台湾問題-1



2020.7.3-NEWS WEEK Japan-https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/post-93861.php
【香港危機】台湾の蔡英文がアジアの民主主義を救う
Why Taiwan’s Assistance to Hong Kong Matters
(1)
  <台湾の蔡英文が香港からの移住希望者を受け入れると発表したのは単なる人道支援ではなく、国際社会の一員となるための戦略的な意図もはらんでいる
  中国政府が香港の統制を強める「香港国家安全維持法」を成立させたことを受けて、台湾政府は7月1日、香港市民を対象とした新たな人道支援計画および移住計画を正式に発足させた。
  国家安全維持法は6月30日に、全人代の常務委員会で全会一致で可決・成立。香港警察は既に、同法に基づいて複数の市民を逮捕している

  台湾の蔡英文総統は、2期目に突入して直後の5月下旬に、香港からの移住希望者を支援する考えを表明。立法院(議会)に対して「人道的な支援行動計画」の策定を求めていた。6月には対中政策を担当する大陸委員会が計画の詳細を発表し、同計画は民主主義と自由、人権を支持する台湾の姿勢を示すものでもあると位置づけた。中国の台湾政策を担当する国務院台湾事務弁公室は、これに強く反発。「香港に混乱をもたらす暴徒らを引き受けることは、台湾市民にとって有害でしかない」と警告した。
  今回の台湾の計画は、迫害を受ける香港市民のための単純な支援計画に思えるかもしれないが、実は見かけ以上に戦略的な意図をはらんでいる。台湾の行動は、ほかのアジア諸国とは一線を画すナショナリズムを強く反映しており、アジアの力関係を根本から変える可能性もある。
「民族統一」とは一線を画す
  台湾のアプローチの独自性を説明するには、比較を用いるのが分かりやすいだろう。台湾は今回の支援計画を「人道的なもの」と位置づけ、民主主義と人権を獲得するための闘いを支援することが目的だとしている。一方、同じアジア地域の民主主義体制である韓国は、北朝鮮からの難民の移住受け入れ計画を「民族同胞の支援」と位置づけている。
  この違いは、台湾と韓国が自分たちのアイデンティティーを築いてきた道のりの違いを反映している。
  台湾では、国共内戦(1946年~49年)で毛沢東と中国共産党に敗れて本土を逃れてきた中国国民党(KMT)の統治下で、台湾ナショナリズム(台湾は中国とは異なるひとつの国民共同体だとする考え方)が形成された同じ漢民族のルーツを持ちながらも、多くの台湾市民は自分たちと本土市民(外省人)の間には大きな文化的な違いがあると考えていた。だが世代交代によって両者の民族的な違いは薄まり、中国との関係については現状を維持しつつ台湾の民主主義体制をアイデンティティーとして支持する考え方が主流になった。
(2)
  近年では、自分のことを(「中国人」でも「中国人と台湾人の両方」でもなく)「台湾人」だと考える市民の割合が、これまでで最も多くなっている。この認識は党派を超えたものだが、特に野党として長年民主化を求めてきた民主進歩党(民進党)支持者の間で強かった。その民進党の主席(党首)である蔡英文が現在の台湾総統で、彼女の今回の決定は、台湾は「民主主義国家である」というアイデンティティーを改めて揺るぎないものにしている。
  一方の韓国は、古いアイデンティティーと新しいアイデンティティーの間で足踏み状態にある。韓国では出生率の大幅な低下から、移民や外国人労働者がこれまで以上に必要とされるようになっており、多くの意味で「多文化社会」に移行しつつある。だが北朝鮮市民に関しては同一民族」の原則を頑なに守っている。北朝鮮市民は「元来(韓国の)市民権を持っている」と見なされることが多く、再定住に際しては、ほかの国からの移民どころか朝鮮系中国人(朝鮮族)でも受けられない優遇措置を受けている。
  脱北者のための再定住施設は「ハナ院ハナは「統一」「結束」の意)」と呼ばれている。朝鮮は同じ民族からなる単一国家であり、朝鮮戦争の悲劇によって一時的に2つの統治システムに分かれているだけだという考え方だ。
「同族意識」が阻む韓国の進化
  朝鮮は20世紀前半に日本の統治下にあった時期を乗り越えた経験もあり、民族的な同類意識は変わることなくアイデンティティーの一部として維持されてきた。だが韓国の少子高齢化の現実を考えると、北朝鮮市民を民族的な例外として扱う今のやり方は、韓国の国家としてのアイデンティティーの進化を阻んでいる
  北朝鮮市民を同一民族として例外扱いする韓国のやり方は、彼らが支援したいと考えている脱北者コミュニティーにも矛盾したメッセージを発信している。多くの脱北者が、「民族的な結束という論調が必ずしも、自分たちが韓国社会に受け入れられることを意味する訳ではないと感じている韓国で差別や失業などの問題に直面して幻滅する脱北者は多い
  外交政策への影響もある。北朝鮮に対する韓国の民族主義的なアプローチは、朝鮮半島問題に関する責任を伴い、また「自分の面倒は自分で見る」という韓国の行動原則を表している。「国民の和解」を目指すことが最終目標だというならば、このアプローチは妥当なものだと言える。だがこのアプローチは一方で、脱北者の問題をより国際的な人権保護の問題に発展させるのを阻み、韓国が民主化推進の取り組みに関して、周辺地域や国際社会でより幅広いリーダーシップを発揮する能力を制限することにもなる。
  対照的に、香港の問題に対する台湾のリベラルな主張は、インド太平洋地域を「世界秩序についての自由なビジョンと抑圧的なビジョンが競い合っている」と評するアメリカの最新の国家安全保障戦略に沿うものであり、台湾を、香港の民主主義の保護を支持する国際社会の一員に組み込むものだ。この一見したところ小さな違いが、民主主義と人権を求める闘いのアジアの、ひいては世界の「新たな前線」としての台湾の立場を確立することにつながるのだ。


2020.6.17-Yahoo!!Japanニュース-https://news.yahoo.co.jp/articles/b4d1cca6236c3d504c52f36865bb28eaa2b26513
台湾の駐米代表に蔡氏側近の女性

  【台北=矢板明夫】台湾の蔡英文総統は17日までに、次期の駐米代表(大使に相当)に自らの側近で親友、総統の諮問機関「国家安全会議」諮問委員の蕭美琴(しょう・びきん)氏(48)を任命した。台湾人の父親と米国人の母親を持ち、英語が堪能な蕭氏は台湾初の女性駐米代表。近年、米台関係が急接近する中、蔡氏は米政権中枢とのパイプ役として蕭氏に期待を寄せる。  蔡氏は「国家と地域の安定と繁栄のため多くの可能性を作り出してもらいたい」としている。
  蕭氏は神戸市生まれ。幼い頃、宣教師の父親と世界を転々とし、多くの国際経験を持ち、米コロンビア大学で修士号を取得した。  若いときから台湾独立運動に参加。民主進歩党ワシントン事務所スタッフとしても活躍し、米国内に豊富な人脈がある。2002年以降、立法委員(国会議員)を4期務めた。今年1月の立法委員選に出馬したが落選した。


2020.6.6-産経新聞 THE SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200606/wor2006060027-n1.html
高雄市長失職へ リコール賛成に94万票…米台軍事交流、進展か

【高雄=矢板明夫】今年1月の台湾の総統選で、野党、中国国民党の公認候補として出馬し、現職の蔡英文総統に大敗した韓国瑜(かん・こくゆ)高雄市長のリコール(解職請求)投票が6日、同市で実施された。同市選挙委員会の発表によると、賛成票が規定である有権者の4分の1を大きく上回る約94万票に達し、リコールが成立した。
   投票結果を受けて韓氏は記者会見し「次の高雄市長と市民を祝福する」と述べた。韓氏は7日以内に失職する見通し。台湾の主要政治家の中で最も「親中的」と言われる韓氏が、リコールされたことで、中台関係にも影響を与えそうだ。
   戦後、中国大陸から台湾に来た「外省人」の2世である韓氏は、2018年の統一地方選で、中国との関係改善を訴えて当選した。
   しかし、そのわずか半年後に総統選への出馬準備を始めたことで「市民を裏切った」などと厳しい批判を受けた。昨年に香港で起きた反中デモや、米中対立の深刻化に伴い、台湾の有権者の間で対中感情が悪化するなか、親中派の印象を払拭できなかった韓氏に対する反発がさらに高まった
   与党、民主進歩党のある幹部はリコール成立を受け「米台間の軍事交流が進む」と述べた。東アジア有数の軍港である高雄に米軍艦が寄港する構想は約3年前から浮上していたが、中国が猛反発していることに加え、地元首長の韓氏も消極的な姿勢を示したため、前進しなかった経緯があった。
   近く行われる補欠選挙では、民進党籍の行政院副院長(副首相に相当)、陳其邁(ちん・きまい)氏が立候補する予定で、当選する可能性が高いとみられている。


2020.5.22-東洋経済 ONLINE-https://toyokeizai.net/articles/-/351632
台湾が世界有数のマスク生産大国となった理由
(台湾『今周刊』2020年4月30日)

