カタール-1
カタール;出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カタール国 通称
カタールは、
西アジアに位置する国家。
中東の
アラビア半島
北東部に位置する
カタール半島を領土とし、南は
サウジアラビアと国境を接し、残りの領土は
ペルシャ湾に囲まれている。ペルシャ湾の入り江である
バーレーン湾が、カタールと
バーレーンを隔てている。首都は国民の8割以上が住む
ドーハで、国土の大部分は平坦な低地の砂漠で構成されている。
1868年に
ムハンマド・ビン・サーニーが
イギリスと条約を結び、独立国としての地位を認められて以来、カタールは
サーニー家による
世襲君主制国家として統治されてきた。
オスマン帝国の支配を経て、20世紀初頭にはイギリスの保護領となり、1971年に独立した。現在の首長は
タミーム・ビン・ハマドで、カタール憲法に基づき、行政・立法のほぼすべての権限を持ち、司法も支配している。
首相と内閣は首長が任命する。一部選挙で選ばれた
諮問評議会は、立法を阻止することができ、大臣を解任する能力も限られている。
2017年初頭、カタールの総人口は260万人で、そのうち31万3000人がカタール国民、230万人が
エクスパットである。公式の宗教は
イスラム教である。所得面では、
一人当たりのGDP(PPP)が世界第4位、一人当たりのGNI(アトラス方式)が世界第11位。カタールの
人間開発指数は42位で、
アラブ世界では3番目に高いHDIである。世界第3位の
天然ガス埋蔵量と
石油埋蔵量を背景に、高所得者層が多い経済国である。カタールは世界有数の液化天然ガス輸出国であり、一人当たりの
二酸化炭素排出量は世界一である。
21世紀には、カタールはその資源とメディアグループである
アルジャジーラ・メディア・ネットワークを世界的に拡大し、
アラブの春にはいくつかの反政府勢力を財政的に支援したと伝えられており、アラブ世界の
ミドルパワーとして台頭している。カタールは
湾岸協力会議の一員である。カタールの人権記録は、
結社の自由、
表現の自由、
報道の自由といった市民の
自由に対する制限や、国内のプロジェクトのための
強制労働に相当する数千人の移民労働者の扱いなど、学者や非政府組織から総じて低いとみなされている。
2022年FIFAワールドカップは、賛否両論ある中でカタールに決定し、アラブ諸国初、中東初の開催地となった。カタールは
2006年アジア競技大会を開催し、
2030年アジア競技大会も開催する予定である。
国名
正式名称はアラビア語で(
Dawlat Qaṭar ダウラト・カタル)といい、なお、現地の
アーンミーヤでの発音はギタル(
Giṭar [ˈɡɪtˤɑr])に近い。 国名の由来には複数通りあり、 ・イスラーム以前の古い時代に書かれた西洋の記録において一帯がCataraと呼ばれており、そのアラビア語当が国名の元となったといった説が知られている。後者に関してはカタールのドーハにある文化村(Katārā、カターラー)の施設名ともなっている。英語での公式国名は
State of Qatar、通称
Qatar(
英語発音: [ˈkɑːtɑːr] カーター、
[ˈkætɑː] キャター)。世界の国と地域の中で、唯一“Q”で始まる英語国名である。国民・形容詞は Qatari(
[kɑˈtɑːri])。
日本語では「カタール国」「カタール」「カタル」と書かれる。
漢字表記は華太瑠.
