モルドバ(沿ドニエステル・モルドバ共和国)-1世界の国々


2024.10.21-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20241021-N7AUGL4UJJIAPFPKDUDFJZAHQ4/
モルドバ、国民投票でEU加盟「否決」も 大統領選は決選投票の公算
(小野田雄一)

  旧ソ連構成国モルドバ20日、大統領選(任期4年)が行われた。中央選管によると、開票率92%の時点で、どの候補者も過半数の票を獲得しておらず、決選投票に進む公算が大きい同時に行われた欧州連合(EU)加盟を国家目標として憲法に明記することの是非を問う国民投票では「反対」が過半数となり、否決される可能性がある。暫定投票率は51・6%。

  モルドバでは親欧米派と親ロシア派の政治勢力による政権交代が相次いできた。11人が候補者登録された大統領選では、2期目を目指す親欧米派のサンドゥ現大統領が38・3%の得票率でトップ。親露派政党の支援を受ける元検事総長、ストイアノグロ氏が28・5%で2位。どの候補者も過半数の票を獲得しなかった場合、来月3日に上位2人による決選投票が行われる。
  EU加盟方針の憲法明記を巡る国民投票では、「賛成」が47%、「反対」が53%。経済低迷が続くモルドバの有権者は、経済的に弱いモルドバがEU加盟に伴いさらなる経済的混乱に直面する事態を懸念した可能性がある。
  国民投票が否決された場合、2020年の前回大統領選で親露派候補にに勝利して親欧米派路線を進め、22年にモルドバの「EU加盟候補国」の地位獲得を実現させたサンドゥ氏にとって大きな政治的打撃となる。
  大統領選と国民投票を巡り、モルドバ当局や米国は事前に「ロシアと親露派がサンドゥ氏と国民投票に反対票を投じさせるため有権者買収や情報操作を試みている」などと指摘。ロシアは否定していた。
(小野田雄一)


2023.06.15-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2023/06/15/32371.html
ロシアから離れたい?離れられない? なぜ揺れるモルドバ?
(ブリュッセル支局長 竹田恭子)

  「支援してくれるのはEUだ!ロシアが何をした?」「ロシアは面倒を見てくれた!」
  ウクライナの隣国モルドバで取材をしていると、人々が突然言い争いを始めました。ロシアによるウクライナ侵攻を受けてEU加盟を申請したモルドバ。しかし、現地では“脱ロシア”は容易ではないとの声も聞かれます。
  いったいなぜなのか。そこにはロシアとの、切っても切れない関係がありました。
(ブリュッセル支局長 竹田恭子)

モルドバってどこにある?
  ウクライナとルーマニア(EU・NATO加盟)の間にあり、面積は九州よりやや小さいぐらい。人口はおよそ260万です。豊かな土壌と昼夜の寒暖差を利用したブドウ栽培が盛んで、ワイン発祥の地の1つともされています。
そもそもモルドバってどんな国?
  旧ソビエトの一部でしたが、1991年8月に独立を宣言しました。ただ、東部のウクライナとの国境沿いにある「沿ドニエストル地方」は、1990年にモルドバからの分離独立を一方的に宣言。モルドバ政府軍との間で紛争となりました。
  1992年に停戦で合意しましたが、ロシア軍が今も駐留するなど、ロシアの強い影響下にあります。停戦合意のあと、憲法で国の中立を定めたモルドバですが、ロシアとの関係を重視するのか、欧米との関係を重視するのかで揺れてきました。
モルドバで何が起きている?
  ウクライナの隣国であるだけに、モルドバはロシアの侵攻の影響をさまざまな形で受けています。
  ロシアのミサイルがモルドバの上空を通過したほか、去年の秋には電力の供給に支障が出て、一時、大規模な停電が発生したこともあります。
  2020年に誕生した欧米寄りのサンドゥ政権は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった直後にEU加盟を申請。ことし2月には「ロシアがモルドバの政権転覆を企てているとする情報を得た」と発表してロシアを非難するなど、ロシアがモルドバの不安定化を狙っていると警戒を強めています。
ロシアによる侵攻で欧米寄り鮮明に?
  モルドバの首都キシナウで5月21日、EU加盟を支持する人たちによる集会が開かれ、中心部にある広場はモルドバとEUの旗で埋め尽くされました。
  照りつける太陽のもと、幼い子どもを連れた若いカップルからソビエト時代を生きてきた高齢の人まで、さまざまな人たちが「ヨーロッパ、ヨーロッパ」と声をあげました。集まった人たちに話を聞くと「私たちの未来のために来ました。ヨーロッパのライフスタイルのほうがいいです」「望むのは国が豊かで自由になることです」などと口々に訴えていました。
国民はEU加盟でまとまっている?
  世論は、EU加盟支持でまとまっているわけではありません。ことし4月に行われた世論調査では、「もし国民投票が行われたら、EUか、(ロシア主導の)ユーラシア経済同盟、どちらへの加盟を選ぶか」という問いにEUと答えた人がおよそ59%、ユーラシア経済同盟と答えた人がおよそ23%いました。
  「国民投票に参加しない、まだ決めていない」という人もあわせて17%近くいました。ロシアとのつながりを重視する人たちが今もいることを改めて示す結果となりました。
根強いロシア支持 なぜ?
  これまでのロシアとの深いつながりに加え、ウクライナ侵攻の影響で物価が高騰し、人々の生活が苦しくなっていることが背景にあります。首都から北に40キロほど離れた町オルヘイ。
  一部の市民がサンドゥ政権に対するデモに参加していたと聞いて、町を訪れ市民に話を聞いてみました。「年金だけではやっていけない」、「EUとロシア、どちらと関係を深めるほうがいいかわからない」と話す高齢の女性たち。
  以前ロシアの建設現場で働いていたという37歳の男性は「ロシアと一緒のほうがいい。昔はなんでもあった。物価も下がりはしなかったが、こんなに高くはならなかった。サンドゥ政権には期待しない」と不満を口にしていました。取材をしていると、人々が突然、言い争いを始めました。

  「資金面で支援をしてくれるのは誰だ?EU、ルーマニアだろう!ロシアが何をした?ガスの値段を高くしただけじゃないか!」
  「面倒を見てくれたのはロシアでしょう!ルーマニアではない!」
  「ロシアに面倒を見てもらうなんて、とんでもない!」

  ヨーロッパかロシアか。市民の間で、意見が割れている実態を目の当たりにした瞬間でした。
“脱ロシア”は容易ではない?
  サンドゥ政権はヨーロッパとの関係強化を進めていますが、独立後もロシアとの経済的な結びつきが強かったことから、完全にロシアとの関係を断つことは難しいのが実情です。例えばエネルギーの分野。モルドバでは今も電力の大半を、ロシアの天然ガスを使って発電する沿ドニエストル地方の発電所に頼っています。
  モルドバ政府はロシア依存からの脱却を目指し、ルーマニア側から電力の供給を受けようと新たな送電線の整備を急いでいますが、その一部が完成するのにもまだ2年はかかる見通しです。ことし2月にエネルギー省を新設し、エネルギー安全保障や調達先の多角化に本腰を入れているモルドバ。それでも、エネルギー価格の高騰に苦しむ国民の負担を抑えるためには、今後も、ロシア産のガスを使った電力、という選択肢は手放せないと明言します。

  パルリコフ エネルギー相
    「モルドバにはまだロシア産のガスが必要です。EUでもまだ一部、ロシアのガスを使っています。われわれは小さく、脆弱ぜいじゃくな国なので、ロシアのガスを完全に手放すことはできません」

NATO加盟は望まない?
  安全保障の分野でも、ロシアとの「対立」を人々は望んでいません。ロシアによる隣国ウクライナへの軍事侵攻を受けて、モルドバ政府はロシアを“脅威”と位置づけ、防衛力の強化を急いでいます。
  しかし、ウクライナがNATO加盟を強く求めているのとは対照的に、モルドバの人々は加盟に消極的です。4月の世論調査では、過半数のおよそ53%の人が「NATO加盟には反対だ」と答えました。専門家は、市民がロシアの存在を強く意識していることが背景にあると指摘します。

  クララル氏
    「ロシアを刺激すれば、沿ドニエストル地方での紛争の再燃につながりかねないという不安が背景にあります。憲法で中立だと定めたことで、われわれは(ロシアにとって)脅威ではないと示したのです。中立であることが、紛争に関与しないことを保証する、象徴的なものだと人々は考えています」
  記者会見でサンドゥ大統領に、NATO加盟についてどう考えているのか聞いてみると、大統領はこう答えました。

  サンドゥ大統領
    「ウクライナを侵攻したロシアが、われわれの中立を尊重するなどと信じられるでしょうか。
今のところ、人々は中立を望んでいますから、私は私に認められた権限の範囲で、防衛力の強化に取り組んでいます。でももちろん、(同盟の)傘のもとにいたほうが国は安全でしょう」
国際的な関心 高まる?
  6月1日、モルドバにヨーロッパ各国の首脳らおよそ50人が集結しました。ロシアによるウクライナ侵攻が始まったあと設立された、「ヨーロッパ政治共同体」の2回目の首脳会議が開かれたのです。
  ロシアを含め、内外に結束を示すというねらいのもと、EUの枠を超えてヨーロッパの国が広く参加したこの会議。開催国のモルドバにとっては「史上最大の国際イベント」。サンドゥ大統領は「EU加盟に向けた重要な一歩」と、意義を強調しました。現地では、開催地に選ばれたことそのものが、モルドバへの関心の高まりを示すものだと受け止められていました。

