ISIL-イスラム教アルカイーダー2020年01~2023年08月 (イスラム教スンニ派過激組織)


2023.08.11-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230811-MCLVAAZLZBKM5CN73ZKAZ4L4RY/
北欧での聖典焼却 イスラム圏への非礼慎め

  北欧のスウェーデンやデンマークで、反イスラムデモ参加者がイスラム教の聖典コーランを燃やしたり、踏みつけたりして、イスラム諸国が強く反発している。
  中東からの移民、難民の増加に伴う反イスラム感情の高まりが背景にある。イラクからの非イスラム教徒の難民がコーラン焼却に関わったケースもある

  コーランはイスラム教徒にとって大切な聖典だ。デモ隊がさまざまな主張を展開する自由は守られるべきだが、コーランを焼いたり毀損(きそん)したりする非礼は望ましくない。イスラム諸国の懸念払拭へ、スウェーデンとデンマークの当局は再発防止に努めるべきである
  放置すればテロや過激な抗議行動を誘発し、スウェーデンの北大西洋条約機構(NATO)加盟に悪影響をもたらす。
  イラクではコーラン焼却に反発したデモ隊がスウェーデン大使館に放火する事件が起きた。イラク政府はスウェーデン大使を国外退去させ、「コーランが再び燃やされれば断交する」と警告した。トルコ政府も「卑劣な攻撃だ」と非難した。
  スウェーデンのNATO加盟に反対していたトルコは7月、加盟容認に転じた。だが、コーラン冒瀆(ぼうとく)が続けば再び態度を硬化させる恐れがある。ロシアのウクライナ侵略が続く中で、欧州の安全保障を不安定化させかねない。
  スウェーデンとデンマークでは、「表現の自由」を理由にコーラン焼却の規制に慎重な意見もある。だが、表現の自由の下であっても、多くの国で国旗損壊罪が存在し、取り締まられている。国旗以上に神聖なのがイスラム教徒にとってのコーランだ。コーランを損壊する過激な行為は取り締まればいい
  コーラン焼却デモをめぐっては、ロシアが扇動しているとの見方がある。スウェーデンのボーリン民間防衛相は「ロシア支援者が、聖典冒瀆の背後にスウェーデン政府がいるとの偽情報を拡散させている」と警戒感を示した。
  英紙ガーディアンは1月、スウェーデンでのコーランが焼き捨てられたデモの許可をとったのがロシア国営メディア「RT」の元記者だったと報じた。
  スウェーデンのNATO加盟を妨害したいロシアの工作であれば言語道断で許されない


2023.07.09-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20230710-IDHTCJ2EHZKPHAK7I5X6R57LDQ/
米軍、シリアでIS幹部殺害 無人機攻撃で

  米中央軍は9日、シリアで無人機による攻撃を7日に実施し、過激派組織「イスラム国」(IS)のウサマ・ムハジール幹部を殺害したと発表した。シリア東部での指導者だとしている。

  ISは米軍などの作戦で最高指導者や幹部を相次ぎ失ってきたが、関連組織はテロを継続している。中央軍は「ISの脅威は残ったままだ」とし、掃討作戦を続けると強調した。(共同)



2022.02.04-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/faac019866e4aa36a849990a5a3e2c679acd13d2?source=rss
IS指導者死亡 隠密作戦で異例の投降呼びかけ 非戦闘員の犠牲回避に神経とがらしたバイデン米政権

  イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)最高指導者のクライシ容疑者を自爆に追い込んだ米国の対テロ作戦で、バイデン米政権は、非戦闘員の犠牲を避けることに神経をとがらせた。

  昨年8月、アフガニスタンでIS系組織によるテロへの報復攻撃を実行したものの、後にテロとは無関係な人々を犠牲にする誤爆だったと判明したことが〝トラウマ〟となっている。 「むしろ兵士たちのリスクが増したほどだ」。
  国防総省のカービー報道官は3日の記者会見で、いかに民間人の犠牲が出ないように腐心したかを繰り返し強調した。 バイデン政権はクライシ容疑者の潜伏先に関する情報を得てから数カ月にわたり作戦内容を検討した。観察の結果、同容疑者が家族とともに建物の3階で暮らしており、まったく外出しない生活を送っていることが判明した。
  2階には自身の副官を住まわせていた。 問題は1階に、ISとは無関係とみられる一家が暮らしていたことだ。3階の住人が誰かも分かっていないようだった。子供が複数人いることも確認された。バイデン政権高官は「(クライシ容疑者は)この一家を人間の盾に使っていた」との見方を示す。
  建物を短時間で急襲・制圧しようとすれば、1階を戦闘に巻き込む可能性が高くなる。だが、現場にとどまる時間が長くなるほどに、反撃を受けたりISの増援が駆けつけてきたりする危険性も増す。
  ジレンマの中、バイデン政権が選んだのは、部隊が建物の周囲から投降や避難を呼びかける方法だった。テロ組織に対する軍特殊部隊の隠密作戦としては異例だ。政権にとっては「無関係な非戦闘員を守る」(同高官)ことは譲れない一線だった。
  背景には、昨年8月29日にアフガン首都カブールで起きた誤爆がある。同国からの退避希望者でごった返す国際空港付近を狙ったIS系組織のテロへの報復として車を空爆し、その後、子供7人を含む死者10人はISと無関係だったことが判明した事件だ。
  オースティン国防長官が今年1月27日、民間人保護の強化に関する計画策定を指示していることからも、事件が今も痛恨の記憶として残っていることは想像に難くない。 政権高官によれば、米軍は作戦の検討段階で建物の強度計算も行っている。
  クライシ容疑者が3階で爆発物を使用した場合でも、建物全体が倒壊して内部にいる人間を巻き込むことはないことを確認するためだ。 実際の作戦では、ヘリで現場に降下した部隊が呼びかけを開始してから間もなく、同容疑者が家族とともに自爆し3階部分が大破。その後、バリケードを築いて投降を拒む副官やその妻とみられる女性との間で銃撃戦が発生した。
  部隊はその間に、1階の住人ら10人の身柄を保護した。 作戦完了までに要した時間は約2時間。カービー報道官は「何度もリハーサルを重ねて準備を整えた。時間も想定通りだ」と語る。途中、故障し不時着したヘリを放棄・破壊するトラブルもあったが、作戦に参加した米兵らは全員が無事に帰還。米軍は現場で採取した指紋やDNAからクライシ容疑者の死亡を断定。遺体はその場に放置された。(ワシントン 大内清)



2021.10.05-産経新聞-https://news.yahoo.co.jp/articles/e95d901b245d36bee06e4af686b40b21f68d4f05
IS、アフガン首都の爆発で犯行声明 治安不安定化鮮明に

  【シンガポール=森浩】アフガニスタンの首都カブールのモスク(イスラム教礼拝所)周辺で3日に起きた爆発について、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)は5日までに犯行を認める声明を出した敵対するイスラム原理主義勢力タリバン関係者を標的にしたもようだ
  3日の爆発では少なくとも市民ら10人が死亡タリバンは爆発後、カブール北部でIS傘下の武装勢力「ホラサン州」(IS-K)の潜伏先を襲撃、IS-K関係者少なくとも3人を殺害したもようだ。事件の報復とみられている。
  駐留米軍撤収後のアフガンでは東部を中心にIS-Kがテロ攻撃を繰り返しており、治安が不安定化している。モスクでは最近亡くなったタリバン報道官の母親を追悼する行事が営まれていた。 タリバンは4日、3人目となる副首相代行ら新たに38人の暫定政権閣僚を任命。旧政権の高官だったカビル師を政治担当副首相代行とした。統治体制の確立を進め、治安状況の改善を図っている。


2021.08.27-朝日新聞-https://www.asahi.com/articles/ASP8W2Q2WP8WUHBI00V.html
カブール空港近くの爆発、ISが犯行声明「戦い続ける」

  アフガニスタンの首都カブールにある国際空港近くで26日夜に起きた爆発について、過激派組織「イスラム国」(IS)の支部組織が同日、SNS上で犯行を認める声明を出した。

  声明は「米兵や彼らに協力した通訳やスパイどもの集団に突入し、爆弾ベルトを爆発させた。米兵20人を含む160人以上が死傷した。我々は今後も戦いを続ける」と主張している。
  アフガニスタンの保健担当相は米CNNの取材に対し、爆発で少なくとも60人が死亡し、140人が負傷したと語った。(カイロ=北川学)
  (声明文の訳を修正しました。当初入手した声明文を読み誤りました。)



2020.12.30-公安調査庁
最近の国際テロ情勢

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  ISILは,米国や同国の支援を受ける「シリア民主軍」(SDF)などによる掃討作戦を受け,3月,最後の支配地であったシリア東部・バグズを喪失したものの,その後も地下に潜行するなどして一定の勢力を保持し,宣伝活動を継続した。
  ISILは,支配地を喪失しながらも,シリア及びイラクに1万4,000~1万8,000人の戦闘員らを擁するほか,5,000万~3億米ドルとされる資金を所持していると指摘されている。また,ISILは,シリア及びイラクにおいて不安定な情勢が続いていることを背景に,徐々に勢力を回復させているとされ,米国国防総省が8月に発表した報告書によると,シリアでは復活の兆しを見せ,イラクでは戦闘能力を強化したとされる。
  ISIL最高指導者(当時)アブ・バクル・アル・バグダディは,4月,2014年以来約5年ぶりに動画声明を発出し,ジハード継続などを主張したものの,10月,シリア北西部・イドリブにおける米軍特殊部隊の作戦で死亡した。これに関し,ISILは声明を発出してバグダディの死亡を認め,アブ・イブラヒム・アル・ハシミ・アル・クラシなる人物が新たな最高指導者に就任したことを発表するとともに,全ての関連組織に対して報復テロを呼び掛けた。なお,バグダディの死亡について,米国国防総省は,組織への打撃は限定的である旨指摘した。
  アジアや中東,アフリカなどで活動するISIL関連組織は,ISILが支配地を完全に喪失する中にあっても,活発なテロ活動を継続した。アジアでは,フィリピン南部において,従来同国では見られなかった自爆テロが相次いで発生するなど,よりインパクトのあるテロ手法を取り入れつつあることが示唆された。また,アフガニスタンで活動する「ホラサン州」が同国の首都カブールなどでテロを続発させたほか,パキスタンにおいて新たなISIL関連組織とみられる「パキスタン州」の存在が確認された。アフリカでは,4月,コンゴ民主共和国において新たなISIL関連組織とみられる「中央アフリカ州」の存在が確認され,その後,同関連組織によるモザンビークへの活動地域の拡大が見られた。
・・・

2020.11.14-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201114/k10012712581000.html
“アルカイダ幹部 イランで殺害” 米有力紙伝える

  アメリカの有力紙、ニューヨーク・タイムズは、1990年代にケニアなどで起きたアメリカ大使館爆破事件の首謀者の1人とされる国際テロ組織アルカイダの幹部が、イランでイスラエルの工作員によって殺害されたと伝えました。

  ニューヨーク・タイムズが13日、複数の当局者の話として、伝えたところによりますと、殺害されたのは、アルカイダのナンバー2とされ、アブ・ムハンマド・マスリの名前で知られるアブドラ被告です。
  アブドラ被告はことし8月、イランの首都テヘランの路上でアメリカからの依頼を受けたイスラエルの工作員2人から銃撃を受けて死亡したとしています。
  アブドラ被告は、1998年にケニアやタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に関与した罪で、アメリカで起訴されていました。
  記事では、イスラム教シーア派のイランが、スンニ派が主体のアルカイダの幹部を国内に留め置くことで、イランでのアルカイダの活動を抑え込むねらいがあったとする専門家の見方を伝えています。
  これに対して、イラン外務省のハティーブザーデ報道官は、14日、「アルカイダのメンバーは国内に存在しない」と否定したうえで、「メディアは、アメリカの高官が作ったハリウッドのようなシナリオにだまされるべきではない」とするコメントを発表しました。


2020.11.04-SankeiBiz-https://www.sankeibiz.jp/macro/news/201104/mcb2011040833012-n1.htm
ISがウィーン襲撃で声明「戦闘員が攻撃」

  オーストリアの首都ウィーンで起きた銃を使った襲撃事件で、過激派組織「イスラム国」(IS)は3日、系列ニュースサイトで犯行声明を出した。「ISの戦闘員が攻撃を実行した」と主張。犯行に関わったとする男が銃やナイフを持った姿の写真を掲載した。

  オーストリア当局は、男についてISの支持者だとしている。ネハンマー内相は3日の記者会見で、射殺した容疑者の男以外に現時点で「2人目の犯人の兆候はない」などと述べた。一方で他に容疑者がいる可能性について、引き続き捜査を続ける方針を示した。

  ネハンマー氏によると、これまでに18カ所を捜索し、14人を拘束。市民から寄せられた犯行時の映像の分析などを進めている。
  ネハンマー氏は、容疑者の男が銃器などと一緒に写った写真を共有アプリ「インスタグラム」に投稿していたことも明らかにした。
  事件は2日夜、ウィーン中心部で発生。4人が死亡し、20人ほどが負傷した。


2020.10.19-dmenuニュース-https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sankei/world/sankei-wor2010190012
イスラム国「サウジの経済インフラ攻撃を」(IS)

  【カイロ=佐藤貴生】イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)は18日、報道官のものとされる録音メッセージをSNS上で公表し、サウジアラビアにいる欧米人や同国の石油パイプラインなどの経済インフラに攻撃を仕掛けるよう支持者に呼びかけた。
  ロイター通信によると、メッセージはアラブ首長国連邦(UAE)とバーレーンによるイスラエルとの国交正常化合意について、サウジがイスラエル航空便の領空通過を認めることで支援したと非難。「標的は多数ある」とし、サウジ政府の財源である「石油パイプラインや工場、施設」を襲撃するよう求めた。
  聖地メッカを抱え、イスラム世界の頂点に位置するスンニ派の大国サウジはイスラエルとの国交正常化に慎重な姿勢を維持しているが、米政権が進める対イラン包囲網に協力するため、バーレーンなどとの合意を後押ししたとされる。
  サウジが合意に踏み切れば中東のアラブ諸国に与える影響は極めて大きいため、ISのメッセージにはサウジのイスラエルへの接近を牽制(けんせい)する意味合いもありそうだ。
  ISのメッセージは、米政権が策定したイスラエル寄りの中東和平案の実現を阻止するよう求めた1月以来とみられる。


