ベトナム社会主義共和国の問題-1
2024.08.15-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240815-AWIOW6ZQVNMY7DSDARGJHAJF5M/
ベトナムの新最高指導者が初外遊で中国訪問へ、18日から 習近平国家主席と会談
【北京=三塚聖平】中国外務省は15日、
ベトナムの最高指導者、トー・ラム国家主席(ベトナム共産党書記長)が18~20日の日程で中国を訪問すると発表した。滞在中に習近平国家主席(中国共産党総書記)と会談する。
ラム氏は今月3日、前任のグエン・フー・チョン氏の死去を受けて最高指導者の党書記長に選出されたばかり。初の外遊先に中国を選ぶことで、対中関係を重視する姿勢を見せた。
中国とベトナムは南シナ海の領有権を巡って対立が長期化しているが、共産党同士というパイプを使った関係を重視している。
中国側は、習氏の招きに応えてラム氏が訪中すると説明している。中国外務省は同日発表した報道官談話で、
ラム氏が初の外遊先に中国を選んだことについて「両党、両国の関係発展を高く重視していることを十分に体現した」と評価。今回の訪中を通じて「伝統的な友好を継続し、両国の運命共同体の建設を深化することを期待している」と表明した。
習氏は7月、グエン・フー・チョン氏の死去を受けて在北京ベトナム大使館を弔問し、ベトナムとの関係を重視する姿勢を示した。
2024.07.19-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240719-CV3KCUVXWFPMJCL62D7NGDGSTI/
ベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長死去 汚職摘発推進で異例の3選
ベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長が
19日、ハノイ市内の病院で死去した。80歳だった。国営メディアが報じた。
2011年の就任後、高官の汚職摘発を積極的に進めて党の求心力向上に努め、21年1月に党規約の上限を超える3選を果たしていた。
党は今月18日、党内序列2位のトー・ラム国家主席が事実上の代行を務めると発表した。
ただ国政運営への影響は大きく、後継者の選定や日本や米国、中国との外交への影響が注目される。
(共同)
2023.12.13-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20231212-M3CUTICAFFNUTMP4AUF6ESEUC4/
習近平氏、ベトナムと「運命共同体の構築」合意 首脳会談 戦略協力パートナーシップを深化
【北京=三塚聖平、マニラ=森浩】中国の習近平国家主席は12日、2017年以来約6年ぶりにベトナムを訪問し、
最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長とハノイで会談した。中国メディアによると、両首脳は両国と双方の共産党で「中越の全面的戦略協力パートナーシップの深化を基礎に、戦略的な意義を備えた中越運命共同体を手を携えて構築する」ことで合意した。
中国は南シナ海の領有権を巡ってベトナムとの対立が長期化しているが、経済協力をテコに関係を深め、日米との関係強化を図るベトナムの動きに歯止めを掛ける狙いとみられる。習氏は会談で
「ベトナムを周辺外交で優先的なものとみなしている」と発言した。習氏は13日まで滞在する。
中国外務省によると、習氏は12日にベトナム共産党機関紙ニャンザンに寄稿し、南シナ海問題を念頭に
「海上での意見の相違を適切にコントロールし、双方が受け入れ可能な解決方法を共同で探らなければならない」とも呼び掛けた。
ベトナムは同じく共産党の一党支配体制を堅持する中国とつながりが深いが、
南シナ海の領有権を巡る中国との対立を背景に、
9月に米国、11月には日本と首脳会談を行い、両国との関係を「包括的戦略的パートナーシップ」へと引き上げることで合意した。
ベトナムにとって日米との関係は中露と同格となり、安全保障面を軸に連携をさらに深めたい考えだ。
特に米国との関係は重要性が高く、中国への牽制(けんせい)効果としてだけではなく、ロシアに代わる兵器調達先として期待している。
一方で
ベトナムも最大の貿易相手国である中国の意向を無視できない。香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(電子版)は
「ベトナムは日米との関係を温めていることで、中国側から誤解や不満を招く可能性を懸念している」と指摘。
ベトナムは日米に秋波を送りつつも、中国とも関係を維持するバランス外交を進める考えだ。
2023.01.25-Yahoo!Japanニュース-https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadajun/20230125-00334396
ベトナムが日本に支援要請!新幹線建設はそんなに喜ぶべきことなのか?