歴史(詳細は「
カタールの歴史」を参照)・・・カタールでは、
紀元前3000年から
紀元前2000年ごろの遺物が見つかっている。また、
ペルシア湾での
真珠採取の産地として古代から知られてきた。
オスマン帝国の進出
1825年にカタール王家
サーニー家(Āl-Thānī)の創始者
サーニー・ビン・ムハンマドがビダウを治めるカタールの
ハーキムに選ばれた。
バーレーンの
ハリーファ家(Āl-Khalīfa)が
1868年まで北カタールを治めていた。その年、カタール
貴族の依頼により
イギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、
オスマン帝国がカタールを占領した。
帝国の撤退と英国の支配
第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国が撤退したあとはイギリスの
実効支配の下、3代目カタール首長(
アミール)・
アブドゥッラー・ビン・ジャースィム・アール=サーニーを
シェイクとした自治権を認めた。イギリスとカタール間の
1916年の条約は、イギリスとその他の
ペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容だった。
1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものだった。
赤線協定に基づいて
アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)から
イラク石油会社(IPC)に石油利権が譲渡されると、
1935年に英蘭仏米の共同国益会社「
Petroleum Development (Qatar) Ltd(PDQ)」に対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。
1940年には高品質の石油が、
カタール半島西岸で発見された。
第二次世界大戦のため
1949年まで石油輸出は行われなかった。
オイルマネーによる繁栄
4代目首長である
アリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニーのもとで、
1950年代から
1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
独立
1960年に5代目首長
アフマドが就任。
1968年に発表されたイギリスの
スエズ運河以東撤退宣言に伴い、イギリスの保護領
トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン。トルーシャル・コーストTrucial Coast:休戦海岸とも。のちに
アラブ首長国連邦(UAE)となる勢力)は、
1971年の独立を目指してアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)を結成した。
当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールや
バーレーンもその一員としてFAEに含まれていたが、すでにカタールとバーレーンは石油生産の好調で単独独立が可能な状態になっていた。他首長国との利権問題もあってカタールとバーレーンは近隣国の
サウジアラビアやアラブ首長国連邦の一部になることを断り、カタールは
1971年9月3日に単独で独立した。同年9月11日に
アラブ連盟に、21日に
国際連合に加盟した。
湾岸戦争
1972年、父である
アフマド首長の外遊中に、
ハリーファが無血クーデターを起こして政権を奪取(6代目首長)。
1988年には
ソビエト連邦および
中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。OPEC(
石油輸出国機構)の初期からの加盟国であるが、
天然ガスの生産に注力することを理由として
、2019年1月1日をもって脱退した
。また、
湾岸協力会議の原加盟国である。
1990年の
湾岸戦争では、反
イラクの立場をとった。
無血クーデター
1995年に首長である
ハマドが、父であるハリーファの外遊中に無血
クーデターを起こして政権を奪取(7代目首長)。ハマドは、政権を奪取して以降、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、
観光産業の育成などに着手している。かつてはハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、「世界一退屈な都市」とまで言われた首都
ドーハにもさまざまな娯楽施設などが建設され、賑わいを見せている。また、衛星テレビ局
アルジャジーラが、彼のポケットマネー(1億5,000万
USドル)で設立された。
1996年から湾岸諸国の中で唯一