  クララル氏
    「ヨーロッパの人々はこれまで、モルドバがどのような問題に直面しているのか、理解しようとしたことはありませんでした。ソビエト崩壊後、EUの焦点はバルト三国にありましたが、その関心がわれわれにも向けられつつあります」

取材を終えて
  来年、大統領選挙が予定されているモルドバ。ふたたび親欧米の大統領が選ばれれば、欧米との関係強化やEU加盟に向けた手続きがさらに進み、親ロシアに戻る余地は少なくなるという声が現地で聞かれました。
  一方で、経済的に苦しくなると、旧ソビエト時代を知る人、ロシアとつながりのある人などにとっては、ロシアとの関係強化が常に、もう1つの選択肢になりうる、と専門家は指摘します。
  ウクライナで続くロシアの侵攻と、それに伴う物価高騰など生活への負担が、モルドバの世論に今後、どのような影響を与えるのか。 モルドバの行方はこの国だけにとどまらず、ヨーロッパ全体にも影響を与えるものとなりそうです。


2023.03.13-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230313-SC7CADAMQFLX5MTDGW22AM55DM/
モルドバで反政府デモ 50人超拘束 ロシア関与との情報

  ウクライナに隣接する東欧の旧ソ連構成国モルドバの首都キシナウで12日、高騰している光熱費の支払いを政府が補償することを求める4500人規模の反政府デモが起き、デモ隊の一部が警官隊と衝突した。ロイター通信によると、警察当局はデモ隊50人以上を拘束。モルドバ政府高官のスピヌ氏は「これは抗議デモではなく、政情を不安定化させようとするロシアの試みだ」と非難した。

  ロイター通信やタス通信によると、デモはモルドバの野党勢力が11日までに呼び掛けていた。デモに先立ち、同国警察当局は「露諜報機関が工作員をデモ隊に紛れ込ませ、デモを過激化させようとしている情報がある」とし、工作員7人を拘束したと発表していた。
  デモ隊は12日中に解散を発表したが、政府に13日中にも光熱費の補償を約束するよう要求。政府が拒否した場合、再び混乱が起きる可能性がある。
  モルドバでは2020年、親露派のドドン前大統領から親欧米派のサンドゥ大統領に政権交代。ただ、国内に親露分離派地域「沿ドニエストル」を抱えるほか、同国議会内外にも親露派勢力が存在し、ロシアと連携してサンドゥ政権の打倒を狙っているとされる。
  ロシアによるウクライナ侵略の開始後、モルドバでは世界的なエネルギー高に伴う光熱費の上昇やインフレの加速で国民の反発が強まり、デモが頻発。今年2月、サンドゥ政権は国民の不満解消を図るため内閣を刷新していた。


2023.02.23-REUTERS-https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-russia-moldova-idJPKBN2UX09A
ロシア、ウクライナがモルドバ東部侵攻を計画と非難=RIA

  [23日 ロイター] - ロシア国防省は23日、ウクライナが偽旗作戦を展開して、国境を接するモルドバ東部親ロ派トランスニストリア地域(沿ドニエストル共和国)に侵攻する計画だと非難した。ロシア通信(RIA)が伝えた

  同省はウクライナが侵攻の口実として、トランスニストリアからのロシア軍兵士による攻撃に見せ掛けた偽旗作戦を計画していると主張した。
  また、ロシアのタス通信はガルージン外務次官の発言として、西側がモルドバ政府に対し、トランスニストリアの政権との連絡を全て停止するよう指示したと報じた。
  モルドバのサンドゥ大統領は今月、ロシアが外国の妨害工作員を使ってモルドバの指導者を失脚させ、トランスニストリアを戦争に巻き込もうとしていると非難した。


2023.02.14-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230214-3CSILG5UHBIQZPES6SZHF6NEMI/
露、モルドバで政権転覆企てか 工作員が政府打倒デモ「展開」

  東欧の旧ソ連構成国モルドバ親欧米派政権を率いるサンドゥ大統領は13日、「ロシアがモルドバで政権転覆を計画した」と明かしロシアを非難した。ロシアが工作員を使い、反政権デモを起こすなど政情を不安定化させ、政権打倒を企てていたという。ロイター通信などが報じた。

  これに先立ちウクライナのゼレンスキー大統領は、モルドバでの破壊工作に関するロシアの計画を察知したとし、モルドバに通知したと明らかにしていた。
  サンドゥ氏は記者団に、ロシアやベラルーシ、セルビア人らがモルドバに入境し、政府打倒デモを展開したと説明した。モルドバは国内に親露分離派地域「沿ドニエストル」を抱え、議会内に親露派勢力が存在。こうした勢力がモルドバの欧州連合(EU)入りを阻止しようとロシアと連携し、サンドゥ政権に圧力をかけているとされる。
  米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は13日の記者会見でモルドバの状況を巡って、「深く懸念している。われわれはモルドバ政府を支える」と述べた。一方、露外務省は14日、「まったく根拠がない」などと否定する声明を出した。


2021.07.14-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20210714-VJX3RKRT75KFVELTDW6KENBGXM/
モルドバ、欧米接近加速へ 露は警戒

  【モスクワ=小野田雄一】11日に投開票された東欧の旧ソ連構成国、モルドバの議会選でサンドゥ大統領率いる親欧米派与党行動と連帯」が圧勝し、旧ソ連からの独立後で初めて親欧米派による単独政権の成立が確実となった。旧ソ連地域ではウクライナジョージア(グルジア)がすでに親欧米路線を歩んでおり、ロシアは影響力低下に焦りを深めている。

  開票結果によると、「行動と連帯」は53%を得票。改選前に議会多数派を占めていたドドン前大統領らの親露派野党連合は27%にとどまった。今後、得票率などに応じて議席が各党に割り振られるが、「行動と連帯」は定数101のうち約63議席を獲得する見通し。

  「行動と連帯」は、公職者にはびこる腐敗の根絶や、事実上同じ言語を共有する隣国ルーマニアとの協調拡大を掲げて支持を得た。「ロシアや旧文化に親近感を持たない新世代(露専門家)の台頭も同党の勝利を後押しした。
  サンドゥ氏は昨年11月の大統領選で当選し、議会との「ねじれ」を解消するために議会選の前倒しに踏み切った。今回の選挙結果を受け、モルドバの「ロシア離れ」が進みそうだ。
  サンドゥ氏は大統領就任後、国内の親露分離派地域「沿ドニエストル」に駐留する露軍の一部は非合法だとし、撤収を求めたドドン前政権がロシアの主導する「ユーラシア経済連合」のオブザーバー参加国の資格を得たことについても見直す考えを示してきた。

  露イタル・タス通信によると、米国務省のプライス報道官は「2国間協調の拡大を楽しみにしている」と親欧米派の勝利を歓迎。対照的に、露上院のコサチョフ副議長は「モルドバはかなり強く欧米側に傾斜するだろう」と警戒感を示した。

  モルドバは今年5月、ジョージア、ウクライナとともに、欧州連合(EU)加盟に向けて協力するとの覚書を締結した。3カ国は北大西洋条約機構(NATO)の演習にも自国部隊を派遣しており、欧米接近路線を鮮明にしている
  一方、経済面で対露依存度が高く、「沿ドニエストル」を抱えるモルドバでは、過度にロシアを刺激するのは危険だとの意識も根強い。「行動と連帯」のグロス党首は議会選後、ロシアとは「予測可能で正常な関係」を構築していく用意があると述べた。ジョージアは2008年、ウクライナは14年にロシア軍の侵攻を受けている。
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  【用語解説】沿ドニエストル モルドバ東部のドニエストル川沿岸に位置する親ロシアの分離派地域。ソ連末期の1990年9月にロシア系住民が独立を宣言。91年12月にはロシア軍の支援を受けてモルドバ政府軍と紛争になり、92年7月に停戦協定が成立した。ロシア、ウクライナ、沿ドニエストルによる平和維持軍が停戦監視を行っているほか、1500人規模とされるロシア軍が残留している。


モルドバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  モルドバ共和国、通称モルドバモルドヴァMoldova [molˈdova])は、東ヨーロッパの内陸国。西はルーマニア、北・東・南はウクライナと国境を接し、面積は九州とほぼ同じである。首都および最大都市はキシナウである。ウクライナとの国境にドニエストル川を隔ててトランスニストリアという未認可国家がある。
概要
  モルドバは14世紀から1812年までモルダヴィア公国の領土であったが、オスマン帝国(モルダヴィアは属国)からロシア帝国に割譲され、ベッサラビアと呼ばれるようになった。1856年、ベッサラビア南部はモルダヴィアに返還され、3年後にモルダヴィアはワラキアと統合してルーマニアとなったが、1878年に全土がロシアに支配されるようになった。1917年のロシア革命では、ベッサラビアは一時モルダヴィア民主共和国と呼ばれるロシア共和国の自治州となった。1918年2月、モルダビア民主共和国は独立を宣言し、同年末、議会の議決を経てルーマニアに統合された。この決定にはソビエトロシアも異を唱え、1924年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内に、ベッサラビア東部の一部モルドバ人居住地にモルダヴィア自治共和国(MASSR)を建国した。

