イラク共和国



日本とイラクの関係
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歴史
イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)
イラク共和国の成立から湾岸危機まで(1958~1990年)
イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(1990~2003年)
イラクの戦後復興および新イラク共和国の成立後(2003年~)


2003年7月、小泉純一郎内閣総理大臣の強い指導力のもとイラク特措法が成立し、同年12月には自衛隊がイラクに派遣されてサマーワを拠点に復興支援活動に当たった。陸上自衛隊2006年7月まで、航空自衛隊2008年12月まで活動した。特に、第一次復興業務支援隊長を務めた佐藤正久1等陸佐は現地のイラク人たちと良好な関係を築き、自衛隊が最初に架けた橋に現地住民が「Sato Bridge」(佐藤の橋)と命名するほどの好意を寄せられた。任務を無事に遂行して帰国した佐藤1佐はイラク復興支援活動で大いに名を上げ、2007年1月には自衛隊を退職、同年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙に自民党の比例区公認候補として立候補して、初当選を果たしている。

2004年6月28日イラク暫定政権が発足したことを受けて、日本は同政府を承認[1]。約12年半ぶりに日本とイラクの正式な国交が回復した。2006年5月20日、イラクで初となる民主選挙によるイラク正式政府が発足。2014年2月25日、日本とイラクの両国間で投資協定が発効[1]2015年1月17日エジプトの首都カイロで開催された日エジプト経済合同委員会の席上において、安倍晋三内閣総理大臣は「ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します[15]」と公式に述べて、反ISIL(いわゆる「イスラム国」)およびイラク支持の姿勢を明確に打ち出した

貿易関係

イラクは、確認石油埋蔵量1400億バレル(2014年1月推定、CIA)という豊富な石油資源を有する世界第5位の産油国である[1]。原油生産量は日産380万バレル(2015年4月、IEA)で、うち一日当たり298万バレルが輸出に充てられており(2015年3月、イラク石油省アラビア語版英語版)、その中から一日当たり6万4100バレルほどが日本へ輸出されている(2014年12月、経済産業省「石油統計」

日本とイラクの貿易取引高はそれほど多くなく、2014年の日本からイラクへの輸出が約613億円、イラクから日本への輸入が約1632億円であり[1]、日本から見れば約1019億円の貿易赤字となっている。2015年のイラクの輸出相手国・地域のランキングにおいても、日本は、中国(イラクの輸出全体に占める割合の23.9%)、インド(21.4%)、韓国(11.8%)、アメリカ(8.6%)、イタリア(7.1%)、ギリシャ(6.5%)、オランダ(3.5%)、台湾(2.6%)、スペイン(2.4%)、シンガポール(1.9%)に次いで11位(1.9%)を占めているに過ぎない

イラクから日本への輸出品目はもっぱら石油であり、イラクが日本から輸入している品目は自動車鉄鋼製品機械類などである[1]1990年の湾岸危機から2003年のイラク戦争にかけての時期には日本とイラクの商取引に中断が見られたものの、両国が必要とする需要品目の傾向は基本的に大きく変わっていない。バアス党政権時代も含めて、日本からイラクへの輸出や現地進出は主に商社が担っている傾向にある。

例えば住友商事の場合、1965年からトヨタの自動車をイラクに輸出し始めており、イラン・イラク戦争のあった1980年代には年間7万台の自動車をイラクに輸出するようになっていた[11]。サッダーム政権に対する経済制裁が科されて日本とイラクの公式な関係がほぼ途絶していた時期にも、何度かヨルダンから陸路でイラク入りするなどして関係を繋ぎ止めており、これはイラク戦争終結後の日本からイラクへの自動車輸出の再開という形で結実した[11]。通常の舗装道路だけではなく砂漠の悪路での走行性能や耐久性能、耐暑性能をも問われるイラクにおいて、トヨタの自動車は非常に高く評価されており、イラクやシリアを侵略する国際テロ組織ISIL(いわゆる「イスラム国」)がランクルを愛好しているほどである

