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地下鉄サリン事件
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地下鉄サリン事件は、1995年平成7年)3月20日東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件。日本国外では「:Tokyo Attack」と呼ばれることがある。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。
  宗教団体オウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)で営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロリズムであったため、世界的に大きな衝撃を与えた。毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件松本サリン事件と並んで『オウム3大事件と表現されている。

事件当日
  1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガス・サリンが散布され、乗客や駅員ら14人死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
  営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった.
  1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫井上嘉浩が乗客数及び官公庁の通勤のピークが8時10分頃であると考えたためである。各実行犯は500-600gの溶液(内サリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせたを使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線ではラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。
  この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実遠藤誠一中川智正が生成したものが使われた。
オウムの関与判明後
事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
  リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
  東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員と、送迎役のうち新実智光死刑を言い渡し、東京高等裁判所控訴審ではさらに第一審では死刑求刑に対し無期懲役だった井上嘉浩に死刑判決が言い渡された。実行役3人及び新実・井上両名の計5人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2010年1月19日に新実の上告棄却されたことをもって確定した。
  2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。
  2018年(平成30年)7月に、事件に関与した死刑囚たちの死刑が執行された。
  当事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律が制定される運びとなった。
計画
迫る強制捜査と生物兵器テロ未遂麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようと様々な兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実中川智正らがこれを製造。池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件といった事件を引き起こし、松本サリン事件では遂に死者が発生した。
  またその頃、サリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行していたが、1994年7月などに異臭騒ぎを起こし周辺の土壌を汚染していたため、1995年1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。
  麻原は同1月17日阪神・淡路大震災により警察の強制捜査は一旦遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。オウム内部では、1994年11月頃から東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた。
  このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫東急ハンズで買ってきた液体噴霧器「六法煙書」を用いて、遠藤誠一が研究していたボツリヌストキシンの効果実験を行うよう指示。事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅井上嘉浩山形明高橋克也が六法煙書を仕込んだ改造アタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した
  井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいで菌が死滅したとの自説を唱えた。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている。なお、ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。
リムジン謀議
事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ。」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな。」と強制捜査を話題に出していた。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫遠藤誠一井上嘉浩青山吉伸石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)
  麻原は「今年の1月に関西大震災(阪神・淡路大震災があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した
  総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男広瀬健一横山真人豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。
  また井上が島田裕巳宅爆弾事件東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた
  謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、他に遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば…」の発言があったことを証言している
犯行
3月20日午前0時頃 -
 井上嘉浩、サリン到着が遅いため井上が独断で東京から上九に向け出発し連絡不能に。上九で麻原に怒られる
午前2時頃 - 麻原は実行役に渋谷アジトから上九への帰還を指示。また、サリン袋に触れ修法(エネルギーを吹き込む儀式)を行う。先に井上が上九に到着するが、独断での出発を叱責される
午前2時30分頃 - 井上がコンビニからビニール傘7本を購入。滝澤和義グラインダーで傘先を削る
午前3時頃 - 実行役5人と運転手杉本繁郎外崎清隆、第7サティアンに到着。村井秀夫にサリンを撒く方法を教わり水で練習、その後サリン袋を受け取る
午前5時頃 - 実行役5人と杉本繁郎外崎清隆、渋谷アジトに再移動
千代田線(我孫子発代々木上原行)
千代田線の我孫子代々木上原行き(列車番号A725K、JR東日本常磐線から直通)は、散布役を林郁夫、送迎役を新実智光が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区(現・松戸車両センター)所属の203系マト67編成(クハ202-107以下10連)であった。
  マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅北千住駅で時間を潰した後、先頭1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分頃、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車はそのまま走行し、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々に被害者が発生し、霞ケ関駅で通報で駅員が駆け付け、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが更に被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。
丸ノ内線(池袋発荻窪行)
丸ノ内線の池袋荻窪行きは、散布役を広瀬健一、送迎役を北村浩一が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成であった。
広瀬は2号車 (02-216) に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時サリンを散布した。中野坂上駅で乗客から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、サリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客が乗り込みそのまま折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では1人が死亡し、358人が重症を負っている(2020年、後遺症により更に1人死亡した)。
丸ノ内線(荻窪発池袋行)
丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を横山真人、送迎役を外崎清隆が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成(02-150以下6連)であった。
  横山は5号車 (02-550) に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、どういうわけかこの時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップ掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として池袋駅に戻った。列車は新宿駅に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車は唯一死者が出なかった。
日比谷線(中目黒発東武動物公園行)
日比谷線の中目黒東武動物公園行き(列車番号B711T、北千住駅から東武伊勢崎線へ直通)は、散布役を豊田亨、送迎役を高橋克也が担当した。当該編成は東武春日部検修区所属の20000系第11編成(21811以下8連)であった。
  豊田は先頭車両 (28811) に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、恵比寿駅進入時サリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気付いた乗客が窓を開けたが複数の乗客が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出たため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は霞ケ関駅まで走行したのち、運行を取り止めた。この電車では1人が死亡し、532人が重症を負っている(後に、事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、サリン中毒死と認定された)。サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていた。また当時共同通信社社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した。
日比谷線(北千住発中目黒行)
日比谷線の北千住中目黒行き(列車番号A720S)は、散布役を林泰男、送迎役を杉本繁郎が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成(03-110以下8連)であった。
  他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。彼は北千住7時43分発中目黒行きの3号車 (03-310)上野駅から乗車した。そして、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。この状況下で一般乗客のとっさの判断を責められるものではないが、後にサリンによる被害が拡大することになってしまった。

  サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(この時の救出時の光景がテレビで中継された)。列車は直ちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という憶測が続いた。
  小伝馬町駅ではサリンのパックが出されたことで、A720Sの後続列車である、八丁堀・茅場町・人形町・小伝馬町で運転を見合わせた4つの列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、小伝馬町駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させた後に小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅では5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、当駅では4人が死亡した。
  これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。
事件後
  事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は、「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる。」「これはポアだからな、分かるな。」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね。』のマントラを1万回唱えなさい」と命じおはぎオレンジジュースを渡した
緊急処置
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認が遅かったため、運行が継続された。
  9時27分、営団地下鉄のすべての路線で全列車の運転見合わせを決定した(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。
  被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。

  大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになり、丸ノ内線・千代田線については被災車両を車庫や引込み線に退去させたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)して運転を再開したが、サリンが散布されたことが判明して自衛隊による除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した(このとき、霞ケ関駅の引込み線にあった千代田線の被災車両(203系マト67)も松戸電車区(現松戸車両センター)まで回送されている)。除染作業終了後はほぼ所定どおりのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
  上記3路線以外の路線は確認を終えた路線から順次運転を再開させたが、全駅、全列車に警察官警備員などが配置される異例の事態となった。
  事件直後、この5編成以外の編成で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化したりしたサリンは他の駅や路線にも微細に拡散していった。
  地下鉄サリン事件で使用された液体は純度が低く混合液で、その内サリンは35%程度であることが判明している。このためヘキサンなどに由来する異臭が発生した。なお純度の高いものは無色無臭で、皮膚からも体内に浸透する。これに関して、麻原は1日程度で終わるサリン分留について「ジーヴァカ(遠藤)、いいよ、それで。それ以上やらなくていいから。」と遠藤誠一に言っており、純度よりも攻撃を最優先させたのではないかとされている。
救助活動
東京消防庁化学機動中隊特別救助隊救急隊など多数の部隊を出動させ被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し被害者の救助活動・救命活動を展開した。
  警視庁では東京消防庁との連携の下、機動隊を出動させ被害者の救助活動と後方の警戒にあたった。
  当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンによる毒ガス散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に飛び込み被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が、原因物質の特定に当たったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらに、この分析結果は、「化学物質が原因の災害である」ことを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで、時間を要した。
警視庁
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多いがしかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多い。
  警察庁では午前9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監をトップに対策本部を設置。警視総監が事件の指揮を行った。対策本部には警視庁刑事部長警視庁警備部長警視庁公安部長も招集された。
  通常の捜査は過去の出来事を調べるものだが、オウム真理教事件では目前で新たな事件が次々に起こっており、新たなテロを食い止める必要があったためにあらゆる法律を駆使したぎりぎりの判断を迫られるものであった。ゴールデンウィークが迫る頃には政府から警察に対し安全確保の要請が来た。東京ドーム新幹線でサリンを撒かれると大きな被害を出すという理由であった。
  救出活動と並行しつつ、警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し現場検証を開始した。
  警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官が検査するとその毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明。この情報は、午前11時の警視庁捜査第一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達され、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。
東京消防庁・病院
東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」の通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。
  この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動した他、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では、救急車が来ない・救急車が来ても搬送が遅いという状況が見られた。
  緊急に大量の被害者の受け入れは通常の病院施設では対応困難なものであるが、大きな被害の出た築地駅至近の聖路加国際病院は当時の院長日野原重明の方針[注 27]から大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと無制限の被害者の受け入れを実施、被害者治療の拠点となった。又、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療は直ちに中止。その後、警察から検証の為にとの理由で、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収された。虎の門病院も、数名の重症被害者をICU(集中治療室)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。