イスラエルの通商代表部が置かれていたが、2009年に閉鎖された。
タミム首長
2013年6月25日、ハマドが四男の
タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーに譲位し、タミームが首長となる。
政治(詳細は「
カタールの政治」を参照)
元首(詳細は「
カタールの元首一覧」を参照
カタールは
サーニー家による
首長制(
君主制の一種)である。現行
憲法は
2003年4月29日に承認されたもので、
三権分立の立場を取り、
民主主義や
女性参政権の保障などを謳っている。しかし、実際はサーニー家に実権が集中している状況である。
立法
議会としては45議席の「
諮問評議会」が置かれており、閣僚への質問権や予算案承認のための投票権などを持つ。45議席のうち30議席は直接選挙、15議席は首長による任命制。公選制は2003年の憲法改正で導入が決まったものの、その後選挙は実施されなかった。2011年、
アラブの春が波及し国内でも民主化運動が行われるようになると、政府は選挙の実施を表明したしかし当初2013年に予定されていた選挙は再三にわたり延期され、国内外から批判の声が高まった。2021年10月2日に同国初となる顧問評議会選挙が実施された。
行政(詳細は「
カタールの首相一覧」を参照)・・・
行政権は首長および
内閣が持つ。
首相職がある。
司法
司法権は上級刑事裁判所、下級刑事裁判所、民事・商事裁判所、労働裁判所、高等裁判所の5裁判所が行使する。
死刑制度(絞首、銃殺)が存在する。
有力部族
サーニー家・・・昔からのカタール土着の部族。
1868年のカタール独立以来、首長のポストを独占している。2002年の内閣閣僚はサーニー家が6割を占めていた
が、
2013年6月にタミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーが首長となって新たに任命した20人の閣僚の内、サーニー家は首相を含め3人であった。
ティーヤ家・・・カタールの有力家族のひとつ。アブドゥッラー・ビン・ハマド・アル=アティーヤが国副首相兼エネルギー・工業大臣として2007年11月に来日した。
ミスナド家・・・前首長ハマドの母や、ハマドの第二夫人で現首長タミームの母モーザ皇太后を輩出する。
カマル家・・・2002年当時の財務相Yusif Husayn al-Kamalを出している。
対外関係・国家安全保障(詳細は「
カタールの国際関係」を参照)
日本との関係(詳細は「
日本とカタールの関係」を参照)
外交
湾岸協力会議(GCC)の加盟国。小国であるが、豊かな石油・天然ガス収入を背景に、米軍基地を置くなど欧米
西側諸国と関係が深いと同時にサウジアラビア等の周辺国とも距離を置いている。とりわけ巨額の資金援助を行った
ムスリム同胞団を使って
アラブの春では中東各国に活発に介入した。シリア戦争では欧米と協調して
アル=ヌスラ戦線等の反体制派の
アルカイダ組織を支援した。また、
パレスチナの
ハマスにはムスリム同胞団を通じて最大の影響力を持っている国でもある。
2012年、
ターリバーンの対外連絡事務所を設置、ターリバーンとアメリカ両国とのパイプを持つ国となった。2020年、
アフガニスタンから
アメリカ軍が撤退する交渉ではカタールが会談場所となり、2021年にアメリカ軍が撤退してターリバーンが再びアフガニスタンを制圧した後は、欧州各国とターリバーンの対話の窓口としての役割を果たした。同年、ターリバーンに対しては、アメリカ軍撤退後に空白となった
カーブル国際空港の航空管制支援や物資の供給なども行っている。
2014年、サウジアラビア、バーレーン、UAEの3か国が、内政干渉に対する報復という理由で駐カタール大使をそれぞれ本国召還し、カタールと周辺諸国の軋轢が表面化した。さらに2017年6月、
ムスリム同胞団への支援や
イラン・
トルコとの接近に対して、一部のイスラム諸国(サウジアラビア、UAE、バーレーン、
エジプト、
イエメン、
モルディブ、
モーリタニアなど)がカタールとの
国交断絶を表明した(
2017年カタール外交危機)。
しばらくの間、イスラム諸国との関係悪化は続いたが、2021年1月4日、カタールとサウジアラビア間で国交回復に向けた合意が実現した。翌5日にはサウジアラビア、UAE、バーレーン、エジプトの4カ国との国交を完全に回復させることで合意した。一方、この危機以降、カタールとトルコの関係が非常に深くなっており、国内に
トルコ軍が一時駐留していた。
カタールの最大の問題の一つが近隣国際関係で、オーストラリアに本部を置き、アメリカ、オランダ、メキシコ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所が2022年1月に発表した「国防経済外部効果」、「観光客数」、「国内近隣外国人平等法」、これを再定義して2022年の積極的平和指数の1項目、近隣国際関係指数は4.
