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2019.11.24-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191124/k10012189341000.html
ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文)

長崎 爆心地公園でのスピーチ教皇の日本司牧訪問
教皇のスピーチ
核兵器についてのメッセージ
長崎・爆心地公園
2019年11月24日

愛する兄弟姉妹の皆さん。
  この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさったかたとそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。
  人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良のこたえではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
  国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
  ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。
  核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])。
  今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。

  カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則に則り、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。
  核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ(1964年12月4日)」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ(1967年3月26日)』参照)。
  こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。
  心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指す中で、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。
  ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でないかたもおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみがあるところに愛を、
いさかいがあるところにゆるしを、
疑いのあるところに信仰を、
絶望があるところに希望を、
闇に光を、
悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

  記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。
  皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。

広島 平和公園でのスピーチ教皇の日本司牧訪問
教皇のスピーチ
平和記念公園にて
2019年11月24日、広島

「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。
  あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。
  ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。
  この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。
  わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためです。とくに、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

  わたしはつつしんで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。
  確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。それは、わたしがすでに2年前に述べたとおりです。これについて、わたしたちは裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、国と国の間で何の行動も起こさなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪のスピーチで、あのだれもが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。
  平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス―地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはありません。その逆に、差の存在を認めることは、いっそうの責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

  実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈して対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。
  思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
  だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

  神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、心から声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11-12)。
  主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!
  「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。


2019.11.3-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/west/news/191103/wst1911030022-n1.html
ローマ法王来日前に合同慰霊祭 「潜伏キリシタン」聖地の長崎・枯松神社

江戸期の禁教下で信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」の聖地として知られる長崎市下黒崎町の「枯松(かれまつ)神社」で3日、布教活動を行った外国人宣教師「サン・ジワン」らを慰霊する神社祭が開かれた。現在はカトリックや仏教徒となった潜伏キリシタンの子孫ら約200人が一堂に会し、思い思いに祈りをささげた。
 地元・黒崎地区の潜伏キリシタンの多くは禁教令が出た江戸時代、曹洞宗天福寺(同市)の檀家として身を隠しながら、サン・ジワン神父らの下で信仰を続けた。明治になって禁教が解かれると、人々は当時の信仰を継ぐ「かくれキリシタン」とカトリックに復帰した人、仏教徒の3者に分かれた。
 同祭は平成12年、3者の「融和」を図る目的で始まった。過去2回は別々に開催したが20回目の今年、ローマ法王の38年ぶりの長崎訪問を控えていることもあり、3年ぶりの合同開催となった。
 この日、「カトリック黒崎教会」主任司祭の橋本勲さん(77)がミサを執り行い、かくれキリシタン帳方(ちょうかた、最高責任者)の村上茂則さん(69)が、禁教時代から口伝で受け継がれる「オラショ」(祈り)を奉納。会場は神秘的で厳かな雰囲気に包まれた。
 ローマ法王来日に合わせて作詞作曲した「ビバパパ」も合唱。村上さんは「信者の少ない日本には来ないと思っていた。今日は感謝も込めて臨んだ」。橋本さんは「ローマ法王と同じように、互いの違いを認め合う黒崎地区から平和を発信できれば」と話していた。


http://kirishitan.jp/
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

(Ⅰ)宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられ、その後に続いて来日した宣教師たちの活動や、南蛮貿易の利益を求めて改宗したキリシタン大名の保護によって全国に広まった。しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放された。1637年、禁教が深まる中、圧政をきっかけにキリシタンが蜂起して「原城跡」に立てこもった「島原天草一揆」に衝撃を受けた幕府は、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船を追放し、海禁体制(鎖国)を確立した。1644年には最後の宣教師が殉教。残されたキリシタンは、民衆レベルの信仰の共同体を維持しながら「潜伏」して信仰を続けた(彼らを「潜伏キリシタン」と呼ぶ)。これらの共同体は17世紀後半に起こった大規模なキリシタン摘発事件によって順次崩壊し、潜伏キリシタンの多くが棄教、殉教した。

(Ⅱ)潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み
日本各地の潜伏キリシタン集落は途絶えていったが、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、18世紀以降も共同体がひそかに維持され、独自に信仰を実践する方法を模索していった。それは、山や島(平戸の聖地と集落(春日かすが集落と安満岳やすまんだけ、中江ノ島))、生活・生業に根ざした身近なもの(天草の﨑津集落)、聖画像(外海の出津集落)、神社(外海の大野おおの集落)など、独自の対象をひそかに拝むというものであった。

