日本の首相-管・安部・小泉-
(wikipedia)(2)
清和政策研究会
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清和政策研究会は、
自由民主党の派閥。旧称は
清和会。略称は
清和研。通称、
安倍派(
福田派→
安倍晋太郎派→
三塚派→
森派→
町村派→
細田派→
安倍晋三派)
自民党内では、
平成研究会や
宏池会と並ぶ名門派閥であり、
保守合同時の
日本民主党(更に古くは
日本自由党。
岸信介、
鳩山一郎派)の流れを汲む。
日本民主党の「反・
吉田茂」路線を起源に持つため、
親米を基調としながらも
自主憲法論・
憲法改正論を唱え、
再軍備に積極的であるなど比較的
タカ派色が強く、
冷戦期にはその
反共主義志向の反映として、
大韓民国・
中華民国(台湾)に独自の人脈を持った。
岸派を
川島正次郎と分けた
福田赳夫から続く自民党の有力派閥だったが、「
角福戦争」以降、他派閥が田中派(後の経世会→
平成研究会)の支持なしに
内閣総理大臣・
自民党総裁になることが困難な時期が続いたため(いわゆる「田中支配」)、田中と対立関係にある福田が領袖である間は、福田政権の2年間を除いて非主流派に甘んじることが多かった。福田から派閥を引き継いだ
安倍晋太郎は幹事長として
竹下政権を支えたが、総裁の座を目前にして病に倒れた。1993年の経世会分裂以降は三塚博・森喜朗といった実力者が執行部入りして主流派となることも多かったが、安倍の死去後は派内の内紛が耐えない時期でもあった。
森内閣において福田以来久々に総裁派閥となったが、森は
小渕内閣を継承しており、
平成研究会の色が濃かった。
清和会が名実ともに総裁派閥・主流派として実質的に
政権の中枢を担うようになったのは、
小泉内閣以降である。
民主党政権で
農林水産大臣を務めた
鹿野道彦も清和会に所属していた。
事務所
グランドプリンスホテル赤坂(旧
赤坂プリンスホテル)の旧館(旧李王家邸)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に
政治資金パーティーを開催することが慣例となっていたが、同ホテルの営業終了に伴い、2011年2月、
紀尾井町に移転した。
歴史
福田派
十日会(
岸信介派)の分裂を受けて、
池田勇人の「
所得倍増計画」に異を唱える
福田赳夫を中心として
1962年に結成された党風刷新連盟(結成当初は党風刷新懇話会)が起源。
1970年11月に時の首相・
佐藤栄作に勧められ、派閥「紀尾井会」(福田派)として正式に旗揚げされた。
1972年まで7年に及んだ佐藤内閣の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤における意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、
七日会(後の木曜クラブ、田中派)と「
角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎ着けるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。
1972年、総裁選で敗れた直後に
周山クラブ(保利グループ)と
春秋会(園田派)を糾合し「八日会」へと名称変更、1976年末、
福田赳夫内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、
1979年1月24日に
清和会を結成した
[4]。出典は、
東晋の
元帝が
詔で
諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『
晋書』諸葛恢伝)。この清和会は略称ではなく正式名称である。1984年に
自由革新同友会(
石原派・旧
中川派)を吸収する(
古屋圭司の養父・
古屋亨は先行離脱し福田派に移籍していた)。
安倍晋太郎派
安倍晋太郎(のちに10代目会長となる
安倍晋三の実父)が会長であった際、派閥内の
三塚博・
加藤六月・
塩川正十郎・
森喜朗の4人の実力者を称して
安倍派四天王と呼び、
経世会の“
竹下派七奉行”と比較された。安倍は
中曽根康弘の後継を目し、逃したものの
竹下内閣では幹事長として主流派入りし、ポスト竹下の最右翼と見なされていたが、
リクルート事件のダメージを受けたまま病に倒れた。その後、安倍の後継会長を三塚・加藤が争い(この抗争は両者の名を取って「
三六戦争」と呼ばれる)、森の支持を得た三塚が1991年6月、清和会会長に就任した。
同年、三塚は総裁選に出馬するが、加藤がこれに反し、
竹下派の推す
宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、
政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなる。加藤の離脱後、三塚を支持した森、塩川、小泉、
玉澤徳一郎、
中川秀直などと、加藤を支持したものの清和会に残った
亀井静香、
平沼赳夫、
中川昭一、
尾身幸次、
町村信孝などとの間にしこりが残ったといわれている。
三塚派
三塚派に移行してからは、森系と、急速に派内での発言力を増していた亀井系との対立が激しくなる。1994年11月、自民党の下野に伴い呼び掛けられた派閥解消で、清和会は解散し、派閥に代わり結成が認められたグループとして
21世紀を考える会・新政策研究会を結成した。三塚は同会の会長にそのまま留任した。
1998年、森系主導により、三塚派の独自候補として
小泉純一郎の
自民党総裁選出馬を決定したことに亀井系が反発。異議を唱えるが押し切られ、総裁選後に森が党幹事長に就任したことで派の分裂が決定的となる。同年9月に亀井系は三塚派を離脱した。その後、12月に森が三塚から派閥を継承する。
森派
森喜朗が三塚の後継会長となった1998年末に、かつての清和会にちなんで
清和政策研究会へと改称した。2000年に森が首相に就任、福田以来の総裁派閥となった。森は派閥を一時的に離脱したため、小泉純一郎が2000年4月から清和政策研究会会長に就任し森内閣を支えた。派閥を継承した森は同じく発言力を増しつつあった小泉と組み、混乱していた派内を掌握した。ただし、森内閣は基本的には小渕前政権を継承しており、
野中広務、
村上正邦、
青木幹雄といった前内閣を支えた他派閥の実力者に依存していた。なお、小泉が会長を務めていた期間も呼称は森派のままであった。
森の退陣後に小泉が首相に就任、森は派閥の会長に復帰した。小泉は派閥を恒久的に離脱したため、会長総裁分離が定着した。小泉は最大派閥であった
橋本派を「
抵抗勢力」と名指し、三木内閣以来25年ぶりに同派を執行部から排除する一方、青木幹雄が実力者だった同派の参院側の協力を得て最大派閥を牽制・分断した。その結果、2005年の
衆議院選挙で党内第一派閥へと躍り出て、「
清和会支配」に移行した。
2006年、小泉総裁退任に伴う
自民党総裁選挙では有力候補として同じ森派の
安倍晋三・
福田康夫が挙がった。森派はかつて安倍・福田の父親が率いた派閥であることも注目され、2人が立候補すれば森派の分裂も予想されたものの、福田が不出馬を宣言したため派閥分裂の危機は回避され、9月に安倍が総裁に選出された。
町村派
2006年10月19日、森は派閥会長を退任し、町村信孝が同派会長に就任。派閥名は「町村派」となった。10月26日の派閥総会で森は同派名誉会長に就任した。町村への派閥継承は、幹事長に就任したもう一方の実力者中川秀直とのバランスを考慮したものだった。その影響力や行動などから領袖から退いた後も森が事実上の派閥のオーナーと考えられていた。
同年9月、福田康夫が総理総裁になり森・小泉・安倍・福田の4代連続で総理総裁を輩出する。町村が
福田康夫内閣の
官房長官に就任したことにより、派閥会長職を廃して代わりに代表世話人を置くことを決定。代表世話人には町村・中川秀直・
谷川秀善(参院)の3人が就き、集団指導体制となった。官房長官という要職での入閣により閥務に比重が置けない町村と、党幹事長を辞任して派閥に復帰した中川の派内での処遇を考慮した結果の措置であった。報道での派閥名は町村派から変更されなかった。
2007年7月に行われた
第21回参議院議員通常選挙の結果自民党は敗北したが、町村派は参議院でも
津島派を抜き、衆参両院で党内最大派閥となった。数を減らした他派閥に配慮して、無派閥議員への派閥勧誘は他派閥が終えるのを待ってから行った。
2008年3月、総理総裁就任以来派閥を抜けていた安倍晋三が「相談役」として復帰。安倍復帰前からの相談役としては
衛藤征士郎らがいる。一方、小泉純一郎は首相退任後は無派閥のまま、2009年に政界を引退した。