2020.10.8-産経フオト-https://www.sankei.com/photo/story/news/201008/sty2010080001-n1.html
米、IS戦闘員2人起訴 シリアの邦人殺害巡り

  米司法省は7日、過激派組織「イスラム国」(IS)が米国人や英国人、日本人をシリアで人質に取って殺害した事件を巡り、戦闘員2人を誘拐や殺人共謀の罪などで起訴したと発表した。フリージャーナリストの後藤健二さんや湯川遥菜さんの殺害についてはほう助の罪に問われている。人質の首に刃物を当て殺害を予告する映像を流した「イスラム国」の残忍さを象徴する事件で、世界に衝撃を与えた。

  起訴状によると、2人は英国生まれのアレクサンダ・コテイ被告(36)と英国育ちのシャフィ・シェイク被告(32)。2015年に米軍の空爆で死亡し覆面男「ジハーディ(聖戦士)・ジョン」の通称で知られた英国人モハメド・エンワジ容疑者らと共謀し、12~15年にかけジャーナリストのジェームズ・フォーリー氏ら米国人4人を人質にして拷問し、殺害したとしている。(ワシントン共同)


2020.5.15-dmenuニュース(産経新聞)-http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sankei/world/sankei-wor2005150032
IS、イラクで再び攻勢に コロナ混乱の隙つく

【カイロ=佐藤貴生】イラクでイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)が治安部隊を相次ぎ攻撃し、英BBCテレビ(電子版)によると、5月に入り少なくとも18人が死亡した。イラクは中央政界の迷走が続くなかで新型コロナウイルスの感染拡大に見舞われており、混乱の隙を突いてISが勢力を回復している可能性がある。
   イラクでは5月上旬、北部サラハディンやキルクーク、中部ディヤラの各県で検問所などが襲撃され、ISメンバーと治安部隊が交戦した。BBCによると、イラクでISが犯行声明を出した4月の事件は113件と、1〜3月の1カ月平均(49件)の倍以上に達しており、地元メディアはISの攻撃が新たな段階」を迎えたと伝えた。
   2014年にイラク北部などで勢力を広げたISは、米軍やイランと連携するシーア派民兵組織の攻撃で17年末に支配地域を失った。その後は分散して潜伏し、治安部隊の奇襲や内通者の誘拐、市民の金品強奪などを行っているという。
   イラクでは昨年10月、中央政界の汚職蔓延(まんえん)や経済低迷に反発する抗議デモが始まり、アブドルマハディ首相が辞意を表明。その後2人が首相候補に指名されたがいずれも組閣を断念し、3人目の情報機関トップ、カディミ氏率いる政権が今月上旬、ようやく正式に発足した。ただ、閣僚ポストは埋まらず、米・イランの主導権争いも続いている。
   イラク政界に詳しい在バグダッドの男性は「財政難や米、イランとの関係など課題は山積している。政権が発足したとしても短命に終わるのではないか」とし、混乱は続くとみる。ISが勢力を盛り返す余地は今後も広がりそうだ。
   ロイター通信によると、エジプト北東部シナイ半島で4月末、同国軍の車両が爆破されて兵士10人が死傷する事件があり、ISが犯行声明を出した。ISはモザンビークで治安部隊などが襲われた最近の複数の事件でも犯行を認めた。新型コロナの感染防止で各国政府が浮足立つ現状は、ISが浸透する格好の機会となっているようだ。


2020.4.5-https://www.sanyonews.jp/article/1000800
アフガン地域のISトップを拘束 情報機関作戦、組織に打撃

【イスラマバード共同】アフガニスタンの情報機関、国家保安局は4日、過激派組織「イスラム国」(IS)アフガン・パキスタン地域トップ、アブドラ・オラクザイ幹部とメンバー19人を特殊部隊の作戦で拘束したと発表した。弱体化が指摘されながらもテロを繰り返す組織に打撃となりそうだ。
   幹部は別名アスラム・ファルーキとして知られ、出身地のパキスタン北西部や隣接するアフガン東部で活動していた。地元メディアはいずれもアフガン南部カンダハル州で拘束したと伝えた。
   ISは2015年、アフガンやパキスタンにまたがる地域を「ホラサン州」として領有すると一方的に宣言した。


2020.1.28-Yahoo11Japanニュース 産経新聞-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200128-00000517-san-m_est
IS「米の中東和平案の実現阻止」 ユダヤ人を標的と宣言

【カイロ=佐藤貴生】イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)は27日、報道官のものとみられる音声メッセージをネット上に公開し、トランプ米政権が28日に公表する中東和平案の実現を阻止するよう支持者らに呼びかけた。また、「新たな段階」としてイスラエルとユダヤ人を標的にすると宣言した。
  イスラエルのメディアなどが伝えた。メッセージは、昨年10月に指導者のアブバクル・バグダディ容疑者が米軍の急襲で死亡したことを受け、「欧米はISは消滅したと考えているかもしれないが、私たちはなおもここにいる」と強調した。
   その上で、イスラエルの隣国エジプトやシリアのIS戦闘員に対し、ユダヤ人社会や市場などに越境攻撃を行うよう要求。ヨルダン川西岸地区などイスラエル占領地の奪還も求めた。
   また、米政権の中東和平案の実現を阻むとしたほか、「私たちの目はエルサレムを見つめている」とも述べ、攻撃を強化する姿勢を示した。イスラム教やユダヤ教の聖地があるエルサレムはイスラエルが実効支配している。
   ISはこれまで、パレスチナ問題では目立った動きを示していなかった。バグダディ容疑者死亡で弱体化した求心力を取り戻すため、イスラム教徒の共感が得やすいパレスチナ問題に焦点を当てる狙いもうかがえる。


シーア派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  シーア派は、イスラム教の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。もう一方は最大勢力であるスンナ派(スンニ派)である。
  7世紀カリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。

「シーア」とは
  シーア「追随者」「同行者」「党派」を意味する普通名詞、初期のシーヤ派の人々が、「アリー派」と言い、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、日本語で、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり、厳密に言えば同一語の繰り返しである
信徒分布
  シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イランイラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数を超えていると言われる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーンアフガニスタンハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。
  シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派(五イマーム派)はイエメンで主流である。
  シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派であった。ただし、現在のイラン、アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝十二イマーム派国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗し、そのまま根付いたためである。
  21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制は1979年イラン革命以降イスラム共和制をとっており、十二イマーム派を国教としている。シーア派の高位聖職者がイランの最高指導者として国家元首となっているため、シーア派の影響力は非常に強い。

  イランに次いでシーア派の割合が高い国はイラク、アゼルバイジャン、バーレーンの3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。イラクにおいてはナジャフカルバラーといったシーア派聖地の存在する国土の南部にシーア派が集住している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。イラク戦争によるバアス党政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、ヌーリー・マーリキーが首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派など他の宗派との関係が悪化した。
  バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。シーア派はスンナ派に比べ就職や収入などにおいて不利な条件に置かれており、このため1990年代には暴動が多発した。2002年にバーレーンで議会が再設置されシーア派にも議会参加への道が開かれるとこの対立は一時沈静化したものの、バーレーンの王権はいまだ強く、格差などにも改善の動きが見られないことから不満は蓄積していき、2011年アラブの春においてはシーア派が中心となって2011年バーレーン騒乱が勃発し、警察と衝突して死者を出す事態となった。
  レバノンでは政治的理由から統計はないものの、シーア派はキリスト教マロン派およびイスラム教スンニ派とともに一大勢力となっており、ヒズボラという政治・武装組織を有している。レバノン内戦以前は国会の全99議席中19議席、内戦後の1992年からは128議席中27議席がシーア派に割り当てられていた。また、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。
  サウジアラビアは厳格なスンナ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが、ペルシャ湾岸にある東部州のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。ワッハーブ派はシーア派を敵視する政策を伝統的に続けており、このためサウジアラビアのシーア派には不満がたまったままの状態が続いている。1979年にはイラン革命の影響を受けて東部州のカティーフアーシューラーの際に暴動が起きた。その後、徐々にサウジアラビア政府はシーア派に宥和姿勢を見せるようになり、2003年にはシーア派に対する差別の撤廃を訴える建白書が皇太子に渡されている。
  イエメンにおいては人口の40%ほどがシーア派であるとされているが、このほとんどはザイド派に属する。イエメンのザイド派は、同派のイマームが897年にイエメンに本拠を置いて以降、歴史的にこの地域を長く支配してきており、1918年にはイマームによってイエメン王国が同国の北部を領域として成立した。この王国は1962年に打倒されてイエメン・アラブ共和国となるものの、以後もイエメン北部においてザイド派は強い影響力を保持し続けた。2011年イエメン騒乱後の混乱に乗じて最北部のサアダ県に成立したザイド派の武装組織であるフーシ2014年に首都サナアへと侵攻し、2015年2月にはクーデターを起こしてハーディー暫定大統領を追放して権力を握った。2016年にはフーシはイエメン北部(旧北イエメン)の大部分を掌握し、南部(旧南イエメン)を支配するハーディー暫定大統領派と対峙する状況となっている。
  シリアにおいてシーア派は13%ほどを占めるとされるが、その大部分を占めるのはアラウィー派である。ただしアラウィー派はシーア派主流派と比べてもかなり教義に差があり、一部ではシーア派とみなされない場合がある。アラウィー派の多くはシリアの海岸地方、特にラタキア県に集中しており、フランス委任統治領シリア時代にはこの地域はアラウィー派を中心とするラタキア国という自治地域となっていた。シリアが独立するとその実権は多数派のスンニ派が握り、アラウィー派は不利な立場に追い込まれたが、1970年にアラウィー派の軍人であるハーフィズ・アル=アサドが権力を握るとアラウィー派は優遇されるようになった。2000年にハーフィズが死去し次男のバッシャール・アル=アサドが政権を継いだのちもこの構図は継続したが、支配されている多数派のスンナ派の不満は高まり、2011年シリア内戦が勃発する要因となった。シリア内戦においては勢力図はめまぐるしく変動を続けているものの、ラタキア県を中心とするシーア派地域のほとんどはアサド政権に忠誠を尽くしており、シリア政府の強固な地盤となっている。
「シーア派の三日月地帯」「シーア派の弧」
  イランはイスラム革命後、レバノンでヒズボラの設立(1982年)を支援するなど、国外のシーア派勢力の拡大を後押ししている。イラク内戦ではシーア民兵を、シリア内戦ではアサド政権を援助し、地中海東岸に達する「シーア派の三日月地帯」を形成した。こうした援助には、資金や武器の提供のほか、イスラム革命防衛隊などのイラン人、さらにアフガニスタンやパキスタン出身のシーア派を含む兵員の派遣も含まれる。イエメン内戦でのフーシ支援も含めて、イランは外国で「4つの首都(ベイルートダマスカスバクダードサナア)を支配している」(マイケル・ヘイデンCIA元長官)状況になっている。レバノンに至るイランの勢力圏に対しては「シーア派の弧」という呼称もあり、これを南のイエメンへ広げて捉える見方もある
教義
  アリーとその子孫のみが指導者(イマーム)としてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンナ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンナ派とは異なる教義を発展させていった。
  歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ)、やがてはマフディー救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである。このガイバは初期のシーア派の一派であるカイサーン派によってはじめて唱えられ、カイサーン派が分裂・消滅した後もシーア派の多くの派に取り入れられた。ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する。