41と、世界から見てアフガニスタンよりも低い国際ランクとなるほど悪いものであった。
軍事(詳細は「
カタールの軍事」を参照)・・・カタール固有の軍事力は、軍事予算は
GNP比4.2%(1993)、総兵力1万1,800人である。
アメリカ中央軍が駐留し、首都ドーハ近郊に司令部のひとつである
アッサイリヤ基地がある。アメリカ中央軍は
中東を責任地域とするが、司令部のある米国本土の
フロリダ州タンパが遠すぎるため、
イラク戦争直前の
2003年に第2の司令部として設置された。
イラクや
アフガニスタンに展開した
アメリカ軍部隊はここから指揮される。
2016年、カタールをかつて支配していた
トルコに軍事基地を提供する協定を結んだ。
2017年6月には米海軍と、同じく8月には米軍パラシュート部隊との合同
軍事演習を行った。一方で同年11月からは
2017年カタール外交危機での孤立に伴って
上海協力機構に加盟申請し(のちにトルコと同じ対話パートナーとしての参加が認められた)、翌12月にはカタール建国記念の軍事パレードで
中国人民解放軍による訓練で従来の英国式から中国式の
ガチョウ足行進に改め、中国製
弾道ミサイルの
BP-12Aを披露し、中国への接近が目立った。
国民(詳細は「
カタールの人口統計」を参照)
民族
人口は2019年の推定で284万6,092人。2013年の調査では、全人口180万人のうち、カタール国籍はわずか13%の27万8,000人にすぎず、87%にあたる150万人が外国人労働者である。そのうち、
インド人が54万5,000人と最大の勢力となっている。次いで、
フィリピン人、
ネパール人、
パキスタン人、
スリランカ人、
バングラデシュ人などが多く、
南アジア諸国からの労働者がほとんどを占めている。
カタール人は、おもに
アラビア半島の遊牧民の
ベドウィン、
イラン・
パキスタン・
アフガニスタンを祖先に持つ Hadar、
スーダンと
ソマリアを中心とした
東アフリカからの奴隷の子孫の Abd の3つの祖先に分かれる。
言語
公用語は
アラビア語である。日常会話は
湾岸方言となる。イギリスの植民地であったこと、またインドやパキスタンなどの同様の歴史を持つ国からの労働者が大半を占めていることから、
英語も共通語として政財界を中心に広く使用されている。その他、
ヒンディー語、
ウルドゥー語、
マラヤーラム語、
タミール語、
ネパール語や
タガログ語など、それぞれの外国人労働者の母語も話されている。
宗教(詳細は「
カタールの宗教」を参照)
2010年の調査では外国籍を含めた全人口に占める割合をみると67.7%が
イスラム教、13.8%が
キリスト教、13.8%が
ヒンドゥー教、3.1%が
仏教を信仰している。しかし、カタール国籍保持者の95%はイスラム教であり、大半が
スンナ派の
ワッハーブ派である他、
シーア派が人口の5 - 15%を占めており、イスラム教を
国教としている。
地理(詳細は「
カタールの地理」を参照)
カタール半島は、サウジアラビア側から160km突き出ている。国内の大部分は不毛な
砂漠であり、最も高い地点で
海抜103mである。この砂漠の地下に
ドゥハーン油田が存在し、一方、世界最大級の
ノースガス田はカタール半島北東からイラン方向の海底に広がる。カタール半島の付け根付近にある
ホール・アル=ウデイド(Kawhr al Udayd)は、静かな
内海であることから別名を「インランド・シー」(
英:
Inland Sea)とも呼ぶ。
陸上の国境は現在は
サウジアラビアとの国境のみであるが、かつてはアラブ首長国連邦(UAE)とも国境を接していた。1974年のジッダ条約
により、サウジアラビアにペルシャ湾への出口となるUAE領土が割譲され、カタールとUAEとの間の陸上国境はなくなった(詳細はサウジアラビア=アラブ首長国連邦国境を参照)。
経済(詳細は「カタールの経済
」を参照)
