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モンテネグロの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


モンテネグロの歴史中世初頭にはじまる。はじまりは、スラヴ人が現在モンテネグロと呼んでいるローマ帝国属州ダルマチアの一部に到来してから後のことである。
歴史
  現在のモンテネグロの地には、古くイリュリア人が住んでいた。6世紀後半ごろにバルカン半島にスラブ人が住むようになり、10世紀までにドゥクリャ公国という半独立の国を形成した。1077年ローマ教皇グレゴリウス7世はドゥクリャ公国を独立国として認識し、ステファン・ヴォイスラヴの建てたヴォイスラヴ王朝の貴族であるミハイロ王をドゥクリャ王として承認した。だが、ドゥクリャ王国は東ローマ帝国にも貢ぎ物を送った。後セルビア王国大公と呼ばれるステファン・ネマニャが現れ、ドゥクリャを支配した。
   ゼタ(Zeta)独立公国(近代初期のモンテネグロ国により近い国)は1360年に独立主権を行使した。その後、バルシチ王朝(1360年-1421年)そしてツルノイェヴィチ王朝(1421年-1499年)がゼタ公国を統治した。15世紀からオスマン帝国が南および東から侵攻したが、ゼタ全域を征服することはできなかった。
  1516年ジュラージュ・ツルノイェヴィチ英語版公が、モンテネグロをツェティニェ主教公による神政政治国家にしようとした大主教に賛同し退位した。主教公の職は1697年からペトロヴィチ=ニェゴシュ家が保持した。主教公は妻帯できないので、主教公の位はおじから甥へと継承された。こうして、オスマン帝国から独立した国家として、モンテネグロ主教領ツルナ・ゴーラ府主教領1696年 - 1852年)が成立した。ペータル2世は恐らく最も影響力を持つ主教公であろう。彼は19世紀前半までそこを支配した。1851年に主教公となったダニーロ1世1852年に結婚してモンテネグロ公(クニャージ)と自称し、領地を世俗的な公国へと変えた(モンテネグロ公国)。しかし、これにより宗主国のオスマン帝国との間に不和が生じ、1852年末には軍事衝突を起こした。この事件は後にウィーン体制構成国の利権と複雑に絡み合いクリミア戦争へと発展することになった。
  1860年にダニーロ1世が暗殺されると、モンテネグロ人はニコラ1世を推戴した。1861年から 1862年までニコラはオスマン帝国と戦ったが戦果は挙がらなかった。しかし1876年、ニコラはセルビア・ロシア帝国とともに先祖以来の敵を破り、ベルリン会議によって1900平方マイルの領土を加え、アンティヴァリの港とモンテネグロの全ての海岸に全ての国の軍艦が集まった。しかし1876年にはオーストリア=ハンガリー帝国が制海権と沿岸の支配権を握った。
   ニコラ1世の治世(1860年1918年)には領土が倍増して国際的に独立が認められ(1878年)、最初の憲法も制定されて(1905年)、君主の格式も「公」から「王」に昇格した(モンテネグロ王国)。そして バルカン戦争 (1913年)においても領土を獲得した。モンテネグロは1万の兵を投じてオスマン帝国アルバニアのエーサド・パシャの軍と戦いシュコダルの町を解放した。しかし列強の干渉で、シュコダルは新たに独立したアルバニア公国の領土になった。
世界大戦
   モンテネグロ王国モンテネグロは第一次世界大戦でいくらかの被害を受けた。オーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア侵攻のとき、モンテネグロは中央同盟軍に対して宣戦する時機を逸したが、5万の陸軍を一度に動かすことができた。オーストリアはモンテネグロとセルビアの合流を阻止するために別動部隊を派遣したが撃退され、堅固に要塞化されたロフテン山の頂から、モンテネグロ軍がカッテロ砲の砲撃を敵に対して行った。1914年8月10日、モンテネグロ歩兵軍はオーストリア駐屯軍に猛撃を加えたが優勢には回れなかった。オーストリア軍は再度セルビアに侵攻したが、彼らは防衛に成功してボスニアサラエヴォまで到達した。しかし、三度目の侵攻でモンテネグロ陸軍は兵力の差に屈し、オーストリア軍はセルビアをとうとう抜いた。モンテネグロも1916年1月の侵攻をうけ同盟軍に占領された。
  ニコラ王はイタリアフランスに飛んだ。フランス政府は作戦指揮本部をボルドーに移転していた。そして、セルビア軍はモンテネグロをオーストリアから解放した。新たに召集されたポドゴリツァの国民会議はセルビア軍に管理され、平和と敵との分離を求める王を非難した。そしてニコラ王は廃位され、帰国を禁じられた。セルビアは1918年11月29日にモンテネグロを併合、モンテネグロはセルビア、スロベニアクロアチアに取り込まれ、後にユーゴスラビア王国を形成することとなる1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。