  スンナ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンナ派に比べ一般に広く行われている。
  スンナやハディースに対しても、ムハンマドのみならず歴代イマームの行為も範例として採用しており、逆にアブー=ターリブに批判的な真正(サヒーフ)ハディースを捏造と解釈するなど、スンナ派とは大きな乖離が見られる。
  イランにおいては、第3代イマームのフサインサーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人民族宗教としての側面もある。 なお、スンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行である。
五信  ・神の唯一性 ・神の正義 ・預言者・イマーム・来世
十行  ・礼拝 ・喜捨(施し) ・断食 ・巡礼 ・五分の一税 ・ジハード(努力すること) ・善行 ・悪行の阻止 ・預言者とその家族への愛 ・預言者とその家族の敵との絶縁
シーア派における理性(アクル)
  シーア派では、法的判断の基準として、クルアーン、預言者とイマームの伝承、イジュマー(共同体全体の総意)に加えて、理性の動き(アクル)を重視することで知られる。この点で、第6代イマーム・ジャアファル・サーディクは、イスラーム世界で哲学的学派 (理性的学派)を最初に樹立した人物であるといわれる。
  理性は知識を獲得する信頼にたる源であり、啓示と完全に調和している。伝承によれば、神には二つの証明(ホッジャ)があり、これを通じて人間は神の意志を知る。すなわち、内的なものは理性であり、外的なものは預言者である。時に、理性は「内的な預言者」、預言者は「外的な理性」と呼ばれる。シーア派の法学者の間では、理性に打ち立てられたいかなる判断であっても、それは宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいと考えられている。イスラームの法学でよく知られるように、道徳的、法的責任を果たす条件は、健全な理性を保持していることであって、これを保持しない者(狂人や未成年者等)は、代理人を必要とする。狂人は自らの行為について責任をもたない、とみなされているのである
  クルアーンによれば、全ての人間は自らの理性的機能を行使することが要請されており、その結果、神の徴や宇宙的交信について思いをいたすことができる、と考えられている。したがって、古の賢者たちを盲目的に模倣すること(タクリード)は非難されるべきことであり、不信者の徴とされる。
  一般に、理性は宗教的研究に役立つと考えられている。
    1世界の現実を理解する。例えば神の存在、宗教や科学的事実の真理を理解する。
    2道徳的価値や法的規範を導く。例えば、圧政が悪であり、正義が善であることを知る。
    3思惟、思弁の基準や倫理過程を打ち立てる。
  これに対して啓示は、既に理性によって知られていることの確認、理性によって未だ知られていない新しいテーマを導入すること、さらに宗教的賞罰のシステムを通じて、承認を与える、という三つの機能があるとされる。すなわち、啓示と理性は不即不離、相互補完の関係にあり、一方だけでは成り立たない、という立場である。神は預言者を通じて何かを行うことを人々に告げることで、人々を誤って導いたり、また逆に、神から与えられた理性を用いて真理とは逆の方向に向かうことは考えられない、という信念が背後にある
聖地
  全てのムスリムの聖地であるマッカマディーナエルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマインバグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代アリー・リダーの霊廟(イマーム・レザー廟)があり、ここも聖地となっている。このほか、イランのゴムにあるアリー・リダーの妹ファーティマ・ビン・ムーサーの霊廟もイラン国内で尊崇を集め、イランではマシュハドに次ぐ聖地となっている。
  霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年オスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム(コム)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。
歴史
 歴代イマーム
   ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであった。以後ウマル・イブン・ハッターブウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家ムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年ハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンの跡を継いだ弟のフサインクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインは680年にカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。
  フサインの死後もアリーの子孫たちはイマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていった。主流派はフサインの子であるアリー・ザイヌルアービディーンを第4代イマームとして認めたが、これに反対してフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派した。シーア派最初の分派であるカイサーン派である。この派は685年に指導者ムフタールのもとでムハンマド・イブン・ハナフィーヤを推戴してクーファで決起し、ムフタールの乱を起こした。この乱でカイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、687年にクーファが陥落して乱は終結し、さらに700年にムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死ぬと、イマームは神によって隠されたとする一派とムハンマドの遺児をイマームとする一派に分裂し、その後も分裂を続けて8世紀には消滅した。しかしこの派の提唱したイマームは神によって隠されたという概念はガイバとしてシーア派諸派に取り入れられ、シーア派を特徴づける概念の一つとなった。
  アリー・ザイヌルアービディーンを推戴した一派も、713年に彼が死ぬと再び分裂することとなった。主流派はムハンマド・バーキルを第5代イマームとしたが、その弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとする一派が分派し、ザイド派を形成した。ザイド派は21世紀においても有力な宗派として存続している。主流派においてはムハンマド・バーキルが743年に死ぬとその子であるジャアファル・サーディクが第6代イマームとなるが、彼が765年に没すると再び分派騒動が起きた。主流派はジャアファル・サーディクの子であるムーサー・カーズィムをイマームと認めたが、ムーサー・カーズィムの兄であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちが分派したのである。この派閥はイスマーイール派と呼ばれ、この後も分派を繰り返しつつニザール派ホージャー派などの宗派を生んだ。ムーサー・カーズィム派はこの後も存続し、8代アリー・リダー(エマーム・レザー、799年 - 818年)、9代ムハンマド・タキー(818年 - 835年)、10代アリー・ハーディー(835年 - 868年)、11代ハサン・アスカリー(868年 - 874年)と続いていくが、ハサン・アスカリーが死去し、その子であるとされるムハンマド・ムンタザルが「神によって隠される」とこの派のイマームもガイバの状態となり、十二イマーム派となった。
 シーア派諸政府
  ウマイヤ朝の滅亡後、8世紀に成立したイドリース朝は初のシーア派イスラム王朝とされるが、シーア派的要素は少なかった。その後、9世紀にアラヴィー朝が成立し、10世紀にはチュニジア(後にエジプトに移動)にファーティマ朝イラン高原ブワイフ朝が成立するなど、いくつかのシーア派王朝が建国されたものの、こうしたシーア派王朝のほとんどは上層部のみがシーア派信徒によって占められ、一般市民のほとんどはスンニ派を信仰していた。こうした状況が大きく変動するのは、16世紀初頭にタブリーズイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝の時代からである。サファヴィー朝は急進派のシーア派教団であるサファヴィー教団によって建国された国家であり、それまでのシーア派王朝と異なり支配下の民衆にシーア派への改宗を強要した。またイスマーイール1世はレバノンからシーア派のウラマーを招いて教義面での整備を行い、晩年にはサファヴィー朝の宗教観をかなり穏健化させたこともあり、支配下の地域においてはシーア派信仰が徐々に庶民にも広がっていった。こうしたことからサファヴィー朝の版図であったイランにおいてはシーア派の住民が圧倒的多数を占めるようになり、これはその後イラン高原に勃興したガージャール朝パフラヴィー朝などの諸王朝でも変わらなかったため、イランはシーア派信仰の一大中心地となった。しかしパフラヴィー朝第2代のモハンマド・レザー・パフラヴィー白色革命と呼ばれる急速な上からの近代化政策を行い、それに反対する保守派のルーホッラー・ホメイニーなどのイスラム法学者を弾圧した。モハンマド・レザーの権威主義的な政策は国内での強い反発を受けるようになり、その反対派の結集の核となったのが保守派イスラム法学者たちであった。1979年2月にイラン革命が起き、モハンマド・レザーが国外に脱出すると、帰国したホメイニーは最高指導者国家元首)に就任し、イスラム共和制と呼ばれるシーア派法学者が国家を指導する体制を完成させた。ただしこのイスラム政府の成立とそれによるシーア派の政治化は周辺諸国の態度を硬化させ、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争をはじめとするイランと周辺アラブ諸国との対立を引き起こすこととなった
 分派
   シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派イスマーイール派ザイド派などがある。十二イマーム派はイランイラクレバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。図の通り、シーア派諸派が共通してイマームと認めるのはアリーのみである。

    ・カイサーン派(消滅)  ・ザイド派  ・イスマーイール派  ・カルマト派(消滅)  ・ドゥルーズ派  ・ムスタアリー派  ・ハーフィズィー派  ・ニザール派  ・十二イマーム派  ・シャイヒー派バーブ教(イスラム教から分離)バハイ教(イスラム教から分離))  ・アラウィー派  ・アレヴィー派(?)
  十二イマーム派
    シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ
  イスマーイール派
    イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインドパキスタンホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。
  ザイド派
    ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。
  そのほかの分派やイスラムからの分離
    シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義を持つに至った分派も存在する。系統不明のアラウィー派イスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教バーブ派)やバハイ教バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。


スンナ派・スンニ派
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  スンナ派、あるいはスンニ派(日本では報道などでこちらが一般的に知られる)は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつとされる。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。

  スンナ派あるいはスンニ派は、イスラム教の二大宗派のひとつとされる。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。2009年ピュー研究所の調査では、世界のイスラム教徒15億7000万人のうち、スンナ派の信者は87%から90%を占め、約14億人ほどの信徒を持つとされる。
名称
  アラビア語では教義的に「スンナとジャマーアの徒」(「スンナの徒」 )というが、「預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた『慣行』(al-Sunnah スンナ)および正統なる『(イスラーム)共同体』(al-Jamā‘ah ジャマーア)に従う・護持する人々」というほどの意味で、アラビア語ではさらにこれを略して「スンナに従う人」を意味する「スンニーとも呼ばれる。「スンニー」の音写をそのまま遣う他言語からの影響により、日本語ではスンニ派の使用も多い。
  日本語訳では「派」と表記されるが、分派や宗派という意味合いがある訳ではない。預言者ムハンマド没後の初期イスラーム時代、ハワーリジュ派シーア派などの分派活動に対して、イスラーム共同体の団結と共同体におけるコンセンサス形成を重視し、結果多数派を形成するに至ったものである。「スンナとジャマーア」という語彙が示す通り、この名称は預言者ムハンマドに由来する慣行(スンナ)と同じく預言者ムハンマド以来の共同体(ジャマーア)こそがイスラーム共同体の「最大公約数」であり、かつまたそうあるべきである、との認識に基づいた呼称(自称)である。
  ハワーリジュ派とのあるいはシーア派との抗争の例に見られるように、これらの自称他称はイスラーム共同体の「あり方」に関わる問題であって、イスラームの宗教的根幹である神の唯一性(タウヒード)や聖典『クルアーン』そのものといった信仰箇条については、スンナ派やシーア派等では目立った相違はない。
  なお、ハディースの権威そのものを否定する流れとしては、クルアーン主義という思想も存在する。
現況
  スンナ派はほとんどのイスラム教国において圧倒的多数派を占めており、シーア派が多数を占めるのはイランアゼルバイジャンバーレーンイラクの4カ国のみである。また、この4カ国でも、イランを除く3カ国には3割程度のスンナ派住民が存在する。
起源
  第三代正統カリフであるウスマーン・イブン・アッファーン656年に暗殺されると、第四代カリフであるアリー・イブン=アビー=ターリブと、ウスマーンを出したウマイヤ家ムアーウィヤが激しく対立した。この過程で、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張した一派がシーア・アリー(「アリーの党派」の意。この党派は後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる))として分離した。これに対し、大多数のムスリムはムアーウィヤのカリフ就任を認め、ウマイヤ朝の成立も容認した。この派閥がスンナ派の起源である。スンナ派はシーア派と異なり、アブー・バクルウマルウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた。
四法源
  スンナ派は、イマームの指導を重視するシーア派に対して、預言者の言行(ハディース)を通じてスンナの解釈を行うことで預言者の意思を体現しようとする。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン(クルアーン)、慣行(スンナ)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)の四つの方法を四法源として重視するに至った。イスラム共同体ウンマ)の間の「合意」を重視する点がシーア派と比較した場合のスンナ派の大きな特徴である。四法源から導き出されたスンナ派のイスラム法学は法源の扱い方の違い、解釈の違いによってさらに四つのイスラム法学派ハナフィー学派シャーフィイー学派マーリク学派ハンバル学派)に分かれている。これらの法学派は10世紀頃までには成立した。スンナ派の信徒はいずれかの法学派に属し、それによって生活を律する。この4学派はいずれも正統なものとして認められている。また、神学的にはアシュアリー派マートゥリーディー派で述べられる信仰箇条をイスラームの正統的信条とする(ただし、ワッハーブ派ではこの二派は異端とされる)。
王朝
  歴史的に見て、イスラム世界の中心部に興亡したイスラム王朝ウマイヤ朝アッバース朝を始めとして多くがスンナ派に属する。上記のように、イスラーム最初の世襲王朝であるウマイヤ朝は成立の経緯からしてスンナ派であった。やがてウマイヤ朝に対する不満が高まると、アッバース家がシーア派の力を借りて750年アッバース革命を起こしアッバース朝を成立させたものの、建国後アッバース朝はシーア派と敵対し、スンナ派が主流を占める状況は変わらなかった。やがてアッバース朝の力が衰えると各地方に王朝が分立するようになり、946年にはそのひとつであるシーア派のブワイフ朝バグダッドに入城し、スンナ派であるアッバース朝のカリフから統治の実権を奪ったものの、カリフそのものは残存した。この時期には北アフリカ・エジプトに同じくシーア派のファーティマ朝も存在していた。1055年にはスンナ派のセルジューク朝がブワイフ朝を逐ってバグダッドに入ったものの、カリフに実権は戻らなかった。やがて1258年にはモンゴル帝国によってアッバース朝が滅ぼされるものの、1261年にはカイロマムルーク朝のもとでアッバース朝のスンナ派カリフが新たに即位し、実権はないものの1517年にマムルーク朝がオスマン朝に滅ぼされるまで続いた。その後もサファヴィー朝のようなシーア派を奉ずる強大な王朝が興ると対抗して・オスマン朝の中でスンナ派擁護の動きが強くなることもあった。
神秘主義
  スンナ派イスラームの拡大においては、イスラーム神秘主義者(スーフィー)の力が大きいと言われる。北アフリカマグリブ)では聖者崇拝が盛んであるし、トルコ中央アジアでは革命により公的に禁止されたものの歴史的には神秘主義教団(タリーカ)が大いに栄えた。エジプトインドパキスタンでは現在もタリーカが社会的に強い影響力を持つ。同地域では聖人崇敬や聖廟も見られるが、他学派からは偶像崇拝とみなされる傾向が強いため、シーア派に比べると少数に留まる。
各地における土着化
  このようにして広範な地域に広がったスンナ派は、スンナ派と一口に言っても、例えば東南アジアの国インドネシアジャワ島のスンナ派と中央アジアの国ウズベキスタンのスンナ派と、西アフリカの国マリ共和国のスンナ派の間で実態に違いが見られる。ジャワにはジャワ神秘主義があるし、ドゥクンと呼ばれる一種の黒魔術師すら認められる。シーア派が教理によって多様化したのと異なり、多様な地域に根付き土着化したことで多様な宗派を形成するようになった。
復古改革運動
  しかし、歴史的にスンナ派内部では、自らの多様性に対し、預言者の時代を見習い(見直し)、“退廃した”社会をただそう、より“正しい”社会になろう、という復古改革運動がしばしば見られる。 特に近代に至ってサウジアラビアワッハーブ派の改革運動が生まれ、その影響を受けてコーラン・スンナの規定を厳格に適用することで多様性・土俗性を廃そうとするイスラム原理主義と通称される初期イスラーム復古運動へとスンナ派ムスリムの一部は現在も進みつつある。 特に近代のスンナ派の復古運動は時に反帝国主義反共産主義反ユダヤ主義反米などの意識と結びつき、無視できない潮流となっている。


イスラム教
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イスラム教イスラーム教イスラームは、唯一絶対のアラビア語アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。
  ユダヤ教キリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一柱であったが、ムハンマドがメッカを占領した際、カーバ神殿に存在した全ての神々の像を破壊し、多神教及び偶像崇拝を戒め、アッラーのみを崇拝するようになった。

