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地雷
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  地雷(英: landmine)は、地上または地中に設置され、人や車両の接近や接触によって爆発して危害を加える兵器。「悪魔の兵器」とも呼ばれる地雷は、無差別殺戮兵器としても機能し、78カ国が地雷で汚染されており、毎年15,000~20,000人が死亡し、死傷者の約80%は民間人とされる。1999年に発効したオタワ条約により、対人地雷の使用や生産、貯蔵などは禁止されているが、米国ロシア中国などは未署名である。
  本稿では、前近代の同概念の火器の1つである埋火(うずめび)についても解説する。
概説
  基本的な感圧起爆方式では、一定の重量が信管にかかることで爆発し、通過した人や物を殺傷・破壊することを目的としている。この方式は構造の単純さから安価かつ信頼性があり、今でも配備・使用される地雷の多くを占める。 対人地雷には、前述の圧力式のほか、ワイヤでピンが抜かれることで爆発するもの(引張式)、赤外線センサ式などがある。中には地雷探知機の発する磁気を感知して爆発するものもある。
  設置方法はさまざまで、人力で設置する、地雷敷設車両を使って敷設する、ヘリコプターなど航空機の散布用ポッドから投下する、航空爆弾ロケット弾など大型の弾殻の中に入れて遠隔地から撒布するなどの方法がよく利用される。
  踏むと瞬時に起爆するものが一般的である。第二次世界大戦中にドイツ軍が開発し、1935年~1945年にかけて製造・配備されたS-マインドイツ語読みではS-ミイネ)と呼ばれる対人地雷は、触角状の信管を踏むと火薬の爆発により地中から高さ1mほど飛び上がり、空中で鉄球をばら撒くことで踏んだ人物以外にも被害を与える。
  対応する重量によって、対人地雷・対戦車地雷などに分類される。第二次大戦中の対戦車地雷の感知重量は、90-200kgに設定されており、人が踏んでも爆発しないとされている。
地雷の欠点
  地雷の欠点として、一度通過すればそこは安全地帯になってしまうということが挙げられる。一度爆発すればそこにはもう地雷はないし、爆発しなければそこにはそもそも地雷がない。そのため過去においては、捕虜に前を歩かせ、その後ろを行軍するといったことも行われた。また、巨大なローラーのようなものを車両の前に取り付ける対地雷装備(mine flail)も開発されている。
  この欠点を補うために、複数回刺激が加わって爆発する地雷が造られた。先頭を歩いている者が踏んで爆発するよりも後続の隊列中間で爆発する方がより被害が大きいため、こうした地雷には隊列を組んで行軍している部隊に対してより多くの被害や脅威を与えられるという効果もある。一方で、このような地雷は残留地雷の問題をより厄介なものにしている。
地雷原
  広範囲に地雷が埋設された場合、その地域は地雷原と呼ばれる。地雷原に対しては、爆弾や砲弾を大量に投入して地雷を誘爆ないし破壊したり、日本92式地雷原処理車のような対地雷器材を用いて無力化を図る(→地雷処理戦車)。敵前であったり、時間の制約があるなど地雷処理をすぐに行えない場合には、地雷原の範囲を味方に通報しつつ、迂回または後退することを余儀なくされる。
  適切に敷設し、適切に管理された地雷原は比較的低コストで防衛ラインを設定できるため、国境線や海岸線の長い国にとっては、効果的な防衛に適している。また、進軍の阻止・遅滞だけでなく誘導を目的としたり、移動中の部隊が宿営地の周辺の要所に障害物と共に一時的に敷設して敵に備えることも行われる。この場合には、宿営地の撤収時に地雷は全て回収、または処分される。
  しかし、目印も付けずに手当りしだい埋めるなど不適切に敷設されたり、地雷が大雨で流されるなど適切に管理されていない地雷原は敵だけでなく味方にとっても脅威となる。前線がいくつも独立しているような場合、内戦が長期化している場合など、地雷は敵・味方あるいは軍人民間人を区別せず爆発する。そのため、地雷を敷設した場合は、記録した上でそのことを直ちに友軍へ連絡する必要があり、戦闘終結後には速やかに地雷を撤去することになっている。そのため、正規軍が敷設する地雷は敵対勢力の脅威になりこそすれ、民間人や友軍の脅威にはなり得ない場合が多い。
撒布型地雷とスマート地雷
  ベトナム戦争ではゲリラ戦が主だったこともあり、戦況が流動的で、地雷設置に時間を割くことが難しかった。そのため、航空機などから撒布する撒布型地雷が開発された。しかし、個々の撒布型地雷の設置場所は撒布部隊自身にもわからず、また、ゲリラ戦ゆえ戦場も流動的であるため、友軍が撒布した地雷が行軍上の障害になるという事態が発生した。
  この問題を解決するために開発されたのが「スマート地雷」である。最初のスマート地雷は、アメリカ1978年に開発したFASCAM(Field Artillery Scatterable Mines、ファスカム)で、撒布後一定時間が経過すると自爆する。タイマーによる自爆・無力化以外に、暗号化された無線送信に対して応答して所在を知らせ除去を容易にするものなど、さまざまな技術が開発されている。しかし、自爆に失敗する確率が0.1-5%あるなど、完全ではない。
  スマート地雷は、あくまで軍事上の必要性から生まれた兵器であるが、結果として、地雷の非人道性を減ずることとなった。つまり、今叫ばれている地雷の人道的な面での問題のほぼ全ては(コストは掛かるが)、技術で解決が可能なものである。しかし、昨今問題とされているのはこうした機能を持たない旧式の地雷および地雷を敷設する際のセオリーを守ることのない非正規交戦組織によるものであり、発展途上国では現在でも依然として安価且つ大量に製造販売が行われている。
戦略上の地雷
  地雷は、原則として自分から敵に近付いたり、能動的に攻撃を行うものではない。その意味で、日本国政府が標榜する「専守防衛」という戦術的観念には適合している。しかし、陸上自衛隊は対人地雷禁止条約(後述)に従い、2003年2月までに処理訓練用のものを除く対人地雷を廃棄した。もっとも、遠隔操作のみで爆破可能な指向性散弾は、条約の禁止する対人地雷に含まれないため、代用武器として使用している。
地雷による被害
  地雷による被害は、車両などが破壊されたり人畜が傷つけられる直接的な被害と、地雷が埋まっているかもしれない土地が不動産価値を失ってしまう経済被害に大別できる。たった1個の地雷が埋まっているかもしれないというだけでその土地を活用することができなくなり、その土地を通行することはおろか、農地や宅地として使用することができなくなってしまう。通行できない土地が多くなると流通にも支障をきたし、外国資本だけでなく国内投資もその場所を避けるので多大な経済損害を受ける。またゾウや牛など人間以外の大型動物も被害にあっている。一方で地雷原化された地域は人間がまったく立ち入らないため、野鳥や野生動物の聖域になる例もある。 有名な被害者は、ロバート・キャパなど。
対戦車地雷
  対戦車地雷 (Anti-tank mineは、主に戦車などの装甲戦闘車両を破壊する事を目的として使用される地雷である。
  地雷防護のない軍用車両は底部の装甲が薄いため、地雷による攻撃は有効な手段となる。一般的には5-10kgほど、または2-9kgほどの火薬が内蔵[3]されている。対戦車地雷を踏めば、主力戦車といえどもほぼ確実に履帯を切断され、足回りに損傷が生じて走行不能に陥る。戦車以外の車両への被害はより深刻で、装甲車装甲兵員輸送車程度の装甲があっても、車体を破壊したり転覆させることで、収容人員を死傷させうる。ゆえに、機械化歩兵が対戦車地雷を恐れて車の上面に跨乗するタンクデサントを行うことすらある。耐地雷性の高い車両を設計するには、高い車高や舟形の底板など、特別な配慮が必要で、低姿勢や軽量性という一般的な軍用車両に求められる要求と相反するものになってしまう。
  70-130kgほど、または100-300kgほど[3]の垂直加重で起爆するようにされており、これは、武器などを携帯した兵士が踏んだだけでは起爆せずに、車両が通過するときに爆発させて攻撃するためである。磁気吸着式により、車両に吸着させるタイプや、有人管制により手動で起爆させるタイプもある。敵による地雷除去を防ぎ、破壊力を上げるために、複数の対戦車地雷を重ねて、あるいは対人地雷とセットで埋設されることがある。人間が踏んでも起爆装置の中心点を踏めば起爆しないが、少しでも中心点を外れた部分を踏めばテコの要領で起爆する重量に達してしまい起爆してしまう。そのため、現在[いつ?]陸上自衛隊での教育時にも、対戦車地雷だからと言って踏んでも問題ないわけではないことを十分に教育している。
  対戦車地雷に対抗するためには、車両底部の装甲を厚くしたり、二重にする、車両床を高い位置にし爆風を逃がすV字型にする、装輪車であれば車輪の数を増やすなどの方法がある。
  爆薬が不足している武装勢力においては、榴弾砲迫撃砲砲弾航空爆弾を地面に埋め込み、対戦車地雷として利用した例がある。
  第二次世界大戦中の日本軍の場合、兵士が地雷や爆発物を背負って敵戦車の前に身投げしたり、タコツボ(一人用の)内で爆弾を抱えてうずくまり、敵の接近に合わせて信管を叩いて起爆させる「人間地雷」戦術を実行している。また、ソ連軍は、エンジンをかけた自動車の下で餌を与えることにより、条件反射で自動車の下にもぐりこむように訓練したイヌに爆薬をくくり付けてドイツ軍の車両を破壊する地雷犬を実戦に投入している。さらに、各国でも地雷を埋めておくだけではなく、兵士が自陣を蹂躙する敵戦車の履帯前に投げ出す、棒や板の先に付けて突き出す、ロープに結んでおき離れた場所から引き出す、時限式信管を取り付けて機関部やハッチの上に載せたり車体の下に投げ込むなどして破壊するという戦術も取られた。
  パレスチナでは、重装甲で知られるイスラエル国防軍メルカバ Mk.3戦車を、遠隔操作により地中に埋めた手製の爆薬で、イラクでは対戦車地雷を積み重ねることによりアメリカ軍M1A2SEP エイブラムス戦車を、完全に撃破した事例がある。
対人地雷
  近代の主な対人地雷 (Anti-personnel mineには、踏みつけた人間のの踝(くるぶし)や脛を吹き飛ばす小型で低威力の爆風型地雷や、仕掛け線や踏圧などで信管が作動すると最初に少量の火薬で炸裂部を1-2mほどの高さに打ち上げ、続いてそれが炸裂することで内部の鋼球などを撒き散らして周囲数十mの敵を倒す方式の、対人地雷としては比較的大型の破片式の跳躍地雷と呼ばれるものなど、一般には地下に埋設する形式が多いが、これらとは別に、物陰などに固定しておき仕掛け線などを用いて信管が作動すると主に水平方向に扇状に鋼球などを撒き散らして殺傷する、破片式でも地上設置型のものがある。
  炸裂した時、一定の方向に扇形に散弾を発射する性質(指向性)を持った地雷(クレイモア地雷など)を指向性対人地雷、または指向性散弾といい、危害範囲が非常に広いのが特徴である。これは地中に埋設するのではなく、付属した簡易な三脚や四脚に載った形で地上に設置され、水平方向に散弾や弾片を射出する。また、張られたワイヤーに兵がひっかかることで作動するだけでなく、遠隔操作で任意のタイミングで炸裂させることもできる。これにより兵が密集していた場合、一度に10名以上が殺傷されることもある。
  安価で数多く使われる小型のものは、敵兵の即死による殺害ではなく負傷による無力化を目的としている。敵兵1人の即死はそのまま兵力の1減であるのに対し、1名が重傷を負えば看護や後送にも人員が割かれるため、前線兵力は2以上減となり、また、苦痛を訴え続ける味方兵の存在は、戦意高揚を困難にする要素となる。
  小型の地雷は、空中投下によって撒布することが可能である。しかし、正確な撒布場所が分からなくなるので被害を出しやすい危険な方法である。広く流布した話に「小型地雷に子供の興味を引くぬいぐるみやおもちゃのようなものを取り付けてばら撒き、触れた子供の手足や生命を奪う」とするものがあるが、事実として確認されていない。
  以上のように、対人地雷は敵味方・軍民を問わず被害を受ける危険があるため、厳格な運用が必要とされる。しかし、紛争国では無計画に埋設された結果、除去困難に陥り戦後の紛争の後遺症として住民を苦しめ続ける例が見られる。そのため、規制が議論されている。そのような観点からオタワ条約が発効した。ただし、主要な地雷輸出国が批准しておらず、紛争地帯での地雷被害は減っていない。中には、残留日本人が被害に遭う事例があり、日本国内にも影響を与えている。
破片式地雷
  破片式地雷は対人地雷の一種で、手榴弾などと同様に爆発時に破片をまき散らすことで、作動させた本人だけでなく周囲の人間を巻き込んで殺傷するように設計されている。
  通常の爆風型地雷では一個につき一人しか殺傷できないのに比べると殺傷効率が高いが、破片をまき散らす必要があるため、後述の跳躍地雷以外は地上に露出する形で設置される。
  手榴弾本体を固定し、信管を即時起爆するものに付け替えたうえでトラップワイヤーを巻き付けることでも代用できる。詳細は手榴弾#罠用途も参照。
杭地雷
  杭地雷(stake mine)とは、上記の破片式地雷の中では最も原始的なタイプで、の上部に地雷本体がはめ込まれている。
  杭を地面に差し込む形で設置し、本体上面の信管に結び付けたトラップワイヤーで作動させる。
跳躍地雷(詳細は「跳躍地雷」を参照)
  跳躍地雷は、地雷本体が空中に飛び上がったのちに炸裂して破片をまき散らすタイプで、こちらは地面に信管を露出させる必要はあるものの、本体は地中に埋設することが可能である。
 代表例は第二次世界大戦前にナチス・ドイツが開発したS-マインで、その効果の高さと使い勝手の良さから、戦後は東西陣営を問わずにS-マインを模倣する形で多数の跳躍地雷が開発生産された。
指向性対人地雷(指向性散弾)-(詳細は「クレイモア地雷」を参照)
  指向性対人地雷は、前面のみに多数の鉄球を配置し、ミスナイ・シャルディン効果により扇状に鉄球を散布することで、殺傷効果をもたらすように設計された地雷である。ただし、前面以外の場所には全く危害を及ぼさない、というわけではない。
  こちらはワイヤートラップか有線・無線リモコンで作動させるように設計されており、リモコン起爆式はオタワ条約の規制対象外とされている。
戦場における地雷原の突破
  戦場において地雷原を突破する際には、以下のような方法が取られる。
 地雷処理用の専用機材を用いる
  もっとも望ましい方法であり、前述の地雷処理戦車や地雷処理用の機材(地雷原処理用のロケット弾発射機など)を使用する。以前は、戦車の前方方向に伸びた機材で対戦車地雷を捜索し爆破するスネークが使用されたこともある。
  また、地雷の探知に第二次世界大戦から使用され始めた金属探知機を用いる方法もあるが、これは地雷本体の材料に木材ガラスプラスチックなどの非金属性素材を用いた非金属性地雷に対しては効果を発揮できない。
 地雷原に銃砲撃を加える
  砲兵部隊の支援が受けられるならば、地雷原に砲弾を撃ち込み地雷を誘爆させるという方法もある。これは、砲兵でなくとも、進撃する戦車自身が搭載砲で道路を射撃することでも可能である。また、露出している地雷に対しては遠距離から対物ライフルなどで銃撃を加えることで安全に処理する。現在は大型の狙撃銃として知名度の高い、バレットM82スウェーデン軍に採用されたのは、元々爆発物処理用途としてであった。その他にも、エル・アラメインの戦いで、悪魔の園と言われた二重三重に埋めてあるドイツ軍の対戦車地雷を、イギリス軍が砲撃を加えて爆破処理した例もある。
 兵士が手持ち装備を用いて地雷を処理する
  上記のような方法が取れないとき、兵士がスコップナイフ、棒などを用いて地中を探り、地雷を除去する。地雷は一定以上の圧力が加わらないと爆発しないので、ナイフなどで軽くつつく程度では安全である。工兵であれば、地雷探知機のような専用の機材も用いる。地雷の除去が時間や技術の制約で難しい場合には、単にマーキングだけに留めることもある。
  ただし、地雷の中には除去する人物をも対象にしたものがあるので注意が必要である。例えば、信管が複数存在する地雷や、ある一定の角度以上に傾けると爆発する地雷がある。また、そんな機能を備えていなくとも地雷を二重に設置し、下の地雷の信管を上の地雷に結ぶ・箱型地雷のフタの下やクレイモア地雷の足に手榴弾を仕掛けるなど、除去しようとした人間が地雷を持ち上げれば仕掛けが爆発する、無力化しようとする人間を標的とした一種のブービートラップも存在する(処理防止装置)。
 地雷を表土ごと押しのける
  工兵ブルドーザーや、車体前部にドーザーブレードを取り付けた戦車を進ませて、地雷が埋設されているであろう表土を押しのけてしまう。短時間で進路を啓開するための手法であり、起爆せず排土の中に残った地雷を別途無力化する必要がある。
 非人道的な方法を用いる
  上記のような「正攻法」ではなく、敵の捕虜一般市民懲罰部隊に送られた自軍将兵を背後からで脅し、味方の先頭を歩かせるという方法がある。第二次世界大戦東部戦線では、独ソ両軍で見られた光景である。また、人間ではなく動物を使う方法もあるが、あらぬ方向に走っていく、人間よりも足裏の面積が小さ過ぎるなど成功しないことが多い。ただし、これらの方法では、重量の関係で対戦車地雷に対する効果は薄い。
 無視する
  悠長に地雷を処理する時間のない緊急時においては「踏んだら不運と諦めろ」というように地雷の存在を無視して行動することもある。人的な損害が軽視される、あるいは受容できうる状況下にあっては、「十個の地雷があっても、十一人の兵士がいれば必ず突破できる」という考え方がなされる場合もある。これは、ノルマンディー上陸作戦のオマハF地区での戦闘に例が見られる。
地雷除去
  戦乱のあった地域では、一旦地雷が埋設されると残存し、戦争終結後も一般市民への事故(傷害事故だけではなく死亡事故も多い)が後をたたない。世界では正確な数は不明だが、いまだに「7000万個とも1億個とも言われる対人地雷が埋設」されていると考えられている。
  戦後の復興には、安全な土地の保証がかかせない。その地域の国家が地雷除去の能力に不足する場合など、他国の部隊やNGOが対人地雷除去を人道援助として行うことがある。対人地雷だけでなく対戦車地雷でも、放置されることでバスのような民間車両が被害を受けて多くの人命が失われている。
除去方法
  地雷の除去方法は未だに効率が悪く、地雷1個の除去に、その地雷の製造費の100倍は費用がかかるといわれている。また、危険を伴う人力作業が一般的である。しかし、紛争の傷跡が残る国では失業率が高いことが多く、地雷除去作業は雇用対策としての側面もある。
  世界的に地雷の問題が注目を集める中で、危険な人力による除去方法の代替となり得る機械を用いた除去方法が世界各国で研究されているが、貧しい国は機械を購入したり運用する負担に見合わないと考える事が多く、援助以外での普及は進んでいない。また、機械により物理的な外力で起爆を誘う対人地雷の除去方法は、人手より確実性に劣り、特に金属性の部品をほとんど含まない非金属性地雷では、極めてローテクに属する人手に頼った除去方法以外に有効な手段がない。旧式の地雷は、長年土中に埋まっていることで金属筐体腐食信管/爆薬劣化といった経年変化による機能喪失が期待できたが、近代的な地雷ではプラスチックの採用を含む兵器としての性能向上によって、意図的に有効期間を短くしない限り何十年経っても機能を保ち続けるという特徴がある
世界発の除去活動