(1)
  新型コロナウイルスの感染拡大以来、各国でマスクが十分に供給されない状態が続く中、台湾が迅速に取り組んだマスク対策は世界に強烈な印象を与えた。
  台湾のマスク対策と聞けば、真っ先に名前が挙がるのが天才デジタル大臣こと唐鳳(オードリー・タン)氏によるマスク管理アプリだろう。だが、台湾のマスク対策の成功の要因はITだけではない。約3カ月という短期間にマスク生産力を10倍以上に向上させ、供給力を大幅に増強させた。
  新型コロナ流行前、台湾の1日当たりのマスク生産量はわずか188万枚だった。これを4月末までに1700万枚超に押し上げ、生産量は中国に次いで世界2位へと躍進した。その後も増産は続いており、4月下旬には台湾政府が日本にマスク200万枚を寄贈している。
コロナ流行前から始まったマスク対策
  マスク不足から一転、いったい何が台湾を世界有数の「マスク生産国」へと成長させたのだろうか。台湾のマスク増産への取り組みは、コロナ流行前夜から始まっていた。
  マスク増産のキーマンの1人が、経済部(経済産業省に相当)民生化工グループ長の洪輝嵩氏だ。洪氏は台湾の紡織業界に最も影響力があると言われている人物である。洪氏は「多くの人が、『SARS(重症急性呼吸器症候群)のような感染症の流行は再び起きるだろう』と話していた」と語る。2003年に流行したSARSの教訓から、台湾では今でも感染症流行への警戒心が高い
  洪氏によると、2019年11月末に中国で「原因不明の肺炎」が発生した頃、台湾政府はすでに警戒を高めていたという。12月中旬には、中国で新型肺炎の確定例が増加。台湾では2020年1月21日に初めて感染者が確認された。台湾ではここから感染拡大に関するあらゆる措置がスタートした。
  その裏で洪氏が行っていたのは、台湾における医療物資メーカーのリストアップだ。医療物資にはマスクのほか、消毒用アルコールや耳式体温計、防護服などが含まれる。感染拡大防止策を担う国家衛生指揮センター(NHCC)が本格稼働する際に、すぐに動けるように準備をしていたのだ。
(2)
  その後、予想されていた通り新型コロナは世界中に広がり、台湾ではマスクを求める市民がドラッグストアなどに列をなした。この状況をみて経済部は、政府主導によるマスクの増産を決定。台湾で2社しかないマスク製造機のメーカー「権和機械(以下、権和)」と「長宏機械(以下、長宏)」に1.8億台湾ドル(約6.4億円)を投じ、マスクの生産ライン60本に相当する60台のマスク製造機を発注した。
  洪氏は「通常だと、この2社に60台のマスク製造機を発注した場合、納入までに少なくとも半年以上かかる。しかし、今回はたった1カ月で納品された。それは、業界をあげて技術者を派遣したためだ」と説明する。通常では考えられない短期間での納品の裏で、具体的に何が起きていたのだろうか。
業界をあげての協力体制
  経済部長(経産大臣に相当)である沈栄津氏の指示を受け、精密機械研究発展センターの代表・賴永祥氏は2月4日、3つの機械工業系の研究センターから権和と長宏に人材を派遣することを決めた。しかし、翌5日に2社を視察したところ、現場で最も必要とされている機械の組み立てには、研究センターの人員の技術と経験だけでは不十分であることがわかった。そこで、業界全体の支援を求めることを決めたという。
  具体的にどこへ支援を求めるべきか。2月6日午前、賴氏が考えあぐねていたところ、思わぬ人物から連絡が来た。台湾の工作機械メーカーで作る団体「台湾区工具機・零組件工業同業公会」(TMBA)の名誉理事長である厳瑞雄(げん・ずいゆう)東台精機会長が協力を申し出てきたのだ。賴氏は「こちらの要請前に協力の申し出があって驚いた」と振り返る。
  一方、TMBAで理事長を務める許文憲・哈伯精密(HABOR)会長も独自に行動を開始していた。政府のマスク増産計画を知った許理事長は、すぐさま沈経済部長へLINEをし、必要であれば60台のマスク製造機の製造にTMBAから人材と資源を提供したい旨を伝えた。「沈経済部長は多忙で、普段は連絡がつかないことが多い。でも、このときばかりはLINEをしてから数分で電話がかかってきた」と許理事長は笑う。
  その後、許理事長は、厳名誉理事長賴氏に連絡をしたと知り、ここに後に「マスク国家チーム」と呼ばれるチームの原型が誕生した。賴氏は、金のためではなく、使命感で集まった彼らの団結力に感動したという。
(3)
  2月6日の午後には、TMBAの厳名誉理事長、許理事長、常務理事の戴雲錦・台湾瀧澤科技・社長の3人がマスク製造機メーカー2社を視察。そこで、現場で大きな課題があることがわかった。それは2社の生産規模から来る課題だ。
  例えば、長宏の従業員は約10人。平時であれば、1カ月に製造可能なマスク製造機の数はせいぜい2台にすぎない。このままでは、政府が必要としている60台の納品ははるか先のことになる。
  2月7日午前10時、沈経済部長はTMBA、権和と長宏の3者を招集し会議を開き、「いかに速く60台のマスク製造機を完成させるか」について議論した。権和と長宏が提示した現場の問題点は原材料の不足と技術者の不足だった。
ゼロからのマスク製造工場立ち上げ
  技術者不足について、TMBA理事長は「心配ない。われわれに任せてほしい」と明言した。2月10日、まず瀧澤科技ら5社が率先して行動を起こし、さらに27社が次々とマスク製造機の製造現場に入った。企業は、現場へ自社の精鋭を送ったという。
  だが現場に解決すべき問題はまだあった。権和と長宏の2社は台湾唯一のマスク製造機メーカーであるものの規模が小さいため、作業マニュアルが存在しなかったのだ。そのため第1週目は、まるで泥沼の中を進むようだった。少しでも早く目標を達成するため、現場ではまず作業方法や必要な部品の分析、派遣されてきた技術者の適切な配置などが検討され、徹底した標準作業手順書が作成された。
  このマスク製造機組み立ての指揮官役は、台湾瀧澤科技の平鎮工場長である徐浩東氏だ。「マスク製造機に触れたのは初めてで、すべてゼロから始めた。助けもなく、難しい仕事だった」。ゼロから始めたというのは誇張ではない。マスク国家チームの最初の仕事は、300坪の何もない空間での配電だった。マスク製造機工場の立ち上げのためにケーブルを切り、ネジ穴をあけるところから始まったのだ。
(4)
  製造開始から1週間、2月16日に1台目のマスク製造機が完成した。「感慨深さとともに、充実感に満ちていた」と、文憲TMBA理事長は笑顔で振り返る。
  政府もこの頃から、マスクメーカーや軍、経済部の各部署などに呼びかけ、無名の英雄である「マスク国家チーム」が完成した。「マスク国家チーム」という呼び名がついて以降、マスク製造機の製造に携わった技術者全員は、このプロジェクトのために200%、300%の力を発揮していると激励を受けた。
  そして3月5日、経済部が発注した60台のマスク製造機はすべて納品された。発注からわずか25日。国家チームが投入した技術者はのべ2200人以上にのぼる。この常識を超えた成果に、蔡英文総統も自ら現場に赴き、感謝を述べた。
  しかし60ラインの増強だけではマスクの需要には追い付かず、行政院(内閣)はさらに9000万台湾ドル(約3億2000万円)を投じ、30台のマスク製造機と、それとは別に手術室などで使われるマスク製造機2台を発注。これらのマスク製造機は3月末に納品予定だったところ、約1000人の人材を投じたことで、予定より早い3月20日にすべて納品された。
マスクプロジェクトがもたらしたもの
  このプロジェクトにおいて、TMBAの理事長は予想外の成果も得たという。人材を派遣した企業はライバル同士であるはずなのに、マスクプロジェクトの下では一致団結し、使命を果たした。
  マスク国家チームの働きにより、台湾の1日当たりのマスク生産量は世界第2位へと躍進した。だがマスク国家チームが台湾にもたらしたのは、マスクの生産力だけではない。業界が政府に協力したことが知られ、「工作機械とは何か」「工作機械産業がいかに重要か」ということを、社会に改めてアピールできたのだ。長年、同産業に従事した理事長は「本当に意義のあるプロジェクトに携わることができた。この業界にいてよかった」と打ち明ける。
  新型コロナウイルス流行前、アメリカと中国の貿易摩擦の影響を受け、台湾の工作機械業界全体が大きな痛手を負っていた。そこに新型コロナの流行があり、台湾経済も大打撃を受けた。しかし、理事長はこのようにも考える。それは、マスク国家チームで見せた団結のように、コロナ危機は台湾の工作機械産業の転換期となる可能性があるということである。(台湾『今周刊』2020年4月30日)


2020.5.21-Sankei Biz-https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200521/mcb2005210612015-n1.htm
蔡英文総統、高支持率も政権基盤に不安 経済再生が課題

  【台北=矢板明夫】20日に2期目を始動させた台湾の蔡(さい)英文総統は、就任演説で、新型コロナウイルスで打撃を受けた経済の建て直しに長い時間をかけた。現在、高い支持率を誇る蔡政権だが、政権基盤は決して盤石とはいえない。与党、民主進歩党内の派閥抗争の動きが顕著になっており、野党、中国国民党も政権奪還を狙う。経済問題で成果を出さなければ、政権の支持率は一気に急落する可能性もある
  台湾の大手テレビ局TVBSが5月中旬に行った世論調査によると、蔡氏の支持率は61%で、就任後の4年間で最も高い数字となった。2018年11月の統一地方選挙で与党、民進党が大敗した直後の支持率は15%まで落ち込んでおり、1年半で40ポイント以上、回復させた。その理由は2つあるといわれている。
  一つは昨年の香港の反中デモによって、香港の若者に同情した台湾の有権者の間で反中感情が高まり、結果として、中国に距離を置く蔡氏の支持率が上昇したこと。もう一つは、今年1月からの新型コロナ問題で、中国に対する不信感が強い蔡政権が直ちに中国大陸との人的往来を断ち切ったことで、感染源を減らしたことだ
  その後、衛生当局の努力もあり、コロナ対策に成功したことで支持率はさらに上昇した。いずれも幸運に恵まれた側面があった。短期間で上昇した支持率だけに、短期間で急落する可能性もある。
   今、台湾で暮らす人々は日常生活を取り戻しつつあるが、多くの業種の関係者が収入減に直面している。台湾の3月の失業率は3・72%で、今年第1四半期の経済成長率は1・54%だった。感染症の被害を大きく受けた周辺国と比べて悪い数字ではないが、多くの市民は生活苦を感じている。経済の活気をいかに素早く取り戻すかが政権の勝負になっている。
   蔡氏は19日、蘇貞昌(そ・ていしょう)行政院長(首相に相当)を続投させるなど、新しい部・会長(閣僚)人事を発表した。経済を重視する布陣と強調しているが、一部メディアからは総統選や新型コロナ対策での「論功行賞人事」と批判されている。
   与党、民進党内では早くも「ポスト蔡英文」を争う動きが出てきており、2024年の任期満了を待たずに派閥間の主導権争いが始まっている。野党の国民党は蔡政権と全面対決の姿勢を示しており、蔡氏の失敗を待ってさらに攻勢を強める構えだ。


2020.5.20-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200520/k10012437261000.html
台湾 蔡政権2期目始動 コロナ対策で成果 “一国二制度”拒否

  台湾の蔡英文総統は20日、2期目の任期をスタートさせ、就任演説で台湾では新型コロナウイルスの感染は抑え込まれているとして、対策の成果を強調するとともに、中国の「一国二制度」を拒否する考えを示しました。
  台湾の蔡英文総統は、ことし1月の総統選挙で中国への対抗姿勢を示して過去最多となる票を獲得して再選され、20日、2期目の任期をスタートさせました。
  蔡総統は、午前中に総統府で宣誓式を済ませると、かつては迎賓館としても使われた台北賓館の屋外の会場で就任演説を行いました。
  この中で蔡総統は、台湾では新型コロナウイルスの感染は抑え込まれているとして、「台湾の感染対策の成功は世界のメディアに取り上げられた」と対策の成果を強調したうえで、引き続き対策を徹底する考えを示しました。
  また、中国との関係について、「『一国二制度』をもって台湾をないがしろにし、台湾海峡の現状を壊すことは受け入れられない」と述べ、中国が台湾統一の方法としてふさわしいとする「一国二制度を拒否する考えを改めて示しました
  さらに、「アメリカや日本、ヨーロッパなど価値観を共有する国々との関係を深めていく」と述べました。
  就任式はこれまで総統府前などで大規模に行われてきましたが、今回は新型コロナウイルスの感染対策のため規模が縮小されました。
  就任式に先立ってアメリカのポンペイオ国務長官が初めて、2期目のスタートを祝う声明を発表したほか、式典ではアメリカ政府の高官や日本の国会議員などのビデオメッセージが披露されました。
菅官房長官「総統再任に祝意 交流深化を」
  菅官房長官は、午前の記者会見で「総統に再任されることに祝意を表したい。台湾は、わが国にとって基本的な価値観を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する重要なパートナーであり、大切な友人だ。政府として、非政府間の実務的な関係を維持していくとの立場を踏まえ協力と交流のさらなる深化を図る考えだ」と述べました。
  また「新型コロナウイルス感染症に関して、台湾の皆様からの温かいご支援に改めて感謝の意を表すとともに引き続き協力を強化したい」と述べました。


2020.4.25-Yahoo!!Japanニュース(産経新聞)-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200425-00000542-san-cn
香港の反中派「銅鑼湾書店」 台湾で営業再開

【台北=矢板明夫】
中国共産党体制などを批判する書籍を販売し、閉店に追い込まれた香港の「銅鑼湾書店」が25日、台北市中心部で営業を再開し、大勢の報道陣が訪れた。面積は約80平方メートル。入り口付近には蔡英文総統が贈った花が飾られ、壁には香港の反中デモのスローガン「光復香港、時代革命」(香港を取り戻せ、革命の時代だ)の文字が掲げられていた

 開店祝いに駆け付けた台湾の立法院長(国会議長に相当)游錫(ゆう・しゃくこん)氏は「言論の自由が実現された台湾の価値観をここから発信してほしい」と話した。店長の林栄基氏は報道陣に対し「書店の再開は中国共産党の圧政にする反抗であり、思想の自由に関する本を中心に売りたい」と述べたうえで「台湾のみなさんの協力に感謝したい。台湾は香港の希望だ」とも強調した。