1-原城跡
キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原天草一揆」の主戦場跡です。
原城跡は、キリシタンが何をきっかけとして「潜伏」することになったのかを示す構成資産である。
 全国的に禁教政策が進む中、原城を主戦場として起きた「島原天草一揆」は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、カトリック宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航の禁止と2世紀を越える海禁体制(鎖国)の確立、これに続く国内宣教師の不在という状況をもたらした。
 これによってキリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくこととなった
原城跡は、長崎地方の南東部、島原半島の南部にあるキリシタン大名有馬氏の居城の跡である。海に突き出た丘陵の地形を利用して築かれた城で、北、東、南の三方は海に囲まれ、西は低湿地に面する要害の地であった。1637年に起こった「島原天草一揆」の主戦場となり、今日まで行われてきた考古学的な調査によって、禁教初期のキリシタンが一揆のときに組織的に連携していたことが明らかにされている。
 イエズス会宣教師たちの報告によると、原城は1598年から1604年にかけてキリシタン大名有馬晴信によって築かれたことが知られている。その後、有馬氏に代わって領主となった松倉氏が新たに城を築いたため、1618年に原城は使われなくなった。

 江戸幕府が禁教政策を進める中、1637年に松倉氏の厳しい統治と飢きんをきっかけとして「島原天草一揆」が起こった。この一揆では、島原半島南部と天草地方の百姓からなる約2万数千人のキリシタンが参加したといわれており、益田四郎を総大将として原城跡に立てこもった。幕府軍は12万人を超す兵力で一揆勢を攻撃したが、激しい反撃によって8千人以上もの死傷者を出した。4ヶ月に及ぶ攻防の末、一揆勢は老若男女の別なくほぼ全員が殺された。
 この一揆では、かつてこの地を治めた有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名の旧家臣が主導的役割を果たした。彼らは、キリシタンの共同体の単位である「組」の指導者であったといわれており、原城跡に立てこもった際、城内に礼拝堂を建て、教えを説いていたことが幕府側の記録からうかがえる。
 これまで行われた原城跡の発掘調査では、戦没したキリシタンの人骨や信心具が大量に出土している。信心具の中には、キリスト教の伝来期に宣教師から授かり代々継承されてきたメダイをはじめ、城内にて鉄砲玉を原料に急ごしらえした十字架などが含まれており、城内に立てこもったキリシタンの信仰の有り様が考古学的に明らかにされている。

 また、本丸の西側では、規則的につくられた複数の半地下式の住居跡が確認されている。これらの遺構は、立てこもったキリシタンが禁教後においても信仰を維持し、家族、集落の単位で組織的に行動していたことを明確に示している。これらのキリシタン関係の遺構や遺物は破壊された石垣の中に埋め込まれた状況で発見されたことから、再び原城を一揆に利用されることを恐れた江戸幕府が徹底的に破壊したことがわかる。
 さらに一揆勢が原城跡へと持ち込み、陣中旗として利用した信心会の幟(のぼり)や、城内で使用していたラテン語を平仮名に音写した祈祷文が現存しており、これらは一揆の鎮圧後に幕府軍の武士が戦利品として持ち帰ったために今日に伝わったものとされている。
 なお、「島原天草一揆」の出来事は、その後の禁教期を通じて長崎地方の外海地域、浦上地区など、各地の潜伏キリシタン集落において彼らの記憶として長く伝承された。

2-平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
キリスト教が伝わる以前から信仰された山やキリシタンが殉教した島を拝むことによって信仰を実践した集落です。
「平戸の聖地と集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場とするとともに、キリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の対象であった安満岳なども併せて拝むということによって信仰を実践した。
 解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けたが、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

「平戸の聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが拝んだ山と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンの信心具を有する「納戸神のある住居」、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが併せて拝み、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳には、白山比賣神社とその参道、石祠(いしぼこら)西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として拝んだ中江ノ島がある。
 平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田(てこだ)氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。
 禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した。指導者の住居には仏壇や神棚があるほか、潜伏キリシタンの信心具納戸神)を「納戸」と呼ばれる部屋に隠し、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳を拝んだ。
 安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠(いしぼこら)、西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣(姫)神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んだ石祠もある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、安満岳は神道、仏教の信仰の山として、春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民が拝む対象となっていた。また、禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。
 平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として拝んだ場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
 このように、禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、山や島を拝むことによって信仰を実践した。。
 1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンも転機を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具(しんじんぐ)が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

3-平戸の聖地と集落(中江ノ島)
キリスト教が伝わる以前から信仰された山やキリシタンが殉教した島を拝むことによって信仰を実践した集落です。
平戸の聖地と集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場とするとともに、キリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の対象であった安満岳なども併せて拝むということによって信仰を実践した。
 解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けたが、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

「平戸の聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが拝んだ山と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンの信心具を有する「納戸神のある住居」、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが併せて拝み、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳には、白山比賣神社とその参道、石祠西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として拝んだ中江ノ島がある。
 平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。

 禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した。指導者の住居には仏壇や神棚があるほか、潜伏キリシタンの信心具納戸神)を「納戸」と呼ばれる部屋に隠し、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳を拝んだ。
 安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んだ石祠もある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣(ひめ)神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、安満岳は神道、仏教の信仰の山として、春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民が拝む対象となっていた。また、禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。

 平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として拝んだ場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
 このように、禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、山や島を拝むことによって信仰を実践した。。
 1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンも転機を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

