世界の国々-1



(フイリッピン)

2022.06.24-東京新聞-https://www.tokyo-np.co.jp/article/185380
比、資源探査の対中交渉打ち切り 主権問題理由に

  【マニラ共同】フィリピンのロクシン外相は23日、南シナ海での石油・天然ガスの共同探査・開発に向けた中国との交渉をドゥテルテ大統領の判断で打ち切ったと表明した。主権の問題と憲法上の制約を理由に挙げた。

  両国は南シナ海の領有権を巡って対立しており、主権問題では譲らないフィリピンの姿勢を示した形だ。ロクシン氏は中国の王毅外相と3年間にわたり交渉を続け、妥協点を探ったが、不調に終わったと説明。「石油とガスの議論は完全に終わった」と述べた。
  ドゥテルテ氏と中国の習近平国家主席は2018年、南シナ海での石油と天然ガスの探査に向けた協力で基本合意していた


2022.06.06-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220606/k10013659291000.html
フィリピン ルソン島で噴火 広範囲に火山灰 けが人の情報なし

  フィリピンのルソン島5日、火山の噴火があり、これまでのところけが人の情報はないということですが、周辺の集落や道路が広範囲にわたって火山灰に覆われました。

  フィリピンの火山観測機関によりますと、5日午前、フィリピンのルソン島南部の「ブルサン山」で水蒸気噴火が発生しました。
  噴火はおよそ17分間にわたって続き、少なくとも高さ1キロメートルまで噴煙が上がったあと、周辺の複数の自治体では雨とともに火山灰が降り積もったということです。
  これまでのところ、けが人の情報はないということですが、ドローンで上空から撮影した映像では、森や集落が当たり一面、灰色に染まっている様子が確認できます。
  また地上で撮影された映像には、車が灰を巻き上げながら走行し視界が悪くなっている様子や、人々がマスクをしながらほうきで積もった灰を掃いている姿も写っています。
  フィリピンの火山観測機関は、再び噴火が起こる危険もあるとして、火山の半径4キロの範囲への立ち入り禁止を改めて周知するとともに、大雨などによって積もった火山灰が土砂や岩とともに山腹を一気に流れ下る「火山泥流」という現象にも警戒するよう呼びかけています。


2022.05.10-Yahoo!Japanニュ-ス(REUTERS)-https://news.yahoo.co.jp/articles/3848e1d142b237c0654428e3055bd4212dd3ba37
比大統領選でマルコス氏が圧勝、独裁者の父失脚から36年

  9日行われたフィリピン大統領選で、20年にわたり独裁政治を敷いた故マルコス元大統領の長男、フェルディナンド・マルコス・ジュニア氏(64)が圧勝した。 選挙管理委員会(COMELEC)の非公式集計によると、有効投票の93.8%開票時点でマルコス氏の獲得票は2990万票。過半数確保に必要な2750万票を上回り、対立候補であるレニー・ロブレド副大統領の2倍の票を得た。投票率は80%。

  過半数得票の勝利は、故マルコス元大統領の失脚につながった1986年の「ピープルパワー(民衆の力)」革命以来。 公式結果は今月下旬ごろに明らかになる見通し。任期は6年。
  マルコス一族の失脚から36年が経ち、かつて考えられなかったマルコス家の支配への回帰が確実となった。 マルコス一族は90年代に亡命先から戻って以来、莫大(ばくだい)な資産と広範な人脈を背景に政治の一大勢力として影響力を保ってきた。
  マルコス氏は2016年の副大統領選でロブレド氏にわずか20万票差で敗れ、選挙結果を覆そうとして失敗。今回の大統領選はマルコス氏にとって雪辱を果たすための好機となった。
  マルコス氏は実質的な政策綱領を示していないが、ドゥテルテ現大統領の路線継続が見込まれている。ドゥテルテ大統領は強権的なアプローチで支持を拡大し、急速に権力を強化した。 アナリストらは、マルコス氏がドゥテルテ大統領のインフラプロジェクトの完了に注力するほか、中国との関係緊密化を模索するとみているが、フィリピン社会に存在する汚職や縁故主義の問題が悪化するとの懸念もある。 非公式集計によると、同時に実施された副大統領選では、ドゥテルテ大統領の長女サラ・ドゥテルテ氏が2位の3倍以上の票を獲得して勝利した。マルコス氏は選挙戦でサラ氏と連携した。


(キューバ)

2022.05.07-Yahoo!Japanニュース(テレ朝news)-https://news.yahoo.co.jp/articles/14fce5508bac1a3df092d5a004f83ce02b69b26e
キューバでホテル爆発22人死亡「ガス漏れの可能性」
(C) CABLE NEWS NETWORK 2022
テレビ朝日


  キューバの首都にあるホテルで爆発があり22人が死亡しました。  キューバの首都ハバナのホテルで6日朝、爆発がありました。
  キューバ政府などによりますと、これまでに子ども1人を含む少なくとも22人が死亡し、70人以上がけがをしています。
  「ものすごく大きな爆発音がした」という目撃情報があり、近くに止まっていたバスや車両も大破しました。  ホテルは広い範囲で崩落し、救助活動が続いています。
  キューバ政府は「ガス漏れによる爆発の可能性が高い」とコメントしています。  爆発を起こしたのは1930年代に建築された「ホテル・サラトガ」で、2005年に改装され営業を続けていました。
(C) CABLE NEWS NETWORK 2022
テレビ朝日



(モルドバ)(沿ドニエステル・モルドバ共和国:PMR)

2022.05.25-Yahoo!Japanニュース(毎日新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/13f0ceb9516007c5c8636425c133a14f7ac530fa
ウクライナ侵攻3カ月 隣国モルドバで約100人が反戦デモ-【キシナウ宮川佐知子】

  ロシアによるウクライナ侵攻が始まって24日で3カ月が経過した。ウクライナから多くの人が避難している隣国モルドバの首都キシナウではこの日、ロシアへの抗議デモがあり、ロシア大使館前で約100人が反戦を訴えた。

  国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、23日時点で約659万人がウクライナを逃れうち約47万人がモルドバに入国した。大使館前の歩道ではウクライナ人やモルドバ人の参加者がウクライナ国歌を歌い、「(ロシアが攻撃の対象としている)ヘルソンはウクライナ」「抗議しても大丈夫」と書かれた紙を掲げるなどして、抗議の意思を示した。
   デモを呼びかけたNGO(非政府組織)スタッフ、ウラジミール・テルナフスキーさん(25)らは、2月末のロシア侵攻からほぼ毎日、大使館前で声を上げてきた。「時間が過ぎるにつれ、衝撃が薄れてきている」と懸念する一方、最近は一般車だけでなく、バスやトロリーバスなど公共交通機関の運転手もデモへの賛意のクラクションを鳴らしてくれるようになったという。

  テルナフスキーさんは親露派が実効支配するモルドバ東部の地域「沿ドニエストル共和国」出身。現地では4月末、爆発事案が複数発生するなど緊張が高まった。「向こう(沿ドニエストル共和国)に住んでいる両親のことも心配。ロシアは早く戦争をやめてほしい」と話した。
   タチアナ・ドロズドワさん(42)は約2カ月前にウクライナの首都キーウ(キエフ)から避難してきた。避難先の住居の所有者とは面識がなかったが、ウクライナから来たことを知ると無償で提供してくれた。「モルドバではたくさんの人が親切にしてくれた」と感謝するが、現在は休職中で「デザイナーの仕事が恋しい」という。「兵士や子ども、たくさんの命が失われている。ウクライナを助けてほしい」と呼びかけた。【キシナウ宮川佐知子】


2022.05.25-読売新聞-https://www.yomiuri.co.jp/world/20220525-OYT1T50242/
親ロシア派の前大統領、モルドバ検察庁が72時間拘束へ…汚職や国家反逆容疑