 香港の銅鑼湾書店は2015年、経営者ら5人が中国の治安当局に拉致・連行されたため、閉店に追い込まれた。台湾に移住した林氏は台北での営業再開を準備していた今月20日以降、弁護士から「店名変更」を求める書簡が届き、自身も暴漢にペンキをかけられるなど、露骨な妨害活動を受けた。警察は中国共産党勢力が関与した可能性があるとみて捜査をしている。


2020.1.16-JINF 国家基本問題研究所-https://jinf.jp/weekly/archives/28485
【第650回・特別版】習氏に勝った台湾の民意
櫻井よしこ

鮮やかな勝利だった。台湾総統の蔡英文氏は史上最高の817万余票、57%強の得票率で再選された。中国国家主席、習近平氏が台湾に強要を試みた「中台統一」と「一国二制度」は、台湾の民意に完膚なきまでに否定された。
 1年前の1月2日、習氏が「統一は必然」であり「実現されなければならない」と語ったとき、蔡氏は直ちに「絶対に受け入れない」と拒否した。有権者は、台湾の主権は蔡氏にしか守り通せない、国民党では不可能だと見て取った。蔡氏勝利の最大要因は習氏と香港の抗議運動に対する弾圧だった。
 ●米台関係深化へ
 蔡氏勝利で米台関係はさらに深化するだろう。勝利確定の翌日、蔡氏は米国在台協会台北事務所長(駐台大使に相当)のブレント・クリステンセン氏に会った。より多くの武器及び軍事技術の供与を米国に要請し、台湾防衛力強化の意思を鮮明にした。米国はM1A2エイブラムス戦車、地対空ミサイル、新型戦闘機F16Vなどの供与を決定済みだ。これら全てがネットワーク化され、中国への強い抑止力となる。中国はブッシュ、オバマ両政権時代とは比較にならないほど、台湾を巡る米軍の動きを気にせざるを得なくなる。
 蔡氏の安定した政権運営が続く限り、国際社会は民進党主導の台湾の対中闘争を支持し続けるだろう。そこで留意すべきは蔡氏の内政における手腕である。
 総統選は蔡氏の圧勝だったが、国民党も前回の381万票から552万票へ票を伸ばした。総統選での民進党と国民党の得票差は18ポイント開いたが、立法院(国会に相当)選では5ポイント差だった。蔡氏の内政は必ずしも有権者の納得を得ていないということだ。
 理由のひとつは、アジアで初めて同性婚を容認したことに見られるように、蔡氏の理念先行のリベラリズム政治のやりすぎであろう。リベラリズムに傾く余り、民進党の伝統的支持者である農民や労働者を取り込みが弱いのだ。中国の脅威に対峙するのに台湾人の団結が何よりも必要ないま、蔡氏の課題である。
 ●最大限の支援が日本の国益
 他方、国民党の分裂と弱体化はさらに進むのではないか。国民党は以下の3勢力に分類される。①台北本部の高級外省人②地方組織所属の党員③蒋介石に従って逃れてきた老兵約200万人とその家族―である。
 ①のトップである蒋介石は日本が残した財産を接収し、その財力で②と③を支配したが、その資産がいま凍結され、使えない。③の老兵の息子である国民党総統候補、韓国瑜氏は、鴻海精密工業のオーナー、郭台銘氏の資金援助を受け、国民党本部の資金に頼らず、②と③を影響下に置いた。国民党が下克上によって二分されたのだ。
 立法院で過半数を得た蔡氏と民進党が安定した政権運営を続けられれば、国民党の勢力は衰退し続けると思われる。台湾の内外で中国と対峙する蔡氏と民進党にできる限りの援助を素早く実施するのが民主主義国、日本の国益である。(了)


2020.1.15-NHK NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200115/wor2001150027-n1.html
台湾・蔡総統、中国と無条件対話を要求 反浸透法に署名

【台北=田中靖人】台湾の蔡英文総統は15日、台北の総統府で談話を発表し、中国からの選挙介入を防止する「反浸透法」に署名し公布したことを明らかにした。一方で、「中国は今回の選挙で台湾の人民が表明した意見と意志を深く理解してほしい」とも述べ、中国側に政治的な前提なしに対話に応じるよう求めた。
   蔡氏は総統選の当選が確定した直後の11日夜の内外記者会見で、中国側に「平和的、対等、民主的」な立場での対話を呼びかけており、15日、対話の具体的な計画を問う記者団に対し、「中国側が現在の政策について検討してほしい」と答え、中国側が態度を変更すべきだとの考えを示した。
   また、蔡氏は反浸透法は中国との交流に反対するものではないと強調。一部世論の懸念に配慮し、行政院(内閣に相当)に、違法行為の具体例を周知するよう指示したと明らかにした。
   反浸透法案は昨年12月31日に立法院で可決され、1月10日に総統府に送付された。蔡氏の署名、公布が15日になったことで、同法は今回の総統選には適用されなかった。
   これに対し、中国で対台湾政策を主管する国務院(政府)台湾事務弁公室の馬暁光報道官は15日の記者会見で、台湾は中国の一部などとする「一つの中国」に基づく「1992年コンセンサス(合意)」が中台関係の「政治的基礎」だとの立場を改めて主張した。


2020.1.12-産経新聞 THE SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200112/wor2001120024-n1.html
【台湾・総統選】トランプ政権 軍事・経済の両面で台湾支援へ
(1)
【ワシントン=黒瀬悦成】トランプ米政権は台湾総統選での蔡英文氏の再選に関し、中国の脅威をにらんだ米台連携を円滑に継続できるとして歓迎する立場を明確に打ち出した。今後は、米国が世界における自国の「抑止力の源泉」と位置づける軍事と経済の両分野で、中国の覇権的な攻勢の最前線に立つ台湾を積極支援していく考えだ。
   ポンペオ国務長官は11日に発表した声明で、蔡氏について「(中国からの)容赦ない圧力にさらされる中、中台関係の安定維持に取り組んできたことを称賛する」と強調。さらに「台湾が蔡氏の下、自由、繁栄、国民のためのより良き道を希求する国々の輝かしい手本となり続けることを期待する」と表明した。
  米国では2018年、米高官の台湾訪問や定期的な武器売却を求める「アジア再保証イニシアチブ法」がトランプ大統領の署名で成立し、「自由で開かれたインド太平洋地域」の推進に向けた台湾支援が着実に進められてきた。
   中国問題に詳しい政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)のボニー・グレイザー研究員は今後の中国の出方について「当面は米台の動向を見極め、台湾に圧力をかける機会を模索するだろう」と分析。近い将来に中台が武力衝突する可能性は否定しつつも、「米国は台湾の抑止力強化に向け一層の協力を図るべきだ」と訴えた。
(2)
   トランプ政権は一方で、台湾経済が中国への依存度を急速に強めていることに危機感を募らせている。議会や政府内部では、米国と台湾との経済関係の緊密化に向けた自由貿易協定(FTA)の締結を提唱する声が広がりつつある。
   政策研究機関「ヘリテージ財団」のライリー・ウォルターズ研究員は、米台がFTA交渉に向けた「高官級の経済対話」の枠組みを構築すべきだと指摘する。同財団のウォルター・ローマン氏も「トランプ政権が中国や日本などと貿易合意に達し、蔡氏が再選した今こそが米台FTAに向けた好機だ」と強調した。


2020.1.12-Yahoo!!Japan ニュース-https://news.yahoo.co.jp/pickup/6348018
中国、蔡総統への祝意に反発 日米英に抗議

【北京時事】中国外務省の耿爽副報道局長は12日、台湾総統選蔡英文総統が再選されたことに対し茂木敏充外相やポンペオ米国務長官らが祝意や歓迎を表す談話を発表したことについて「『一つの中国』原則に反するやり方で、強烈な不満と断固とした反対を表明する」と反発するコメントを発表した。
 既に日本、米国、英国などに抗議したという。
 耿氏は「台湾地区の選挙は中国の一地方のことだ」と指摘。その上で「台湾問題は中国の核心的利益に関わる問題であり、中国と国交を結ぶ国と台湾とのいかなる形の政府間往来に反対する」と強調した。


2020.1.12-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200111/k10012242851000.html
台湾総統選 蔡英文総統が再選 中国との向き合い方が今後の焦点

台湾では11日、総統選挙が行われ、現職の与党・民進党の蔡英文総統が、過去最多となる800万を超える票を獲得して再選されました。同時に行われた議会にあたる立法院の選挙も民進党が過半数を維持し、中国に対抗する姿勢で臨むことが支持された結果となり、今後、蔡総統と中国がどのように向き合っていくかが焦点となります。
  11日投票が行われた台湾の総統選挙は、現職の与党・民進党の蔡英文総統(63)が817万票余り、得票率およそ57%、南部・高雄の市長で最大野党・国民党の韓国瑜氏(62)が552万2000票余り、得票率およそ38%などとなり、蔡氏が再選されました。

     投票率は74.9%でした。

蔡総統の得票は、1996年に、台湾で初めて直接投票による総統選挙が行われて以来、最も多くなりました。
  また、同時に行われた議会にあたる立法院の選挙も、113議席のうち、民進党が61議席、国民党が38議席などとなり、民進党が過半数を維持して第一党となりました。
  蔡総統は11日夜、記者会見を行い、中国に対して「武力による脅しを放棄すべきだ」と述べ、将来の台湾統一を目指し、武力の行使も辞さないとする中国に対抗する姿勢を示しました。
  今回の選挙で示された結果を受けて、今後、蔡総統と中国がどのように向き合っていくかが焦点となります。
蔡総統 勝因は
  蔡英文氏は、中国との距離の取り方が最大の争点となった今回の選挙で中国に対抗姿勢を示すことで支持を広げてきました。
  4年前に蔡政権が発足して以降、中国側は、対話の基礎とする「1つの中国」の原則を受け入れない蔡政権に対し、外交や軍事、それに経済面で圧力を強めてきました。
  去年1月、中国の習近平国家主席が将来の台湾統一に向けて「一国二制度こそが最良の形だ」と発言した際には、蔡氏は即座に「絶対に受け入れられない」と激しく反発しました。
  さらに去年6月、「一国二制度」が導入されている香港で抗議活動が始まると、抗議活動に共感を示す幅広い世代の人たちに蔡氏への支持が広がり、低迷していた蔡氏の支持率が回復していきました。
  経済面では、米中の貿易摩擦を受けて、中国に進出している台湾企業がアメリカへの輸出に関税が上乗せされる中国から台湾に生産拠点を移す動きが活発化していることも蔡氏に有利に働きました。
  蔡政権は、新たに台湾に投資する企業に優遇策を打ち出し、投資の申請はこれまでに160社以上にのぼっています。
  蔡氏は、香港の一連の抗議活動や米中の貿易摩擦が追い風となり、民進党の支持層だけでなく、無党派層からも幅広い支持を得たことが再選につながったとみられます。
韓氏 敗因は
  韓国瑜氏は、蔡英文政権が中国との関係を悪化させ、経済を低迷させていると批判して中台関係の改善を訴えてきました。
  しかし、中国の影響力が強まる香港で自由や民主的な価値観が失われつつあるとして、抗議活動が続いていることを受けて、台湾でも中国への警戒感が高まり、中国に融和的な姿勢をとる韓氏には逆風となっていました。
  韓氏は、中国が高度な自治を認める「一国二制度」を通じて台湾統一を目指すことに反対すると強調しましたが、具体的な議論になると発言を避ける場面もあり、有権者の不安を払しょくすることができなかったとみられます。
  また、国民党内では一部の勢力が韓氏の立候補に反発し、挙党一致の選挙戦が行われなかったほか、中高年を中心に支持を集めたものの、若い世代や無党派層には支持が広がらなかったとみられます。
中国政府「『1つの中国』の原則を堅持」
  台湾の総統選挙の結果について、中国政府で台湾問題を担当する国務院台湾事務弁公室は11日夜、談話を発表し、蔡英文総統が過去最多の得票で勝利したことには触れず、「われわれは平和的な台湾統一と一国二制度の基本方針とともに『1つの中国』の原則を堅持する」としたうえで、「いかなる形の台湾独立のたくらみと行為に断固反対する」と強調しました。

