サウジアラビア問題




サウジアラビア殺人事件


2019.9.11-BBC NEWS JAPAN-https://www.bbc.com/japanese/49658620
サウジ記者「殺害時の音声」を詳報 「口はふさぐな」=トルコ紙

トルコ紙サバーは9日、昨年10月にトルコのサウジアラビア総領事館で殺害されたサウジ人記者の、死ぬ直前の様子とされる録音について詳しく報じた。
サウジ政府に批判的だったサウジ人記者ジャマル・カショジ氏は、昨年10月2日、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館で殺害された。
トルコ政府寄りの新聞サバーは、今回報じた内容について、後にトルコ国家情報機構(MIT)が押収した、サウジ領事館内で録音された音声を書き起こしたものだとしている。この中には、カショジ氏の最後の言葉とされる音声も含まれている。
カショジ氏は「いけにえの動物」
報道によると、サウジから送り込まれた法医学の専門家などの「殺人部隊」の一部が、カショジ氏が到着する前に、同氏のことを「いけにえの動物」と呼んでいた。
カショジ氏は総領事館内に入ると、国際刑事警察機構(ICPO、インターポール)からの指名手配を理由に、首都リヤドに戻らなければならないと告げられた。同氏は不審に思ったとされる。
カショジ氏が、息子にテキストメッセージを送るなどの、「殺人部隊」からの要求を拒むと、薬を盛られたという。報道によると、同氏は最後に、ぜんそくがあるから口はふさがないように言い、意識を失った。
切断の様子も
同氏は頭にかばんをかぶせられ、窒息死した。もみ合う様子が音声記録に残っていると、サバーは報じている。同紙はさらに、カショジ氏が切断されるときの音声も録音されているとしている。
複数国に音声を提供
カショジ氏殺害時の音声記録の存在については、昨年以降、報じられてきた。トルコ当局は、音声の存在を正式に認めたほか、アメリカやイギリス、サウジアラビアなどに提供したとしていた。今回、サバーがどのようにこの音声記録を入手したのかは明らかになっていない。
サバーはこれまでも、この事件の詳細を報じ、世界的大ニュースとなっている。同紙は今週、2度にわたって、「殺人部隊」によるカショジ氏殺害事件に関する新情報を伝えた。
結婚手続きでサウジ領事館へ
カショジ氏は生前、米紙ワシントン・ポストに定期的に寄稿するなど、米国を拠点に活動していた。同氏は昨年10月2日、トルコ人婚約者との結婚に必要な書類手続きのため、イスタンブールのサウジ領事館に入る姿が目撃されたのを最後に、行方が分からなくなった。その後、同氏の失踪について矛盾した説明を行ったサウジ政府に対し、疑惑の目が向けられた。サウジ当局は、カショジ氏の殺害に関わった疑いで、同国の11人を非公開裁判にかけた。
遺体は未回収のまま
国際的圧力を受ける中、カショジ氏の遺体は、殺害から1年近くたつ今も、回収されていない。国連のアニエス・カラマール特別報告者は今年6月、カショジ氏殺害について、サウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子と政府高官が関わっていた証拠があると発表した。報告によると、これらの証拠は独立した公正な国際機関による調査にかけるに値するものだという。
一方、サウジ政府はこの報告内容を一蹴した。さらに、カショジ氏殺害は政府の指示によるものではないとして、一貫して関与を否定している。
(英語記事 Newspaper details Khashoggi 'death recordings'


2019.9.2-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/191002/wor1910020042-n1.html
サウジ記者殺害から1年 事件風化、真相闇の中

