スーダン共和国


2019.6.4-産経新聞-https://www.sankei.com/world/news/190604/wor1906040018-n1.html
スーダンでデモ隊を強制排除、約150人が死傷 「アフリカの天安門事件」-国際中東・アフリカ

【カイロ=佐藤貴生】民主化要求デモが続くスーダンの首都ハルツームで3日、軍主導の暫定政権がデモ隊の排除に乗り出し、ロイター通信によると少なくとも35人が死亡、116人が負傷した。暫定政権トップのブルハン陸軍中将は4日、民政移管に向け3年の移行期間を設けるなどとした民主化勢力との協定を破棄し、9カ月以内に選挙を実施すると表明した。

 軍の民衆への攻撃はさらに激化する恐れもあり、民主化を求める多数の学生らが軍の介入で犠牲になった中国の「天安門事件」(1989年)になぞらえる欧米メディアもある。

 軍は3日、ハルツームの国防省前広場を占拠したデモ隊を強制排除。中東のメディアは周囲に銃声が響く中、負傷者が相次いで運ばれる映像を放映した。

 ブルハン氏は、選挙は「地域や海外の監視下」で実施されると正当性を強調したが、民主化勢力は軍が政治権力への影響力維持を図ることを警戒しており、対立が続く公算が大きい。

 スーダンでは昨年末から反政府デモが続き、4月には約30年にわたり最高権力者の座を維持してきたバシル大統領がクーデターで身柄を拘束され、軍が暫定政権を設けて統治してきた。


中東・アフリカ2019/6/4 -日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45648690U9A600C1000000/
スーダン軍がデモ隊排除を強行、衝突で30人超死亡 

【ドバイ=岐部秀光】ロイター通信によると、4月の軍事クーデター後、市民が民主化を求めてデモを続けているスーダンの首都ハルツームで3日、軍がデモ隊の排除を強行して30人以上が死亡した。クーデターで長期支配を続けたバシル大統領が失脚後、最悪の暴力事件となった。デモを組織したグループは軍が発砲したと指摘、「虐殺行為」と非難した。

クーデター後に軍が主導してつくった暫定軍事評議会とデモ隊との間の民政移管をめぐる交渉は暗礁に乗り上げている。今回の衝突により、交渉の早期再開は一段と困難になったとみられる。

テレビ映像では、デモ隊のテントが炎上し煙が上がる様子が伝えられた。インターネットは接続が困難になっており、軍が市民のネット利用を制御しようとしている可能性が指摘されている。

国連報道官は「市民に対する過剰な暴力が用いられたのは明白だ」と述べ、軍を批判した。英国のシデク駐スーダン大使も「こうした攻撃について(軍は)なんの言い逃れもできない」と述べた。米大使館も「責任は暫定軍事評議会にある。彼らが責任ある形でスーダンの人々を導くのは不可能だ」と指摘した。

バシル氏が長期の強権政権を続けたスーダンでは、昨年12月から反政府デモが拡大。軍がデモに同調し、バシル氏は権力の座から転落した。


スーダン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


スーダン共和国、通称スーダンは、北東アフリカに位置する国家である。首都ハルツームである。エジプトリビアチャド中央アフリカ南スーダンエチオピアエリトリアと国境を接し、東は紅海に面している。

アルジェリアコンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積2,505,813km2アフリカ大陸最大の国土を有していた。

「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するため「歴史的スーダン」ともいう。国家としてのスーダンは、地域名としての「スーダン」の東部を占め、歴史的には東スーダーンと呼ばれた地域に当たる。南スーダンの独立後、スーダン共和国を指して「北スーダン」と呼ばれることは稀だが、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はよく見られる。

歴史
古代ヌビア諸王国
かつてこのスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年頃に、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域にクシュ王国と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は中王国時代のエジプトの影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが新王国時代に入るとトトメス1世がクシュを滅亡させた。

紀元前900年ごろ、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都をさらに南のメロエへと遷都し、以後この王国はメロエ王国の名で知られることとなった。メロエは牧畜ソルガムの農耕を主産業とし、さらにの産地としても知られた。

キリスト教化
4世紀ごろ、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア王国(英語版)、マクリア王国(英語版)、アルワ王国(英語版)の三王国に分かれた。三国ともに5世紀頃にキリスト教を受容し、以後1000年近くキリスト教を信仰し続けた

イスラム化イスラム教勢力によって飲み込まれ、1505年にはイスラム教のフンジ・スルターン国が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにおいてもイスラム教のダルフール・スルターン国en)が建国され、この地方は完全にイスラム化された[2]

ダルフール紛争
西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民フール人や遊牧民ザガワ人などとの対立が激化し、ダルフール紛争が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の民兵組織ジャンジャウィードの勢力が強く、民族浄化がおこなわれたとして非難の対象となった。また、多くの難民がチャドに流れ込み、ザガワ人のイドリス・デビ大統領が実権を握るチャドとの関係も極度に悪化した。2004年アフリカ連合が監視要員の派遣を決定した。