  1940年、モロトフ・リッベントロップ協定により、ルーマニアはベッサラビアと北ブコビナソ連に割譲することになり、ベッサラビアの大部分と旧MASSRの最西端(ドニエステル川以東)を含むモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダビアSSR)が建国されることになった。1991年8月27日、ソビエト連邦の崩壊に伴い、モルダビアSSRは独立を宣言し、モルドバと名乗った。1994年にモルドバ憲法が採択された。モルドバ領内のドニエステル川東岸の一帯は、1990年以降、離脱したトランスニストリア政府の事実上の支配下にある。
  ソビエト連邦崩壊後の工業・農業生産の減少により、サービス業がモルドバ経済の中心となっており、GDPの60%以上を占めている。一人当たりGDPではヨーロッパで2番目に貧しい国である。モルドバの人間開発指数はヨーロッパで最も低く、世界では90位である。
  モルドバは大統領を国家元首とし、首相を政府元首とする議会制の共和制国家である。国連欧州評議会、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、GUAM民主主義経済開発機構独立国家共同体(CIS)、黒海経済協力機構(BSEC)、三国同盟のメンバー国である。
国名
  正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova。日本語表記での近似発音は「モルドヴァ」。
  日本語の表記はモルドバ共和国。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビアまたはモルダヴィア。漢字表記摩爾多瓦で、未大味, と略される。
  公式の英語表記は Moldova [mɒlˈdoʊvə]。国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川)の名前に由来する。
  ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した。
歴史
 古代
  古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年ローマ帝国軍撤退後は、ヨーロッパアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフルーシモンゴル系民族などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代にスラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。
 中世時代
  中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国属国になったが、他のバルカン半島諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、1812年からブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、モルダビアは戦乱に巻き込まれていく。
 世界大戦時代
  戦乱真っ只中の1918年モルダヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国ルーマニア王国ウクライナ人民共和国ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都キシナウへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したモルダビアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日にモルダビアはベッサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。

  第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦を経て滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年ソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長。さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことから、ルーマニアは共産勢力、右派の鉄衛団王党派の三つ巴へと変貌し、不安定な政情となった。
  第二次世界大戦において、宗主国のルーマニア王国が枢軸国側で参戦することとなるが、戦前に調印された独ソ不可侵条約秘密議定書によってソ連からルーマニア王国へ ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲要求がなされ、同連邦は1940年にベッサラビアを占領。そこからモルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)が建国されソ連の構成国家となる。これは戦略的に重要な黒海沿岸など一部をウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。(「ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領」および「ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナからの追放」も参照)