2008年9月、福田総裁退任に伴う
自民党総裁選では、町村も有力な総裁候補ではあったものの、安倍・福田と2代にわたって政権運営に失敗したことから、森・安倍・町村は安倍・福田政権を支え続けた
麻生太郎を支持し、清和会から総裁候補を擁立しない方針を採った。中川がこの方針に反して
小池百合子を擁立したため、派内の分裂が表面化した。
麻生内閣発足に伴い幹事長ポストに
細田博之が就任。町村は官房長官を離任したが、集団指導体制に変更はなかった。
2009年1月に入り、2011年からの
消費税増税を目指した麻生政権に対し、中川は「その瞬間に判断する」などと
本会議での造反をちらつかせ抵抗した。一時は決裂の様相も見られた。結局税調幹部でもある町村が増税実施時期を明記しない形での中川との妥協案を作成し対立は収束したが、政権に反対した動きは森、安倍などの怒りを買い、中川を代表世話人から外す考えが示された。
2009年2月5日の派閥総会で森が提案した人事案は、町村を会長に昇格させ、中川と谷川を代表世話人として続投させるというものであった。中堅、若手の一部からは反対する声もあったが、最終的に人事案は了承され、町村が会長に復帰することになった。同年3月5日の総会で森が最高顧問から安倍と同じく相談役に就くことが決まり、町村会長のもとでの新体制が固まった。
2009年8月30日の
第45回衆議院議員総選挙により、
衆議院における勢力は公示前の3分の1に減少し、
古賀派に次ぐ第2位に後退したが、参議院と合わせ、全体として最大派閥の座は維持した。9月3日、元
防衛大臣の小池百合子が「派閥単位ではなく、党まるごとで一致団結すべき」として退会した。
2009年9月に発足した谷垣新執行部では総裁および党幹部ポストから外された。町村派が党執行部ポストに就任できなかったことは、福田派時代の1979年の大平政権以来30年ぶりのことであった。
同年10月、町村の意向で代表世話人の廃止が了承された。同月末、代表世話人廃止により派内で事実上失脚した中川秀直が退会した。
2010年8月12日の自民党参議院議員会長選挙をめぐり、森喜朗が音頭を取って町村派、
額賀派、
古賀派は谷川秀善参院幹事長を推した。しかし町村派の安倍晋三、
世耕弘成など中堅・若手が「派閥で動くのは良くない」と造反し、
伊吹派の
中曽根弘文を推薦した。選挙の結果、中曽根が参院議員会長に就任した。
町村派では9月2日に幹部会を開き、造反議員の処分を検討したが結論は出ず、森は、谷川の票固めに失敗した
鈴木政二をなじったり、安倍に対する不満をあらわにしたりした挙句、「額賀派や古賀派に合わせる顔がない」「もう面倒見切れない」と派閥退会届を提出した。
12月11日、会長の町村が正式に届を受理した。 2012年9月の
総裁選において、会長の町村が出馬を表明。復帰後派内に影響力を持つ安倍に支援を要請するが、安倍はこれを拒否して自らも出馬したため分裂選挙に陥った。派内では町村支持が7割程度と優勢で、安倍は他派閥や無派閥議員の支援を得て選挙戦を戦った。選挙戦の最中に町村は体調不良で活動を中止するも、そのまま投票日まで立候補は取りやめなかった。これは立候補を取りやめた場合、自身への票がそのまま安倍に流れることを警戒したためともいわれる。結局、投票で安倍が当選、自身2度目の総裁に返り咲いた。
第46回衆議院議員総選挙の結果、自民党が政権を奪還、安倍が内閣総理大臣に再び就任。
第23回参議院議員通常選挙の結果、自民党が参議院第一党に返り咲き、自公連立が参議院過半数を確保したことを受け、会員の
山崎正昭が
参議院議長に就任。
細田派
第47回衆議院議員総選挙後、会長の町村が
衆議院議長に就任。このため、
立法府と
行政府の長を町村派出身議員が独占することとなった。また、慣例により町村が会派を離脱したために、細田博之が後任の会長に就任し、細田派となった。町村は病気により議長を辞任した後に死去したため、細田がそのまま会長であり続けた。
第24回参議院議員通常選挙後、会員の
伊達忠一が参議院議長に就任。
安倍の辞任表明に伴う
2020年総裁選挙では一時期下村博文・稲田朋美・西村康稔が立候補に意欲を見せたが、最終的には派として
菅義偉を支持した。菅政権では下村が政調会長として執行部入りした。
2021年9月に行われた
総裁選挙では、下村博文が再び出馬意向を示したものの断念した。派閥としては安倍晋三が支援要請をした
高市早苗及び細田らが支援する
岸田文雄の2人を支持することを決定した。総裁選の結果を受け10月に発足した
岸田内閣では
松野博一が官房長官に任命されるなど、4人が入閣した。
安倍晋三派
2021年11月10日、政界を引退した大島理森前衆議院議長の後を受けて会長の細田が衆議院議長に就任することとなった。これに伴い細田は慣例によって派閥を離脱し、安倍が同月11日に、二度目の総裁となった2012年以来約9年ぶりに派閥へ復帰し、会長に就任した
歴代の会長
代 |
会長 |
派閥呼称 |
期間 |
1 |
福田赳夫 |
福田派 |
1979年 - 1986年 |
2 |
安倍晋太郎 |
安倍派 |
1986年 - 1991年 |
3 |
三塚博 |
三塚派 |
1991年 - 1998年 |
4 |
森喜朗 |
森派 |
1998年 - 2000年 |
5 |
小泉純一郎 |
2000年 - 2001年 |
6 |
森喜朗 |
2001年 - 2006年 |
7 |
町村信孝 |
町村派 |
2006年 - 2007年 |
- |
町村信孝
中川秀直
谷川秀善 |
2007年 - 2009年 |
8 |
町村信孝 |
2009年 - 2014年 |
9 |
細田博之 |
細田派 |
2014年 - 2021年 |
10 |
安倍晋三 |
安倍派 |
2021年 - 現在 |
菅義偉
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菅 義偉(すが よしひで、
1948年〈
昭和23年〉
12月6日 - )は、
日本の
政治家。
自由民主党所属の
衆議院議員(8期)、
内閣総理大臣(第99代)、
自由民主党総裁(第26代)。
横浜市会議員(2期)、
総務副大臣(
第3次小泉改造内閣)、
総務大臣(
第7代)、
内閣府特命担当大臣(
地方分権改革)、
郵政民営化担当大臣(
第3代)、
自由民主党幹事長代行(第2代)、
内閣官房長官(
第79代・
第80代・
第81代)、
沖縄基地負担軽減担当大臣、
拉致問題担当大臣などを歴任した。
2019年4月1日に、
官房長官として新元号
令和を発表したことから、「
令和おじさん」の愛称がある
来歴
生い立ち
秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現・
湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿いに家があったイチゴ
農家に長男として生まれる。現住所は神奈川県
横浜市神奈川区金港町1丁目
[7]。家族は父、母、姉2人、弟1人。父、
菅和三郎は
第二次世界大戦末期、
満鉄職員として当時
満州国の首都だった
通化市で
日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮
いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任。
2010年に93歳で死去すると、
旭日単光章を叙勲されている。母や叔父、叔母は元教員であり、2人の姉も
高校教諭となった
。
雄勝町立秋ノ宮小学校(現・
湯沢市立雄勝小学校)卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現・
湯沢市立雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い
秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、『
フライデー』から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した
北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、
森功の取材では菅本人は当時教員にだけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から
農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京する。「
東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を