バシール政権(SPLA連立政権)
2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった[6]

7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ人中心だった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。

ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢英語版2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。2009年3月4日、ダルフールでの戦犯容疑(人道に対する罪などの容疑)でバシール大統領が国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を出されている。同大統領は、逮捕状発行後、エリトリアエジプトを訪問している。2009年3月26日、バシール大統領はリビアを訪問し、アフリカ連合(AU)の議長でもあるカダフィ大佐と会談した。リビアが3国目。

2010年7月11日、国連アフリカ連合合同ダルフール派遣団は、同地方での武力紛争により、6月の死者は221人に達したことを明らかにした。 2010年7月12日、国際刑事裁判所(ICC)は、バシール大統領にジェノサイド(大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。7月15日、スーダンの2005年包括和平合意(CPA)の北部のスーダン国民会議(NC)と南部のSPLAは、南北境界画定合同委員会を補佐する小委員会の設置で合意したことを明らかにした。この南北境界画定合同委員会は3年前に発足した。7月21日バシール大統領はサヘル(サハラ南縁)諸国首脳会議のためチャドを訪れた。同大統領がICC 締結国を訪問するのははじめてである。

アビエイ問題
南北和平協定における協定事項の1つであるアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。その後、調停により帰属未決定のアビエイ地域を除くアビエイ地区はスーダン側の支配下となったが、アビエイ地域以外のアビエイ地区に含まれていたヘグリグ油田は、南スーダンに帰属すると主張し、2012年3月に南スーダン軍が同油田に侵攻。南北スーダン国境紛争が発生した。

南スーダンの独立
2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団をおくり、住民投票監視団には一員として元米大統領ジミー・カーター(Jimmy Carter)がスーダン入りしている。
2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。
2011年11月10日、スーダン軍は、南スーダン北部ユニティ州イダ[7]上ナイル州難民キャンプを爆撃した。また、同軍は南コルドファン州青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。
2012年には国境の油田を巡って武力衝突が発生している。

軍事暫定政権
2018年末よりパンの値上げをきっかけとして反政府運動が全土で発生し、2019年4月11日に国防軍がバシールを大統領から解任し身柄を拘束。ここに30年にも及ぶバシール独裁政権は終焉を迎えた(2019年スーダンクーデター)。2年の軍事暫定政権ののちに選挙を実施するというロードマップが示されている[8]

政治

2019年4月11日に軍部によりクーデターが実行され、憲法を停止し2年間限定で暫定軍事政権が実権を握っているため、議会は機能を停止している。クーデター前の議会は一院制の国民議会(360議席)で、全議席の60%を小選挙区制、15%を比例代表制で選出する。残り25%は女性議員枠である。

バシール政権下では自身が結成した国民会議が与党であった。20年以上も軍事独裁政権が続いたが、2010年4月11日に24年ぶりの複数政党制選挙がおこなわれた。しかし、大統領選挙では政権側の不正を理由に、最大野党のスーダン人民解放運動(SPLM)が大統領選挙を、一部野党が各種選挙をボイコットしたため、バシールが得票率68.24%で再選を果たした。

行政府の長たる首相職は1989年を最後に廃止されたが、2016年に議会が復活を決議。2017年3月1日にバシール大統領が側近のバクリー・ハサン・サーレハ英語版第1副大統領を首相に指名し、翌2日に就任宣誓を行った[9]

国際関係

バシール政権は、湾岸戦争時にはイラクサッダーム・フセインを支持してオサマ・ビンラディンの国際テロ組織アルカイダも支援したとされたことで、1993年にはアメリカ合衆国テロ支援国家の指定を受け、以後経済制裁が続いている。一時改善の兆しがあったものの、2003年のダルフール紛争勃発後はさらに欧米諸国と対立した。このため、バシール政権はヌメイリ政権時代から友好的でスーダンの豊富な資源を求めている中華人民共和国との関係を深めて中国企業はスーダンの産油企業2つの最大株主となっており[10]国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団で中国からの国連平和維持部隊[11]も受け入れ、中国の援助で自らの大統領府[12]も建設するなど経済・軍事両面で両国は密接な関係を持っている。

またロシア連邦プーチン大統領が、2017年11月に訪露したバシール大統領と会談するなど、スーダンとの関係を重視している[13]

2016年1月2日にサウジアラビアイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことで、サウジアラビアとイランの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけに、サウジアラビアはイランとの国交を断絶した。スーダンもこれに続いて、イランとの国交断絶を表明した[14]

2017年12月、トルコエルドアン大統領がスーダンを訪問し、かつてオスマン帝国の影響下にあった紅海沿岸のスアキン島をトルコが開発する計画を発表。トルコと対立するサウジアラビアやエジプトが反発している[15]

在留日本人数 - 134名(2017年10月現在)[16] 在日スーダン人数 - 230名(2017年12月現在)[17]





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