  戦間期にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世がユーゴスラビア政府を壟断していた。だが、モンテネグロ王ニコラ1世の孫がモンテネグロの再独立のために国外で奔走した。
   第二次世界大戦中にユーゴスラビアは枢軸軍の攻撃を受け、解体された(ユーゴスラビア侵攻)。モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、傀儡国家モンテネグロ独立国it)が成立したが、イタリアの占領に抵抗するパルチザンが全土で蜂起した。1944年、ヨシップ・チトーパルチザンが勝利し、ユーゴスラビアから枢軸軍は撤退した。ユーゴスラビア共産党は解放のために戦ったモンテネグロ人の多数派の要求をいれ、モンテネグロ人国家はセルビアや他の海岸部と平等にあつかわれることになった。このことでモンテネグロに於ける社会主義政党の支持が上がった。モンテネグロはユーゴスラビアの6つの国の一つとして再編成されモンテネグロ人民共和国となった。モンテネグロは連邦からファンドを発展途上国として供与されたため経済が改善、旅行者の拠点となったが、連邦内では立ち遅れた箇所であり、なおかつ人口の少ない地域であったために1980年代には経済危機に陥っている。
ユーゴスラビア崩壊後
   1980年代からの冷戦構造の崩壊と1991年から1992年のユーゴスラビア共産党の崩壊と複数政党制の導入のため、同じく連邦を形成していたスロベニアとクロアチアは1991年に分離独立を宣言[1]、80年代終わりの短期間で反政府的な若い指導者がモンテネグロに現れた。
  ミロ・ジュカノヴィッチモミール・ブラトヴィッチそしてスベトザル・マロヴィッチの3人が実質的に共和国を運営した。彼らは全員、いわゆる「反官僚主義革命」の間に権力を一掃し、スロボダン・ミロシェヴィッチに近づいた若い党員によって、ユーゴスラビア共産党内の幾つかの党運営組織を結成した。3人はみな表面上は共産主義者に献身的であったが、変化の時代に古いものに固執する危険性を理解する融通性も持っていた。複数政党制に代わったとき、彼らはすばやく共産党モンテネグロ支部をモンテネグロ民主社会党(DPS)に改名した。
  旧共産党の地盤相続により、モンテネグロ民主社会党は対抗勢力とはかなりの差をつけ、議会選挙、大統領選挙に圧倒的な勝利を収めた。この政党はモンテネグロの政権を2006年現在も(連立政権であるが)担っており、政権は磐石である。
  1990年代初め、モンテネグロの指導者はミロシェヴィッチの戦争(ユーゴスラビア紛争)にかなりの助力をした。モンテネグロ予備軍はドゥブロヴニク前線で戦った。そこはミロ・ジュガノヴィッチ首相がよく訪問したところである。
  1992年の4月、住民投票の結果[# 1]、ブラトヴィッチ大統領とジュガノヴィッチ首相のモンテネグロと、ミロシェヴィッチ政権下のセルビアが、「ユーゴスラビア連邦共和国」(FRJ、通称・新ユーゴ)として合同することに合意したユーゴスラビア社会主義連邦共和国から新しく独立した国々を除く、連邦に留まったセルビアとモンテネグロによって新しい連邦は構成されることになった。しかし、まもなく、ボスニアクロアチアでの紛争で行った所行ゆえに、国際連合はFRJに対する経済制裁を課した。これは国内の生活の様々な局面に影響し、モンテネグロも先の紛争で評判が悪化していたセルビアとの距離を置き始めた。
   アドリア海に通じており、かつシュコダル湖アルバニアとの間の水運を有しているといった地理的位置の有利さゆえ、モンテネグロは密輸活動の結節点になった。モンテネグロの工業生産は全体的に停滞し、主要な経済活動は消費財の密輸になった。特に、ガソリンタバコが多く、どちらも価格はうなぎのぼりであった。政府は非合法活動に目をつぶるどころか、ほとんど自らも参加した。密輸によっていかがわしい人々の中から億万長者が出た。それには高級官僚も含まれていた。ミロ・ジュカノヴィッチは、手広く密輸に手を染め、イタリアのさまざまなマフィアの成員に、モンテネグロでの安全圏を提供したことに対して、多くのイタリアの裁判に直面し続けた。マフィアたちは既に密輸の分け前の連鎖に参加していたのである。
  1997年の大統領選挙ではこれらが議論の的となりミロ・ジュガノヴィッチが2回に渡る投票の末、僅差で勝利、モミル・ブラトヴィッチ政権は終焉した。以前の密接な同盟者は敵となり、1997年秋の数ヶ月間でモンテネグロには戦争のような雰囲気がかもしだされていた。そしてさらに1998年、新ユーゴスラビア連邦大統領ミロシェビッチはブラトヴィッチを連邦首相に任命したが、ブラトヴィッチはジュガノヴィッチに敵対的行動を取り、先の選挙では憲法違反が存在したと主張した[3]。しかしそれは、モンテネグロ社会人民党の分裂を招いた。ブラトヴィッチと彼の支持者たちは社会人民党を離脱してミロシェヴィッチに忠実でありつつけたが、一方のジュガノヴィッチはセルビアとは距離をとり始め、事実上連邦制は機能しなくなっていた[3]。この距離のため1999年春のコソボ紛争において、北大西洋条約機構がセルビアに激しい爆撃を加えた時、モンテネグロの被害は割に軽微だったものの、数万人のアルバニア避難民が押し寄せる事となった
  