板橋区の
段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感して2ヶ月で工場を退職。その後は大学進学を志すようになり、朝は
築地市場、夜は
新宿の飲食店でアルバイトをして生活し、上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で
法政大学法学部政治学科へ進学する。なお、複数の
週刊誌等で第二部(夜間学部)の出身であると報じられることがあるが、菅本人が
2016年のインタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と述べており
[3]、実際には第一部(昼間)の出身である。法政大在学中には
警備員や新聞社、カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で、大学の
空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している
。
1973年、大学を卒業し、建電設備株式会社(現・株式会社
ケーネス)に入社した。
横浜市会議員
1975年、
政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代
衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介され、
自由民主党で同じ派閥だった
衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。以後11年にわたり秘書を務めた。
1983年、小此木の
通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める
。
1987年、
神奈川県の
横浜市会議員選挙に
西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、
高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた
。
衆議院議員
1996年の
第41回衆議院議員総選挙に
神奈川2区から自民党公認で出馬し、
新進党公認・
公明推薦の
上田晃弘、
旧民主党公認の新人
大出彰らを破り、初当選した
。
1998年の
自由民主党総裁選挙では所属していた
平成研究会会長の
小渕恵三ではなく、師と仰ぐ
梶山静六を支持し、同派閥を退会
。その後
宏池会に入会した。
2000年の
第2次森内閣不信任決議をめぐる「
加藤の乱」では、
加藤紘一らに同調して不信任案の採決では欠席したが、その後の加藤派分裂では親加藤派の
小里派(会長:
小里貞利)ではなく、反加藤グループの
堀内派(会長:
堀内光雄)に参加した
総務副大臣
竹中平蔵総務大臣の下、
総務副大臣(
情報通信、
郵政担当
)として
総務省内部統制のトップを任され、事実上人事権なども行使した。
総務大臣
2006年10月、
NHK短波ラジオ国際放送への放送命令に定義されている放送事項に、「
拉致問題」という具体的な内容を加える方針を示した。日本の
放送法33条には「国際放送等の実施の
命令等」という項目があり、そこには「
総務大臣は、協会に対し、放送区域、放送事項その他必要な事項を指定して国際放送を行うべきことを命ずることができる」とある(
2007年12月の放送法改正で「命令」から「要請」に変更された)。
11月10日には、放送事項に「
北朝鮮による日本人拉致問題に特に留意すること」を追加する命令を
NHKに出した。一方で「
報道の自由は守らなければならない。番組内容や放送回数を指示する訳ではない」とNHKに対して編集権の配慮も示した。放送法44条には「編集権」に関して「放送番組の編集等」という項目があり、そこでは「NHKは、国際放送の放送番組の編集に当たっては、海外同胞に適切な慰安を与えるようにしなければならない」とある。また、当時海外から放送していた、
短波放送『
しおかぜ』に対して、
無線局免許状を交付し、日本国内からの放送に道を開いた(放送局の免許は全て本省決裁で、免許者は総務大臣)。
2007年に発覚した
年金記録問題では、
厚生労働大臣の
柳澤伯夫を差し置き、総務大臣の菅が検証を担当した。
日本郵政公社総裁の
生田正治と会談後、生田から総裁辞任の申し出があったことを発表した。その後、後任の日本郵政公社総裁には、
三井住友銀行出身の
西川善文が就任することが発表された。なお、生田自身が政府に辞任を申し入れたことはない
。
2006年、
再チャレンジ支援議員連盟の立ち上げに参加。この議連は実質、ポスト
小泉を選出する
2006年自由民主党総裁選挙に、
安倍晋三を擁立する原動力になった。結果
[要出典]、総裁選で安倍は勝利する。同年9月に発足した
第1次安倍内閣では当選わずか4回で
総務大臣(
郵政民営化担当大臣を兼務)に任命され、初入閣する。同年12月、
内閣府特命担当大臣(
地方分権改革)の補職辞令を受けた。
2007年、
第21回参議院議員通常選挙敗北を受けた
内閣改造では、
自民党選挙対策総局長に就任した。
同年9月、安倍の首相退陣に伴い行われた
2007年自由民主党総裁選挙では
福田康夫を支持する宏池会の方針に反して
麻生太郎を支持し、推薦人にも名前を連ねた。
福田政権の下で、選挙対策総局長を格上げした
選挙対策委員長に
古賀誠が就任すると、古賀に手腕を買われ、同副委員長として引続き衆院選対策にあたることになった。
2009年7月、古賀が
東京都議会議員選挙敗北の責任を取る形で辞任。麻生の解散予告後だったこともあり、選対委員長代理として総選挙を取り仕切ることになる。
菅は自民党選挙対策副委員長だった2009年当時、同じ叩き上げの古賀誠・選挙対策委員長の下で、世襲制限を導入しようとした。具体的には衆院選マニフェスト(政権公約)に「3親等以内の親族らの同一選挙区からの立候補を(次期衆院選から)禁ずる」旨が明記された。しかし、党内の世襲議員から反発や抵抗を受け、なし崩し的に公約から姿を消した。
同年8月の
第45回衆議院議員総選挙では、神奈川2区で
民主党の
三村和也の猛追を受けるも548票の僅差で三村を破り、5選(三村は比例復活)。
2009年、宏池会を退会した。
2010年、
自民党国会対策副委員長及び
広報本部長代理に就任。
2011年、
自民党組織運動本部長に就任。
2012年4月、
郵政民営化法改正案の採決で、賛成する党の方針に反して反対した。
2012年自由民主党総裁選挙に先立ち、
甘利明に呼びかけて安倍晋三の総裁復帰を画策し、麻生太郎を引き入れて安倍を返り咲きさせた
。
同年9月、安倍の
自由民主党総裁就任に伴い、
自民党幹事長代行に起用された。同年12月の
第46回衆議院議員総選挙では、三村を
比例復活も許さずに破り6選。
内閣官房長官
2012年12月、
第2次安倍内閣の発足に伴い、
内閣官房長官に任命される。
2013年、
郵政民営化の考えにそぐわないとして、
日本郵政社長
坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任した。同年に発生した
アルジェリア人質事件では、
防衛省の反対を押し切り、前例のない
日本国政府専用機の派遣を行った。
2014年5月、
内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた
杉田和博に代わり
加藤勝信を任命したとされる
。元
内閣参事官の
高橋洋一によると、局長人事を機に
官僚を統制下に置き「歴代官房長官の中でも屈指の情報収集能力」を持つようになったという。同年7月、自らが出演した
NHK『
クローズアップ現代』の放送内容について、放送後のNHKに
官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられたが、事実や関与を否定した
。さらに、同年11月には
衆議院解散による
第47回衆議院議員総選挙執行を安倍に進言した
。
2016年7月7日、内閣官房長官の在職期間が1,290日となり、歴代1位の在職日数を記録した
2019年4月1日、
総理大臣官邸での記者会見にて同年
5月1日より施行される新元号を
「新しい元号は『令和』であります」と発表した。
同年5月9日-11日、官房長官となってからは初となる
アメリカ合衆国訪問。初日から
マイク・ポンペオ国務長官、
パトリック・シャナハン国防長官代行(直後に
国防長官に指名)、10日には
マイク・ペンス副大統領と会談した。