  ウクライナの隣国モルドバで、同国の検察庁は24日、親露派のイーゴリ・ドドン前大統領を汚職や国家反逆の疑いで拘束したと発表した。検察当局は24日、72時間の拘束を前に、ドドン氏の自宅などを捜索した。

  旧ソ連構成国モルドバの現大統領は親欧米派のマイア・サンドゥ氏で、議会も親欧米派政党が多数派を占めている。露軍が、モルドバにも侵攻を画策していると指摘されている中、サンドゥ政権はロシアの影響力の高まりを警戒している。
  英BBCなどによると、モルドバの検察庁は、ドドン氏は大統領だった2019年、新興財閥から受けた資金を親露派政党に提供した疑いで捜査している。

  タス通信などによると、親露派政党のトップは24日、「現政権が貧困対策などの公約を果たせていない」と主張し、ドドン氏拘束を「野党と戦うための安っぽいショーだ」と批判した。ドドン氏は24日、弁護士を通じて自身のSNSに投稿し、「裁判所は私の正しさを認める」と容疑を否定し、抗議を呼びかけた。
   露大統領報道官は24日、「対露関係を発展させようとする者に向けられた迫害に憂慮している」と反発し、注視していく立場を示した。


バングラデシュ

2022.06.06-REUTERS-https://jp.reuters.com/article/bangladesh-fire-idJPKBN2NN01G
バングラデシュ、コンテナ施設で大規模火災 少なくとも49人死亡

  [ダッカ 5日 ロイター] - バングラデシュ南東部のコンテナ施設で4日、大規模な火災が発生し、少なくとも49人が死亡した。5日も消火活動が続けられている。

  火災は4日夜、港湾都市チッタゴンから40キロの距離にあるシタクンダのコンテナ施設で発生。200人以上が負傷したとみられ、負傷者には消防士や警察官も含まれるという
  火災の原因は現時点では不明。消防関係者は、過酸化水素が入ったコンテナが爆発し、他のコンテナに次々と燃え広がったとみている。
  爆発は5日も続き、消防士のほか軍も参加して消火に当たっている。地元の医師は、負傷者の一部は重篤な状態で、救助活動がまだ続いていることから、死者数は今後増える可能性があると指摘している。
  同国では規制が緩く、法執行も厳格ではないことから、工業地帯でここ数年に何件もの大規模火災が発生、数百人の死者を出している。


北マケドニア

2022.06.06-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220606-W3U3YTJK45IVDC4BMZNFWQRLSM/
バルカン安定に日本関与強化を 露の介入警戒 北マケドニア外相インタビュー
(宮下日出男)

  北大西洋条約機構(NATO)で最も新しい加盟国である北マケドニアのブヤル・オスマニ外相が6日までに産経新聞のインタビューに応じた。ウクライナを侵略するロシアがサイバー攻撃などによって、北マケドニアなどバルカン半島諸国の不安定化も図る可能性を懸念し、日本が地域の安定維持に向けて関与を強化することに期待を示した。

  オスマニ氏は5月29~31日の訪日時に林芳正外相と会談し、ウクライナ侵略が国際秩序の根幹を揺るがす行為との認識で一致。「自由で開かれたインド太平洋」構想への支持を表明した。両外相は経済交流強化のための技術協力協定にも署名した。
  北マケドニアは旧ユーゴスラビア解体に伴い1991年に独立。2020年3月にNATOに加盟した。人口は約200万人。オスマニ氏によると、ウクライナ戦争では、非加盟ながら欧州連合(EU)の対露制裁と共同歩調をとり、ウクライナに軍事・人道支援を行っている。

  訪日直前にウクライナ入りしたオスマニ氏は取材に「ウクライナは自国だけでなく、北マケドニアや日本が共有する価値のために戦っている」と語った。NATO加盟国として太平洋側の「建設的」なパートナーである日本との「緊密な連携」を重視していると強調し、訪日を通じた関係強化に手応えを示した。
  バルカン半島は歴史上、大国間の覇権争いの舞台となり、ロシアの影響力は強い。民族対立もくすぶり不安定だ。北マケドニアや周辺国が目指すEU加盟への手続きは膠着している。
  オスマニ氏は、ロシアがサイバー攻撃やプロパガンダ(政治宣伝)など非軍事的手法で「人々の不満など地域の脆弱(ぜいじゃく)性に付け入り、悪意ある介入をしかけてくる」と警戒。EUとともに地域安定のために「日本がプレゼンスを強化することが重要」とし、そのための協力促進が「東京に来た理由の一つ」と強調した。

  バルカン半島には近年、中国も巨大経済圏構想「一帯一路」を通じて進出し、北マケドニアも中国と中東欧諸国の経済協力枠組みに加わる。だが、オスマニ氏はウクライナ戦争での中国の対露協調姿勢を踏まえ、「中国は国際社会における自らの役割を見直した。われわれも態度を見直す」と表明。中国への警戒を強めるNATOやEUとの協調を重視する考えを示した。
(宮下日出男)


ニカラグア

2022.06.13-dmenuニュース-https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/yomiuri/world/20220613-567-OYT1T50155?fm=topics
反米のニカラグア政権、米の「裏庭」に露軍駐留認める大統領令…ウクライナ巡りけん制か

  サンホセ(コスタリカ)=淵上隆悠】中米ニカラグアの反米左派ダニエル・オルテガ大統領は、露軍の兵士や航空機などの駐留を許可する大統領令を出した。米国の「裏庭」で露軍の活動が活発化することにつながりかねず、波紋を広げそうだ。

  7日付官報によると、許可期間は7〜12月。「交流や人道支援、緊急事態時の相互利益」を名目とし、反米左派のキューバやベネズエラ、中米諸国、米国の軍も対象とした。ただし、米軍だけは「事前に計画、調整した上で」と条件をつけており、実現性はほぼないとみられる。

  オルテガ氏は反米革命政権を率いていた1980年代、旧ソ連の支援を受け、米国が支援する反革命武装勢力と内戦を繰り広げた。ロシアがウクライナ侵攻前、東部の親露派武装集団の支配地域を独立国家と承認した際も、即座に支持し、関係が深い。

  ロシアはニカラグア以外にも中南米へ進出する構えをみせている。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、セルゲイ・リャプコフ露外務次官は1月、現地メディアに、キューバやベネズエラに「軍事インフラ」を派遣する可能性について「排除はしない」と述べた。米政府は「断固対処する」と抗議した。
  62年、キューバへの旧ソ連の中距離核ミサイル配備を巡り、米ソの緊張が高まる「キューバ危機」が起きた経緯もある。ロシアは2002年、キューバにあった電子情報収集施設を解体した。
  ロシア外務省のザハロワ報道官は9日、ニカラグアと幅広い問題で協力してきたとし、「新たな脅威に対する戦いである防衛分野も同様だ」と述べ、ウクライナを支援する米国をけん制する狙いをにじませた。


カンボジア

2022.08.05-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220805-AGAEWYOHWZOB5H4PB5TVVXPVHA/
米国務長官、中国のカンボジア基地利用を警告 フン・セン首相と会談

  【ワシントン=大内清】米国務省は4日、東アジアサミット(EAS)参加国外相会合などのためカンボジアを訪問中のブリンケン国務長官が同日、同国のフン・セン首相と首都プノンペンで会談したと発表した。ブリンケン氏は中国を念頭に、カンボジア南西部リアム海軍基地の独占使用権を一国に与えた場合、カンボジアの主権や地域の安全保障、東南アジア諸国連合(ASEAN)の結束を損なうと警告した。

  タイ湾に面するリアム海軍基地は、中国が覇権的行動を強める南シナ海にも近い要衝。現在は中国の無償支援による拡張工事が進んでおり、中国が極秘裏に海軍施設を建設しているとも報じられている。カンボジア、中国両政府は否定しているものの、中国が支援の見返りに同基地を独占利用し、インド太平洋地域で初めての海外基地として軍を駐留させることを狙っているとの観測は絶えない。

