でどこに行ったのよ』という思いでいっぱいです。橋田さんは現在のコロナ禍の状況を見て、そこで感じた家族の形を書きたいとおっしゃっていました。同時に『私はいつも1人だと思っていたけれど、あなたたちがそばにいてくれたのね』とおっしゃって。私は『今更、なにを言ってるのよ』と返しましたけれど。お互いに元気でいようねって話していたところでした。今、私の隣りに笑って私を見ている遺影があります。まだ、橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません」とコメントしました。
伊東四朗さん「『おしん』父親役は役者人生に画期的な事」
  橋田さんが手がけたNHKの連続テレビ小説「おしん」で父親役を務めた、俳優の伊東四朗さんは「あの国民的番組『おしん』の父親役に呼んでいただいたのは、その後の役者人生にとって画期的な事でした。橋田先生有り難う御座いました、ゆっくりお休み下さい。合掌」とコメントを出しました。
植草克秀さん「まだ嘘ではないかと思う気持ち」
  橋田さんが手がけた「渡る世間は鬼ばかり」に出演していた俳優の植草克秀さんはツイッターに次のようなコメントを投稿しました。
  「あまりの急なことに今はまだ嘘ではないかと思う気持ちです。渡る世間は鬼ばかりは自分の人生の中でもとても大きな仕事で、先生と一緒にやってこれて本当に感謝しかありません。自分の中ではいつも元気な橋田先生のイメージです。すいません、ショックでまだうまくまとめられません」
中田喜子さん「力強い声でお話なさる先生 今も信じられません」
  橋田さんが手がけた、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に出演した俳優の中田喜子さんは「橋田先生の作品に初めて出演させていただきましたのが、25才の時でした。それから40年以上、先生が生み出す人間味あふれるドラマに出演させていただきました。いつも力強い声でお話なさる先生にもうお会い出来なくなるとは、今も信じられません。心よりご冥福をお祈り致します。合掌」とのコメントを発表しました。
藤田朋子さん「さみしいです どうしようという気持ちです」
  ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に出演していた、俳優の藤田朋子さんは「突然のことすぎて言葉が見つかりません。毎年、お誕生日に笑顔でご挨拶させて頂いていましたが、去年は、お目にかかれず、今年は5月にお会いできるのかなと心待ちにしていました。ご病気のことも存じ上げずにいました。信じられません。先生また、お会いしたかったです。さみしいです。どうしようという気持ちです」とコメントを発表しました。
イランでも 「おしん」称える声
  イランでは、NHKの連続テレビ小説「おしん」が1980年代に国営テレビで放送され、当時、ほとんどの国民が視聴したと言われるほど人気を呼びました。
  首都テヘランに暮らす47歳の男性は「おしんの放送が始まると、みんなが見逃さないように画面に見入っていた。おしんは本当に面白くて、私たちはテレビを見ながらとてもよい時間を過ごせた」と話していました。
  また、テヘランに住む女性は「当時、イランでは映画やドラマが多くなかったこともあって、このドラマはみんなの心をとらえたと思う」と話していました。
  さらに別の女性も「本当に、本当に好きなドラマでした。おしんの放送に間に合うように当時は仕事を切り上げていた。彼女が安らかに眠れることを願っている」と話し、橋田壽賀子さんの功績をたたえたり、その死を悼んだりする声が相次ぎました。
エジプトでも 作品懐かしむ声
  中東のエジプトでもNHKの連続テレビ小説「おしん」が1990年代に国営テレビで放送され、子どもに「おしん」と名付ける親が出るなど大きな人気を呼びました。
  55歳の女性は、「みんな、見ていました。ストーリーに引きつけられ、同じように努力を重ねて自分たちも成長していきたいと思ったからです」と話していました。
  また、別の女性は、「いいストーリーですぐれたドラマだったので、見ていました。日本人の努力を伝えるドラマでしたが、エジプト国民にも似ているところが多いと思いました」と話し、作品を懐かしんでいました。
  さらに55歳の男性は、「すぐれたドラマだったので、今でも覚えています。同じようなドラマをつくってくれる人がまた、現れてほしいです」と話していました。
台湾でも速報
  台湾でもNHKの連続テレビ小説「おしん」が複数のテレビ局で繰り返し放送され、人気を博しました。
  台湾の各メディアは橋田さん死去の知らせを速報しました。
  このうち「中国時報」の電子版は、橋田さんを「日本の国宝級の文化人で、テレビドラマの『おしん』は今でも多くの人を感動させている」とたたえた上で、安楽死を望んでいたことにも触れました。
過去には中国の当時の国家主席も「おしん」に言及
  橋田壽賀子さんが手がけたNHKの連続テレビ小説「おしん」は、中国でも1985年に初めて、国営の中国中央テレビで放送され、大ヒットしました。
  主人公のおしんは「阿信」と訳され、どんな苦境に直面しても強く生きる姿が中国人の心をつかみました。
  過去には当時、国家主席だった胡錦涛氏が、日本訪問を前にした2008年、メディアとの会見で日本人に対する印象を聞かれた際に「おしん」について言及し、「主人公が強い信念で物事を成し遂げていく精神に深い印象を持った」と話していました。
「おしん」ロケ地の山形で悼む声
  NHKの連続テレビ小説「おしん」の舞台となった山形県内では死去を悼む声が聞かれました。
  このうちロケ地の1つ、山形県酒田市の男性は「びっくりしました。『おしん』は酒田にとって特別で、亡くなったといっても実感がわきません」と話していました。
  また別の女性は「『おしん』が放送された当時は会社に勤めていて、みんなで休憩室で見ていたのを覚えています。『おしん』といえば酒田ですから、いつまでも記憶に残ってほしいドラマです。残念です」と話していました。
橋田さんが育った大阪の街の人は
  大阪 堺で育った橋田さんが亡くなったことについて、JR大阪駅前では惜しむ声が聞かれました。
  豊中市の49歳の会社員の男性は「大阪で育ったことは知りませんでしたが、ゆかりの有名人が亡くなるのは残念です。『おしん』などの重厚感のある作品や『渡る世間は鬼ばかり』といった人情味のある作品まで、さまざまな作品を残した20世紀を代表する脚本家の1人だったと思います。これからも多くの仕事をされると思っていたので、心からお悔やみを申し上げたいです」と話していました。
  京都市の69歳の女性は「橋田さんが脚本を書いたドラマが好きで、よく見ていたので驚きました。日常にある小さな感情のすれ違いなど、自分にとっても共感ができる描写が魅力的で、亡くなったと聞いて残念に思います」と話していました。
  大阪 北区の30歳の男性は「新しいものを取り入れた作品を次々に生み出されていて、最近も『おしん』を見たばかりでした。すばらしい作品をありがとうございました。お疲れさまでしたと言いたいです」と話していました。
東京 新宿の街の人は
  橋田さんが亡くなったことについて、東京 新宿の街頭で話を聞きました。
  50代の女性は「元気だと思っていたのでびっくりしました。『おしん』は、みんなテレビにくぎづけ状態でした。庶民の生活などをよく見て、きちんと表現しているなと思っていました」と話していました。
  80代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』が楽しみでファンでした。嫁しゅうとめは難しいところがあるんだなあというところを感じながら見ていました。私も義理の親と住んでおり、よい両親でしたが、それでもやはりいろいろありますから。ご冥福を祈るばかりです」と話していました。
  30代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』は子どもながらに衝撃的でした。今はあまりない番組なので、何かひとつ時代が終わったような感じがあります」と話していました。
  50代の男性は「厳しい芸能界の中で、女性として第一線で長くやってこられたと思います。最近、芸能界で偉大な方が立て続けに亡くなっているので『またか』という気持ちがあります」と話していました。
静岡 熱海 近所の人も悼む
  静岡県熱海市にある橋田壽賀子さんの自宅近くで家具店を営む佐藤勝海さん(77)は、50年近く前に橋田さんが移り住んだ頃から家族ぐるみのつきあいがあったということです。
  互いに自家製の農作物を届けたり、橋田さんが本を出版する際にはサイン入りで送られてきたりと、親交を深めてきたということです。
  佐藤さんは「旅行が好きな人で、おととしまで毎年、世界一周の旅に行ってきたという話を聞いていました。気さくな人柄でよいおつきあいをさせていただいていて、去年の秋ごろお話ししたときには元気そうだっただけに、亡くなったと聞き、とても残念です」と話していました。