  イスラム教(イスラムきょう)、イスラーム教、イスラム、イスラームは中東で生まれた一神教の名称。   唯一絶対のアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。
  ユダヤ教キリスト教と同じセム系一神教で、偶像崇拝[注釈 1]を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。
  一般には法律と見做される領域まで教義で定義している、信者の内心が問われない、正しい行いをしているか、天国に行けるかは神が決めることで死ぬまでは(国家がイスラム教について規定する場合はともかくとして、少なくとも本質的には)人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教とは大きく異なる。
名称
  イスラム教はアラビア語を母語とするアラブ人の間で生まれ、神がアラビア語をもって人類に下したとされるクルアーンを啓典とする宗教であり、教えの名称を含め、宗教上のほとんどの用語はアラビア語を起源とする語である。
  この宗教を呼ぶ際に日本で一般的に用いられている「イスラム教」とは、英訳表記された「Islam」に由来するものである。一方、近年、研究者を中心に、アラビア語の長母音をより厳密に反映した「イスラーム教」という表記が好んで使われるようになってきた。高等学校世界史教科書や参考書、あるいは書店に並ぶ本や雑誌においても「イスラーム教」の表記が用いられることが増え、一般にも定着しつつあるといえる。このアラビア語の「イスラーム」という単語は、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つ「aslama(アスラマ)」という動詞名詞形であり、神への絶対服従を表す。ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には、宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていたが、預言者ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめて用いた。そして、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と奴隷の関係として表現される。
  イスラム教の啓典であるクルアーンの中の法制的部分や、ムスリムの従うべき規範を定めたシャリーア(イスラム法)を重視する論者は、「イスラム教は、その定めに則って行うべき行為として、単に宗教上の信仰生活のみを要求しているのではなく、イスラム国家政治のあり方、ムスリム間やムスリムと異教徒の間の社会関係にわたるすべてを定めている」と主張している。このことから、「イスラム教とは、単なる宗教の枠組みに留まらない、ムスリムの信仰と社会生活のすべての側面を規程する文明の体系である」という理解の仕方がある。
  この理解に基づいて、近年は研究者の間で「イスラム教」あるいは「イスラーム教」から、「宗教」の側面のみを意味する「教」の字を取り去って単に「イスラーム」と表記すべきであるという主張が行われ、ある程度の市民権を得つつある。この主張に従えば、アッラーの教えが規程する諸側面すべてを「イスラーム」と呼び、宗教としての側面を「イスラム教」あるいは「イスラーム教」と呼んで区別できる。
  しかし一方で、このような理解は、律法的側面を過度に強調しており、スーフィズムにみられる精神主義などの多様なイスラームの形態を反映していないという批判も強い。 また、「イスラム教」という名称は、創始者(または民族)の名称を宗教名に冠していない(即ち、ムハンマド教とならない)。この理由には諸説あるが、主な宗教学者の解説によれば、イスラムが特定の人間の意志によって始められたものではないこと、及び国籍や血筋に関係なく全ての人々に信仰が開かれていることを明示するためであるとしている。
  日本を含む東アジア漢字文化圏では、古くは「回教」と呼ばれることが多かったが、現在はあまり用いられていない。中国語では現在も一般名称としてムスリムを“回民”と呼ぶ(「ムスリム」を音写した「穆斯林」も使われるようになっている)。
世界全体
  今日、ムスリムは世界のいたるところでみられる。異論はあるが、2010年時点で16億人の信徒があると推定されていて[1]、キリスト教に次いで世界で2番目に多くの信者を持つ宗教である。ムスリムが居住する地域は現在ではほぼ世界中に広がっているが、そのうち西アジア北アフリカ中央アジア南アジア東南アジアが最もムスリムの多い地域とされる。特にイスラム教圏の伝統的な中心である西アジア・中東諸国では国民の大多数がムスリムであり、中にはイスラム教を国教と定めている国もある。
  世界のムスリム人口は、多子化やアフリカ内陸部などでの布教の浸透によって、現在も拡大を続けているとされる。また、移民として欧米諸国など他宗教が多数派を占める地域への浸透も広まっており、イギリスではすでに国内第2位の信者数を有する宗教である。
  日本人ムスリムの総数は、大規模な調査が行われていないこともあり、はっきりしていない。過去に行われた調査では数千〜数万程度のばらつきのある数字が提示されているため、最大に見積もっても信徒数は5万名に届かないのではないかと推測されている。在日外国人まで含めた信者数についても諸説あり、5万人、12万人、18万人など、人によって主張される数の開きは大きい。文化庁の宗教年鑑でも、イスラム教は、神道・仏教・キリスト教以外の「諸教の諸教団」に天理教などと共に含まれ、詳細な調査はほぼ行われていない。
  トルコ、東ヨーロッパ、シリア、イラク、エジプト、インド、中央アジアにはオスマン帝国の公認学派であり、最も寛容で近代的であるとされるハナフィー学派スンナ派)が多い。その他の地域では、イランはジャアファル学派シーア派)、アラビア半島では最も厳格なことで知られるハンバル学派(スンナ派)、マグリブマーリク学派(スンナ派)、東南アジア、東アフリカはシャーフィイー学(スンナ派)。
  聖典のクルアーンは、アラビア語で書かれたものしか認められず、外国語に翻訳しても、聖典を理解するための補助文書でしかないが、こうしたことから、イスラム教は少なくともその成立当初はアラビア語を解するアラブ人のための民族宗教という一面を持っていたと指摘されることもあった。しかし一方で、クルアーンは全人類のために下された啓典といわれており、現実にイスラーム教徒は民族を超えて世界中に存在していることから、イスラームは普遍宗教であるというのが通説である。アラビア語がこれほど意識されている理由は、預言者ムハンマドが神から授かった言葉そのままの姿を残す意味にあり、クルアーンにはアラビア語でしか伝わらない言語的奇跡も含まれているからだとされる。ただし、イスラームが普遍宗教となって以降も、アラブ人ムスリムを中心に残っている。
教義
 六信五行と五信十行
   イスラム教(スンナ派)の信仰の根幹は、六信五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。六信は、次の6つである。
    1万能神アッラーフ) 2天使(マラーイカ) 3啓典(クトゥブ)4使徒(ルスル) 5来世(アーヒラ) 6定命(カダル)
  このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが使徒(ルスル)である。ムスリムは、アッラーが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「アッラーフのほかに信仰は無し」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。 また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。
    1告白(シャハーダ) 2礼拝(サラー) 3喜捨(ザカート) 4断食(サウム) 5巡礼(ハッジ)
  これに、ジハード努力聖戦)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。
  これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月(ラマダーン、ラマダン)に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアメッカ(マッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。
  一方、シーア派では、五信(神の唯一性、神の正義、預言者、イマーム、来世)、十行(礼拝、喜捨、断食、巡礼、五分の一税、ジハード、善行、悪行の阻止、預言者とその家族への愛、預言者とその家族の敵との絶縁)となる。
 預言者ムハンマド
  「イスラーム」とは、唯一神アッラーへの絶対服従を意味しており、モーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)も預言者として認めている。ただし、イエスもムハンマドもあくまで人間として考えており、それゆえ、イスラーム暦の元年はムハンマド生誕の年ではなく、西暦622年メディナにウンマができたヒジュラの年を元年にしている。
教典
 クルアーン(詳細は「クルアーン」を参照)
   イスラム教の教典聖典)としてすべてのムスリムが認め、従うのは、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)唯ひとつである。クルアーン(コーラン)はムハンマドが最後の預言者として語った内容が、ムハンマドおよび後継者の代によって編集され、書物となったものである。
   モーセイエスなどの預言者たちが説いた教えを、最後の預言者であるムハンマドが完全な形にしたとされている。
   クルアーン自身の語るところによれば、クルアーンとは、唯一なる神が、人類に遣わした最後にして最高の預言者であるムハンマドを通じて、ウンマに遣わした啓典(キターブ)であり、ムスリムにとっては、神の言葉そのものとして社会生活のすべてを律する最も重要な行動の指針となる。
 スンナとハディース集
   イスラームの教典としてすべてのムスリムがその内容を認める(認めることがムスリムとしての絶対条件とされる)のはクルアーンのみであるが、実際にはクルアーンに次ぐ事実上の聖典と言える書物が存在する。
   そもそも預言者ムハンマドの在世中から、ムスリム達はムハンマドが神の言葉として語ったクルアーン(として後に纏められる物)についで、ムハンマドが自分自身の言葉として語ったものや、ムハンマドの行動をスンナ(慣習)として尊び、クルアーンに次ぐ指針としてきた。預言者ムハンマドの没後には、これらのスンナが識者達の伝承として伝えられていく。この伝承をハディースとよぶ。9世紀にはブハーリーやムスリムをはじめとする学者達がこれらのハディースの収集と記録に取り掛かり、ハディースの真偽を問うハディース学も発展した。
   とりわけブハーリーとムスリムの記したハディース集は、後代のスンナ派の学者達によってすべてのハディースが真正であるという合意(コンセンサス、イジュマー)が得られており、そのためこの二つの真正集は「両真正集(サヒーハーニ)」と呼ばれ、前近代のスンナ派においては事実上の聖典として、クルアーンに次ぐ地位を与えられた。シーア派でも、独自の基準で厳選されたムハンマドやイマーム達のハディース集が同様の扱いを受けた。
   しかし近代に入ると、ヨーロッパ世界をはじめとする非イスラーム世界の学者達のハディース批判の影響を受け、ムスリム法学者との議論が続く中なのにも関わらず、両真正集のハディースや、甚だしくはハディースすべてを後代のイスラーム共同体による捏造として否認する少数派ムスリムも現れるようになった(クルアーン主義)。
 聖書
   イスラム教ではクルアーン以前にも神の啓示を記した書物としてユダヤ教とキリスト教の聖書があるとしていて、実際にクルアーンでも「クルアーンは聖書の正しさを証明するためにある」という趣旨の言葉が綴られている箇所が数多くある。具体的に名前が挙げられているのは「タウラート」(モーセ五書)、「ザブール」(詩篇)、「インジール」(福音書)である。このことだけ見れば、これらの書物も、アル=クルアーン同様神の言葉であり、聖典として尊ばなければならないということになる。
   しかしユダヤ教徒やキリスト教徒が現在用いている聖書は改竄と捏造を繰り返されたもので、聖典としての価値を失っているとみなしている。そのため現在に至るまでムスリムが聖書を読むことは、宗教知識人などを除けばほとんどない。
 偶像崇拝の禁止
   イスラームにおいては偶像崇拝の禁止が徹底されている。イスラームは神の唯一性を重視するため、預言者の姿を描く絵画的表現は許されない。 それゆえ、ムスリムが礼拝をおこなうモスクには、他宗教の寺院や聖堂とは異なり、内部には宗教シンボルや聖像など偶像になりうる可能性が存在するあらゆるものがない。ただ、広い空間に絨毯ござが敷き詰められているだけで、人びとはそこでカアバがあるメッカの方角(キブラ)をむいて祈る。モスクには、メッカの方角の壁にミフラーブと呼ばれるアーチ状のくぼみがあり、ムスリムはそれによってメッカの方向を知る。
   写本絵画などにおいては、預言者ムハンマドの顔には白布をかけて表現されることが多いが、これも偶像崇拝を禁止するイスラームの教義に由来している。
 信徒間の平等
   イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)には信徒間の平等が記されているとする意見があるが、少なくとも『クルアーン』には、「アッラーはもともと男と(女)の間には優劣をお付けになったのだし、金は男が出すのだから、この点で男の方が上に立つべきもの。だから、貞淑な女はひたすら従順に」と、男女不平等を明記する記述もある。イスラーム社会では、他の宗教にみられるような聖職者僧侶階級をもたない。宗教上の指導者を有するのみである。
   現実には、ウマイヤ朝では、シリア総督であったムアーウィヤは、シリア優先主義を採り、アラブ人、特にシリアに移住したアラブ人の優越主義が採られ、アラブ人ムスリムと改宗ムスリム(マワーリー)との税制・待遇面の格差は著しかった。対して、アッバース朝ではその反動から、シュウービーヤという思想が起こり、これはカバーイル(アラブ人)にシュウーブ(ペルシャなどの先進文化地域民)を対比させ、シュウーブの優越を主張したものであった。結果、アラブ人の特権は、廃止された。このように、果たして平等かどうかは、時代によって波がある
 イスラームにおける来世
   人は行いによって最後の審判の後、天国、高壁、火獄の三ヶ所に割り振られる。
 天国
   イスラームにおける天国は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされる。キリスト教と異なり、イスラム教の聖典『クルアーン』ではイスラームにおける天国の様子が具体的に綴られている。
   また決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができるとされている。
   後述する「ジハード」に関しても、過激派組織が自爆テロの人員を募集する際にこのような天国の描写を用いている場合が少なくないとされ、問題となっている。
   リベラル派は解釈の変更を試みており、処女とは間違いで、実際は白い果物という意味だという説、650年頃に編纂されたクルアーンの書かれた地域のアラビア語の方言と、現在使用されているアラビア語では、意味が違ってくるという説を唱えている。2005年にドイツのクリストフ・ルクサンブルクが、古代に書かれたクルアーンを古代アラブ・シリア語の語彙で解読すると、先述したように、意味が違ってくると主張している。
 高壁
   高壁は、善悪どちらでもない者の行き場。   クルアーン第7章46-47節に説かれており、天国と火獄を隔てる高い壁として存在する。その住人は、敬虔ではなかったため天国に入れないが、不義の者ではなかったため地獄にも行かず、快楽も苦痛もない中庸の生活を送る。
   この高壁についてカトリック・ムスリムの研究者であったマシニョン (Louis Massignonはカトリックで見られる終末論的辺獄は、ムスリムによる「高壁」解釈に影響を受けたとも考えていた
 火獄
   火獄、すなわちイスラム教における地獄は、不信仰者が永遠に責め苦を受ける所とされる。クルアーン内でも多くの章で繰り返し説かれ、アッラーの印(啓示)を偽りであるとして拒否した者が落とされるという。住人は文字通り火で焼かれる上、ザックームや膿汁のような不浄物しか食べられない。
   このように地獄の内容が火責めであることから、イスラム世界では火刑を神のみに許される行為としており、人間が行うことは越権であると見做される傾向にある
社会生活
  ムスリムは、クルアーンのほかに、預言者ムハンマドの膨大な言行をまとめたハディース(伝承)に、クルアーンに次ぐ指針としての役割を与えている。ムハンマドは神に選ばれた最高の預言者であるから、彼の言行のすべては当然に神の意志にかなっていると考えられるからである。また、ムスリムの実生活上の宗教や日常に関するさまざまな事柄を規定するために、クルアーンやハディースを集成してシャリーア(イスラーム法)がまとめられている。
  これらは教典ではないが、教典を補ってムスリムの社会生活を律するものとされており、その範囲は個人の信条や日常生活のみならず、政治のあり方にまで及んでいる。信仰の共同体と政治的な国家が同一であったムハンマドの存命中の時代を理想として構築されたイスラーム社会の国家は、政教一元論に立っており、ヨーロッパのキリスト教社会の経験から導き出された「政教分離」という概念は、そもそもイスラームに適合しないという意見が存在する。
  ただし後述する様に、その遵守の度合いは極めて大きな差があり、トルコインドネシアのような世俗主義国家も存在しているため、一概に政教分離が不可能であると決め付けることは出来ない。イスラムの特異性を過度に強調したステレオタイプ、もしくはキリスト教優越主義や欧州中心主義ではないかという批判もある。
  ムスリムは少なくとも建前の上では、クルアーンやシャリーアの定めるところにより、日常生活においてイスラームの教えにとって望ましいとされる行為を課され、イスラームの教えにのっとった規制を遵守することになっている。教義の根幹として掲げられる五行はその代表的なもので、これらは社会に公正を実現し、ムスリム同士が相互に扶助し、生活において品行を保ち、欲望を抑制して、イスラームの教えにのっとってあるべき社会の秩序を実現させようとするものである。
  公正の実現と不正の否定は、伝統的なイスラームの社会生活において特に重要視されていたとされる。伝統的社会においては、個々人がシャリーアを遵守し、イスラーム的価値観にのっとった公正を実現すべきものとされた。公正は商取引の規制にまで及んでおり、シャリーアに適合しない商取引は不正とみなされる。
  また、ザカート、サダカなどの喜捨の制度によって弱者を救済することは、現世の罪を浄化し、最後の審判の後によりよい来世を迎えるために望ましい行為とされ、イスラーム社会を支える相互扶助のシステムとなっている。社会的弱者に対する救済は、イスラームの教えにおいて広く見られ、一夫多妻制のシステムも、建前の上では母子家庭の救済策であったとされている。
  品行を保ち、人間の堕落を防ぐためとして、自由を制限する教えもみられる。保守派ムスリムが女性に対して、家族以外の男性に対して髪や顔を隠すよう求めていることはよく知られているが(詳細はイスラム圏の女性の服装を参照)、これは性欲から女性を保護する目的が本旨であると保守的イスラムを擁護する論者は主張している。このためキリスト教同様、婚前交渉を禁ずる教派がほとんどだが、実際には国家や個人、世代によって戒律を遵守するか無視するかは多様である。
  食べることが許される食品も定められていて(詳細はハラールを参照)、規律に沿って屠畜されたウシヒツジヤギなどの動物、野菜、果物、穀類、海産物、乳製品、卵、水などが対象となっている。一方、飲食が禁じられているものは、ブタアルコールを含む飲料・食品が有名であるが、ほかにイヌ、牙やかぎ爪で獲物を獲るトラクマタカフクロウなどの動物、毒性のある動物、害虫を餌とする動物などがある。イスラム圏に輸出される食品については、イスラム教徒が摂取できるかどうかの審査(ハラール認証)を行う団体が各国にあり、ここで認証されたものはハラール食品などと呼ばれる。
  は戒律上、禁止されているとする教派が主流であるが(詳細はイスラム教における飲酒を参照)、それは飲酒が理性を失わせる悪行であると考えられているからである。しかし、コーヒータバコのように、イスラム教の教義が確立後にイスラーム社会にもたらされた常習性や興奮作用のある嗜好品については、酒と類似のものとして規制する説も歴史的には見られたものの、今日では酒と異なって合法とみなされており、いずれもムスリムの愛好家は非常に多い。タバコについては身体に害のあるものは禁じられていると言う見地から「避けるべき」と考えるムスリムもいる。
  「清浄」に対する強い意識も特色であり、動物の死肉や血など不浄なものが体に付着したまま宗教的行為を行ってもそれは無効とみなされる。また、礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か砂、石など自然のもので清めなければならないとされている。総合的に見ると、やはり中東地域(特にイラン、サウジアラビア)から離れるほど、一般的に律法としてのイスラームの教えは緩和されている。
組織
  イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが参加する水平で単一の組織からなっていると観念されることが多い。
  従って、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能を有する「聖職者」は建前の上では否定されており、これが他宗教に見られない特徴と主張する人間もいる。このことから「イスラムに『教皇』はいない」と言われることもあるが、歴史的にはカリフや、現代では大ムフティーなど教皇に近い立場の指導者は存在している。また、六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラーム知識人)が存在するため、実質的には聖職者が存在するともいえる。宗教的ヒエラルキーには教派による違いも存在している。
  ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学イスラーム神学イスラーム哲学など、イスラームの教えに関するさまざまな学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官(カーディー)、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師(イマーム)、宗教的な意見(ファトワー)を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示すムフティー、イスラームの諸知識を講じる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導く役割を果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、建前の上では聖職者ではない。そのためキリスト教や仏教などと違い社会的な特権(税金の免除など)はなく、妻帯禁止や禁欲など制限も存在しない。ただし、モスクを維持するために信者から集められるワクフが実質的にお布施のような物となり、モスクの管理者であるウラマーは信者からのワクフによる収入で暮らしていることも珍しくない。十分なワクフを集められない小規模組織では普段はほかの職業の就いていて週末のみウラマーとして働くこともある。ウラマーは実際上、他の宗教における聖職者と同様の役割を果たしているため、マスコミなどではしばしば「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。イスラームの原則として内心のことを判断できるのはアッラーのみなので、建前上、ウラマーなどの権威は当人の信仰の確かさに基盤があるのではなく、クルアーン、ハディース、シャリーアなどについての知識によるものである。
歴史(「初期のイスラム教による征服」および「イスラム教の拡大」を参照)
 始原
  西暦610年頃に、ムハンマドはメッカ(「マッカ」とも言う)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。当時、メッカは人口一万人ほどの街で、そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、他の人々は彼の宗教を冷笑したが、妻のハデージャや親友のアブー・バクル、甥のアリー、遠縁のウスマーン達は彼を支えた。
  しかし、メッカでの信者達は主にムハンマドの親族か下層民に限られており、619年に妻と、イスラム教徒にはならなかったが強力な擁護者であった叔父が他界すると、彼はメッカの中で後ろ盾を失い、批判は迫害へと変わった。そのため、彼は622年、成年男子七十名、他に女子供数十名をヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に先に移住させ、自身も夜陰に紛れメッカを脱出し、拠点を移した。これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後、彼らはメッカと対立した。
  マディーナでは、ムハンマドはウンマと呼ばれる共同体を作り、これは従来のアラビアの部族共同体とは性格を異にする宗教的繋がりであったが、同時に政治・商業的性格をも持っていた。しかし、全てが順調に進んだわけではなく、やがて現地のユダヤ人と対立し、それは後には戦闘を含む規模にまで激化し、そのためムハンマドは教義を一部変更し、当初はユダヤ教の習慣に倣って、イスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、対立たけなわの頃からメッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えたりした。現在でも、世界中のイスラム教徒がメッカへの方角に拝礼するのは、この時に始まる。また、ハデージャの死後、やもめとなっていたムハンマドは、マディーナでアーイシャという後妻を娶るが、彼女はまだ9歳の少女であった。以後、彼は8人の妻を娶る。アイーシャ以外の妻はハディージャも含めて全て未亡人であった。
  また、ある時、ムハンマドはメッカの千頭ものラクダを連れた大規模な隊商を発見し、上述の70人とメディナで得た200人ほどの支援者と共にこれを襲おうとしたが、メッカ側も危機を察し、950名を派遣して、バドルで激突した(うちメッカ側300人は途中で引き返す)。624年9月のことであり、ムハンマド側が勝利すると、これを記念して、以後、イスラム教徒はこの月になると、毎年断食をするようになった。(後にヒジュラ暦が制定されると、この月はラマダーン月となった。今ではこの断食のことを、よくラマダーンと呼ぶ。)この後もメッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにメッカを占領し、カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。なお、メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたが、このムハンマドを巡る抗争で弱り切ったメッカを背後から襲おうと、南ヒジャーズ地方の人々一万人が武装して、メッカ近郊に待機していた。ムハンマドはメッカを手に入れると、直後にこれらを襲撃、大破したが、アラビア半島で万単位の軍が激突することは、数百年来なかった大事件であった。このため、ムハンマドの声望は瞬く間にアラビア中に広まり、以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった。こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した。(ちょうど、東ローマ軍の侵攻で、近隣のサーサーン朝ペルシアが衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた。)
 ジハードとイスラム帝国の形成
  その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、マディーナの民は紆余曲折の末、イスラム教の後継者にアブー・バクルを選び、その地位をカリフと定めて、従った。しかし、アラビア中でそれを認めない指導者は続出し、中には自ら預言者と主張する者も現れ、まとまってマディーナを襲う準備を始めた。アブー・バクルたちから見ればとんでもない動きであり、以後征討戦が繰り広げられ、アブー・バクル側が勝利すると、カリフ制度はイスラム教の政治的中核として定まった。こうしたムハンマド死後の一連の後継者紛争を、イスラム側の史書では、リッダの戦い、と呼ぶ。
  ところで、イスラム教はこうして発足したが、結集した軍隊を解散してしまえば、軍隊を構成していた群衆は元の民に戻ってしまうため、イスラム教を存続させられるかさえ分からない有様であった。しかし、軍に給与を払うほどの財源はマディーナにはなく、そのため、軍隊を維持するには、敵とそこからの略奪品を求めて、常に戦い続けるしかなかったのである。こうして、常に新たな敵を求めて、以降も、イスラム教徒による征服戦争は続けられた。
  まずは、近隣の東ローマ領となっていたシリアに侵攻したが(633年)、当時東ローマとサーサーン朝ペルシアは上述の大戦争のため、共に疲弊しており、さらには、シリア住民は単性論者が多く、これはキリスト教では異端であり、迫害の対象であった。一方、やってきたイスラム教徒は住民に歓迎され、東ローマ軍は多少の抵抗をしたものの、十年もしないうちに降伏し、こうしてイスラム教徒はシリアとエジプトの肥沃な領土を手に入れた。
  ほぼ同時期に、サーサン朝に対しても事を起こす。この帝国は当時、戦争による疲弊に加えて、皇帝不在がその直前まで続いており、極度の混乱状態にあった。そのため、イスラム教のアラビア人による略奪と征服は、自然発生的に行われていたが、その略奪隊を組織するため、ハリードがイラクに派遣された。彼は複数の街を征服した後、シリア戦線に去ってしまい、残されたイスラム軍は統制を欠き、進軍は停滞し、各所で敗戦を重ね、サーサン朝が勝利するかに見えた。
  しかし、アブー・バクルの後で2代目カリフとなったウマルは、新たに将軍を任命し、態勢を立て直し、636年、カーディシーヤで重装の騎兵や象兵を含むペルシア軍を撃破し、642年にはニハーヴァンドでペルシア皇帝自らが率いる親征軍を大破して、皇帝は数年後に部下に殺されて、こうしてペルシア地域も、イスラム教徒に下ったのであった。 一方、こうした遠征と同時並行的に、イスラム軍は、海からも遠征を開始した。637年、小艦隊ではあったが、イスラム軍はアラビア半島東部のオマーンを出港して、インドのボンベイ付近を略奪し、その後も、インド洋方面への攻撃を繰り返した。
  こうして、イスラム教はその軍事活動をもって教勢を中東中に広げ、周辺地域への遠征活動はその後も続き、短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。
 スンナ派とシーア派の分離
  しかし、拡大とともに内紛も生じ、2代カリフ・ウマルの暗殺後、ウスマーンが後を継ぐが、イスラム教徒内でわだかまっていたウマイヤ家クライシュ族の中の有力部族)への反発から、やがて彼も殺され、ムハンマドの従弟のアリーが4代目カリフとなる。が、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィアは反発し、両者の間で戦闘を交えた対立が起きてしまう。結果的に、アリー(661年)とその息子フセインは殺害され(680年)、ムアーウィアがカリフとなり、以後は選挙によらず、ウマイヤ家の家長がカリフ位を世襲するようになった。イスラーム勢力はこれを機に、ウマイヤ朝という明白な世襲制王朝へと変貌することになり、その体制の違いから、アリーまでの四代を正統カリフとして、以後のカリフと区別する見方が、一般的である。
  また、こうした四人の正統カリフのうち、三人までもが暗殺で亡くなっているのも特徴的である。こうして脱落したアリーの支持勢力を中心に、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張する急進派のシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外の体制派のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。また、ウマイヤ朝下では、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。
 ウマイヤ朝
  ムアーウィアは、現実感覚に富み、柔軟な手練手管でイスラム帝国を統治した。彼の体制が大きく変わるまでの約100年弱の期間を称して、一般にウマイヤ朝と呼ぶ。彼はウマイヤ家の封土であったシリア優先政策を採り、首都もダマスカスに移したが、他方では、懐柔政策で地方の反乱を未然に防ぎ、息子ヤジードのカリフ位世襲に腐心した。当時の史料には、メッカ・マディーナの有力者に賄賂を与え、反対者を孤立させたうえで、自ら千騎を率いて、マディーナに乗り込み、残った者達を黙らせる様子が描写される。
  こうして、680年に彼が死ぬと、息子のヤジードが即位するが、前例のないカリフ位世襲に反対し、前々代カリフ、アリーの子、フセインが朋輩達に唆されて、反乱を企図する。彼らの反乱は、順次、ウマイヤ朝軍に撃破されるが、その過程で、メッカのカーバ神殿は焼かれ(681年)、マディーナは大規模に略奪され(683年)、翌年には、千人の父なし子が生まれた。イスラム史家は、これを直前のハルラの戦いからとってハルラの子と呼ぶ。シーア派は、フセインの死を悼み、毎年、10月(ムハルラム)の最初の10日間には祭典を行い、彼の一行の殺された地、カルバラはマシュハド・フセインとして聖地のひとつとする。