そして、「『1つの中国』の共通認識と台湾独立反対の政治的基礎の上で、台湾の同胞とともに両岸関係の平和的な発展と祖国の平和的統一を推し進め、中華民族の偉大な復興をともに切り開いていきたい」として、蔡政権への警戒感をにじませています。
中国政府 深刻に受け止めか
  中国政府は、蔡英文総統が過去最多となる得票で再選されたことについて、深刻に受け止めているものとみられます。
  習近平指導部は、香港で続く抗議活動への対応で市民の反発を招いたのに続いて、今回、台湾でも、有権者を中国側に引き寄せることに失敗し、政策の行き詰まりが露呈した形です。このため指導部内で、これまで高めてきた習主席の権威にも傷がつきかねない事態となっています。
  中国のテレビや新聞では、今回の選挙についての詳しい報道はほとんどなく、習近平指導部は、台湾の有権者が「1つの中国」を受け入れない蔡総統を支持していることを国民に印象づけないように苦心しています。
  その一方で中国政府は、今回の選挙結果を詳しく分析し、台湾統一に少しでも近づくよう長期戦を覚悟しながら、どのようにより効果的に蔡政権に圧力をかけるかなど今後の対台湾政策を慎重に検討していくものとみられます。
米長官「民主主義の力強さ改めて示した」
  アメリカのポンペイオ国務長官は、「蔡英文総統の再選をアメリカは歓迎する」という声明を発表しました。
  ポンペイオ長官は、声明の中で「台湾は民主主義の力強さを改めて示した。アメリカと台湾は、政治的、経済的、そして国際的な価値観を共有する同じ民主主義の一員だ」と指摘し、トップを決める直接選挙が行われていない中国との違いを強調しました。
  そのうえで、「容赦のない圧力にもかかわらず、台湾海峡の安定に対する蔡英文総統の取り組みを称賛する。蔡総統のリーダーシップのもと、台湾が引き続き、民主主義を求める国々の手本となることを望む」と期待感を示しました。
香港 抗議活動リーダー「中国共産党の権威主義に『ノー』」
  香港で2014年に行われた民主的な選挙を求める抗議活動「雨傘運動」を率いたリーダーの1人、黄之鋒氏は台湾の総統選挙の結果についてSNS上に、「台湾の多くの人々が民主主義と自由を守るという運命を選び、中国共産党の権威主義に『ノー』と声をあげた。香港の人々にとっても貴重な瞬間だ」と投稿し、選挙結果を歓迎しました。
  そのうえで、「自由な世界の最前線である香港と台湾は最も緊密な同盟として、ともに中国の脅迫に対抗し続けるだろう」として台湾の人たちと連携して中国に対抗していく考えを示しました。
  また、「雨傘運動」の中心メンバーの1人、周庭氏もSNS上に、「民主主義と自由を重視している立候補者が当選されてよかった。台湾がこれからも引き続き民主的な場所でありますように」と日本語で投稿しました。
蔡総統「台日の絆深めていきたい」
  蔡英文総統は総統選挙で再選されたことを受けて、日本時間の12日未明、引き続き日本との友好関係を深めていきたとするメッセージをツイッターに日本語で投稿しました。
  この中で蔡総統は、台湾で民主的な選挙が無事行われたと強調し、「すべての台湾人と一緒に民主主義を享受できることが、私にとって最大の誇りです」と書き込みました。
  そのうえで、日本との関係については、「台日の絆を深めていきたいです!」と書き込み、さらなる関係の強化に意欲を示しました。
茂木外相「協力と交流のさらなる深化を」
茂木外務大臣は、「民主的な選挙の円滑な実施と蔡英文氏の再選に祝意を表する。台湾は、わが国にとって、基本的な価値観を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する重要なパートナーで大切な友人だ。政府としては、台湾との関係を非政府間の実務関係として維持していく立場を踏まえ、日台間の協力と交流のさらなる深化を図っていく考えだ」という談話を発表しました。
  また、中国と台湾をめぐる問題については、「当事者間の直接の対話により平和的に解決され、地域の平和と安定に寄与することを期待する」としています。


台湾問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  台湾問題とは、中華民国実効支配している台湾地区台湾を中心とした広義の地域概念)の主権帰属または政治的地位に関する中華人民共和国と中華民国の政治問題を指す。なお、両国の国内では、両岸問題の呼称も用いられている。
  台湾を巡っては、両国の政党や論者により、さまざまな見解がある。主な論点を挙げると、中華民国による台湾・澎湖接収の是非(台湾地位未定論)や、国共内戦終結後の中華民国と中華人民共和国の関係(分断国家中国統一する為の正統性)、更に現代における台湾人の基本的ルーツが原住民に有るのか、漢民族に有るのかなど、台湾の歴史文化政治の各方面に及んでいる。

問題の歴史的背景台湾史の特徴は、外来政権による統治と、住民のアイデンティティーの変遷である。)
先史時代と台湾原住民、中国側の記録
  先住民であるマレーポリネシア系の台湾原住民は部族ごとに別れて国家を建設することはなく、また文字がないため歴史記録を残さなかった。朝が13世紀後半に、澎湖諸島に行政機関を設置したという史料があるが、台湾本島にまで領有範囲が及ぶことはなかった。その後、漢族朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有が及ばなかった。
外来政権(スペイン人・オランダ人)と漢民族の流入
  台湾内部の歴史が記録されるのは、最初の外来政権であるヨーロッパ人の到来以降である。17世紀になるとスペイン人が台湾島北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として台湾島南部を制圧した。
  東インド会社は福建省広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を進めた。そのため、労働力として漢民族の男性が移入し、原住民(特に平埔族)の女性と混血していった。
鄭成功政権
  その後、「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功が、1661年から台湾のオランダ人勢力を攻撃した。翌1662年には最後の本拠地であるゼーランディア城も陥落させ、オランダ人は全て駆逐されていった。鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点とした。1662年に彼が死去した後も、息子である鄭経が「抗清復明」の基地化を進めていった。
清朝の統治と漢民族への同化政策
  鄭氏による台湾支配はその後の朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入ることとなった。しかし、当初清朝は、抗清勢力を壊滅させる為に台湾島を攻撃したので台湾島の領有には消極的であった。
  だが、最終的には海賊の蔓延を防ぐという軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし、それ故に、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはなく、半ば見捨てられた島状態となって行った。以上の経緯が台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民共和国の台湾領有権は不当」の根拠の一つになっている。
原住民に対する漢化
  この間、福建省、広東省からは生活に窮した多くの人々が台湾島に移住し、今日の台湾における本省人の礎となった。また、清朝は本来満州族による政権であったが、自らも漢民族化していった。そして、組織的に、台湾住民に苗字や家系図などを与え、漢民族化を押し進めたのである。その結果、平野部にいた平埔族は激減していく。
日本への割譲と台湾民主国
  19世紀後半になると、清朝は日本や欧米列強の対外進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。
  1894年に日本との間で勃発した日清戦争に敗北した為、翌1895年に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾を日本に割譲し、台湾省を廃止した。日本に割譲が決まった台湾であったが、一部の清朝の役人が台湾民主国を建国して日本の台湾上陸に抵抗したが日本軍によって鎮圧され暫時平定した。
  その後、日本政府は台湾総督府による統治を1945年まで実施し続けた。
中国国民党政府による台湾接収
  第二次世界大戦において、日本は枢軸国として参戦した。しかし、戦況は連合国が有利な立場となり、1943年に米国英国中華民国ソ連の首脳が集まってカイロ会談が開かれ、台湾の主権を中華民国に返還することが首脳間で取り決められた。中華民国政府は1945年の日本敗戦後、連合軍の委託を受けて台湾に軍を進駐させた。そして、カイロ会談での取り決めを根拠として台湾を自国領に編入した。さらに1947年には二・二八事件を契機に台湾省を設置することで、台湾の統治体制をより強固なものとしていった。
  但し、1951年日本が連合国側諸国と締結した平和条約(サンフランシスコ平和条約)では日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)しか取り決められておらず、更には日華平和条約においても「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)しか明記されていない。その為、現在に至るまで国際法的には台湾の主権移転対象(帰属先)については不明確な状態にあり、これを根拠に台湾の国際的地位はまだ決まっていないとする「台湾地位未定論」も唱えられている。
国共内戦から現在
  中華民国政府は台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれていた。1946年から激化し始めた国共内戦は、当初は中華民国政府が優勢であったものの、年を経るごとに中国人民解放軍が優位な立場を占めるようになり、中華民国政府は少しずつ、しかし確実に支配地域を中国共産党に奪われていく状況にあった。このような状況は1949年になると急速に進展し、中華民国政府は4月に首都の南京人民軍に制圧され、10月には中国大陸の大部分を制圧した中国共産党中華人民共和国の建国を宣言するまでになった。
  その為、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などを続々と台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止したが、1954年、1955年、1958年に台湾へ攻撃を再開し(台湾海峡危機)、1965年にいたるまで軍事干渉を続けた。以降、大規模な衝突にはいたっていないが、緊張関係は続いている。(詳細は「台湾海峡危機」を参照)
  
他方、蒋介石は、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退したため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったとする見方もある。(詳細は「蒋介石」を参照)
  現在でも、台湾社会では世代によって民族的アイデンティティーや使用言語が異なるケースも少なくない。また、原住民を祖先とする独自の台湾人なのか、中国人の支流としての台湾人、あるいは中国人そのものなのか、という帰属意識の分岐も存在している
二重承認問題
  中華人民共和国政府は一つの中国原則を主張し、二重承認を絶対に認めない立場を取っている。
  台湾当局は李登輝が総統に就任した後、中華人民共和国とは別個の国家としての「中華民国」の地位を明確化しようとし、二重承認を容認する動きも見られた。1989年にグレナダと国交樹立した際、同国に中華人民共和国との断交を求めなかった。一方、中華人民共和国は同国と断交し、二重承認とはならなかった。
  今日、二重承認が実現せず、また台湾を承認する国は年々減少している。中華人民共和国政府が態度を軟化させない以外に、その理由として、以下が挙げられる。

  1997年7月、香港返還に伴う在香港総領事館の存続問題である。マンデラ政権下の南アフリカ共和国二重承認に踏み切ろうとしたが、総領事館を設置していた香港が英国属領から中華人民共和国の特別行政区に切り替わったことで、総領事館の設置に際して中華人民共和国政府から同国の承認と「中華民国」の国家承認取り消しを求められた。そうしない場合、領事特権のない代表部に格下げすると迫られた。航空便も乗り入れ、台湾・香港系移民も多い南アフリカ共和国が香港との関係維持のためには中華人民共和国との関係が避けられず、中華人民共和国との長期的な経済関係拡大も見越して1997年限りで台湾の承認を終了、1998年中華人民共和国を承認し外交関係を開設した。