2021.04.05-Yahoo!Japanニュース(日刊ゲンダイ DIGITAL)-https://news.yahoo.co.jp/articles/d5fd3674021c9ad5697a3d58a9a1427a8f4bc6b2
池江璃花子が東京五輪代表決定 本番まで4カ月弱、完全復活のカギは「精神力」にあり

  池江璃花子(20)が、まさかの五輪切符を掴み取った。

  4日に行われた東京五輪代表選考を兼ねる競泳日本選手権。池江は100メートルバタフライに出場し、57秒77の記録で優勝。個人種目の派遣標準記録(57秒10)には届かなかったが、400メートルメドレーリレーの同記録(57秒92)は突破。リレーメンバーとして東京五輪の舞台に立つ。 ■6週間で約2秒も短縮  ゴールして電光掲示板を確認すると、右の拳で水を叩いてガッツポーズ。その後は号泣し、プールサイドへ上がると両手で顔を覆った。直後のインタビューでも涙は止まらず「5年前のオリンピック選考よりもずっと自信もなかったし、自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていたんですけど……。自分がつらくてしんどくても、努力は報われるんだなって思いました」と声を震わせた。

   2019年2月に白血病が発覚。一時は15キロ以上も体重が減り、つらい闘病生活を経て、昨年8月に大会復帰。同種目で59秒44を記録した今年2月の東京都オープン(予選)から、たった1か月半でタイムを2秒近く短縮。驚異的な復調ぶりである。
   とはいえ、自身が現日本記録(56秒08)を樹立した18年のパンパシフィック選手権のころに比べると体の線はまだ細く、後半のスピードも戻っていない。
■筋肉より精神が原動力
  東京五輪で女子400メートルメドレーリレーの予選が行われるのは7月30日。残された4カ月弱で完全復活できるだろうか。旧ユーゴのナショナルスキーチームのトレーナーとして五輪や世界選手権に帯同し、数多くのアスリートを指導してきたフィジカルトレーナーの平山昌弘氏は「池江選手ほどのレベルになると、もはや筋肉は関係ない」と、こう続ける。
   「30年以上も選手の体と向き合ってきましたが、トップ選手は何よりも精神が原動力になると思っています。池江選手の心の強さは証明されています。筋肉が落ちたことで効率的な体の使い方が模索され、より洗練される例もある。ケガや病気、出産などで一時的に競技から離れた選手が、以前より好記録を残すケースがあるのもそのためです。池江選手は並の器じゃない。五輪に臨む際、仮に筋肉量が病気前に戻っていなくても、また、五輪の直前練習で好タイムが出ていなくても、気にする必要はありません。きっと、本番では見ている者の想像を超えた泳ぎを見せてくれるはずです」  重い病を克服して天才スイマーが五輪に戻ってきた。


2021.04.02-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210402/k10012952931000.html
ノーベル物理学賞 赤崎勇さん死去 92歳 青色LEDの開発に成功

  青色LEDの開発に成功し7年前にノーベル物理学賞を受賞した名城大学終身教授の赤崎勇さん1日、亡くなりました。92歳でした。
  赤崎さんは現在の鹿児島県南九州市の出身で京都大学を卒業後、当時の松下電器の研究所を経て昭和56年に名古屋大学の教授になり、名古屋市にある名城大学の終身教授を務めていました。
  赤崎さんは当初はほとんど見向きもされていなかった窒化ガリウムに注目し、青い光を出すのに必要な高品質の結晶を昭和60年ごろに作り出し、20世紀中は無理といわれた青色LEDの開発に初めて成功しました。

  この成果によって赤・緑・青の光の3原色のLEDがすべてそろい、フルカラーのディスプレイなどさまざまな分野でLEDの実用化の可能性を広げました。
  また、波長の短い青い色を出す技術はDVDなどの記憶容量を大幅に増やすことができるブルーレイディスクの開発にもつながり、大量の情報をやり取りする現代社会において欠かせない技術となっています。

こうした業績で赤崎さんは、ともに研究に取り組んだ天野浩さんや、同じく青色LEDの実現に貢献した中村修二さんとともに7年前の平成26年にノーベル物理学賞を受賞しました。また、平成23年には文化勲章を受章しています。