  有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル (PAM) は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく、被害がサリンによるものだと判明すると同時に都内でのストック分が使い果たされてしまった。
  聖路加国際病院から「大量のプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)が必要」と連絡を受けた、名古屋市東区に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線にある各営業所および病院・診療所にストックしてあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送する為に、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松静岡新横浜の各駅のホームで、乗っている社員に直接在庫のPAMを受け渡して輸送する緊急措置を取った。陸上自衛隊衛生補給処からもPAM 2,800セットが送られた。またPAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し羽田からはパトカー先導にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で、有機リン薬剤を作っている責任上解毒剤も用意しておくのは同社の責任だとして毎年製造を続けていた。]

  有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には、2時間で2本が標準とされる。
  当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫テレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療の助けとなった。一方で、「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報で駆けつけた警察官や消防官の多くは、サリンに対してはまったくの無防備のまま、地下鉄駅構内に飛び込み、救急救命活動に当たったため、多数の負傷者を出した。
  この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。
自衛隊
陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。事件後地下鉄内に残されたサリンの除去に、創設後初めて陸上自衛隊大宮化学学校教官と、化学防護小隊が当たった。事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、第101化学防護隊、及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣された。
  そのうち第1師団において、午後12時50分鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長、杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ヶ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。 これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3形(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。 午後1時30分、霞ヶ関駅に到着、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)そして除染作業(化学兵器で汚染されたものを無害化することを「除染」という)を行なった。
  以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をした後、事件発生の霞ヶ関駅構内、駅長室までも、付着した有毒物質「サリン」を中和させる塩素酸ナトリウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。
  地下鉄サリン事件で、都知事からの要請があり、一番早く事件現場に駆けつけたのが練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。
  他に事件現場の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った。
  また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から医官21名及び看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った
  医官は直前に行われていた幹部研修において化学兵器対応の講習を受けていた。聖路加病院へ駆けつけた医官は現場派遣時に講習資料を持ち出し、講習で得た知識・資料と患者の様子から化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言し、早期治療の要因ともなった。
  なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊に対し非常呼集対応を行なったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊の配属のみが実施されている。
報道関係
  在京キー局の中で、現場映像と同時に事件速報がもっとも早かったのが、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。
  新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。
  事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(国松長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原教祖逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めて全く察知していなかったアメリカ合衆国CNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と間違って報じた。
被害者
事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。
  目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる。そのほか、被害者はに罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で亡くなる被害者も少なくない。
  また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、未だに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。
  裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には訴因変更により14人に絞っている。
  作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。
  ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。
  その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。
  2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。
死者
  事件当日はそのまま埼玉県に墓参りに出かけ、食事も普通に摂った。翌日、銭湯で倒れ、心筋梗塞で死亡。丸一日普通に行動できたことから、サリン吸引と死亡の因果関係が証明できないとして、起訴状では殺人未遂罪の被害者とされ、訴因変更後は未遂被害者からも除外されていた。しかし、2008年12月施行のオウム被害者救済法ではサリン吸引が浴室での事故の原因と判断され、13人目の死者として認定された。2010年3月6日には被害者の会が救済金を支給していると公表した。
捜査
家宅捜索
教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25箇所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコール三塩化リンなどの薬品が発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンをまいた実行犯も特定できず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。
  強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、
  サリンの原料は農薬をつくるためであり第7サティアンも農薬プラント
  その他の劇物も兵器用ではない、劇物の保有量が多いのは不売運動に遭っているのでなるべく大量購入しているだけ
  オウムは米軍機などから毒ガス攻撃を受けており、上九一色村で発見されたサリン残留物は彼らが撒いたもの
  オウムがやったなら東京にも信者がいるので巻き添えになる
  小沢一郎森喜朗創価学会の陰謀
  といった主張を唱えた。
実態解明
  事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった林郁夫放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁警部補に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。この頃にはすでに新宿駅青酸ガス事件東京都庁小包爆弾事件などが相次いでいた
  4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。
関係容疑者の逮捕
  菊地直子も製造補助の被疑者として逮捕されたが、証拠不十分のため本事件については不起訴となった。また、リムジン謀議の同席者青山吉伸石川公一や、傘を研磨した滝澤和義はこの件で起訴されていない。
余波
  地下鉄サリン事件は国内史上最悪のテロ事件であった。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。
オウム真理教
  一連のオウム真理教事件によりオウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕により脱退者が相次ぎ(地下鉄サリン事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下になった)、オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、現在はアレフに改組し活動を続けている。アレフ2代目代表で、現ひかりの輪代表の上祐史浩は、地下鉄サリン事件が起きた際、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。日本の公安審査委員会破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、オウム新法(団体規制法)が制定され、アメリカ国務省は現在もアレフをテロリストグループに指定している。
  地方自治体賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を使うこととなった。
被害者の後遺症・PTSD
  事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など、比較的軽度のものから、PTSDなどの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在の所被害者への公的支援はほとんど無い。
不審物への対応
  この事件後、全国の多くのごみ箱が撤去され、営団地下鉄はこれ以降全車両のドアに「お願い 駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた(その後、東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出、同時期に都営地下鉄にも拡大)。同様のステッカーやアナウンスなどが他の鉄道事業者に波及するようになるのはアメリカ同時多発テロ事件以降である。その後、各鉄道事業者で外観から中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月より設置されている