  1)中華人民共和国が国際連合安全保障理事会常任理事国であり、拒否権を有していることである。ただし、中華人民共和国が現実に拒否権を行使した例は過去4回しか存在しない。中華人民共和国を承認していない国が安保理で扱う議題の当事国となった場合、有利な案件は否決され、不利な案件は可決されるリスクを負う。具体例はマケドニア共和国である。同国は一度「中華民国」を承認したものの、国連PKOの派遣に関する決議を中華人民共和国に妨害されることを恐れて撤回した。
  2)「中華民国」を承認する国は台湾の潤沢な経済力を背景に、経済援助を目当てにしている国が多い(またこれは中華人民共和国を承認する国も同様である)。こうした国々は、アフリカ中央アメリカ南太平洋の島々を中心に存在する。いずれも小国であり、国連などの国際機関などで「中華民国」の参加や加盟に協力はするが、それを実現させるほどの政治力を持っていない。少数でも承認してくれる国家があることは、主権国家としての存続に必要不可欠だと歴代台湾の「中華民国」政権は認識している。
  3)台湾において民進党出身の陳水扁政権も同様である。陳水扁は総統就任直後、「四不一没有」(4つの拒否と1つのない)を表明し、独立路線の棚上げと対中関係の改善を目指した。ところが、2002年8月に陳が民進党主席に就任した日、中華人民共和国政府ナウルに承認切換を行わせた。これに反発した陳は「一辺一国」発言をした。中華人民共和国も経済援助を用い、「中華民国」を承認する国々を切り崩し続けた。そのため、陳政権にとっては「中華民国」を承認する国を確保することが緊急の課題となり、「一辺一国」発言に沿うはずの二重承認の実現まで手が回らなくなった。そのため、台湾側も政府承認の切替のみに注力する結果となった。
台湾の国際参加と名称問題
  中華民国が国際機構や主要国に認められなくなったため、台湾の国際参加には様々な障害が伴っている。そのため、実際には領域としての参加を余儀なくされている。その場合、台湾の呼称が政治問題化する場合も多い。国際社会に於ける主な台湾の名称には、以下が有る。
    ・チャイニーズタイペイ(Chinese Taipei 中華台北):世界貿易機関 (WTO)、アジア太平洋経済協力 (APEC)、世界保健機関(WHO)
    ・タイペイ・チャイナ(Taipei,China 中国台北):アジア開発銀行 (Hong Kong, Chinaとスペース表記なしで区別する)
  IOCやFIFAなどスポーツの国際機構には、国家承認問題を棚上げしたまま、チャイニーズタイペイという地域として参加している。
  また中華人民共和国を承認しない場合では北京当局、中華民国を承認しない場合は台湾当局という呼称を使用する場合がある。
台湾問題に関する各勢力の意見・法的扱い
中華民国(台湾)
  台湾移転後も国民政府(戒厳令下の国民党政権)は、「中国を代表する正統な国家」としての立場を継承する立場にあることを主張した。国民政府が台湾地域のみを統治することを内戦中の一時的な措置とした上で、台湾を含めた全中国中華民国#国土参照)の領有権を主張してきた。また、自由地区(台湾を指す)のみによる選挙の実施は全中国の代表性を損なうと主張し、民主化運動を法理独立と見做し、弾圧した。(「台湾国民政府」も参照)
  蒋経国政権は戒厳令を解除し、中華民国が中国大陸を実効支配していない事や中華人民共和国政府への対応を始めた。国家統一委員会の設置、それによる国家統一綱領の制定、さらに中華民国憲法の改正により、「自由地区」(台湾)における国政選挙の実施を行った。ただし、改憲は憲法本文を形式上を残し、追加修正条項を設けた。これは一つの中国原則を主張する保守派への配慮であった。また、中国大陸を「大陸地区」と呼称し、外国として認めたわけではない。
  また、中華民国政府は、今日まで中華人民共和国を正式に承認していない。国民政府の一つの中国原則では、外モンゴルの領有も主張しており、現在のモンゴル国とも正式な外交関係がなく、実務関係と代表部の設置に留まっている。
  台湾での国政選挙の実施により、中華民国は事実上の台湾国家となり、戒厳令前の国民政府のいう「法理独立」は達成された。残る問題は、中国大陸の中華人民共和国政府との関係や、台湾・中国大陸を包摂する全中国に関する定義づけであった。これに関して、政府、一国二政府また二国論(一中二国、特殊な国と国の関係。両国論)が提起された。(「総統民選期の中華民国」も参照)

  李登輝総統の両国論について、民進党は支持し、また心理的に抵抗を覚えた連戦も余儀なくされ、宋楚瑜もあからさまに反対できなかった。そのため、両国論は一定程度、台湾の各政党に引き継がれた。選挙終了後、しばらくは李登輝が国民党党首として民進党の陳水扁政権に協力し、宋楚瑜が親民党を結成したため彼と国民党の対立が増した。その間は、各党の見解に大きな変化はなかった。
  だが、2001年に李登輝が台湾団結連盟を結成し、国民党から除名されると、与野党の対立が顕在化した。民進党と台湾団結連盟からなる泛緑連盟と、国民党と親民党からなる泛藍連盟に色分けされるようになる。泛緑連盟は台湾アイデンティティを強調した選挙戦を行い、一方、泛藍連盟は支持基盤である外省人や本省人保守派を固めるため、中国アイデンティティを誇示し、中国との融和を主張するようになる。
民進党・陳水扁政権
  民進党は、党綱領(台独党綱)で「台湾共和国」の設立を目標と掲げていた。しかし、2000年総統選挙での政権獲得を目指すため、中華民国の存在を承認し、台湾独立を放棄もしくは棚上げすることで主要派閥が合意した。しかし、党内には急進派の「台湾独立建国連盟」に属する者や党外の協力者や支持者にも配慮する必要があった。そのため党綱領と並ぶ基本文書として、台湾前途決議文を1999年5月8日に高雄で開催された全国党員大会において採択し、党綱領の台湾独立を棚上げすることが規定された。
四不一没有
  成立当初の陳水扁政権は、李登輝総統よりも保守的な方針を「四不一没有」で示した。そのため李登輝総統からは、自らの進めてきた中華民国の台湾化に逆行すると批判された。陳水扁は、1990年代から旧東西ドイツをモデルとした中間協定の締結を主張し、1999年には当時の林義雄民進党主席と共に中国とのFTA締結を主張していた。2000年大晦日(2001年元旦未明)には統合論を提示し、まずFTAなど経済統合から始め、長期的には政治統合や文化の統合に至ると述べた。これは、「特殊な国と国の関係」論において、李登輝前総統が無視した「特殊な関係」の実現を目指したものであった。背景には、米国が中華人民共和国との交渉を仲介するとの期待や、積極的に中華人民共和国と交渉し、条約を締結することで、中華民国の国家としての地位を確定させるという目論見(「強本西進」論)があった。
  しかし、中華人民共和国は「四不一没有」に対して「行動を見守る」と述べるにとどまった。FTA締結に対して一部官僚が反応したものの、「強本西進」の目的に気づき、その後反応を見せなくなった(2003年に香港とCEPAを締結後、台湾にもCEPAを提案した)。その一方で、中華民国を承認する国に、承認切り替えを迫り続けた。
一辺一国
  華人民共和国の態度が軟化しないため、2002年、陳水扁政権は「強本西進」から転換を始める。また、2001年立法院選挙で過半数を逃し、政権運営上、李登輝総統を精神的首領とする台湾団結連盟の協力が必要であったことも原因の一つに数えられる。
  陳水扁総統は2002年8月の民進党全国党員大会で党主席に就任した。しかし、その当日、中華人民共和国は中華民国を承認していたナウルとの国交樹立を発表した。台湾では中国の「引き出物」=嫌がらせと受け止められ、面子を潰された陳水扁総統は、同月、世界台湾同郷会への挨拶で「中国と台湾は、一辺一国(別々の国)である」と述べた。中国はこれに反発。しかし、実際には陳水扁政権による関係改善に向けた提案をあしらった結果であった。こうして台湾政府が中国との関係改善に積極的で、具体的な提案を行った時期は終了した。ただし、その後も陳水扁総統は、中国に善意があれば、いつでも関係改善が可能との立場を崩していない。中間協定や統合についても、中国が中華民国を承認すれば協議に応じる、と機会がある毎に述べている。
中国国民党
国家連合構想
  連戦は2000年総統選挙期間中、李登輝の後継者であったため、二国論を支持していた。しかし、選挙後、自ら党主席に就任し、その後、連戦は李登輝路線の修正を始めた。2001年1月4日に、連戦は新著『新藍圖、新動力』の発表会で、著書の内容と関連して中国との国家連合を提唱した。同年8月に開かれる第16回全国党大会において、党政策綱領に盛り込もうとした。しかし、党内の台湾本土派の反対により大会開催前に断念せざるを得なかった。また、中国側も同年3月に全人代報道官が反対を表明している。その後、しばらくの間は連戦は国家連合を唱え続けたが、後には自らの提案の存在自体を否認する発言を行っている。
3つの選択肢(馬英九)
  2006年2月14日、中国国民党は台湾本土派の日刊紙「自由時報」に意見公告を掲載した。そこで馬英九同党主席は、統一、独立、現状維持の3つの選択肢を上げ、統一が最終的目標であるが、現在は現状維持が最も現実的な選択肢だと述べた。これは、陳水扁総統が国家統一綱領と国家統一委員会の廃止に言及した事を牽制するものであった。ただし、この意見公告に対しては、最終的な統一が馬英九の理想である事を強調する見方と、中国国民党が台湾独立も台湾有権者の選択肢の一つとして明言したことを重視する見方がある。なお、2004年に、中国国民党籍の王金平立法院院長も、「台湾独立も選択肢の一つ」と述べたことがある。
中国共産党・中華人民共和国政府
  中国共産党の台湾問題に対する見解は、その時代の政治情勢によって、大きく変化している。
中華人民共和国建国以前
  1949年の建国以前の中国共産党は、台湾を中国の固有領土と認識しておらず、その独立を支持していた。毛沢東の発言によれば、ソビエト連邦をモデルとした連邦国家を目指し、主要な少数民族には自治権を付与し、自治共和国を設置する。一方、以前の朝貢国である朝鮮と領土だった台湾については、独立を望むなら援助を与える方針であった。(詳細は「中華連邦主義」を参照)
中華人民共和国建国から1970年代末まで
  中華人民共和国政府は、自国が1949年崩壊・消滅した中華民国継承国家であり、「中国を代表する正統な国家」としての立場を中華民国から引き継いだ立場にあるとしており、そこから1945年に中華民国の領土に編入された台湾の最終帰属も、中華民国の立場を継承した中華人民共和国に継承されると主張してきた。その為、中華人民共和国は、名目的に台湾省を設置する事で自己の主張の正当化を図り、併せて蒋介石によって台湾へ移転された現在の中華民国政府のことを、「崩壊した中華民国政府(国民政府)の一部勢力が台湾を不法占領して樹立した非正統的な政府」として、その存在の正統性を否定してきた。
「台湾同胞に告げる書」の発表および改革開放期以降
  1979年1月1日、全国人民代表大会常務委員会が「台湾同胞に告げる書」を発表。台湾政策の原則を武力解放から平和統一へ転換した。
  1995年1月30日、江沢民中国共産党総書記が、台湾問題の解決方式について8項目の提案を発表した(江八点)。
  2008年12月31日、「台湾同胞に告げる書」発表30周年座談会で、胡錦涛中国共産党総書記が談話を発表。以下の6項目を提案した
 一つの中国という原則を守り、政治的相互信頼を強化する
 経済協力の推進、共同発展の促進
 中華文化を発揚し、精神的な絆を強化する
 人的往来を強め、各界の交流の拡大
 国家主権を維持し、対外関係での協調
 敵視をなくし、和平協定に調印すること
余元洲の建議案
  2004年、中国が統一法を制定するとの噂が流れた。後に、2004年12月から翌2005年3月にかけ、中国の全国人民代表大会反国家分裂法として立法作業に入る。この反国家分裂法に先んじて、2002年に余元洲・江漢大学政法学院副教授が「中華人民共和国国家統一促進法(学者建議案)」発表していた。反国家分裂法との関連は定かではないが、全人代や国務院台湾事務弁公室にも送付し、また何人かの全人代の代表や政府関係者が彼の意見を聴取したとも言われる
  余の統一促進法では、中華民国の実効支配地域を「中華人民共和国台湾特別政治地域」とし、中華人民共和国の実効支配地域を「中華民国大陸特別政治地域」とすることを提案している。二つの国が互いの全領土に対する主権を共有する点では、国際法上荒唐無稽である。しかし、中華民国の存在を公的に認め、当事者間においては双方を外国と看做さない点において、分断国家理論やそれに基づく本来の「特殊な国と国の関係」(旧東西モデル)に近い発想と言い得る。
イギリス
  ウィンストン・チャーチル首相は1955年のイギリス議会での答弁で、「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」と述べてい
カイロ宣言と国連第2758号決議文問題
  2004年に中国の温家宝総理が「中国が台湾の主権を有していることは『カイロ宣言』できわめて明確に示されている」と発言した。
  これに対して陳水扁は、2008年に英国Financial Timesのインタビューに対して次のように答えた。
  「1943年に蒋介石、チャーチル、ルーズベルトの3ヶ国の首脳が中国は台湾の主権を確かに有していると決定したと、多くの人々が信じて」きたが、1943年12月1日の『カイロ宣言』は日付も署名もなく、事後による追認もなく、授権もないとし、「これはそもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない」と指摘したうえで、「1955年2月1日、チャーチル首相は国会質問で、『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できないと答えたように、当時3人にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかった」と述べ、中国がカイロ宣言を根拠に領土権原を主張するのは成立しないとした。
  また、「台湾の国家主権は台湾国民に属している」と強調し、さらに、多くの人が「『カイロ宣言』にはそもそも中国が台湾の主権を有することが書かれたわけではないというこの事実を知らないのは、過去の教育が杜撰であり、歴史が改竄されていたからだ。だからこそ、中国は自己に有利なためこれを引用し、国民党は台湾を統治する際の法的統一の基礎としたのだ」とした。
  また、陳水扁は1971年の国際連合総会2758号決議にはそもそも『台湾』が触れられておらず、『中国』代表権問題のみが解決しただけであり、中華人民共和国が台湾2300万の人々を代表してよいとは言っていないのであり、パン・ギムン国連事務総長や中国はこれを拡大解釈しているとして批判した