。 ジュガノヴィッチはこの政策論争で明らかな勝利者となった。ブラトヴィッチは1997年以降もはや政府を掌握できず、2001年には政界から引退した。ゾラン・ジンジッチ率いる新セルビア政権のもと、ミロシェヴィッチはハーグ国際司法裁判所に送られた。
連邦再編から再独立へ
モンテネグロ共和国(2006年)
  2003年には、議論と外部の支援ののち、ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア・モンテネグロに改名し、公式に緩やかな国家連合に再編された。この再編では、最低3年の統合期間を経れば独立が容認されることになっており、モンテネグロ人のいっそうの自立心を成長させるものであった。
  ジュカノヴィッチが大統領に就任したころから、分離独立の示唆が行われて来ていたが、急激な独立運動は行われず、モンテネグロ政府も連邦脱退には慎重の姿勢を取ってきた。しかし、2005年にセルビア外相が分離独立容認の発言をしたことなどから、実質的に分離独立における障害はなくなった。すでに通貨は独自にユーロを導入しており、失業率もセルビアの30パーセント以上に対してモンテネグロは20パーセント、インフレ率も抑えられており、経済的にも独立を阻止できる材料はセルビア側に無かった。
   2006年にはモンテネグロの独立を問う住民投票が計画された。独立推進派は「欧州連合(EU)早期加盟は独立が近道」と言うスローガンを掲げ、反対派は「独立しても早期加盟は不可能、市場の縮小で景気が悪化する」として阻止を図った。一方、独立運動によって地域が再び不安定化することを恐れたEUは、通常ならば過半数で独立達成のところを、55パーセント以上という条件を突きつけた。しかし、5月21日に実施された国民投票では、セルビア人のほとんどが反対票を投じたが、55.4パーセントという僅差ながらも独立賛成票が上回り、独立は承認された。
   6月3日夜、共和国議会によって独立宣言が採択され、ユーゴスラビアに併合された1918年以来、実に88年ぶりに独立を回復した。かつてバルカン半島に勢力を築いたユーゴスラビア連邦は、これで完全に解体された。
  独立に際し、モンテネグロと日本の戦争状態が日露戦争以降続いているかについて、日本の国会で採り上げられた。2006年2月、日本政府は1904年のモンテネグロによる宣戦布告に関する文書を見つけられないこと、ポーツマスでの講和会議にモンテネグロは参加していないことを回答していた。実際には日露戦争時にモンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していたが、日本とロシアの講和会議にモンテネグロが含まれていなかったため、書類上は戦争状態が続いていることになっていた。
  もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。しかしながら、独立直後の2006年6月、日本政府はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争状態の終了を宣言する文書を届けた。これにより、101年に渡る両国の「戦争状態」が終わった。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)


モンテネグロ
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1 面積 13,812平方キロメートル(福島県とほぼ同じ)
2 人口 62万人(2017,世銀統計)
3 首都 ポドゴリツァ(人口約15万人,2011年国勢調査)
4 民族 モンテネグロ人(45%),セルビア人(29%),ボシュニャク(9%),アルバニア人(5%)等(2011年国勢調査)
5 言語 モンテネグロ語(公用語),セルビア語等
6 宗教 キリスト教(正教),イスラム教等