  戦後復興における地雷処理に関してのノウハウ蓄積は、周辺国との紛争をくり返してきた南アフリカに一日の長がある。『Mine Detection Vehicle (MDV)』と呼ばれる、ロードサイドの地雷を探査する耐爆構造の探査車両が開発されており、南ア製の『Meerkat』、『Husky』は、イラクアフガン米軍IED探査に活用されている。 日本などの国では、地雷を除去するためのロボット開発が進んでいる。また、ブルドーザーショベルカーを改造した地雷除去用重機も有り、一部高い効率で地雷を処理しているが、あまり普及していない。
  アフリカタンザニアでは、ベルギー人のバート・ウィートジェンスが創設したNGOであるAPOPOが、ネズミ(嗅覚の鋭いサバンナアフリカオニネズミ)の嗅覚をトレーニングして地雷を発見するという活動を行っている。と同等の探知能力を誇りながら、より安価に地雷の有無を調査できるという利点がある。トレーニングされたネズミはヒーローラッツと呼ばれ、チェンジ・メーカー世界一受けたい授業など、日本のメディアでもたびたび取り上げられている。これらのネズミは、2019年までに10万個以上の地雷を発見している。中でも活躍したマガワは、2020年9月に勇敢かつ献身的な動物に送られるPDSAゴールドメダルを授与されている
  ノルウェーのNGOであるノルウェージャン・ピープルズ・エイド(NPA:The Norwegian People’s Aid)は、1992年に地雷除去の活動を開始し、カンボジアモザンビークアンゴラボスニアなどで不発弾処理、地雷回避教育、地雷犬訓練を実施するなど、重要な役割を果たしている。
 日本発の除去活動
  日本ODAは、地雷除去を進めるNGOにも「日本NGO支援無償」として資金協力している。 
 人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS)
  1998年設立。カンボジアタイで地雷除去プロジェクトを実施(2006年活動終了)。
 日本地雷処理を支援する会(JMAS)
  2002年自衛隊OBが中心となって設立されたNGOで、「日本NGO支援無償」による援助を得てカンボジアで地雷・不発弾処理活動を行った。
 日本紛争予防センター(JCCP)「人道的地雷除去プロジェクト」
  実際の人道的対人地雷除去作業を日本の組織として初めて単独で行ったのは、外務省のNGO支援無償資金協力により活動資金を得て、元陸上自衛官の辰巳竜悟が中心となって2004年1月にスリランカで開始した日本紛争予防センターの対人地雷除去プロジェクトである。
 NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(imccd)
  日本のPKO活動第1陣としてカンボジアへ派遣された元陸上自衛官の高山良二が設立した団体。「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」より独立。また、難民を助ける会が行う地雷回避教育や被害者の義足作成支援など、日本の非政府組織NGOによる対人地雷除去を後方から支援する活動も盛んに行われている。また、地雷により皮肉にも義足の需要が急激に増えており、義足などを無料で配布するボランティアなども多く存在している。
  2001年に、坂本龍一が中心となり、N.M.L.(NO MORE LANDMINE)というユニットを結成、地雷撲滅のチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を発売した。このCDの収益は地雷除去活動を支援するために使われた。
地雷の使用規制
 対人地雷全面禁止条約
   人道的な見地から、「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」(対人地雷全面禁止条約、オタワ条約などともいう)が作られ、1999年3月1日に発効した。この条約が作られる機運を盛り上げるにあたっては、1992年に結成された地雷禁止国際キャンペーンを支持したイギリスダイアナ元皇太子妃も大きな役割を果たした。
   日本1998年9月30日に、この条約を受諾して締約国となり、対人地雷の製造の禁止及び所持の規制等に関する法律を制定して2003年2月8日に保有していた対人地雷のうち、訓練用など一部を除いたすべての廃棄を完了した。この式典には小泉純一郎首相(当時)も出席した。
   ただ、外国などからの侵略行為に対し日本の長い海岸線を対人地雷なしに(対戦車地雷を高感度で使用する方法もあるが)どのようにして守るかについては、自衛隊をはじめ新たな防衛方法が模索されており、かねてより航空自衛隊などが保有しているクラスター爆弾、ないしは新たに開発した対人障害システムを対人地雷の代替とするようであるが、これも極めて限定的な補完にしかならないため、防衛力の空白が懸念されている。また、クラスター爆弾を廃棄する動きも進んでおり、ますます代替手段の必要性が高まってきている。
   さらには米中露といった大量配備/輸出国が批准していない現状では条約は象徴的で限定的な意味しかもっていない。むしろ先進国の撤去対策が施された対人地雷が廃棄され、紛争国が求める安価な地雷が野放しになり被害が拡大する一方という皮肉な事態を招いている。
 アメリカの状況
   2014年、バラク・オバマ大統領は、前述の禁止条約に依らず朝鮮半島を除いた地域での対人地雷の使用禁止、韓国向け以外の備蓄の廃棄を自主的に決定した。しかしながら2020年1月、ドナルド・トランプ大統領は、最新の地雷はアメリカの安全保障に貢献するとして、遠隔操作で無効化できる対人地雷を対象に使用規制を緩和することを発表した。
歴史
 古代
   9世紀の中国()で火薬が発明され、13世紀には兵器として利用されるようになった。しかし、有用性は低く、特に吸湿性により地雷への利用は困難であった。ただし、14世紀の兵法書火龍経』では、圧力式地雷について記載されている。本体は、30cm程度の長さの竹を、牛皮で包み、油を塗布することで防水加工を施した。その中に圧縮した火薬との小片を入れ、蝋で封をして溝に隠す形式のものであった。点火方式としては、敵が隠された装置を踏むとピンが外れ、錘が落下。錘に取り付けられた紐が、2つの鋼輪に取り付けられたドラムに巻き付けられ、錘が落ちると鋼輪が燧石に火花を散らし、複数の地雷につながる導火線に点火される仕組みであった。同様の機構は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1500年頃にスケッチしたヨーロッパ初のホイールロック式マスケット銃にも採用されている。
  また、「宙天衝地伏」と表されるブービートラップもあった。地面に突き刺された槍や斧槍といった武器を引っ張ると、柄尻が地中にある白熱物質の入った鉢を刺激し、鉢の中の白熱物質がゆっくりと燃えて、爆発物につながる導火線に点火される。ただし、これも点火の信頼性に欠けるため、実用はされなかった。
 近世
   1573年、神聖ローマ帝国アウクスブルクサミュエル・ツィンマーマン跳躍地雷を発明している。これは地表近くに埋めた数kgの黒色火薬からなり、踏むか、ワイヤーを引っかけることでフリントロック式発火が作動するものであった。このような地雷は、砦の前の斜面に配備された。普仏戦争でも使われたが、黒色火薬の吸湿性やフリントロック式の脆弱性により、実用性は低かったと思われる。同時期に開発されたフーガス (兵器)は操作式だったが、広範囲に被害を与える破片式地雷やクレイモア地雷の先駆けであった。
   上述しているように、初期の地雷の最大の欠点は、信管の信頼性が低いことと、湿気に弱いことであった。これが安全導火線の発明で変わった。その後、電気が発達してからは、信管が燃えるのを数分待たず、すぐに爆薬を爆発させることができるコマンドイニシエーションが可能になった。電線に電流を流し、火花を散らしながら爆薬を点火するのである。この技術は、1828年から1829年にかけての露土戦争でロシア軍が初めて使用したとされ、1960年代にクレイモアに取って代わられるまで、フーガスが重宝された。
   米国南北戦争で、南軍により初めて大規模な地雷の使用が行われた。何千の地雷に対し、死傷者は数百に過ぎなかったが、士気低下には大きく影響し、進行を遅らせた。ただし、両軍から野蛮な兵器と認識された。
 近代
   19世紀になると高性能爆薬の開発が進み、まず1846年にニトロセルロースが発見された。1865年にイギリスで安全な製造方法が開発されると実用化が進み、軍事面でも1870年代から第一次世界大戦まで、イギリス軍の標準火薬として使用された。この地雷は、ハルツーム包囲戦や第2次ボーア戦争で使用された。同時期に、より強力なニトログリセリンおよびダイナマイトが開発されたが、保管の難易度からニトロセルロースが好まれた。
   1863年にドイツでトリニトロトルエン(TNT)が発明されると、その安定性、非吸湿性、軽量性、柔軟性、低製造コストなどから、第一次世界大戦後の地雷に使用される標準火薬となった。
   日露戦争でも地雷は使用された。ただし、主な影響先が士気低下の地雷より、戦艦を沈める機雷の方が有用であった。
   第一次世界大戦においても、対人地雷の有効性は大きくなく、機関銃有刺鉄線、および速射砲がはるかに効果的な防御手段であった。しかし、この頃には威力は増強されており、爆発後の破片形成数は、普仏戦争時代の20~30程度から、1,000にもなっていた。また、対戦終盤にはイギリス軍が戦車を導入して塹壕突破を図ったのに対抗し、ドイツ軍は対戦車地雷を用いるようになった。これにより、戦地における対戦車地雷原の形成が確立した。
   第二次世界大戦では地雷が本格使用され、開発も大きく進んだ。特に北アフリカ戦線の砂漠や独ソ戦東欧の草原など、開けた大地で戦車に有利な場所に、数千万個の地雷が敷設された。しかし、最初に地雷を使用したのは、冬戦争におけるフィンランド軍である。フィンランドは、20倍以上の6000両の戦車を保有するソ連軍を相手にするため、戦車の移動が制限されるよう、湖や森に囲まれた地形を利用した。マンネルハイム線は、この自然防御と、杭に取り付けた簡易破片地雷などの地雷を融合した防衛線であった。
   ドイツ軍は、電撃戦法で急速に前進している間は、地雷はあまり使用しなかった。しかし、1942年以降、守勢に回るようになると、使用するようになった。連合国軍が既存の地雷に対抗する方法を見つけると、新しいタイプの地雷を開発した。対戦車地雷の除去を困難にするため、S-マインで囲み、兵士が持ち上げようとすると爆発する取扱防止装置を取り付けた。また、地雷の敷設は計画的に行われ、地雷の位置は詳細に記録された。エル・アラメインの戦いの第二次会戦では、ドイツ軍は約50万個の地雷と対戦車砲を組み合わせ、勝利した連合国軍も半数の戦車を失った。
  地雷原を突破する基本的な方法は、銃剣や棒で土を30度の角度で突くことだった(地雷の上部に圧力をかけて爆発させるのを避けるため)。開戦時の地雷はすべて金属製ケースであったので、金属探知機を使って地雷の位置をすばやく特定することができたため、ポーランド人のヨゼフ・コサツキがポーランド式地雷探知機と呼ばれる携帯型地雷探知機を開発した。この探知機への対策として、ドイツ軍は木製ケースの地雷として、シュッツェンミーネ42(対人用)やホルツマイン42(対戦車用)を開発した。シュッツェンミーネは効果的で、安価で作りやすかったため、この戦争で最も一般的な地雷となった。地雷のケースは、ガラス、コンクリート、粘土などでも作られた。ソ連軍はプレス加工されたボール紙の、イタリア軍はフェノール樹脂のケーシング対戦車地雷をつくった。1944年にドイツ軍が開発した非金属地雷トプフミーネは、放射性物質を塗布することで、自軍のみ感知できるようにした。
   地雷を除去するためのいくつかの機械的方法が試みられた。戦車やトラックなどに重いローラーや鋤を取り付けることに始まり、バンガロール爆薬筒のような装備も開発された。その後、対戦車用地雷の効果的な処理方法として、地雷処理戦車が開発された。しかし、広範囲・低密度に敷設された対人地雷を取り除く方法は、依然として手作業であり、戦後には捕虜の少年兵が撤去作業を強いられるなどした。
 現代
   冷戦時代にも主に西側諸国により地雷の開発は進み、イギリス軍は初の散布地雷No 7や超小型地雷No 6棒状のL9棒形地雷を開発。米国はトリップワイヤー式地雷を複数開発した。また、より危険性の高いクレイモア地雷も開発された。飛行機による散布も研究され、その中でもグラヴェル地雷ベトナム戦争で3700万個以上生産されたが、設置場所は記録されず、戦後も残留して問題となった。
   1980年代から2020年までのイラク・イラン戦争湾岸戦争、そしてISILとの戦いにより、イラクは現在、世界で最も地雷に汚染されている国となった。湾岸戦争では、米軍により計117,634個もの地雷が設置された。
化学地雷および核地雷
  化学兵器核兵器としての地雷も開発されてきた。第一次世界大戦では、ドイツ軍が「イペリット・マイン」と呼ばれるマスタードガス(インペリット)を使用した化学地雷を開発した。第二次世界大戦では、化学地雷Sprüh-Büchse 37を開発したが、使われることはなかった。米軍は1939年にマスタードガスを使用するM1化学兵器地雷を、1960年にVXガスを使用するM23化学兵器地雷を開発した。ソ連やフランスも化学地雷を持ち、イラクはクウェート侵攻前に持っていたとされる。1997年に化学兵器禁止条約が発効し、化学兵器の使用が禁止され、廃棄が義務づけられた。2019年4月末までに、申告された化学兵器の備蓄の97%が廃棄された。
  冷戦時代の数十年間、米国は核地雷と呼ばれる原子爆破兵器を開発した。これは手作業で設置することができ、遠隔操作やタイマーで爆発させる携帯用核爆弾であった。そのうちのいくつかは、ヨーロッパに配備された。西ドイツ、トルコ、ギリシャの政府は、東側諸国からの攻撃に対する防御として、核地雷原を持つことを望んでいた。しかし、このような兵器は政治的、戦術的に実行不可能なため、1989年までに兵器は退役した。イギリスはドイツに埋める核地雷を開発するプロジェクト(コードネーム「ブルーピーコック」)を進めていたが、1958年に中止された。
埋火(うずめび)
  地雷と同じコンセプトの火器(土中に埋め、踏むと起爆する兵器)は前近代の頃よりあり、日本でいえば忍者が用いた埋火(うずめび)がある。時代的に見て、対人・対戦車の分類はないが、騎兵にも有効と考えられる。ヒストリーチャンネル『古代からの発見S3』の番組内にて、『万川集海』(17世紀成立)の記述に基づいて実験が行われている。その記述によれば、道の下にトンネルを掘り、その道上に埋火を埋め、爆発と共に道を陥没させ、大名の暗殺に用いられたとしている。
  「地雷」という語自体は、明代の中国兵書『武備志』(1621年)に記載されたの項の一つに「地雷火」の説明がある。この時代の日本忍者が用いた地雷は「埋火」という名称である。
  埋火の仕組みは、製の箱に、導火線となる縄を、箱の内部、ふたの裏側に付けて点火しておき、人が踏んだ重みで直接火薬に着火させるというものであり、たとえ目標が踏まなくとも時限式で起爆し、確実に対象を殺傷した。縄の長さで起爆時間の調節も可能であり、したがって厳密には、「地雷」と「時限爆弾」の両方の性質をおびた兵器だった。デメリットとして、可動ふたが密閉構造ではなく、水の侵入が避けられなかったため、雨天時や沼地・水辺での使用は好まれなかった。
地雷汚染地域
  世界には地雷が多く埋められている国々があり、それらは反政府勢力が関与している場合が多数である。一方でタイでは、自国ではなく隣国・カンボジアのポル・ポト政権が越境して地雷を埋めたケースが殆どである。
単語としての「地雷」の他の用法
  地雷という語は、「うっかり踏むと爆発する」「踏んではいけない」という連想から、色々な場面で「触れてはいけないもの」「禁忌」を表す喩えとして用いられる。巧妙に偽装され爆発するまで気付かない・仕掛けられてから長期間放置されていたものが突如爆発し、相手に被害をもたらすといった地雷の特性による喩えもある。以下一例である。
  ・トラブルメーカーの類。
  ・就職転職活動では、短期離職率が高いなど体質的な問題のある企業(ブラック企業DQN企業も参照)のことを指して地雷と呼んだり、そのような企業が多い業種のことを地雷原と呼ぶ場合もある。会社生活では関わってはいけない人物を指す。
  ・サブマリン特許など見つかりにくい特許を「特許地雷」と呼んだり、また、そのような特許が多く存在する、あるいは特許取得合戦となっている技術分野を特許地雷原と呼ぶことがある。特にアメリカでは個人の権利を尊重して先申請しておく必要があり、なおかつ日本特許庁とは違い非公開であることに由来しており、揶揄も存在する。
  ・俗語で、恋愛相手にしてはいけないタイプの人を「地雷」「地雷系女子」と呼び、嘉門タツオのアルバム『かもたつ』においてもそのような女性に振り回されたりトラブルに巻き込まれたりする男性を描いた「地雷女」という楽曲が収録されている。
 ・・オンラインゲーム対戦ゲームなどの複数人による対戦や、複数人による協力プレイが行われるゲームにおいて、足を引っ張ったりおかしな行動・言動をするプレイヤーを称して地雷プレイヤー、略して地雷と呼ぶことがある。これは、実際に行動を共にしてみないと当人の実力や気質がわからないことに起因している。
  ・期待はずれのもの。
   ・購入した後でないと内容を十分に確認できない商品・サービスで、宣伝・評判・印象などである程度の期待を持って買ったのに内容が面白くなかった場合、その商品を指して「地雷」と呼ぶ。
   ・これは各種著作物(テレビゲーム書籍ビデオソフト)やIT機器(自作パソコン用の部品群、Android端末のスマートフォン)などに見られる現象(ゲームにおいてはクソゲーの項目も参照)で、地雷ゲーと呼ぶことがある。あまりにひどい内容(バグが多い、シナリオに一貫性がなく面白くない、アニメ漫画を原作としたゲームにおける原作と比べ明らかに違うなど)の場合は地雷(ちなみに核地雷は実在する兵器であり、時限装置や遠隔操作で爆破させる)と呼ばれる。
  ・いわゆる性風俗遊びにて、相手になった女性の対応が劣悪だったり容姿が醜悪であった場合、「地雷」を踏んだと言うこともある(逆に相手になった女性が男性客側の対応などに不快感を感じた場合は「魚雷」に当たったと呼ばれることもある)。
  ・プロ野球で期待はずれに終わると思われる新人注目選手。
  ・インターネット上で、主に掲示板において、クリックしたリンク先にブラウザクラッシャーコンピューターウイルスが埋め込まれていたり、グロテスクな画像・性的な内容の画像(特に男性同性愛的な画像)だった場合に「思わぬ落とし穴」という点で「地雷」と呼ばれることがある。
  ・陸上自衛隊においては、演習中に野外で大便をすることを「地雷」と表現することがある(大便は行動の痕跡となるため、現地で処理する場合には敵見されないよう巧妙に埋めて隠蔽する必要がある。航空自衛隊では「爆撃する」と表現することがあるが、いずれも大便を爆発物に見立てている)。
  ・ごく稀に、自爆と同様の意味で「地雷を踏む」(自分で踏むことで起動することから)とも言われる。
  ・本人が触れられたくない過去の心的外傷
その他
  ・第二次世界大戦中の沖縄戦では、日本海軍の爆雷を地雷に改造して使用する例も見られた。こうした地雷の一部は不発弾化し、1974年には那覇市小禄で幼稚園児を含む4人が死亡する事故も生じさせた。
  ・ホバークラフトを使用すれば地雷原を安全に通行することが出来る。ディスカバリーチャンネルで放送されていた怪しい伝説では実際にホバークラフトを用いて安全性を証明している。