4-天草の﨑津集落
身近なものを信心具として代用することによって信仰を実践した集落です
「天草の﨑津集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の﨑津集落の潜伏キリシタンは、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスに、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアにそれぞれ見立てるなど、漁村特有の生活や生業に根差した身近なものをキリシタンの信心具として代用するということによって信仰を実践した。
 解禁後はカトリックに復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

 「天草の﨑津集落」は、天草下島の西部に位置する漁業を生業とする集落で、キリスト教禁教期に潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた初代﨑津教会堂跡からなる。
 﨑津集落は戦国時代にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まり多くの信心具が伝来した。
 禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏」が行われるようになった。村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理された。﨑津集落の潜伏キリシタンは、在来の信仰を装うために表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となった。﨑津諏訪神社は1647年の創建以来、豊漁、海上安全を祈願する集落の守り神として今日まで存続している。

 集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡がある。﨑津集落では、禁教期においても16世紀から続く小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った。
 﨑津集落では、生業である漁業と信仰とが密接に結び付いている。潜伏キリシタンは、豊漁の神様である大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝し、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝むことによって信仰を実践した。また、白蝶貝を加工したメダイも製作した。「水方」の子孫の住居には、現在もメダイのほか、海にかかわる信心具が保管されている。
 1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収したが、村人は「心得違い」として処罰されなかった。

 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した。そして1888年、かつて水方を務めた潜伏キリシタンの土地であり、禁教期に彼らがひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てられた。そのことは、﨑津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。この木造教会堂は、その後の老朽化により移転、新築された。跡地には修道院が建てられ今日に至っている。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられた。これは、絵踏が行われた場所にカトリック復帰の象徴となる教会堂を建てたいというハルブ神父の強い願いによるものであった。教会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたといわれている。

5-外海の出津集落
「外海の出津集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の出津集落の潜伏キリシタンは、自分たちの信仰を隠しながらキリスト教由来の聖画像をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとすることによって信仰を実践した。
 また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになった。
 解禁後、潜伏キリシタンは段階的にカトリックに復帰し、集落を望む高台に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

「外海出津集落」は、西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に注ぐ出津川の流域にあり、潜伏キリシタンが禁教期にひそかに祈りをささげるために聖画像を隠していた屋敷の跡、潜伏キリシタンの墓地、禁教期に集落を管轄した代官所の跡および庄屋屋敷跡、「信徒発見」後に宣教師が上陸した浜辺、解禁後に祈りをささげた「仮の聖堂跡」と教会堂からなる。
 外海地域では、1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わった。それにともなって多くの者が洗礼を受けたのをはじめ、1592年には外海北部の神浦地区に宣教師の住居としてレジデンシアが置かれるなど宣教が進んだ。

 1614年、全国に禁教令が出されたが、出津(しつ)集落は比較的取り締まりが緩やかな佐賀藩に属していたため、庄屋をはじめとする村役も潜伏キリシタンであった。潜伏キリシタンは、表向きは出津代官所の管轄のもとで仏教寺院に属し、宣教師に代わる共同体の指導者を中心として組織的に信仰を続けた。
 出津集落の共同体は「お帳(ちょう)」と呼ばれる禁教初期に伝えられた教会暦を所有する複数の小さな「組」からなり、これらを統括する「ジヒサマ」(正、副、弟子の3名から構成)という出津集落全体の「組」の指導者を役員会において選出した。「ジヒサマ」は、集落内の洗礼、葬儀などの儀礼をつかさどり、「ご誕生」(クリスマス)にはジヒサマの家で夜を徹して祈りがささげられた。
 また集落内には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪(むげんざい)のプラケット」をはじめ、中国由来と推測される銅製の仙人像をイエズス会創始者のイグナティウス・ロヨラに見立てた「イナッショさま」、日本人が描いた「聖ミカエル」や「十五玄義」などの複数の聖画像を隠し、ひそかに拝むことによって信仰を実践していた。他にも、出津集落を含む外海地域に伝わったと考えられる絵画「雪のサンタ・マリア」や、もともと出津集落に所在し、ド・ロ神父を経てフランスへと渡ったが、近年再び長崎に戻った絵画「無原罪の聖母像」がある。さらに1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていた。出津集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承で伝えており、日常的に各自が無音か小声で唱えた。