関係者によりますと、赤崎さんは去年の年末ごろから体調を崩し治療を続けていましたが1日、肺炎のため名古屋市内の病院で亡くなったということです。
ノーベル物理学賞
天野浩さん「世界にとっても大きな損失」2014年にノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学教授の天野浩さんは「赤崎勇先生が他界されたという事実は、自分の中で、これから研究にどう向き合えばよいのか、心の整理がついておりません。私が先生にご指導をいただいたのは学部4年生のときからで、出来が悪い私を辛抱強く、親身になってご指導してくださり、感謝の言葉しか浮かんできません。先生がこの世を去られたことは、日本のみならず世界にとっても大きな損失であることは間違いありません。先生の研究に対する思いや研究者へのエールを引き継いで、研究を通して日本や世界の人々に幸せを届けること、および次の時代を担う人材を育てることが、先生にご指導をいただいた人間としての使命と思っております。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます」というコメントを出しました。
名古屋大学 松尾清一総長「不屈の研究者魂」
  名古屋大学の松尾清一総長は「赤崎勇先生のご逝去の報に接し、心から哀悼の意を表します。赤崎先生は、『我ひとり荒れ野を行く』という不屈の研究者魂で、開発が不可能とされていた青色LEDを発明され、その研究成果は世界中の人々に新しい光として届けられ、ノーベル賞受賞につながりました。諦めなければ道はひらける、という赤崎先生の研究哲学は、名古屋大学赤崎賞の中に受け継がれ、新進気鋭の若手研究者の励みになっています。お別れすることは本当に残念ですが、われわれ大学人は赤崎先生の教えを胸に刻んで、人類社会の課題解決のために一層精進して参ります」というコメントを出しました。
名城大学 小原章裕学長「常に世界を先導し続けた」
  名城大学の小原章裕学長は「ノーベル物理学賞受賞者で本学の終身教授で特別栄誉教授である赤崎勇先生の突然の訃報に接し、深い哀悼の意を表します。赤崎先生は、多くの研究者が挑戦し、成し遂げられなかった高効率青色LEDを世界で初めて発明され、世界を照らす新しい光を実現されました。本学着任後も、多くの研究者や学生とともに研究に取り組まれ、常に世界を先導し続けました。長年にわたり本学の教育研究活動や学術への多大なご貢献に感謝申し上げるとともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます」というコメントを出しました。
愛知工業大学 澤木宣彦教授「エジソン以来の偉大な功績」
  赤崎さんが名古屋大学の教授だった時に講師などとして支えていた愛知工業大学の澤木宣彦教授は「長い間調子を悪くしていて心配していたが、新型コロナの影響で会うこともできず言葉もありません。赤崎さんは、青色LEDにつながる結晶を作ることをライフワークに定め、周りの人が研究をやめるなど右往左往するなかでも諦めず、とにかくいい結晶を作ることに情熱を注いでいた。エジソン以来の電球からLEDへと照明の歴史を変えるきっかけを作った100年に1回くらいの偉大な功績だったと思う」と業績をたたえました。
  また「情熱家だが、決して命令して考えを押しつけるようなことはなく、たくさんの教え子が育ったことも業績の一つだ」と人柄をしのんでいました。
指導を受けていた名城大学 竹内哲也教授「おやじみたいな存在」
  大学時代、赤崎さんから指導を受けていた名城大学理工学部の竹内哲也教授は「入院されているのは知っていたが、必ず戻って来られると思っていたので本当に驚いた。先輩や後輩もみんなそう思っていると思うんですけど、赤崎先生はおやじみたいな存在だったと思います。非常に一つ一つの実験に対して、ものすごく丁寧にかつ厳しく調べられる先生で、最後の結論に至るまで、ちゃんとステップを踏みなさいよとそういうことを教えてもらいました。ずっと働いてこられたので、ゆっくりお休みくださいと伝えたいと思います」と話しました。
青色LED実用化に取り組む 石田秋生さん「職人気質にひかれた」
  物理学者の赤崎勇さんが亡くなったことについて、今の科学技術振興機構、当時の新技術開発事業団で産学連携プロジェクトを担当し、青色LEDの実用化に向けてともに取り組んだ石田秋生さんは「数年前にお会いしたときにはお元気でしたが、近頃は体がよくなかったと聞いていて、心配していました。非常に残念で、ことばになりません」と話していました。
  30年余り前、当時はあまり注目されていなかった青色LEDの技術に早くから目をつけていた石田さんは、LEDの材料に関する赤崎さんの論文を学会誌で読んで興味を持ち、すぐに名古屋の研究室まで足を運んだということです。
  その時の印象は「キリッとした、厳格な雰囲気のある研究者で当時30代だった私は緊張しましたが、話の節々に感じる物づくりへの前向きな思いや職人気質な人柄に強くひかれ、LEDを一緒に実用化したいと思うようになりました」と話します。
  その後、石田さんは赤崎さんを説得して特許の出願や企業との共同開発の話を持ちかけ、実用化に向けたプロジェクトには国の資金5億5000万円を助成し、開発成功への足がかりができたということです。
  石田さんは「LEDの開発が成功し、商品が世の中に出たあとに、赤崎先生から『出会いというものは奇異なものだけど、あなたに出会えてよかった』と言われたことが何よりも心に残っています。私のほうこそ、赤崎先生と出会えたことで人生が変わり、感謝の思いしかありません。心よりご冥福をお祈りします」と話していました。
卒業した高校 LED照明で照らされた記念碑 鹿児島
  赤崎さんが卒業した鹿児島市の甲南高校には、ノーベル賞受賞の翌年に建てられた記念碑があり、赤崎さんが開発したLED照明で照らされています。
甲南高校の校長「偉大な先輩の功績は子どもたちに」
  甲南高校の池田浩一校長は「偉大な先輩の急な訃報をお聞きして非常に驚いています。今の生徒たちも、あとに続いていけるように、機会あるごとに偉大な先輩の功績は子どもたちに伝えていきたい」と話していました。
科学技術振興機構の理事長「頑固さを持った研究者」
  赤崎勇さんが教授を務めた名古屋大学で学長をしていて、スウェーデンで行われたノーベル賞の授賞式にも出席するなど長く交流があった科学技術振興機構の濱口道成理事長は「赤崎さんの『一人荒野を行くがごとく』という言葉が一番心に残っています。実現は難しいと考えられていた窒化ガリウムを結晶化する研究に取り組み、誰も選ばない道を選んだいい意味で頑固さを持った研究者だった」と振り返りました。
  そのうえで「赤崎先生は企業の研究者だった時期もあり、社会が何を求めているかを強く念頭に置いていたことが青色発光ダイオードの開発に結び付いたと思う」と赤崎さんだからこそ成功した業績だと評価していました。
京都大学 湊長博学長「先生の志を受け継ぎ 一層努力」
  赤崎勇さんの母校、京都大学の湊長博学長は、「赤崎先生の偉大な功績により、本学の教育研究活動は大いに奨励され、特に学生や若い研究者に対しての大きな励みになっておりました。私達一同、赤崎先生の志を受け継ぎ、世界に貢献する創造的な研究をめざして一層努力していく所存です。心からご冥福をお祈り申し上げます」というコメントを発表しました