  1940年8月2日、第7会期を迎えたばかりのソ連最高評議会により、モルダビア・ソビエト社会主義共和国の形成に関する法律が採択された。この法律は既存のモルダビア自治ソビエト社会主義共和国との連合化を図るためのもので、ソ連により占領されたベッサラビアのモルドバ人の人口をモルダビア自治共和国のモルドバ人の人口と再結集させる形で、失われた労働力とその人口の回復を狙っての計画でもあった。
  同年11月4日にソ連最高司令部により 、モルダビアとウクライナ・ソビエト社会主義共和国(USSR)との境界が変更された。これによって、ベッサラビアに存在していたアッケルマン郡イズマエル郡ホトィン郡はウクライナへ譲渡されることとなり、ベッサラビアの再配分後、採択された法律の意図とは裏腹にモルダビアは1万平方キロメートルの領地と50万人の人口を失った。
  だが、これをナチス・ドイツ側は「協定違反である」と見なした。独ソ不可侵条約が破られ独ソ戦が開戦されると、ドイツと同盟していたルーマニアも参戦。ルーマニアはベッサラビアとウクライナの一部となっていた北ブコビナを再び併合し、その国土も嘗ての形となる。
  1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)初日に、ソ連当局によってラツェニ(Răzeni)でモルドバ人10名が殺されるという事件が起きた。犠牲となった10名はのちに大墓へ埋葬され、ドイツやルーマニアなど枢軸国軍が東方へ進撃を続けていた同年7月、ラツェニに慰霊碑が設けられた。 1944年のソビエト軍による反攻(ヤッシー=キシニョフ攻勢)にドイツ軍やルーマニア軍は敗れ、モルドバは元のモルダビア・ソビエト社会主義共和国へと戻った。追ってスターリン政権の下、ルーマニア系住民256,800人がカザフスタンシベリア送りとなった。
  ルーマニア共産主義独裁研究委員会の報告によれば、1940〜1941年の間だけでも86,604人が逮捕・強制追放されているとされ、現代のロシアの歴史家は、同期間に90,000人が追放されたのではないかと推計している。(「ソビエト連邦による強制移住」も参照)
戦後の飢饉と復興
  戦後、当時のソ連は飢饉で大勢の人々が苦しみにあえいでいた。(「ソビエト連邦における飢饉 (1946年-1947年)」も参照)
  1944〜1945年の間に同国ではソ連内の国家同様に大規模な飢饉に見舞われたことから、栄養失調などで40,592人が死亡したとされている。 この飢饉でキシナウ、ベンデル、カフル、バルツィ、オルヘイ地区の農村はひどく苦しんだ。これらの地区では1946年12月10日までに30,043人の農民が栄養障害を患っており、患者の半分以上は子どもであった。当時、農家たちは農場で働くことができず、家宅不在となっていた世帯も多く、別の村では人々が原因不明の病気に苦しんでいた。加えてモルドバ人たちの大半はタンパク質不足から浮腫を患っていた。
  飢饉による死亡率は急激に上昇し、都市部では戦前の年に比べ国民の死亡率が増えた。特にモルダビアでは農村の大半がその多くを占めており、キシナウでは毎日のように死者が8〜12人出ていたという。1945年に4,917人の命が失われ1946年には9,628人が亡くなっている。 同年12月から1947年8月にかけて、飢餓や関連疾患で死亡した農民は最低でも115,000人に達したとされている。
  現代のモルドバでは、これはウクライナにおけるホロドモールと同様に、ソ連軍の食糧徴発により引き起こされた「人工飢饉」であり、犠牲者は当時の人口の約1割にあたる30万人とする見解が存在する。(「モルダビア・ソビエト社会主義共和国の飢饉」も参照)
  飢饉を逃れるため、中にはプルト川を横断してルーマニアへ亡命を図る者も現れ、その数は210人に上った。うち189人が、ソ連軍大佐であったウラジーミル・アシャフマノフ率いる国境警備隊員に拘束され、国境を越えられずじまいとなった人々は現場で処刑されるか、解放されても後に逃亡犯の名簿に登録されている。
  加えて飢饉の影響から非常に深刻な食糧危機があったことや栄養失調に苦しむ世帯の増加と関連する形で盗難事件の件数が急激に増加する事態に陥った。傍らで育児ならび保護監督責任の放棄によってストリートチルドレンとなった子供らが沢山存在していた。当時の警察からの報道によれば多くの場合、両親は子供たちを村から町に連れて行き、町中に放置する形で捨てることを繰り返していたとされる。同国ではこれらの関連の犯罪が増加し、法執行機関には10,545人が拘留された。
  それに基づきソ連政府は、モルダビア・ソビエトをソ連軍やその他連邦構成共和国向けの特定の種類の製品の供給対象から外すこととなった。
  1944年の秋以降、共和国人口の大規模な帰還と住宅不足による家無し民の混雑のため、その状況は疫学的に複雑なものとなっている。1944〜1945年の冬にチフスが発生し、そのピークは1945年5月に起こった。 モルダビア・ソビエトでは、医療関係者や設備が急激に不足しており、伝染病に対処するための主要な措置は、第2ウクライナ戦線(ソ連軍の方面軍の一つ)第4軍団の医療班によって行われていた。また国境警備員は、プルト川に浮いていたチフス感染者の腐乱死体を爆破処分するなどの作業に追われていた。のちに、ソ連政府の指導の下で首都モスクワとウクライナのオデッサから同共和国ならび同国軍とその衛生部隊へ人員・医薬品・道具の支援が行なわれ、ロシア側からは無償供与品が数多く提供された。1945年末までに、ほとんどの村には浴槽と消毒室が設けられ、チフスの感染疑惑を持たれた村民は全て隔離され、大規模な予防接種が始まった。
  反面、同国ではソ連主導の下で、戦争で破壊された設備などの修復や経済の回復が行なわれた。同時期(1944年〜1945年の冬)に、22の大企業の設備が運ばれるなど大掛かりな復興計画が成された。この計画には448,000,000ルーブル(当時の為替レートによる)[13]がソ連の国家予算から配分されている。同計画では鉄などの金属20,000t、硬質炭226,000t、石油製品51,000tが同国へ移管されており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から17.4tの種子がモルドバへ輸出されている。さらには226件の集合農場と60地域の農場が修復され、1944年9月19日にはドニエストル地区が全て修復、設備や機械の輸入が可能となった。 1945年時点での同国の生産量は電気48%、ニット36%、植物油84%、砂糖16%、革靴46%、煉瓦42%と順調な伸び率を示しており、1944〜1945年は、同国の産業と農業が積極的にソ連の発展を支えた。のちの1947年以来、モルドバからソビエト連邦の他の共和国に食糧が輸入されている。
ソ連当局の政策
  モルダビア・ソビエトはソ連の構成国家となってから同連邦による弾圧や迫害を幾度も受け続けている。迫害は宗教的なものも多く含まれていた。ソビエト占領中の宗教的迫害は数多くのキリスト教司祭を標的にし、1940-1941年にはいくつかの教会が解体・略奪され、公立施設または公共目的の施設に改築されるか閉鎖に追い込まれた。納税義務も課され、その扱いも凄惨なものとなっていた。ベッサラビア・ルーマニア正教会司祭であったアレクサンドル・バルタガはこの迫害による犠牲者の代表的な人物として今も語り継がれている。(「ソビエト連邦によるベッサラビアと北部ブコビナの宗教的迫害」も参照
  1941年に財産を大量に処分された農民はルーマニアを支持していた。1944〜1945年、モルドバを再占領したソ連政府は、それらの存在を消し去る目的から弾圧などの暴力的な措置を執り行ない、クラークはその地所の警察署に自身の財産と共に登録された。1946年でのソ連の計算によれば、合計27,025名の民間土地所有者が同国に住んでいたという。1944年の秋の時点で、執行委員会は国内の60ヶ所の地区、1204ヶ所の農村、全ての市に残されていた。また、沿ドニエストル地域には6地区ほど残っており、裁判所と検察庁の機能は無事回復させられる状態であった。 1949年6月16日、MSSR最高評議会常任委員会は、市・地区・村および村の執行委員会の編成に関する法令を発効させた。10月16日、行政区画から「」が廃止され、地区を設立するための新たな法令が発布された。1947年12月、地方自治体であるソビエトへの最初の戦後選挙がモルダビア・ソビエトで行われた。最初の開会では執行委員会が選出され、同委員会ではさらに特別委員会と管理部門が創設された。
反ソビエト運動
  ソ連政府は、先の第二次世界大戦によって中断された1940年のソビエト化政策を継続し、MSSRにおける権力を積極的に強化。しかし同国では戦後からの飢饉により反ソビエト運動が活発化していた。
  1949年4月6日、その事態を重く見ていたソビエト連邦共産党中央委員会の政治家たちは、かつてルーマニアとドイツに協力した存在や反乱因子となっていたクラーク・起業家・教派、さらにはベッサラビア時代にて白軍の活動を幇助した者たちを国外追放することを決定する。この追放計画は南部作戦と名付けられ、当時 国家保安大臣であったヨシフ・モルドヴィチの指揮の下、反ソ連政府思想者の追放において当事者の家族や親類に当たる人間全員が駆り出されることとなった。なお、同年7月6日と7日のちょうど2日間で11,342人以上の家族世帯が退去させられている。
  かくしてモルダビア・ソビエトから40,850人もの国民が追放、11,280の家族世帯が退去することとなった。没収された財産は、集合農家国営農場へ移されることとなり、建物や家屋は民間業者へ売却された(なお、フルシチョフ政権時代に同国を追放されていた人々がグラグに収容されていた人々と共に、徐々にではあるもののMSSRへ戻ることを許されている)。
  その後の47年間、同国はソ連の一部として機能し続けるが、1980年代末までに、MSSRにおける国民運動は激化して行く。
  ブレジネフ政権の同国(1964-1982年)でソビエト政府への抵抗を求める広告や小冊子が作られ、これらは主に飢饉の影響を受けた村人へ配布された。地方の教派によって配布された宗教的性質の反ソビエトの印刷物や広告と並行する形で1969年から1971年にかけ、国民愛国戦線という秘密結社が、キシニョフにおいて知識人青年数人を中心に組織され、モルダビア民主主義共和国の建設ならびソ連からの離脱・独立を目標に活動。
  傍ら、反ソビエト運動を展開する政党も現れた。反ソビエト運動に加わった政党は民主農業党ベッサラビア自由党ベッサラビア自由民主同盟で、これらは秘密政党と呼ばれている。
  反ソビエト運動は学校などの公共機関にも及び、反体制グループを生み出している。オルゲイに在ったヴァシレ・ルプ高等学校の生徒と教師によって結成された反ソ連グループ『ヴァシレ・ルプ高校団』はその一つとして今も知られている。
  しかし、1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会委員長イオン・スタネスクから、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報提供に基づき、国民愛国戦線の指導者が逮捕。これに併せて北ブコビナに構えられていた同組織の支部も壊滅し、同じくしてステファンの射手という地下組織のメンバーが拘束された。
  一方で反ソビエトの扇動とテロ活動がフィリモン・ボディウ(Filimon Bodiu)率いる地下組織で繰り広げられ、反ソビエト軍の扇動やソ連軍の機能主義者・集団的な農民活動家や警察官の殺害などが行なわれた。またソ連政府に対しての反政府運動には武装蜂起などの直接的な抵抗活動も注目されており、武装蜂起を行なった組織で最も有名なのはアルマータ・ネアグラ(通称:ブラック・アーミー(黒軍)) と呼ばれた地下組織であった。
ソ連からの独立(「東欧革命」および「ソビエト連邦の崩壊」も参照)
  1989年8月31日、その4日前に発生したキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダビア・ソビエト社会主義共和国の公用語となる。また同年の11月12日、同国の少数民族の住民であるガガウズ人により自治共和国ガガウズ・自治ソビエト社会主義共和国」(GASSR)の建国が宣言されるが、この自治共和国の設立はMSSR政府に認められずじまいとなっている。
  1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行なわれ、フロントゥル・ポプラル(Frontul Popular)の指導者の一人ミルチャ・ドルク(Mircea Druc)による政府が設立される。その傍らMSSR最高会議は同年6月5日に同国憲法を改正。
  ここからモルダビア・ソビエトはソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)となり、6月23日に主権(ならび共和制)を宣言した。一方で同年8月19日にGASSRがガガウズ共和国としてソ連からの独立を宣言。さらに9月2日、沿ドニエストル地域では現地に住むロシア語話者系(スラブ系)住民によって第2回臨時国会がティラスポリで開催され、「沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国」(現在の沿ドニエストル共和国)の創設が宣言される。
  1991年8月に「モルドバ共和国」として独立を宣言し、1991年12月21日独立国家共同体(CIS)に加盟。(「モルドバの独立」および「モルドバ共和国独立宣言」も参照)
  これに対して沿ドニエストル最高会議は同年8月25日、同領土内にソビエト連邦の憲法と法律の効果を保持する『沿ドニエストル地域の独立に関する宣言』を採択する。なお、ソ連時代のモルダビア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章は、スラブ系住民が多いことから分離独立を宣言した沿ドニエストルがそのまま継承し、独立以降のモルドバの国旗はルーマニアとよく似たものに変更した。これに伴って都市名の表記も、キシニョフをキシナウというように、ロシア語からルーマニア語へ全て戻した。同年12月25日ソ連が解体されたことで、同国は晴れて独立国家となった。
独立からの流れ
  初代大統領スネグル(1991-1996年)は親ルーマニア的外交政策をとったが、2代目のルチンスキー時代(1996-2001年)にはロシアにも配慮した中立的スタンスに変わった。
  独立当初にはルーマニアへの再統合を望む声もあったが、1994年に圧倒的な票差で完全な独立国家として歩むことが決まった。2001年与党の共産党が党首のウラジーミル・ヴォローニンを第3代大統領に指名、2005年に再選された。2009年に選ばれた自由党のミハイ・ギンプ国会議長兼大統領代行は、たとえ民主派に政権が交代しても、ルーマニアとの再統合やCISの脱退、あるいは北大西洋条約機構(NATO)に加わる考えのいずれもないと明言した。同年の2月21日にはボリシェヴィキに殺害された人々への慰霊碑ヤロベニ県ラツェニに改めて設けられ、この式典に同国政治家のアレクサンドル・タナーセが出席している。
  モルドバは軍事的に中立国のまま欧州連合(EU)加盟を目指しているが、同国では現地の農民が「EU加入に関する国民投票が実施されず、多数派の国民の意向が無視されている」として「EUとの連合協定の破棄」を訴え、ロシアへの輸出に関して対露交渉を再開することなどを要求する状態が今も続いている。
  2016年10月30日、20年ぶりとなる大統領の直接選挙が行われた。第一回投票で過半数を占める候補者がいなかったため、11月13日に決選投票が行われ、社会党のイゴル・ドドンが当選した。 同年11月半ばには、その時の大統領選に対し不正疑惑を持って抗議する若者ら数千人が街をデモ行進する事態が発生した。
  2020年11月の大統領選挙では、親欧米派のマイア・サンドゥが当選。これに対して、ドドン率いる親露派の社会党の議員が情報・治安機関に対する権限を大統領職から外す法案を提出し、101議席中51議員の賛成で同年12月3日に可決した。
  サンドゥは同国経済省職員、米ハーバード大学ケネディスクール留学、世界銀行勤務を経て2012年に政界に進出。腐敗撲滅を掲げて支持を拡大してきた。傍らで対ロシア関係も重視しているが、沿ドニエストル駐留ロシア軍の撤退を要求している。