ナゴルノ・カラバフ戦争
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  ナゴルノ・カラバフ戦争は、アルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。ナゴルノ・カラバフ紛争と呼ばれることもある。戦争は泥沼化し、現在は事実上アルメニア人の占領下にある。


ナゴルノ・カラバフ自治州
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  ナゴルノ・カラバフ自治州は、ソビエト連邦アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国ナゴルノ・カラバフに、1923年から1991年まで設置されていた、アルメニア人のための民族自治州である。
  古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で係争地となっていたナゴルノ・カラバフは、1920年代初頭にその一帯が共産化してからも、ボリシェヴィキの間で帰属先についての見解は分かれていた。やがて曲折の末にナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンへ帰属することとなり、それと引き換えに住人の大多数であるアルメニア人には自治権が与えられることとなった。こうして1923年にナゴルノ・カラバフ自治州は成立したが、その実態をめぐっては両民族の間でなおも論争がある。
  やがて1980年代末のペレストロイカ時代になると、棚上げされていた帰属問題が再燃し、アルメニア人は自治州とアルメニアとの統合を求めて活動を開始した。しかし、これに反発するアゼルバイジャン人との衝突は遂に多数の死者を出すまでに発展し、ナゴルノ・カラバフ戦争へとつながっていった。そして、ソ連崩壊に際して自治州のアルメニア人は「ナゴルノ・カラバフ共和国」を自称し、アゼルバイジャンから事実上独立するに至った。