  こうした情勢を受け、ブリンケン氏はフン・セン氏との会談で、「同基地での中国の活動について完全な透明性」を要求。中国への過度な依存はカンボジアの主権を脅かすリスクになると警鐘を鳴らし、米カンボジア関係の強化などを話し合った
  中国を「戦略的ライバル」とみるバイデン政権は昨年1月の発足以降、インド洋と太平洋の中間に位置する東南アジアへの関与を深めている。今年5月にはワシントンでASEAN各国の指導者らを招いた特別首脳会議を開催し、東南アジアでの影響力を強める中国への対抗姿勢を鮮明にさせた。



ボンボン・マルコス
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  フェルディナンド・ロムアルデス・マルコス・ジュニアFerdinand Romualdez Marcos Jr.、通称:ボンボン・マルコス(Bongbong Marcos)、1957年9月23日 - )は、フィリピンの政治家。かつて北イロコス州知事や下院議員、上院議員を務めた。実父はフィリピンの元大統領のフェルディナンド・マルコス、実母はイメルダ・マルコスである。
来歴
  1957年マニラ首都圏マニラ市でフェルディナンド・マルコス(シニア)とイメルダ・マルコスの長男(第二子)として生まれる。1970年イギリスに送られ、ウェスト・サセックスのワース・スクールに入学した。その後、オックスフォード大学セント・エドモンド・ホールに入学。ここで哲学・政治学・経済学コース(PPE)を学び、学士号を取得したと言われていたが、実際は虚偽で、非卒業者に渡される「特別卒業証書」を取得していた。その後、アメリカ合衆国フィラデルフィアペンシルベニア大学ウォートン・スクール経営学修士課程に進学するも修了しないままフィリピンに戻った。

  1980年、当時フィリピンを統治していた新社会運動の下、無投票で北イロコス州副知事に就任した。その後、1983年に州知事に就任した。1986年エドゥサ革命で、父・シニアが打倒されたため、フィリピンを離れてアメリカ合衆国ハワイ州亡命して移住生活をした。
  シニアが1989年にハワイ州で死去した後、コラソン・アキノ大統領はマルコス家の帰国を許可し、一家はフィリピンに戻った。権力基盤の再構築を開始し、1992年から1995年には北イロコス州第2区地区選出の下院議員を務め、1998年には再び北イロコス州知事に正当な選挙による当選で就任した。
  2010年上院議員に当選したが、2015年8月26日のテレビ番組内で、大統領選挙への出馬を示唆し、その後2016年フィリピン大統領選挙において副大統領候補として出馬し、エドゥサ革命のことを隠して、漫画を使った自伝で選挙戦を展開したが、対立候補のレニー・ロブレドに敗北した。
  2021年10月5日、自身のフェイスブック上で2022年フィリピン大統領選挙に出馬することを表明した。その後、11月13日には現職ロドリゴ・ドゥテルテ大統領の娘でダバオ市長のサラ・ドゥテルテが、大統領選挙への立候補を取りやめ、副大統領選挙に立候補し、マルコスと連携することを発表した。


エドゥサ革命
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  エドゥサ革命とは、1986年2月22日フィリピン軍改革派将校のクーデター決起から25日アキノ政権樹立に至るまでフィリピンで発生した革命である。
  「エドゥサ(EDSA)」は、マニラ首都圏にあるアギナルド空軍基地国防省が同居)が面するエドゥサ通り のことを指す。この革命では、フェルディナンド・マルコス政権に抗議する100万の群衆がエドゥサ通りに集まった。エドゥサ通りは少なくとも3回、革命や大規模な抗議活動・デモの舞台となっており、いつ起こったものか判別できないので、エドゥサ革命という名称はフィリピンでも、あまり使われない。
  「フィリピン2月革命」「フィリピン市民革命」「2月政変」とも呼ばれることもあるが、フィリピンでは「ピープルパワー革命、単にピープルパワーという愛称で呼ばれることが最も多い。またコラソン・アキノの選挙時のシンボルカラーであった黄色から「黄色革命」とも呼ばれる。
背景
マルコス独裁
  1965年に大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、ベトナム戦争へのフィリピン軍の派遣を行う他、東南アジア条約機構 (SEATO) において中心的な役割を果たすなどなど冷戦下において反共産主義の姿勢を強く掲げ、アメリカ日本韓国南ベトナムなどの西側諸国との関係を強化する傍ら、国内産業の工業化と西側自由世界の貿易自由化を推進し、フィリピン経済の安定化に貢献した。この様な実績が評価されたこともあり、1969年に行われた選挙で再選を勝ち取った。
  しかしマルコス政権はその後独裁の様相を強め、1972年9月21日には、「布告No.1081」によって、フィリピン全土に戒厳令を布告した。この戒厳令により憲法は停止され、1973年には戒厳令の布告中に、大統領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定、さらに1976年には暫定議会選挙まで両職を兼任できるように憲法改正を行う。
  このようなマルコス大統領による独裁支配に反対する野党勢力の中心人物のベニグノ・アキノ(ニノイ・アキノ)らの有力者は次々に拘束され、その多くはアメリカなどの海外への亡命を余儀なくされた。
ベニグノ・アキノ暗殺
  亡命先のアメリカで、反マルコス活動を続けていたベニグノ・アキノは、その後大統領選挙への立候補を行うためにフィリピンへの帰国を決断し「帰国した場合、命の保証はできない」とマルコス大統領から警告を受けていたにもかかわらず、1983年8月21日に亡命先のアメリカから中華民国中正国際空港経由で帰国した。しかしマニラ国際空港に搭乗機が到着し、警護役のフィリピン軍兵士に機内から連行されボーディングブリッジ脇の階段を降りた直後に射殺された。
  この暗殺事件は、世界的にマルコス大統領に対しての非難を呼ぶとともに、国内においてくすぶっていた反マルコスの機運を爆発させることになった。実際に、それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にしてフィリピン全土を覆うようになり、マルコス大統領の独裁体制のみならずイメルダ夫人の豪勢な生活スタイルや、一族による汚職にまで非難が集中するようになった。
  アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス大統領自身が直接関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された、国軍参謀総長のファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共に、この考えをより強くさせるものだった。
内政の混乱
  反マルコスデモの頻発に象徴される、フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、アメリカ合衆国日本などの友好国の注目をひき、世界からの観光客減少や外資による投資を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、フィリピン共和国政府の振興策も効果がなかった。失業率は1972年の6.30%から1985年には12.55%まで増大した。
  さらにマルコス大統領自身も、腎臓疾患のために政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。この頃にはイメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される、意図的に杜撰なプロジェクトなどで汚職を繰り返し、これに対する国民の不満は爆発し、フィリピン国内で反マルコスデモと警官隊の衝突が相次ぐようになった。
  フィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、フィリピンにアメリカ軍基地を持ち、冷戦下における軍事上の拠点としても重要視していたアメリカ合衆国連邦政府としては、絶対に避けたいものだった。ロナルド・レーガン大統領もマルコス大統領に対し、「ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺事件に対する責任がある」といって非難を強めるようになった。このような状況下で、アキノの暗殺後にその遺志をつぐことになった妻のコラソン・アキノ(コリー)が、反マルコス派のシンボル的な存在としてにわかに注目の人となる。
革命
不正選挙
  このような状況下に置かれたマルコス大統領は、国民の不満を解消することや国際社会からの非難をかわすことを目的に、まだ任期が残っていたにもかかわらず、1986年初頭に大統領選挙を行うことを発表した。そこに立候補したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、フィリピン全土を回って支持を訴え国民の大多数の支持を訴えた。
  大統領選挙中、マルコス支持派は「マルコス・パ・リン(まだマルコスに大統領を続けてほしい)」と、対抗するアキノ派は「タマ・ナ(もううんざり)」、「ソブラ・ナ(やりすぎだ)」と応酬を繰り返した。
 1986年2月7日に投票が行われ、開票の結果、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動(NAMFREL)」や公式な投票立会人らが、「最終得点はアキノが約80万票差で勝利した」と示したものの、マルコス大統領の影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録は「マルコスが160万票の差で勝利した」と発表した。
非難と造反
  マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会アメリカ合衆国連邦政府からも非難を浴び、コリーと支持者たちは「明らかな不正選挙が行われた」として、これを受け入れず抗議を行った。多くの国民が貧富の差を超えて同調し、人々は右手親指人差し指 L (laban、タガログ語:闘い)の指文字を掲げ、“闘うぞ”とアピールした。フィリピン国内各地では、コリーのシンボルカラーであった黄色のシャツを着た人々による反マルコスデモが沸き起こり、マニラでは100万人がエドゥサ通りを埋めた。
  2月22日には、選挙結果に反対するフアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長らが決起し、「マルコスをもう大統領とは認めない」と表明し、国防省のあるアギナルド空軍基地(フィリピン独立革命に功績のあったエミリオ・アギナルドにちなむ)に篭城するなど、マルコス体制を支えてきた軍の高官たち、冷戦下において反共主義を採り続けてきたマルコスの事実上の後見人的存在であったアメリカ政府も、この時点において完全にマルコスを見放した。
マルコス亡命
  2月25日にコリーが大統領就任宣誓を行い、多くのマニラ市民によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコス夫妻は、アメリカ軍のヘリコプターで脱出した。その後マルコス夫妻とその一族は、クラーク空軍基地からアメリカ空軍機でハワイ州に向かい、そのまま亡命し、ここに20年以上にわたるマルコスによる独裁は終焉を迎えた。