2021.040.02-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210402/k10012953691000.html
有吉弘行さんと夏目三久さんが結婚を発表

  タレントの有吉弘行さんとフリーアナウンサーの夏目三久さんが1日、結婚したことを発表しました。
  有吉弘行さん(46)と夏目三久さん(36)は、今夜、直筆のコメントを発表し1日、結婚したことを報告しました。

  この中で有吉さんは「今後は二人で力を合わせて穏やかで幸せな家庭を築いて参ります。お世話になっている皆様方にももっと笑っていただけるようこれまで以上に精いっぱい頑張っていきたいと思っております」などとつづっています。
  また、夏目さんは「有吉さんと夫婦になり、この上ない喜びと幸せを感じております。スタッフの皆さま、共演者の皆さまと過ごした時間は私にとってかけがえのない経験で、生涯忘れることはできません。本当にありがとうございます」などと記しました。
  有吉さんは、お笑いコンビ「猿岩石」として民放のバラエティー番組で人気となり、コンビを解散したあとも数多くのテレビ番組にレギュラー出演するなど、テレビを中心に活躍しています。
  一方、夏目さんは日本テレビでアナウンサーを務めたあと、平成23年からフリーアナウンサーとなり、ニュース番組などで司会を務めています。


2021.03.31-Yahoo!Japanニュース(東スポWeb)-https://news.yahoo.co.jp/articles/b7fb1be25b14683083940407fe05ad45de4c46a2
【全空連】植草歩へのパワハラ認定「竹刀を用いた練習は大変危険」

  全日本空手道連盟(全空連)は31日、東京五輪・女子組手61キロ超級代表の植草歩(28=JAL)が香川政夫選手強化委員長(65)からパワーハラスメントを受けていたと訴えた件について、都内で倫理委員会を開催。両者に事情聴取を行った。

  終了後、報道陣の取材に応じた植草は「きちんと話してきた」とコメント。全空連は同日夜に、ホームページ上で「1月27日の帝京大学内の練習において、帝京大学師範香川政夫氏が竹刀を用いた練習を行い、植草歩選手が目を負傷したということが事実関係として認められました」との声明を発表した。
  その上で「本連盟倫理委員会としては、竹刀を用いた練習は大変危険であり、どの練習においても全く認められるものではありません。引き続き該当事項について調査してまいります。なお、処分内容については理事会の決議により決定されます」とつづった。
   植草は12日に、パワーハラスメントの被害日本オリンピック委員会(JOC)の通報・相談窓口に相談。28日には自身のブログで「練習環境のこと、大学院進学のこと、その他プライベートや自活の為の仕事のことなどで、自立心・自尊心を傷つけられたり、大声で怒鳴られたりすることが多くなりました」などと被害の全容を告白していた。


2021.03,22-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/sports/news/210322/spo2103220023-n1.html
<独自>全柔連の山下会長、勧告案を放置 懲戒処分の県連会長めぐり

  全日本柔道連盟(全柔連)のコンプライアンス委員会が昨年11月、ガバナンス欠如や不明朗な支出を指摘して愛知県連盟の執行部刷新を求めた勧告書案を作成したにもかかわらず、山下泰裕会長が口頭での「注意喚起」のみにとどめ、勧告案を事実上放置していたことが22日、関係者への取材で分かった。今年1月に自己都合を理由に退職した前事務局長のパワーハラスメント疑惑と同様、全柔連の理事会にも経緯を報告しておらず、再び隠蔽が疑われる

  愛知県連の河原月夫会長は昨年9月、過去の小学生大会で親族の子供が負けた結果を不服とし、審判に暴言を繰り返すなどしたため、全柔連から会員登録停止10カ月の懲戒処分を受けた。河原氏はその後も県連会長職にとどまり、県連理事会に出席するなどし、県連執行部も是認した。
  コンプライアンス委員会の調査では、河原氏が平成28年に県連会長に就任して以降、不明朗な支出が大幅に増え、県連が積み立てていた5千万円以上の定期預金が取り崩されていることが発覚。執行部に批判的な役員が外されるなど、運営上の問題も確認された。

  このため、同委員会は「河原会長の辞職と執行部の刷新」を求めた勧告書案を作成。同委員会の寺脇一峰委員長が昨年11月26日の常務理事会で山下会長に対応を一任した山下会長は今年1月6日、全柔連役員とともに愛知県内を訪れて河原会長と面談したが、文書は提出せず、「懲戒処分の順守」を注意喚起したのみ。河原会長の謝罪を受け、それ以上の対応は行わず、コンプライアンス委員会がまとめた勧告書案の大半が放置された。
  その後の全柔連理事会では、勧告書案が作成されたことも説明していない。県連のホームページでは、山下会長らと河原会長の面談の様子について「和やかなうちに面談を終えた」などと報告され、その後に削除された。

  産経新聞は22日夕、山下会長に取材を申し込んだが、多忙を理由に同日までに回答は届いていない。
  全柔連では今年2月、前事務局長によるパワハラ疑惑が発覚。山下会長は「弁明の機会を与える前に退職した」との理由から経緯を職員や理事会に報告せず、「隠蔽」との批判の声が上がっていた。


2021.03.19-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210319/k10012922801000.html
センバツ高校野球 きょう甲子園球場で開幕