  一方のウマイヤ朝も、ヤジードが死ぬとその子ムアーウィア2世がカリフ位を継ぐが、病弱で在位3か月にして世を去り、反乱は多発。宿将マルワーンはこれらを平定し、684年にカリフ位に即位するも、後継問題のこじれから在位1年にして妻の一人に暗殺される。こうした中、新たにカリフに即位したアブドゥル・マリクは、文武に長けた名君と讃えられ、再び反乱を起こしたメッカを落として、ようやくウマイヤ朝は小康状態を取り戻した。彼と、その子ワリードの代に、イスラム教徒による遠征は再開され、ギリシャでは東ローマ帝国に攻め入り、コンスタンティノープルを包囲。
  708年には、北アフリカ一帯を征服し、711年にはイベリア半島に上陸して、現地のキリスト教国(西ゴート王国)を滅ぼして、ピレネー山脈を越えて、フランスに侵入した。フランスへの進撃は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れるまで続いたが、その後、キリスト教徒による抵抗が強くなり、8世紀中盤には、フランスを放棄して、ヨーロッパではイベリア半島のみを保持するようになる。一方、東部でも同時期(705年)に遠征を再開し、名将クタイバは、サマルカンド占領を嚆矢に、中央アジア、トルキスタン一帯を制圧し、751年にはタラス河畔で唐と激突し、これを撃破した。
  しかし、その後彼は罷免され、それを不満に反乱を起こすが、自分の部下により殺害され、こうしてイスラム帝国の領土拡張は終息した。また、こうした時期、アブドゥル・マリクは、キリスト教徒を激しく嫌い、厳しく弾圧したが、何名かのカリフは懐柔策を行い、キリスト教徒を下層民として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を課すことで満足した。改宗は奨励され、重税の減免と社会的地位向上を求めて、ムスリムに改宗する者も少なくなかったが、一方で、このシステムにはジレンマがあり、異教徒が減ることは税収の減少を意味し、ウマル2世の代には改宗者(マワーリー)に地租を課すようになり、それはしばしば大きな反乱を誘発した。エジプトでは8世紀にはまだ大多数がキリスト教徒であり、これらがイスラム教徒に改宗するまで、なお500年の年月を必要とした。
 アッバース朝以後
  ウマイヤ朝では、ワリードが死ぬと、子のウマル2世が継いだが、彼の治世は文治政策で後世の史家の評判は良い。その後は、短命だったり暗愚なカリフが相次ぎ、ウマイヤ朝が元来、その構造に抱えた問題(シリア優先主義、アラブ人と改宗者(マワーリー)の不平等)のために、相変わらずに反乱は頻発した。最後の君主、マルワーン2世は、首都をユーフラテス川上流のハルラーンに移し、反乱の大部分を鎮定し、再発防止にシリア諸都市の城壁の撤去を行った。
  こうして、ウマイヤ朝は自らの手で本拠地シリアに破壊の手を加えてしまい、直後に起きたアッバース家の反乱にあえなく敗れ去った。政権の移行は大きな体制の変化を伴ったため、これをアッバース革命という。
  前代のウマイヤ朝がシリア重視主義だったのに対して、アッバース朝では、傾向としてイランが重視され、アラブムスリムと非アラブムスリムの間の租税・待遇が平等化された。政権発足当初の百年間は、政治・経済はもちろん、文化面でも繁栄し、官僚体制やインフラが整備された。(対して、ウマイヤ朝は、部族制の延長的なところがあった。)
  一方で、前嶋信次は、「しかし、ウマイヤ朝は、白衣・白旗に烈日がてりりはえて、どこか陽気で野放図なところがあったのに、アッバース朝の方は黒旗、黒衣で、なにか重苦しく、暗い影が付きまとう感じを与えるが、なぜであろう」とこの時代の評価に一石を投じる。 政権交代にあたって、ウマイヤ家の者達は、徹底的に捜索され、捕縛、虐殺された。また、整備された官僚制と徹底したカリフの神聖視の結果、人とカリフの間を文武百官の層が隔てるようになり、人民とカリフの距離は、いよいよ遠くなった。
  前嶋は、「ウマイヤ朝のカリフたちは人間くさいというか、俗っぽいというか、古代アラビアの気風が濃厚であったが、アッバース朝の帝王たちは、だんだん神がかった存在になって、一般民とは隔絶された半神半人のごときものと思われるにいたった」と評価する。アッバース朝のカリフは初代は、アッラーが現世に示した影、と言われ、二代目からは、「アッラーによって導かれたもの」「アッラーによって助けられたもの」といういかめしい称号を帯びるようになった。
  こうした中、領土の拡張の停止に伴い、イスラム教の伝搬も下り坂になるが、他方、イスラム商人の交易を通して、その後の数世紀間に、東南アジア、アフリカ、中国などにイスラム教がもたらされ、一部をイスラム教国、もしくは回族地域とすることに成功した。
  しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。
近現代
  近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興英語版と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。リベラル思想アラブ社会主義等による世俗主義路線の軌道修正も試みられたが冷戦終結以降衰退が著しい。従来世俗主義の代表格であったトルコでは、軍部や財閥と結託した世俗派への反感から21世紀になるとイスラム主義に急旋回している。
宗派や分派
 スンナ派
   イスラム教で最大の勢力を有する宗派である。下位分類に法学派(マズハブ)と呼ばれるものがある。
   ・四大法学派とその分派   ・ハンバル学派   ・ワッハーブ派   ・シャーフィイー学派   ・マーリク学派   ・ハナフィー学派
 シーア派
   イスラム教で第二の勢力を有する宗派である。
   ・ジャアファル法学派 / 十二イマーム派   ・ウスール学派   ・アフバール学派   ・シャイヒー派   ・イスマーイール派   ・ニザール派ホージャー派)   ・ムスタアリー派ハーフィズィー派)   ・ザイド派
 上記の多数派から政治的理由により分離・成立したもの   ・ハワーリジュ派イバード派 : ハワーリジュ派から派生したものの中で唯一現存する宗派)
 消滅したもの  ・ザーヒル学派(スンナ派の学派)   ・アズラク派(ハワーリジュ派の分派)   ・カイサーン派(シーア派の一派)   ・カルマト派(イスマーイール派の分派)
 異端、あるいは、イスラム教に収まるか疑問視されるもの
   ・スーフィズム(神秘主義) 主な教団・ナクシュバンディー教団マイズバンダル教団ベクタシュ教団メヴレヴィー教団リファーイー教団イドリース教団サヌーシー教団アフマディア派(スンナ派の流れをくむと自称するが、異端とされる)・アラウィー派(シーア派、あるいはイスラム教に収まるかは疑問視されることがある)・アレヴィー派(シーア派、あるいはイスラム教に収まるかは疑問視されることがある)・ドゥルーズ派(イスマーイール派から派生したものだが、シーア派、あるいはイスラム教に収まるかは疑問視されることがある)・クルアーン主義ネーション・オブ・イスラム
 独立したもの   イスラム教から独立して、別の宗教となったものを示す。・バーブ教(シャイヒー派から派生)・バハイ教(バーブ教から派生)
    イスラム教は先行したユダヤ教、キリスト教などから大きな影響を受け、名前こそ違えど「同じ神」を信仰するとされる。また、シーク教やバハイ教の成立に大きな役割を果たした。
ユダヤ教との関係
  ユダヤ教はアブラハムの宗教の根本ともいえる宗教であり、イスラームに大きな影響を与えている。イスラームの律法的側面は、ユダヤ教から受け継いだものであるとされる(有名な例:割礼ハラール司法律法)。
  ユダヤ教の旧約聖書にはクルアーンと同じ預言者が記されている。クルアーンではユダヤ教徒はアッラーによって最初に啓示(最初の預言者はアーダム(アダム)とされる)を与えられた啓典の民であり、キリスト教徒やサービア教徒といった同じ啓典の民とともにアッラーを信じ信仰を守っていれば、ご褒美を頂けるとされる。
キリスト教との関係
  キリスト教もまたイスラームに強い影響を与えた。しかし、ムハンマドはナザレのイエスを使徒であり預言者であるが、神の子ではないとしている。具体的には、『クルアーン』で「これがマルヤムの子イーサー。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い」と述べ、対して、キリスト教では聖書で、「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」とする。このようにお互いの教義に致命的な矛盾点があり、キリスト教がもし正しければ、イスラム教は偽者、反キリストということになってしまい、イスラム教の視点からはその逆であり、こうした点から白取春彦はキリスト教とイスラム教が対立せざるを得ないのも当然、とする。クルアーンにもイエスの物語が記されているが、白取春彦は、キリスト教側から見れば、イスラム教は、聖書を安易に書き換えた都合のいいフィクションでしかない、とする。
  基本的にイスラームではイエス以外のパウロを含むキリスト教の使徒達を神の啓示を受けた預言者として考えないので新約聖書で福音書等(インジール)イエスの言動に根拠を持つ可能性のある部分以外は尊重しない。
シーク教との関係
  シーク教は中世から近世にかけて、インドにおけるイスラーム神秘思想とヒンドゥー教のバクティ信仰が相互浸透をした結果生まれた一神教であり、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教などインド系宗教の特質とともに、アブラハム系の宗教の特色も備えている。
バハイ教との関係
  バハイ教はイスラーム教の預言者ムハンマドの外孫フサインの子孫(サイイド)であるとされるセイイェド・アリー・モハンマドによって開かれた宗教バーブ教を母体とし、その弟子バハウッラーによって創始された宗教である。バハイ教はそもそもイスラーム教12イマーム派から生まれた宗教であり、その思想や戒律にはイスラームの強い影響が見られる。イスラームの保守層からして、バハイ教徒は「背教者」「異端」であり、すさまじい憎悪を浴びている。多くのイスラーム教国でバハイ教は圧迫されており、とりわけ発祥の地イランではイスラーム共和制の名の下に弾圧されている。バハイ教の信者は無神論者などと同様、憲法でその存在を承認されておらず、信仰が発覚した場合投獄され最悪の場合死刑に処される。
現代のイスラム教を巡る諸問題
  スラム教徒が多数派の国、あるいは無視できない規模の少数民族である国に、また欧米などの先進国におけるイスラム教徒の移民やその子孫が起こす宗教問題など現在議論されている問題をここで述べる。またイスラム教徒が多数派の国でも国の実権を握る軍部(トルコやアルジェリア)や政党(バアス党)などがシャリーアを施行していない場合はこれらの国はイスラーム国家ではない。またイスラム教徒が多数派でなくとも一部の州で多数派を形成する場合はシャリーアがその州だけ適応される場合がある。
 政治的問題(詳細は「イスラーム主義」および「イスラーム原理主義」を参照)
   イスラームの項目でもあるように、「イスラム教は宗教的理念のみならず、民間の慣習や政治に深く関わっている。そのため、政教分離を特徴とするシステムとイスラーム的なシステムは相矛盾する」という主張がある。これは伝統的社会秩序を維持したい保守派ムスリムによって主張されることが多い。そのためどの程度折り合いをつけるかが、20世紀以来のイスラーム社会の大きな問題となってきた。
   多くの国は、政教分離原則と保守的イスラムの間で融和を図ろうとしているが、こうした姿勢自体に対する反発もある。いわゆる「イスラム原理主義」、あるいは政治的運動としてのイスラーム主義は、こうした改革に反対し、可能な限り保守的イスラームの伝統、クルアーンの教えにのっとらねばならないと主張する。しかし、世界経済の進展や、国際社会に対する欧米諸国の力の圧倒的な優位のもとではイスラーム主義的な主張は多くの困難を抱えている。
   この考え方をとっている例として、イランイスラム共和国アフガニスタンターリバーンISILが挙げられるが、イランイスラム共和国はこういった主張を暴力等で行おうという考えはなく、イラン革命時も非暴力的な思想をもって行われたし、イスラム体制になってからも他国に戦争を仕掛けたことは一度もない。むしろ、革命前まで国王によるアメリカの傀儡政権であったイランが、革命によってイスラムの路線をとったことで、アメリカの代理としてイラクのサダム・フセインが侵略戦争を仕掛けた。
   また、中東戦争など、ムスリムが大多数を占める国々に対する欧米諸国の介入を目にして、欧米のキリスト教社会がイスラーム社会を圧迫し、蹂躙していると構図でとらえるムスリムは多い。にもかかわらず、イスラーム諸国は国際的な発言力が大きいとはいえないし、イスラーム諸国の中に強い影響力を持つエジプトやサウジアラビアなどが親米・欧米協調路線をとっているため、イスラーム諸国はしばしばイスラーム社会が「被害者」となる情勢に対して無力である。これらのことが、イスラーム社会の多くの民衆に反欧米感情とともに、自国政府の「同胞の危機に対する無力」に対する失望・不満を鬱積させることになっていて、暴力によって欧米社会の圧力を排除しようとする過激派(アルカーイダジェマ・イスラミアなど)の誕生のひとつの要因になっている、との見方もある。
 人権問題
   イスラム教国、若しくはイスラム教国以外でもムスリムで構成される社会内での人権に関する事柄が、国際社会における人権侵害としてしばしば他宗教圏の国々との相克を生み出し、特に反イスラーム主義的傾向を持つ立場の人々(キリスト教原理主義多神教優越主義など)からイスラーム自体の欠陥として指摘されることがある。また、アッバース朝の時代にほぼ固まったイスラーム法を遵守する結果、その後の社会情勢の変化に対する柔軟な対応を欠くようになったという主張も根強い。
   だが、イスラーム法は社会情勢の変化に全く対応していないわけではなく、ファトワーの積み重ねや解釈の変更などを歴史的に積み重ねてきている。それは形成初期からのハナフィー派に見られるように、イスラーム社会の内部において、イスラームの伝統の名のもとに行われてきた慣習や法を、イスラームの教えの解釈の適用変更によって改善すべきだという主張や、イスラームと人権などの価値観、政教分離原則は共存可能である、あるいはイスラームは本来人権を尊重する教えである、といった言説に見受けられる。
   それでも尚、現代でもイスラーム法に厳格に基づく刑罰が行われている国もあり、サウジアラビアやイラン革命後のイランターリバーン時代のアフガニスタンなどでは、イスラーム法を厳格に適用した結果、国際社会から人権侵害として憂慮された事例が報告されている。イランでは、道徳裁判所の判決が人権を無視していると伝えられることが頻繁に起こっている。サウジアラビアでも、窃盗の罪で手を切り落とす刑罰(ハッド刑)が未だに実施されている。
   しかし一方で、イスラム教徒が圧倒的多数を占める国でありながら、死刑を廃止した国(トルコセネガルなど)、廃止されていないもののほぼ執行停止状態にある国(アルジェリアチュニジアモロッコなど)も存在する。イスラム圏全域で厳格なイスラーム法の適用が行われているわけではない。ただしこれらの国では世俗主義をかかげる政府側がイスラム教と対立している状態にあり、エジプトやアルジェリアではイスラム教を掲げる政党が政府あるいは実権を握る軍部から弾圧されている。