【カイロ=佐藤貴生】サウジアラビア政府を批判してきた反体制記者、ジャマル・カショギ氏=当時(59)=がトルコのサウジ総領事館内で殺害された事件は、2日で発生から1年となった。国連関係者やトルコはサウジの次期国王候補、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子(34)の関与の有無を含めて全容解明を求めているが、国際的な関心は乏しく、背後関係を公表せぬまま幕引きを図るサウジ側の思惑通りの展開となっている。
 皇太子は9月下旬放映の米テレビのインタビュー番組で、事件には「サウジの指導者としてすべての責任を負う」とする一方、自らの関与については「完全に否定する」と述べた。
 事件をめぐっては国連のカラマード特別報告者が2月、「サウジ当局により計画された残忍で周到な殺人」だとする声明を出した。トルコのエルドアン大統領は、カショギ氏がしばしば寄稿してサウジ政府を批判してきた米紙ワシントン・ポスト(9月29日付電子版)への寄稿で、殺人者らは外交旅券でトルコを出入りしたと指摘。「外交特権の露骨な乱用だ」とし、政府が犯行隠蔽(いんぺい)を手助けしたと批判した。
 しかし、サウジ政府を追及する目立った動きはこの程度にとどまり、事件は風化が進んでいる。サウジとの経済取引を優先し、皇太子や同国を擁護してきたトランプ米政権の存在もその一因とみられるが、石油大国サウジの経済的な潜在力も見逃せない要因だ。
 日本貿易振興機構(ジェトロ)の庄秀輝・リヤド事務所長は、サウジへの海外からの直接投資は2年前を底に回復基調にあり、失業率も改善傾向にあると分析。「事件が経済に大きく影響したとは言いがたい。国内ではすでに『過去のこと』になっている。皇太子の影響力にも陰りはない」と話している。

反体制記者殺害事件
 米国に移住してサウジアラビア政府を批判してきた記者、ジャマル・カショギ氏が2018年10月2日、トルコ・イスタンブールのサウジ総領事館を訪問した後に行方不明になった。窒息死させられて切断されたとみられ、遺体は見つかっていない。事件前後にサウジの法医学専門家ら15人が同館に出入りし、2日に出国していた。サウジの検察は昨年11月、実行犯ら11人を起訴し今年1月にはこのうち5人に死刑を求刑したが、氏名など詳細は不明。


2019.6.20-BBC NEWS JAPAN-https://www.bbc.com/japanese/48700481
サウジ記者殺害に「皇太子関与の証拠」 国連報告者

国連のアニエス・カラマール特別報告者は19日、昨年10月2日にトルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館で起きたサウジ人記者ジャマル・カショジ氏殺害について、サウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子と政府高官が関わっていた証拠があると発表した。報告によると、これらの証拠は独立した公正な国際機関による調査にかけるに値するものだという。
サウジアラビアはかねて、この事件にムハンマド皇太子は関与していないとしている。当局は代わりに11人をカショジ氏殺害の疑いで非公開裁判にかけており、うち5人には死刑を求刑している。
しかしカラマール氏は、この裁判は国際的な手続きや司法の独立の基準を満たしていないと指摘しており、裁判の中止を求めている。
アデル・アル・ジュベイル外交担当国務相はこの報告書の内容を否定し、ツイッターで「新しい事実は何もない」、「明らかな矛盾と根拠のない疑惑を含んでおり、信頼性に疑問がある」と反論した。また、「この事件を取り扱う資格はサウジアラビア司法当局にのみあり、当局は完全に独立した形で取り組む」としている。
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カショジ記者殺害事件とは
当時59歳だったカショジ氏はサウジアラビア出身だが、米国を拠点に米紙ワシントン・ポストなどで記者活動を続け、ムハンマド皇太子を批判していた。
トルコ人婚約者との結婚に必要な書類手続きのため、10月2日にイスタンブールの総領事館に入ったのを最後に行方が分からなくなり、その後、館内で殺害されたことが明らかになった。
超法規的・即決・恣意的処刑を専門とするカラマール特別報告者は、カショジ氏はこの日に「残酷に殺害された」と指摘した。
サウジアラビア検察局のシャラアン・ビン・ラジフ・シャラアン副局長は昨年11月、カショジ氏の殺害指示を出したのは同国のアフメド・アル・アッシリ情報機関副長官(当時)がイスタンブールに派遣した「交渉部隊」の部隊長だったとの見解を示した。この交渉部隊は、サウジアラビアから脱出したカショジ氏を「説得によって」、それが失敗した場合は「力ずくで」帰国させるのが任務だったという。
検察は、カショジ氏はもみ合いの後に拘束され、注射による薬物の過剰摂取で死亡したと結論付けている。遺体は総領事館内で切断され、敷地外にいる現地の「協力者」に渡されたという。シャラアン副局長は、この事件では5人が殺害を自白したとしており、「(皇太子は)この件について何も知らなかった」と主張した。