  新型コロナウイルスの感染拡大後、高校野球では初めての全国大会となる「第93回センバツ高校野球大会」が19日、甲子園球場で開幕します。

32校が出場 初出場は10校
  センバツ高校野球は、去年の大会が新型コロナウイルスの影響で直前に中止となり、2年ぶりの開催となることしは32校が出場します。
  このうち、初出場は10校で、去年秋の九州大会で優勝した長崎の大崎高校は離島の学校としても注目を集めています。
  選手では、去年秋の近畿大会で優勝した奈良の智弁学園で中軸を打つ左の強打者、前川右京選手をはじめ、市立和歌山高校の小園健太投手や愛知の中京大中京高校の畔柳亨丞投手など、150キロを超える速球を投げるピッチャーの活躍も期待されます。
  一方、大会では、徹底した感染対策がとられ、出場校の選手や監督などは大会前にPCR検査を受け、全員の陰性が確認されました。
  観客については、上限を1万人としたうえで入場券はすべて前売りの指定席とし、37度5分以上の発熱が確認された場合やマスクを着用していない場合は入場を断るということです。
  学校関係者のみ1000人までの入場が認められたアルプス席のブラスバンドの応援も、飛まつによる感染を防ぐため禁止となりました。
  さらに、19日の開会式も密を避けるため、1日目に試合がある6校のみが入場行進を行い、ほかの26校は事前に収録した行進の様子を球場のビジョンに映すなど異例の形式で行われることになりました。
  大会は、休養日も含めて13日間の日程で行われ、決勝は今月31日の予定です。
大会1日目の見どころ
  19日は開会式に続いて1回戦3試合が行われます。
第1試合 神戸国際大付 対 北海・・・第1試合は、4年ぶり5回目の出場の地元、兵庫の神戸国際大付属高校と、10年ぶり13回目の出場の北海道の北海高校が対戦します。
  神戸国際大付は、エースで打線の中軸も担う阪上翔也投手が、チームを引っ張ります。阪上投手は去年秋の公式戦の防御率が0.65と安定感があります。
  対する北海の左投げのエース、木村大成投手は、秋の公式戦8試合で72個の三振を奪い、防御率は0.34と阪上投手を上回っています。
第2試合 明徳義塾 対 仙台育英・・・第2試合は、2年連続で秋の地区大会を制したチームどうしの対戦です。
  2年連続20回目の出場の高知の明徳義塾高校は、四国大会3試合を1人で投げ抜いた左投げのエース、代木大和投手がチームの中心です。
  2年連続14回目の出場の宮城の仙台育英高校は、秋の公式戦のチーム打率が3割7分と活発な打線に、9試合で盗塁39個と機動力も兼ね備えています。
第3試合 健大高崎 対 下関国際・・・第3試合では、2年連続5回目の出場の群馬の高崎健康福祉大高崎高校と3年ぶり2回目の出場の山口の下関国際高校が対戦します。
  健大高崎は、チームカラーの積極的な走塁に加え、秋の公式戦ではセンバツ出場校で最多の15本のホームランをマークした長打力も持ち味です。
  一方、下関国際は、メンバー18人中14人が新2年生で、キャプテンも新2年生が務めます。
コロナ感染対策でガイドライン・・・高野連=日本高校野球連盟などは、ことしのセンバツ大会で新型コロナウイルスの感染対策のガイドラインを設けています。
  ガイドラインでは、去年夏の交流試合と同じように「3密」を徹底的に回避することや、健康状態や行動履歴を記録することを原則とした対策が示されています。
  そのうえで今回のセンバツ大会から、大会前に出場32校の選手や監督などおよそ1000人を対象にPCR検査することを決めました。1回戦を勝ち上がったチームの関係者400人余りは、2回目の検査を行うことになっています。そして、感染が確認された場合は、緊急対策本部が集団感染か個別の事案かを重要視して対応を決めるとしています。
  観客については政府の方針に沿って上限を1万人としたうえで、入場券はすべて指定席としてインターネットでの事前販売にしました。
  37度5分以上の熱がある場合やマスクを着用していない場合は、球場に入ることはできません。また、アルプス席は学校関係者のみ1000人まで入場を認めましたが、飛まつによる感染を防ぐため、ブラスバンドの演奏は禁止にしました。
  さらに19日の開会式も簡素化され、1日目に試合がある6チームのみが入場行進し、残る26校は事前に撮影した行進の映像を球場内のビジョンに映し出すことになっています。
  また、試合の間隔も例年の大会より10分長い40分間とし、ベンチの消毒などを徹底するほか、選手の入れ替えも接触を避けるように行うということです。
  このほか宿舎については、1人部屋を使用することや食事は個別配膳が望ましいなどとしています。


2021.02.27-Yahoo!Japanニュース(BANG SHOWBIZ、女子SPA!)-https://news.yahoo.co.jp/articles/0dc1bb80349b0a40879d4b5196220d3ffd72759d
タイガー・ウッズ、交通事故で大ケガ。噂の “スーパー彼女”も病院へ