騒乱の始まり
  ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンへ帰属した後も、アルメニア人たちはソビエト連邦の政局が変化する度、ナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入するようモスクワへ訴え続けた。しかし、ソ連国外においてはナゴルノ・カラバフをめぐる運動はほとんど知られていなかった。だが、1985年ミハイル・ゴルバチョフ連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されると、現地のみならずロシアでも、物理学者のアンドレイ・サハロフなどの著名人がナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を支持するようになった。さらにはソ連国外でもアメリカフランスを始めとする各国のアルメニア人ディアスポラがナゴルノ・カラバフ編入を支持するデモを行った。
  ナゴルノ・カラバフのアルメニア人もこれに勢いを得て、1988年2月20日、ついに自治州ソビエトも公然とナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を訴えるようになった。同日にアルメニアとの合同を求める住民のデモがステパナケルトで発生し、参加者は当時のソ連において空前の数である10万人を超えた[30]。アルメニア本国でも30万人がこれに呼応し、エレヴァンでデモを行ったが、ソ連のメディアはこれを報じなかった。これと時を同じくして、ステパナケルトでアゼルバイジャン人の女学生たちが強姦されたとの噂が流れ、これに起因して22日にアスケランで発生した民族衝突により、2人のアゼルバイジャン人が殺害されるに至った 。   この事件の影響から、アゼルバイジャン東部のスムガイトでアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃し、30人以上の死者が発生した(スムガイト事件以降、アゼルバイジャンとアルメニアの両国各地で民族衝突が続発するようになり、これはソ連崩壊後もナゴルノ・カラバフ戦争として継続してゆく。
帰属争い
  アルメニア人によるナゴルノ・カラバフ編入要求が高まるなか、2月24日には親アゼルバイジャン派として知られていた共産党自治州委員会第一書記のボリス・ケヴォルコフ (ru) が解任され、後任に自治州のアルメニア編入賛成派であるゲンリフ・ポゴシャンが就任したアルメニア共産党第一書記のカレン・デミルチャン もナゴルノ・カラバフのアルメニア編入支持を公言するようになり、アルメニア指導部は3月19日、帰属問題を国際司法裁判所へ提訴すると決定した 。しかし、同月23日に連邦最高会議幹部会はアルメニア人の要求を却下し、5月21日にはデミルチャンとキャムラン・バギロフの両国共産党第一書記が更迭された。同月には自治州を自治共和国へ昇格させようとする試みも行き詰まった。

  ここに至って6月15日、アルメニア最高会議 はナゴルノ・カラバフを自国へ帰属させる決議を一方的に通過させた。2日後にアゼルバイジャン最高会議 はナゴルノ・カラバフの移管を否認する対抗決議を通過させた。すると7月12日に自治州政府はまたもアゼルバイジャンからの一方的な離脱を宣言し、州名を「アルツァフ・アルメニア人自治州」へ改称すると決定した。そしてアゼルバイジャン最高会議も即日、この決定を無効であると決定した。「法の戦争」と呼ばれたこの争いにゴルバチョフは怒りを表し、翌18日の連邦最高会議幹部会ではアルメニア側の主張をすべて退ける決定が下された。その後、中央から派遣された全権のアルカジー・ヴォリスキーが現地で積極的に調停を行ったことにより、情勢は小康状態となった。
  しかし、死者を伴う衝突はその後も続き、9月にはステパナケルトからアゼルバイジャン人が、シュシャからアルメニア人がそれぞれ追放された。モスクワは同月21日、ステパナケルトとアグダム地区非常事態宣言夜間外出禁止令を発し、内務省軍正規軍が現地へ投入された。11月25日には党自治州委員会がアゼルバイジャン共産党からの離脱と中央直轄の要請を決議し、公然とアゼルバイジャンからの離反を宣言した。