中台関係
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中台関係とは、中国大陸中華人民共和国)と台湾中華民国)との関係のこと。中台の当局者同士は「台湾海峡両岸関係」略して「両岸関係」と呼ぶことが多いという

鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年~1895年)(「鄭氏政権 (台湾)」および「清朝統治時代 (台湾)」も参照)
  台湾には古来、マレー・ポリネシア系の先住民(台湾原住民)が居住していたが、12世紀ごろから中国大陸から漢民族が到来し始め、13世紀末にの世祖クビライが台湾南西の島、澎湖島に巡検司を設置した。
  代後半の16世紀末から、現在の福建省からの移民が本格化した。1661年鄭成功(実母は日本人)が当時台湾を植民地支配していたオランダを駆逐して、台湾史上初の漢民族政権を樹立した(鄭氏政権)。しかし、鄭氏政権は1683年、わずか20年余りで朝に制圧された。鄭成功は、「反清復明」(満州族の王朝であるを打倒し、漢民族の王朝であるを復興する)の目標を果たすことなく死去したが、台湾開発の基礎を築いた実績は今日の台湾でも高く評価されており、台湾人の精神的支柱(開発始祖)と呼ばれることがある。
  鄭氏政権が倒れた翌年の1684年康熙帝が台湾領有の詔勅を下し、台湾を清朝の版図としたが、台湾を「化外の地」として扱って実質的に統治せず、漢民族の移住を厳しく制限した。しかし、その後も福建人や広東人、客家人が台湾に多数移住した。
  台湾出兵の発端となった台湾原住民による日本人船員殺害事件(1871年)では、清朝は明治政府の賠償要求に対し、管轄外として拒否した。
日清戦争終結から第二次世界大戦終結まで(1895~1945年)(「日本統治時代の台湾」および「中華民国の歴史」も参照)
  1895年日清戦争後に締結された下関条約により、台湾は清朝から大日本帝国に割譲された。この頃の台湾の総人口は約300万人、うち漢民族は約255万人、原住民は約45万人だったという。この間の日本の政策により、中国大陸と台湾の往来は激減した。
国民政府の領有と台北遷都(1945~1949年)(「国共内戦」も参照)
  ポツダム宣言が調印された1945年9月2日連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は指令第1号において台湾の日本軍に対して中華民国国軍蒋介石大元帥への投降を命じた。蒋介石国民政府主席は、すでにその1日前(9月1日)、「台湾行政長官公署」と「台湾警備総司令部」を設置し、陳儀陸軍大将を初代台湾行政長官兼台湾警備総司令官に任命していた。同年10月17日国民政府国民党軍(国民革命軍)と官吏あわせて1万人以上が米軍の全面的支援を受けて基隆港から上陸、台湾の領有を開始した。10月25日には、上海から到着したばかりの陳儀・初代行政長官と安藤利吉台湾総督兼台湾軍司令官との間で降伏文書の調印が行われた(台湾光復)。この日は現在も「光復節」として台湾(中華民国)の休暇を伴わない記念日となっている。

  台湾光復後まもなく、中国大陸では蒋介石率いる中国国民党毛沢東率いる中国共産党との国共内戦が本格化し、台湾では著しい物資不足と激しいインフレーションが襲った。1946年3月には早くも、長官公署の無能・腐敗を糾弾する「人民自由防衛委員会」が発足している。そして、1947年2月28日の台湾住民と官憲の衝突をきっかけに台北市に戒厳令がしかれ、国民党軍や官憲による住民の弾圧・粛清が行われた(二・二八事件)。この事件により知識人を中心にわずか2週間余りの間に少なくとも約2万8千人が殺害され、今日に至る「本省人」と「外省人」の深い溝を作った。