   死刑存置論者であるイブン・アッティクタカーは、自著でありまた、イスラーム世界の統治論の古典にもなった『アルファフリー』の中で、死刑の適切な使用は認められるが、同時に『王者は死刑を命じて、人命を奪うことに関しては慎重であるべきだ。』『死刑とは、この世にもはやその生き物の生命が残らない事件である』と断言し、さらに失った命は決して取り戻すことができないことを述べ、死刑にあたっては事実をよく取り調べ、且つ他の方法がないか熟慮すること、そして死刑にせざるをえない場合も、決して四肢切断のような残虐な殺し方はせず、苦しまず慈悲深い死刑法を選択すべきと述べている。彼はまた同書物内にて、死刑を避け、人命を尊ぶために、イスラーム法の姦通罪死刑規定により処刑された男に関するムハンマドのハディースを挙げ、ムハンマドは最終的に彼を死刑にせざるを得なかったが、それを避けるための努力を尽くした後だったことを指摘し、そして、死刑と同様の効果を持ち、人命を奪わない永久禁固の有用性を説いている
   全体的な趨勢としては、社会の都市化・近代化が進んだ地域では、イスラームの教えを根拠とする価値観が薄らぎやすい傾向があるとされる一方、都市化・近代化で伝統的な共同体が破壊された結果、人々がアイデンティティの拠りどころをイスラーム的な価値観に求め、生活を再び保守化する傾向があるとされている。特にトルコなどでは田舎から都市部へ流れた労働階級の宗教的保守化は現在の政情に大きな影響を与えている。しかし、保守的なイスラム教徒といえども、現代社会の価値観と全く無縁に生活するというわけにはいかないため、彼らも一定程度は現代社会の価値観を受け入れる動きを見せている。レザー・アスランによると、イスラム教徒各人に独自のクルアーン解釈が育まれてきている。
信教の自由とシャリーアとの矛盾(詳細は「ズィンミー」、「イスラーム国家」、および「イスラム教における棄教」を参照)
  現代社会においては、特定の宗教を奉ずる宗教国家もしくは共産主義国などの無神論国家などが、特定の宗教的信条を擁護し、他を迫害してきたこと、それにより宗教を理由とした戦争も起こったことなどを踏まえ、先進諸国の多くで信教の自由が承認されている。国際人権宣言などでも、信教の自由は国家が人間に保障するべき最重要の権利のひとつとして位置づけられている。
  しかしイスラーム法(シャリーア)はこのような国際的合意形成が出来上がる以前の宗教的な自民族中心主義が常識であった時代の法体系である。そのためシャリーアにはムスリムに対しイスラームの絶対的優越に基づく統治を促し、その領域内の異教徒や無神論者をムスリムの下に置くことを義務付ける部分が存在している。彼らはズィンミーとして一定の権利保障を得るが、イスラームに改宗しないかぎりさまざまな差別を受け、宗教的実践にも一定の制限がついていた。また、ムスリムがイスラームを離脱することは背教罪として死刑となるのが原則だった。(ハナフィー学派のみ他国への追放という別解釈)
  そのためイスラーム法に基づく国家体制は必然的に、現代国際社会において要求される完全なる信教の自由と平等という原則と衝突することになる。
  ただし、例外的な事例として、前近代イスラーム世界においては、インドのムガル帝国アクバル帝の治世など一時期見られたように、異教徒に対して積極的な寛容策がとられた事例が知られている。
  現代のイスラーム教徒多数派の国の中には、世俗主義を信奉しシャリーア法を廃止または制限して伝統的なイスラム勢力と対立関係、あるいは内戦状態にある国、(トルコ、アルバニア、アルジェリア、シリア、インドネシアなど)から、イスラーム法を適用し、異教徒を従属的な地位に置く国(パキスタン、アフガニスタンなど)、さらには支配者の定めるイスラームの宗派以外は、イスラーム教の他宗派も含めてその信仰を認めない国(サウディアラビア)まで存在している。
  一般的に言って、イスラム教が優勢な社会でも多民族国家の場合は異教徒に対しては比較的穏健・寛容な政策がとられることが多い。多民族国家では、必然的に宗教も多様となり、相互の信仰を認め合い、批判を控えるような態度をとらなければ、それは内乱などの社会不安の原因となってしまうからである。例えば、世界最大のイスラーム国家であるインドネシアでは、「建国五原則」の中でイスラーム以外の宗教を尊重することを掲げており、イスラム教のみならず、仏教・キリスト教・ヒンドゥー教を公認している。これには、インドネシアの民族・宗教の多様性が深く影響している。
  他宗教に対してはその時代や地域によってさまざまな政策がとられていて、寛容な社会も存在するにもかかわらず、厳格で偏狭な国や地域ばかりを取り上げて、イスラム教は信仰の自由を認めないなどとする言説には問題があるといえる。
「女性差別」問題(詳細は「イスラームと女性」を参照)
  イスラームを信仰する国や地域では、女性への差別や虐待が深刻化している地域も存在する(「名誉の殺人」、「女子割礼」、「女子の就学制限」)が、実際はこれらはクルアーンなどでは言及されておらず、イスラーム以前からある、その地域の土着の慣習に起因するものである。
  クルアーン及びイスラーム法は男女がそれぞれ独立した社会活動を行い、結婚・出産等に関しては男女ともに大幅に制限が設けられるのは当然であるという思想を根本に有している。そしてこれらの規範において男性と女性の権利の差異が厳然として存在するという事実は否定の余地がないとされる。この見解を補強するため持ち出されるもののなかにクルアーン第4章34節に書かれた『アッラーはもともと男と(女)の間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女は(男にたいして)ひたすら従順に、またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘めごとを他人に知られぬようそっと守ることが肝要。反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(懲らしめ)、それも効がない場合は打擲(ちょうちゃく)を加えるもよい。だが、それで言うこときくなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。』という文言がある。
  こうした事情を踏まえた上で、本質主義的に「イスラーム社会では男女は共存することはできず、男女間には完全な平等は存在できない」と主張し、イスラーム世界の女性を解放するためにはイスラームそのものを廃棄せねばならないと唱える非ムスリム諸国の知識人も存在している。
  しかしクルアーンやイスラーム法を紐解けば、当時低い立場にあった女性の立場や元来男性より頑丈で無い存在である女性を守るために下された条項なども含まれている。そこには法的に女性の遺産相続や離婚、学習の権利を認める文言があり、これを根拠にシャリーアなどイスラーム社会の伝統的な法慣習に擁護的な論者はイスラームは男女同権であり、男尊女卑という非難は不当であると主張している。女性の遺産相続額は一般に男性の半分だが、これはクルアーンによれば家庭の生活費を払うのは男性であり、金銭的に男性の方が負担が大きいからである。
一夫多妻
  イスラーム法では男性は4人まで妻を有する権利を有する一夫多妻制であるが、これは男尊女卑的な思想に基づくものではなく、当時更に多くの妻を有する男性が存在した状況を制限するため・預言者ムハンマドが率いる2回の戦争で夫を亡くした女性の地位を守り、母子の生活手段を確保するために神が下した啓示であり、弱者救済策を目的としている。複数の妻を有する場合は夫は妻らを平等に愛し、扱うことが義務とされており、クルアーンにもそのことが記されている。
  現代社会では、一部の裕福な層とかなり貧困な層を除き、イスラーム社会の夫婦の大部分が一夫一妻である。また、イスラム教は、妻の数を4人までと定めている唯一の宗教で、同じ一神教であるキリスト教やユダヤ教には、そのような法律は定められていない。両者で一夫一妻制が主流なのは歴史的経緯によるもので、宗教的なものではない。
女児の早婚(詳細は「イスラームと児童性愛」を参照)
  前近代イスラーム世界では、世界の他の地域同様早婚が社会的に認められていた。イスラーム法における女児の最低結婚年齢は9歳であるが、これは預言者ムハンマドがアーイシャと結婚し、初性交を行った時のアーイシャの年齢に由来している。そのため結婚の形式を満たした上での女児への性行為は、客観的に見て虐待と思われるような内容であっても、問題視されることは少なかった。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと初夜を迎えた年齢は15歳であったと主張している
  無論これらは非イスラーム世界でも多少の違いはあれほぼ同様であり、単に前近代において女性や子供の人権への配慮の水準が現代のそれと比べ物にならないほど低かったという事実を示しているだけで、これらがイスラーム固有の事象であるという意見は事実に反する。しかし現代においてイスラーム世界におけるそれらの慣習が大きく(ときに過度に)注目され、議論の対象となっているのは、非ムスリム諸国の多くでこれらの慣習が人権侵害として問題視され廃止されていく中、イスラーム世界の中には預言者ムハンマドの事跡なども挙げてこのようなイスラーム法の規定を遵守すべきだという意見が存在しているためである。実際にイラン=イスラーム共和国などシャリーアを施行する一部の国では、女児は9歳から結婚することができる。またイエメンでは、結婚最低年齢を定めないという解釈を取っている。そのため、イランやサウディアラビア(サウジアラビア)など、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されている。
  しかし一方で、多くの国ではすでにそのような慣習は廃止され、女性の結婚最低年齢も非イスラーム諸国と大差はなく、女児への性行為はシャリーアにおける結婚の形式を満たしているかにかかわらず性的虐待であるという意識も広まっている。例を挙げれば、モロッコでは国王お抱えのウラマー評議会が、ムハンマドの事跡を根拠に9歳の少女との結婚・セックスを認めるファトワーを出したウラマーを非難する声明を出している。
女性の服装規定問題(詳細は「イスラム圏の女性の服装」を参照)
  保守的なイスラーム教徒の主張するところの服装規定を厳格に守れば、女性は自ずと家庭外での活動を制限される。これは、保守的イスラームでは女性は家庭の外では夫以外の男性の視線から自身を守るために女性的な部分を包み隠すべきであるとする教義が存在するためである。これがイスラーム以外の宗教の信徒でも見られる西アジア社会の伝統的な女性の服装習慣と結びついて、女性は外出時には体全身を覆う外出用の衣装を身に付けることがイスラーム的に好ましいと多くの社会では考えられている。サウディアラビアやターリバーン時代のアフガニスタンのように、政府による女性の外出時の服装制限が行われた地域も存在する。また、服装の自由化が進んだ地域でも、外出時の習慣としてスカーフを着用し、髪を隠すムスリムの女性は少なくない。しかし、エジプトトルコなどでは、学生など特に若い層を中心に、日常生活のほとんどをジーンズミニスカートなど軽装で過ごす女性が多い地域も増えてきている
  女性のスポーツの問題においても、服装が制限されることによって競技ができない場合も少なくないため、多くの国で女性のスポーツ浸透が大幅に遅れている。中には、イスラーム教の棄教または他宗教への改宗によってスポーツ社会に進出した女子選手も存在する。女子バレーボールでは、エジプトの代表チームが近年登場するようになっているが、このユニフォームは、保守的イスラームにおける服装規定に抵触しないようにデザインされている。また、スカーフ着用で試合に出場する選手も多い。しかし中央アジアやトルコなどではイスラム教徒であっても他の国のチームと同じユニフォームで出場しているため、ステレオタイプなイスラム理解は不適当であるとされている。