 出津集落の潜伏キリシタンの墓は、一見すると仏教徒の墓と区別がつかないが、潜伏キリシタンを埋葬する際には仏教徒のような「座棺」ではなく、ひざを曲げて寝かせた「寝棺」の方式をとり、頭部を南に向けて埋葬した。さらに棺内には、禁教期の外海地域の潜伏キリシタンの間で神聖視されたツバキの木片も副葬され、潜伏キリシタン固有の方法で埋葬されていた。
 禁教期の出津集落には、家屋、畑地、墓地をひとつの単位とする集落構造が見られ、人々は斜面地に石積みを築いて段々畑を造成し、サツマイモ栽培を中心とする農業を営んでいた。この集落構造は、現在もほとんど変わることなく残されている。貧しい土地ながらも人口が多かった外海地域では、五島藩と大村藩との協定によって18世紀末から五島への開拓移住が行われ、出津集落もその拠点のひとつとなった。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。出津集落の潜伏キリシタンの指導者も接触し、信仰を告白するとともに教理の指導を受け、ひそかに宣教師を集落へと招いた。小濱浦は、その宣教師の最初の上陸地である。
出津集落の潜伏キリシタンは、最終的に16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰する者と禁教期の信仰形態を継続する者(かくれキリシタン)に分かれ、伝承してきた聖画像の所有を巡る対立にまで発展した。これは「野中騒動」と呼ばれている。

 カトリックに復帰した潜伏キリシタンは、キリスト教が解禁された1873年に禁教期に拝んでいた聖画像を所有していたキリシタンの屋敷の隣に「仮の聖堂」を建てた。その後、1882年にはパリ外国宣教会の宣教師であったド・ロ神父が集落を見下ろす高台に出津教会堂を建てた。それは、出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。出津教会堂には海からの強風を避けるために低い屋根や天井が採用され、1891年と1909年の増築にともなって前後にふたつの塔が建つなど外観に特徴がある。
 ド・ロ神父は村民の貧しい生活を改善するために、教会堂に隣接する場所に授産施設である出津救助院も建てた。そこは、禁教期に潜伏キリシタンの取調べを行った代官所が存在していた場所でもあった。
 キリスト教の解禁直後、出津集落でカトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人であった。しかし、その後カトリックに帰依する人々は徐々に増加し、20世紀中頃にはカトリック信徒とかくれキリシタンとの人数の割合はほぼ等しくなった。現在では、かくれキリシタンの多くは仏教徒またはカトリック信徒へと移行している。

6-外海の大野集落
神社にひそかにまつった自らの信仰対象を拝むことによって信仰を実践した集落です。
「外海の大野集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象をひそかにまつって拝むことによって信仰を実践した。
 また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになった。
 解禁後はカトリックに復帰し、「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていたが、その後、大野集落の中心に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

「外海の大野集落」は、西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に面する急傾斜地にあり、潜伏キリシタンが氏子として神道の信徒であることを装った神社、自分たちの信仰対象をひそかにまつった神社、潜伏キリシタンの墓地、解禁後に建てられた教会堂からなる。
 大野集落一帯では、1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わった。大野集落は大村藩に属する神浦地区の一部であり、多くの者が洗礼を受け、出津集落と同様に宣教が進んだ。

 1614年、全国に禁教令が出されたため、大村藩でも藩主が棄教し、領内ではキリシタンに対する弾圧が行われたが、大野集落の潜伏キリシタンはひそかに信仰を続けていた。禁教が進み、宣教師が不在となる一方、大野集落の潜伏キリシタンは表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社の氏子としても振る舞いながら、組織的に信仰を続けた。
 大野集落の南に位置する大野神社は、3つの神社の中でも集落全体の守り神として最も社格が高く、代々庄屋が神主を務めた神社であり、その氏子は集落民の大多数を占めた。そのため、大野集落の潜伏キリシタンも神社の氏子として神道の信徒であることを装った。また、より身近な存在であった門神社と辻神社を潜伏キリシタンの信仰の場として利用し、自分たちの信仰の対象をひそかに祭神としてまつり、祈りをささげることによって信仰を実践した。大野集落の南西に位置する門神社には、もともと様々な神がまつられていたが、その中に「島原天草一揆(いっき)」の際に大野地区に逃れてきた「本田敏光」というキリシタンも含まれていたという。大野集落の潜伏キリシタンは、この祭神を禁教初期に外海一帯で活動したとされるポルトガル人宣教師と同名の「サンジュワン」と呼び、ひそかに崇拝の対象とした。一方、大野集落の東端に位置する辻神社は古来の自然信仰に基づく山の神をまつった神社だったが、潜伏キリシタンはその祭神に門神社と同じく「サンジュワン」を重ね、ひそかに信仰の対象とした。

 大野集落では、大野岳から海浜部に至る急斜面に石積みを築いて耕作地とし、サツマイモ栽培を主体とする農業を営んでいた。18世紀末には五島藩と大村藩の協定により外海地域から五島への開拓移住が行われ、それにともなって大野集落からも移住が行われた。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。外海地域の潜伏キリシタンも大浦天主堂の宣教師と接触を図り、大野集落の南に位置する出津集落に宣教師がひそかに来訪した。これにより大野集落の潜伏キリシタンも宣教師と接触し、多くの村人たちが洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した。
 辻神社から北東の山域へと連続する傾斜面には潜伏キリシタンの墓地がある。これは、解禁直前に自分たちの信仰を表明した潜伏キリシタンが、集落の共同墓地に埋葬することを拒絶されたために新たに設けた墓地で、現在も13基の積石墓が残されている。
 当初、大野集落のカトリック信徒は、約3km離れた出津集落に建てられた出津教会堂に通っていたが、1893年には洗礼を受けた村人が200名を超えた。また、離れた場所にあることから出津教会堂に通えない26戸の信徒のために、1893年、集落の中心に出津教会堂の巡回教会として大野教会堂が建てられた。それは、大野集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
 大野集落では、1912年までにさらに200名を超える多くの村人が洗礼を受けたが、その後の変遷により現在ではカトリック信徒の世帯数が数戸にまで減少し、集落民の大半は仏教徒となっている。