  2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻を受け、3月3日、ジョージアとともに欧州連合への加盟を申請した。

国内における動き
  2009年4月の選挙において、共産党が過半数を確保した。ところが同年7月の期限前議会選挙で、自由民主党、民主党、自由党、「我々のモルドバ」同盟ら4党連合が過半数となり、与党連合「欧州統合のための同盟」(AEI)が結成された。2014年11月になると親ロシア派路線をとる社会党が議会において第一党となったものの過半数には届かず、連立交渉は難航を続け親欧州路線をとることになった。その後も連立による政治運営は何度も難航をつづける。2016年1月、組閣交渉が決着してフィリプ民主党副党首を首班とする親欧州連立政権が成立し、前政権に続き親欧州路線をとる[27]。しかし同年12月に就任したイゴル・ドドン大統領は親露派のため、政府とのねじれが生じている。
  2018年7月、首都キシナウにおける市長選挙で同国政府の腐敗状態に抗議する改革派が当選。だがこれに対し、その結果が無効にされたことから反政府デモが拡大するという事案が発生している。
  2019年2月24日、議会選挙が実施され、親露派野党である社会党と親欧州派与党の民主党が議席を争っているが、両党とも結果は過半数の議席獲得に及ばず、それによって同国は連立政権の組閣を巡る混乱が続く恐れがあるとされた。(「2019年モルドバ総選挙」も参照)
  同年6月7日、憲法裁判所は議会の解散と総選挙を行うことを決定。だがドドン大統領はそれらに応じず、マイア・サンドゥを首班とする連立政権を樹立させた。翌8日に議会はドドン大統領が新たに設けた連立政権を承認したが、民主党はその行動を違憲と見做して同裁判所へ申し立てを行っている。結果、同裁判所はドドン大統領を一時的に職務停止とし、首相であるパヴェル・フィリプ大統領代行とする決定を下している。翌9日、フィリプ大統領代行は議会解散と9月の総選挙実施を決定するが、これに対してドドン大統領は反発し、外国の介入を要請した。
  5日後の6月14日、憲法裁判所が一転して8日の違憲判決を破棄したことでフィリプ政権は崩壊。サンドゥ政権が権力を掌握した。その5ヶ月後の11月12日に議会でサンドゥ政権に対する不信任決議案が可決され、財務大臣だったイオン・キクが同14日付でサンドゥに代わって首相へ就任した
EUとの関わり
  2014年6月27日、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了した。これに伴い、2016年7月1日、EUとモルドバの連合協定が正式に発効した
日本との関係(詳細は「日本とモルドバの関係」を参照)
  日本は1991年12月28日に国家の承認を行い、翌1992年3月16日に外交関係を樹立した。モルドバは在日大使館を2015年12月8日に、日本は在モルドバ大使館を2016年1月1日に開設した。日本には在日モルドバ人が少ないながらも生活している。
軍事(詳細は「モルドバ軍」を参照)
  地上軍(兵力約3250人)と空軍(兵力約600人で輸送機ヘリコプターを保有)があり、徴兵制をとる、旧ソビエト連邦軍を引き継いで結成された。国軍は、3個歩兵旅団、1個砲兵旅団、1個地対空ミサイル旅団、1個混成航空団から成る。
  1992年10月30日には、ヨーロッパ通常戦力条約を批准、1994年10月には核拡散防止条約に加入した。また、1994年3月16日には、NATOやNATO非加盟欧州諸国と旧ソ連構成国による平和のためのパートナーシップ(Partnership for Peace)へ加盟している。2017年にパヴェル・フィリプ首相(当時)は「NATOとより良好な相互の知識や定期的な報告関係を維持して良い隣人関係を築きたいが、NATOの正式加盟国になるつもりはない」とインタビューで答えている。
  アメリカ合衆国イラクにおける軍事作戦にも参加していたが撤収した。なお、モルドバは隣国ルーマニアと「地域の安全保障を強化する」ための軍事協定を締結している


沿ドニエストル・モルドバ共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  トランスニストリア(Transnistria)、沿ドニエストル、公式には沿ドニエストル・モルドバ共和国は、事実上の独立国家。モルドバ東部を流れるドニエストル川モルドバウクライナ国境との間の細長い地域にある。首都ティラスポリ国際的にはほとんど承認されておらず、モルドバの一地域として広く認識されている。本記事では原則として、事実上の独立国家については「沿ドニエストル(共和国)」、地理的な範囲については「トランスニストリア」と呼ぶこととする。
概要
  沿ドニエストル共和国は、独自の政府議会軍隊警察、郵便制度、通貨、車両登録を有する。また、独自の憲法国旗国歌国章を承認している。
  モルドバとドニエストル左岸地域の未承認国家沿ドニエストル共和国)の間で1992年に勃発したトランスニストリア戦争は、ロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、同国による実効支配が続くこととなった。以後、この地域には「平和維持軍」と称したロシア軍の駐留が続いており、モルドバの主権は及んでいない。
  沿ドニエストル共和国は、アブハジアアルツァフ南オセチアの、国際的にほぼ承認されていない3つの国家にしか承認されていない。国際的には当地域はモルドバの一部と認められており、モルドバは当地域を、特別な法的地位を有する自治地域ドニエストル左岸行政区画と定めている。
  2022年時点、国旗において鎌と槌を採用している唯一の国である。
国名(「en:Names of Transnistria」を参照)
  沿ドニエストル共和国は、ロシア語、モルドバ語、ウクライナ語を公用語としており、それぞれの語による正式名称が存在する。正式名称と略称、省略形は以下の通りである。自称であるため、どの名称においても「~の向こう側」を表す「トランス」という表現は含まれていない。なお、沿ドニエストル共和国で用いられる「モルドバ語」は実質的にルーマニア語と同じであるが、表記にはキリル文字が用いられる。