■ハノイ発のニュースを大歓迎するメディア
ベトナム政府は、1月13日、国内を縦断する南北高速鉄道(ハノイ−ホーチミン新幹線)の建設に関して、日本政府に支援を要請したことを発表した。
この日、日本の鈴木俊一財務相がハノイを訪れ、ファム・ミン・チン首相と会談。この会談後に、ベトナム政府が発表したもので、これを現地メディアがいっせいに伝えた。これを受けて、日本のメディアも報道。その報道ぶり、論調を見ると、どこも「
大歓迎」といった様子だった。
報道に対するコメント、ツイッターなどのSNSに寄せられた声なども、歓迎ムードに満ちていた。
「やはり日本の技術が信頼された証拠」「中国のやり方はアコギだから、日本が選ばれるのは当然」「これを機に東南アジアにおける日本の存在価値を高めるいいチャンス」「ベトナムを南北に日本の新幹線が走るのを想像するとワクワクする。ぜひ、成功させてもらいたい」「日本外交の勝利」-----など、挙げていけばきりがない。
しかし、そんなに浮かれていいものだろうか? 現在の日本の状況から見て、ベトナムでの高速鉄道建設は、利のあるものなのだろうか? ここでは、冷静に考えてみたい。
■東南アジア各国で中国勢の後塵を拝する
なぜ、日本のメディアをはじめとして、国民の多くが今回のことに浮かれるのか? その理由は、なによりも中国に一矢を報いたことにあるだろう。
これまで、アジアにおける高速鉄道建設において、
日本は中国にことごとく負けてきた。日本人の誇りとも言える新幹線の技術を中国に提供したために、中国製新幹線が本家本元を追い越してしまったのだ。
インドネシアにおいても、マレーシアにおいても、そしてタイにおいても、高速鉄道計画が持ち上がるたびに、日本の新幹線は最有力とされた。ところが、フタを開けてみるとことごとく中国勢に奪われ、中国の後塵を拝してきたのである。その顕著な例がインドネシア高速鉄道だ。首都ジャカルタから西ジャワ州の州都バンドンまでの約150キロを結ぶ高速鉄道の入札において、当初は日本勢が最有力視された。日本は、技術力と安全性を訴えた。
ところが、
中国は、インドネシア政府の財政負担を求めず、日本より安価な条件を提示した。これでは、日本勢が勝てるわけがない。
タイ高速鉄道もマレーシア高速鉄道(シンガポール–クアラルンプール、2021年中止)も、同じような経緯で、日本勢は見る影もなかった。
■大幅遅れのインドネシア新幹線の教訓
中国に負けたインドネシア新幹線だが、日本にとって負けてよかったという出来事が続出した。なにより、2016年に起工されたものの、工事が遅れに遅れ、いまだに完成していない。当初計画では2019年の開業だった。
工事の遅ればかりか、昨年12月には、作業中だった中国人作業員2人が死亡、5人が負傷するという大事故が起きている。それでも、今年の6月には開業するというから、関係者はみな首をかしげている。こうした事態に、日本勢は「それ見たことか。中国に頼むからこうなる」と溜飲を下げている。しかし、
工事の遅れ、トラブルの続出は、中国のせいばかりとは言えない。
たしかに中国が提示した建設計画と工事はずさんだった。しかし、それ以上にインドネシア政府の計画がずさんだった。土地収用は遅れ、資材価格は高騰、建設費は膨れるばかりになった。そのため、当初の「政府負担なし」は反故にされ、インドネシア政府は日本円で350億円あまりを負担せざるをえなくなった。さらに、工事は環境問題も引き起こした。
こうしたことから言えるのは、東南アジアにおける高速鉄道建設に利はほとんどないということだろう。
■高速鉄道(新幹線)はベトナム人の夢
今回、ベトナムがあえて日本に支援を要請したのは、インドネシアが教訓になったと言われている。「中国に発注したら大変なことになる」と、ベトナム政府が判断したと伝えられている。
もともと、
ベトナムは中国に対する警戒心が強い。なにより、地続きであり、かつて中越戦争で戦火を交えている。しかし、ハノイとホーチミンを結ぶ高速鉄道は、ベトナム政府、いやベトナム国民の夢だった。なにしろ、ベトナムにはまともな鉄道はなく、ハノイもホーチミンも、バイクとバスが主な交通手段である。
ハノイとホーチミン間には、鉄道はあるにはある。しかし、これは1935年開業という古い狭軌の路線で、なんとハノイからホーチミンまで約29時間もかかる。そのため、南北を結ぶ高速鉄道の建設はベトナムの悲願だった。
だから、2007年に中国から雲南省の昆明からハノイまでのパンアジア鉄道建設計画に絡んで、さらにハノイとホーチミンを高速鉄道で結ぶという計画を持ちかけられたとき、即座に飛びついたのである。ベトナム政府はこの計画を発表し、虫のいいことに日本にODAによる資金援助を求めた。
以後、この高速鉄道計画は資金繰り、工期の問題などをめぐり二転三転し、2021年10月になって、計画案がようやく政府決定されたというのが、これまでのおおまかな経緯だ。
■南北縦断1545kmという一大事業
ベトナム政府が策定した鉄道整備計画は、「2021~30年の鉄道網整備計画および50年までの展望」というもので、高速鉄道の完成は2030年となっている。ただし、これは全線開通ではなく、全線開通と計画の完遂は2050年という、とんでもない先の話だ。
ハノイとホーチミンの鉄道ルートの全長は約1545km。ここを狭軌(1000mm)の在来線とは異なる標準軌(広軌)(1435mm)で結び、最高時速320~350キロで、約5時間で結ぶ計画だ。在来線は改良して貨物専用路線とし、高速鉄道は旅客専用路線となる。
ハノイ–ホーチミン新幹線は、細長いベトナムの国土を南北に縦断し、計画では全線の60%が高架となり、30%が地上、残る10%がトンネルになるという。これは大変な工事、大事業だ。
■ホーチミン地下鉄建設遅延の教訓
が、ここで想起しなければならないことがある。それは、
すでに日本勢は、ベトナムで鉄道建設に着手していることだ。現在、ホーチミンではベトナム初の地下鉄建設が、2023年度内の開業を目指して、日本勢(清水建設、前田建設、日立製作所など)によって進められている。
ただし、当初の計画では開業は2018年だったから、大幅な遅れである。この大幅な遅れの原因は数々あるが、最大の原因は、原材料費や賃金の上昇などで建設費が倍増し、予算繰りがつかなくなったことだ。なんと、予算が国会の承認をえるのにじつに5年以上を要している。
国の予算が下りないため、ホーチミン市では過去3度にわたって日本円で約250億円を自腹で拠出した。それでも、未払いが何度も発生し、在ベトナム日本大使がホーチミン市に対して工事中断の警告をするという異例の事態まで発生した。
ベトナムは共産主義強権国家なのに、公的機関の権限が分散していて、決定が遅く、案件はたらい回しなのである。となると、新幹線建設がこの地下鉄建設の二の舞にならないとは言えない。つまり、今回の新幹線建設は、けっして歓迎できるものではない。
■技術を奪われ、支援を踏み倒される可能性
東南アジア諸国を取材して思うのは、この地域は現在、たしかに発展している。人口も若く、活気に満ちている。ベトナムはとくにそうだ。しかし、長年、大国の援助で経済を回してきたため、その意識が染み付いてしまっている。
端的に言うと、「
中国がダメなら日本がある。日本がダメなら、欧米からカネを引っ張ればいい」と思っている節があり、高速鉄道計画はその象徴的案件ではないかということだ。つまり、
国家プロジェクトと言っても計画はずさんで、支援ばかりを求め、自腹をできるだけ切らないようにしてくる。ところが、もはや斜陽国、先進転落国だというのに、日本政府は相変わらず大国意識のままで、カネをばらまく外交をやろうとする。
ひと言で言えば、
日本ほど「お人よし」の国はない。将来の需要予測が明確でないうえ、建設計画、ロードマップがおおざっぱ。さらに資金計画がずさんなプロジェクトに、政府の要請がなければ参画する企業などないだろう。
さらに、
ベトナムはいくら中国と仲がよくないとはいえ、経済は密接に結びついている。しかも陸続きだから、いずれ鉄道は必ず結ばれるだろう。そのとき、オペレーションシステム、路線保持システム、安全システムなどで中国と互換性を持つことになれば、日本の経済安全保障は大きく損なわれる。
こうして見てくると、ベトナム新幹線は、日本にとって魅力的なプロジェクトとは思えない。ベトナムを甘く見てはいけない。相当したたかな国である。
2020.4.17-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/200417/wor2004170032-n1.html
中国海洋調査船がベトナムEEZ内に再び進入 警戒強化