クルド人
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  クルド人 (英語: Kurds)は、中東のクルディスタンに住むイラン系山岳民族。
概要
  トルコイラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する。人口は3,500万~4,800万人といわれている。
  中東ではアラブ人トルコ人ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派(トルコのクルド人のあいだではスンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハックゾロアスター教に属しているクルド人もいる。
  クルド人のキリスト教徒の起源は元々アルメニア人アッシリア人だとされており、クルド人の大半は中世にイスラム教を採用したが、イスラム教が広まった後も、クルド人の中にはキリスト教に改宗し、キリスト教に改宗したクルド人の多くは東方教会に属したとされている。

  近年でも一部のイスラム教徒のクルド人がキリスト教に改宗した者もいる。
  ゾロアスター教は2016年にゾロアスター教公式の火の寺院がイラク北部のクルド人自治地域のスレイマニヤに建てられ、多くのクルド人がゾロアスター教に戻ってきた。クルド人のユダヤ教徒の大半がイスラエルに住んでいるが、イラク北部のクルド人自治地域にも400から730のクルド人ユダヤ教徒の家族がいるとされている。

  クルド人は異なる宗教と信条を支持しており、伝統的にクルド人は世俗主義で慣行に自由を持っているとされている。言語的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派クルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。
  アイユーブ朝の始祖サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
  クルド人女性は、20世紀と21世紀にクルド人社会で進歩的な重要な役割を果たし、女性の自由や解放、権利と平等に力を入れ改善された。またクルド人民防衛隊には女性の防衛部隊があり、ISILとの戦いで戦果を挙げている。
歴史
  クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
  第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスイギリスロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコイラクイランシリアアルメニアなどに分断された。
  1922年から1924年まではクルディスタン王国が存在した。1946年、現在のイラン北西部に、クルディスタン共和国1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって一時的に樹立された。
  20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
各国での居住状況

トルコ(詳細は「北クルディスタン」および「トルコのクルド人」を参照)
  クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千~1,500万人が居住するヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。
  伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 と呼ばれている。
  また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した。
  今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している。

  オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年トルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。
  イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。

  しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。
  ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合欧州評議会欧州人権裁判所から非難されている
  2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
  2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20~30議席前後を獲得した。
  2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。
  この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした。
  2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった。一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した。

イラク(詳細は「クルディスタン地域」、「イラクのクルド人」、「第一次クルド・イラク戦争」、および「第二次クルド・イラク戦争」を参照)
  イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。
  サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。
  一方で、ベルゼンジ部族といったクルド独立闘争を行っていたムッラームスタファ・バルザーニーが属するバルザーニ部族と対立していた部族は政権に協力した。
  2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。その後、更なる独立権限を持った自治政府設立を占領当局に呼びかけているが、当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮して実現の見通しは立っていない。
  2005年イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニを大統領に選出し、副大統領には、シーア派などから選出したことで、国内の民族バランスが図られた。
  とはいえ、クルドは政権内で少数派であることには変わりない。クルド人初のイラク大統領として、クルドの運命をどの様に導くのか未知数である。
  また2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。
  イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。
  2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった名誉の殺人#批判を参照)。

シリア(詳細は「ロジャヴァ」および「シリアのクルド人を参照)
  北部に少数が在住。2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化している。2013年よりロジャヴァは事実上のクルド人独立地域となっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与せず中立的な立場を維持する戦略を採ったため、シリア政府もアルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先し、事実上黙認している状態である。2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニアイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーハサカなどではシリア軍アサド政権)との共闘が見られている。
  2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加するも、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていたが、2017年後半から2018年前半にかけてイスラム国の崩壊やアサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域がイドリブを中心としたシリア北部に移るとクルド人を巡る状況にも大きな変化が訪れた。
  クルド人勢力の影響力拡大を嫌うトルコがシリアに対する本格的な越境攻撃を繰り返す一方、クルド人の後ろ盾であった欧米はトルコの軍事行動を黙認。2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請。国土の南西部で反体制派制圧を成功させ戦力に余力が出来ていたアサド政権もYPGの要請に応え援軍の派遣を決定した事でクルド人勢力とアサド政権が急速に接近しつつあり、それに伴いロシアを仲介してYPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲とその見返りにPYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が進められている。
  2019年8月にはシリア北部に安全地帯を設けることを目指すとアメリカとトルコが合意。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦について関与しないと声明。YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した[10]。10月9日、トルコ軍は国境を超えシリアに侵攻し、クルド人に対する軍事攻撃を開始した。
   ・クルド民主統一党 (Partiya Yekitiya Demokrat、PYD)
   ・クルド人民防衛隊 (Yekineyen Parastina Gel、YPG)
   ・クルド人民防衛隊(Women's Protection Units)YPJ)
   ・シリア民主軍 (Syrian Democratic Forces、SDF)
イラン(詳細は「東クルディスタン」および「イランのクルド人」を参照)
ジョージア(詳細は「ジョージアのクルド人」を参照;「en:Aslan Usoyan」および「en:Kurdish–Turkish conflict」も参照)
レバノン(詳細は「レバノンのクルド人」を参照)
アルメニア(詳細は「アルメニアのクルド人」を参照)
アゼルバイジャン(詳細は「アゼルバイジャンのクルド人」を参照)
ロシア(詳細は「ロシアのクルド人」を参照)
日本(詳細は「在日クルド人及び蕨市を参照」を参照)