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家首都ポドゴリツァ(旧憲法ではツェティニェユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国(1992年-2003年)およびセルビア・モンテネグロ(2003年-2006年)を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。
  南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアドゥブロヴニクボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。
国名
  公用語のモンテネグロ語ではツルナ・ゴーラと呼ぶ。モンテネグロMontenegro [ˌmonteˈneɡro])とはヴェネト語による名称で、いずれも「黒い山」を意味する。かつて黒山国とも当てられ、中国語では黒山(黑山、ヘイシャン)と訳する。- 英語表記は、Montenegro
  日本語での表記は モンテネグロ 。2007年10月の新憲法制定に伴い、それまでのモンテネグロ共和国から共和国が外された。
歴史(詳細は「モンテネグロの歴史」を参照)
  言語的、文化的にはモンテネグロ人セルビア人の違いはほとんどない。宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。
  ドユラード・ツルノイェヴィッチ公が大主教に賛同して退位し、1516年ツェティニェ主教公による神政政治が確立した(モンテネグロ司教領(1696-1852))。主教公の職は1697年からペトロヴィチ=ニェゴシュ家が保持した。主教公は、その神政政治という性格から叔父から甥へと継承され、オスマン帝国スルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。主教公は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになっていた。
  1878年露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。公国および王国の初代君主ニコラ1世で、1918年までその地位にあった。北をオーストリア・ハンガリー帝国、南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。日露戦争では1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、1918年のセルビアによる併合後も、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。
  第一次世界大戦では、セルビアに対していくらかの援助を行った。このためモンテネグロはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、ニコラ1世はフランスへと亡命した。その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、1918年に成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。
  第二次世界大戦でユーゴスラビアはイタリアとドイツによる侵攻を受け、分割された(ユーゴスラビア侵攻)。モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、傀儡国家モンテネグロ独立国イタリア語版の統治下に置かれた。しかしパルチザンの抵抗の結果、1944年に枢軸軍は撤退し、モンテネグロは再びユーゴスラビアに復帰した。建設されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ人民共和国、1963年からはモンテネグロ社会主義共和国として存続した。
  1991年から始まったユーゴスラビア紛争においてもモンテネグロ共和国セルビアと歩調を合わせており、最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチ大統領に就任した頃から、分離独立の示唆が行われて来ていた。1999年コソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。コソボ紛争後、通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。
  これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。こうした欧州連合の努力により、2003年2月には3年後の2006年以降に分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。新国家はセルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対してセルビアとの間に最大限の平等を保障していたが、それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。このため連邦国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。
  2006年5月21日に、セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。欧州連合は、セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。一方で独立支持派は「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。
  2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。これにより国際的にモンテネグロの独立が認められた。両国の独立により6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した。6月16日に日本が国家承認[5]6月28日国際連合へ加盟した。
  日本との関係では、独立に際して、日露戦争における戦争状態が解消していない事が問題となる可能性が指摘された。これについて日本政府は、2006年に提出された衆議院議員鈴木宗男の質問主意書に対する答弁書において「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」と回答している。2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中あき子外務大臣政務官を総理特使として派遣した。UPI通信は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道したが[7]、日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない[8]。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)
  2007年10月に新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。2008年には独立後初の大統領選挙でブヤノビッチ大統領が再選され、2010年には独立以前から首相を務めてきたミロ・ジュカノビッチが退陣、イゴル・ルクシッチが首相となった。2012年には欧州連合への加盟交渉が開始され、また首相にジュカノビッチが返り咲いている。


2020.3.11-dmenuニュース-http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sankei/politics/sankei-plt2003110041?fm=topics
<独自>硫黄島での日米合同慰霊式中止 新型コロナウイルス感染拡大で

先の大戦末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で毎年3月に開かれている日米合同の慰霊式が、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で今年は取りやめとなったことが11日、分かった。関係者が明らかにした。戦後75年の節目となる今年は、河野太郎防衛相ら日米両政府要人と自衛隊、米軍関係者、戦没者遺族らが出席し、28日に開催を予定していた。
  合同慰霊式は日米の硫黄島協会の主催で平成7年から開かれている。東日本大震災が発生した23年に開催を取りやめたことがある。
  戦略上の重要拠点だった硫黄島では、昭和20年2月19日に上陸を開始した米軍に対し旧日本軍は地下壕(ごう)を構築して持久戦を展開。激戦は36日間に及び、戦没者は日米で計約2万9千人。日本側の約2万1900人のうち現在も1万1千柱を超える遺骨が未収容となっている。


2020.2.18-diamond on line-https://diamond.jp/articles/-/229053
新型肺炎が及ぼす世界経済への悪影響はSARSよりも深刻な理由
世界経済に重大な影響を及ぼす
新型コロナウイルスによる混乱