  現地時間23日(火)、米ロサンゼルス郊外で自動車事故を起こした米ゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズ(45)脚に重傷を負い近くの病院で緊急手術を受けたウッズは、現在治療を受け、意識もはっきりしている状態だが、事故当時のことについては「記憶がない」と話しているという。今回の事故により選手生命も危ぶまれるなか、これまでウッズをそばで支え続けてきたといわれている噂の恋人が、病院を訪れる姿も目撃された。
(1)
事故多発エリアを猛スピードで走行?
  ふだんはフロリダ州に住んでいるものの、イベントに出席するため、前の週からカリフォルニア州に滞在していたというウッズ。当日の朝、現地のホテルから車で出かけ、ロサンゼルス郊外を走行中、カーブを曲がり切れず道路脇に転落、横転した。
  同乗者はおらず、他の車も巻き込まない単独事故だったとみられている。事故後、ウッズは大破した車内に取り残され、駆け付けた警察や消防、救急当局が斧(おの)などを使い救出。脚を激しく損傷していたことから、近くの病院に搬送された。
   当時、自力で立てない状態ではあったものの、名前を尋ねられると「タイガー・ウッズだ」と答え、意識はしっかりしていたという。また飲酒や薬物の影響はなく、無謀運転の疑いはないとされている。
  事故後に会見したアレックス・ヴィラヌエヴァ郡保安官は、ウッズを刑事告発しないとの見通しを示したうえで、次のように話している。 「私達は、この自動車事故に関し刑罰を科すことは考えていません」 「これは事故であるという認識は変わりません。事故は犯罪ではありませんから。残念ながら、事故は起こるものなのです」
   また同保安官は、ウッズがこれまで事故の詳細に関して何も語っておらず、捜査員に対し「事故に関する記憶がない」と話していることも米CNNに明かした。  事故現場は下り坂でカーブもあり、事故が多発しているエリア。ウッズは事故当時、現場を通常より相当速いスピードで走行していたとみられている。
   当局は今後、ウッズの血液検査やドライブレコーダーの回収などを行い、事故原因の調査を行っていく方針だという。
(2)
術後の経過を代理人がSNSで発表
  一方、ウッズの代理人はツイッターで術後の経過について次のように報告している。 「現在、意識もはっきりしており、受け答えもできている状態です。病院で治療を受け、回復に向かっています」 「ハーバーUCLA医療センターの素晴らしい医師や病院スタッフの方々、ロサンゼルス郡保安官事務所、消防団のみなさんに感謝いたします」 「みなさまのサポートとご支援は、とてもすばらしいものでした」
   またその投稿には、同医療センターのCEOであるアニシュ・マハジャン医師がウッズの状況を説明したコメントも含まれている。それによると、ウッズは右脚を複雑骨折していることから、整形外科専門医による緊急手術で脛骨や腓骨にロッドを挿入。足と足首は、ボルトとピンで固定されている状態だという。
見事な復活劇の裏に“プロ彼女”
  これまでにも自動車事故を起こしているウッズ。2009年には、不倫が発覚し、妻から車で逃げる途中に自動車事故を起こした。この事故をきっかけに女性スキャンダルが相次いで発覚し、結婚生活も破綻。
  一時期、ツアーを欠場するなど選手活動にも影響が出た。2017年には、意識がもうろうとした状態で車を運転した疑いで逮捕。鎮痛薬を服用していた影響によるもので、職務質問中にはろれつが回っていなかったとされている。この件でウッズは、危険運転の罪を犯したことを認めた。
   このように選手としての活躍よりも、スキャンダルが目立っていた時期もあったが、そんなウッズの復活を支えたといわれているのが、恋人のエリカ・ハーマンさんだ。2人は2017年より交際を開始し、ウッズも自身のSNSで交際を明らかにした。
   エリカさんは以前、ウッズが経営するレストランの支配人を務めていたという。現在は退職し、ツアーなどにも帯同しながら選手活動をサポートしているそうだ。  前妻と離婚して以降も、アルペンスキー金メダリストや美人スタイリストなど、女性との噂が絶えなかったウッズ。エリカさんとの交際が知られるようになった当初、世間の評判は決して良くなかった。
   けれども、ウッズは2018年にツアー選手権で5年ぶりの優勝を遂げ、ワールドゴルフランキングも13位まで浮上。さらに2019年のマスターズで14年ぶり5度目の優勝を果たした。この見事な復活劇の裏にはエリカさんのサポートがあったとみられ、世間もそんな“スーパー彼女”ぶりを評価するようになった。
   昨年12月に腰の手術を受けたものの、今年4月開幕のマスターズ出場を目指して、リハビリ中だったウッズ。今回の事故でマスターズ出場は絶望的となってしまった。  ただ、「命を落とさなかったのは奇跡」ともいわれている今回の事故。とにもかくにも、早い回復を祈りたい。
<文/BANG SHOWBIZ、女子SPA!編集部>


2021.02.20-日刊スポーツhttps://www.nikkansports.com/sports/news/202102190000038.html
大坂なおみ全豪2度目V!4大大会4度目V/詳細

<テニス:全豪オープン>◇20日◇メルボルン◇女子シングルス決勝
  ハードコート女王の誕生だ!
 世界3位の大坂なおみ(23=日清食品)が、2年ぶり2度目の優勝の快挙を成し遂げた。

  同24位のジェニファー・ブレイディ(米国)を6-4、6-3で下し、4大大会通算4度の優勝は、すべてハードコートとなった。現役では、クライシュテルス(ベルギー)と並び、S・ウィリアムズの13度に次ぐ2番目の多さだ。大会後の最新世界ランキングで2位に復帰する。

  ▽大坂の話 「私のチームに感謝したい。(新型コロナウイルス禍での)隔離生活でも協力して支えてくれた。チームは家族同然。このトロフィーはみんなのもの。また四大大会で優勝できて、最高の経験になった」。
  ▽ブレイディの話 「大坂がしていることは素晴らしいこと。若い女の子たちはこれを見て勇気をもらっていることでしょう。四大大会決勝を戦えたのは特別だが、私の日ではなかった。またここに立てるようにしたい」。


2021.02.10-東京新聞 TOKYO Web-https://www.tokyo-np.co.jp/article/85248
元警視庁捜査1課長、寺尾正大さん死去 オウム事件を指揮

  1995年に起きた地下鉄サリン事件をはじめ、一連のオウム真理教事件の捜査を指揮した警視庁の元捜査1課長、寺尾正大(てらお・まさひろ)氏が1月24日、死去した。関係者への取材で分かった。78歳。新潟市出身。葬儀・告別式は既に執り行われた。
  66年に警視庁に入庁。殺人などの凶悪事件を担当する捜査1課に配属された後、81年に米ロサンゼルスで起きた銃撃事件を巡る「ロス疑惑」や、保険金目的で妻を殺害した86年の「トリカブト殺人事件」を捜査した。
  95年2月に捜査1課長に就任。同3月に発生した地下鉄サリン事件など、オウム真理教に対する一連の大規模捜査に尽力した。
  新宿署長や警察学校長、生活安全部長などを歴任し、2001年に退職した。(共同)


2021.02.03-Yahoo!Japanニュース(Newsポストセブン)-https://news.yahoo.co.jp/articles/dbafa06bcde5db8cefaaf1dae2e83a2b04251ee8
石原さとみが非公表の理由 「コロナ感染発表」に関する芸能界ルール