7-黒島の集落
平戸藩の牧場跡の再開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落です。
「黒島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 19世紀、長崎地方各地の潜伏キリシタンの一部は、黒島の牧場跡の再開発のために移住が奨励されていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、表向きは所属していた仏教寺院でマリア観音に祈りをささげながら、ひそかに共同体を維持した。
 解禁後はカトリックに復帰し、島の中心部に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

8-野崎島のざきじまの集落跡
野崎島の集落跡」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 19世紀、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、沖ノ神嶋神社の神官と氏子しか人が住んでいなかった野崎島を移住の適地として選んで移住し、神社の氏子として信仰をカモフラージュしながら、ひそかに共同体を維持した。
 解禁後はカトリックに復帰し、野崎島の中央部と南部の2つの集落にそれぞれ教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。
野崎島は、五島列島の北部に位置する南北約6km、東西約1.5kmの細長い島で、島の中央部のなだらかな傾斜面を除き、周囲を急しゅんな断崖絶壁が取り囲む険しい地形からなり、潜伏キリシタンが信仰を装うために氏子となり参拝した沖ノ神嶋神社や、それを管理した神官が暮らした屋敷、潜伏キリシタンの移住にともない島内に形成された宅地や畑地跡、潜伏キリシタンの指導者屋敷跡、潜伏キリシタンの墓地、解禁後に建てられた教会堂跡がある。
 野崎島の北部には沖ノ神嶋神社がまつられており、社殿の背後には高さ約24m、幅約12mの2本の石柱状の巨石が立ち、これらの頂部に長さ約5.3m、幅約3m、高さ1.2mの「王位石」と呼ばれる巨石がのっている。王位石ならびに沖ノ神嶋神社の社殿と境内は古来の聖地であるとされ、海上交通の守り神として五島列島一円から拝まれてきた。このように野崎島は、神道の霊地として一般の人々が容易に生活を営むことができない島であった。
 野崎島は海岸線に沿って急しゅんな断崖が連続する小さな島であり、19世紀までの間に人間が住んでいたのは島の中央部東岸沿いの野崎地区のみであった。野崎地区には、神官の屋敷を含め約20戸からなる野崎集落が存在し、平戸藩の役人も兼ねていた神官が実質的に島全体を統括していた。沖ノ神嶋神社の文献史料によると、野崎島では19世紀中頃に戸数が倍増しており、この頃に潜伏キリシタンの大量入植が行われたことがうかがえる。
 19世紀以降に野崎島へと移住した潜伏キリシタンは、沖ノ神嶋神社の氏子となって各種の神事に参加した。また、彼らは小値賀島の仏教寺院にも所属し、定期的に行われた「絵踏」を行うことで潜伏キリシタンとしての自らの信仰を隠し通した。
 潜伏キリシタンの移住先は、島の中で無人であった中央部の野首地区と南端の舟森地区だった。そこでは島内の樹木を薪として伐採する権利も与えられず、急傾斜面の荒地に石垣を築いてわずかな平坦地を造成し、居住地やイモ、ムギの栽培農地を切り開いた。
 それぞれの潜伏キリシタン集落には指導者である「帳方」「水方」を置き、在来の宗教行事と折り合いをつけながら、ひそかに自分たちのかたちで信仰を続けた。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。これにともない野崎島の潜伏キリシタンもひそかに宣教師との接触を図り、同年に野首集落の指導者ら5名が大浦天主堂で宣教師から洗礼を授かったと記録されている。
 1868年に始まった五島での弾圧の際には、野崎島の潜伏キリシタンも一時平戸島へと連行されたが、1873年に解禁されると、野崎島の潜伏キリシタンはすべて16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰した。復帰当初は、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」として信仰活動を続けていたと考えられるが、舟森集落には1881年に、野首集落には1882年にそれぞれ最初の木造教会堂(瀬戸脇教会と野首教会)が建てられた。それは、野崎島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。野首集落では、1908年にかつての帳方屋敷のそばに現存する旧野首教会が建てられた。なお、舟森集落に建てられた瀬戸脇教会は、1966年に舟森集落の住民が集団離村した際に廃絶したため、現在ではその跡地を残すのみとなっているが、教会堂に付随する司祭館の建物は小値賀島へと移築され現存している。

9-頭ヶ島かしらがしまの集落
「頭ヶ島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 19世紀、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、病人の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住し、ひそかに共同体を維持した。
 解禁後はカトリックに復帰し、禁教期における指導者の屋敷の近くに教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