ドナルド・トランプ大統領との面会はなかったとはいえ、政権を動かしている実務畑の3人と会談できたことは異例の厚遇として報道されている。ニューヨークへ移動してからは、
S&P グローバル、
バンク・オブ・アメリカを訪問し、アメリカ経済界のトップらとの交流をもったほか、
国際連合本部で開かれていたシンポジウムで基調演説も行った
。
同年6月には菅に近い自民党無派閥議員13人による政策勉強会「令和の会」が発足、同月20日に菅を招いて初会合が開かれた
。
2020年7月に発売された「月刊Hanada」で安倍首相から菅について「(ポスト安倍の)有力な候補者の一人であることは間違いない」と指摘した上で「ただ、菅総理には菅官房長官がいないという問題がありますが」とも付け加えられ、官房長官としての力量評価及び菅にとって代わる官房長官候補の不在について言及したものとされた。
2020年8月29日、党総裁と内閣総理大臣の辞任を表明した
安倍晋三にかわる新たな総裁を決める
自民党総裁選挙に出馬する意向を党幹事長である
二階俊博に伝えた
。後の9月2日夕方に、正式に記者会見を開き、出馬を表明した
。
内閣総理大臣・自民党総裁
2020年
9月14日、
自民党総裁選挙が執行され、菅が総裁に選出された。国会議員職の世襲ではない自民党総裁としては
森喜朗以来であり、選挙地盤を世襲していない自民党総裁としては
海部俊樹以来である。9月16日の首班指名選挙により内閣総理大臣に指名された
。同日午後6時17分に
内閣総理大臣任命式を終え、
第99代内閣総理大臣に就任した
安倍晋三
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安倍 晋三(1954年〈昭和29年〉9月21日
- )は、日本の政治家
。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、内閣総理大臣(第90・96 - 98代)、自由民主党総裁(第21・25代)。自由民主党幹事長(第38代)、内閣官房長官(第72代)等を歴任した。
政界いりまで
生い立ち
1954年9月21日に、
毎日新聞の
記者であった
安倍晋太郎と、その妻である
洋子の次男として
東京都で生まれる。
本籍地は山口県大津郡油谷町(現、
長門市)である。父方の祖父は
衆議院議員の
安倍寛、母方の祖父は後の首相、岸信介で、
大叔父には後の首相、佐藤栄作がいる。政治家一族であり、安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している
。幼い頃の夢は
野球選手や、テレビを見て
刑事になることに憧れていた
。
学生時代
成蹊小学校、
成蹊中学校、
成蹊高等学校を経て、
成蹊大学法学部政治学科を卒業した。
小学4年生から5年生にかけての、1964年から2年間は
平沢勝栄が家庭教師についていた
。高校での
クラブは地理研究部に所属
。高校卒業後、成蹊大学に進み、
佐藤竺教授のゼミに所属して
行政学を学ぶ。大学では
アーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという
。1977年春に渡米し、
カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、
イタリア系アメリカ人の家に下宿しながら
ロングビーチの語学学校に通った。1978年1月から一年間、
南カリフォルニア大学に留学しており、首相として訪米中に同大学を訪問している。ただし、在籍したものの、学士の資格は得ていない。
会社員時代
1979年4月に帰国し、
神戸製鋼所に入社。
ニューヨーク事務所、
加古川製鉄所、東京本社で勤務した。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点
」、あるいは「私の原点」だったと回顧している。
政界入り
秘書時代
神戸製鋼所に3年間勤務した後、1982年から
外務大臣に就任していた父・晋太郎の秘書官を務める。1987年6月9日、
森永製菓社長の
松崎昭雄の長女で
電通社員の
昭恵と
新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。
媒酌人は
福田赳夫夫妻が務めた
。
1987年、参議院議員・
江島淳の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長・
二木秀夫が出馬を表明したことから父・晋太郎に断念するよう説得され立候補を見送った
。
衆議院議員
1991年、父・晋太郎が急死。1993年に父の地盤を受け継ぎ、
第40回衆議院議員総選挙に
山口1区から出馬し初当選(当選同期に
浜田靖一・
田中眞紀子・
熊代昭彦・
岸田文雄・
塩崎恭久・
野田聖子・
山岡賢次・
江崎鉄磨・
高市早苗らがいる)。当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めた
清和政策研究会に所属する(当時の会長は
三塚博)。1994年、
羽田内閣施政下、
社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加
。首班指名選挙では
村山富市に投票し
自社さ連立政権・
村山内閣樹立に貢献。1995年の
自民党総裁選では
小泉純一郎の推薦人の一人になった
。1999年、衆議院厚生委員会理事に就任
。
内閣官房副長官
派閥領袖の
森喜朗首相が組閣した2000年の
第2次森内閣で、小泉純一郎の推薦を受け、政務担当の
内閣官房副長官に就任。
第1次小泉内閣でも再任した。
2002年、
水野賢一が
外務大臣政務官在任中に
台湾訪問を拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の
北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と
金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と毅然とした対応で臨んだ。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この
日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。
内閣官房参与の
中山恭子と共に北朝鮮に対する
経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した。
西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。
自民党幹事長
2003年9月、
衆議院解散を控える中で自民党の選挙の顔となる
幹事長である
山崎拓の性的なスキャンダルが持ち上がったため、小泉は後任幹事長として安倍を抜擢した。閣僚も党の要職も未経験であった安倍の幹事長就任は異例であり、事前には筆頭副幹事長もしくは
外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。また、自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の
大平正芳総裁時代の
斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。11月投票の
第43回総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党単独では選挙前の過半数から半数割れとなった。ただし
前回選挙からは当選者増でもあり、幹事長に留まる。
幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(
派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年4月の
埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した
柴山昌彦が当選)。
同年夏の
参議院選挙では、目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長の
武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。幹事長経験者の幹事長代理就任も異例の事であった。
2004年、党改革推進本部長に就任。
内閣官房長官(「
麻垣康三」も参照)
2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣。2006年9月1日に
総裁選への出馬を表明。