2015年の国内総生産(GDP)は約1,920億ドル(約21兆円)であり、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である。人口は埼玉県の3分の1弱で、同年の一人当たりGDPは7万8,829ドルで世界第5位、一人当たり国民総所得(GNI)は8万5,430ドルで世界第2位である。一時は一人当たりGDPで世界一を誇ったことから「世界でもっとも裕福な国」と呼ばれた。
1940年代の石油発見以前の産業は漁業と真珠取りだけであった。1920年代から日本の養殖真珠が世界に出回るとカタールの天然真珠は衰退した。石油と
天然ガスに依存する経済体制で、輸出の大半が石油・天然ガスおよびその関連製品で占められている。
インド、
パキスタン、
イランなどからの外国人労働者がカタール国籍を持つ総人口より多く、外国人労働者に労働力を大きく依存している。
豊富なオイルマネーにより国民は所得税がかからない。さらに、医療費、電気代、電話代が無料、大学を卒業すると一定の土地を無償で借りることができ、10年後には自分のものとなる。
2004年、ドーハに科学技術パークを開き、世界中から技術関連企業を呼んだ。現在、油価は低下したものの炭化水素はカタールの背骨であり続けるが、政府は知識集約型の民間投資も促進しようとしている。カタール金融センター(QFC)は湾岸諸国を巻き込んだ投資に今後10年間で1兆ドルを供給することを発表している。
液化
天然ガス
カタールの重要資源は液化天然ガス(LNG)である。各国とのLNG契約も長期にわたり、2021年7月には韓国と20年間、2022年11月21日には、中国と27年間に及ぶ契約が締結したことを発表した。一方日本とは契約が難航し、長期契約は全て売り切れとなった。
農業(詳細は「
カタールの農業」を参照)
カタールの年降水量は40ミリ前後であるため、
降雨に頼った
農業は不可能である。しかしながら、
灌漑などを利用した農業が営まれており、
農地面積は国土の0.7%(80平方キロメートル、1994年)に達する。
牧場は同4.5%(500平方キロメートル)である。農業従事者の人口に占める割合は0.5%。
主要
穀物では
大麦(5,000トン、2002年)、
トウモロコシ(1,000トン)を栽培する。野菜では
トマト(1.1万トン)、次いで
キャベツ(2,000トン)の生産が盛ん。
畜産業では、
ニワトリ(400万羽)と
ヒツジ(20万頭)が最大。次いで
ヤギ(18万頭)、
ラクダ(5万頭)など。
漁業は盛んではないが、約7,000トンの水揚高が記録されている。
原油の埋蔵量は252億
バレル、天然ガスは880立方フィートで、
ロシアとイランに次いで世界第3位(シェア12.9%)。産出量は原油日量192万バレル(シェア2.1%)なのに対し、天然ガスは日量1,780億立方フィートでシェア4.8%である(数字は2017年、
BP統計調べ)。日本の天然ガス輸入先としては
マレーシア、
インドネシア、
オーストラリアに次いでカタールが第4位にあたる。輸出に占める鉱業の割合は非常に高く、2002年時点で天然ガス42.6%、原油35.0%に達する。2008年までの油価高騰により石油ガスがGDPの50%、輸出の85%、政府収入の70%を占めるようになった。カタールの天然ガス輸出先は第1位が日本で全体の約21%、第2位が韓国で約18%、第3位がインドで約15%となっている(
JOGMEC調べ)。
国営エネルギー会社カタール・ペトロリアム(QP)を有し、ノースガス田開発などを手がけている。
工業・・・工業は発達しておらず、食肉加工、
窒素肥料の製造、
セメント製造などが小規模に営まれている段階である。もっとも規模が大きいのが
石油化学工業、次に
製鉄である。輸出に占める工業製品の割合は2002年の段階で石油製品6.7%、プラスチック3.1%、鉄鋼2.8%である。
情報通信(詳細は「
カタールの通信」および「