オウム真理教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


オウム真理教(AUM Shinrikyo)は、かつて存在した日本の(新興)宗教団体。1988年から1995年にかけて、オウム真理教事件を引き起こし、1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。
  破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪山田らの集団ケロヨンクラブが分派した。

概説
地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新興宗教団体である。教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、「ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができる」、などと謳って若者を中心とする信者を多く獲得した。教義的にはヒンドゥー教仏教といった諸宗教に合わせ、1999年に世界に終末が訪れるとするノストラダムスの予言など、オカルトもミックスしていた。麻原自身は釈迦の教えを忠実に復元したとしていたものの、実際のところ麻原にとって都合の良いものとなっていた。
  当初はヨーガを学ぶ和気藹々としたサークルに過ぎなかったが、次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産をお布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者のうち、判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。
  「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法行政警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こしたほか、自動小銃化学兵器生物兵器麻薬爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた。
  第39回衆議院議員総選挙での真理党の惨敗もあり、最終的には、麻原に帰依しない部外者を「ポア」により「救済」するとして、国家転覆計画すらも実行するようになった。その到達点と言える1995年3月20日の地下鉄サリン事件は、宗教団体が平時の大都市を狙い複数箇所を強力な化学兵器同時多発テロを起こすという過去に類のない事件であり、比較的治安の良い戦後日本で起きたことも含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた(海外ではTokyo Attack等と称された)。
法人格の喪失後
  1996年平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「オウム真理教」としては消滅した(2009年に破産手続きが終了した)。同時に、新たな宗教団体アレフ」が設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークルひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派(自称ではない)が結成された。また、既に目立った活動はなく崩壊したと見られているが、北澤優子により「ケロヨンクラブ」なる組織が分派して結成されていた時期もある。
  2018年には麻原をはじめとした幹部達の死刑が執行されたが、Alephを中心に未だに麻原信仰は根強く、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしている。2019年現在も日本の公安調査庁団体規制法により後継団体の動向を監視している。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタンアスタナ市裁判所、ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受け、各国で活動を禁止されている。
  麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患発達障害パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという。
名称
  「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
  また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦イエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である。
  しかし、実は命名には京都の私立探偵目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機オームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
  時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。
沿革
前史
ヨーガ教室
  1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった
  この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。
麻原と家庭
  当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事野菜中心での代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。
  当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。
  麻原は子供に向かって「に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた
合法な宗教活動
オウム神仙の会からオウム真理教へ
  1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。
  「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、ワークも増え、会員の三分の一が脱会した。
  1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。
  同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった。
ダライ・ラマを利用した宣伝
  麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世インドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタを持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
  ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝材料として利用していたが、事件後に行われたマスコミの取材に対して、オウム真理教から接触があった高僧や修行者は軒並み深い関係を否定している。
  1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している。
麻原の健康不安と死への願望
  1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原のへの願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、通常通りの方法では人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。
宗教法人の認可申請
  宗教法人に適用される不課税、税額控除目的に1989年3月1日、東京都に認可申請を行った。しかし、未成年の信者を巡って家族及び被害者の会からの批判によって認証手続きが遅れる。4月24日には麻原が信者200人を引き連れ東京都庁に押しかけ、抗議するという騒動を引き起こした。この認証手続きには被害者の会の家族から依頼を受けた北川石松衆院議員の圧力に対し、教団側は『元弁護士で裁判官だった出家信者』及び『沖縄の参院議員』を利用し、認証手続きを推し進めようとしたことが麻原の第43回公判で明らかになっている。しかし結局、不認可する理由がないことから8月25日、宗教法人認可を受けた。
衆議院議員総選挙への出馬
  1989年参院選マドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てたが、その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人 が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩岐部哲也であった
  しかし結果は惨敗し、当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される
海外への進出
  麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[27]1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。
  1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インドブッダガヤ大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシア東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学京都大学千葉大学横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコン製造販売を行うようになった。
オウム真理教放送の開始
  ロシアでは、1992年4月1日オウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語ロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシア語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される
  一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった。