沿ドニエストル・モルドバ共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  トランスニストリア(Transnistria)、沿ドニエストル、公式には沿ドニエストル・モルドバ共和国は、事実上の独立国家。モルドバ東部を流れるドニエストル川モルドバウクライナ国境との間の細長い地域にある。首都ティラスポリ国際的にはほとんど承認されておらず、モルドバの一地域として広く認識されている。本記事では原則として、事実上の独立国家については「沿ドニエストル(共和国)」、地理的な範囲については「トランスニストリア」と呼ぶこととする。
概要
  沿ドニエストル共和国は、独自の政府議会軍隊警察、郵便制度、通貨、車両登録を有する。また、独自の憲法国旗国歌国章を承認している。
  モルドバとドニエストル左岸地域の未承認国家沿ドニエストル共和国)の間で1992年に勃発したトランスニストリア戦争は、ロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、同国による実効支配が続くこととなった。以後、この地域には「平和維持軍」と称したロシア軍の駐留が続いており、モルドバの主権は及んでいない。
  沿ドニエストル共和国は、アブハジアアルツァフ南オセチアの、国際的にほぼ承認されていない3つの国家にしか承認されていない。国際的には当地域はモルドバの一部と認められており、モルドバは当地域を、特別な法的地位を有する自治地域ドニエストル左岸行政区画と定めている。
  2022年時点、国旗において鎌と槌を採用している唯一の国である。
国名(「en:Names of Transnistria」を参照)
  沿ドニエストル共和国は、ロシア語、モルドバ語、ウクライナ語を公用語としており、それぞれの語による正式名称が存在する。正式名称と略称、省略形は以下の通りである。自称であるため、どの名称においても「~の向こう側」を表す「トランス」という表現は含まれていない。なお、沿ドニエストル共和国で用いられる「モルドバ語」は実質的にルーマニア語と同じであるが、表記にはキリル文字が用いられる。