  日本語では、沿ドニエストルまたはトランスニストリアが用いられるが、1989年、モルドバ人民戦線のメンバーであるモルドバ人代議士レオニダ・ラリの選挙スローガンの中で使われたのが最初である。
  一方、モルドバ政府は、この地域を「Unitățile Administrativ-Teritoriale din Stînga Nistrului(ドニエストル左岸行政区画)」と規定している。
  国際機関ではトランスドニエストル (Transdniester) という呼称が用いられる。略称はПМРPMR)、に由来する。
歴史(詳細は「en:History of Transnistria」を参照)
古代
  この地域にはトラキアやスキタイの部族が住んでいた。紀元前600年頃、ドニエストル川の河口近く(現在のウクライナ・ビルホロド=ドニストロフスキー)にティラスという植民地が築かれた。
  4世紀にはゴート族が沿岸部のティラスとオルビアを征服した。ゴート族はドニエストル川の両岸に分かれて居住し、後にそれぞれ西ゴート族東ゴート族と呼ばれることとなった。
  古代末期、ビザンティン帝国は、破壊されたティラスの領域に城砦都市を建設し、アスプロカストロンと名づけた。その後オスマン帝国の侵攻を受けた際、この都市の住民の一部がドニエストル川上流に逃れて小さな集落を形成し、これが後のティラスポリとなった。
中世
  6世紀には、トランスニストリアに南スラヴ人を含む様々な民族と文化が到達した。東スラヴ系民族も住んでいた可能性があるが、チュルク系民族に北に押しやられた。
  ・10世紀にはこの地域にルーマニア系民族が住んでいたことが『原初年代記』に記されている。
  ・11世紀頃にはキエフ大公国の支配下に入ったこともあった。
  ・14世紀にはジェノヴァ共和国の支配下に置かれ、対外貿易の拠点となった。
  ・14世紀中ごろに成立したモルダヴィア公国は、14世紀末までにドニエストル川まで版図を広げたが、その向こう側(トランスニストリア)に支配が及ぶことはなかった。
  ・15世紀には正式にリトアニア大公国の一部となった。この頃、現在のモルドバの大部分がオスマン帝国の支配下となったが、トランスニストリアの大部分は1793年の第二次ポーランド分割までポーランド・リトアニア共和国の一部であった。一方トランスニストリアの南部はオスマン帝国の支配下にあった。
ロシア帝国時代
  1792年、トランスニストリア南部がオスマン帝国からロシア帝国に割譲され、1793年の第二次ポーランド分割で北部が編入された。ロシアはトランスニストリアを「新モルダヴィア」と名付け、新しい公国としてロシアの宗主権下に置くと宣言し、人口もまばらであったこの土地に大規模な植民を行った。西の国境であったこの一帯を防衛する意味もあり、多くのロシア人ウクライナ人が移住した。モルダヴィアの農民には非課税の土地が分配され、植民地化を支援することになった。
  1812年にロシアはベッサラビアを併合し、トランスニストリアは国境地帯ではなくなった。
  第一次世界大戦中、ドニエストル川以西のルーマニア語話者の代表者は、1917年から1918年にかけてベッサラビア民族運動に参加し、彼らの領土を大ルーマニアに編入することを要求した。しかし、ルーマニアは大規模な軍事介入を必要としたため、彼らの要求を無視した。
  1918年の第一次世界大戦の終結時、ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤはドニエストル川の左岸地域に対する主権を宣布した。
  1922年のロシア内戦の後、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(ウクライナSSR)が誕生した。
ソビエト連邦時代
  1924年、ベッサラビアの軍事指導者グリゴレ・コトフスキーが、モルダビア自治州の設立を提案した。その後ウクライナSSR内のドニエストル川とブク川の間の領域モルダビア自治州が設立され、同年10月、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアASSR)として昇格させた。これがトランスニストリア自治領の地政学的構想の始まりである。当時はルーマニア人が住民の大部分を占めており、ルーマニア語で教える学校も開校した。
  1927年、ティラスポリやその他の都市で、農民や工場労働者がソ連当局に対して大規模な暴動を起こしたが、モスクワから派遣された軍隊により鎮圧された。アメリカ合衆国の特派員は、約4000人の死者が出ていると述べたが、クレムリンの公式報道機関によって完全に否定された。
  1920年代から1930年代にかけて、何千人ものルーマニア系のトランスニストリア住民がルーマニアに逃れ、ルーマニア政府は彼らの住居と教育のために特別な基金を設立した。1935年の推定では、難民の数は20,000人とされた。
  スターリン政権下では、ウクライナ人、ロシア人、ルーマニア人以外の住民はロシア化を迫られた。ごく初期には自由があったものの、やがてそれを過ぎると、ソビエト連邦内のポーランド人のような集団は、嫌がらせや放逐、集団テロにさらされるようになった。1937年から38年にかけて行われた内務人民委員部のポーランド作戦や、モルダヴィアASSRにおける非ルーマニア人に対する母国語での教育が廃止されウクライナ語やロシア語に置き換えられるなど、この傾向は1930年代末にさらに強まった。
  民族単位の自治体設立は当時のソ連の一般的な政策であったが、モルダヴィアASSRの設立により、ソ連はベッサラビアに対する領有権も強化することを目指した。ソ連当局はキシナウを「一時的に占領された都市」と呼び、これをモルダヴィアASSRの実質的な首都と宣言した。当時のモルダヴィアASSRの人口は、ウクライナ人48%、ルーマニア・モルダビア人30%、ロシア人9%、ユダヤ人8.5%であった。
  1940年、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退を要求する最後通牒を出し、ルーマニア政府はこれに応じた。
第二次世界大戦
  第二次世界大戦中の1940年8月2日、ソビエト連邦最高会議は、モルダヴィアASSRを解散し、その最西端6ラヨンと、ルーマニアから取得したベッサラビアの一部からモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)を編成することを全会一致で承認した。モルダヴィアSSRの90%は、1940年以前にソビエト連邦とルーマニアの国境であったドニエストル川の西側にあり、10%は東側にあった。1940年6月にソ連がルーマニアから得た領土のうち、民族的に異質な北部と南部(現在のチェルニウツィー州ブジャク)はウクライナSSRに譲渡された。戦略上重要な黒海沿岸とドナウ川の間口は、ルーマニアが訴求しうるモルダヴィアSSRよりも信頼できるウクライナSSRに与えられることとなった。
  1941年夏、ルーマニアはアドルフ・ヒトラーのソ連侵攻(独ソ戦)に参加。ルーマニアはドニエストル川と南ブーフ川の間の地域を占領し、オデッサを地方首都とした。この拡大されたトランスニストリアはトランスニストリア総督国と呼ばれた。1941年から44年のルーマニアによる占領期間中、15万人から25万人のウクライナ人とルーマニア人のユダヤ人がトランスニストリアに追放され、大多数は総督府のゲットーや強制収容所で処刑または他の原因によって死亡した。
  1944年春、ソ連軍は枢軸国を駆逐し、この地を奪還した。トランスニストリアに住む何千人ものルーマニア人やヴラフ人がその数ヶ月の間に殺されるか、その後の数年間に収容所へと強制送還された。
  モルダヴィアSSRは、組織的なロシア化政策の対象となった。キリル文字がモルダヴィア語の公式な文字とされた。モルダヴィアSSRに建設されたほとんどの産業はトランスニストリアに集中しており、モルダヴィアの他の地域は農業中心の経済であった。
ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR
  1950年代から1980年代にかけては、ルーマニアの独立主義は抑えられていた。しかし1980年代、ミハイル・ゴルバチョフペレストロイカ政策により、ソビエト連邦は地域レベルでの政治的自由化が進んだ。この不完全な民主化は、排他的な民族感情が政治勢力として力を得る契機となった。当地域には多くのロシア人、ウクライナ人が居住していたが、こうしたモルドバ民族主義の昂揚に伴い、数々のモルドバ化政策(モルドバ語の唯一の国語化としての制定やルーマニアを模した国旗・国歌の制定)が打ち出されることとなった。
  この新しい政策への不満は、ティラスポリなどスラブ系住民が多数を占める都市部であるトランスニストリアでより目に見える形で表れた。東部のティラスポリでは保守派が、キシナウでは共産党がモルダヴィアをソ連内にとどめようとし、内戦を繰り返しながら独立を目指していた。
  1989年8月31日にモルドバ最高会議がモルドバ語を公用語として採用し、ロシア語は副次的な目的にのみ使用することを採択した。さらにモルドバ語をソ連時代のキリル文字からラテン文字に戻すこと、モルダヴィアSSRとルーマニアの言語的アイデンティティの共有を宣言した。モルダヴィアSSRのスラブ系住民によって設立されたイェディンストヴォ(統一)運動は、ロシア語とモルドバ語の両方に同等の地位を与えるよう迫った。
  しかしトランスニストリアにおける民族・言語構成はモルダヴィアSSRの他の地域とは大きく異なっており、ロシア人とウクライナ人の割合が特に高く、モルドバ人の一部も含め、全体的にロシア語を母語とする者が多かった。
  1990年6月、モルダヴィアSSRはソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)への国名変更を行い、6月23日に主権ならび共和制を宣言した。これに対して、同年9月2日、ドニエストル川左岸のロシア語系住民がティラスポリで臨時国会を開催し、「沿ドニエストル・モルダビア・ソビエト社会主義共和国」(沿ドニエストルSSR)の創設を宣言してモルドバからの分離を目指した。
  事態がさらにエスカレートするのを防ぐため、当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、モルダヴィアSSRによる少数民族の市民権の制限を紛争の原因として挙げながらも、沿ドニエストルSSRの宣言が法的根拠を欠いているとし、1990年12月22日に大統領令でそれを無効とした。それでも実質的な行動は取られず、沿ドニエストルSSR当局は徐々に地域のコントロールを確立していくことが出来た。