  翌1989年1月12日、連邦最高会議幹部会はヴォリスキーを長としてその他4人のロシア人と2人のアルメニア人、1人のアゼルバイジャン人による「特別管理委員会」 を自治州に設置。これにより自治州はアゼルバイジャンの統治下からモスクワの直轄へと移されたが、同時に最高会議幹部会は、自治州が法的にはアゼルバイジャン領であり続けるとの声明を発表している
  しかし、7月には自治州外シャウミャノフスク地区で、アルメニア人の要求により党地区委員会が地区の自治州への編入を決議。アゼルバイジャン側はこれを否認したが、8月16日には自治州のアルメニア人会議がまたしてもアゼルバイジャンからの離脱宣言を発した。アゼルバイジャン側はこれについても無効決定をし、秋にはさらにアゼルバイジャン側がカラバフの鉄道を封鎖して資源の供給を遮断した。特別管理委員会への幻滅から、8月16日に自治州のアルメニア人指導層は78人体制の「民族評議会」(hy) を設置。アゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを違法としたが、民族評議会は以降も自治州の実質的権力機関となっていった

  事態が悪化の一途をたどるなか、11月28日に連邦最高会議は「ナゴルノ・カラバフ自治州の状況安定化について」の決定を採択し、アゼルバイジャンに対して自治州の待遇是正を求めるとともに、自治州をモスクワからアゼルバイジャンの統治下へ戻すことを決議した。しかし、自治州とアルメニアからの代表はこの決定をボイコットした。翌29日、党自治州委員会は党組織のアルメニア共産党への編入要請を決議。さらに12月1日には、アルメニア最高会議と自治州民族評議会がまたも自治州のアルメニア編入を決議し、民族評議会が自治州外シャウミャノフスク地区およびハンラル地区ゲタシェンのアルメニア人利益も代表することを謳った。6日にアゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを否決したが、翌1990年1月9日にはアルメニア最高会議が自治州の編入決議を繰り返した。そして、1月10日にゴルバチョフはこれを否認した。
ソ連崩壊
  その後、5月頃にはゴスプランにも変化が生じたため、アゼルバイジャン側はこれを利用して自治州の経済を完全に掌握することに成功した。一方で5月のアルメニア最高会議選挙が自治州にも選挙区を置いた反面、9月のアゼルバイジャン最高会議選挙は自治州での実施が不可能となっていた。2国内ではアゼルバイジャン人民戦線アルメニア全国民運動などの民族主義政党が力を伸ばし、衝突は激しさを増していった。1991年夏にモスクワで発生した保守派クーデターも失敗に終わると、その直後の8月30日にアゼルバイジャン共和国が、9月21日にアルメニア共和国が、相次いでソ連からの独立を宣言した

  アルメニア人たちは、今や独立国家と化したアゼルバイジャンに対し領土主張を行うことで国際的な非難を受けることを恐れた。そこで、自治州ソビエトはシャウミャノフスク地区ソビエトと合同し、アゼルバイジャン独立から3日後の9月2日、歴史家のアルトゥル・ムクルトチャンを初代元首として、独立国家「ナゴルノ・カラバフ共和国」となることを宣言した。一方、新生アゼルバイジャンの議会はこれに対し、ナゴルノ・カラバフにおける自治制度を廃止するとともに行政区画を解体し、ステパナケルトもかつての名称であった「ハンケンディ」へ戻すことを11月26日に決議した 。
  しかし、ナゴルノ・カラバフでは12月10日、独立の是非を問う住民投票が国際監視員の立会いのもと(しかし、アゼルバイジャン人の関与しない形で)実施され、総投票数10万8736票(投票率にして82.5パーセント)のうち、賛成10万8615票、反対24票で独立宣言は受け入れられた

アルメニア人の主張
  アルメニア人の側は、自治州においては常にアルメニア人の権利が侵害され続けてきたと主張する。まず、アゼルバイジャン政府は自治州にアゼルバイジャン人を移住させることにより、アルメニア人勢力の縮小を図ったという(実際に、自治州のアゼルバイジャン人は1980年代までに3倍に増加し、アルメニア人の割合は1923年の94.4パーセントから1979年には75.9パーセントに低下している)。
  学校ではアルメニア史の授業は禁止され、アルメニア語の教材も制限されたという。さらに、自治州各地に数世紀前から残る教会建築の数々も、アゼルバイジャン人によって爆破され、銃撃され、石材として転用され、当局はその修復作業も行わなかったとされる。また、アゼルバイジャン人がアルメニア人を殺しても捜査や裁判はまともに行われず、あるいは「ナショナリズムを煽らないよう」アルメニア人が犯人であるかのように報道されたという

  工場や企業なども、自治州外の遠く離れた地域の管轄に置かれたために生産計画が破壊され、自治州の工業生産は人口当たりでも常にアゼルバイジャン全土で最低であったという。このような管理形態は、ナゴルノ・カラバフの経済を破壊しアルメニア人を国外逃亡させることを目的としていた、と主張される。また、1980年から1986年の間にアゼルバイジャン全体の主要生産予算は43パーセント増加したが、同時期に自治州のそれは17パーセント減少したとされる。加えて、農産物などの供出割り当ても、農業地帯として知られるナヒチェヴァン自治共和国よりも多く、1986年の時点で人口一人当たりの家畜の供出割り当てはナヒチェヴァンの4.6倍であったという。
  自治州の住居は、1980年代末の近代的な村でも、その27.2パーセントが第二次世界大戦以前に建てられたままであり、さらにそのうち36.5パーセントは十月革命以前からのものであったという。また、シュシャは1920年にアゼルバイジャン民主共和国軍によるアルメニア人の虐殺(シュシャ虐殺)があって以来ゴーストタウンと化しており、その再建は1961年になるまで行われなかった

  自治州内での都市と地方を結ぶ舗装道路も、自治州とアルメニア本国までの僅かな距離を結ぶ舗装道路も敷かれることはなかった(設立当初の自治州はラチン回廊も領域としていたが、1930年代に回廊が自治州から除かれたため、以降アルメニア本国とは完全に隔たれた状態となった)。鉄道路線は、ステパナケルト=アグダム間の18キロメートルのみに敷かれていた。1988年に中央から現地を訪れたグリゴリー・ハルチェンコは、「道路はさながら核戦争の後のようで」、水道も非衛生的であったと語っている
アゼルバイジャン人の主張
  一方アゼルバイジャン人の側は、自治州でアルメニア人が圧迫されていた事実はなく、むしろ差別を受けていたのはアゼルバイジャン人の方であると主張する。そもそもアゼルバイジャン自体がソ連の中でも最貧国であり、そのような状況下でも自治州のアルメニア人は本国よりも恵まれた暮らしを送っていた、とするデータが公式統計にも表れている。ヴォリスキーも、1989年に自治州に割り当てられた9600万ルーブルの予算のうち、アゼルバイジャン人地区への割り当ては400万ルーブルのみであったと語っている。また、アゼルバイジャン側は自治州で密かにマリファナが栽培されていたとも主張する。

  1988年から翌年までに自治州では136校の中等学校がアルメニア語で授業を行っており、民族間学校の数は13校であったという。また、小さなアルメニア人集落にも文化施設「文化の家」が置かれる一方、それよりも大きなアゼルバイジャン人の村には文化の家は置かれなかったという。人口1000人比での機械化車両数も、アゼルバイジャン全体で17.5台であったところ、自治州では26.3台であったとされる。
  これに加え、1988年3月にアルメニア人の社会経済学者であるチグラン・ハチャトゥロフらが行った社会調査においても、自治州の医療体制や教育施設の状況は、アゼルバイジャン全体やアルメニア本国のみならず、ソ連全体でみても良好な部分があったとの結果が得られている


回 天
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回天(かいてん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である

特徴
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)」という意味で「回天」という言葉を使っていた。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、㊅金物(マルロクかなもの)、(てき)との別称もある。

  1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された。終戦までに420基が生産された。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった
  回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
  回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという
  しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

  回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。
  この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。
  当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。
  また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった 
  潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。
  そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された

開発段階
  小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、大東亜戦争で実戦に投入した。真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた。したがって、体当たり攻撃への気運は潜水艦関係者間に当初から潜在していた。
  人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した。だが、連合艦隊と軍令部は受け入れなかった。
  陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。1944年2月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった。
  1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された

  1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける。 2月26日、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された
  同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された

  1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した。 7月10日、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成(司令官長井満少将)。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉や黒木博司大尉も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った。 7月25日、回天試作機の試験が大入島発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた。
  同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた。同時に特攻への気運が高まっていった。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
運用開始
  一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。
  回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった。9月1日、山口県大津島板倉光馬少佐、黒木博司仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
  9月12日、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった。 この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」と述べた。
実戦投入
回天特別攻撃隊菊水隊
  先遣部隊(第六艦隊)は潜水艦5隻(伊36、伊38、伊41、伊44、伊46)および回天による敵艦隊拠点奇襲攻撃(玄作戦)を、11月上旬に実施する予定で計画を進めていた。だが1944年(昭和19年)10月上旬より米軍機動部隊の行動が活発化(十・十空襲台湾沖航空戦)、日本軍は捷号作戦を発動する。
  玄作戦準備中の第15潜水隊も台湾沖航空戦の残敵掃蕩(誤認)に駆り出された。 10月17日のレイテ島の戦い生起にともない連合艦隊は潜水艦のフィリピン方面集中を下令(レイテ沖海戦)、玄作戦投入予定の潜水艦もフィリピン方面に投入されたので、最初の玄作戦は変更を余儀なくされた
  そこで回天搭載のため改造整備中の潜水艦3隻(伊36、伊37、伊47)をもって、新たに玄作戦を実施することになった。 周防灘で最後の総合訓練を実施。 10月下旬、第15潜水隊の3隻(伊36、伊37、伊47)の準備が完成し、回天特別攻撃隊菊水隊(指揮官は揚田清猪第15潜水隊司令)が編成された。菊水隊の攻撃計画は、機密先遣部隊命令作第一号(玄作戦実施要領)及び機密玄作戦回天特別攻撃隊菊水隊命令作特第一号によって発令された。
   11月5日、連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し、11月20日の回天作戦実施を命じた。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった。玄作戦詳細は以下のとおり。

  1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜伊37潜伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である。西カロリン諸島への潜水艦や彩雲航空偵察により、目標地点を決定。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島ウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指した。
  回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」(第1次玄作戦)は、1944年(昭和19年)11月19日から11月20日にかけて決行された。 20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。

  伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着。3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した[46]。その後、伊47・伊36より発進した計5基の回天のうち1基が、5時30分に湾外のムガイ水道前面を重巡洋艦3隻と駆逐艦3隻でサイパン島に向かって航行していた艦隊を発見し攻撃した。しかし、その艦隊の1隻である駆逐艦ケース(USS Case,DD-370 ) が回天の潜望鏡とウェーキを発見、ケースの艦長R.S.ワイリ少佐は真珠湾攻撃以来アメリカ海軍を悩ませていた特殊潜航艇と判断し、これを攻撃するために潜望鏡に向けて進路を向けた。
  回天の潜望鏡もケースを確認するとそれをかわすように大きく変針し、ケースのすぐ傍を通過して重巡洋艦チェスターに突進していった。ケースは回天を追って回頭中であったので爆雷攻撃ができず、回天は攻撃を受けることなくチェスターに向かっていったが、ワイリは爆雷攻撃ではなく、全速力での体当りを命じて、5時38分、艦首で回天の司令塔に体当りし、回天は真っ二つに切断されて、弾頭はそのまま海中に没して、海上に破片が浮上した
  同じ頃にプグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁座礁して、後に機密保持のために自爆しているが、アメリカ軍の記録によれば、うち1基は故障で海上を漂流中のところを哨戒機が発見して撃破したとされている。