  クランクインを迎えた新ドラマが、突如、撮影延期に。理由は主演の“退場”だという。
  「新型コロナの感染予防として、新しい現場では必ずといっていいほどPCR検査が行われます。1月中旬、撮影初日に実施された検査で、主演の石原さとみさん(34才)の陽性が発覚したんです。無症状だったようで、本人はとても驚いていました。石原さんの出演シーンは、すべて撮影が延期に。幸い、濃厚接触者に該当する共演者はいなかったので、ほかのシーンから撮影が進められることになりました」(テレビ局関係者)

   これまで芸能人が感染した場合、名前が大々的に報じられてきた。しかし石原が感染したのは1月の中旬だというのに、公表はされていない(2月2日現在)。実は芸能界には、公表か非公表か、あるルールが存在している。 「感染によって、すでに公になっている出演番組を欠席したり、上演中の舞台を降板した場合などは、その理由を説明する必要が出てきます。
  そのために公表という形をとる。石原さんは、撮影が始まったドラマがまだ正式発表されておらず、撮影の欠席を関係者以外に説明する必要はありません。公になっている仕事を欠席することもなかったので、公表を控えたとみられています」
(芸能関係者)

   逆に、情報解禁前のドラマだったから「制作サイドとしては公表してほしくないのが本音」と言うのは、別のテレビ局関係者だ。
  「石原さんの感染を公にすると、『いまどんな仕事をしているのか?』『どの仕事に影響があるのか?』という部分も発表せざるを得ません。ドラマの情報解禁は、宣伝期間を決めて戦略的にやるものです。制作側は出演者の感染発表のついでにドラマの情報解禁、というのは避けたかったはず。共演者の中には、『世間に伝えなくていいの?』という声もあったようで、石原さんとしては苦渋の決断だったのかもしれません」(前出・別のテレビ局関係者)

  公表にはこんな“デメリット”もある。現在の芸能界では現場ごとにPCR検査を行っており、多忙な芸能人ほど検査の回数が増える傾向にある。 「たとえ前日のドラマの現場で陰性だったとしても、翌日に別の作品の撮影があれば改めてPCR検査を受けることになります。週に2~3回検査を受けているタレントもいて、これだけ受けていれば偽陽性の反応が出てしまうこともあるんです。ある俳優は陽性反応が出てすぐに公表したものの、翌日以降はずっと陰性。でも一度陽性と公表してしまった手前、2週間の隔離を強いられました」(前出・芸能関係者)

   芸能界では今後、石原のようにあえて公表を控える動きも出てくるかもしれない。 「芸能人の感染の公表は、名前と顔がわかってしまい、現実感を持って受け止められるので、社会不安を煽っていると指摘する専門家も出始めています。公表するデメリットも考え、石原さんのように臨機応変に対応することが、芸能界にとっても一般社会にとっても都合がいい場合もあるのです」(医療ジャーナリスト)  感染者の人数や名前に一喜一憂せず、粛々と自粛生活を続けよう。
女性セブン2021年2月18・25日号


2021.01.29-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210129/k10012838781000.html
大相撲 元横綱 栃ノ海の花田茂廣さん死去 82歳

  大相撲の元横綱 栃ノ海の花田茂廣さんが、誤えん性肺炎のため29日、都内で亡くなりました。存命の横綱経験者では最高齢の82歳でした。
  元横綱 栃ノ海の花田さんは、昭和13年に青森県で生まれ昭和30年の秋場所で初土俵を踏み、昭和35年の春場所で新入幕を果たしました。
  小柄ながらも相手の懐に飛び込む相撲や前まわしを取る速攻相撲を得意として番付を上げ、昭和37年の夏場所で関脇で初優勝を果たし、場所後に大関に昇進しました。
  そして、昭和39年の初場所のあと、第49代の横綱に昇進し、昭和41年の九州場所途中で引退しました。
  現役引退後は、平成2年に春日野部屋を継承し、平成15年に退職するまで後進の指導に当たりました。
  平成30年夏場所のあと、栃ノ心が大関に昇進した際には、春日野部屋を訪れて伝達式に参加していました。
  日本相撲協会などによりますと、29日未明、誤えん性肺炎のため都内で亡くなったということで、存命の横綱経験者では最高齢の82歳でした。
春日野親方「伝統しっかり引き継いでいく」
  平成15年に花田茂廣さんから春日野部屋を引き継いだ、元関脇・栃乃和歌の春日野親方は「自分にも他人にも本当に厳しい人だった。退職後はいいおじいちゃんという感じで栃ノ心の優勝や大関昇進を笑顔で喜んでくれたことが印象に残っている。このところは体調を気にかけていたが、亡くなったのは本当に残念だ。厳しい稽古があってこその春日野部屋という伝統をしっかり引き継いでいきたい」と話していました。
日本相撲協会 八角理事長「相撲道継承と発展に尽力」
  花田茂廣さんが亡くなったことを受けて、日本相撲協会の八角理事長は「突然の訃報に接し、思いがけないことで驚いております。生前は春日野部屋の師匠として多くの関取を育てられ、理事としても相撲道の継承と発展にご尽力頂きました。生前の功績をしのび心よりご冥福をお祈り申し上げます」というコメントを発表しました。


2021.01.24-SANSPO.Comサンスポ-https://www.sanspo.com/baseball/news/20210124/mlb21012410350002-n1.html
堀内恒夫氏、ハンク・アーロンさん死去に「俺も含めてそういう年齢」

  米大リーグ歴代2位の通算755本塁打を放ったハンク・アーロンさんが22日に死去した。86歳。現役時代に所属したブレーブスが発表した。死因は非公表。アフリカ系米国人で、人種差別と闘いながら1974年にベーブ・ルースの不滅とされた通算714本塁打のメジャー記録を更新。日本では王貞治が自身の記録を抜いた際に脚光を浴び、2人は友情でも知られた。
  元巨人監督の堀内恒夫氏(73)は同日、自身のブログで「こうも続くもんかねぇ…でも、仕方ないか。俺も含めてそういう年齢になってるんだもんね」と冷静に受け止めた。「アーロンさんが日米野球で来日して王さんとホームラン競争をした時の姿 今でもハッキリと覚えてるよ」と懐かしんだ。「野球の記録も素晴らしいけど 人間的にも素晴らしい方 ご冥福を心よりお祈りいたします」とつづった。


2021.01.23-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210123/k10012830381000.html
坂本スミ子さん死去 「楢山節考」「夢であいましょう」出演