  米国の抗議を受け、蒋介石は陳儀初代台湾行政長官を免職とし、台湾行政長官公署を廃止して台湾省政府を設置し、魏道明を初代省政府主席に任命した。1948年末には、蒋介石の腹心である陳誠を第2代省政府主席兼台湾警備総司令官に、長男である蒋経国を中国国民党台湾省委員会主任委員に任命した。1949年5月20日、台湾全土に戒厳令が布告された(この戒厳令は、蒋経国政権末期の1987年7月にようやく解除された)。
  1949年4月23日、中華民国の首都南京が陥落すると、まもなく毛沢東率いる中国共産党が中国大陸をほぼ掌握し、10月1日中華人民共和国の建国を宣言。国民党政権の国民政府は12月8日台北遷都を決定した。蒋介石は台湾退却後も「中華民国こそが中国の正統政権」と主張し、台湾を「大陸反攻」の拠点と位置づけたのに対し、中国大陸の中華人民共和国政府は「台湾解放」を掲げた。こうして、中華人民共和国中華民国が、それぞれ中国大陸と台湾を支配統治しつつ、互いに国家としての存在を否定し軍事的に対峙する「両岸関係」の歴史が始まった。
「解放台湾」と「反攻大陸」の時代(1949年~1978年)
アメリカの台湾海峡「中立化」
  人民解放軍の金門島上陸作戦では国民党軍が激戦の末に勝利し、金門島を死守した(1949年10月25日、古寧頭の戦い)ものの、国共内戦は台湾に退却した中国国民党・国民政府に不利な情勢が続いていた。1950年1月には国共の和平工作(双十協定)に失敗して国民党への援助を打ち切ったアメリカのトルーマン政権が台湾海峡に介入しないとする声明を発表。これに勢いづいた共産党中央は、人民解放軍に空軍、海軍を創設して台湾の武力解放作戦に向けた準備を本格化させ、まず海南島と浙江省沖・舟山群島を相次いで武力制圧した。
  1950年6月、朝鮮戦争が勃発。北朝鮮の進軍を「国際共産勢力の侵略」とみなしたトルーマン政権は、一転して台湾海峡に第七艦隊を派遣し、台湾海峡の中立化を宣言、「将来の台湾の地位は未定」と声明した(台湾地位未定論)。こうして、アメリカが米中全面戦争を恐れ、毛沢東政権による台湾侵攻と蒋介石政権による中国大陸反攻のいずれも認めない方針をとったことにより、共産党の台湾“解放”作戦は頓挫した。
台湾海峡危機
  1953年7月の朝鮮戦争休戦1954年第一次インドシナ戦争停戦(ジュネーヴ協定)を受け、毛沢東は再び「台湾解放」を発令、1954年9月、人民解放軍は金門・馬祖への激しい砲撃を開始した(第一次台湾海峡危機)。翌年1月には一江山島を武力制圧、2月には大陳島を“解放”して(大陳島撤退作戦)、戦闘は終結した。
  1951年から台湾への軍事支援を再開したアメリカは、1954年12月に米華相互防衛条約を締結し、台湾支援を本格化した。1958年8月23日、中国の人民解放軍は突然、金門島に対する砲撃を開始し、いわゆる金門砲戦(八二三砲戦)が勃発し、金門島の海上封鎖が試みたが、アメリカ海軍第7艦隊の支援を受けた台湾の国軍が海上輸送作戦を展開してこれを阻止した(第二次台湾海峡危機)。
第三次国共合作の模索
  中国は1955年ころから表向きの方針を「武力解放」から「和平解放」に転じた。まず、周恩来首相が平和統一の話し合いを呼び掛けるとともに、国共内戦後アメリカに亡命した李宗仁元総統代行の秘書を通じて「第三次国共合作」による祖国統一を初提案した。毛沢東からは、国共内戦時の和平交渉団で国民党側の代表だった章士釗を通じて、「国共合作による平和統一」「台湾への高度な自治権保証」など、後の「一国二制度」案の原型となる提案がなされた。その後も1960年、密使を通じて、「外交権以外の自治権保証」「台湾への資金援助」などの四項目を提案、1965年には「蒋介石の国民党総裁身分での大陸帰郷」「蒋介石の長男・蒋経国台湾省長への任命」「台湾陸軍四個師団の存置」など六項目を提案した。このころ、中国共産党中央委員会は、「台湾をアメリカに渡すより蒋父子(蒋介石及び蒋経国)に残した方がよい」という台湾工作の大方針のもと、「一綱四目」(一綱:中台統一の原則、四目:軍政の蒋政権への委任、中国中央による台湾への経済支援、台湾の社会改革の尊重、中台スパイ合戦の中止)を台湾政策として確立していた。
  これに対し、台湾の蒋介石は一貫して「大陸反攻」を掲げ、中国側の提案を拒否した。逆に1962年ころには、大躍進政策失敗を好機と捉えて大陸反攻を計画したが(国光計画)、全面戦争に発展することを恐れたアメリカ・ケネディ政権の反対で実行されなかった。その後も文化大革命の混乱に乗じて、「毛沢東討伐救国連合戦線」の結成を呼び掛けたり、人民解放軍の寝返りを奨励するなどした。
台湾・国府の国際的孤立化
  1949年以後、中華民国・国民政府(国府)の実効支配は台湾とその周辺島嶼に限られていたが、あくまで「中国の正統政府」と自らを称し、アメリカの支援も背景に国連の議席や常任理事国としての地位を維持していた。また、「漢賊不両立」を掲げていた蒋介石は、「反乱団体」と位置づけていた中華人民共和国との外交関係の両立を拒否し、同様に中国も「二つの中国」に強く反対していたため、他国は中華人民共和国か中華民国かどちらか一方との外交関係を迫られ、中台間で「外交戦争」(外交関係の奪い合い)が展開されていた。
  1950年代から中華民国(台湾)と国交をもつ国は増え続け、1969年にピークの68カ国に達したが、1970年代に入ると「外交戦争」の形勢はにわかに逆転した。1970年、国連の中国代表権問題の表決で中共政権支持派が初めて優位になった。1971年には、アメリカ・ニクソン政権が対中接近政策に転換。国連も「蒋介石の代表を追放する」という内容の国際連合総会決議2758を可決、中華民国は自ら国連を脱退した。国交をもつ国の数も中国に逆転され、台湾・国民政府の国際的孤立は一気に深まった。
両岸交流の再開と「平和統一」をめぐる攻防(1979年~2000年)
一国二制度による平和統一提案
  1979年1月、中国がアメリカとの国交を樹立すると、中国の最高指導者に復権した鄧小平は、国家目標として「四つの近代化」と並んで「台湾の復帰による祖国統一の完成」を掲げ、訪米先で「二度と『台湾解放』という言葉を使わない」と言及して「平和統一」を全面的に打ち出した。全人代常務委員会も「台湾同胞に告げる書」を発表し、両岸の交流(三通四流)を呼び掛けた。さらに1981年9月には葉剣英全人代常務委員会委員長の名において「第三次国共合作」「三通四流」「台湾の高度の自治権の享受」など九項目を提案した(葉九点)。
  これに対し、蒋介石の後を継いだ蒋経国総統は、中共政権とは絶対に「接触しない」「交渉しない」「妥協しない」という「三不政策」により中国側の提案を拒否。1982年に「三民主義による中国統一」を対中政策として確立・堅持した。鄧小平はあきらめず、蒋経国との間で密使を通わせつつ、1983年6月、「国共両党の平等な対話」「台湾の司法権独立、軍隊保有の容認」「台湾当局の人事権の独立」など六項目を提案した(鄧六点)。一方では「二つの中国」につながる完全な自治権、三民主義による中国統一などに反対との立場も示し、「武力行使による統一」という選択肢も絶対に放棄しないとたびたび公言した。蒋経国も1987年から沈誠という密使を北京に派遣して交渉を行っていた。
中台交渉の開始
  中国大陸とは対照的にアメリカの庇護のもと経済発展を遂げた台湾では、1970年代末から民主化運動が活発化した。蒋経国は政治改革を決断、1987年7月に38年間続いていた戒厳令を解除するとともに、集会・結社の自由、新聞発行の自由を認め、台湾住民の大陸訪問も解禁した。これにより1991年には台湾住民の大陸訪問が約100万人に達した。
  1988年に蒋経国が死去し、副総統から昇格した本省人李登輝総統は、就任後まもなく「三不政策」の転換を図った。1989年5月、アジア開発銀行年次総会に当たり、台湾代表団が初めて北京に派遣され、人民大会堂中国国歌の演奏を起立して聴いた。1990年7月には対中政策を統括する国家統一委員会を、1991年1月には対中窓口機関として海峡交流基金会(海基会)を相次いで設立した。さらに、1991年5月、国共内戦への総動員体制の法的根拠となっていた動員戡乱時期臨時条款を約43年ぶりに廃止し、台湾が一方的に共産党との内戦状態の終了を宣言する形となった。こうして中台交渉の道を開く一方、国家統一綱領で中台双方が対等な「政治実体」であるとの前提で段階的に中国統一を目指す方針も策定し、暗に中国主導による一国二制度の統一方式を拒否した。
  中国側は台湾独立を掲げる民主進歩党(民進党)の合法化など台湾の民主化を警戒しつつも、海基会のカウンターパートとして海峡両岸関係協会(海協会)を設立。民間実務機関という形をとりながら、両岸当局の接触・交渉が公の場で始まった。双方が一つの中国原則をめぐり激しく対立する中、1993年4月、シンガポール辜振甫海基会董事長(理事長)と汪道涵海協会会長による初の中台トップ会談が実現した(第一次辜汪会談)。
台湾の実務外交の展開と摩擦
  李登輝政権は発足当初から台湾の国際的生存空間を拡大させるため、名より実をとる「実務外交」を展開し、在外窓口機関を通じた非公式実務関係の強化を図った。1990年GATTに「台湾・澎湖・金門・馬祖」名義での加盟申請を行い(2002年WTO正式加盟に結実した)、1991年にはAPEC中華台北 (Chinese Taipei) 名義で、経済地域体という形式でありながら正式参加を果たした(以後2001年を除き毎年代表を派遣)。さらに1993年からは国連復帰(再加盟)活動も開始し、1993年にはそれまで香港などを介した間接投資のみだった大陸への直接投資も解禁した[3](以後2007年まで、台湾を承認する国家が国連総会に「中華民国」加盟を討議する委員会設置を求める総会決議案を提出し続けたが、中国の反対で却下されてきた)。李登輝はじめ、郝柏村連戦行政院長による首脳外交も活発化した。
  これに対して中国当局は激しい外交工作で対抗、1988年から1995年までの間に韓国シンガポールを含む6カ国を台湾との国交断絶に追い込んだ。1994年に起きた千島湖事件で、中国の対応に憤慨した台湾では独立機運が高まった。鄧小平の後継指導者となった江沢民中国共産党総書記は、1995年1月、台湾に向けて一つの中国原則のもとでの敵対状態終結交渉など8項目を提案した(江八点)。しかし、3カ月後、李登輝は中国の武力行使放棄など6項目を逆提案、江八点を事実上拒否した(李六条、李六点)。これを受け、江沢民は「文攻武嚇」として李登輝を批判して武力を以て威嚇する姿勢を打ち出した。
台湾海峡ミサイル危機
  1995年5月、李登輝が初訪米し、母校コーネル大学で「台湾に存在する中華民国(中華民国在台湾)」をアピールしたことに対し、中国が猛烈な李登輝非難キャンペーンを展開した。中国は同年7月から8月にかけて台湾近海を標的とするミサイル演習を繰り返し、同年末の台湾立法委員選挙前にも大規模な三軍上陸演習を実施。1996年3月に予定されていた中華民国総統の初の直接選挙の直前にも大規模な軍事演習計画を発表し、中台間の緊張が極度に高まった。しかしアメリカが空母2隻を中心とする機動部隊を台湾海峡に派遣したため、中国軍は演習規模の大幅な縮小を余儀なくされ、李登輝が対中感情の悪化した台湾世論の圧倒的支持で当選した。
「二国論」の波紋
  李登輝再選後、中国は露骨な軍事的威嚇をひとまずやめ、台湾の後ろ盾である米国との関係改善に意を注いだ。1997年10月に江沢民の公式訪米が実現、1998年6月にはクリントン大統領から台湾独立、一中一台、台湾の国連等加盟に対する不支持(三つのノー)を引き出すことに成功した(ただし口頭の発言であり、公式文書化されてはいない)。さらに江八点に基づく統一交渉を再び呼び掛け、1998年10月に第二次辜汪会談が開かれたものの実質的な関係進展はみられなかった。
  中国の攻勢に危機感を強めた李登輝は、後に民進党主席となる蔡英文らとともに中台関係の法的位置づけの見直しに着手し、1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビューで「台湾と中国は特殊な国と国の関係」と表明した(二国論)。中国はこれを徹底批判し、汪道涵・海協会会長の訪台キャンセルや軍事威嚇(戦闘機の台湾接近)で対抗した。中台間の緊迫は台湾大地震の発生でひとまずやみ、李登輝政権も中台緊張を危惧する国際世論に配慮して二国論に基づく憲法改正に踏み込まなかった。
胡錦濤の「中国」と陳水扁の「台湾」(2000年~2008年)
一辺一国論と台湾正名運動
  中国は、2000年3月の台湾総統選挙を控え、台湾側が統一交渉を無期限に拒否した場合には武力行使をするとの「台湾白書」で牽制したが、台湾独立綱領をもつ民進党の陳水扁が当選、史上初の政権交代が起きた。ただ陳水扁総統は同年5月の就任演説で、在任中に台湾独立宣言しないなどの穏健的現実路線を表明(五つのノー)。2001年、2002年の新年談話でも将来的な「政治統合」にも言及し、中国当局に対話を呼び掛けた。
  しかし、中国最高指導者の江沢民は“陳水扁政権相手にせず”の方針を堅持、陳水扁の党主席兼任が決まった民進党大会の日にあわせてナウルと国交を結び、台湾との国交を断絶させた。それから間もなく、陳水扁は中台関係を一辺一国と位置づける見解を発表、台湾独立を問う住民投票実施の検討に言及した。さらに、SARS流行に際して中国が台湾の世界保健機関 (WHO) 加盟に反対の態度を変えなかったことに対する台湾人の反発が強まり、「脱中国化」を目指す台湾正名運動が公然化。2003年9月には「TAIWAN」を付記した中華民国パスポートの発行に踏み切った。
反国家分裂法制定と国共党間交流
  2004年3月の総統選挙で再選(ただし同日実施された中国にミサイル撤去を求める住民投票は不成立)した陳水扁は、当初対中融和路線をとり、10月に1992年香港会談に言及して中国に対話を呼び掛けた。しかし中国側はこれを拒否し、2005年3月14日、第10期全国人民代表大会第3回大会で、台湾独立に対して「非平和的手段」を取ることを定めた反国家分裂法を採択、直ちに施行した。
  中国は民進党政権との対話を拒否する一方で、国民党など野党との対話路線を推し進めた。まず、反国家分裂法制定からまもない2005年4月、北京で胡錦濤共産党総書記と連戦国民党主席の60年ぶりの国共トップ会談を行い、平和協定締結の促進などに合意、台湾へのパンダ贈呈も約束した。胡錦濤は宋楚瑜親民党主席とも会談した。さらに、2006年4月から国共両首脳陣が経済政策を定期的に協議する両岸経済貿易文化フォーラムを発足。政治的緊張とは裏腹に、台湾企業の中国大陸進出は飛躍的に増加し、2005年春節には中台直行チャーター便が史上初めて就航。10月には台湾での人民元両替が認可された。
  中国に無視された陳水扁は2006年2月27日国家統一綱領の適用終了、国家統一委員会の活動停止を宣言するとともに、台湾正名運動を再発動し、中正国際空港中華郵政中国石油中国造船の相次ぐ改名を断行した。しかし、陳水扁らの金銭スキャンダルが相次ぎ、民進党の支持は急低下。間もなく下野を余儀なくされた。
国民党政権復帰による中台接近(2008年~2016年)
中台対話の再開と政治交流の進展
  2008年3月の総統選で当選した国民党の馬英九は、就任後まず中台関係の改善に乗り出した。九二共識受入れを表明し、中台関係の位置づけに関し、李登輝が打ち出した「特殊な国と国の関係」を否定し、「一つの国家の中の特殊な関係」を提起した。中台が外交関係の奪い合いの中止を呼び掛け、李登輝政権以来15年間続けてきた国連加盟運動を休止し、国連専門機関参加を推進する方針も表明した。陳水扁前政権が拒否していた中国からのパンダ受け入れも決定し、台湾でパンダブームが起きた。2008年12月には、香港鳳凰衛視のインターネット生放送で中国向けの談話も発表した。
  中国側も、馬英九政権発足直後から積極的な対話姿勢を打ち出し、まず5月に胡錦濤と呉伯雄国民党主席の国共江陳会談を、6月に江丙坤海基会理事長と陳雲林海協会会長の江陳会談を、11月にAPECを利用した胡錦濤と国民党名誉主席の会談を相次いで実現させた。こうして民進党政権で長らく中断していた海基会・海協会ルートの江陳会談が、馬英九政権になってから年2回のペースで開かれるようになっている。また、中国は馬英九が呼び掛けた「外交休戦」を事実上受け入れ、2009年5月に台湾のWHO総会オブザーバー参加容認に方針転換した。2009年に制作された中国の国策映画である建国大業国務院台湾事務弁公室主任の王毅の勧めで見た蒋介石の孫で当時国民党副主席の蒋孝厳が蒋介石の愛国的一面が描かれたことを「客観的な歴史評価」と称賛[6]して台湾の国民党本部で毛沢東の孫と面会[7]するなど両党の接近は著しかった。
  一方、民進党重鎮の陳菊高雄市長も2009年5月に初訪中し、郭金龍北京市長韓正上海市長との会談を実現。中国は国務院台湾事務弁公室に「政党部」を新設し、民進党の取り込みを始めた。2010年4月には、韓正上海市長が中国の直轄市長として初めて訪台し、台北市と都市フォーラムを開催した。2012年10月には、総統選で馬英九の対立候補だった謝長廷中国共産党とのパイプを民進党にも築きたいと表明して中華人民共和国を訪問、王毅主任や戴秉国国務委員と相次いで会談するなど、中台政治交流も徐々にレベルを上げて拡大した。
「三通」解禁と“中台FTA”締結
  2008年12月には中台間の定期直航便が就航し、中国大陸住民の台湾観光や三通が解禁された。その後も、長年正統性を争ってきた北京故宮博物院と台湾国立故宮博物院の共同展示会、中国資本の台湾投資解禁、金融協力、メディア交流、軍事フォーラム、共産党地方幹部の訪台団派遣、中国の司法試験の台湾人受験者への開放など、各方面で中台交流が急速に進んだ。2009年5月には、中台双方に初めて準政府機関の常駐事務所として観光事務所が設置された
  中台関係は急速に緊密化し、いまや台湾の輸出額の4割が中国を占め、中国進出台湾企業は10万社、中国在住台湾人は上海アモイ広州など大都市を中心に100万人(台湾の全人口は約2300万人)、年間往来者数は年間500万人を超えるといわれるまでになった。台湾の国際結婚の配偶者も40万人のうち26万人が中国大陸人である。政治的な敵対関係とは裏腹に民間での結び付きの強さがうかがえる。
  さらに、2010年6月29日、中国・重慶市における海基会・海協会ルートの中台トップ会談で、両岸経済協力枠組協議 (ECFA) を締結した。名称は分かりにくいが、中国側が539品目、台湾側が267品目(貿易額で合計約167億ドル)について2013年1月までにゼロ関税とするもので、実質的な中台自由貿易協定 (FTA) である。協定は台湾側にかなり有利な内容となっており、台湾は中台経済一体化が主権の危機をもたらすとの民進党などの批判をかわし、中国は「台湾に譲歩し過ぎ」との国内の批判を押え込んで締結にこぎ着けた。
中台軍事バランスの変化
  中国と台湾の軍事バランスは、長年、アメリカの台湾関係法による武器供与もあって台湾側が圧倒的に有利とされてきたが、中国・人民解放軍の急速な近代化により台湾の優位性が後退、近い将来中国有利に逆転するとの懸念が出ている。台湾海峡をはさんだ軍拡競争に歯止めがかかる兆しはない。
  中国は1990年代以降、台湾を射程に収めたミサイルを毎年50~100基ペースで増強してきたが、馬英九政権発足後は毎年数百基単位で増加させ、2010年末には2000基に達すると予測されている。さらに2010年内に台湾攻撃用の大型戦艦51隻、潜水艦43隻を配備するなど海軍力も増強し、空軍も台湾から約1100キロメートル以内の地域に戦闘機1900機を配備しているという
  他方、台湾は陳水扁政権時代、立法院で少数与党であったことやアメリカ・ジョージ・W・ブッシュ政権と関係が悪化したことなどから、アメリカの武器供与が滞り、中台軍事バランスの変化に拍車をかけていたが、アメリカが馬英九政権発足後の2008年10月、地対空ミサイル・パトリオット (PAC3)、攻撃型ヘリコプター、対艦ミサイルなど総額約65億ドル相当の武器供与を決定。さらにバラク・オバマ政権も2010年1月、総額64億ドル相当の武器供与を決定したが、猛反発する中国に配慮して新型戦闘機F16や潜水艦の供与が見送られた。
「胡六点」と台湾宥和政策
  国は中台経済交流の進展を受け、「中台統一」を見据えた政治対話を実現すべく、台湾懐柔策を矢継ぎ早に出した。まず、胡錦濤は2008年12月31日、「両岸は国家が統一されていない特殊な状況」と認め、「両岸の軍事問題についての相互信頼システムの確立」を呼び掛ける談話を発表した(胡六点)。
  2009年5月、中国は、台湾のWHO総会 (WHA) オブザーバー参加を容認する方針に転換し、上海万博に台湾を正式招待するなど(台湾の万博招待は40年ぶり)、台湾側の歓心を買う動きを強めた。この頃、温家宝首相が公の場で「台湾に這ってでも行きたい」と発言したり、福建省で開催された中台政治関係者の対話「海峡フォーラム」の席で、王毅国務院台湾事務弁公室主任が中台交流モデル地区構想を披露したことも波紋を呼んだ。2009年8月の台湾南部の台風水害では、約50億台湾ドルの義援金も送った。
  ただ、2011年5月、WHOが加盟国に「中国台湾省」の名称使用を求める内部通達を出していたことが発覚し、馬総統が「中共による圧力は明らか」と激怒し強く抗議した(WHO事務局長は香港人のマーガレット・チャン)。
チベット・ウイグル問題をめぐる摩擦
  中台融和が急速に進む中、中国にとって最も敏感な問題であるチベット、ウイグル問題が新たな火種に浮上した。
  2009年8月末、ダライ・ラマ14世が台風8号水害被害の慰問を名目に台湾南部を訪問。中国側は断固反対の声明を繰り返し、南京市共産党トップや中国人民銀行副総裁の訪台延期などで対抗措置をとった。さらに、同年9月には高雄市などでラビア・カーディル世界ウイグル会議議長のドキュメンタリー映画が上映された。中国側は高雄市観光中止を指示し、ホテルの大量キャンセルで対抗した。ただ、その後、台湾政府は中台関係悪化を懸念し、ラビア・カーディル議長の台湾入国を拒否し続けている。
「十六字箴言」をめぐる新たな攻防
  2010年6月のECFA締結を契機に、中国側は中台対話のレベルを経済分野から政治・安全保障分野に格上げし、中台統一問題の協議入りを目指すとみられているが、台湾側は政治対話への慎重論が根強く、中台関係は新たな政治的駆け引きの段階に入っている。
  馬英九は、中国に対し台湾向け攻撃ミサイルの撤去や、国連機関への加入妨害の中止を求め、「正視現實、累積互信、求同存異、續創雙贏」(現実を正視し、相互信頼を蓄積し、相違を残し共通点を求め、ウイン・ウイン関係を継続的に築く)という原則(十六字箴言)を提起。任期中は統一問題を協議しないと牽制しつつ、国交のない日本やアメリカなどとのFTA締結を目指す構えをみせている。
  一方、胡錦濤は、2010年7月12日呉伯雄国民党名誉主席との会談で馬英九の十六字箴言と基本的に同じ立場だとの認識を示し、同年7月30日国防部報道官も「一つの中国」原則の受入れを条件にミサイル撤去の協議に応じると表明した。すると、台湾の呉敦義行政院長は、台湾の主権を正視すべきと中国側の提案を拒否した。
台湾人の対中意識の変化
  馬英九政権後の中台接近を背景として、台湾人の根強い“反中”感情にも変化が出始めている。2009年、2010年の世論調査では、非友好国ランキング1位に中国が選ばれ、中国に対する不満・不信感は薄らいでいないが、中国は同じ調査で「最も親しくすべき国」の1位にも選ばれ、中台交流を支持する世論が強まっている。
  2010年6月の両岸経済協力枠組協議 (ECFA) 締結直後の世論調査では、台湾住民の61%がECFA締結を支持。同年8月に台湾紙・旺報が実施した世論調査では、67%が「中国本土は台湾の発展にとって重要」と答え、前年同期の調査より10%増えた
  もっとも、2010年8月末に実施した聯合報の世論調査では、「永遠に現状維持」が最多の51%(10年前は32%)、「すぐに独立」が16%(同12%)、「現状維持後、独立」が15%(同14%)、「現状維持後、統一」が9%(同20%)、「すぐに統一」が5%(同9%)と、陳水扁政権発足後の10年で統一志向が半減しており、対中感情が改善しても独立意識は弱まる気配はない。