真壁昭夫:法政大学大学院教授
(1)
  中国で発生した新型コロナウイルスによる混乱は、中国だけではなくわが国をはじめ世界経済に重大な影響を及ぼしつつある。すでに中国政府は感染の拡大に厳戒体制を敷いている。春節明けの首都北京では、中心街を歩く人の姿がほとんど見られないという。共産党政権は企業に感染対策の徹底を求め、中国の経済活動は通常のレベルにはほど遠い。今後も、経済活動は正常化するためにはかなりに時間を要するとみられる。
   1日当たりの感染者数の増加ペースがいく分か和らいだことや、中国の専門家が「4月に肺炎が終息する可能性がある」との見解を示したこともあり、一部の市場参加者は先行きを楽観しつつあるようだが、これからの展開を過小評価することは適切ではない。
  新型肺炎が、世界経済の“ヒト・モノ・カネ”の動きに負の影響を与えつつあることは間違いない。中国への依存度の高い韓国経済などにはかなり大きな衝撃となるはずだ。また、来訪客の減少による観光や製造業を中心に、日本への影響も少しずつ顕在化している。
   経済評論家の中には、今回の新型肺炎とSARS(サーズ、重症急性呼吸器症候群)を比較する見方があるが、当時の中国経済の状況と現在ではかなり状況が異なることを頭に入れておく必要がある。2003年当時、中国経済はまだ上昇過程にあった。一方、現在、中国経済は減速傾向が明確化している。しかも、中国経済の世界経済に占める割合は4%から16%に上昇している。それだけ中国経済の影響力は高まっている。
(2)
今後、中国では企業の活動が停滞気味に推移し、成長率の低下や過剰な生産能力の増大から債務問題(灰色のサイ)が深刻化する恐れがある。さらに、中国では消費者物価が上昇している。新型肺炎の感染拡大により中国経済の不安定性は一段と高まり得る。米国や欧州各国でも先行きを警戒する経済の専門家が増えている。新型肺炎が世界経済に与える影響は過小評価できない。
新型肺炎が韓国など世界経済に与える影響
 新型肺炎の感染者の増大を受け、消費財の輸出やサプライチェーンの重要拠点となってきた中国では、経済活動に混乱が広がっている。これを受け、世界各国の企業に負の影響が波及し始めた。
   その一つに、中国の半導体需要に依存してきた韓国が挙げられる。新型肺炎は、韓国の半導体業界の業績悪化の一因となり、景気の下方リスクは高まりやすくなっている。昨年から各国で5G通信サービスが開始され、新型のスマホやICチップへの需要が高まるとの期待が膨らんだ。それは、中国経済に依存してきた韓国などにとって経済の安定化を目指す重要な要素の一つだった。
   しかし、新型肺炎が、世界のIT業界の活動に急ブレーキをかけている。アップル製品の組み立てを行ってきた台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業や和碩聯合科技(ペガトロン)の工場では、肺炎の影響から全面再開のめどが立っていないようだ。
   事態はかなり深刻と考えたほうがいいだろう。中国の半導体需要は、世界全体の50%程度を占める。中国での生産再開に時間がかかると、サムスン電子を筆頭とする韓国の半導体産業は需要だけでなく資材、資金調達、中国以外の国への生産拠点の移転など、かなりの影響が及ぶと考えられる。
   足元、韓国の半導体業界は不安定な収益状況から脱し切れていない。昨年10~12月期、サムスン電子の業績には底入れの兆しが見られた。一方、SKハイニックスは前年同期比で営業利益が95%減だった。韓国半導体業界は米中との競争にも対応しなければならない。
   新型肺炎の感染による中国経済の減速リスクに韓国が耐えられるか否か先行き不透明感は高まっている。生産・販売の両面で打撃を受け、資金繰りひっ迫に直面する韓国の中小企業も出始めているようだ。さらに、武官が封鎖されたのち、韓国の航空業界では中国便が70%も減少した。
   新型肺炎は、日本など主要国にも無視できないリスク要因である。日本でも観光や自動車の生産に影響が現れている。日産自動車は九州の工場の稼働を一時停止するようだ。中国の操業再開を慎重に考えるわが国の企業も多く、業績への影響は軽視できない。
(3)
新型肺炎と “灰色のサイ”のリスク