  スカーフ着用に関しては、イスラーム社会の内外で現在、賛否両論が相次いでいる。慣習に厳格な国では女性が外出する際にスカーフを着用することが強要されている。一方で、世俗主義を標榜するトルコなどでは、政教分離の原則に基づいて公的な場でスカーフを着用することが忌避される。加えて、リベラル・イスラームを標榜する人々や、イスラーム社会外部の人々の中には、スカーフ着用を女性の人権抑圧の象徴として着用を避けるべきと主張するものも少なくない。トルコや、あるいはフランスなどのヨーロッパにおける政教分離原則の国々においては、法律によるスカーフの着用禁止を巡って、自発的にスカーフを着用するムスリムの女性から逆に人権上の問題ととらえられているような事例もしばしば発生しており、政治問題に波及している。逆にスカーフをかぶらないムスリムの女性(とりわけ若い世代)が、伝統的な価値観を持つ世代(特に父親)と衝突し、殺害されてしまうような事態も発生している
女性への性暴力
  現代のイスラーム世界において、女性に対する性暴力の解決に対する障害はイスラームを名目としたものや、地域の慣習に基づくもの、およびそれらの混合したものなどさまざまである。
  イスラームの伝統的解釈によれば、婚外の性的関係は厳しく取り締まられるべきものである。また、イスラームの教え自体が家父長制を支持するものと解釈されてきたこともあり、現代のイスラーム世界でも女性の処女性を男性家長が厳しく管理することを社会規範とする面があり(イスラーム女性のベールは、このような目的を達成するための衣類であるという側面も有している)、そのため女性に対する性暴力を告発することにたいする心理的・社会的・法的制約が存在する。無論これは前近代以来人類社会に普遍的な特徴であったが、現在のイスラーム世界におけるそれは人権思想との衝突などの点で他の地域のそれより強く注目される傾向にある。
  強姦罪において、イスラーム法によれば容疑者を有罪とするためには証人が4人必要であるとされ、証人を用意できない場合逆に誹謗中傷の罪や、姦通罪に問われることから被害者にとって不利が大きく、国際的な非難の的である。イランでは、道徳裁判所の判決により、強姦の被害者が姦通罪により死刑になるような事例も伝えられている。
  さらに、貞操や名誉などの伝統的な社会通念を重んじる地域では、強姦の被害を受けた女性は被害者であるとみられるよりもむしろ「恥」とみられるような感覚をもたれることになり、国法によらず私法により処刑されること(名誉の殺人)があり、問題となっている。
  ベールなどをつけていない女性に対する性暴力に関して、一部の超保守的なイスラーム教指導者は、まるでそのような女性はレイプされて当然であり、女性のほうが悪いという発言をすることもあり、問題視されている。オーストラリアでは2006年10月に一人のイスラーム教のウラマーが「肌を露出している女性は強姦を誘っている」という発言を行い、オーストラリア世論の憤激を買った。ただしこの発言に対しては、オーストラリアのウラマー達の多数が「強姦を正当化するものであり容認できない」という見解を示している。
  また後述するジハードに関しても、ムハンマド在世中の遠征で女性捕虜に対する強姦が兵士の報酬として認められていたことを伝えるハディースが存在しており、問題視されている。
  また、前近代イスラーム世界では、古代ローマにおける処女を殺すことへのタブーから引き継がれた俗信として「処女のまま死んだ人間はアッラーの待つ天国に行く」というものがあり、それを防ぐため処女の死刑囚は、死刑執行の前に看守に強姦させるべきだという説があった。現代でもこの俗信を信奉する人間がおり、イラン革命後のイランでは指導者ホメイニーの布告であるとして処女の死刑囚を看守に強姦させてから死刑に処した事例が報告されており、国際社会の批判を浴びている。
「ジハード」概念の問題(詳細は「ジハード」、「イスラーム過激派」、「世界イスラム帝国」、および「イスラムファシズム」を参照)
  ジハードの語源は「苦闘・抗争努力」であり、1880年頃から「あらゆる種類の教義的な聖戦運動」を指す語になった
  ムスリムが“神のために苦しむこと、自分の欲望を断ち切って努力すること”をジハードというが、これは歴史的に見ても対外的侵略の口実として用いられることがあり、とりわけ預言者ムハンマドの時代から初期イスラーム帝国の時期にかけては、イスラーム共同体が全世界とその人民を支配下に置くのは宗教的義務であるとして、侵略戦争としてのジハードが行われ、現代のイスラーム世界の骨格となる領域が形成された。また現在でもこのような論法により破壊行為が行われることがある。
  もともと伝統的な多神教が信仰されていたアラブ人の社会の中で生まれ、さらにユダヤ教やキリスト教などの異教を乗り越える中で拡大していったイスラム教は、自らが純粋で真正な一神教であるという確信に基づく自意識を強く持ち、イスラーム共同体の開祖であるムハンマドの時代からムハンマド自ら多神教の信者を屈服させその神像を打ち壊し、さらに敵対するユダヤ教徒を屈服させることによって急速な拡大を実現した宗教であるとされているが、その一方で、ムハンマドは和平を強く象徴しており、神像破壊は、幾度と行われた外交的な交渉で勝ち取ったメッカへの巡礼許可のもとに行われたものである。イスラームを奉ずる国家や民族が、他の宗教を奉ずる文化に対して圧迫を加えた例は少なからず見受けられるが、宗教の強制はイスラムでは堅く禁じられているという見解もある。ただし伝統的にはイスラム教からの棄教は死刑もしくは無期禁固とする学派が多く、現在でも保守派ムスリムの中にはこの見解を支持する意見が根強い。シリア小アジアイベリアインドなどでは、ムスリムによってモスクへと改築されたり、破壊されてしまったキリスト教会、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院が数多く見られる。
  ただし歴史上のそれに関しては、アウラングゼーブ帝以前のムガル帝国において非ムスリムとムスリムの宥和政策がとられたこと、キリスト教徒の十字軍がイスラーム教徒をはじめとして異教徒にすさまじい迫害を行ったことからも見て取れるように、宗教的迫害はイスラームに限られたものではないのは紛れもない事実である。イスラームのみを本質的に攻撃的であるとするのは宗教的エスノセントリズムの側面が極めて強いことも指摘されている。
  イスラームによる他宗教への弾圧に関しては近年でも、ターリバーン政権によってバーミヤーンの大仏が破壊されてしまったことは記憶に新しい。
  しかし一方で、イスラム教では、無実の者を殺害することは一切禁じられており、クルアーンにも厳しく書かれていることを、ウラマーや学者は指摘する。したがって、イスラームとテロリズムは、実態としてテロリズムの実行者や支持者たちにどう受け入れられているかは別問題として、本質的には相容れないものであるという反論がある(とは言え迫害により無実の者が多数殺されたことや名誉の殺人が未だ横行しているのも事実であるが)。
また勿論のこと、多くのイスラーム諸国及びムスリムは、先述のアメリカ同時多発テロ、チェチェン共和国独立過激派によるベスラン学校占拠事件やイスラーム過激派による外国人誘拐及び殺害然り、これらの残虐非道な行為を行う者を異端者として見る向きもあり、特にジハードを悪用した者達を強く非難する者も多いことも事実である。