 頭ヶ島は、五島列島北部(「上五島」と呼ばれる)にある周囲約8kmの小さな島である。外海地域の潜伏キリシタンがあえて移住先として選んだ病人の療養地であったことを示す墓地遺跡、移住に当たって開拓を指導した仏教徒の墓、潜伏キリシタンの指導者屋敷跡であり「信徒発見」後には祈りの場となった「仮の聖堂」跡や解禁後に建てられた教会堂跡がある。
 隣接する上五島の主要な島である中通島とは、激しい潮流が行き交う幅約150mの海峡によって隔てられている。山がちな地形をなす頭ヶ島の周囲は急しゅんな海蝕崖が連続し、北辺部にわずかな砂浜海岸が開けるのみである。そのため、頭ヶ島は近世においても漁業などで一時的に利用される程度の孤立した無人島だった。19世紀中頃の文献史料には病人の療養地であったとの記録がみられ、頭ヶ島北辺部の白浜集落の海岸における発掘調査では療養していた人々のものと考えられる墓地が発見された。
 1858年、頭ヶ島の開拓を目的に中通島の有川集落から仏教徒の前田儀太夫が移住し、島の北辺海岸の福浦集落に住居を構えた。福浦集落は頭ヶ島の中では比較的風当たりが弱く、水量は少ないながらも川が流れ、舟が着けやすいなど、島の中では比較的生活条件の良い場所であった。儀太夫は海岸近くに屋敷を構え、その背後に守り神として神社を祀り、後年には隣接して一族の墓地もつくった。
 1859年には開拓のために儀太夫が募った数家族が中通島の鯛ノ浦集落から頭ヶ島へと移住した。これらの移住者は、大村藩と五島藩との協定により外海地域から中通島へと移住した潜伏キリシタンだった。彼らは、表向きは仏教徒を装いながら先住の仏教徒との軋轢を避けてきたが、さらに安住の地である無人島の頭ヶ島を再移住先に選び、儀太夫と行動をともにしたものと考えられる。
 頭ヶ島北部の白浜海岸へと開拓範囲を拡大した潜伏キリシタンは、海岸の背後から山の中腹斜面にかけて石積み技術を駆使して耕作地を開拓し、イモ作を主体とする農業を営んだ。さらに、時間の経過とともに南海岸の田尻地区や西海岸の浜泊地区など島内の他地域にも居住範囲を広げ、新たに集落や農地を展開していった。彼らは、表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、潜伏キリシタンの指導者を中心としてひそかに自分たちの信仰を続けた。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。上五島の潜伏キリシタンの指導者たちもひそかに接触し、長く隠し続けてきた自分たちの信仰を告白するとともに、宣教師の上五島への派遣を要請した。そして宣教師の到来により、頭ヶ島の潜伏キリシタンも16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した。
 1867年には外海地域で「水方」を務めた人物を実父とし、上五島地域の潜伏キリシタンの頭目であったドミンゴ松次郎が頭ヶ島へと移住した。彼は島内の白浜に居を構えて「仮の聖堂」とした後、大浦天主堂から宣教師を迎えた。そして、信徒は1887年、「仮の聖堂」の近くに木造教会堂を建て、1914年まで使用した。それは、「頭ヶ島の集落」における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。1919年には松次郎の「仮の聖堂」が存在した近傍に10年の歳月をかけて現在の頭ヶ島天主堂が建てられた。天主堂の建設には信徒自らも加わり、建築資材には近くで産出する砂岩が用いられた。また、1905年には白浜集落の海岸際にカトリックに復帰した人々の墓地が形成され祝別された。

10-久賀島の集落
久賀島ひさかじまの集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 18世紀後半以降、外海そとめ地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、五島藩が積極的に久賀島に開拓移民を受け入れていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、漁業や農業で彼らと互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持した。
 解禁後はカトリックに復帰し、島内の各集落に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