 新型肺炎の感染が拡大するに伴い、中国では経済の先行き懸念が高まり、企業の資金繰りにもかなりの影響が出ているとみられる。また、株式、不動産などの資産価格への影響も懸念され、金融市場の安定感にも変化が現れつつあるようだ。その一つとして、“灰色のサイ”と呼ばれる債務問題への懸念がある。
   春節の連休明け以降、中国政府は感染対策の徹底を各企業に求め、生産ラインの稼働が遅れている。これは、中国にとって痛手だ。中国では過剰生産能力が顕在化している。景気の減速も重なり、企業や地方政府の債務は膨張している。債務のリスクを抑えるには、とにかく生産を続け、企業収益を確保しなければならない。それが難しくなると信用リスクは上昇するだろう。
   信用不安などを食い止めるために、中国政府はかなり強力に資産価格を支えようとしているとみられる。春節の連休明けとともに、中国の本土の株式は大きく下げて取引が再開された。その後、中国本土株は徐々に持ち直している。チャートを見ると、時折、急速に株価が一本調子で上昇するなど特異な動きが目立つ。この動きは、一部の投資家に先行きへの安ど感を与えているだろう。
   この動きに関して、市場参加者の間では、“国家隊”と呼ばれる公的資金などを用いた株価の下支え措置が影響しているとの見方が多い。当局が大手投信会社に株を売らないよう要請したとも報じられている。共産党政権は、株価安定に神経をとがらせているといえる。
   中国の株式市場における個人投資家の存在感は大きい。2016年、上海取引所の全取引に占める個人の割合は約86%だった。新型肺炎の感染拡大から生産活動をはじめ中国経済に下押し圧力がかかれば、信用不安などから株を売る人が増えるだろう。それを受け、“売るから下がる、下がるから売る” という負の連鎖が起き、売り圧力が不動産にも波及する可能性がある。
   不動産バブルの崩壊や景気減速への懸念がさらに高まると、資金を海外に持ち出そうとする人が急増するだろう。そうしたリスクを抑えるために、中国人民銀行は銀行に対する特別融資を行っている。見方を変えれば、当局は金融システムと資産価格の安定を支えることを通して、灰色のサイ問題の懸念封じ込めに必死とみられる。
(4)
先行き懸念 一段と高まる世界経済
 今後の展開を考えた時、新型肺炎の影響から、中国を中心に世界経済の減速懸念は徐々に高まる可能性がある。中国では生産の混乱に加え、消費者物価指数の上昇も顕著だ。1月、中国の消費者物価指数は前年同月から5.4%上昇した。豚肉価格の高騰に加え、春節を迎えて消費が増加する中で新型肺炎の防疫が物流を混乱させたことなどが響いた。
   中国では、景気の減速や企業業績の悪化から雇用・所得環境は不安定化しており、新車販売台数は減少傾向にある。その中で物価が上昇すれば、中国の個人所費は一段と落ち込むだろう。それは、中国経済に依存してきた東南アジアや南米の新興国、さらにはオーストラリアなどの資源国の景気減速の一因となり得る。また、韓国と並んで中国の需要を重視してきたドイツにも自動車業界を中心に逆風が吹くだろう。
   新型肺炎が米国経済に与える影響も軽視できない。その一つとして、近年の米国経済を支えてきたIT先端企業のビジネスモデルの不安定性は高まりつつあるとみられる。すでに米中の貿易摩擦などにより世界のサプライチェーンが混乱した。新型肺炎はそれに拍車をかけているとみるべきだろう。その結果、自らは先端のテクノロジー開発に注力し、中国にあるホンハイの工場で生産(組み立て)を行うことで高付加価値の製品を世界に供給してきたアップルの成長期待は低下する恐れがある。
   また、建設機械やエネルギー需要などでも、米国企業の収益下振れリスクは増大しつつあると考えられる。中国の物流が停滞したり、消費がさらに落ち込んだりすることによって、農産品を中心に中国の対米輸入が伸び悩み、トランプ大統領が重視する対中貿易赤字の削減が思うように進まなくなることもあるだろう。それは、米国の対中圧力の増大につながり、世界経済を下押ししかねない。
   足元の世界経済は米国の個人消費に支えられ、どうにか安定感を保っているというべき状況にある。その中で米国の企業業績の懸念が高まれば、徐々に労働市場の改善は鈍化し、個人消費は鈍化する可能性がある。新型肺炎は世界各国の先行きの景気に関する不安を高める要因の一つと考えるべきだ。
 (法政大学大学院教授 真壁昭夫)