【シンガポール=森浩】
中国の海洋調査船がベトナムの排他的経済水域(EEZ)に進入したことが分かり、ベトナムが警戒を強めている。調査船は昨年にも南シナ海で海底の調査などを実施。
新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)を受けても、海洋進出を続ける中国の姿勢が改めて浮き彫りとなった。
ロイター通信などによると、中国の海洋調査船「海洋地質8号」は14日、ベトナム沿岸から158キロの地点で確認された。16日にはマレーシアやブルネイの近海に移動したもようだ。実際に海底の調査などを実施したかは分かっていない。ベトナム外務省は声明で
「すべての国が国連海洋法条約や国際法の関連規定に従うことを要求する」と反発した。
海洋地質8号は、昨年7月にも数カ月間にわたって南シナ海を航行。ベトナムのEEZ内にも進入し、香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストはスプラトリー(中国名・南沙)諸島近くなどで、海底約3万5000平方キロを調査したと報じた。
南シナ海には石油や天然ガスなど豊富な天然資源が存在するとみられているが、調査はほとんど進んでいない。
米空母で新型コロナの感染が広がり、即応能力の低下が指摘される中、中国は南シナ海で自国の権益を拡大する動きを強めている形だ。
中国とベトナムをめぐっては、4月2日に南シナ海のパラセル(同・西沙)諸島付近で、中国海警局の船がベトナム漁船に体当たりして沈没させる事故が発生。乗組員8人は無事だったが、
ベトナム政府のほか米国やフィリピンも中国を批判した。
2019.9.10-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190910/wor1909100021-n1.html
中越、南シナ海で対立激化 中国海洋調査船航行にベトナム猛反発 「14年以来最悪の状況」
(1)
【シンガポール=森浩】南シナ海をめぐり、中国とベトナムの対立が激化している。埋蔵資源を狙う中国の地質調査船がベトナムの排他的経済水域(EEZ)内で繰り返し確認され、ベトナム政府が抗議。中国との摩擦が続く米国も中国批判に乗り出すなど、事態は混迷の度を増している。
両国間の緊張が急速に高まったのは、7月以降だ。複数の報道によると、7月3~14日、中国の海洋調査船「海洋地質8号」が、ベトナムのEEZ内に進入し、スプラトリー(中国名・南沙)諸島西側のバンガード堆(同・万安灘)近くを航行。ベトナム海軍の船舶とにらみ合った。
その後、海洋地質8号は海域を離れたが、8月にも現場周辺での航行が確認されている。香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)は海洋地質8号が海底約3万5千平方キロを調査したと報じた。
ベトナムは現地でロシア企業とともにガス田開発に乗り出しており、中国の動きは看過できない。ベトナム外務省は「中国の度重なる違法行為に抗議する」と反発。米国も中国がベトナムの資源開発を妨害しているとし、2度に渡って「いじめ同様の戦術では隣国の信頼も国際社会の尊敬も勝ち取れない」などと批判する声明を発表した。
(2)
中国は「中国船は中国が管轄する海域で作業している」(耿爽報道官)などと反論している。中国船のベトナム近海での活動は止まらず、今月3日には、中国の国有石油・天然ガス企業「中国海洋石油」の大型クレーン船「藍鯨」がベトナムのEEZ内で航行しているのが確認された。
両国は2014年5月、ともに領有権を主張するパラセル(同・西沙)諸島そばで中国が油田掘削を行ったことで対立が先鋭化。両国の船舶同士の衝突が発生し、ベトナム国内では反中デモも展開された。
SCMPは今回の事態を「14年以来最悪の対立」と表現。「ベトナム政府はこの問題について国連に提起するなど、国際化させる可能性がある」と報じており、事態の沈静化は見通せない状況だ。
ベトナム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベトナム社会主義共和国、通称
ベトナム(
ベトナム語: Việt Nam / 越南)は、
東南アジアの
インドシナ半島東部に位置する
社会主義共和制国家。首都は
ハノイ。
東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨は
ドン、人口約9,370万人(2017年末)
。
国土は南北に細長く、北は
中華人民共和国、西は
ラオス、南西は
カンボジアと
国境を接する。東と南は
南シナ海に面し、
フィリピンや
ボルネオ島(
マレーシア連邦や
ブルネイ、
インドネシア)や
マレー半島(マレーシア連邦および
タイ王国南部)と相対する。
南シナ海南部の
スプラトリー諸島を「チュオンサ諸島」と呼称して自国領と主張し、一部を
実効支配している。南シナ海中部の
パラセル諸島(ベトナム名「ホアンサ諸島」)についても領有権を主張しているが、中国の実効支配下にある。
歴史
1-石器文化,2-青銅器文化,3-北属期,4-越人王朝の形成
5-モンゴルのベトナム侵攻-モンゴル帝国に連なる元が中国を支配した13世紀、皇帝クビライは3度にわたるベトナム侵攻
(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争。1283年、第2次元越戦。1287年、第3次元越戦争。1288年の白藤江の戦いで敗北した元軍は敗走した。
6-第四次北属期
7-南進時代
8-西山朝
9-阮朝
10-フランス植民地支配-
1847年4月15日、フランス軍艦が
ダナンを砲撃し、
フランスの侵略が始まる(
ダナンの戦い)。
1858年9月、フランス・
スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(
コーチシナ戦争、
1858年-
1862年)。
1862年6月、第1次
サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。
1867年6月、フランス領
コーチシナ成立。
1874年3月、
第2次サイゴン条約でフランスに
紅河通商権を割譲。
1882年4月、フランス、
ハノイ占領。
1883年6月、
トンキン戦争(
1883年6月 -
1886年4月)が勃発。8月、
癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)で
アンナンと
トンキンがフランスの保護領となる。
1884年5月、
天津停戦協定(李・フルニエ協定)を締結。6月、
甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。
1884年8月、
清仏戦争(
1884年8月 -
1885年4月)が勃発。
1885年6月、
天津条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。
1887年10月、
フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立(フランスによる植民地化。
日本では「仏印」と呼ばれた)。
11-反仏独立運動-フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者として
ホアン・ホア・タム(黄花探/通称:デ・タム)などが知られる。
1904年、
ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)と
クォン・デが
維新会を結成。
1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(
東遊運動)。
1907年、
en:Gilbert Trần Chánh Chiếuと
François-Henri Schneiderらによって(六省新聞、
1907年 -
1908年)が
サイゴンで発行される。
1912年、
広東で
ベトナム光復会を結成。
1913年、
Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初の
クオック・グー新聞の(『東洋雑誌』、
1913年 -
1919年)が
ハノイで発行される。
1916年、
コーチシナ蜂起。
1919年、
ホー・チ・ミンが
安南愛国者協会を組織。
1923年、
Diệp Văn Kỳによってクオック・グー新聞(『東法時報』、
1923年 -
1928年)が