報告書の内容は?
カラマール氏は国連の人権高等弁務官事務所から「この殺人事件に関する国家および個人の責任の所在と程度」を明らかにする調査を委託されていた。
サウジ側はカショジ氏殺害は「行きずりの犯行」の結果だとしているが、カラマール氏の報告書は「超法規的な殺人であり、サウジアラビア王国に責任がある」と結論付けた
「国際的な人権法の観点から言えば、国家の責任とはどの政府高官がカショジ氏殺害を指示したのか、誘拐を指示したが失敗し過失致死となったのか、政府高官の行動は自発的または権限を越えたものだったのか、といったような問題ではない」
カラマール氏はまた、「皇太子を含む政府高官の責任調査を進めるのに十分な信頼できる証拠」があると指摘した。その上で、アメリカを含む国連加盟国がこの件をめぐってサウジアラビアの高官に科している制裁について、ムハンマド皇太子もその対象となるべきだと述べた。
この制裁は政府高官の個人的な国外資産が対象となっているが、カラマール氏は「少なくとも、カショジ氏殺害について一切の責任がないことを示す証拠が出てくるまでは続けるべきだ」としている。
さらに、カショジ氏殺害は普遍的管轄権(国家の枠を超えて犯罪を裁く権利)に属する国際犯罪だとして、現在サウジアラビアで行われている容疑者11人に対する裁判を中止するよう提言。この主張が認められれば、この件についてはトルコやアメリカなどにも起訴する権利が与えられることになる。
報告では、国連安全保障理事会が追加の刑事捜査を行って容疑者ひとりひとりについて強固な報告をまとめるとともに、裁判などの正式な説明責任のメカニズムを特定するべきだとしている。

事件のあらましを詳細に説明
特別報告書では、カショジ氏殺害の前後に起きたとカラマール氏がみている出来事が詳細に説明されている。その多くは、トルコの情報機関が持っていたサウジアラビア総領事館内で録音された7件の会話記録に基づいている。カラマール氏はこれらの録音のコピーを入手できず、真偽を確かめることはできなかったが、以下のような内容だったとしている。
  サウジの政府関係者2人が、カショジ氏が総領事館に入る数分前に、どうやって遺体を切断して運び出すかを協議している。うち1人は「遺体は重い。最初は地面でやった。ゴミ袋を持ってきて細かくすれば終わりだ」と話していた。会話の最後にはもう1人が「いけにえの動物」が届いたと発言した
  カショジ氏は息子にメールすれば「助けてやる」と言われたが、拒否している。その後、カショジ氏は「ここにタオルがある。薬を盛るつもりか?」と聞いており、それに対して誰かが「麻酔を打つつもりだ」と答えている
  この会話の後、もみ合うような音の中で「寝たか?」、「頭を上げた」、「押さえ続けろ」などという声が聞こえる。その後、人が動き回る音や荒い息、プラスチックのこすれる音がする

カラマール氏はまた、「さまざまな政府筋」から、現在サウジアラビアで裁判にかけられている11人の名前を入手し、報告書で示している。うち死刑を求刑されているのはファハド・シャビブ・アルバラウィ氏、トゥルキ・ムセレフ・アルシェフリ氏、ワリード・アブドゥラ・アルシェフリ氏、情報当局のマヘル・アブドゥルアジズ・ムトレブ氏、内務省の法医学者、サラフ・モハンマド・トゥバイギ博士の5人。ムトレブ氏についてアメリカは、サウド・アル・カフタニ前皇太子顧問の下で働いていたとみている。
カラマール氏が行った聴き取りによると、弁護士は裁判の中で、被告人は国家公務員であり上からの命令には逆らえなかったと主張した。また、カショジ氏の誘拐を支持したアッシリ氏は、武力行使を許可したことはないと述べているという。(英語記事 Saudi prince 'may be liable for Khashoggi death' 


サウジアラビア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サウジアラビア王国、通称サウジアラビアは、中東西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はリヤド。世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、石油(原油)を中華人民共和国をはじめ世界中に多く輸出している。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。サウジアラビアにおける死刑信教の自由女性の人権など、欧州と異なる文化、法体制に対しては批判もある

1744年サウード王家は中央アラビアのナジュド地方に勃興(第一次サウード王国)した。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードは宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。これが今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。
-続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトオスマン帝国ラシード家ジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。第三次サウード王国に当たる現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。

アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー1921年ハーイル征服までにカティーフナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。一方、1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家フサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。アブドゥルアズィーズは、1926年までにこのヒジャーズ王国を制圧(サウード家のヒジャーズ征服英語版)し、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となった。
つづく1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日にはジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立した。さらに1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。その後1934年には、サウジ・イエメン戦争がおこりイドリシ朝アスィール首長国を併合した。
しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。1933年サウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史)。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。
アブドゥルアズィーズは、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。1953年にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王として即位した。
1973年第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。
1975年、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。
1979年イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。
1982年、ハーリド国王が崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。
1990年イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。敬虔なイスラム教徒たちは聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。
2005年、ファハド国王が崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。
2015年1月、アブドゥッラー国王が崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。

アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー1921年ハーイル征服までにカティーフナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。
一方、1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家フサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。アブドゥルアズィーズは、1926年までにこのヒジャーズ王国を制圧(サウード家のヒジャーズ征服)し、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となった。
つづく1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日にはジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立した。
さらに1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。
その後1934年には、サウジ・イエメン戦争がおこりイドリシ朝アスィール首長国を併合した。
しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。1933年サウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史)。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。
アブドゥルアズィーズは、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。1953年にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王として即位した。
1973年第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。
1975年、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド英語版王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。
1979年イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。
1982年、ハーリド国王が崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。
1990年イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。敬虔なイスラム教徒たちは聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。
2005年、ファハド国王が崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。
2015年1月、アブドゥッラー国王が崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。

政治
絶対君主制・政教一致
政体はサウード家による絶対君主制であり、ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており政教一致体制である。国王はワッハーブ派イマームを兼ね、要職は王族が独占している。王族の数が世界最大というギネス世界記録を持つ。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。
建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた。
政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』である。同じイスラム教でも、シーア派は敵視されている。

行政・立法(詳細は「諮問評議会 (サウジアラビア)」を参照)
従来は内閣議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーアに則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任である。
(詳細は「サウジアラビアの州」を参照)
国内は13のに分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。

税制
税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税管轄は「所得税およびザカート税省」が担う。属人主義であるシャリーアを基準とするため、サウジアラビア人と外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税を課す。
税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものである、とする主張を採用すれば税金のない国となる。最近サウジアラビアで消費税や水道税など導入され王族への特権も廃止された。

司法
サウジアラビアでは宗教が法律となり、コーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、これが数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。近年では、この複雑な法体系の近代化が進められ、大幅に制度改革が実施されている。
司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は、例外的に法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって、適用される法律が異なる場合もある。ただしシーア派に認められているのは24条にある、刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合には、ワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。
通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会宗教警察)が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。
原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による自動車の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し、2018年6月24日解禁された。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。このシステムは20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。
裁判アラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。
ポルノ類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬強姦殺人同性愛においては死刑となる。また窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っている。裁判についても、被告人が外国人である場合、理解できないアラビア語で公判が進められたりするため、公平でない上、判決を容認しない場合は、弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。
2005年5月には、スリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)の与えたミルクが乳児の気管に詰まり、救命措置を取ったにもかかわらず死亡してしまった。これが公判では事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたにもかかわらず、2013年1月、斬首刑が執行された。(詳細は「リザナ・ナシカ」を参照)
ムハンマドの慣例に従い9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている。一例として親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されているこれに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した
名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。一例として家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、名誉殺人と認定され無罪判決が下った。またディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。

司法改革の歴史
法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。まず、建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。そして長らくシャリーアでは特許著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された。サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。
2007年10月の勅令に始まり、さらに2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わり最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され、日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。続く2009年2月14日の勅令では大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施されている。

人権(「イスラームと児童性愛」および「サウジアラビアにおける女性の人権」も参照)
国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁をたびたび実行しているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している。
基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「人権」とは異なる概念である。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。
2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズムと判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。