  日本語では、沿ドニエストルまたはトランスニストリアが用いられるが、1989年、モルドバ人民戦線のメンバーであるモルドバ人代議士レオニダ・ラリの選挙スローガンの中で使われたのが最初である。
  一方、モルドバ政府は、この地域を「Unitățile Administrativ-Teritoriale din Stînga Nistrului(ドニエストル左岸行政区画)」と規定している。
  国際機関ではトランスドニエストル (Transdniester) という呼称が用いられる。略称はПМРPMR)、に由来する。
歴史(詳細は「en:History of Transnistria」を参照)
古代
  この地域にはトラキアやスキタイの部族が住んでいた。紀元前600年頃、ドニエストル川の河口近く(現在のウクライナ・ビルホロド=ドニストロフスキー)にティラスという植民地が築かれた。
  4世紀にはゴート族が沿岸部のティラスとオルビアを征服した。ゴート族はドニエストル川の両岸に分かれて居住し、後にそれぞれ西ゴート族東ゴート族と呼ばれることとなった。
  古代末期、ビザンティン帝国は、破壊されたティラスの領域に城砦都市を建設し、アスプロカストロンと名づけた。その後オスマン帝国の侵攻を受けた際、この都市の住民の一部がドニエストル川上流に逃れて小さな集落を形成し、これが後のティラスポリとなった。
中世
  6世紀には、トランスニストリアに南スラヴ人を含む様々な民族と文化が到達した。東スラヴ系民族も住んでいた可能性があるが、チュルク系民族に北に押しやられた。
  ・10世紀にはこの地域にルーマニア系民族が住んでいたことが『原初年代記』に記されている。
  ・11世紀頃にはキエフ大公国の支配下に入ったこともあった。
  ・14世紀にはジェノヴァ共和国の支配下に置かれ、対外貿易の拠点となった。
  ・14世紀中ごろに成立したモルダヴィア公国は、14世紀末までにドニエストル川まで版図を広げたが、その向こう側(トランスニストリア)に支配が及ぶことはなかった。
  ・15世紀には正式にリトアニア大公国の一部となった。この頃、現在のモルドバの大部分がオスマン帝国の支配下となったが、トランスニストリアの大部分は1793年の第二次ポーランド分割までポーランド・リトアニア共和国の一部であった。一方トランスニストリアの南部はオスマン帝国の支配下にあった。
ロシア帝国時代
  1792年、トランスニストリア南部がオスマン帝国からロシア帝国に割譲され、1793年の第二次ポーランド分割で北部が編入された。ロシアはトランスニストリアを「新モルダヴィア」と名付け、新しい公国としてロシアの宗主権下に置くと宣言し、人口もまばらであったこの土地に大規模な植民を行った。西の国境であったこの一帯を防衛する意味もあり、多くのロシア人ウクライナ人が移住した。モルダヴィアの農民には非課税の土地が分配され、植民地化を支援することになった。
  1812年にロシアはベッサラビアを併合し、トランスニストリアは国境地帯ではなくなった。
  第一次世界大戦中、ドニエストル川以西のルーマニア語話者の代表者は、1917年から1918年にかけてベッサラビア民族運動に参加し、彼らの領土を大ルーマニアに編入することを要求した。しかし、ルーマニアは大規模な軍事介入を必要としたため、彼らの要求を無視した。
  1918年の第一次世界大戦の終結時、ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤはドニエストル川の左岸地域に対する主権を宣布した。
  1922年のロシア内戦の後、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(ウクライナSSR)が誕生した。
ソビエト連邦時代
  1924年、ベッサラビアの軍事指導者グリゴレ・コトフスキーが、モルダビア自治州の設立を提案した。その後ウクライナSSR内のドニエストル川とブク川の間の領域モルダビア自治州が設立され、同年10月、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアASSR)として昇格させた。これがトランスニストリア自治領の地政学的構想の始まりである。当時はルーマニア人が住民の大部分を占めており、ルーマニア語で教える学校も開校した。
  1927年、ティラスポリやその他の都市で、農民や工場労働者がソ連当局に対して大規模な暴動を起こしたが、モスクワから派遣された軍隊により鎮圧された。アメリカ合衆国の特派員は、約4000人の死者が出ていると述べたが、クレムリンの公式報道機関によって完全に否定された。
  1920年代から1930年代にかけて、何千人ものルーマニア系のトランスニストリア住民がルーマニアに逃れ、ルーマニア政府は彼らの住居と教育のために特別な基金を設立した。1935年の推定では、難民の数は20,000人とされた。
  スターリン政権下では、ウクライナ人、ロシア人、ルーマニア人以外の住民はロシア化を迫られた。ごく初期には自由があったものの、やがてそれを過ぎると、ソビエト連邦内のポーランド人のような集団は、嫌がらせや放逐、集団テロにさらされるようになった。1937年から38年にかけて行われた内務人民委員部のポーランド作戦や、モルダヴィアASSRにおける非ルーマニア人に対する母国語での教育が廃止されウクライナ語やロシア語に置き換えられるなど、この傾向は1930年代末にさらに強まった。
  民族単位の自治体設立は当時のソ連の一般的な政策であったが、モルダヴィアASSRの設立により、ソ連はベッサラビアに対する領有権も強化することを目指した。ソ連当局はキシナウを「一時的に占領された都市」と呼び、これをモルダヴィアASSRの実質的な首都と宣言した。当時のモルダヴィアASSRの人口は、ウクライナ人48%、ルーマニア・モルダビア人30%、ロシア人9%、ユダヤ人8.5%であった。
  1940年、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退を要求する最後通牒を出し、ルーマニア政府はこれに応じた。
第二次世界大戦
  第二次世界大戦中の1940年8月2日、ソビエト連邦最高会議は、モルダヴィアASSRを解散し、その最西端6ラヨンと、ルーマニアから取得したベッサラビアの一部からモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)を編成することを全会一致で承認した。モルダヴィアSSRの90%は、1940年以前にソビエト連邦とルーマニアの国境であったドニエストル川の西側にあり、10%は東側にあった。1940年6月にソ連がルーマニアから得た領土のうち、民族的に異質な北部と南部(現在のチェルニウツィー州ブジャク)はウクライナSSRに譲渡された。戦略上重要な黒海沿岸とドナウ川の間口は、ルーマニアが訴求しうるモルダヴィアSSRよりも信頼できるウクライナSSRに与えられることとなった。
  1941年夏、ルーマニアはアドルフ・ヒトラーのソ連侵攻(独ソ戦)に参加。ルーマニアはドニエストル川と南ブーフ川の間の地域を占領し、オデッサを地方首都とした。この拡大されたトランスニストリアはトランスニストリア総督国と呼ばれた。1941年から44年のルーマニアによる占領期間中、15万人から25万人のウクライナ人とルーマニア人のユダヤ人がトランスニストリアに追放され、大多数は総督府のゲットーや強制収容所で処刑または他の原因によって死亡した。
  1944年春、ソ連軍は枢軸国を駆逐し、この地を奪還した。トランスニストリアに住む何千人ものルーマニア人やヴラフ人がその数ヶ月の間に殺されるか、その後の数年間に収容所へと強制送還された。
  モルダヴィアSSRは、組織的なロシア化政策の対象となった。キリル文字がモルダヴィア語の公式な文字とされた。モルダヴィアSSRに建設されたほとんどの産業はトランスニストリアに集中しており、モルダヴィアの他の地域は農業中心の経済であった。
ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR
  1950年代から1980年代にかけては、ルーマニアの独立主義は抑えられていた。しかし1980年代、ミハイル・ゴルバチョフペレストロイカ政策により、ソビエト連邦は地域レベルでの政治的自由化が進んだ。この不完全な民主化は、排他的な民族感情が政治勢力として力を得る契機となった。当地域には多くのロシア人、ウクライナ人が居住していたが、こうしたモルドバ民族主義の昂揚に伴い、数々のモルドバ化政策(モルドバ語の唯一の国語化としての制定やルーマニアを模した国旗・国歌の制定)が打ち出されることとなった。
  この新しい政策への不満は、ティラスポリなどスラブ系住民が多数を占める都市部であるトランスニストリアでより目に見える形で表れた。東部のティラスポリでは保守派が、キシナウでは共産党がモルダヴィアをソ連内にとどめようとし、内戦を繰り返しながら独立を目指していた。
  1989年8月31日にモルドバ最高会議がモルドバ語を公用語として採用し、ロシア語は副次的な目的にのみ使用することを採択した。さらにモルドバ語をソ連時代のキリル文字からラテン文字に戻すこと、モルダヴィアSSRとルーマニアの言語的アイデンティティの共有を宣言した。モルダヴィアSSRのスラブ系住民によって設立されたイェディンストヴォ(統一)運動は、ロシア語とモルドバ語の両方に同等の地位を与えるよう迫った。
  しかしトランスニストリアにおける民族・言語構成はモルダヴィアSSRの他の地域とは大きく異なっており、ロシア人とウクライナ人の割合が特に高く、モルドバ人の一部も含め、全体的にロシア語を母語とする者が多かった。
  1990年6月、モルダヴィアSSRはソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)への国名変更を行い、6月23日に主権ならび共和制を宣言した。これに対して、同年9月2日、ドニエストル川左岸のロシア語系住民がティラスポリで臨時国会を開催し、「沿ドニエストル・モルダビア・ソビエト社会主義共和国」(沿ドニエストルSSR)の創設を宣言してモルドバからの分離を目指した。
  事態がさらにエスカレートするのを防ぐため、当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、モルダヴィアSSRによる少数民族の市民権の制限を紛争の原因として挙げながらも、沿ドニエストルSSRの宣言が法的根拠を欠いているとし、1990年12月22日に大統領令でそれを無効とした。それでも実質的な行動は取られず、沿ドニエストルSSR当局は徐々に地域のコントロールを確立していくことが出来た。