台湾海峡危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  台湾海峡危機1950年代から1990年代にかけて中華人民共和国(中国大陸)と中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった事件の総称。4度にわたり緊張が高まったが、アメリカの介入などにより全面戦争に発展することはなかった。

第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)
  国共内戦の結果、1949年中国国民党率いる中華民国政府は中国大陸での統治権を喪失し、台湾に移転したが、中国西南部の山岳地帯及び東南沿岸部の島嶼一帯では中国共産党に対する軍事作戦を継続していた。しかし1950年になると、舟山群島海南島が中国共産党の人民解放軍に奪取され、また西南部でも人民解放軍がミャンマー国境地帯に進攻したため、国民党は台湾及び福建省浙江省沿岸の一部島嶼(金門島大陳島一江山島)のみを維持するに留まり、東シナ海沿岸での海上ゲリラ戦術で共産党に対抗していた。
  朝鮮戦争の影響で沿岸部における侵攻作戦が休止しはじめ、中国の視線が徐々に朝鮮半島へ移転するのを機に国民党は反撃を幾度か試みたものの(南日島戦役東山島戦役)戦果が期待したものとはほど遠く大陸反攻への足がかりを築くことができなかった。そして、朝鮮戦争が収束するにつれ共産党の視線は再び沿岸部へ向けはじめるようになる。
  この間人民解放軍はソ連から魚雷艇やジェット戦闘機を入手して現代的な軍としての体制を整えつつあった。
  1954年5月、中国人民解放軍は海軍や空軍の支援の下大陳島及び一江山島周辺の島々を占領し、10月までに砲兵陣地と魚雷艇基地を設置した。9月3日から金門島の守備に当たっていた中華民国国軍に対し砲撃を行った(93砲戦)。11月14日に一江山島沖で人民解放軍の魚雷艇が国民党軍海軍の護衛駆逐艦『太平』(旧アメリカ海軍エヴァーツ級護衛駆逐艦)を撃沈すると周辺の制海権を掌握した。 1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により午後5時30分に一江山島は解放軍により占拠され、台湾軍の指揮官である王生明手榴弾により自決している。
  一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、浙江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。

第二次台湾海峡危機(1958年)
  1958年8月23日中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副司令官である吉星文趙家驤章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、また中国をナチスになぞらえた。9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。9月29日、蒋介石は金門島の危機に際してはアメリカの支援なくとも中国と戦闘態勢に入ることを述べた。
  10月中旬、ダレス国務長官は台湾を訪れ、台湾に対してアメと鞭の態度で臨むことを伝えた。つまり蒋介石が金門・馬祖島まで撤収することを条件に、援助をすると伝えた。蒋介石は10月21日からの三日間の会談でアメリカの提案を受け入れるが、大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。
  10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避けた。
  翌1959年(昭和34年)9月、健康上の理由で首相を辞職した石橋湛山は回復後、私人として中華人民共和国を訪問し、9月17日周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した(石橋・周共同声明)。のちの日中共同声明に繋がったともいわれるこの声明および石橋の個人的ともいえる外交活動が、当面の危機を回避することに貢献した。
国光計画(1962年)(詳細は「国光計画」を参照)
  1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した。具体的に政府及び軍部に大陸反攻のための組織を設置、同時にアメリカの支持を取り付けようとしたが、全面戦争に発展することを恐れたアメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった。
  その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦東山海戦海戦を除き両岸間での戦闘は発生していない

第三次台湾海峡危機(1995年-1996年)(詳細は「第三次台湾海峡危機」を参照)
  1996年に行われた台湾総統選挙李登輝優勢の観測が流れると、中国人民解放軍は選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行なうが、アメリカ海軍も空母機動部隊を派遣したため、台湾周辺では一気に緊張が高まり、その後の台湾のアイデンティティへ大きく影響を及ぼした。

以下中国と台湾の関係での出来事
国共内戦
台湾問題
台湾海峡
千島湖事件
中華民国国軍
中国人民解放軍
米華相互防衛条約
中台関係
台湾海峡ミサイル危機
トルコ海峡危機








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