  番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などのほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子も放送された。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた。
  1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、あるいは頭となり、救済計画の手伝いをしてくれることを待っている さあ、一緒に救済計画を行なおう そして、悔いのない死を迎えようではないか」と呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった。
非合法活動
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件逮捕(拉致)現場
住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。
暴走の起源
  1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。
坂本弁護士事件と衆議院選の裏側
  翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。
  そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビ報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。
  結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票 であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌ホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
無差別テロ計画
 麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならない などと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。
   1990年4月、「オースチン彗星が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した。
  セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった。
  参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。
波野村の攻防
  1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった
  そして1990年10月22日、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件強制捜査を受け、早川紀代秀満生均史青山吉伸石井久子大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、強制捜査も1週間延期されていたものだったので、武装化設備を隠蔽することができた。
  後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。
武装化の中断、妄想・幻聴の出現
  国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。
  だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。
教団の再武装化(「麻原彰晃#マハーヤーナとヴァジラヤーナ」も参照)
  1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。
  この中で土谷正実中川智正滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。
  また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。
  この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった中川智正によると、この被害妄想1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという
洗脳の強化
  過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件男性現役信者リンチ殺人事件逆さ吊り死亡事件などが発生した。
  1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。
  また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。
  洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。
  麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠出産に至る女性も数多く現れた。
省庁制発足と松本サリン事件
  1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。
  3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。
  同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
  1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った。
  「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件宮崎県資産家拉致事件鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。
  さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件会社員VX殺害事件オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
  松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日読売新聞上九一色村サティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。
  だが麻原は1995年1月17日阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見されたこともあり、毒ガスによる抵抗を想定して、陸上自衛隊から戦闘用防護衣450着と化学防護衣50着を借用するとともに、3月19日には警視庁機動隊員300名と捜査一課捜査員20名が朝霞駐屯地に派遣され、防護服の装着訓練を受けていた。
地下鉄サリン事件と強制捜査
  しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。
  ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。
  いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。
  強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。
  強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。
  1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
麻原逮捕後の活動
長老部体制
  東京地検麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名
  教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告が、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され、宗教法人法上の解散が確定した。
  1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。
  破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[69]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。
  この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に 公式サイト を開設 (1999年、休眠宣言により事実上閉鎖。初期版/中期版/後期版)。麻原が毒ガス攻撃を受けていた、坂本弁護士一家殺害事件は弁護士事務所の者が怪しい、だんご三兄弟ヒットはフリーメイソンの陰謀などと主張したり、麻原や上祐が出てくる探索ゲーム「サティアン・アドベンチャー」、オウム×新世紀エヴァンゲリオンの二次創作があったりとやりたい放題の内容であった。さらに一部の熱心な信者は一般人を装って、ネット上にオウム事件陰謀説を流布していた。
休眠宣言
  教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。
  予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「オウム真理教休眠宣言」、12月1日は「正式見解」を発表し事件を形式的に認めた。
後継教団
アレフ系
Aleph
  2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した
ひかりの輪
  2007年(平成19年)5月にはアーレフから上祐派の信者たちが脱会、新団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は麻原の教えからの脱却を志向していると主張し、またオウム被害者支援機構との協定により被害者への賠償金支払いを行っている。なお公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版では、その活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている
山田らの集
  2014年(平成26年)から2015年(平成27年)頃、Aleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された。「山田らの集団」は公安調査庁の定めた便宜上の呼称であり、正式な団体名は不明。
その他
ケロヨンクラブ
  「ケロヨンクラブ」は1995年(平成7年)のオウム事件後に結成された分派。代表の北澤優子が信者の死亡事件で有罪判決を受けた。
偽装脱会者
  麻原の4女によると、偽装脱会者が「第二オウム」として陰謀論占いスピリチュアル、IT、福祉などを通じ陰の布教を図っているという
教義
教義の概要
  オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教インド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている
  そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教創造主としての梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。オウムでは、世界の宗教の起源は古代エジプトにあり、アブラハムの宗教もインド系宗教もエジプトから始まったとし、万教同根シンクレティズム的な宗教観を持つ。
  従って、オウム真理教に於いては儒教道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。
  具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする。