カタールのメディア」を参照
しばしば「中東の
CNN」と形容される
アルジャジーラの本社がドーハに置かれている。開局時はアラビア語のニュースTVでスタートしたが、現在いくつものチャンネルを有する。アラビア語と英語の新聞がいくつかあり、英字ビジネス月刊誌は『Qatar Today』が唯一で、他にアラビア語のビジネス誌、女性誌、ファッション誌が同じ出版社から出ている。
スポーツ(詳細は「カタールのスポーツ
」を参照)
サッカー(詳細は「
カタールのサッカー」を参照)
カタール国内でも他の
中東諸国同様に、
サッカーが圧倒的に1番人気の
スポーツとなっている。1963年に創設され2008年にプロ化した
カタール・スターズリーグは、
オイルマネーで数多くの有名選手を獲得し世界中から注目を集めている。2000年代には
バティストゥータ、
ペップ・グアルディオラ、
フェルナンド・イエロなど、2010年代には
ラウール、
シャビ、
スナイデル、
サミュエル・エトーなど、2020年代には
ハメス・ロドリゲスや
マイケル・オルンガなどがカタールのクラブに移籍している。
カタールリーグと日本人選手との関係では、2019年に
中島翔哉が
アル・ドゥハイルへ移籍した際の
移籍金は「
約43億7500万円」にものぼり、2001年に
中田英寿が
セリエAの
パルマへ移籍した際の「約32億円」を大幅に上回る、日本人史上最高額となった
。2020年には
小林祐希が
アル・ホールへ
、2022年には
谷口彰悟が
アル・ラーヤンへ移籍加入している。
さらに
カタールは国際大会の誘致にも力を入れており、
AFCアジアカップは
1988年大会、
2011年大会、
2023年大会が同国で開催された。
FIFAアラブカップも
2021年大会が行われ、
2025年大会と
2027年大会もカタール開催が予定されている。
FIFAワールドカップは
2022年大会が行われ、
カタール代表は本大会初出場を果たした。
クリケット
クリケットがサッカーに次いで人気のスポーツとなっている。1980年にカタール・クリケット協会が設立され、2000年に
国際クリケット評議会に加盟した。カタール・クリケット協会はドーハ並びにカタール全体にクリケットがプレーできるように発展させる措置を講じている。クリケットが最も人気の地域である
南アジア出身の
外国人労働者が、カタールの人口の多くを占めていることもクリケット人気の要因の一つである。2017年に
国際クリケット評議会に準会員として加盟した。2013年に開場したドーハに所在する
ウェスト・エンド・パーク国際クリケットスタジアムはメインとなるクリケットスタジアムである。
その他の競技(詳細は「
オリンピックのカタール選手団」を参照)
カタールのスポーツは
球技や
陸上競技、
競馬や
水泳など幅広く展開されている。また、古くから存在するものとはしては
キャメルレーシングと呼ばれる
ラクダのレースがあり、国内にはキャメルレーシング用の競技場が都市の一つである
アル・シャハニアに設けられている。
自転車ロードレースでは2002年から開催されている「
ツアー・オブ・カタール」があり、
ツール・ド・フランスを主催する
ASOが同様に主催しており、毎年多くのトップ選手がシーズン序盤の調整を兼ねて出場するハイレベルなステージレースとなっている。2004年にはドーハの北にある
アッ=ザアーインに「
ルサイル・インターナショナル・サーキット」が完成し、
MotoGPが毎年開催されている。
競馬は
純血アラブと
サラブレッドによるレースが行われている。2012年から始まった「カタール見習い騎手招待レース」には日本の騎手も招待されている(第1回:
国分優作、第2回:
嶋田純次)。 さらに近年では
バスケットボールも力をつけており、2006年には
世界選手権に初出場した。また、陸上競技においても
21世紀以降
アジア競技大会などの国際大会で、優勝者や上位入賞者を輩出している。