  1991年8月のソ連のクーデター未遂ののち、8月25日、沿ドニエストル最高会議が、「沿ドニエストル地域の独立に関する宣言」を採択し、ソ連からの独立を宣言した。
独立とモルドバとの戦争(詳細は「トランスニストリア戦争」を参照)
  1991年11月5日にトランスニストリアは社会主義思想を放棄し「沿ドニエストル共和国」と改称された。
  1992年5月、旧モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の領土をめぐり、モルドバと沿ドニエストル共和国の間でトランスニストリア戦争が勃発した。戦争はロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、沿ドニエストル共和国による実効支配が続くこととなった。7月、和平協定が締結され、ロシア連邦、モルドバ、沿ドニエストル合同の平和維持軍(Joint Control Commission, JCC) によって停戦監視が行われることとなった。以後、停戦は保たれているものの、この領域の政治的立場は未解決のままである。
2006年の住民投票
  2006年7月12日、旧ユーゴスラビアでのモンテネグロ独立に影響を受けた沿ドニエストル共和国議会は、独立を放棄しモルドバへの編入を希望するか、独立を維持し将来的にロシアに編入するかを問う住民投票を行うことを決めた。投票は同年9月17日に実施され、前者案件は圧倒的多数で反対、後者案件は圧倒的多数で賛成の結果となった。一方、モルドバのヘルシンキ人権委員会は当日現地に出向き出口調査等独自で監視を行っており、当局によって発表された70%を超えるという投票率に対し実際には10%から30%程度しか確認できなかったこと、結果に関しても少なくとも2-3倍に水増しされたか全く捏造された不公正な投票である可能性が高いと発表した。また、選挙当日には投票に行かない者を選挙後にルーマニアに強制的に移住させるという脅し文句で投票を強制させていたこと、過去にボイコットを行った反体制的国民は有権者のリストから除外されていること、公安や軍人がガードをしており投票所の近くに監視員が近づけないようにしていた投票場があったこと、また彼らが投票結果を改竄していたことなどを報告した。
  欧州安全保障協力機構欧州連合GUAMなどの国際機関やいくつかの国家(ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、セルビア、マケドニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア、アルバニア、ノルウェー、アイスランド)はこの住民投票を認めない立場をとった。欧州評議会においてはロシアのみがこれを認める立場をとった。同様の住民投票は数回にわたって行われているが、実際の影響力、ましてや拘束力は乏しいものといえる。
  2014年のクリミア危機によって成立したクリミア共和国が、ロシアへの編入を求め、承認されたことを受けて、沿ドニエストル共和国政府は再びロシア下院に対してロシア連邦への編入を求めた。
2022年のロシアのウクライナ侵攻
  2022年にはウクライナとロシアの関係が緊迫し、ロシアが国境に軍を集結させてウクライナに侵攻した。このことによりウクライナに面し、ロシア連邦軍が駐留する沿ドニエストル共和国の軍事的な存在感が注目されるようになった。ロシア中央軍管区副司令官のルスタム・ミネカエフは4月22日、ウクライナ南部制圧が任務の一つであり、それを達成すれば「ロシア語を話す人々が抑圧されている」沿ドニエストルへのアクセスが確保できるインタファクス通信タス通信に語った。
  沿ドニエストル共和国側からモルドバにロシア軍が侵攻するリスクが高まったとする報道もみられた。
  同年4月25日、ロシア国営通信は首都ティラスポリにある国家保安省の建物周辺で爆発音が相次いだと報じた。これに対しロシアと交戦中のウクライナ国防省は、複数回の爆発はロシア連邦保安局の自作自演による計画的な挑発行為との見解を示した。
  5月14日、ウクライナ軍参謀本部は、トランスニストリアでは、武装集団が通常の活動モードに移行している一方、同地域に駐留するロシアの作戦部隊は、引き続き厳戒態勢を敷いていると発表した。
政治(「en:Transnistrian Declaration of Independence」を参照)
  沿ドニエストル共和国は大統領制の共和制国家である。大統領は直接選挙で選ばれ、最長で連続2期5年まで務めることができる。現在(2022年5月)の大統領はワジム・クラスノセリスキーである。
  長くイーゴリ・スミルノフによる統治が続いたが、2011年には選挙による政権交代が実現しエフゲニー・シェフチュクが大統領となった。議会や企業グループシェリフ、さらには駐留ロシア軍(約2000人)、ロシア資本の意向も絡まり、一概には独裁体制と言えない政治状況にある。
  沿ドニエストル共和国の議会は一院制である。43名の議員から構成され、任期は5年。選挙は複数政党制で行われる。共和政党「刷新」は、2005年の選挙でイーゴリ・スミルノフの所属する共和国党を破って第一党となり、以降2010年と2015年の選挙でもさらに議席を増やしている。
  選挙が自由で公正であるかどうかについては意見が分かれている。2006年の大統領選挙の際、野党候補のアンドレイ・サフォノフの登録が投票の数日前までなされず、選挙活動がほとんどできなかった。選挙結果が疑わしいとする資料もあり、2001年の選挙では、ある地方でイゴール・スミルノフが103.6%の票を集めたと報告されている。
  モルドバ本土と自由な往来が可能であり、モルドバの中央選挙管理委員会は、沿ドニエストル共和国の住民がモルドバ政府の支配地域に来れば、モルドバの国政選挙への投票が可能であるとの見解を示している。
  2000年の初めに野党のナロドブラスティ党と民衆への力運動が非合法化され、最終的に解散した。
  1940年代から1960年代のソビエト連邦のような政治文化が街中に色濃く残っているが、2代目大統領シェフチュクによる自由化の流れも見られる。軍事、経済をロシアに頼っており、欧米寄りのモルドバに対してロシア寄りの政策を採っている。旧ソ連軍の備蓄した膨大な量の武器を保有しており、国際的な武器密輸疑惑で非難を受けている。
外交
  沿ドニエストル共和国とアブハジアアルツァフ南オセチアは、ソ連崩壊後の「凍結された紛争」地帯である。これら4つの、いずれも国際的にほぼ承認されていない国家は互いに友好な関係を維持しており、2006年6月14日、アブハジアの首都スフミでアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル共和国の大統領が会談し、民主主義と民族の権利のための共同体の設立を発表した。2007年にはアルツァフ共和国ナゴルノ・カラバフ)も参加している。沿ドニエストル共和国は、これらの国際的にはほとんど国家として承認されていない3カ国との相互承認を行っている。
  ロシアは約2000人あるいは約1500人の兵力を駐留させ、天然ガスを無償で供与し、実質的に支援している。
軍事(「沿ドニエストル共和国軍」も参照)
  2007年現在、沿ドニエストル共和国軍と準軍事組織は、約4,500人から約7,500人の兵士により構成されていると見られる。ティラスポリベンデルルィブニツァドゥベサリの4つの自動車化歩兵旅団を主力としている。また陸軍は18輌の戦車、107輌の装甲兵員輸送車、73門の野砲、46の対空施設、174の対戦車兵器を保有している、空軍は、9機のMi-8Tヘリコプター、6機のMi-24ヘリコプター、2機のMi-2ヘリコプターの他、固定翼機としてAn-2An-26Yak-18などを保有している。
  2022年ロシアのウクライナ侵攻後、沿ドニエストル共和国は中立的な状況を維持すると宣言し、ウクライナへの攻撃を支援するという主張を否定した。しかし、3月上旬、アメリカ合衆国上院マルコ・ルビオ議員は、沿ドニエストル共和国による紛争関与は明白な証拠なしに行われる可能性を示唆した。
  4月、ロシアは沿ドニエストルにおいてロシア語を話す人々が抑圧されている証拠があると述べ、軍事介入を示唆した。
ロシア軍駐留問題
  1992年のモルドバと沿ドニエストル共和国の停戦協定により、ロシアの平和維持軍の駐留が認可され、現在1200人のロシア軍が沿ドニエストル共和国に駐留している。沿ドニエストル共和国以外のモルドバ領内にソ連時代から駐留していたロシア軍は、1993年1月までにロシアに完全撤退した。
  1994年10月、モルドバとロシアの間で3年以内のロシア第14親衛諸兵科連合軍の撤退合意が成立したが、ロシア側は議会批准が終了していないとして事実上棚上げとなっていた。
  1995年4月、第14親衛諸兵科連合軍は在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団に編成された。2010年代には2個大隊、1,500人以下の兵力に縮小された。
  1999年、OSCEイスタンブール首脳会議において、2002年末までに沿ドニエストル共和国駐留ロシア軍の兵器弾薬類の完全撤去が義務付けられたが、沿ドニエストル共和国側の抵抗等もあり撤退が進まず、2002年12月のOSCE外相理事会においては撤退期限が2003年末まで延長された。しかし右期限も守られず、それ以降も撤収は遅々として進んでいない。
  2004年12月、モルドバ外務大臣アンドレイ・ストラタンは、第12回OSCE閣僚理事会での演説で、「モルドバの領土におけるロシア軍の存在は、モルドバ当局の政治意思に反し、モルドバ当局によって国家の領土に違法に展開した外国軍の占領と認定され、国際規範や原則に違反している」と述べた。
  2007年の時点で、ロシア側はすでにその義務を履行したと主張。残留している軍隊は1992年の停戦の下で認可された平和維持軍として奉仕しているためイスタンブール協定に違反しておらず、紛争が完全に解決されるまで残ることになる、と説明した。
  2008年11月18日のNATO決議では、ロシアに対し、トランスニストリアから軍事力を撤退するよう促した。
  2009年3月、ロシア大統領ドミートリー・メドヴェージェフ、モルドバ大統領ウラジーミル・ヴォローニン、トランスニストリア大統領イーゴリ・スミルノフによる三者会合が行われ、既存の平和維持活動の安定的な役割に留意しつつ、トランスニストリアで和解が成立した暁には、OSCEの監督下での平和保証活動に移行することが望ましいとする共同宣言が署名された。