外交
最初に国交を結んだ国はソビエト連邦であったが、サウジアラビア王国自体は反共主義絶対王政神権政治であったため、独立後、冷戦時はアメリカ合衆国宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築き(ただし、冷戦時代でもオイルショックで西側諸国に経済制裁を行った際やアメリカに無断で中華人民共和国から弾道ミサイルを導入して摩擦もあった)、今日も中東最大の親米国家でアメリカの同盟国とされる。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、同様にイスラム法をめぐる人権問題が取り上げられている反米国家イランに対する対応とは正反対となっている。
一方で湾岸協力会議イスラム協力機構の盟主として、湾岸アラブ諸国とイスラム圏(特にスンナ派)に影響力を持つことから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし、両国ともにイランと対立してアメリカやイギリスとの関係が深い共通点があることから協調することもある。また歴史的な関係が深く、ともに王室が存在するスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。
なお、日本とは1970年代田中角栄の特使で訪問した三木武夫が、親アラブ外交を約束した際の対日石油供給制限解除以来、日本最大の原油輸入先なこともあって経済的に密接な関係にある。一方でサウジアラビア王国とは文化の大きな違いがあるため、宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重であるが、経済的理由からサウジアラビア王国とのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している。
シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月2日にサウジアラビア王国がシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランとの関係は急速に悪化。これがもとでイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃され、その際イランとの国交を断絶している。なお、これにバーレーンスーダンも続いてイランとの国交断絶を表明している。
また、シーア派に近いアラウィー派であるシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。さらにシリアに軍事基地を置くロシアとの関係も、冷戦時代のソ連のアフガニスタン侵攻チェチェン紛争シリア内戦ムジャヒディンの反政府組織を支援したこともあって親密ではない。
2018年、カナダとサウジアラビア王国の間でにわかに緊張が高まっている。

亡命者の受け入れ
ウガンダイディ・アミンパキスタンナワーズ・シャリーフチュニジアザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命を受け入れた。

軍事(詳細は「サウジアラビア軍」を参照)
基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラーム預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。
アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。 兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。中国の主導する上海協力機構にも参加を申請している
最初に国交を結んだ国はソビエト連邦であったが、サウジアラビア王国自体は反共主義絶対王政神権政治であったため、独立後、冷戦時はアメリカ合衆国宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築き(ただし、冷戦時代でもオイルショックで西側諸国に経済制裁を行った際やアメリカに無断で中華人民共和国から弾道ミサイルを導入して摩擦もあった)、今日も中東最大の親米国家でアメリカの同盟国とされる。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、同様にイスラム法をめぐる人権問題が取り上げられている反米国家イランに対する対応とは正反対となっている。
一方で湾岸協力会議イスラム協力機構の盟主として、湾岸アラブ諸国とイスラム圏(特にスンナ派)に影響力を持つことから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし、両国ともにイランと対立してアメリカやイギリスとの関係が深い共通点があることから協調することもある。
また歴史的な関係が深く、ともに王室が存在するスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、日本とは1970年代田中角栄の特使で訪問した三木武夫が、親アラブ外交を約束した際の対日石油供給制限解除以来、日本最大の原油輸入先なこともあって経済的に密接な関係にある。一方でサウジアラビア王国とは文化の大きな違いがあるため、宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重であるが、経済的理由からサウジアラビア王国とのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している
シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月2日にサウジアラビア王国がシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランとの関係は急速に悪化。これがもとでイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃され、その際イランとの国交を断絶している。なお、これにバーレーンスーダンも続いてイランとの国交断絶を表明している
また、シーア派に近いアラウィー派であるシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。さらにシリアに軍事基地を置くロシアとの関係も、冷戦時代のソ連のアフガニスタン侵攻チェチェン紛争シリア内戦ムジャヒディンの反政府組織を支援したこともあって親密ではない。
2018年、カナダとサウジアラビア王国の間でにわかに緊張が高まっている

経済
2015年GDPは約6320億ドルであり日本近畿地方よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである。OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約75%を占めている)となっているほか、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行1952年に設立された通貨庁であり、政府系投資ファンドとしても知られている。
しかしながら製造業などは小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていないことから、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でITなどを中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。
2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイカタールバーレーンと比較するとまだ出遅れている。こうした状況を打開するために、ムハンマド・ビン・サルマーンが中心となり「ビジョン2030」と題された経済大改革を打ち出すなどしている。金融が盛んで著名な投資家も多く、製造業においてもそれに劣らない発展をしつつある。そして世界最大の酪農会社も存在する。 G20の一員となっている。

水資源
  サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれるわき水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、現在ではほとんど補給されることがない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻になってきており、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。
  サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。その多くは省エネのro法海水淡水化プラントであり自力で建設し自国にro法膜工場をつくるなどとくにサウジ政府は力を入れている。その88%は農業用水で残りは工業用水と飲料水に使われている。20余りの主要都市に人口の80%が集中しており、都市部ではオアシスや地下水だけではまったく足りないため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。
   リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、わずかな期間に集中して降り、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。








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