憲法改正や
教育改革、庶民増税を極力控えた
財政健全化、
小泉政権の
聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示す。
最初の内閣総理大臣就任(「
第1次安倍内閣」および「
第1次安倍内閣 (改造)」も参照)
2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で
麻生太郎、
谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の
臨時国会において内閣総理大臣に指名される。
戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。
第1次安倍内閣
就任表明では、冒頭に
小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示し、国家像として「
美しい国」を提示した。
安倍は小泉前首相の
靖国参拝問題のために途絶えていた
中国、
韓国への訪問を表明。2006年10月に就任後の初外遊先となった中国・
北京で
胡錦濤国家主席と会談、翌日には、
盧武鉉大統領と会談すべく韓国・
ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。
北朝鮮が
核実験を実施したことに対しては「日本の
安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派の
ジョン・ボルトンらと連携して
国連の対北制裁決議である
国際連合安全保障理事会決議1718を可決させ、個別でより厳しい
経済制裁措置も実施した。
同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える
郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった
教育基本法改正と
防衛庁の
省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が任命した
本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、
佐田玄一郎内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼国・地方
行政改革担当大臣が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが続いた。
2007年3月、安倍の
北朝鮮による日本人拉致問題に対する非難と
従軍慰安婦問題への謝罪に消極的であることが「二枚舌」とワシントンポストに批判された
が、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き
日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院
沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の
島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップを行った。
5月28日、以前から様々な疑惑のあった
松岡利勝農水大臣が
議員宿舎内で、首を吊って
自殺。
こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。同月6日 - 8日には首相就任後初の
主要国首脳会議であるハイリゲンダム・サミットに参加、
地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に
北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には
久間章生防衛大臣の
原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は久間に厳重注意に処し、久間は直後に辞任、後任には
小池百合子が就任した。
参議院議員選挙(2007年)での敗北(詳細は「
第21回参議院議員通常選挙」を参照)
2007年7月29日の
第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である
赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの
事務所費問題が発覚。選挙中に発生した
新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。同年の
参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「
野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」と楽観視していたとも言われるが、結果は37議席と連立を組む
公明党の9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、
東北地方や
四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する
参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。
体調の悪化と総辞職
参院選直後の7月31日の
自民党総務会において、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(
安倍おろし)
。 同日、アメリカ下院では
慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と自民党内からも批判された。
広島平和記念式典に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる。そして、8月19日から8月25日の
インドネシア・
インド・
マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。しかし、
慶應義塾大学病院の主治医によると、(17歳のときに発症したという)
潰瘍性大腸炎の血液反応はなく、
機能性胃腸障害という検査結果であったという。
選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(
第1次安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、
オーストラリア・
シドニーで開催された
APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、
内閣総辞職することを
公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。
2007年9月10日に
第168回国会が開催され、安倍は
所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「
美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。
2007年9月12日午後2時、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った。また、理由については
テロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。
翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とメッセージを配信し終了した。
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした。9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と
内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた。
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・
与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず
臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた。
9月25日、
第1次安倍改造内閣最後の
閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での
首班指名選挙にも出席した。第1次安倍改造内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には
皇居で行われた自民党総裁
福田康夫首相の
親任式に出席し正式に辞職し再び病院へと戻った。
突然の辞任への反応
安倍は辞任の理由として「
テロ特措法の再延長について議論するため
民主党の
小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、
与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。
もともと胃腸に持病を抱えており
、辞意表明当日の
読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している
。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『
週刊現代』へのインタビューで、
特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている。
臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した。与党側でも驚き
や批判
の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た。
9月13日に
朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している。
安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(
CNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった。
辞任の原因
2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で一般に言う「腹痛」であったが、実際には「
潰瘍性大腸炎」を患っていた。潰瘍性大腸炎は1973年に
特定疾患(2015年からは
指定難病)に指定されている。
麻生・与謝野クーデター説
安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党の
新人議員の一部によってメディアを通じて広められた。この「麻生・与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「
中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した。
内閣総理大臣退任後
体調回復と活動の再開
慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・
富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った。
11月13日に
新テロ特措法案の採決を行う
衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、
福田康夫首相や公明党の
太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた
。
2007年末、『産経新聞』のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」
と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」
と答えている。
2008年1月、『
文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や
世耕弘成らが入会した
。設立総会において、安倍は「
北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」
と語り、同懇話会の座長に就任した。3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」
と述べて所属議員に謝罪した。
第45回衆議院議員総選挙直後に行われた
2009年自由民主党総裁選挙では、麻生太郎とともに、
平沼赳夫の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、
西村康稔を支援した。
2度目の総裁就任
2012年9月12日、谷垣総裁の任期満了に伴って行われる
2012年自由民主党総裁選挙への出馬を表明。自らが所属する
清和会の会長である
町村信孝の出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、前会長の森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされた事や5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった
石破茂、党内重鎮からの支援を受けての出馬となった
石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、
麻生派、
高村派が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となり、9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決選投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は
1956年12月自由民主党総裁選挙以来となった。
内閣総理大臣に再就任
2012年12月16日の
第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、政権与党に復帰。同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では
吉田茂以来2人目である
。
首相再登板後は、
デフレ経済を克服するために
インフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示した。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、
アベノミクスと称される。「アベノミクス」は2013年
新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞した。
参議院議員選挙(2013年)での勝利(「
第23回参議院議員通常選挙」も参照)
第1次安倍政権時に大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙以降、
参議院では政権与党が過半数を下回る
ねじれ国会が続いていた(2009年の
第45回衆議院議員総選挙から2010年の
第22回参議院議員通常選挙までの期間を除く)。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙で、政権与党の自民・公明両党が合わせて半数を超える議席を獲得し、「ねじれ」は解消した。
2020年東京オリンピック招致(「
2020年東京オリンピック構想」も参照)
安倍は2012年12月の首相就任以降、
2020年夏季オリンピックの東京招致委員会の最高顧問として各国首脳との会談や国際会議の際に東京招致をアピールした。さらに、2013年3月に来日したIOC評価委員会との公式歓迎行事では演説を行い、歌を披露する場面も見られた。安倍は首相就任後、
1964年東京オリンピックの開催が決定した当時の首相が祖父である岸信介であることを持ち合いに、自らがIOC総会に出席してプレゼンテーションを行う意欲を見せていた。これにより開催地決定の直前である9月5日と6日に
ロシアの
サンクトペテルブルクで開催された
G20を途中で切り上げ、6日にブエノスアイレスに到着しIOC委員へ東京支持を呼びかけた。
7日の総会では東京のプレゼンターの1人として演説を行い、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」と発言。演説後の質疑応答では総会直前に明らかとなった
福島第一原子力発電所の汚染水漏れ