  また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹や宗教学者の大田俊寛は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している。たとえばオウムで用いられた「アストラル」「コーザル」は神智学の用語である。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定かではない。
  麻原自身は逮捕後、こう語っている。

オウム真理教が三乗の教えについて、例えばパーリ三蔵をパーリ語から翻訳しなければならないと考え、それに対して労力、人材、時間を使っている理由は、まずその根本であります上座部仏教、北伝では小乗仏教といわれていますが、この上座部仏教を検討しない限り仏教は語れないと考えているからでございます。
(省略)
では、なぜ原始ヨーガという言葉が入ってくるかということについて説明をしなければなりません。もともとヨーガと仏教の関係は、10世紀前後あたりから非常に密接な関係が生じました。そして例えばヘーヴァジラ・タントラなどの場合、これは仏教徒も修行しますし、あるいは非仏教徒であるヨーガ修行者も修行するという形をとり、結局その原典の完全な復元をなすためには、ヨーガ、仏教を問わず、あらゆるインドに伝わった教えを検討し、そしてそれから原典を復元する以外にないということがあるわけです。
(省略)
そして、それらの教団、それらの経の完全な復元こそが、私は、この日本人に大きな最高の恩恵を与えるものと確信し、今までやってきました。
したがって、このオウム真理教の教義そのものが麻原独特の教えであると公安調査庁が断定するとするならば、公安調査庁の言っている本当の仏教とは何か。それをここで明示すべきでございます。(— 麻原、破防法弁明において)
教義の柱
1995年当時のオウム
オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。
  最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
  無常に基づく正しい教義
  その教義を実体験できる修行法
  その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
  修行を進めるためのイニシエーションの存在
無常
  オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。
  「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。
  逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
シヴァ
  オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。
輪廻転生
  教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光朱元璋など多くの前世を持つと称していた。中でも意識堕落天の宗教上のは直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている。(詳細は「麻原彰晃#前世」を参照)
  輪廻転生と関連してカルマの法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった
エネルギー
  オウムでは霊的エネルギー()を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった。(「エネルギー (オカルト)」も参照)
ポア
  ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際の生死とは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。
  したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。
  オウムは人々の救済を説く一方、「ユダヤフリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々、三悪趣に落ちる人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思考に陥っていたとされる。
ハルマゲドン
  麻原は転輪王経ヨハネの黙示録ノストラダムス酒井勝軍出口王仁三郎らの予言、占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンを引き起こすことも救済であると問いていた。
  麻原によるとハルマゲドンの原因は、フリーメイソン物質主義派とユダヤ勢力が物質崇拝やオウム迫害を広めてカルマが溜まっていることと、キリストと人類の進化を求めるフリーメーソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、大戦は中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。この他、ナチス残党の第四帝国も参戦する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器プラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、アニメ漫画的ともいえるストーリーであった。オカルト本などが元ネタのひとつだった。また、ニューエイジ的な「アセンション」による精神革命論の影響も指摘される。
  とはいえ麻原はソ連崩壊を予言できず(当初は1995年にソ連があることになっていた)1999年を迎える前から破綻していた。麻原は逮捕後の1996年破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した。
疑似科学
  麻原は宗教の教えと科学の理論をごちゃ混ぜにして話すことを得意とし、空中浮揚からビッグバンに至るまで疑似科学理論で説明していた。最先端の科学でも難しい「ビッグバン直後の世界」などのことでも、適当に誤魔化して説明できてしまうことから、多くの理系信者が惹きつけられた
信者
  教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。
  このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。黒信徒の入会金は信者の家族や知人が代わりに払っていたので一応信徒としてカウントし水増ししていた
  オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった。
  修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期によるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた(詳細は「オウム真理教の階級」を参照)。
  オウム真理教幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫土谷正実遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸公認会計士資格を持つ柴田俊郎、上田竜也、医師免許を持つ林郁夫中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。
  他にも山形明丸山美智麿など自衛隊員、建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチーム鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。
  以下に示すのはオウム真理教の雑誌ヴァジラヤーナ・サッチャが1995年6月28日(強制捜査・オウム事件発覚後)に行った出家修行者対象のアンケートデータである
国外での活動
  1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシア(当時はソビエト連邦)を初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイロシア連邦首相ヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
  モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。
  このためオウム事件後、実はオウムはロシア北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している。
  また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」「(事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している。2018年5月1日、ロシアのオウム真理教の中心人物とされるミハイル・ウスチャンツェフが逮捕された。
事業
  オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設不動産出版印刷、食品販売、飲食業、さらに家庭教師派遣土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク」「PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した
  様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった


五行思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説である。
  また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。
  西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。(木火土金水)
起源
  「五行」という語が経典に現れたのは、『書経』の”甘誓”、”洪範”の章であった。甘誓篇の「五行」は五つの星の運行を示すものとする説もあり、五元素を指しているかは不明である。一方、洪範篇の方は水・火・木・金・土であると明言され、「五行」を五元素として見ている。そのため、今現在の意味としての「五行」は洪範篇が最古であるとされている。また、洪範篇では「五行」と五味を関連付けて解釈している。 五行思想は、戦国時代陰陽家騶衍紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が創始した。陰陽説は五行説と無関係に古くから存在したのに対し、五行説は陰陽説よりも後から出来たので、当初から陰陽説と一体であり、陰陽五行説といわれる。 元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだったともいう。 「五」は四方に中央を加えたものであるとされる。それを明確に示したものとして『河図』と『洛書』がある。どちらも中央に「五」が置かれた構造ではあるが、『洛書』の場合は九星図を構成した図となっている。その後も『左伝』に五教・五節(音楽)・五味・五色・五声が、『国語』に五味・五色・五声・五材・五官などの言葉が見られる。
五行
  自然現象の四季変化を観察し抽象化された、自然現象、政治体制、占い、医療など様々な分野の背景となる性質、周期、相互作用などを説明する5つの概念である。単に5種の基本要素というだけでなく、変化の中における5種の、状態、運動、過程という捉え方もされる。
木(木行)・・・木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)・・・光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)・・・植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)・・・土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)・・・泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
  四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
  五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の「生成」とその「順序」が確立した。

・太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、
・次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
・さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、
・残った陰気が西に移動して金行を生じた。
・そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
  というのが五行の生成順序である。そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
  なお木行が風から生まれたとされる部分には四大説の影響が見られる。
五行の関係
  五行の互いの関係には、「相生」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」という性質が付与されている。
相生(そうしょう)・・・順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
 木生火(もくしょうか)・・・木は燃えて火を生む。
 火生土(かしょうど)・・・物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還る。
 土生金(どしょうきん)・・・鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ることによってその金属を得ることができる。
 金生水(きんしょうすい)・・・金属の表面には凝結により水が生じる。
 水生木(すいしょうもく)・・・木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。
相剋(そうこく)・・・相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
木剋土(もっこくど)・・・木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
土剋水(どこくすい)・・・土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。
水剋火(すいこくか)・・・水は火を消し止める。
火剋金(かこくきん)・・・火は金属を熔かす。
金剋木(きんこくもく)・・・金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
  元々は「相勝」だったが、「相生」と音が重なってしまうため、「相克」・「相剋」となった。「克」には戦って勝つという意味がある。「剋」は「克」にある戦いの意味を強調するために刃物である「刂」を「克」に付加した文字である。同様に克に武器を意味する「寸」を加えたを使うこともある。
比和(ひわ)-同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
相侮(そうぶ)-逆相剋。侮とは侮る、相剋の反対で、反剋する関係にある。
木侮金-木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る
金侮火-金が強すぎると、火の克制を受け付けず、逆に金が火を侮る
火侮水-火が強すぎると、水の克制を受け付けず、逆に火が水を侮る
水侮土-水が強すぎると、土の克制を受け付けず、逆に水が土を侮る
土侮木-土が強すぎると、木の克制を受け付けず、逆に土が木を侮る
火虚金侮-火自身が弱いため、金を克制することができず、逆に金が火を侮る
水虚火侮-水自身が弱いため、火を克制することができず、逆に火が水を侮る
土虚水侮-土自身が弱いため、水を克制することができず、逆に水が土を侮る
木虚土侮-木自身が弱いため、土を克制することができず、逆に土が木を侮る
金虚木侮-金自身が弱いため、木を克制することができず、逆に木が金を侮る