 久賀島は五島列島の南部に位置し、北側から中央部に向かって湾入する久賀湾を中心とし、その周囲に山がちの地形が馬蹄形に取り囲む周囲約52kmの島である。潜伏キリシタンが開拓移民政策に従って開拓した水田、仏教徒と協働で行う漁網の巻き揚げ作業の場となったロクロ場跡、潜伏キリシタンの墓地、「信徒発見」後の弾圧の場、解禁後に建てられた教会堂やその跡がある。
 五島列島における本格的なキリスト教の宣教は、1566年にイエズス会宣教師アルメイダにより久賀島の南側に隣接する福江島で始まった。久賀島での宣教を直接的に示す記録はないが、北側に隣接する奈留島には17世紀初頭にすでにキリシタンがいたことを示す記録があることから、16世紀後半から17世紀初頭にかけて福江島と奈留島に挟まれた久賀島にもキリスト教が伝わった可能性が高い。
 しかし、18世紀頃には徹底した禁教政策により五島列島におけるキリシタンはいったん姿を消したものと考えられている。この頃の久賀島の状況を記した文書によると、当時の久賀島の人口は456人であり、久賀、大開、猪之木、市小木蕨などの地が記されており、これらはすべて農業に適した平地に立地する集落であった。一方、海浜には島の玄関口であった田ノ浦たのうらのほか、塩作りを行う窯百姓がいた深浦ふかうらなどの漁村集落があった。これらの集落の住民はすべて仏教徒であり、田ノ浦集落に置かれた五島藩の代官所(後に、久賀集落に移設)の管轄下にあった。
 大村藩から五島藩への農民の移住協定が成立した1797年以降、五島列島の各地に「居付」と呼ばれる開拓農民の集落が形成されたが、その多くは潜伏キリシタンの集落であった。久賀島では代官所の容認のもとに、既存の仏教集落の縁辺部である永里、内上平、外上平や、仏教集落から隔絶した場所である五輪細石流に潜伏キリシタンの移住集落が形成された。永里細石流大開浜泊五輪の各集落には禁教期から続く潜伏キリシタンの墓地が今も残っている。
 潜伏キリシタンの移住先はすべて農業に適さない土地であり、自力で開墾するには移住者の数が不足していた。そのため、潜伏キリシタンは仏教徒の水田の隣に新たな水田を開いたり、仏教徒が行う農漁業などにともなう各種の作業を協働で行ったりするなど、仏教徒である島民との間に何らかの互助関係を築きながら生活・生業を営んだ。
 このように久賀島に移住した潜伏キリシタンは、移住先の仏教集落の住民と互助関係を築く一方で、集落ごとに指導者を中心とする共同体を維持し、ひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を続けた。永里集落では潜伏キリシタンの指導者が代々継承した中国製の白磁の観音像を聖母マリア像に見立てた「マリア観音」にひそかに祈りをささげた。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。久賀島の潜伏キリシタンの指導者もひそかに接触し、信仰を告白するとともに教理の指導を受けた。そして宣教師との接触をきっかけに久賀島の潜伏キリシタンは公然と自らの信仰を表明するようになったため、1868年に五島列島一円で「五島崩れ」と呼ばれる大規模な摘発事件が起こり、狭い牢屋に多数の信徒が監禁され、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起きた。久賀島は1873年の解禁の直前に潜伏キリシタンへ弾圧が加えられた最後の現場となった。牢屋の窄事件が起きた場所には殉教者を弔うための教会堂と記念碑が建てられ、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した久賀島の信徒にとって今なお禁教期の記憶の場所となっている。
 解禁後、久賀島の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、浜脇、永里、細石流、赤仁田の各集落には教会堂が建てられた。それは、久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。なお、久賀島で初めて建てられた初代浜脇教会堂は、久賀島の東岸にある五輪集落に移築され、旧五輪教会堂として現存している。

11-奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
「奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」は、「潜伏」の終焉を可視的に示す構成資産である。
 19世紀、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、奈留島の人里離れた海に近い谷間に移住し、自分たちの信仰をひそかに続け、解禁後はカトリックに復帰して地勢に適応した江上天主堂を建てた。
 江上天主堂は、禁教期の集落との連続性を高く示し、風土に溶け込むように立地するとともに、在来の技術が用いられた教会堂の代表例である。

奈留島は五島列島の中部に位置する島で、複雑な海岸線と急斜面の山腹により形成されている。江上集落は奈留島の北西部の西海岸にわずかに開けた迫地形に立地し、江上天主堂は迫地形の南斜面に平坦地を造成して建てられた。
 17世紀初頭には奈留島にキリシタンがいたことを示す記録が残っていることから、16世紀後半から17世紀初頭の時期にキリスト教が伝わった可能性が高い。 
 1614年、全国に禁教令が出された後は、五島藩内の潜伏キリシタンにも弾圧が加えられ、18世紀頃には五島列島から姿を消したと考えられている。
 外海地域から奈留島への潜伏キリシタンの移住は、18世紀末から19世紀にかけて段階的に行われた。まず、無人島であった葛島に入り、その後に奈留島内の永這、椿原、南越などの地区へと移住した。江上には外海地域から4戸が入植したとされている。これらの移住先の多くは既存の仏教徒の集落から隔絶した小規模な沖積地に位置し、移住者は平地を稲作地として開墾するとともに、斜面地をわずかに開削して家屋を構え、集落を形成した。
 潜伏キリシタンは、移住先の迫地形の地勢に適応しながら指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した。
 1873年の解禁後、江上集落は16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰し、かつての指導者の屋敷を「仮の聖堂」として信仰の場とした。
 1918年、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられた。付近の湧水による湿気を意識して床を高く上げ、軒裏には装飾を兼ねた通風口を設けるなど、江上集落内の民家とも共通する独特の意匠や構造に特徴がある。また、この教会堂は木造下見板張りで外壁を塗装して腐食を防いでいる。身廊や側廊にそれぞれ独立した屋根を掛け、正面は切妻造とし、背面の祭壇を内蔵する張り出し部分には下屋を設けている。内部は3廊式の平面を持ち、アーケード、トリフォリウム、壁付の形態を備え、壁付アーチをともなう。天井はリブ・ヴォールト構造で天井裏の小屋組にはキングポスト・トラス構造を用いている。このことから、江上天主堂は19世紀以降の長崎天草地方において建てられた数々の木造教会堂の中でも最も整った意匠、構造を持つとされている。このように、江上天主堂は潜伏キリシタンが移住先として選んだ江上固有の迫地形や、禁教期にまでさかのぼる在来の建築意匠、工法の双方に基づく風土的特徴と、信徒がカトリック教会堂として求めた西洋的特徴とが融合している点において、長崎と天草地方に建てられた教会堂の中でも「潜伏」に転機が訪れ、終わりを迎えたことを最も端的にあらわす教会堂である。