  湾外で回天とアメリカ軍艦隊の戦闘が起こった数分後の5時45分、湾内のタンカーの停泊地に停泊していたシマロン級給油艦ミシシネワに回天1基が命中した。ミシシネワには重油85,000バレルディーゼル油9,000バレル、航空燃料405,000ガロンが満載されていたのでオレンジ色の炎と煙が天に高々と舞い上がり、周辺数海里離れたところからもこの火柱を見ることができた。30秒後に搭載していた航空燃料が誘爆し猛火災となって、最後は武装の38口径5インチ単装砲の砲弾薬庫も誘爆し、消火もままならないまま1時間15分後に転覆して、さらに1時間後に完全に海中に没した。燃えている海上には多数の水兵が投げ出されたが、水上機が水上滑走して、機体後部から曳航したロープに水兵を掴まらせて救助するなどの懸命の救助活動が行われたが、63名が艦と運命を共にし、大量の貴重な燃料油が失われた
  ミシシネワに回天が命中する少し前に、軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) が特殊潜航艇と覚しき目標を発見し発砲した。そのため環礁内は大混乱に陥り、停泊していたあらゆる艦艇がまだ見ぬ目標に向けて発砲をはじめ、100基以上の探照灯が煌々と環礁内を照らした。ちょうどそのころに10,000m離れたタンカー泊地で大爆発が起こり、混乱は一層増長された[50]。6時00分頃、残った1基の回天がモービルに向けて突入してきたが[46]、潜望鏡によって2 - 4ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ラール(USS Rall, DE-304)、ハロラン(USS Halloran, DE-305)、ウィーバー(USS Weaver, DE-741)の3隻が代わる代わる爆雷攻撃を行った
  ラールが爆雷攻撃をしたのちに2名の日本兵が海上に浮上してきたのを確認したが、うち1名が元気に泳いでいたので、救出しようとしてハロランが接近したところ泳いでいた日本兵はまた海上に没してしまったという。その後にハロランは容赦なく爆雷を投下、7時18分に多くの破片と大量の油が浮き上がってきたので完全撃破と確認した。その後、ハロランからボートを下ろして回天の破片を回収したところ、日本語で何か書かれた木と金属でできた腰掛と女学生が差し入れた座布団を回収した。その日は浮上していたはずの日本兵の遺体は発見できず、3日後になってこの付近の海面で遺体を発見し、これを日本兵の遺体と確認した

  伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったが、11月19日にパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(USS Winterberry, AN-56)が、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノルズ(USS McCoy Reynolds, DE-440)が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。
  続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊48潜も撃沈している。
  伊47潜の折田善次艦長と乗組員たちは、ミシシネワから上がったオレンジ色の巨大な炎と煙の柱を確認していたが、そのあとに2つの閃光が走ったのを見てさらに2基が命中したと考えて歓喜した。しかし、詳細な戦果を確認する暇もなく、警戒を強化したアメリカ軍の駆逐艦の艦影を発見したため、急速潜行しての退避を余儀なくされた。
  伊47潜と伊36潜はその後無事に内地に帰投し、参謀や潜水艦関係者200名以上の前で折田と伊36潜の寺本巌艦長が戦況を報告した結果、2艦から発進した5基の回天は全基命中したと認定され、空母3隻、戦艦2隻撃沈の戦果を挙げたと公表された。特に折田が、攻撃前に日本軍の偵察機が撮影した環礁内の写真に2隻の空母が写っていたが、攻撃後の偵察写真にその空母がいなくなっていたことを見て、空母撃沈を強く主張したことが、この過大戦果判定に大きく影響した。折田は攻撃前の撮影写真で確認できたのは正規空母ではなく護衛空母と認識していたが、撃沈されたミシシネワは、その外見が同じT2型油槽船から設計されたサンガモン級航空母艦と酷似しており、見間違えた可能性も指摘されている
回天特別攻撃隊金剛隊
  この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れなかった。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。第二次玄作戦は、回天特別攻撃隊金剛隊と命名された。参加潜水艦は6隻(伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58)。12月19日、連合艦隊は電令作第448号をもって第二次玄作戦開始を命じる。
  12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した。伊56は警戒厳重のため攻撃機会がなく、伊47は1月12日に四基発進(判定:大型輸送船4隻轟沈)、伊53は同日三基発進(大型輸送船2隻轟沈)、伊58は四基発進(特設空母1、大型輸送船3隻轟沈)、伊36は四基発進(有力艦4隻轟沈)、伊48は未帰還(油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった。 総合戦果判定は特空母1、大型輸送船9、油槽船1、巡洋艦1、有力艦6、合計18隻轟撃沈というものだったが、戦後調査によれば該当する記録はない。金剛隊の回天作戦は、泊地攻撃の困難さを改めて浮き彫りにした

多聞隊の成功
  沖縄戦も終わり、敗色が濃くなった1945年7月に、第6艦隊は、日本海軍の作戦可能な全潜水艦兵力を回天作戦に投入することとし、伊47潜伊53潜伊58潜伊363潜伊366潜伊367潜の6隻を出撃させた。多聞隊という部隊名は、日本本土への侵攻に対抗するべく武神多聞天から採ったものであった
  この多門隊は、海上において通商破壊を任務としており、各艦は沖縄と太平洋上のアメリカ軍各拠点を結ぶ補給線上でアメリカ軍船団を待ち構えていた。7月24日に伊53潜は戦車揚陸艦7隻、輸送艦1隻と護衛の護衛駆逐艦 アンダーヒル 他数隻で編成された船団を発見し、勝山淳中尉が搭乗する回天1基を射出した。まもなく護衛艦隊が回天を発見し爆雷攻撃を加えたが、護衛艦もパニックに陥っており、射出された回天は1基だったのにも関わらず、何本も潜望鏡が見え、日本軍の特殊潜航艇数隻が攻撃してきたと誤認した。
  そのうち1つの潜水艇らしきものを発見したアンダーヒルは、衝突してその潜水艇を撃破しようと前進したが、勝山艇はアンダーヒルと衝突後に大爆発を起こして、アンダーヒルはあっという間に真っ二つになり、一瞬で10名の士官と102名の水兵が戦死した。アンダーヒルの艦体の前部はたちまち海没したが、残った後部はしばらく浮いていたため、他の艦の砲撃によって処分された。アンダーヒルの沈没は、日本軍潜水艦がフィリピン沖という外洋で積極的に作戦行動しているという衝撃的な情報であったが、なぜかこの情報がアメリカ海軍内で共有されることはなかった

  伊53潜はそのまま回天作戦を続行していたが、8月4日、不意に大量の爆雷攻撃を受けた。新兵器の三式探信儀で探索したところ、伊53潜が気づかないうちに半径1,000mで5隻の敵艦に包囲されていることが判明した。艦長の大場佐一大佐は、30mから回天の耐圧深度80mを超える100mまで艦を激しく上下させたり、艦を激しく左右に急旋回させて爆雷を回避するよう命じた。
  しかし投下された爆雷は100個以上となり、大場も今まで経験したことのない窮地に追い込まれた。搭載していた回天4基のうち2基も損傷により使用不能となったが、残る2基の搭乗員関豊興少尉と荒川正弘一飛曹が、このままやられるよりは、乾坤一擲、死中に活を求めたいと出撃を直訴し、大場も最後の望みと考え出撃を許可、2基の回天は頭上で爆雷攻撃中の敵艦に突入するという困難な任務となったが、2基のうちの1基が アールV.ジョンソン(護衛駆逐艦)の至近で爆発、同艦は主機関と舵取機が損傷し戦線離脱を余儀なくされ、伊53潜は窮地を脱することができた
  伊58潜は広島長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、1945年7月30日にレイテ島へ単独航行中であった重巡洋艦インディアナポリスを発見、橋本以行艦長は敵艦は真っすぐに向かってきたことから、発見されたものと考え(実際には発見されていなかった)、攻撃後に即潜航することが必要と考えて、回天搭乗員の出撃要求を抑えて通常魚雷6本を発射、うち2~3本が命中してこれを撃沈した。

  伊58潜はその後もこの海域に留まり、回天作戦を継続して、4基の回天を射出していた。8月12日には、トマス・F・ニッケル(護衛駆逐艦)オークヒル(ドック型揚陸艦)(橋本は15,000トン級の水上機母艦と誤認)の船団を発見、橋本は残った2基のうち1基の回天(林義明一飛曹搭乗)の射出を命じた
  オークヒルは回天の潜望鏡を発見し、トマス・F・ニッケルが攻撃に向かったが、回天はそのトマス・F・ニッケルの側面に命中した。しかし、命中した角度が浅かったため信管が作動せず、林艇はトマス・F・ニッケルの側面をこすったのちに、同艦から25m離れたところで爆発した。林が信管の起動スイッチを押して自爆したものと思われる。
  回天の慣性信管はしばしば同様に命中しても、角度が浅く起動しないことがあった。金剛隊の攻撃で損傷した輸送艦ポンタス・H・ロスも同様に回天が命中しながら、信管が起動せずに小破で止まっている。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。九死に一生を得たトマス・F・ニッケルであったが、受けた衝撃は大きく、なおも数基の回天が同艦を攻撃していると誤認して、2時間に渡って幻の回天相手に転舵と回避を繰り返しながら、爆雷を投下し続けるという独り相撲を取り続けたが、船団に被害はなかった。残った1基の回天は故障していたためこれが回天最後の出撃となり、故障した回天の搭乗員の白木一郎一飛曹は生還した。
  多聞隊は戦果を挙げながら、6隻全艦が無事帰投している。アメリカ軍は多聞隊の動静を出撃前から掴んでいたが、大戦末期で自信過剰となっていたのか、情報の共有や日常の哨戒活動が徹底されておらずに終戦直前に手痛い損害を被ることとなった。日本海軍からすれば多聞隊は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げて、回天作戦の有終の美を飾ることができ、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された

  回天作戦により、回天搭乗員80名~87名が作戦中に戦死、母艦の潜水艦も8隻を損失しており、その損害に対して戦果は期待外れであった。しかし、アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた。
  吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているもの。
  なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。

  当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し、アイダホ型戦艦撃沈と報告している。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している



プロパガンダ
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プロパガンダ: propaganda)は、特定の思想世論意識行動へ誘導する意図を持った行為である。
通常情報戦心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省 (現在の福音宣教省) の名称であるラテン語 propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。