相乗(そうじょう)-乗とは陵辱する、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。
木乗土-木が強すぎて、土を克し過ぎ、土の形成が不足する。
土乗水-土が強すぎて、水を克し過ぎ、水を過剰に吸収する。
水乗火-水が強すぎて、火を克し過ぎ、火を完全に消火する。
火乗金-火が強すぎて、金を克し過ぎ、金を完全に熔解する。
金乗木-金が強すぎて、木を克し過ぎ、木を完全に伐採する。
土虚木乗-土自身が弱いため、木剋土の力が相対的に強まって、土がさらに弱められること。
水虚土乗-水自身が弱いため、土剋水の力が相対的に強まって、水がさらに弱められること。
火虚水乗-火自身が弱いため、水剋火の力が相対的に強まって、火がさらに弱められること。
金虚火乗-金自身が弱いため、火剋金の力が相対的に強まって、金がさらに弱められること。
木虚金乗-木自身が弱いため、金剋木の力が相対的に強まって、木がさらに弱められること。
相剋と相生 ・・・相剋の中にも相生があると言える。例えば、土は木の根が張ることでその流出を防ぐことができる。水は土に流れを抑えられることで、谷や川の形を保つことができる。金は火に熔かされることで、刀や鋸などの金属製品となり、木は刃物によって切られることで様々な木工製品に加工される。火は水によって消されることで、一切を燃やし尽くさずにすむ。
  逆に、相生の中にも相剋がある。木が燃え続ければ火はやがて衰え、水が溢れ続ければ木は腐ってしまい、金に水が凝結しすぎると金が錆び、土から鉱石を採りすぎると土がその分減り、物が燃えた時に出る灰が溜まり過ぎると土の処理能力が追いつかなくなる。
  森羅万象の象徴である五気の間には、相生・相剋の2つの面があって初めて穏当な循環が得られ、五行の循環によって宇宙の永遠性が保証される。
  相生相剋には主体客体の別があるため、自らが他を生み出すことを「洩」、自らが他から生じることを「生」、自らが他を剋することを「分」、自らが他から剋されることを「剋」と細かく区別することがある。
中国の王朝と五行相生・相剋
  中国の戦国時代末期の書物『呂氏春秋』は五行の相剋の説を使って王朝の継承を解釈した。それぞれ王朝には五行のうちの一つの元素に対応した「」が充てられた。そして、その王朝の正色もそれに対応して、元素としてその「徳」の色になった。例えば、殷王朝の徳は金徳で、その正色は白だった。前の王朝が衰え、新しい王朝が成立した時、新しい王朝の徳が前の王朝の徳に勝ったことにより、前の王朝から中国の正統性を受け継いだ。例えば、周王朝の火徳は殷王朝の金徳に勝ったとされた。これは鄒衍の五徳説から発展した思想である。五徳説は、周の世を基準として黄帝の世までを五行で解釈したものである。色を配したのは管子幼官篇からだとされる。また、この五徳に準じて王朝ごとに歳首を変更していた。例えば、殷王朝夏王朝の12月を、周王朝夏王朝の11月を正月とした。 後漢王朝以降、中国の王朝は五行の相克の代わりに相生の説を使って王朝の継承を解釈した。例えば、隋朝の火徳は唐朝の土徳を生み出したとされた。
時令と五行
  四季に中央の「土」を加えた五季時令は、『管子』幼官篇、四時篇、五行篇の他、『呂氏春秋』十二紀、『礼記』月令などがあげられる。四時篇から十干の配当がなされ、「土」が夏と秋の間に置かれるようになった。また、五行篇では各季節を七十二日間としている。五季時令は『淮南子』天文訓、『史記』天官書、『漢書』律暦志に受け継がれ、発展していく。
日本神話における五行
  日本では中世以来、記紀の伝える神話を五行説で解釈しようとする動きがあり、それら諸説の中でも比較的有名なのは『神皇正統記』の説で、水徳の神が国狭槌尊、火徳の神が豊斟渟尊、木徳の神が泥土瓊尊沙土瓊尊、金徳の神が大戸之道尊大苫辺尊、土徳の神が面足尊惶根尊だとしている。水戸学などの儒学者の間で議論された。








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