12-大浦天主堂
 「大浦天主堂」は、「潜伏」が何をきっかけとして終わったのかを示す構成資産である。 日本の開国により来日した宣教師と潜伏キリシタンは、2世紀ぶりに大浦天主堂で出会った(「信徒発見」)。
 その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触によって転機が訪れ、カトリックへ復帰する者や、引き続き禁教期の信仰を実践する者、神道や仏教に改宗する者に分かれ、「潜伏」は終わりを迎えることになった。

 「大浦天主堂」は、長崎地方の南部、長崎港に面した高台にあり、歴代神父が居住した司教館、当初居留地の外国人のために建てられた大浦天主堂、解禁後の宣教のために建てられた神学校、および伝道師学校の一群の建築物からなる。
 この地はかつての大浦の外国人居留地内であり、開国にともなって1862年にパリ外国宣教会のフューレ神父が長崎における宣教拠点と定めた場所である。
 境内地には、まず1863年に神父が居住する司教館が建てられ、続いて1864年に大浦天主堂が建設された。3つの塔のあるゴシック風の外観で、正面上部には仏教寺院の扁額にみられるような「天主堂」の文字が記され、内部は3廊式の構造であった。天主堂は、16世紀に長崎で殉教し1862年に列聖された日本二十六聖人にささげられ、彼らの殉教地である西坂の方角に向けて建てられた。
 1865年の落成式の直後に長崎の浦上村の潜伏キリシタン10数人が大浦天主堂を訪れ、その中のひとりがプティジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」(ここにいる私たちはみな、あなた様と同じ心です)と自分たちの信仰を告白した。いわゆる「信徒発見」と呼ばれるこの歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、彼らの指導者は相次いで大浦天主堂を訪れ、宣教師との接触を開始した。
 宣教師との接触は、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらした。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになった。そのため、1867年に江戸幕府は浦上の潜伏キリシタンを捕え、禁教政策を引き継いだ明治政府も3,000人以上もの潜伏キリシタンを国内の20藩に配流するとともに信仰を捨てるよう拷問した。これが「浦上四番崩れ」である。五島においても信仰を表明した潜伏キリシタンを捕らえた「五島崩れ」、久賀島では約200人の潜伏キリシタンをわずか6坪の牢屋に投獄し、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起きた。これらの弾圧に対して大浦天主堂の宣教師は在日領事に働きかけて事態の収拾に努めた。1873年、諸外国による抗議を背景として明治政府がついに禁教の高札を撤廃したため、日本におけるキリスト教徒への弾圧政策は終わった。
 キリスト教の解禁によって各地の潜伏キリシタンは宣教師の指導下に入って16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへ復帰する者、「かくれキリシタン」のように宣教師の指導下に入らずに引き続き禁教期の信仰形態を続ける者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれた。
 大浦天主堂の宣教師は、潜伏キリシタンが16世紀以来の信仰とともに継承してきたラテン語やポルトガル語由来の「キリシタン用語」をはじめ、潜伏キリシタンが伝写してきた教理書などを重視し、カトリックに復帰した信徒への手厚い指導を行った。また、新たにキリスト教宣教のための彩色版画なども製作した。その一方で、潜伏キリシタンが独自に信仰を続けてきた方法に対してはカトリックとしての修正を図っていった。
 大浦天主堂では、解禁後に増加する信徒に対応するために増築が行われ、1879年に現在のかたちとなった。境内には日本人の司祭や伝道師の育成の場としてそれぞれ羅典神学校、伝道師学校が建てられた。羅典神学校は1875年に創設され、1879年に初の卒業生を送り出した。卒業生は日本人司祭として各地へと派遣された。伝道師学校は、宣教師が各地の潜伏キリシタン集落を広く巡回することが困難であったため、宣教師に代わって教理を伝える伝道師を養成するために1883年頃に創設されたものである。1892年までの間に多くの日本人伝道師を輩出し、教理指導のために各地へ派遣された。羅典神学校や伝道師学校は、転機を迎えた潜伏キリシタンのカトリックへの復帰を促す原動力となった。








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