サイゴンで発行される。
1930年、ホー・チ・ミンが
香港でベトナム共産党(
インドシナ共産党)を設立。
1930年に、
イエンバイ省で
グエン・タイ・ホックら
ベトナム国民党による
イエンバイ蜂起、
ゲアン省と
ハティン省で
ゲティン・ソヴィエトの蜂起が起こった。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
12-第二次世界大戦-
1940年、
ナチス・ドイツのフランス侵攻により、フランスは北部を占領され、南部にはドイツに協力する
ヴィシー政権が樹立された。これに伴い、
日本軍が北部
仏印進駐。
1941年、
タイ王国とフランス(ヴィシー政権)が
交戦。
日本政府による仲裁。直後に南部仏印進駐で米英蘭との対立を深めた
大日本帝国が
太平洋戦争を開戦。仏印は、
マレー作戦や
マレー沖海戦などにおける日本軍の策源地となった。
1944年、
ヴォー・グエン・ザップが
武装宣伝旅団(
ベトナム人民軍の前身)を組織。凶作に加え、アメリカ軍の
空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、北部(
トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(
1945年ベトナム飢饉)。
1945年3月11日、
保大(バオ・ダイ)帝が大日本帝国の援助(
明号作戦)下で
ベトナム帝国の独立を宣言。
1945年8月15日、
連合国への降伏を決めた
日本が
ポツダム宣言を受諾した旨を声明(
玉音放送)し、軍に戦闘停止を命令。
8月17日、ベトナム独立同盟(
ベトミン)がハノイを占拠(
ベトナム八月革命)。
9月2日、
ベトナム民主共和国の樹立を宣言、
ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任。同日、
日本が降伏文書に署名した。
13-アメリカの介入と南北分断時代-
インドシナ戦争
1946年11月、
ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争(
第一次インドシナ戦争、
1946年 -
1954年)が始まる。
1949年、フランスは
サイゴンにバオダイを復位させ、
ベトナム国として独立を認める。
国共内戦における
中国共産党の勝利で中国大陸に建国された
中華人民共和国と、
ソビエト連邦は、ベトナム民主共和国を
承認。以後、東西
冷戦下で北ベトナム及び統一ベトナムは、中ソや
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、
東欧社会主義諸国とともに
東側陣営に属することとなった。
北ベトナムの土地改革(
1953年 -
1956年)。
1954年5月、
ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、7月
ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、
北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(
北ベトナム)とベトナム国(
南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムでは
アメリカ合衆国を後ろ盾に
ゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名を
ベトナム共和国にする。
1960年12月、
南ベトナム解放民族戦線結成。
ベトナム戦争
1962年2月、アメリカ合衆国は
サイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入による
ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。
1963年11月22日に
ケネディ大統領が暗殺され、
ジョンソンが米大統領に就任すると、
1964年8月2日と4日の
トンキン湾事件以降、
米軍は戦争に直接介入するようになる。
1965年2月、アメリカが
北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入する。
1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムの
テト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、
パリ和平会談を開始したが、会議は中断してしまう。同年10月、
ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。
1969年1月20日、
ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者による
パリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、
南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。
9月2日、
ホー・チ・ミンが死去し、
レ・ズアンが
第一書記として党のトップとなる。
1972年4月、アメリカ・
ニクソン政権は
北爆を再開する。
1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、
パリ和平協定に調印する。
1973年、
日本との国交が樹立される。
1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が
春の大攻勢を行うと、南ベトナムの
ズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。
サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊に至る。
南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した
14-インドシナ戦争-上記参照
15-ベトナム戦争-上記参照
16-南北ベトナム再統一以後
17-カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争
18-関係改善期-
1991年6月27日、
ドー・ムオイが共産党書記長(最高指導者)に就任。
1993年2月、ベトナムとフランスが
和解(当時の
フランス共和国大統領は
フランソワ・ミッテラン)。
1995年7月、
クリントン・
アメリカ大統領が、ベトナムの
国家の承認と外交関係樹立を発表。1995年
8月5日、ベトナムとアメリカが和解した。
7月、
東南アジア諸国連合(ASEAN)がベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、
所有権や
契約の考え方を盛り込んだ、初めての
民法ができる。
1996年1月、
ASEAN自由貿易地域 (AFTA) に参加。
1997年12月29日、
レ・カ・フューが共産党書記長に就任。
1998年、
アジア太平洋経済協力 (APEC) 参加。
2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園がユネスコ
世界遺産に登録された。
2001年4月22日、
ノン・ドゥック・マインが共産党書記長に就任。
2003年、
日越投資協定締結。
2006年初頭、
Bui Tien Dungが拘留される。
6月27日、
チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党の
グエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)をベトナムの国会は選出した。また、引退する
ファン・ヴァン・カイ首相の後任に
グエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。
6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。
ダオ・ディン・ビン交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件『
PMU 18 scandal』で指導責任を問われ、事実上更迭された。
2007年1月11日、
世界貿易機関 (WTO) に正式加盟した(150番目の加盟国)。2007年