  近年、自爆テロなどで活動の過激さを増しているイスラーム主義の先鋭的勢力も、異教徒や「背教者」に対するジハードを旗印として活動を行っている。特に、アメリカ同時多発テロ以降、その傾向は強まりつつある。同時多発テロの実行犯たちは、これを「ジハード」であると認識し、善行と信じて犯行を実施したとされている。
  ただし、ハマースアルカイーダなどの武装組織の活動は、「宗教的ジハード」の性質と共に、アメリカの対アラブ政策やイスラエルのパレスチナ占領とパレスチナ人虐殺などに対する抵抗運動としての側面も併せ持っている。これらの問題は地政学的な要素を多分に含むため、イスラーム圏の内外はもちろんイスラーム圏内部の諸政府・民衆のレベルにおいてすら、そうした活動に対する評価は一様でない。2010年4月に誘拐され、同年9月4日に開放されたジャーナリスト常岡浩介を誘拐した「ヒズビ・イスラミ」に至っては、実は身代金目的の誘拐であった上に、2004年に発生したイラク日本人人質事件においては、何故かシーア派の衣装を着たスンナ派の聖職者が交渉に当たったなど、あまりに矛盾していた(後に女性NGO職員が犯行グループと接点があった可能性があったことが中日新聞で報道されている)ことからも解かるように、(特に貧困地域における)身代金目的の誘拐にターリバーンなどのイスラム過激派組織名を名乗ることがあるのも事実である。
  同時多発テロに際しても、イスラーム社会の宗教指導者たちの少なからぬ者は、「暴力はイスラームの本質ではない」として直接的・間接的にテロを批判したが、複数の宗教指導者が、テロの実行犯たちをジハードによる「殉教者」として称えるファトワーを発するなど、評価はまちまちであった。このため、特に日本などにおいてはイスラム教=(ターリバーン、アル=カイーダなど)過激派揃いと言ったイメージがあるが、先述の通り、地政学的にも数多くの解釈がある中で、これらの問題を純粋に「宗教的な」問題として一括りにすべきではないことに注意すべきである。
イスラーム戦争法の問題
  ジハードの名における軍事行動そのものだけでなく、それを律するイスラーム戦争法もまた、摩擦の種となることがある。 上にもあるようにイスラーム戦争法では女性捕虜の強姦は合法であり、勝利者であるイスラーム戦士の正当な権利として認められる。
  また現代の戦時国際法では捕虜とした兵士を処刑する場合、正当な理由があり且つ裁判などの定められた手続きを踏まなければならないが、イスラーム戦争法ではそのような理由や手続きがなくとも司令官の一存で捕虜を処刑することが許されている。しかしこれはあくまで許されているだけであり、義務ではない。
  そして民間人の捕虜であっても健康な成人男子ならば、戦闘員の捕虜と同様に取り扱うことが認められており、したがって司令官の判断による処刑も合法である。2004年に起こったイラクの日本人青年人質殺害事件では、人質となった青年は旅行者で戦闘にまったく関わりを持たない民間人であったが、日本のイスラーム法研究者の中田考はこの規定の存在を指摘して、イスラーム戦争法では当該青年の殺害は合法であると述べた。
  ただし、当たり前ではあるが戦時国際法が国際的に制定され国家間で遵守されているのに対し、イスラム戦争法に関しては戦時国際法の及ばない紛争関係で横行しており、国際的に捕虜の権利が認められた現代においては特にイスラムにおける女性蔑視の観点が未だに取り入れられていることもあり、批判対象ともなる。
クルアーンの扱い
  イスラーム教徒の主流派解釈によれば、クルアーンの内容はすべて神の言葉であり、すなわちクルアーンは被造物ではなく、アッラーフの一部、アッラーフのロゴスである。このことからクルアーンへの批判は、アッラーフそのもの(そしてそれを奉ずるイスラームという宗教自体)への冒涜であるという意見が存在している。
  そのため、イスラームは神自身の意思を反映した完全な教えであり、他の宗教に対して絶対的に優越しているという信念ともあいまって、非ムスリムがクルアーンを批判したり、ムスリムほどそれを丁重に扱わないこと、およびクルアーンの破損に対して、激しい憎悪を燃やす事例もある。イスラーム世界の中にはクルアーンへの批判やその破損を犯罪と規定し、ムスリム、非ムスリムを問わず犯人を死刑に処する国も存在している。2001年6月には富山でクルアーンが破られたのが発見され、在日パキスタン人を中心とするムスリムが抗議デモを行ったが、一部の参加者からは「(犯人を)殺す」などの過激な文言も出されたという。2008年6月にはパキスタンでクルアーンを焼き、ムハンマドを批判したとしてムスリム男性が死刑判決を受けた
  非ムスリムの多くにとってクルアーンは神のロゴスではなく、自由に批判の対象となりうる一個の書物、人間ムハンマドの書いた本である。そのためムスリム側に見られるクルアーン崇拝とは大きなズレがある。このような両者の認識のズレが上記のような問題を引き起こすことが多々ある。
イスラム教と科学(詳細は「イスラム科学」、「創造論」、および「クルアーンへの批判#科学的観点」を参照)
  他の宗教の聖典同様イスラム教の聖典クルアーンにも当時の不正確な科学的知識や神話的世界観に基づく記述が散見されており、これを文字通りの意味に受け取った場合現代科学とは矛盾する面が多々ある。主要なものとしては進化論の否定であり、現在でも多くのイスラーム諸国で進化論の主張は禁止されている。クルアーンの記述を科学的に正しいものだとする主張なされ、これも批判の対象となっている。クルアーンに限らず、イスラームの世界観そのものを科学に結びつける試みもなされている。 無論すべてのムスリムが進化論を否定していたり、クルアーンを一字一句信奉しているわけではないものの、現在のところイスラーム諸国では保守的な宗教理解が科学の発展を阻害している側面がある。
  ただしこれも歴史的に見れば、中世から近世にかけてユーラシアの中でもっとも科学技術の進んだ文明のひとつはイスラーム文明であったこと、その技術や学識は現代科学の基礎であることなどからもわかるように、イスラームが本質的に他宗教より反科学的というわけではない。
イスラム教理解そのものに関する問題
  欧米や日本などではイスラム教の峻厳・教条的側面のみが強調され、イスラームへの偏った見方をあおっているという主張がある。これはイスラームを差別・敵視する勢力だけにとどまらず、イスラームを『理解』し、『尊重』しなければいけないと主張する勢力であっても同じであり、そこで言われる『イスラーム』とは教条的・原理主義的なものであって、それを機械的な文化相対主義に基づいて『理解』し、『尊重』すべきだと唱えるのみで、イスラーム世界に存在するさまざまな性的・文化的・社会的抑圧に宗教的・非宗教的手段を用いて抵抗するリベラルなムスリムの存在は紹介されないことが多いという意見もある。ムスリムをある特定のステレオタイプに基づいて単色の多様性のない存在として捉え、自分たちとは理解し合えない絶対的な『他者』として分類し、機械的な相対主義の適用に基づいてそれを『尊重』することが果たして真のイスラム教徒との共存に繋がるのかという疑問も提示されている。
日本とイスラム教
  日本ではイスラームが一般ではなく信者数も少ない。しかし中東出身者を中心に信者がおり、その数は日本全国で7万人とされる。ただ日本国内の信者の数については信用できる統計があまりなく、5万人とする説もあれば20万人近い数字をあげる者もいる。日本の行政上、各宗教の信者数を正確に数える事は無い。文化庁が宗教年鑑を発行しているものの、神道や仏教の信者数を合わせるだけで日本の総人口を超えてしまうなど、日本の行政は各宗教の正確な信者数については重視していない。イスラームはその中でも「諸教の諸教団」として分類され、天理教や円応教などとひとまとめにされている。
  日本にイスラーム教徒が初めて登場したのは明治維新後の開国の時代になってからである。日本に滞在したロシア人インド人トルコ人などの中にはイスラム教を信仰する者が少数ながら存在し、彼らによって布教されたと一般的に考えられている。特にロシア革命で祖国を離れたタタール人が日本のイスラームに大きな役割を果たした。最初期の日本人ムスリムに、明治時代に長くインドで貿易商をしていた有賀文八郎がいる。 日本には1931年に日本国内初のモスクとして愛知県名古屋市に建設された名古屋モスク兵庫県神戸市中央区神戸モスク東京都渋谷区にあるトルコ系モスクの東京ジャーミイ(当時は東京回教学院)などある。
婚姻
  イスラム教徒と非信徒の日本人が結婚する場合、改宗が望ましい。既に婚姻関係にある日本人夫婦の片方がイスラームに改宗した場合、残る配偶者も改宗するまで距離を置くことが推奨されるが、必ずしも守られているわけではない。
  婚姻に際してムスリムが配偶者となる日本人に割礼を要求するケースがある。男性の割礼はスンナであるが義務ではなく、女性の割礼はスンナでもないため基本的に実践する必要はない。しかしムスリム側がこれを義務だと考えている場合に日本人配偶者と軋轢が生じ、婚約を解消する例も報告されている。







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