南スーダン-1


南スーダン
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南スーダン共和国 Republic of South Sudan)、通称南スーダンは、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニアウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカ国境を接する内陸国である。2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した[2]

概要

2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。

2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。新国名は「南スーダン共和国: The Republic of South Sudan[3]」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「クシュ」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた

2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった[6]。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である[7]東アフリカ共同体にもケニアルワンダの協力で[8]2016年に加盟している。

2014年、非政府組織平和基金会が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった[9]
  (国際通貨基金(IMF)が公表したデータによると2018年南スーダンは「世界で最も貧しい国」のトップに選ばれた。)

独立
2011年7月9日に、アメリカ合衆国からの後押しもあり、スーダンから分離独立した。新政府は、スーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が中心となっている。

南北スーダン国境紛争(2011年)
2011年11月3日北スーダン青ナイル州クルムク英語版で、「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)[10] の拠点がスーダン政府軍に攻撃された。同州での武力紛争は同年9月から続いており、約2万8700人の難民がエチオピアに脱出した(国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) による)。SPLM・Nは11月2日、北スーダン南コルドファン州タロディ英語版周辺で、政府軍と激しい戦闘が続いていることを明らかにした。13日には、英国の援助団体オックスファム[11]上ナイル州からスタッフが撤退した。

南北スーダン国境紛争(2012年)
スーダンとの国境紛争は激化している。2012年4月、南スーダン軍が、スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を占拠し、4月12日には、スーダン軍が南スーダンの都市を空爆し、死傷者が発生するなどしている。国際連合安全保障理事会は、全面的な戦争に発展する恐れがあることから、両国に即時停戦を強く求めている[12]。2012年4月16日、スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択した。2012年4月18日には、スーダンのオマル・アル=バシール大統領が、南スーダンを同国与党のスーダン人民解放運動から解放すると宣言している[13]

南スーダンクーデター未遂事件(2013年)
2013年12月14日、同年7月に解任されたマチャル副大統領派によるクーデター未遂事件が発生するも失敗に終わったとされるが、その後もマチャル派・大統領派間の戦闘は継続し、翌年1月に両派間で停戦合意が結ばれたものの戦闘はおさまらず、その影響で避難民が100万人以上にのぼる事態となっている[14]

戦闘発生から1年経った2014年12月の時点でも戦闘は収まって居らず、国連によるとその影響による避難民は190万以上にのぼっている[15]。米国のシンクタンクの一つである平和基金会が発表している失敗国家ランキングでは、2014年・2015年の2年連続で1位となった。2008年から2013年まではソマリアが6年連続で1位であったがこの2年間は2位となっており、南スーダンが取って代わる形となった。
2015年8月の調停までに5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定されている[16]

暫定政府の発足〜再びの内戦危機(2015年-現在)

この事態を受け、政府間開発機構が仲介に入り、和平協議が続けられた結果、2015年8月、政府間開発機構による調停の下、対立していたキール大統領派とマチャル派が調停案を受け入れ、紛争解決に関する合意文書へ署名を行なった[17]
2016年4月26日、合意文章に基づき、マチャル前副大統領が第一副大統領に就任し、29日、国民統一暫定政府が設立された[18]。しかし合意後も両陣営から協定の細部への不満に加え、内戦中の戦争犯罪の特別法廷の設置や州の再編案などで対立は続き、内戦により疲弊しきった経済はインフレ率295%のハイパーインフレーションを引き起こした[19][20]
2016年7月、首都ジュバでは両陣営による銃撃戦が断続的に続くなど内戦再燃の危機が高まり、現地で支援活動を行う日本を含めた欧米各国は国外退避を決定している[21]。同月の戦闘では、ジュバ住民等に270名ほどの犠牲者が出たが、国連加盟国との交戦を避けるためPKO部隊による住民の保護がされず、国連施設の前で南スーダン国軍による強姦行為が繰り広げるような有様であったとされ、PKOのあり方について国際世論から批判を受けた。これを受け潘基文国連事務総長はケニア出身の司令官や、国際連合南スーダン派遣団国連事務総長特別代表を解任したが、ケニアはこの対応に反発しPKOから部隊を撤退させる事態となった[22][23][24]。7月23日にはマチャルが第一副大統領を解任され、和平プロセスは事実上崩壊した[25]
2017年になっても国内の混乱は収まらず、国内の当事者らがそれぞれ高圧的な軍事行動を展開。政府軍の破壊行為が止まらない一方、反政府側のスーダン人民解放軍や民兵集団が台頭し、組織の分裂や支配地域が広がる状況にある[26]。政府軍は、南部のエクアトリア地方一帯などで反攻を続けているが、一方でエクアトリア出身の元政府軍副参謀総長が反政府組織を立ち上げるなどの混乱が続いた[27]
この状況を受け、再び、政府間開発機構が諸勢力を集めて調停に入り、2017年12月、敵対行為停止で合意。さらに2018年6月27日、恒久的停戦で合意した[28]。2018年8月5日にスーダンにて3ヶ月以内に3年を期限とする移行政府を樹立することが合意された[29]







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