  パワーあふれる歌声で「ラテンの女王」と呼ばれた歌手で、フランスのカンヌ映画祭で最優秀賞を受賞した「楢山節考」で印象的な老婆の役を演じるなど俳優としても活躍した坂本スミ子さんが23日、脳梗塞のため熊本市内の病院で亡くなりました。84歳でした
  坂本さんは大阪市出身で、高校を卒業後NHKの合唱団を経てラテン歌手としてデビューしました。
  パワーあふれる歌声で「ラテンの女王」と呼ばれ、昭和36年に始まったNHKの音楽バラエティー番組「夢であいましょう」に出演したほか、紅白歌合戦にも5年連続で出場しました。
  俳優としても活躍し、昭和58年に発表されフランスのカンヌ映画祭で最優秀賞のパルムドールを受賞した今村昌平監督の映画「楢山節考」に老婆の役で出演するなど俳優としても活躍しました。

  平成6年からは熊本市内に移り住んで、長年保育園と幼稚園の園長を務めていました。
  家族によりますと、坂本さんは80歳の時には記念ライブを行うなど活動していましたが、今月2日に脳梗塞で倒れて熊本市内の病院に入院し、23日亡くなったということです。


2021.01.21-Yahoo!Japanニュース(SponitiAnnexスポーニチ)-https://news.yahoo.co.jp/articles/e30e4123fa68b60d680a557507a12c0160d38470
爆問・田中、脳梗塞で入院 “お菓子好き”に医師注意喚起「大量摂取は誘因になり得る」

  お笑いコンビ「爆笑問題」の田中裕二(56)が前大脳動脈解離によるくも膜下出血、脳梗塞と診断され、入院したと20日、所属事務所が発表した。昨年8月には新型コロナウイルスに感染して入院し、9月に復帰したばかり。手術の必要はなく、入院は1週間の予定。11本のレギュラー番組を抱える売れっ子は1カ月の静養に入る。

  脳動脈解離とは、何らかの誘因で脳動脈壁内に出血し、壁が裂けた状態のこと。その結果、くも膜下出血や脳梗塞などを引き起こす。自覚症状としては頭痛がある。
   東京脳神経センター理事長で医学博士の松井孝嘉氏(松井病院院長)は「血圧が高い人や血管が弱い人がなりやすい」と指摘。20日の大寒に向けて急激に寒くなっていたことも「血管が弱い人には要注意。熱いお風呂にいきなり入るのも危ない」という。田中が「お菓子王子」と呼ばれるほどの甘党であることも「適量なら問題ないが、年齢的にも大量の摂取は血管の病気の誘因になり得る」とし、気になる点として「くも膜下出血で1週間の入院は短い。また起きたら命に関わる懸念がある」と心配した。昨年8月のコロナ感染との因果関係には「コロナ自体にまだ不明な点があるので何とも言えない」という。


2021.01.21-FNNプライムオンライン-https://www.fnn.jp/articles/-/133520
【速報】「芥川賞」に宇佐見りんさん 「直木賞」に西條奈加さん 第164回受賞者が決定

  第164回芥川賞・直木賞の選考会が行われ、芥川賞には宇佐見りんさんが、直木賞には西條奈加さんが、それぞれ選ばれた。
  芥川賞を受賞した、宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」は、好きなアイドル「推し」を応援することが生活の中心になっている女子高生の姿を、1人称の語りでリアルに描いた物語。
  宇佐美さんは、静岡・沼津市生まれの21歳。初のノミネートでの受賞となった。
  直木賞を受賞した、西條奈加さんの「心淋し川」は、江戸・千駄木を舞台に、よどんだ川のたもとに立ち並ぶ、長屋に住む人々の生きる喜びや悲しみを描いた時代小説。西條さんは、北海道生まれの56歳。
  候補者全員が初ノミネートとなった今回の直木賞で、見事、受賞となった。


2021.01.07-Livedoor News(産経ニュース)-https://news.livedoor.com/article/detail/19496550/
元チャンバラトリオ、ゆうき哲也さん死去 「ミナミの帝王」にも出演

  ハリセンを使ったコントで人気を博した「チャンバラトリオ」の元メンバーで、俳優としても活躍したゆうき哲也(ゆうき・てつや)さんが4日、敗血症のため死去した
  79歳。葬儀・告別式は近親者で営んだ。後日、お別れの会を予定している。
  大阪市出身。大学中退後、俳優の付き人などを経て、昭和43年にチャンバラトリオに加入し、人気を博した。チャンバラトリオを脱退後は、俳優やプロデューサーとしても活躍し、Vシネマ「難波金融伝・ミナミの帝王」シリーズで義理人情に厚い親分役を好演した。


2021.01.04-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210104/k10012797011000.html
「5万回斬られた男」時代劇で活躍した福本清三さん 死去

  多くの時代劇で斬られ役として活躍し、「5万回斬られた男」とも呼ばれる俳優の福本清三さんが、今月1日、肺がんのため亡くなりました。77歳でした。
  福本さんは兵庫県出身で、15歳のときに東映京都撮影所に入所し、50年以上にわたって映画やテレビの時代劇を中心に「斬られ役」として活躍しました。
  斬られた時に後方にえびぞりになって倒れるなど、主役の強さを引き立てつつ派手に倒れる演技で注目を集め、「5万回斬られた男」とも呼ばれました。
  平成15年にはハリウッド映画、「ラストサムライ」に出演したほか、平成26年に初主演を務めた「太秦ライムライト」では、カナダのファンタジア国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞しました。
  平成16年には、日本アカデミー賞協会特別賞を受賞しています。
  福本さんは去年11月にNHKで放送された時代劇「十三人の刺客」に出演するなど、最近まで活動を続けていましたが、東映京都撮影所によりますと、自宅で療養中の今月1日、肺がんのため、亡くなったということです。
北大路欣也さん「感謝の思いでいっぱい」
  福本清三さんが亡くなったことについて、俳優の北大路欣也さんは「若い頃から共に切さたく磨し、いろんなことを教えてくれた大切な仲間です。別れは信じられません。福ちゃんは、名優チャップリンを崇拝し、稽古に没頭し続けた勇士です。今はただ感謝の思いでいっぱいです。合掌」とコメントしています。







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