に関する質問が出た。これに対し安倍は「結論から言うと、まったく問題ない。(ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」、「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」と答え、「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」と述べた。しかし、汚染水漏れのニュースは後を絶たず
、安倍の発言が東電の公表している状況とも異なっているなど、状況は統御されていない事実が明らかになった。このことは国会でも追及されており、安倍は追及に対して「事態は掌握しているし、対応はしている、という意味でコントロールと発言した」と抗弁している。
参議院議員選挙(2016年)での勝利(「
第24回参議院議員通常選挙」も参照)
任期満了に伴う2016年7月10日の
第24回参議院議員通常選挙では、
北海道・
東北地方・
信越地方・
沖縄県で苦戦したものの、
前回を上回る議席を獲得した。安倍はこの結果を受けて、アベノミクスが信任を得たものと主張した
。
東京都議会議員選挙(2017年)での敗北(「
2017年東京都議会議員選挙」も参照)
2017年7月の
都議会選挙では57議席から23議席に減らし、
2009年の都議選時の38議席にも満たない過去最低の議席数に留まった。これについて、安倍は「大変厳しい都民の審判が下された。自民党に対する厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければいけない」と述べた。敗因について、「政権発足して5年近く経過し、安倍政権に緩みがあるのではないかという厳しい批判があったのだろう。真摯に受け止めなければいけない。政権を奪還したときの初心に立ち返って全力を傾ける決意だ」と説明した。
衆議院議員総選挙(2017年)での勝利(「
第48回衆議院議員総選挙」も参照)
選挙前と同じ284議席を獲得し、安倍自民党が大勝した。小選挙区で218議席、比例代表で66議席を獲得した。小選挙区の候補者は、北関東ブロック、東京ブロック、南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックで比例復活も含めて全員当選した。小選挙区の候補者3名が無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった。
2025年大阪万国博覧会招致(「
2025年万国博覧会の大阪招致構想」も参照)
2018年11月23日、
パリで行われた
BIE総会において
大阪府が
2025年日本国際博覧会の開催地に選ばれた。安倍はビデオで、「大阪、関西、日本中の人たちが皆さんをお迎えし、一緒に活動することを楽しみにしている。成功は約束されている」と大阪招致をアピールした
。 開催決定後、世耕弘成を「国際博覧会担当大臣」に任命することを固めている。
参議院議員選挙(2019年)の結果(「
第25回参議院議員通常選挙」も参照)
自民党は57議席を獲得した。改選前から9議席減となり、非改選の議席を含めた単独過半数を維持できなかった。
通算組閣回数・首相通算在職日数
2018年10月2日に内閣改造を行い、
第4次安倍第1次改造内閣が発足。これにより通算組閣回数は10回となり、それまで最多だった大叔父の
佐藤栄作(9回)を抜き歴代最多となった。さらに2019年9月11日にも内閣改造を行い、
第4次安倍第2次改造内閣が発足。これにより現在の通算組閣回数は11回(歴代最多)となった。
2019年11月20日、首相通算在職日数が2887日となり、それまで最長だった
桂太郎(2886日)を抜き歴代最長となり、さらに2020年8月24日、連続在職日数が2799日となり、それまで最長だった大叔父の
佐藤栄作(2798日)を抜き歴代最長となった。
辞任の表明
2020年8月28日、持病の
潰瘍性大腸炎が悪化したことなどから、国政に支障が出る事態は避けたいとして、内閣総理大臣の職を辞する意向を固めたと複数のメディアが報じ、その後総理大臣官邸で行われた臨時閣議において、辞任する意向であることを表明した。
その後、官邸で行われた会見で正式に辞意を表明し、「様々な政策が実現途上にあり、コロナ禍の中、職を辞することについて、国民の皆様に、心より、心より、お詫び申し上げる」と謝罪した。また、次の総理大臣が任命されるまでの間、引き続き職務にあたる考えを示した
外交
第1次安倍内閣においては、「
価値観外交」と「主張する外交」を外交の基本路線とした。このうち、「価値観外交」は、
自由、民主主義、
基本的人権、
法の支配という普遍的な価値観を共有する国の輪を世界、
アジアに拡大して行くことを目指す外交戦略である
が、第1次安倍内閣で外務大臣を務めた
麻生太郎が、「
自由と繁栄の弧」として初めて提唱したものである。自由と繁栄の弧は、民主主義や法の支配などの価値について、日本が非欧米圏における先駆者としての地位にあることに着目した上、北東アジアから、
東南アジアを経て、インド、中東、中央アジア、中・東欧にかけての「弧」上にある国との間で、日本がリーダーシップをとってこれら価値を共有し、「弧」地域全体の繁栄に貢献する、その結果として経済や安全保障などで日本も国益を享受するという構想といえる。
第1次安倍内閣当時、「自由と繁栄の弧」には、民主主義や法の支配などの価値を共有しているとはいえない
中国の反発を招くとの批判もあったが、就任後初の外遊先に中国を選ぶなど安倍は原則論と現実的対応のバランスを保つことに努めてきており、日本の国際的存在感の低下、
尖閣諸島問題に象徴される日中間の力関係の変化という新たな国際情勢のもと、中国との正面衝突を回避しつつ、アジアにおけるパワーバランスを適正に保ち、アジア及び世界の安定と発展に寄与する外交政策であると再評価されている。
2012年12月28日に発足した
第2次安倍内閣も、麻生太郎を副総理兼財務相・金融担当相としたほか、
谷内正太郎を内閣官房参与としており、改めて自由と繁栄の弧を基本とした外交政策を打ち出すと指摘されている、安倍が、平成24年12月28日にベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなどの首脳と相次いで電話会談を行ったのもその表れと指摘されている
。またプラハに本拠を置く国際NPO団体「
PROJECT SYNDICATE」のウェブサイトに12月27日付けで掲載された安倍の英語論文では、「アジアの民主主義セキュリティダイアモンド構想」を世界に向けて主張している。
第2次安倍内閣最初の閣僚外遊は、民政移管を進めていた
ミャンマーへの麻生太郎副総理兼財務相・金融相の訪問で、麻生は「閣僚の最初の訪問先がミャンマーとなったこと自体、政権としてのメッセージである。」と述べている。安倍も、就任後最初の外遊先として、2013年1月16日から18日にかけ、まず
ベトナムを訪れ、次に
タイ、
インドネシアを訪問。アジア太平洋地域の戦略環境が変化する中で、地域の平和と繁栄を確保していくため、
自由、
民主主義、
基本的人権、
法の支配など普遍的価値の実現と経済連携ネットワークを通じた繁栄を目指し、日本はASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、
対ASEAN外交5原則を発表した
。
道傳愛子は、第2次安倍内閣における「価値観外交」の特色は、中国やインドの間という地政学的優位性が高い
インドシナ半島を抱え、経済や安全保障での重要性も高まる
東南アジアを重視する点であると述べている。また、日本の
価値観外交においては、港や道路などハードのインフラの整備だけでなく、投資環境整備にもつながる
法整備支援や、人材育成といったソフトのインフラ整備への協力を、日本の役割として位置付けることが重要と主張している。
アメリカ合衆国
小泉政権により強化された
日米安全保障条約をさらに充実させるため
在日米軍と
自衛隊の一体化を目指しており、集団的自衛権行使のための憲法改正も視野に入れている。
安倍政権の外交方針について、
北海道新聞や
沖縄タイムスなどからは
対米追従であるという批判
や懸念があるが、2013年3月の施政方針演説
によれば「日米同盟をより強固にしたい。わが国の安全確保の観点から当然の取り組みであり、地域の平和と安全に資する。対米追随外交との指摘はまったくあたらない」としている。
2014年4月24日の日米首脳会談で、日本の超電導リニア新幹線の技術をアメリカへ無償提供すると表明する
。2013年2月の首脳会談でも「日米同盟の象徴」と技術提供を提案していた。なお、リニアの研究は1962年から開始しており、通常では、リニア技術提供を望む場合、ライセンス料が徴収される。2013年3月には、日本企業が米軍の