  2012年3月に就任したニコラエ・ティモフティ大統領は、モルドバの合意なしに不法にモルドバ領内に駐留しているロシア軍は撤退するべきであるとして、トランスニストリア地域に展開する「平和維持部隊」は国際委任統治下の文民ミッションへ変更させるべきである旨度々発言している。
  モルドバは停戦協定で認可された兵士は500人未満であると考えており、2015年には、モルドバの空港を利用しようとする員数過剰のロシア兵を逮捕、国外追放しはじめた。
  ロシア兵が沿ドニエストル共和国に向かうには、キシナウ国際空港からティラスポリまで陸路で移動する必要がある。モルドバは長年、ロシア軍将校や兵士が空港を経由して沿ドニエストル共和国に向かうことをほぼ認めてきたが、国際平和維持軍であることが明確でない者や、十分な事前通告がない者は、空港使用を拒否することもあった。キシナウ空港は、平和維持軍の職員、将校、兵士の移動の可能性にしか応じない可能性が高い。第14衛兵軍の兵士の通過は違法となる。
  2016年6月27日、沿ドニエストル共和国で新しい法律が施行され、マスメディア、情報通信ネットワーク、インターネットの利用を含め、沿ドニエストル共和国・モルドバ共和国におけるロシア軍の平和維持活動を批判する行為や公の発言、あるいはロシア軍の平和維持活動に対する沿ドニエストル共和国政府によって「偽」とみなされる解釈を提示することを罰することになった。
地理
  モルドバ共和国のドニエストル川東岸からウクライナとの国境までの南北に細長い地域を主な領土としている。なお、川は直線ではなく蛇行しており、ウクライナとの国境は直線でジグザグした部分も多い。
  しかし、全ての領土(実効支配地域)が東岸にあるわけではない。例えば、沿ドニエストル共和国が実効支配しているベンデルはドニエストル川西岸に位置している。一方、東岸にあるコシエリという都市はモルドバ共和国の実効支配下にある。また、中部のドゥボッサールィ地区(モルドバ語名ドゥベサリ)ではモルドバ共和国の実効支配地域が大きく食い込んでおり、分断されているところもある。
  なお、その分断地域(モルドバ共和国実効支配地域)を横切る道路(沿ドニエストル共和国の南北間を結ぶ)は、沿ドニエストル共和国領となっているためモルドバ共和国の飛地が存在する。
国民
  2015年の主要な民族集団はロシア人(34%)、モルドバ人(33%)、ウクライナ人(26.7%)、およびブルガリア人(2.8%)であった。
  ほとんどのトランスニストリア人はモルドバ市民権も持つが、トランスニストリア人の約半数はロシア連邦の国籍を持ち、ウクライナ市民権を有する住民もいる。
  1990年代の経済低迷により移民する人が多く、1989年に546,400人だったこの地域の人口は、2001年には633,600人までに増加した。ただ、年齢構成が高齢傾向にある。2015年の推計人口は475,665で2004年と比べ7万人以上減少した。
経済
  第二次世界大戦後、トランスニストリアは重工業化され、1990年には、モルドバの人口の17%しか占めていないにもかかわらず、モルドバのGDPの40%と電力の90%を担っていたほどであった。ソ連崩壊後、トランスニストリアは「ブレジネフ計画経済」への復帰を望んだが、数年後、市場経済へ向かうことを決定した。
  1990年代後半に行われた大規模な民営化により、現在ではほとんどの企業が民営化されている。
  沿ドニエストル共和国は独自の中央銀行である沿ドニエストル共和国銀行を持ち、自国通貨である沿ドニエストル・ルーブルを発行している。この通貨は自由変動相場制で兌換可能であるが、沿ドニエストル共和国内でしか使用できない。
  沿ドニエストル共和国の経済はしばしば密輸と武器輸出に依存していると言われている。これらの疑惑は共和国政府によって否定されており、ロシアやウクライナ当局からも重視されていない。
マクロ経済
  2004年、沿ドニエストル共和国は12億米ドルの債務(3分の2はロシアに対するもの)を抱えており、一人当たりでは(沿ドニエストル共和国を除いた)モルドバの約6倍であった。2007年3月には天然ガス獲得のためのガスプロムへの債務が13億米ドルに増加した。
  2007年3月22日、ガスプロムは沿ドニエストル共和国に対するガス債権を、共和国最大企業であるモルドバ鉄工所を経営するロシアの実業家アリッシャー・ウスマノフに売却した。沿ドニエストル共和国大統領イゴール・スミルノフは、「沿ドニエストル共和国にはガスプロムに対する法的債務がない」ため、ガス債務を支払わないと発表した。
  2007年11月、沿ドニエストル共和国の公的部門の債務総額は最大16億4000万米ドルであった。
  2007年の沿ドニエストル共和国最高評議会の当時の議長であるエフゲニー・シェフチュクのインタビューによると、沿ドニエストル共和国は困難な経済状況にある。
  2007年に30%の増税が行われたにもかかわらず、年金基金は依然として資金不足であり、緊急措置が必要とされた。しかしシェヴチュクは、危機といっても年金と給与の支払いが3ヶ月遅れることを意味するので、状況は絶望的ではなく、危機とは見なされないと述べた。
  共和国政府によると、2007年のGDPは6789億沿ドニエストル・ルーブル(約7億9900万米ドル)、一人当たりGDPは約1500米ドルであった。
  2007年のGDPは11.1%増加し、インフレ率は19.3%で、一人当たりのGDPは2140ドルとなり、モルドバの一人当たりのGDP2040ドルより高い。2007年の共和国政府予算は2億4600万ドルで約1億ドルの推定赤字であり、政府は民営化による収入でカバーしようとした。
  2008年の予算は3億3100万ドルで約80百万の推定赤字であった。
対外貿易
  貿易は約80カ国との間で行われている。
  2000年代初頭、輸出の50%以上が独立国家共同体(CIS)、主にロシア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ(沿ドニエストル当局が外国とみなす)へも渡った。主な非CIS市場はイタリア、エジプト、ギリシャ、ルーマニア、ドイツだった。CISは輸入の60%以上を占め、EUのシェアは約23%だった。主な輸入品は非貴金属、食料品、電気であった。
  沿ドニエストル共和国は輸入超過が続いている。2012年、輸入額が輸出額の2.5倍であった。この差は、特に農業において顕著で、2003年に7000万米ドルだった食料輸入は、2011年には1億9850万米ドルにまで増加した。食料輸入の急増は、この国の農業が非効率であることの証左でもある。
  2014年にモルドバがEUと連合協定を締結した後、モルドバの一部と主張される沿ドニエストル共和国は、EUへの無関税輸出を享受した。その結果、2015年には沿ドニエストル共和国の1億8900万米ドルの輸出のうち27%がEU向けとなり、ロシア向けの輸出は7.7%に減少した。このEU市場へのシフトは、2016年にも拡大し続けた。  2020年、沿ドニエストル共和国税関は6億3310万米ドルの輸出と10億5270万米ドルの輸入を報告した。
トランスニストリア国境関税問題
  2005年のモルドバとウクライナの合意により、沿ドニエストル共和国企業は、モルドバの税関当局に登録すれば、輸出品にEUの貿易優遇措置を受けられるという新しい関税制度が導入された。この合意はモルドバ・ウクライナ国境監視ミッション(EUBAM)が実施された後に履行された。
  2006年3月3日、ウクライナは沿ドニエストル共和国との国境に新しい関税規則を導入した。ウクライナは2005年12月にウクライナとモルドバの間で合意された共同関税議定書の実施の一環として、モルドバの税関で処理された書類のみを用いて沿ドニエストル共和国から商品を輸入することを宣言した。
  米国、欧州連合、OSCEはウクライナのこの動きを承認したが、沿ドニエストル共和国とロシアは、この行為を「経済封鎖」と呼んだ。
  3月4日、沿ドニエストル共和国はモルドバとウクライナの輸送を沿ドニエストル共和国の国境でブロックすることでこれに対抗した。沿ドニエストル共和国のブロックは2週間後に解除された。しかし、モルドバ・ウクライナのブロックは依然として残っており、双方の間の地位協定交渉の進展を妨げている。 規制後の数ヶ月間、沿ドニエストル共和国からの輸出は激減した。沿ドニエストル共和国はこの地域における「人道的大惨事」を宣言し、モルドバはこの宣言を「意図的な誤報」と呼んだ。
経済セクター
  重工業(鉄鋼生産、セメント)、電力生産、製造業(繊維工業)が主要産業で、これらは合わせて工業生産高全体の約80%を占めている。
  リブニツァにあるモルドバ製鉄所(ロシアのメタロインベスト持ち株会社の一部)は、この国の歳入の約60%を占めている
  繊維産業の最大企業はティロテックスで、ヨーロッパ第2位の繊維会社だと主張している。
  モルドバで消費される電力の約8割が沿ドニエストル共和国で発電されている。同国最大の電力会社モルダフスカヤGRESはロシアの企業Inter RAOの子会社であり、南部の都市ドネストロフスククチュルガン発電所操業している。
  ロシアは天然ガスを実質無償で供給し、病院・学校の整備や年金支給を通じても支援している。
  銀行部門は、ガスプロムバンクを含む8つの商業銀行で構成されている。
  コングロマリットであるシェリフは、この国のビジネスのほぼ全ての分野に展開し、地元の政治やスポーツにも大きく関わるようになった。スーパーマーケット、ガソリンスタンド、携帯電話会社、テレビ局、出版社、建設会社、広告代理店、酒類生産企業KVINT、サッカークラブFCシェリフ・ティラスポリとそのホームスタジアムスポルティヴヌィイ・コムプレクス・シェリフなど、多方面にわたる。KVINTは、ブランデー、ワイン、ウォッカを生産し、各国へ輸出も行っている。
農業
  反面で農業はモルドバと比べると生産量に乏しいものの、温室栽培で青果物を生産していることから品質が比較的良いものが収穫出来ると言われている。
  2016年にロシアは自国空軍の戦闘機をトルコによって撃墜された事件への報復としてトルコからの物品の輸入を禁止したが、その代償として輸入の主要品物となっていた青果物を失うこととなった。これを受け、沿ドニエストルは代替の青果供給地として名乗りを上げており、特にトマトの供給に対しては積極的にアピールをしている[








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