  1991年8月のソ連のクーデター未遂ののち、8月25日、沿ドニエストル最高会議が、「沿ドニエストル地域の独立に関する宣言」を採択し、ソ連からの独立を宣言した。
独立とモルドバとの戦争(詳細は「トランスニストリア戦争」を参照)
  1991年11月5日にトランスニストリアは社会主義思想を放棄し「沿ドニエストル共和国」と改称された。
  1992年5月、旧モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の領土をめぐり、モルドバと沿ドニエストル共和国の間でトランスニストリア戦争が勃発した。戦争はロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、沿ドニエストル共和国による実効支配が続くこととなった。7月、和平協定が締結され、ロシア連邦、モルドバ、沿ドニエストル合同の平和維持軍(Joint Control Commission, JCC) によって停戦監視が行われることとなった。以後、停戦は保たれているものの、この領域の政治的立場は未解決のままである。
2006年の住民投票
  2006年7月12日、旧ユーゴスラビアでのモンテネグロ独立に影響を受けた沿ドニエストル共和国議会は、独立を放棄しモルドバへの編入を希望するか、独立を維持し将来的にロシアに編入するかを問う住民投票を行うことを決めた。投票は同年9月17日に実施され、前者案件は圧倒的多数で反対、後者案件は圧倒的多数で賛成の結果となった。一方、モルドバのヘルシンキ人権委員会は当日現地に出向き出口調査等独自で監視を行っており、当局によって発表された70%を超えるという投票率に対し実際には10%から30%程度しか確認できなかったこと、結果に関しても少なくとも2-3倍に水増しされたか全く捏造された不公正な投票である可能性が高いと発表した。また、選挙当日には投票に行かない者を選挙後にルーマニアに強制的に移住させるという脅し文句で投票を強制させていたこと、過去にボイコットを行った反体制的国民は有権者のリストから除外されていること、公安や軍人がガードをしており投票所の近くに監視員が近づけないようにしていた投票場があったこと、また彼らが投票結果を改竄していたことなどを報告した。
  欧州安全保障協力機構欧州連合GUAMなどの国際機関やいくつかの国家(ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、セルビア、マケドニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア、アルバニア、ノルウェー、アイスランド)はこの住民投票を認めない立場をとった。欧州評議会においてはロシアのみがこれを認める立場をとった。同様の住民投票は数回にわたって行われているが、実際の影響力、ましてや拘束力は乏しいものといえる。
  2014年のクリミア危機によって成立したクリミア共和国が、ロシアへの編入を求め、承認されたことを受けて、沿ドニエストル共和国政府は再びロシア下院に対してロシア連邦への編入を求めた。
2022年のロシアのウクライナ侵攻
  2022年にはウクライナとロシアの関係が緊迫し、ロシアが国境に軍を集結させてウクライナに侵攻した。このことによりウクライナに面し、ロシア連邦軍が駐留する沿ドニエストル共和国の軍事的な存在感が注目されるようになった。ロシア中央軍管区副司令官のルスタム・ミネカエフは4月22日、ウクライナ南部制圧が任務の一つであり、それを達成すれば「ロシア語を話す人々が抑圧されている」沿ドニエストルへのアクセスが確保できるインタファクス通信タス通信に語った。
  沿ドニエストル共和国側からモルドバにロシア軍が侵攻するリスクが高まったとする報道もみられた。
  同年4月25日、ロシア国営通信は首都ティラスポリにある国家保安省の建物周辺で爆発音が相次いだと報じた。これに対しロシアと交戦中のウクライナ国防省は、複数回の爆発はロシア連邦保安局の自作自演による計画的な挑発行為との見解を示した。
  5月14日、ウクライナ軍参謀本部は、トランスニストリアでは、武装集団が通常の活動モードに移行している一方、同地域に駐留するロシアの作戦部隊は、引き続き厳戒態勢を敷いていると発表した。
政治(「en:Transnistrian Declaration of Independence」を参照)
  沿ドニエストル共和国は大統領制の共和制国家である。大統領は直接選挙で選ばれ、最長で連続2期5年まで務めることができる。現在(2022年5月)の大統領はワジム・クラスノセリスキーである。
  長くイーゴリ・スミルノフによる統治が続いたが、2011年には選挙による政権交代が実現しエフゲニー・シェフチュクが大統領となった。議会や企業グループシェリフ、さらには駐留ロシア軍(約2000人)、ロシア資本の意向も絡まり、一概には独裁体制と言えない政治状況にある。
  沿ドニエストル共和国の議会は一院制である。43名の議員から構成され、任期は5年。選挙は複数政党制で行われる。共和政党「刷新」は、2005年の選挙でイーゴリ・スミルノフの所属する共和国党を破って第一党となり、以降2010年と2015年の選挙でもさらに議席を増やしている。
  選挙が自由で公正であるかどうかについては意見が分かれている。2006年の大統領選挙の際、野党候補のアンドレイ・サフォノフの登録が投票の数日前までなされず、選挙活動がほとんどできなかった。選挙結果が疑わしいとする資料もあり、2001年の選挙では、ある地方でイゴール・スミルノフが103.6%の票を集めたと報告されている。
  モルドバ本土と自由な往来が可能であり、モルドバの中央選挙管理委員会は、沿ドニエストル共和国の住民がモルドバ政府の支配地域に来れば、モルドバの国政選挙への投票が可能であるとの見解を示している。
  2000年の初めに野党のナロドブラスティ党と民衆への力運動が非合法化され、最終的に解散した。
  1940年代から1960年代のソビエト連邦のような政治文化が街中に色濃く残っているが、2代目大統領シェフチュクによる自由化の流れも見られる。軍事、経済をロシアに頼っており、欧米寄りのモルドバに対してロシア寄りの政策を採っている。旧ソ連軍の備蓄した膨大な量の武器を保有しており、国際的な武器密輸疑惑で非難を受けている。
外交
  沿ドニエストル共和国とアブハジアアルツァフ南オセチアは、ソ連崩壊後の「凍結された紛争」地帯である。これら4つの、いずれも国際的にほぼ承認されていない国家は互いに友好な関係を維持しており、2006年6月14日、アブハジアの首都スフミでアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル共和国の大統領が会談し、民主主義と民族の権利のための共同体の設立を発表した。2007年にはアルツァフ共和国ナゴルノ・カラバフ)も参加している。沿ドニエストル共和国は、これらの国際的にはほとんど国家として承認されていない3カ国との相互承認を行っている。
  ロシアは約2000人あるいは約1500人の兵力を駐留させ、天然ガスを無償で供与し、実質的に支援している。
軍事(「沿ドニエストル共和国軍」も参照)
  2007年現在、沿ドニエストル共和国軍と準軍事組織は、約4,500人から約7,500人の兵士により構成されていると見られる。ティラスポリベンデルルィブニツァドゥベサリの4つの自動車化歩兵旅団を主力としている。また陸軍は18輌の戦車、107輌の装甲兵員輸送車、73門の野砲、46の対空施設、174の対戦車兵器を保有している、空軍は、9機のMi-8Tヘリコプター、6機のMi-24ヘリコプター、2機のMi-2ヘリコプターの他、固定翼機としてAn-2An-26Yak-18などを保有している。
  2022年ロシアのウクライナ侵攻後、沿ドニエストル共和国は中立的な状況を維持すると宣言し、ウクライナへの攻撃を支援するという主張を否定した。しかし、3月上旬、アメリカ合衆国上院マルコ・ルビオ議員は、沿ドニエストル共和国による紛争関与は明白な証拠なしに行われる可能性を示唆した。
  4月、ロシアは沿ドニエストルにおいてロシア語を話す人々が抑圧されている証拠があると述べ、軍事介入を示唆した。
ロシア軍駐留問題
  1992年のモルドバと沿ドニエストル共和国の停戦協定により、ロシアの平和維持軍の駐留が認可され、現在1200人のロシア軍が沿ドニエストル共和国に駐留している。沿ドニエストル共和国以外のモルドバ領内にソ連時代から駐留していたロシア軍は、1993年1月までにロシアに完全撤退した。
  1994年10月、モルドバとロシアの間で3年以内のロシア第14親衛諸兵科連合軍の撤退合意が成立したが、ロシア側は議会批准が終了していないとして事実上棚上げとなっていた。
  1995年4月、第14親衛諸兵科連合軍は在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団に編成された。2010年代には2個大隊、1,500人以下の兵力に縮小された。
  1999年、OSCEイスタンブール首脳会議において、2002年末までに沿ドニエストル共和国駐留ロシア軍の兵器弾薬類の完全撤去が義務付けられたが、沿ドニエストル共和国側の抵抗等もあり撤退が進まず、2002年12月のOSCE外相理事会においては撤退期限が2003年末まで延長された。しかし右期限も守られず、それ以降も撤収は遅々として進んでいない。
  2004年12月、モルドバ外務大臣アンドレイ・ストラタンは、第12回OSCE閣僚理事会での演説で、「モルドバの領土におけるロシア軍の存在は、モルドバ当局の政治意思に反し、モルドバ当局によって国家の領土に違法に展開した外国軍の占領と認定され、国際規範や原則に違反している」と述べた。
  2007年の時点で、ロシア側はすでにその義務を履行したと主張。残留している軍隊は1992年の停戦の下で認可された平和維持軍として奉仕しているためイスタンブール協定に違反しておらず、紛争が完全に解決されるまで残ることになる、と説明した。
  2008年11月18日のNATO決議では、ロシアに対し、トランスニストリアから軍事力を撤退するよう促した。
  2009年3月、ロシア大統領ドミートリー・メドヴェージェフ、モルドバ大統領ウラジーミル・ヴォローニン、トランスニストリア大統領イーゴリ・スミルノフによる三者会合が行われ、既存の平和維持活動の安定的な役割に留意しつつ、トランスニストリアで和解が成立した暁には、OSCEの監督下での平和保証活動に移行することが望ましいとする共同宣言が署名された。