10月16日、
国連総会で
安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
政治体制
政体は
社会主義共和制。ベトナムの
統治体制は、
ベトナム共産党による
一党独裁制である。ベトナム共産党の最高職である
党中央委員会書記長(最高指導者)、国家
元首である
国家主席、
政府の長である
首相、立法府である
国会の議長を国家の「
四柱」と呼んでいる
。ベトナムでは原則として、中華人民共和国のように党と国家のトップを同じ人物が兼務することはなく、「四柱」を中心とした集団指導体制をとってきた。しかし、2018年10月には病死した
チャン・ダイ・クアン国家主席の後任として
グエン・フー・チョン共産党書記長が国家主席を兼任し、この原則が崩れている。首相は
グエン・スアン・フック、国会議長は
グエン・ティ・キム・ガンが務める。・・・「
ベトナム社会主義共和国主席」および「
ベトナムの首相」も参照・・・
マルクス・レーニン主義、
ホー・チ・ミン思想を基軸とする
ベトナム共産党は、現在の
ベトナム社会主義共和国憲法(2013年制定)第4条に「
国家と社会の指導勢力」と明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、
ホー・チ・ミン(初代ベトナム労働党主席兼ベトナム民主共和国主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。
1980年代までは、民主党、社会党などの
衛星政党も存在する
ヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な
複数政党制から、純粋な
一党制に移行した。現在、ベトナム共産党とその衛星政党以外の政党の結成は一切禁止されている。
政府の運営は極めて
官僚的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない
中国共産党独裁下の
中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている
軍事
ベトナム人民軍 (軍隊人民越南) は
1944年12月22日に建軍された。
徴兵制度を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、
民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の
統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関は
ベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。
中越戦争時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は
陸軍が41万2000人、
海軍が4万2000人、
防空・空軍が3万人である。このほか、
予備役と民兵が合わせて300万人から400万人いる。予備役将校の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。
ベトナム人民軍は日本の
防衛大学校に本科学生相当の
留学生を多数派遣している。
インド海軍は
ベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請している
。アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け、
カムラン湾には伝統的友好国の
ロシア海軍は勿論、
アメリカ海軍や
海上自衛隊、
中国人民解放軍海軍などが寄港している。
2014年には
国際連合平和維持活動に初参加した
中国との関係
ベトナムは共産党の一党社会主義体制を採用しており、
社会主義市場経済や
ネット検閲など中国と類似する政策を行なっているために『ミニ中国』の異名がある。
同国は長い歴史の中、
中国の歴代王朝から繰り返し支配と侵略を受けた。
紀元前111年から約1000年もの間、中国の歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、
938年に
ゴ・クェン(呉権)が
白藤江の戦いで
南漢軍を破って独立を果たした。この間、
1世紀にベトナムで初めて
後漢の圧政に立ち上がった
ハイ・バー・チュン(チュン姉妹)は英雄視されている。また、
大元ウルスの侵攻に対して
陳興道率いる
陳朝ベトナム軍が
白藤江の戦いで勝利した。15世紀初頭に
明朝の
永楽帝にベトナムが支配された際にも、
1418年に
レ・ロイ(黎利)の蜂起により、明軍を撃破し、
黎朝を建国している。13世紀-19世紀に中国の
漢字をベースとした
チュノムがエリート層を中心に浸透したが、一般庶民までは浸透しなかった。
第一次インドシナ戦争や
ベトナム戦争では、
ベトナム民主共和国は
中華人民共和国から支援を受け、
グエン・ソンのような
中国共産党党員はベトナム人民軍初の士官学校をつくった。しかし、北ベトナムに対して北爆再開など大規模な軍事攻撃を行った
リチャード・ニクソン大統領の
中国への電撃訪問から中国は
アメリカ合衆国に接近し、
パリ協定での
アメリカ軍撤退に乗じて
西沙諸島の戦いで中国が
南シナ海への進出を果たすなどベトナムとの摩擦が起き始めた。中国に友好的だったホーチミンの死後になされた南北ベトナム統一後、ソ連寄りとなったベトナムによるカンボジアへの侵攻(
カンボジア・ベトナム戦争)を巡っては
1979年に中国との大規模な戦争を起こし(
中越戦争)、中国は米国とともに
民主カンプチア連合政府や
フルロなどベトナムに対する抵抗活動を支援し、
1989年に
グエン・ヴァン・リンらがベトナム人民軍にカンボジアからの撤退を命じて中国と国交正常化交渉を開始するまでたびたび交戦(
中越国境紛争)をしている状態であった。
大陸国境線は
2000年代に入って画定したが、南シナ海にある
南沙諸島(ベトナム語名チュオンサ諸島)・
西沙諸島(ベトナム語名ホアンサ諸島)の領有権問題も抱えている(1988年には人民解放軍による
スプラトリー海戦によって、駐留していた
ベトナム人民海軍部隊を撃破され、
ジョンソン南礁を占拠されている)。そのため、中華人民共和国に対する関係も悪く、南沙諸島の領有権問題で、普段は禁止されている
デモも
2007年12月に公安(
警察)の取り締まりもなく、半ば公然と行われた。
また、
九段線(通称:中国の牛の舌)の主張に基づき、中華人民共和国が南沙諸島と西沙諸島を含む南シナ海の島嶼部を「
三沙市」として成立させたことに対して、
ベトナム外務省は猛烈に抗議をし、ベトナム社会主義共和国は、領有するに十分な歴史的証拠と法的根拠を持っているという見解を示し、中華人民共和国の三沙市設置はベトナムの主権を侵害することであり、両国間合意に違反するとともに、中越両国が海洋領有問題解決を目指し開始した交渉を妨害するものである、と抗議した
。
2012年6月21日、
ベトナムの国会は、南シナ海の南沙諸島・西沙諸島の領有権を定めた「ベトナム海洋法」を可決、これに対し中華人民共和国政府は強い抗議声明を発表、ベトナム社会主義共和国もまた、
中華人民共和国外交部の抗議に対して「中華人民共和国の道理に反した批判は強く拒絶する」と非難する声明を発表した。ベトナムにとって、中国からの独立は、国家としての
アイデンティティーでもある。
更に、
2012年5月から中華人民共和国で新規発行された
パスポートの
査証ページ上に南シナ海の
三沙市の行政区画が印刷されており、ベトナム社会主義共和国の
領土主権を主張し実効支配している西沙諸島・南沙諸島を否定する図となっていることが発覚、ベトナム外務省は中華人民共和国に対して猛烈に抗議をし、新パスポート所持者に対しては、
入国審査官が入国・出国スタンプの捺印を拒否、ベトナム政府が用意した別紙にて入国・出国スタンプを捺印することで、新しい中華人民共和国のパスポート上に捺印することを拒否している。
このような中華人民共和国の一連の出来事に対して、毎週
日曜日に
ハノイにある、駐ベトナム中華人民共和国大使館前にて、ベトナム人民が抗議のデモ活動をしている。しかし、
北京オリンピックの聖火リレーでは、表立って非難はされなかった。対中関係は首脳レベルでの会議は行われるものの、領土・領海紛争問題で対立を続けている。中華人民共和国とは陸続きのため、最大の貿易相手国であり、中国製品(Made