資源プロジェクト「サウス・ガス・ユーティライゼーション・プロジェクト」

三菱商事イラク石油省アラビア語版英語版ロイヤル・ダッチ・シェルの完全子会社サウス・ガス・カンパニーSouth Gas Company、以下SGC)と協力して立ち上げた、バスラ・ガス・カンパニーBasrah Gas Company、以下BGC)による南部ガス回収・有効利用プロジェクト「サウス・ガス・ユーティライゼーション・プロジェクト」(South Gas Utilization Project)は、商社のイラク進出の重要な例として挙げられる。このプロジェクトは、原油生産に随伴して産出される日量7億立方フィートもの膨大な天然ガス資源(日本の天然ガス総需要の約7%に相当)が有効活用されないままフレアー(燃焼処理)されてしまっているのを、回収、有効利用することを狙いとするものである[19]。まず2008年9月、ロイヤル・ダッチ・シェルがイラク石油省との間で同省傘下のサウス・ガス・カンパニーと共にプロジェクトを推進する合弁会社を設立する旨の覚書を交わすことから始まり、2009年8月には、同プロジェクトに三菱商事が参画し、三菱商事がBGC[20]の株式5%を取得する合意を締結した[19]2011年11月15日に同合意がイラク政府閣議承認を得たことでBGCが正式に発足、その出資比率は、SGCが51%、シェルが44%、三菱商事が5%となった[21]。加えて同月中、独立行政法人日本貿易保険(NEXI)が三菱商事の出資に対して「イラクの非常危険」を対象とした海外投資保険を引き受けている[22]2013年5月、約1年半に渡った事業化調査を終え、BGCはイラク南部の三つの油田(ルメイラズバイルアラビア語版英語版およびウェストクルナフェーズ1)から随伴で産出されるガスを全量回収・精製・分離して、発電用ガス・液化石油ガスコンデンセートを生産する事業が操業開始された[23]。原油価格の暴落[24]という一点を除けば同プロジェクトは順調で、2016年2月、BGCのサイモン・ダマン・ウィレムス社長 (Simon Daman Willems, Managing Director) は「当社は現在、毎日6億立方フィート以上のガスを処理しており、向こう数年で更に処理能力を成長させて行こうという野心的な目標を持っている。」と語り、2015年12月に日産2200トンだったLPGの生産量が、2016年1月には日産3300トンに上昇したことを付言した


イラク
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イラク共和国、通称イラクは、中東の連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェートシリア、トルコ、イランヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

イランとは、イラク戦争バアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。

エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。

シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍機甲部隊特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。

ヨルダンとは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。
イスラエルとは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。

王政
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。一方、アングロ・ペルシャ石油英語版メロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年クウェート石油英語版を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。
1941年4月1日イラク・クーデター英語版によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー英語版のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役英語版で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐
1943年en:1943 Barzani revolt1945年12月、ムッラームスタファ・バルザーニー英語版ソ連占領下の北西部マハーバード英語版クルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。
1948年en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)5月15日第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。
1955年中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシム自由将校団 (イラク)英語版が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

アラブ連邦
1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

軍事

2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。

クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。

経済

IMFの統計によると、2013年GDPは2,293億ドルである。一人当たりのGDPは6,594ドルで、これは世界平均の60 %を超え隣国のイランヨルダンを上回る水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。

通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円

イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。

1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。

第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。

1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。

イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。

1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。

1996年12月に国連石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。[11]。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。

民族

国連の統計によれば、住民はアラブ人が79 %、クルド人16 %、アッシリア人3 %、トルコマン人 (テュルク系) 2 %である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。

かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ英語版と呼ばれる町に定住している。

イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。

マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。

南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。

また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。


2019年3月
イラン  イラク
   イランロウハニ大統領は隣国イラクへの3日間の訪問を終えましたが、イラクアブドルマハディ首相との貿易拡大や両国間の鉄道敷設
     に関する覚書に署名・・・と良好な関係をアピールした。トランプ大統領は、イラク側にイランとの関係を絶つように求めていたが、イラクに
     とっては、天然ガスや電力の供給元であるイランはトルコに次ぐ貿易相手である。双方は商業関連ビザ(査証)を無料で発給する方針でも
     合意している。(2019.3.14)




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