  2012年3月に就任したニコラエ・ティモフティ大統領は、モルドバの合意なしに不法にモルドバ領内に駐留しているロシア軍は撤退するべきであるとして、トランスニストリア地域に展開する「平和維持部隊」は国際委任統治下の文民ミッションへ変更させるべきである旨度々発言している。
  モルドバは停戦協定で認可された兵士は500人未満であると考えており、2015年には、モルドバの空港を利用しようとする員数過剰のロシア兵を逮捕、国外追放しはじめた。
  ロシア兵が沿ドニエストル共和国に向かうには、キシナウ国際空港からティラスポリまで陸路で移動する必要がある。モルドバは長年、ロシア軍将校や兵士が空港を経由して沿ドニエストル共和国に向かうことをほぼ認めてきたが、国際平和維持軍であることが明確でない者や、十分な事前通告がない者は、空港使用を拒否することもあった。キシナウ空港は、平和維持軍の職員、将校、兵士の移動の可能性にしか応じない可能性が高い。第14衛兵軍の兵士の通過は違法となる。
  2016年6月27日、沿ドニエストル共和国で新しい法律が施行され、マスメディア、情報通信ネットワーク、インターネットの利用を含め、沿ドニエストル共和国・モルドバ共和国におけるロシア軍の平和維持活動を批判する行為や公の発言、あるいはロシア軍の平和維持活動に対する沿ドニエストル共和国政府によって「偽」とみなされる解釈を提示することを罰することになった。
地理
  モルドバ共和国のドニエストル川東岸からウクライナとの国境までの南北に細長い地域を主な領土としている。なお、川は直線ではなく蛇行しており、ウクライナとの国境は直線でジグザグした部分も多い。
  しかし、全ての領土(実効支配地域)が東岸にあるわけではない。例えば、沿ドニエストル共和国が実効支配しているベンデルはドニエストル川西岸に位置している。一方、東岸にあるコシエリという都市はモルドバ共和国の実効支配下にある。また、中部のドゥボッサールィ地区(モルドバ語名ドゥベサリ)ではモルドバ共和国の実効支配地域が大きく食い込んでおり、分断されているところもある。
  なお、その分断地域(モルドバ共和国実効支配地域)を横切る道路(沿ドニエストル共和国の南北間を結ぶ)は、沿ドニエストル共和国領となっているためモルドバ共和国の飛地が存在する。
国民
  2015年の主要な民族集団はロシア人(34%)、モルドバ人(33%)、ウクライナ人(26.7%)、およびブルガリア人(2.8%)であった。
  ほとんどのトランスニストリア人はモルドバ市民権も持つが、トランスニストリア人の約半数はロシア連邦の国籍を持ち、ウクライナ市民権を有する住民もいる。
  1990年代の経済低迷により移民する人が多く、1989年に546,400人だったこの地域の人口は、2001年には633,600人までに増加した。ただ、年齢構成が高齢傾向にある。2015年の推計人口は475,665で2004年と比べ7万人以上減少した。
経済
  第二次世界大戦後、トランスニストリアは重工業化され、1990年には、モルドバの人口の17%しか占めていないにもかかわらず、モルドバのGDPの40%と電力の90%を担っていたほどであった。ソ連崩壊後、トランスニストリアは「ブレジネフ計画経済」への復帰を望んだが、数年後、市場経済へ向かうことを決定した。
  1990年代後半に行われた大規模な民営化により、現在ではほとんどの企業が民営化されている。
  沿ドニエストル共和国は独自の中央銀行である沿ドニエストル共和国銀行を持ち、自国通貨である沿ドニエストル・ルーブルを発行している。この通貨は自由変動相場制で兌換可能であるが、沿ドニエストル共和国内でしか使用できない。
  沿ドニエストル共和国の経済はしばしば密輸と武器輸出に依存していると言われている。これらの疑惑は共和国政府によって否定されており、ロシアやウクライナ当局からも重視されていない。
マクロ経済
  2004年、沿ドニエストル共和国は12億米ドルの債務(3分の2はロシアに対するもの)を抱えており、一人当たりでは(沿ドニエストル共和国を除いた)モルドバの約6倍であった。2007年3月には天然ガス獲得のためのガスプロムへの債務が13億米ドルに増加した。
  2007年3月22日、ガスプロムは沿ドニエストル共和国に対するガス債権を、共和国最大企業であるモルドバ鉄工所を経営するロシアの実業家アリッシャー・ウスマノフに売却した。沿ドニエストル共和国大統領イゴール・スミルノフは、「沿ドニエストル共和国にはガスプロムに対する法的債務がない」ため、ガス債務を支払わないと発表した。
  2007年11月、沿ドニエストル共和国の公的部門の債務総額は最大16億4000万米ドルであった。
  2007年の沿ドニエストル共和国最高評議会の当時の議長であるエフゲニー・シェフチュクのインタビューによると、沿ドニエストル共和国は困難な経済状況にある。
  2007年に30%の増税が行われたにもかかわらず、年金基金は依然として資金不足であり、緊急措置が必要とされた。しかしシェヴチュクは、危機といっても年金と給与の支払いが3ヶ月遅れることを意味するので、状況は絶望的ではなく、危機とは見なされないと述べた。
  共和国政府によると、2007年のGDPは6789億沿ドニエストル・ルーブル(約7億9900万米ドル)、一人当たりGDPは約1500米ドルであった。
  2007年のGDPは11.1%増加し、インフレ率は19.3%で、一人当たりのGDPは2140ドルとなり、モルドバの一人当たりのGDP2040ドルより高い。2007年の共和国政府予算は2億4600万ドルで約1億ドルの推定赤字であり、政府は民営化による収入でカバーしようとした。
  2008年の予算は3億3100万ドルで約80百万の推定赤字であった。
対外貿易
  貿易は約80カ国との間で行われている。
  2000年代初頭、輸出の50%以上が独立国家共同体(CIS)、主にロシア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ(沿ドニエストル当局が外国とみなす)へも渡った。主な非CIS市場はイタリア、エジプト、ギリシャ、ルーマニア、ドイツだった。CISは輸入の60%以上を占め、EUのシェアは約23%だった。主な輸入品は非貴金属、食料品、電気であった。
  沿ドニエストル共和国は輸入超過が続いている。2012年、輸入額が輸出額の2.5倍であった。この差は、特に農業において顕著で、2003年に7000万米ドルだった食料輸入は、2011年には1億9850万米ドルにまで増加した。食料輸入の急増は、この国の農業が非効率であることの証左でもある。
  2014年にモルドバがEUと連合協定を締結した後、モルドバの一部と主張される沿ドニエストル共和国は、EUへの無関税輸出を享受した。その結果、2015年には沿ドニエストル共和国の1億8900万米ドルの輸出のうち27%がEU向けとなり、ロシア向けの輸出は7.7%に減少した。このEU市場へのシフトは、2016年にも拡大し続けた。  2020年、沿ドニエストル共和国税関は6億3310万米ドルの輸出と10億5270万米ドルの輸入を報告した。
トランスニストリア国境関税問題
  2005年のモルドバとウクライナの合意により、沿ドニエストル共和国企業は、モルドバの税関当局に登録すれば、輸出品にEUの貿易優遇措置を受けられるという新しい関税制度が導入された。この合意はモルドバ・ウクライナ国境監視ミッション(EUBAM)が実施された後に履行された。
  2006年3月3日、ウクライナは沿ドニエストル共和国との国境に新しい関税規則を導入した。ウクライナは2005年12月にウクライナとモルドバの間で合意された共同関税議定書の実施の一環として、モルドバの税関で処理された書類のみを用いて沿ドニエストル共和国から商品を輸入することを宣言した。
  米国、欧州連合、OSCEはウクライナのこの動きを承認したが、沿ドニエストル共和国とロシアは、この行為を「経済封鎖」と呼んだ。
  3月4日、沿ドニエストル共和国はモルドバとウクライナの輸送を沿ドニエストル共和国の国境でブロックすることでこれに対抗した。沿ドニエストル共和国のブロックは2週間後に解除された。しかし、モルドバ・ウクライナのブロックは依然として残っており、双方の間の地位協定交渉の進展を妨げている。 規制後の数ヶ月間、沿ドニエストル共和国からの輸出は激減した。沿ドニエストル共和国はこの地域における「人道的大惨事」を宣言し、モルドバはこの宣言を「意図的な誤報」と呼んだ。
経済セクター
  重工業(鉄鋼生産、セメント)、電力生産、製造業(繊維工業)が主要産業で、これらは合わせて工業生産高全体の約80%を占めている。
  リブニツァにあるモルドバ製鉄所(ロシアのメタロインベスト持ち株会社の一部)は、この国の歳入の約60%を占めている
  繊維産業の最大企業はティロテックスで、ヨーロッパ第2位の繊維会社だと主張している。
  モルドバで消費される電力の約8割が沿ドニエストル共和国で発電されている。同国最大の電力会社モルダフスカヤGRESはロシアの企業Inter RAOの子会社であり、南部の都市ドネストロフスククチュルガン発電所操業している。
  ロシアは天然ガスを実質無償で供給し、病院・学校の整備や年金支給を通じても支援している。
  銀行部門は、ガスプロムバンクを含む8つの商業銀行で構成されている。
  コングロマリットであるシェリフは、この国のビジネスのほぼ全ての分野に展開し、地元の政治やスポーツにも大きく関わるようになった。スーパーマーケット、ガソリンスタンド、携帯電話会社、テレビ局、出版社、建設会社、広告代理店、酒類生産企業KVINT、サッカークラブFCシェリフ・ティラスポリとそのホームスタジアムスポルティヴヌィイ・コムプレクス・シェリフなど、多方面にわたる。KVINTは、ブランデー、ワイン、ウォッカを生産し、各国へ輸出も行っている。
農業
  反面で農業はモルドバと比べると生産量に乏しいものの、温室栽培で青果物を生産していることから品質が比較的良いものが収穫出来ると言われている。
  2016年にロシアは自国空軍の戦闘機をトルコによって撃墜された事件への報復としてトルコからの物品の輸入を禁止したが、その代償として輸入の主要品物となっていた青果物を失うこととなった。これを受け、沿ドニエストルは代替の青果供給地として名乗りを上げており、特にトマトの供給に対しては積極的にアピールをしている






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