in China, Made in PRC)も多く流通しているが、ベトナムでは
華人(主に
漢民族)が急増し、
不法滞在・
不法就労も多発していることから、過去の侵略された歴史を含めて、
反中感情を抱く者は非常に多い。
2014年には、ベトナムが主張する
排他的経済水域において、中華人民共和国が石油掘削リグを設置したとして、
中国海警がベトナム沿岸警備隊に、南シナ海で衝突されたことをベトナム政府が公表したことから、ベトナム国内で
2014年ベトナム反中デモが起きた。
2016年には緊張が続いていることから中国との国防省同士のホットラインを開設している
。
台湾との関係-詳細は「
台越関係(英語版)」を参照-「
在台ベトナム人」も参照
台湾には、
在台ベトナム人(在台越南人)と
ベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。
ベトナム戦争後の
難民や
出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。
2005年時点で在台外国人約51万人のうち、在台
ベトナム人は約15万人と30%を占める。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
朝鮮民主主義人民共和国とは、
共産主義国家同士の関係で、ハノイ、
平壌双方の首都に
大使館が設置されており、
大韓民国よりも早く国交を結んでいる。
ベトナム戦争時には、朝鮮人民軍部隊が北ベトナムへ派遣された(
朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦)。また、過去には
ベトナムの声の交換中継をしていた。一方でベトナムは北朝鮮の銀行関係者を追放するなど、
国際連合の対北朝鮮
経済制裁を実施している。
韓国との関係-詳細は「
韓越関係」を参照
大韓民国は、
ベトナム戦争時に「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」の
スローガンの元で
ベトナムに出兵し、
ベトナム共和国を支援する
アメリカ合衆国側の軍隊として延べ30万人の
大韓民国国軍が参戦した。また、戦争中に
ゴダイの虐殺や
タイヴィン虐殺、
ハミの虐殺や
タイビン村虐殺事件や
フォンニィ・フォンニャットの虐殺等、数々の民間人に対する大量
虐殺事件を起し、
ベトナム人女性や少女に対して
強姦を行った。また、多くの
ライダイハンが産まれてしまい、その
子供は、ベトナム国内で
差別の対象になっており、
2013年時点でも、正確な人数が判明していない。
1992年に国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物
京南ハノイランドマークタワーを所有し、またホーチミン市でも一番高い建物である
ビテクスコ・フィナンシャルタワーを
ヒュンダイグループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国からベトナムに携帯電話の生産拠点を移した
サムスン電子はベトナムの輸出総額の2割近くを占めている。
1998年にベトナムを訪問した
韓国大統領金大中はベトナム戦争時の韓国軍の虐殺や強姦について「ベトナムの国民に苦痛を与えた点について申し訳なく思っている」とする謝罪の意を韓国大統領として初めて表明した
アメリカ合衆国との関係-詳細は「
米越関係」を参照
第二次世界大戦中は、
アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたる
ベトミンとの関係は盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている。また、アメリカ軍がベトナムに潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている。
1940年代後半のベトナム独立時に制定された
憲法は、旧宗主国フランスのみならず
アメリカ合衆国憲法をも参考に作られており、
1950年代にアメリカで
レッド・パージ(
マッカーシズム)が起こった頃には、一時、ベトナムでは自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
第一次インドシナ戦争でベトナムがフランスに勝利した後、アメリカがベトナムに介入した。ベトナムへの影響力を喪失した旧宗主国の
フランスに代わり、アメリカ合衆国政府は
南ベトナムに
傀儡政権を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年に
ベトナム独立戦争が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権を打倒し、
ベトナム人自身による
民族自決統治を求める
南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。
1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムに
アメリカ合衆国軍や
軍事顧問団を派遣し、
傀儡政権である南ベトナム政府を支援し、
トンキン湾事件を口実に
ベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくは
ベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、
アメリカ合衆国政府は
北ベトナムに戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していた
ラオスや
カンボジアに設置された「
ホーチミン・ルート」も同時期に大規模爆撃した。
米
中央情報局(CIA)は、秘密戦争を
タイ王国、ラオス、カンボジアで開始していた。中でも、米国内で秘密にされた米軍による
ロン・ノル政権支援の為のカンボジアへの大爆撃は、この一国に対してだけで、
第二次世界大戦での
日本本土空襲総規模の三倍に達していた事も判明している。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。
アメリカ軍はベトナム戦争当時の
1968年(
昭和43年)
3月16日に、
クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、
ソンミ村虐殺事件を起こしている。-詳細は「
ソンミ村虐殺事件」を参照-
また、捕らえられた米兵は、別名「ハノイ・ヒルトン」(正式名称:
ホアロー捕虜収容所)に収容され、後に
アメリカ合衆国上院議員となる
ジョン・マケインも収容され
捕虜となったのち、北ベトナム兵より
拷問を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは
蔑称であり、本家「
ヒルトンホテル」のことではない)。
1999年に、本物のヒルトンホテルである「ヒルトン・ハノイ・オペラ」が、首都
ハノイで開業している。
1975年4月30日の「
サイゴン陥落」で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は「
フリークエント・ウィンド作戦」を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの
難民(
ボートピープル)が流出し、
カナダ、
オーストラリア、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後から
ソ連崩壊を経て、
ドイモイ政策後の
1995年8月5日、ベトナムとアメリカは和解し、当時の
ビル・クリントン大統領は越米両国の国交を樹立させ、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、
1973年の
パリ和平協定の戦時賠償事項を、2015年時点に至っても全く履行していない。
2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを
貿易最恵国としたこともあり、
フォード・モーターや
ゼネラルモーターズ、
コカ・コーラや
ハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出し、
2003年にベトナムの国防大臣は
アメリカ国防総省(
ペンタゴン)の歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。
ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、
ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の
枯葉剤などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っており、一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも
親米的な珍しい例である。
2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母
ジョージ・ワシントンが中部
ダナン市を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万人ものベトナムの難民を受け入れた。
ベトナム系アメリカ人が故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めて
グエン・フー・チョン党書記長が訪米して、
バラク・オバマ大統領と
ホワイトハウスで会談した。2016年にオバマ大統領はベトナムを訪問し、武器輸出全面解禁を表明した
フランスとの関係
ベトナムの植民地化を図る
フランス第三共和国は、
1883年の
癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・
1884年の
甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない
清朝を
清仏戦争で撃破し、
1885年の
天津条約で清の宗主権を否定した。
1887年には
フランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムは
カンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。
阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。
ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す
東遊運動(ドンズー運動)を展開した。
1917年に
ロシア革命によって
ソビエト連邦が成立すると、
コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。
1930年には
インドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(
ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
1939年9月1日にヨーロッパで
第二次世界大戦が勃発すると、その翌年
1940年から、
フランス領インドシナに
日本軍が進駐した(
仏印進駐)。当時は、日本と
ドイツが
同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国は
フランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本は
その隙を衝いて仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後のベトナムは、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「
大東亜共栄圏」の主張を遂行し、
明号作戦の結果、
カンボジアと
ラオスと同時期の
1945年3月11日、
ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、
阮朝が
王政復古を果たした日でもあった。ところが、
1944年秋から1945年春にかけてベトナム一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本の
ポツダム宣言受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後に
ベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝
バオ・ダイは
8月30日に退位を宣言した。そして、
9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表して
ベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けて
ベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
現在のベトナムの食卓で見かける「
ベトナムコーヒー」「
フランスパン・
バインミー」「
ワイン」は、仏領インドシナの名残りであり、「
シエスタ(
昼寝)」の
習慣、
ダラットで見かける
高級ホテルや
別荘、
カトリック教会の
聖堂である、
ハノイ大教会・
サイゴン大教会・
ダナン大教会・
ホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在は
世界遺産である
ミーソン聖域の修復を施したのも、フランスの
フランス極東学院であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた
南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)アジト掃討のために、
アメリカ空軍の
爆撃機・
B-52によって破壊された。
1940年(
昭和15年)に、
日本軍は北部
仏印進駐を行い、
1941年(昭和16年)には南部にも進駐した。これは、フランスの
ヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は
太平洋戦争末期まで
フランス領インドシナ政府と共存していた。その後、日本軍は、
1945年3月に
明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、
阮朝の
保大帝の下で
ベトナム帝国を独立させた。
戦争終結後に生じた権力の空白は
ベトナム独立同盟(ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の
日本敗戦直後に
ホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは
保大帝を退位させて
ベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の
帝国主義国に過ぎないと見做されている。
第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の
餓死者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている(
ベトナム独立宣言参照)が日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、
フランス軍と
ベトナム民主共和国軍の間で戦争(
第一次インドシナ戦争)が始まった。仏越両軍に
残留日本兵が多数参加し、ベトナムの独立に対して多大な貢献をした。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、
1954年の
ジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、
陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、
1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。
ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。
1951年に日本政府は
ベトナム国(
南ベトナム)と平和条約を締結し、
1959年には
岸信介首相(当時)が国名を変更した
ベトナム共和国政府と140億4000万円の
戦争賠償支払いで合意した。
一方、
ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の
1973年7月より、フランス・パリにおいて国交交渉が開始される。同年
9月21日には