概念
あらゆる宣伝や広告、広報活動、政治活動はプロパガンダに含まれ、同義であるとも考えられている。利益追求者(政治家・思想家・企業人など)や利益集団(国家・政党・企業・宗教団体など)、なかでも人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り維持し続けるためのプロパガンダは重要なものとなる。対立者が存在する者にとってプロパガンダは武器の一つであり、自勢力やその行動の支持を高めるプロパガンダのほかに、敵対勢力の支持を自らに向けるためのもの、または敵対勢力の支持やその行動を失墜させるためのプロパガンダも存在する。
  本来のプロパガンダという語は中立的なものであるが、カトリック教会の宗教的なプロパガンダは、敵対勢力からは反感を持って語られるようになり、プロパガンダという語自体が軽蔑的に扱われ、「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義と見るようになった。このため、ある団体が対立する団体の行動・広告などを「プロパガンダである」と主張すること自体もプロパガンダたりうる。
  またプロパガンダを思想用語として用い、積極的に利用したウラジーミル・レーニンソビエト連邦や、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツにおいては、情報統制と組み合わせた大規模なプロパガンダが行われるようになった(詳細は「ナチス・ドイツのプロパガンダ」を参照)。そのため西側諸国ではプロパガンダという言葉を一種の反民主主義的な価値を内包する言葉として利用されることもあるが、実際にはあらゆる国でプロパガンダは用いられており、一方で国家に反対する人々もプロパガンダを用いている。あらゆる政治的権力がプロパガンダを必要としている。
  なお市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、戦争や人種差別を扇動するあらゆるプロパガンダを法律で禁止することを締約国に求めている。報酬の有無を問わず、プロパガンダを行なう者達を「プロパガンディスト」と呼ぶ。
プロパガンダの種類
  プロパガンダには大別して以下の分類が存在する。
ホワイトプロパガンダ・・・情報の発信元がはっきりしており、事実に基づく情報で構成されたプロパガンダ。
ブラックプロパガンダ・・・情報の発信元を偽ったり、虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ
グレープロパガンダ・・・発信元が曖昧であったり、真実かどうか不明なプロパガンダ。
コーポレートプロパガンダ・・・企業が自らの利益のためにおこなうプロパガンダ。
カウンタープロパガンダ・・・敵のプロパガンダに対抗するためのプロパガンダ。
プロパガンダ技術
アメリカ合衆国宣伝分析研究所は、プロパガンダ技術を分析し、次の7手法をあげている
  1-ネーム・コーリング - レッテル貼り。攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける(恐怖に訴える論証)。
  2-カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。
  3-バンドワゴン - その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。(衆人に訴える論証
  4-証言利用 - 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする(権威に訴える論証)。
  5-平凡化 - その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。
  6-転移 - 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。
  7-華麗な言葉による普遍化 - 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。
また、ロバート・チャルディーニは、人がなぜ動かされるかと言うことを分析し、6つの説得のポイントをあげている。これは、プロパガンダの発信者が対象に対して利用すると、大きな効果を発する
 1-返報性 - 人は利益が得られるという意見に従いやすい。
 2-コミットメントと一貫性 - 人は自らの意見を明確に発言すると、その意見に合致した要請に同意しやすくなる。また意見の一貫性を保つことで、社会的信用を得られると考えるようになる。
 3-社会的証明 - 自らの意見が曖昧な時は、人は他の人々の行動に目を向ける。
 4-好意 - 人は自分が好意を持っている人物の要請には「YES」という可能性が高まる(ハロー効果
 5-権威 - 人は対象者の「肩書き、服装、装飾品」などの権威に服従しやすい傾向がある。
 6-希少性 - 人は機会を失いかけると、その機会を価値のあるものであるとみなしがちになる。
ウィスコンシン大学広告学部で初代学部長を務めたW・D・スコットは、次の6つの広告原則をあげている。
 1-訴求力の強さは、その対象が存在しないほうが高い。キャッチコピーはできるだけ簡単で衝撃的なものにするべきである。
 2-訴求力の強さは、呼び起こされた感覚の強さに比例する。動いているもののほうが静止しているものより強烈な印象を与える。
 3-注目度の高さは、その前後に来るものとの対比によって変わる。
 4-対象を絞り、その対象にわかりやすくする。
 5-注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。
 6-注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

J.A.C.Brownによれば、宣伝の第一段階は「注意を引く」ことである。具体的には、激しい情緒にとらわれた人間が暗示を受けやすくなることを利用し、欲望を喚起した上、その欲望を満足させ得るものは自分だけであることを暗示する方法をとる。またL.Lowenthal,N.Gutermanは、煽動者は不快感にひきつけられるとしている
  アドルフ・ヒトラーは、宣伝手法について「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」「宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そのスローガンを繰り返し続けることが必要である。」と、感情に訴えることの重要性を挙げている。また「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば」(=嘘も百回繰り返されれば真実となる)とも述べた。
  杉野定嘉は、「説得的コミュニケーションによる説得の達成」「リアリティの形成」「情報環境形成」という三つの概念を提唱している。また敵対勢力へのプロパガンダの要諦は、「絶妙の情報発信によって、相手方の認知的不協和を促進する」事である、としている。
歴史
有史以来、政治のあるところにプロパガンダは存在した。ローマ帝国では皇帝の名を記した多くの建造物が造られ、皇帝の権威を市民に見せつけた。フランス革命時にはマリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と語ったとしたものや、首飾り事件に関するパンフレットがばらまかれ、反王家の気運が高まった。
  プロパガンダの体系的な分析は、アテネで紀元前6世紀頃、修辞学の研究として開始されたと言われる。自分の論法の説得力を増し、反対者への逆宣伝を計画し、デマゴーグを看破する技術として、修辞学は古代ギリシャ古代ローマにおいて大いに広まった。修辞学において代表的な人物はアリストテレスプラトンキケロらがあげられる。古代民主政治では、これらの技術は必要不可欠であったが、中世になるとこれらの技術は廃れて行った。
  テレビインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で、効果的なものとした。わずかな費用で多数の人々に自らの主張を伝えられるからである。現代ではあらゆる勢力のプロパガンダに触れずに生活することは困難なものとなった。
国家運営におけるプロパガンダの歴史
国家による大規模なプロパガンダの宣伝手法は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国における広報委員会が嚆矢とされるが、ロシア革命直後のソ連 で急速に発達した。 レーニンは論文 でプロパガンダは「教育を受けた人に教義を吹き込むために歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義した。レーニンは宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、「宣伝扇動」(agitprop)という名でそれを表した。十月革命後、ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)は人民に対する宣伝機関を設置し、第二次世界大戦後には社会主義国に同様の機関が設置された。またヨシフ・スターリンの統治体制はアブドゥルアハマン・アフトルハーノフによって「テロルとプロパガンダ」の両輪によって立っていると評された。

  1930年代にドイツの政権を握った国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、政権を握る前から宣伝を重視し、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊した「デア・アングリフ」紙や、フェルキッシャー・ベオバハター紙による激しい言論活動を行った。また膨大な量のビラやポスターを貼る手法や、突撃隊の行進などはナチス党が上り調子の政党であると国民に強く印象づけた。
  ナチ党に対抗した宣伝活動を行ったドイツ共産党ヴィリー・ミュンツェンベルクは、著書『武器としての宣伝(Propaganda als Waffe)』において「秘密兵器としての宣伝がヒトラーの手元にあれば、戦争の危機を増大させるが、武器としての宣伝が広範な反ファシズム大衆の手にあれば、戦争の危険を弱め、平和を作り出すであろう」と述べている。
  ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送出版絵画彫刻映画オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
  第二次世界大戦中は国家の総動員態勢を維持するために、日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国イギリスアメリカ、ソ連などの連合国を問わず、戦争参加国でプロパガンダは特に重視された。終戦後は東西両陣営の冷戦が始まり、両陣営はプロパガンダを通して冷たい戦争を戦った。特に宇宙開発競争は、陣営の優秀さを喧伝する代表的なものである。
  1950年代、中華民国政府(台湾政府)が反共文芸を推奨し、趣旨に共鳴した「中華文芸奨金委員会」が活躍していた。

コーポレートプロパガンダ
コーポレートプロパガンダ(企業プロパガンダ)は、企業がその活動やブランドイメージに関する市場消費者意見を操作するために行なうプロパガンダの一種である。
  特定の人間がその企業の製品やサービスに対して支持を表明する事で、社会における好意的な印象形成に影響をもたらす。このようなコーポレートプロパガンダについてジークムント・フロイトの甥であるエドワード・バーネイズは著書「プロパガンダ(1928年刊行)」の中で詳細に解説しており、また一般大衆の稚拙さについても歯に衣着せず言及している。バーネイズは大衆向けのイベント、メディアや有名な俳優などを多用し、その影響力を駆使して大衆の意思決定を操り、大衆行動をクライアントの利益に結びつけてきた。叔父であるフロイトが示唆した、人間の潜在的な欲求に関する心理学理論を駆使し、バーネイズは人々に現実的には何の利益もない商品を一般大衆が自ら買い求めるように仕向ける事に成功し、そのプロパガンダの手法を進化させていった。現実に、今日多用されているような、有名人の広告への起用や、実際には偽科学的だが一見科学的な主張のようにみえる意見を利用した広告など、悪意的な現在の大衆操作に関する知識の多くは、バーネイズの開発したミーム論を利用した広告戦略に基づいたものであり、彼の著書「自我の世紀」に、その手法の多くが言及されている。大衆の世論操作に際してのプロパガンダの有効性について、バーネイズは次のように述べている。

  (もし我々が、集団心理の仕組みと動機を理解するならば、大衆を我々の意志に従って 彼らがそれに気付くことなしに制御し組織化することが可能ではないだろうか。プロパガンダの最近の実践は、それが可能であることを証明してきた。少なくともある地点まで、ある限界の範囲内で。— エドワード・バーネイズ)

企業プロパガンダは一般的に、婉曲的な表現として広告広報もしくはPRとも呼ばれている。

国策プロパガンダ
宗教組織や企業、政党などの組織に比べて、強大な権力を持つ国家によるプロパガンダは規模や影響が大規模なものとなる。国策プロパガンダの手法の多くはナチス体制下のドイツ大東亜戦争直前・戦中の日本太平洋戦争直前・戦中のアメリカ合衆国革命下のロシアやその後のアメリカ合衆国ソビエト連邦中華人民共和国など全体主義・社会主義の国のみならず資本主義諸国でも発達した。社会主義国や独裁国家では情報活動が国家によって統制・管理されることが多いため、国家による国内に対するプロパガンダは効率的で大規模なものとなりがちである。
  どのような形態の国家にもプロパガンダは多かれ少なかれ存在するものだが、社会主義国家や ファシズム国家、開発独裁国家など、情報を国家が集中して管理できる国家においては、国家のプロパガンダの威力は強大なものがある。また、特定のグループが政治権力とメディアを掌握している国でも同じ事が起こる。こうした国家では、国家のプロパガンダ以外の情報を入手する手段が著しく限られ、プロパガンダに虚偽や歪曲が含まれていたとしても、他の情報によって情報の精度を判断することが困難である。
  さらに、こうした国家では教育とプロパガンダが表裏一体となる場合がしばしば見られる。初等教育の頃から国民に対して政府や支配政党への支持、ナショナリズム、国家防衛の思想などを擦り込むことにより、国策プロパガンダの威力は絶大なものとなる。
  しかし、こうした国家では情報を統制すればするほど、また国内向けのプロパガンダが効果を発揮すればするほど、自由な報道が保障されている外国のメディアからは疑惑の目で見られ、そのプロパガンダが外国ではまったく信用されない、という背理現象も起こりうる。
  また、国家のプロパガンダは国家、政府機関、政党などが直接手がけるとは限らない。民間団体や民間企業、個人が自主的、受動的、または無意識に行う例もある。

