残留孤児問題




2019.8.8-Yahoo!! JAPAN ニュース-産経新聞-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190808-00000563-san-soci
「無国籍」フィリピン残留日系2世、新たに10人確認

戦前にフィリピンへ渡った日本人移民のもとに生まれた「残留2世」が無国籍状態になっている問題で、民間の支援団体が今年4~7月にフィリピン西部のパラワン州で調査した結果、新たに10人の残留2世の存在が確認されたことが分かった。都市部を中心に確認されていた無国籍の残留2世は今年3月時点で1069人に上るが、調査の及んでいない地域にも未把握の2世が多数いる可能性が浮上した。

 残留2世の日本国籍取得などの支援を行っているNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)」によると、調査は各地の日系人会が窓口となり情報を収集。PNLSCが本格的な身元調査や日本国籍取得に必要な証拠の収集や手続きを行っている。

 フィリピンで日系人会が設立され始めたのは昭和末期ごろから。首都マニラや北部ルソン島のバギオ、南部ミンダナオ島のダバオなどにできた日系人会を通じて調査が進められてきた。パラワン州があるパラワン島では昨年末にようやく日系人会が設立され、PNLSCが現地調査を実施していた。

 外務省の調査によると、今年3月時点で把握されているフィリピン残留2世は3810人。このうち1723人が生存しているとされるが、父親の身元が判明するなどして日本国籍が取得できたのは654人にとどまっている。

 PNLSCによると、フィリピンは7千余りの島々からなるため、本格的な調査ができていない地域がまだ残っており、こうした2世が今後も見つかる可能性は高い。担当者は「戦後74年が経過し、2世は高齢化している。迅速に国籍取得できるよう、日本政府による公的な支援が不可欠だ」と話している。

 フィリピン残留2世の無国籍問題 戦前にフィリピンへ渡った日本人移民の子供がフィリピン国籍も日本国籍もない状態に陥っている問題。日本人移民の父親が戦時中に死亡したり、捕虜となり日本に強制送還されたりしたため、妻や2世が取り残された。2世は戦後、反日感情から逃れるためにフィリピン風の名前を名乗ったり証明書類を廃棄したりしており、日本人の子であることの証明が難しいとされる。


中国残留日本人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国残留日本人は、第二次世界大戦末期のソ連軍侵攻と関東軍撤退により日本へ帰国できず、中国大陸に残留した日本人である。日本の法律などでは、中国在留邦人ともいう。

概要
満州・蒙古への開拓-「満蒙開拓移民」も参照
1931年9月18日以降の満州事変の直後に、日本はの最後の皇帝である溥儀を担ぎ出して現在の中国東北部にあたる旧満州満州国を建国し、同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住計画の「満蒙開拓移民」が実行され、1936年廣田内閣の計画で500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。
当時の日本は、アメリカ合衆国発の世界恐慌から引き起こされた昭和恐慌にあり、地方の農村地域は娘を身売りさせる家が続出するなど困窮、疲弊しきっており、農業従事者の移民志向も高いことから大規模な移民となった。

ソ連の対日参戦-「ソ連対日参戦」、「引揚者」、および「引揚援護庁」も参照
第二次世界大戦末期の1945年8月8日に、ソ連は日本と結んでいた中立条約を一方的に破棄して宣戦布告して8月9日未明満州国へ侵攻した。関東軍は民間人からトラックや車を徴用して列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成してソ連軍に対峙したことから、避難民は老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退により、満州における日本の支配権とそれに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部への入植者らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした者も少なくなかった。遼東半島へソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は、日本人収容所に数年間収容されて帰国が足止めされた。1946年春まで帰国は許可されず、収容所での越冬中に寒波栄養失調や病気で命を落とす者が続出して家族離散や死別の悲劇が生まれた。この避難の最中に身寄りがなくなった日本人は、幼児は縁故または人身売買により中国人の養子として「残留孤児」に、女性は中国人の妻として「残留婦人」になり命脈をつないだ。一方で樺太では、樺太庁長官大津敏男の尽力により残留孤児の問題が発生しなかった。

満州からの集団引き上げは1946年春から一時期の中断を含めて実施され、葫蘆島などの港から100万人以上の日本人が帰国したが、国共内戦が再開するにつれ、中華民国軍中国共産党軍徴兵されたり労働者として徴用された。日本人に対する過酷な支配によって通化事件などの虐殺も発生した。日本国政府は、のちに中国大陸に成立した中華人民共和国国交を結ばず、1953年に未帰還者留守家族等援護法を制定して1958年に集団引揚げ終了し、1959年に「未帰還者に関する特別措置法」を制定して残留孤児らの戸籍を「戦時死亡宣告」で抹消した。

日中国交正常化を機に、帰国していた肉親らは中国に残留させた子供や兄弟の消息を求めて長岳寺住職山本慈昭周恩来へ書簡を送り、中国でも残留孤児探しが開始されたが文化大革命周恩来の死去、日中両国政府の緩慢さなどから、1981年3月に初めて「残留孤児訪日調査団」47人が、以降1999年11月まで30回で2116人が、肉親との血縁関係確認に訪日した。

中国残留邦人の現在
2018年12月31日現在永住帰国を果たした中国残留邦人とその家族は20,907人である。2015年の調査ではおよそ93.4%が70歳を超えたと高齢化が進んでいる。神戸市では中国残留邦人のための共同墓地に土地を提供する事になった(建立費は帰国者持ち)

問題
多くが幼い頃から労働力として扱われて教育を受けずに中国人として養育されており、日本語はほとんど身につけておらず、キャリアアップなど日本での社会適応能力に乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けており、国や政府からの援助金や、ボランティア団体の寄付金などで生活をしている。社会から孤立、高齢化など様々な問題が起きている。








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