2020.2.15-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://special.sankei.com/a/international/article/20200215/0004.html
中国からの入国制限が世界で拡大 中国は見直し求め外交攻勢

【北京=三塚聖平】肺炎を引き起こす新型コロナウイルス蔓延(まんえん)で、感染源である中国からの入国を制限する動きが広がっている。すでに130以上の国・地域が、入国拒否やビザ発給停止など、何らかの対応措置を取った。人的往来で制限が続けば中国経済へのマイナス影響も避けられないとして、習近平指導部は各国の首脳との電話会談など外交攻勢を強め、制限の見直しを働きかけている。
   中国国家移民管理局の発表では、新型肺炎を受けて何らかの入国制限措置をとっている国・地域は14日現在で130に達した。米国やオーストラリアなどは、14日以内に中国に滞在した外国人の入国も認めないなど、厳しい措置をとる。中国と陸続きのロシアやモンゴル、北朝鮮は、国境閉鎖などの対応をとった。


2020.2.9-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200209/k10012279051000.html
タイ 現役兵士の銃乱射で26人死亡 衝撃広がる 動機の詳細不明

タイ東北部で陸軍兵士の男が銃を乱射しショッピングモールに立てこもった事件で、これまでに26人が死亡、50人以上がけがをしました。男は治安部隊によって射殺されましたが、現役の陸軍兵士による大規模な銃の乱射事件という異例の事態にタイでは衝撃が広がっています。
  タイ東北部の都市ナコンラチャシマで現地時間の8日午後3時半ごろ、タイ陸軍に所属する兵士の男が上官の住宅を襲撃し上官らを射殺したあと、ショッピングモールとその周辺で銃を乱射しました。
  男はその後、週末でにぎわっていたショッピングモールの建物の中でおよそ15時間にわたって立てこもりましたが、9日朝治安部隊との銃撃戦の末、射殺されました。
  タイのプラユット首相は9日午後、現地で会見を開き、これまでに26人が死亡、57人がけがをしたと発表しました。
  一方、男の動機についてプラユット首相は「不動産の売買をめぐって金銭トラブルを抱えていたようだ」と明かしたものの、なぜ直接関係のない大勢の人々に向けて銃を乱射したのか、詳しいことはわかっていません。
  現役の兵士による大規模な銃の乱射事件という異例の事態にタイ国内では衝撃が広がっていて、警察や軍は関係者から話を聴くなどして、事件のいきさつや男の動機について詳しく調べることにしています。
映像には激しい銃撃音も
ショッピングモールに取り残された人たちの救出にあたった治安部隊が撮影した映像には、腹ばいになった隊員たちが吹き抜け部分を利用して銃を構える様子などが捉えられています。
  治安部隊によりますと、抵抗する男との間で銃撃戦になったということで、映像には連続した激しい銃撃音も記録されています。
  男は地元の基地に所属する現役の兵士で、基地から機関銃など6丁の銃と大量の銃弾を盗み出して犯行に及んでおり、治安部隊にとって非常に危険な状況だったことがわかります。


2020.2.6-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://special.sankei.com/a/international/article/20200206/0001.html
カンボジアに中国の「植民地」 乱開発…地元民に不満蓄積 森浩

 中国が世界各地で巨大経済圏構想「一帯一路」などを通じて影響力を増す中、「中国の事実上の植民地」(シンガポール紙ストレーツ・タイムズ)とされる都市がカンボジアにある。人口の半分が中国人とされ、カジノなど街には中国語の看板があふれる。チャイナ・マネーは雇用を生み出したが、ひずみも顕在化しつつある。新型コロナウイルスへの対応でカンボジアが中国を支持し、両国の密接ぶりが浮き彫りになる中、中国に翻弄される現状を探った。

  カンボジア南部シアヌークビル。首都プノンペンから車で5時間、飛行機で約40分の距離にある港町だ。中心部「金のライオン像広場」に到着し、周囲を見渡すと、中国語の看板とカジノのネオンが目に入った。中国食材を専門に取り扱うスーパーもあり、道端では中国人とおぼしき男性が、中国の国民的缶飲料である「王老吉」を飲んでいた。街の雰囲気は中国の地方都市だ。


2020.1.15-Yahoo!!Japanニュース(産経新聞)-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200115-00000582-san-asia
カンボジア野党指導者初公判 首相就任35年フン・セン氏、弾圧強化に懸念の声

【プノンペン=森浩】カンボジアで、政府転覆を図ったとして国家反逆罪に問われた旧最大野党「救国党」創設者、ケム・ソカ氏の初公判が15日、首都プノンペンの裁判所で開かれた。首相在任35年を迎えたフン・セン氏は中国の後ろ盾を背景に独裁色を強め、旧野党陣営の弾圧を強化。自身は「あと10年、首相にとどまる」と宣言しており、旧野党陣営は弾圧継続への懸念を強めている。
  ケム・ソカ氏は救国党党首だった2017年9月、外国政府と協力して政権の転覆を画策したとして逮捕され、自宅軟禁下に置かれていた。ケム・ソカ氏逮捕で救国党は解散を余儀なくされ、18年7月の下院選では与党・人民党が全125議席を独占した。
  この日の公判では証拠の開示などが行われ、判決までには約3カ月かかる見通し。ケム・ソカ氏は15日、自身のフェイスブックで「私の活動は人権と民主主義に基づき、平和的に行われていた」とし、起訴内容を否認する意向を示した。
  欧米などの国際社会は政権による野党弾圧に批判を強めており、欧州連合(EU)は武器以外の品目を無関税でEUに輸出できる協定の見直しを検討している。EUは2月にも見直しについて判断を示す見通しで、公判の行方を注視している。
  フン・セン氏は、1985年1月に当時のプノンペン政権閣僚評議会議長(首相)に就任して以降、強権的な手法を維持する。ケム・ソカ氏の訴追もその一環だ。2017年には野党寄りの英字紙に巨額の税金を課して発行停止に追い込んでもいる。
  特に締め付けが強化されたのは昨年夏ごろだ。フランスで事実上の亡命生活を送っていた政敵、サム・レンシー氏が帰国を表明したため、反対勢力結集を懸念し、旧野党陣営の70人以上を拘束した。
  元救国党幹部のミーチ・ソバンナラ氏も違法な抗議活動を行ったとして昨年8月に逮捕され、12月に釈放された。ソバンナラ氏は「カンボジアは民主国家なのか。警察官も裁判官も検察官も与党の息がかかった人物。三権分立も機能していない」と批判する。フェイスブックで政権を批判した文章をシェア(共有)しただけで逮捕された例もあったという。
  弾圧に対して欧米諸国が反発を強め、経済制裁が検討されても、フン・セン氏が強気の姿勢を崩さない背景には中国の支援がある。昨年1~8月にカンボジア政府が認可した投資総額60億ドル(約6600億円)のうち、中国は35・31%と2位の日本(7・87%)を大きく引き離す。人権問題に口を挟まず投資を続ける中国はフン・セン氏にとって好都合なパートナーだ。
  フン・セン氏は14日に首相就任35年を迎え、プノンペンで開かれたパーティーでの演説で首相職を退く意向はないことを宣言。「カンボジアは民主国家であり、父から子への権力移譲はない」として、息子が後を継ぐという噂を否定したが、「フン・センの後継者はフン・センだ」と述べ、首相の座は簡単に明け渡さないことも強調した。
  ソバンナラ氏は「フン・セン氏の権力基盤は強固で、首相から退く意向はない。今後も自由は奪われ続けるだろう」と懸念。日本など諸外国がさらに圧力を強化するよう求めている。