交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された
[51][52]。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
日本共産党と
全教は
1993年より
フエで
ストリートチルドレンの
保育・
教育施設「ベトナムの子どもの家」(
小山道夫[注 7] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、
旧社会党系
[注 8]の
活動家・
政治家と親しく、
1994年6月30日から
1997年(平成9年)
11月7日の
自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本
ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、
日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及び
ピースボートと交流を行なっている。
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中華人民共和国の半分から3分の1ともいわれる
賃金、AFTA(
ASEAN自由貿易地域)の推進に伴って
ASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中華人民共和国一極集中のリスク(
チャイナリスク)の回避などが挙げられる。
近年の日越関係
現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下,政治,経済,安全保障,文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて,1997年の在大阪ベトナム総領事館開設に続き,2009年に在福岡ベトナム総領事館,2010年に在釧路ベトナム名誉領事館と在名古屋ベトナム名誉領事館が開設された。
皇太子徳仁親王(当時)は
2008年(平成20年)
9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し
、翌
2009年(平成21年)2月には、
ハノイ、
ダナン、
ホイアン、
ホーチミン市とベトナム各地を縦断して訪問し、
明仁上皇が皇太子時代の
1976年(昭和51年)に南部の
カントー川支流で新種の
ハゼが見つかったことを明らかにした
学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した
。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している。
査証(ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する
口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている
。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である。
政府開発援助・価値観外交
ODAは日本が最大の支援国であり、日本のODAによって
タンソンニャット国際空港や
カントー橋、ハイヴァントンネルや
ノイバイ国際空港や
ニャッタン橋など、ベトナムの基幹
インフラを建設・支援をしている。また、ソフト面での
インフラともいうべき法律分野でも、日本の
法整備支援が大きな役割を果たしている。ベトナムは、1986年の
ドイモイ以後、
市場経済システムへの移行のため、
市場経済に適合した法制度の整備が重要な課題の1つとなったが、ここに1994年以来日本の
法整備支援が関与している。その結果ベトナムは、改正
民法、
民事訴訟法、民事判決執行法といった法律を次々と成立させるなど、法制度の整備に大きな前進を見せてきた。この分野でのベトナムの日本に対する評価は高く、2007年3月28日には、ベトナムに約3年常駐した
国際協力機構(JICA)長期専門家が、ベトナム司法大臣から「司法事業記念賞」を授与されている
経済
世界銀行の統計によると、
2016年のベトナムの
GDP(国内総生産)は2,052億
ドル。一人当たりのGDPは2,060ドルである。
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に
市場経済システムを取り入れるという
ドイモイ政策が採択、中国の
改革開放と同様に市場経済路線へと転換した。
1996年のベトナム共産党第8回大会では、
2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、ベトナムの貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった。
政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていた
WTOに加盟した。
世界金融危機で一時失速した
国内総生産 (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では
人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。
欧州連合は
新興国で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選んだ。伝統的な友好国である旧ソ連圏である
ユーラシア経済連合も初のFTAをベトナムと結んだ。また、
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)では、米国政府によれば最も利益を受ける国とされ、日本政府によれば交渉でも主導的な役割を果たしており、
世界銀行によればTPPで最も恩恵を受ける国である。
NEXT11や
VISTAの一角にも数えられており、今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
労働人口の66%が
第一次産業に従事しているが、近年は
第二、
第三次産業が急成長。
観光業の伸びが特に著しく、重要な
外貨獲得源となっている。
主な輸出品目は
原油、衣料品、農水産物。特に
コメについては、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在は輸出制限措置をとっている。
カシューナッツと黒
胡椒の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー、茶、ゴム、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
人件費は
中国のおよそ6割であり、政府も自国の売り込みを積極的に行っているが、輸送網が良いとは言えず(
1988年の中国と同程度。ただし、中国も
2010年現在、沿岸部では賃金が高騰しているため、輸送網の悪い内陸部に工場を移さざるを得なくなっている)、また、法律もアバウトである。こうした点から、衣料品など、低付加価値製品の生産が
2010年時点に至るまで主になっているベトナムであるが、サムスン電子と
キヤノンは、莫大な資金を投じてベトナムで電子機器の生産・サービス拠点の建設を進めており、ベトナムが中国に次ぐ「世界の工場」の座を射止めることができるかが世界の企業家から注目されている
。
社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。
不動産会社として2001年に
起業した後に
小売業、
製薬、
学校・
病院経営、農業・
飼料からベトナム初の
自動車生産にまで進出したビン・グループ、
ベトジェットを傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLCなどが
財閥を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれるが、政治家とのコネクションを利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている
。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(
ビナシン)を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。