  (大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点を出来るだけ絞り、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。……
……大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。
— アドルフ・ヒトラー「我が闘争」より

軍のプロパガンダ
部隊・装備
軍隊は国家が直接行動を命令できるため、プロパガンダに利用されやすい。このため本来軍事行動には必要の無い人員や装備が配備されている。
  多くの軍隊では国民や諸外国に正当性や精強さをアピールするため、見栄えの良い宣伝用の写真や映像を多数公開しており、それらの撮影のために第301映像写真中隊自衛隊)のような専門の部隊が編成されている。特にアメリカ軍は兵器が運用される様子から休憩中の兵士にいたるまでほぼ全ての広報写真をウィキメディア・コモンズに投稿し、ウィキペディアなどで自由に使えるようにしているが、公開されるのは軍に都合が良い写真だけである。アメリカ軍では第二次世界大戦時に隊員教育やプロパガンダ用の映画を制作するため第1映画部隊を編成し、映画業界人を徴兵扱いで多数動員していた。
  第二次世界大戦時のアメリカによる日系人の強制収容に対し、日本は「白人の横暴の実例」として宣伝し日本の軍事行動は「アジアの白人支配からの解放」であると正当化した。アメリカではこれに対抗するため日系移民の志願者による部隊(第100歩兵大隊)を急遽創設した。

  多くの空軍では実戦部隊以外にも曲技飛行による広報活動を任務とする曲技飛行隊を有している。これは国民向けに曲技飛行を披露し軍への関心を高めることに加え、パイロットの技量を外国へ誇示する目的もある。使用する機体は既存機の流用であっても武装の撤去、スモーク発生装置の搭載、派手な塗装を施すなど実戦には不適格な改造を施したり、既に時代遅れとなった複葉機を曲技専用に配備するなど予算的に優遇されている。またアメリカ軍では空軍サンダーバーズ)、海軍ブルーエンジェルス)、太平洋空軍(PACAF F-16 Demo Team)など複数の部隊が併存している。なおブルーエンジェルスは、第二次大戦終結により海軍航空隊への国民の関心が低下し、予算の減額や空軍との統合など権限縮小を危惧したチェスター・ニミッツ提督が「大衆の海軍航空兵力への関心を維持しておく事」を意図して組織され、第1映画部隊はアメリカ陸軍航空軍司令官だったヘンリー・アーノルド将軍が陸軍航空軍の独立性を強調する為にも独自の撮影部隊が必要だと考え、宣伝映画を担当していた陸軍信号隊とは別の組織として映画業界人に依頼して編成されたなど、宣伝部隊でありながら純粋な広報ではなく政治的な意図で創設された例もある。
・・・・・
戦争遂行のためのプロパガンダ
  国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争するしか道がないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。アーサー・ポンソンビーは、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、主張される事に関する10の要素を以下のように導き出した。

  1-
我々は戦争をしたくはない。
しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
敵の指導者は悪魔のような人間だ。
我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う(正戦論)。
我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
芸術家知識人も、正義の戦いを支持している。
我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)。
この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴非国民)である。
  フランスの歴史家アンヌ・モレリは、この十要素が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した。そして、著書『戦争プロパガンダ10の法則』の序文中で、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。

もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。(— ヘルマン・ゲーリング ニュルンベルク裁判中、心理分析官グスタフ・ギルバートに対して)
使用されるメディア・媒体
プロパガンダには様々なメディア・媒体が利用されるが、マスメディアは、一度に多くの対象に強烈なメッセージを送ることができるため、プロパガンダの要として最も重要視されている。権威主義的国家では、マスメディア(インターネットメディアを含む)に対する様々な統制が行われ、実質体制の宣伝機関となっているところもある。
  自由主義国家では利益関係はさらに複雑なものがあり、体制からの圧力だけではなく、私企業・外国・政党・宗教・団体の影響を受け、自主的にプロパガンダを行うこともある。また、新聞社や雑誌社、テレビ局のスタッフなどの個人的信条が影響を与えることがある。


エチオピア・エリトリア国境紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  エチオピア・エリトリア国境紛争は、1998年5月6日から2000年6月18日までの間、アフリカのエチオピアとエリトリア間で行われた戦争のことである。発端は国境紛争ではあるが、互いの首都を空爆しあうなど、規模は極めて大きく、犠牲者も多かった。第二次世界大戦以降に勃発した国家間紛争のうち、死者数が10万人を超えるとされるのは、朝鮮戦争インドシナ戦争ベトナム戦争イラン・イラク戦争と本紛争のみである。両国とも経済規模が小さい貧国であり、身の丈に合わない戦争の継続が地域の破綻を招くとして、開戦以降、国際連合やアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)などが積極的に仲介に乗り出している。また、この紛争はロシアとウクライナの代理戦争としての側面もあった。ロシアがエチオピアを、ウクライナがエリトリアを支援した。
背景
  エリトリアは1961年から1991年までの30年間にわたり、エチオピアからの独立闘争を繰りひろげた。エチオピアの社会主義政権崩壊の結果、1993年にエリトリアは独立を達成し、両国の関係は正常化した。しかし、エリトリアの独自通貨発行や内陸国となったエチオピアによるエリトリア国内の港湾の使用料の交渉が難航したことなどで、両国の関係はふたたび険悪化(背景には、エリトリア側の独立による民族意識の高揚と、エチオピア側が影響力(通貨の流通や港湾の使用)の行使を維持させたい思惑があった)。また、国境沿いにある都市バドメ周辺の国境線は未確定のままであり、両国は違った見解をもっていた[2]。当時、バドメ周辺に鉱脈が発見され、その所有をめぐる紛争が原因というニュースも流れたが定かではない。
代理戦争
  1999年2月25日にエリトリアのMiG-29が、前線を飛行中だったエチオピアのSu-27に遭遇。戦闘となりエリトリアのMiG-29が3機撃墜されたとされる。エチオピアのSu-27は、2機ともエチオピア人による操縦とされるがロシア人とも言われている。エリトリアのMiG-29は、ウクライナ人教官とエリトリア人による操縦であった。その後エリトリアはMiG-29を追加購入した際にSu-27もセットでウクライナから購入している。また、エチオピア空軍第5飛行隊にはロシア人傭兵が所属していたとする情報もある。
経緯
  1998年以前からバドメ付近はエチオピア軍によって占拠されていた。5月6日から7日にかけ、バドメにおいてエチオピア側の民兵が銃撃を行い、エリトリア兵8名を殺害する事件が発生した。エリトリア軍は5月12日からバドメを含む地域に攻撃をかけ、さらに東部に進撃したが、エチオピア側はこの地域に民兵と警察しか配置しておらず、撤退を余儀なくされた。5月13日にはエチオピア内閣と議会がエリトリア側の侵略を非難し、即時撤退を求める声明を行った、エリトリアはこれをエチオピアからの宣戦布告であると主張し、両国間の紛争は本格的なものとなった。エリトリア側は自国の攻撃がエチオピア側の攻撃に対する正当防衛であると主張していたが、この措置を国際連合安全保障理事会に報告していなかった。両国の外交関係は一応維持されており、一定の経済関係も存在していた。
  正確な死傷者数は不明であるが、イギリスの外務・英連邦省は10万人としている。また、両国が国内に滞在する相手国民を追放したことから、多数の難民が発生した。
停戦合意
  2000年6月18日、アフリカ統一機構の調停により、停戦合意が成立した。合意の内容は以下の通りである。
・即時の停戦   ・停戦監視のための平和維持部隊の展開   ・エチオピア軍は1998年5月6月以前の統治地域まで撤退   ・エチオピア軍の撤退ラインからエリトリア側に25kmの暫定安全保障地帯を設置する。エリトリア軍は暫定地帯に立ち入ることはできない。
  7月31日には 国際連合安全保障理事会決議1312を採択し、PKO国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)の設置を決定した。12月12日には両国間の包括的和平合意(アルジェ和平合意)が成立した。内容は以下の通りである。
・両国は停戦合意を遵守し、敵対行動を取らない   ・アフリカ統一機構事務総長の任命による「公平で公正な機関」が国境紛争について調査する   ・中立の国境確定委員会が国境線を決定する   ・両国の国家および国民が受けた損害を相手国に請求するための請求権委員会を設置する。
合意後の展開
  2002年4月13日、 国境委員会により国境確定が行われた。しかしバドメがエリトリアに帰属するとされたため、エチオピアは異議を唱えた。このため2004年1月には国連安全保障理事会が、「国境紛争に改善が見られない」と懸念を表明している。11月にエチオピアは決定を原則として受け入れると発表した。しかし2005年には再び両国間は緊張し、12月にはエリトリアがUNMEEに参加している西洋諸国に撤退するよう要求した。しかしUNMEE参加国は大半がアフリカ諸国であったため、UNMEEの任務は継続された。
エリトリア・エチオピア請求権委員会の裁定
  2005年12月19日、請求委員会は両国の主張を審査した上で、次のような裁定を下した。
  1998年5月6日から7日にかけての事件について両国の意見は異なるが、限定された小規模な紛争であることは明らかであり、国際連合憲章51条の「武力攻撃」にはあたらない。このためエリトリアの侵攻は合法的な自衛権として認定されず、その地域における戦時国際法違反についてはエリトリア側に責任がある。
  ただし、国境未確定地域における攻撃が事前に計画されたものであるというエチオピア側の主張は、証拠が存在しないため認定されない。
  戦時国際法違反においてエリトリアが負う損害賠償の範囲は、この手続きの損害段階において決定される。

  ただし請求委員会の委員はいずれも戦争のための法(jus ad bellum)の専門家ではなく、また国境未確定地域以外へのエリトリアの攻撃については評価を行っていない。
2007年以降の展開
  2007年10月16日、エリトリア軍のタンカーが暫定安全保障地帯に侵入する事件が発生した。2007年7月からは損害段階における審理が開始されたが、両国の主張は平行線をたどった。2007年12月以降、エリトリアのUNMEEに対する妨害が顕著になり、物資の供給をサボタージュするようになった。7月には国連安全保障理事会が7月31日の任期切れとともにUNMEEを撤退させることを決議し、UNMEEは活動終了した。安保理はエリトリアが国連軍を強制移動させたことなどの妨害行為についてが言及している。
  2008年6月10日-13日にはエリトリア軍がジブチに侵入し、ジブチ軍人2名が死亡する事件が発生した(ジブチ・エリトリア国境紛争)。
  以降、両国国境間は両軍が対峙する緊張状態にある。2010年にはエリトリアが、エチオピア軍の越境攻撃が行われたと主張し、エチオピア側がこれを否定するという事件が起きた(エチオピア・エリトリア国境事件 (2010年))。内陸国化しているエチオピアは、エリトリアの港湾の使用を事実上断念し、同じく隣国であるジブチの港湾を使用している。
  2018年4月2日、新たに就任したエチオピア首相アビィ・アハメドが、エリトリアとの関係改善に向けた対話路線を表明。さらに6月18日、アビーが人民代表議会において、アルジェ和平合意、及び国境委員会裁定の受諾と履行を言及した。
  7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、アビーとエリトリア大統領イサイアス・アフェウェルキが首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した。アビーはこの功績により2019年ノーベル平和賞を贈られることが決まった







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