2020.1.11-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200111/k10012242341000.html
オマーン国王死去 イランと良好関係 “後継者にいとこ“と報道

中東のオマーンで半世紀近く国家元首の座にあったカブース国王が79歳で亡くなりました。国営メディアは国王の親族が後継者として選ばれたと伝えていて、イランなどとの対立が続くアラブ諸国の中で中立的な立場を保ってきた独自の外交路線が新体制でも引き継がれるか注目されます。
  オマーンの国営メディアは11日、カブース国王が10日夕方に79歳で亡くなったと伝えました。カブース国王は1970年の即位以降、半世紀近くもの間、首相や外相それに国防相などを兼任して絶対的な権力を維持し、アラブ湾岸諸国の首脳の中で重鎮と位置づけられてきました。
  外交面ではほかのアラブ湾岸諸国がペルシャ湾の対岸のイランを脅威と見なす中、中立的な立場からイランとも良好な関係を保ち、イラン核合意では当時のアメリカのオバマ政権との間で交渉の調整役を担ったとされています。
  さらにおととしにはアラブ諸国と対立するイスラエルのネタニヤフ首相の異例の極秘訪問を受け入れ、パレスチナ問題をはじめ地域の安定化に向けて意見を交わして存在感を発揮してきました。
  国営メディアはカブース国王の後継者として、いとこのハイサム遺産文化相が選ばれたと伝えています。
  中東ではイランとサウジアラビアなどのアラブ湾岸諸国の間の緊張が続いていて、新しい国王が独自の外交路線を引き継ぎ、今後もオマーンが中東の貴重な橋渡し役となるか注目されています。
安倍首相「深い悲しみ禁じえない」 安倍総理大臣は「カブース国王の崩御の報に接し、深い悲しみを禁じえない。謹んで哀悼の意を表する。国王は中東地域の平和と安定のために多大な貢献をされ、世界各国から深い尊敬を集めた指導者だった。国王の崩御は国際社会にとって大きな損失であり、オマーン国民の皆様がこの深い悲しみを乗り越えるにあたり、日本は常にオマーンと共にある」という談話を発表しました。


2020.1.7-msn news(産経新聞)-https://www.msn.com/ja-jp/news/world
トルコ、リビア暫定政権支援へ部隊派遣 代理戦争…混迷深まる

【中東支局】国家分裂状態にある北アフリカのリビア情勢をめぐり、トルコのチャブシオール外相は6日、シラージュ暫定政権を支援するため、軍事専門家や技術支援要員らの部隊を派遣すると明らかにした。ロイター通信が伝えた。ロシアやエジプトなどの後押しを受けて暫定政権側と交戦する有力軍事組織「リビア国民軍」(LNA)はこれに強く反発。トルコの介入により、周辺国の代理戦争と化しているリビア情勢は、いっそう混迷の度合いを深めている。
  トルコ議会は今月初め、暫定政権側の要請を受ける形で、リビアへの派兵を承認。エルドアン大統領は5日、暫定政権が拠点とする首都トリポリへの軍部隊派遣が進んでいると述べた。産油国であるリビアへの影響力を強め、将来のエネルギー確保につなげる狙いもあるとみられる。
  一方、LNAは6日、暫定政権の勢力下にあった中部の要衝シルトを制圧したと発表。LNAを率いるハフタル司令官は、トリポリへの攻勢も強めている。
  トルコは、部隊の派遣は「停戦を実現し政治的解決を促す」ためだとしているが、軍事的に劣勢の暫定政権側がトルコの支援で勢力を回復すれば、戦闘がさらに激化する可能性もある。









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