F-35開発に参加することを提言した
。
2016年アメリカ合衆国大統領選挙中は
ヒラリー・クリントンと会談を行うも
、2016年11月17日に世界の政府首脳に先駆けて大統領選勝利後の
ドナルド・トランプ次期大統領と非公式会談して
本間ゴルフの特注品を贈った
。
2017年11月5日、トランプ大統領が初来日。北朝鮮への圧力最大化で一致して米製防衛装備の購入も表明した。両者のゴルフプレーを通じたゴルフ外交についても報じられた
。
欧州連合
ドナルド・トランプ
アメリカ合衆国大統領が
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)からの離脱や、
大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定(TTIP)交渉の凍結など、
保護貿易主義的政策をとることに対抗し、アメリカとの貿易交渉を優先する従来の方針を転換し、欧州連合(EU)と接近。2013年から交渉が続けられていたものの長年停滞していた
日本・EU経済連携協定構想に関し、首席交渉官を交代させるなどして交渉を進め、2017年12月には交渉の妥結を確認した。
2014年7月17日、
国家安全保障会議で、戦闘機用のミサイルをイギリスと共同研究することを決めた。この研究は現状日本のシーカー技術を適用した場合どの程度の性能になるかをシミュレーションするもので部品などをやり取りすることはないという。
東南アジア
第2次安倍内閣は、経済や安全保障での存在感が高まる
東南アジアを重視。就任後1ヶ月以内に、自身の
ベトナム、
タイ、
インドネシア訪問、麻生太郎副総理の
ミャンマー訪問など、閣僚がアセアン主要国を次々と訪問した。安倍は、日本が
ASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、2013年1月18日には、訪問先のインドネシアにおいて、対ASEAN外交5原則を発表した。
「
安倍ドクトリン」を参照
中華民国(台湾)
父である岸信介や父・晋太郎も
親台派であり、自身も台湾などとの交流強化を目指している亜東親善協会の会長を2012年の首相就任まで務めていたほか
、第一次安倍内閣の際には
羽田空港と
松山機場との間の直行便を推進したり、野党時代には台湾を訪問し
馬英九総統、
李登輝元総統などと会談を行うなど、筋金入りの親台派と言える。また、中華民国政府も安倍のことを親台派であると評価している。また、第三次安倍内閣では国会答弁のなかで「日本の友人である台湾」と同答弁内で述べられた中国、韓国、北朝鮮、ロシアとは別格の表現をしている
ほか、同年7月29日に行われた参議院の我が国及び国際社会の
平和安全法制に関する特別委員会において、「台湾は、基本的な価値観を共有する重要なパートナーであり、大切な友人であります」と答弁している
。
中華人民共和国
大叔父の佐藤栄作は中国との国交正常化を目指していたことや、父・晋太郎は
日中平和友好条約締結や
胡耀邦訪日に携わったことから対中関係を重視してきた。2006年の総裁選は、ありのままの日本を知ってもらうために多くの中国人留学生を受け入れるべきと主張し、小泉政権時に悪化した
日中関係の改善に意欲を見せた。
2006年の首相就任後の初外遊先に1999年の小渕総理以来の公式訪問として中国を選び、胡錦濤
国家主席との会談では8年ぶりの共同文書「日中共同プレス発表」で
戦略的互恵関係の構築を合意した。第2次安倍内閣でも親書や日中首脳会談などで戦略的互恵関係を日中関係の基礎と度々位置付けてる。
2017年9月には首相の参加は15年ぶりだった
日中国交正常化45周年記念行事でも出席した安倍首相は戦略的互恵関係に基づいて日中関係を発展させることを表明し、10年ぶり
に日中首脳間で交換された祝電でも戦略的互恵関係を重視し、同年10月の第19回中国共産党大会にも自民党総裁名義で祝電をおくり
、同年11月に
習近平国家主席や
李克強国務院総理といった中国の首脳と第三国で立て続けに会う極めて異例の会談を行い、翌2018年5月には中国の国家主席とは史上初の電話会談も行い
、同年6月に
日中韓首脳会談で中国首相では8年ぶりに訪日した
李克強と様々な合意
を交わしてその後の視察にも同行し、同年10月には日本の首相では7年ぶりに公式に訪中して「競争から協調へ」「お互いパートナーとして脅威にならない」「自由で公正な貿易体制の発展」の日中新時代3原則や先端技術やインフラ整備と金融などの協力で一致した
。
2012年12月、
青山繁晴によると、
経団連から「中国の言うことを聞け」と要求され激怒したが「経団連会長(
住友化学会長)
米倉弘昌」からの要求を断ったら第二次安倍総理は誕生しなかった、と述べている。2019年6月27日、G20サミットで来日した習近平と会談し、2020年春に国賓として来日するよう求め、習近平は求めに応じる考えを示した
。
ロシア
2016年12月16日の首脳会談終了後、安倍首相が強調したのは、4島の元住民の墓参など自由訪問の拡充の検討や、4島での共同経済活動を実現するための交渉開始で合意したことだった。また、プーチン大統領は、領土問題と捉えているのは日本だけであろう、4島一括返還は議題にすらできない、2島返還さえないと述べており、領土返還は難しい見通しとなった
。
大韓民国
国交正常化50周年記念式で祖父である岸信介や大叔父の佐藤栄作は国交正常化に大きく関与したと述べ
、父・晋太郎は
親韓派であり、父親同士が親密だった
朴槿恵大統領に官房長官時代から
神戸ビーフを贈り手紙をやりとりするなど交流があった。第一次安倍内閣時に「韓国はまさに日本と同じ価値観を持っている」と発言をしている。
軍艦島(端島)など
明治日本の産業革命遺産の
世界文化遺産登録をめぐる韓国との交渉では、朝鮮半島出身者の
徴用について、韓国側の要求を受け入れるように外務省に歩み寄りを指示している
。第三次安倍政権下では外務省による二国間関係を紹介するウェブページの韓国に関する記載から「基本的な価値を共有する」を削除し、更に2018年には「最も重要な隣国」という表現も削除し、困難な問題があるが未来志向で前に進めていくべきといった表現に改めている
。
2013年の韓国の月刊誌「
月刊朝鮮」(2013年4月号)による安倍へのインタビューで、安倍は日韓関係はじめ歴史問題や憲法改正などについて語った
。
朴槿恵政権とは2015年12月に
慰安婦問題日韓合意を行い、翌年2016年には日韓初
の防衛協力協定である
日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)も締結し、日米韓の枠組みで初の
ミサイル防衛合同演習も行った
。
しかし、朴槿恵大統領の弾劾後は2018年5月9日に日中韓首脳会談のために初訪日した
文在寅大統領とは日韓間の懸案は先送りされ
[199]、その後の個別の首脳会談で日中が複数の合意文書を交わしたのに対して日韓では目立った成果がなかった。
徴用工訴訟問題をめぐって文大統領に「戦略的放置」で対応したとされ、対抗措置も関係省庁に指示したため
、文大統領から「日本の政治指導者が政治的な争点とし、問題を拡散させている」と批判され、
李洛淵首相も「日本の指導者は
反韓感情を利用しているとする見方もある」と反発した。
日韓合意に基づく
慰安婦財団の韓国による一方的な解散、
韓国海軍艦艇による自衛隊機への火器管制レーダー照射、
文喜相韓国国会議長による
天皇明仁への謝罪要求など日本の対韓感情を損ねる事案も続発し
、日本では「
日韓関係は史上最悪」と評されるに至り、
2019年からは日本側は
キャッチオール規制(補完的輸出規制)において優遇措置対象国のホワイト国から韓国を除外して韓国側もGSOMIAを破棄するなど
日韓貿易紛争とも呼ばれる状態となった。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
北朝鮮対策として
通信傍受法の要件緩和・対象拡大を主張した。
2007年2月12日に訪日した
チェイニー米副大統領に、拉致問題が解決するまで北朝鮮に対する
テロ支援国家指定の解除をしないように要請した
。
2016年、北朝鮮が5回目の
核実験を行ったことについて「厳重に抗議し、最も強い言葉で非難する」とした
声明を発表し、国連演説で異例の名指しで批判して制裁強化の議論を日本が主導する意向を表明した。2017年の国連演説では北朝鮮を非難して「対話を通じた問題解決の試みは無に帰した。何の成算があって三度同じ過ちを繰り返すのか。
必要なのは対話ではなく、圧力だ」と演説した。その前には「北朝鮮との対話は無駄骨。最大限の圧力をかけるべき」と主張する寄稿を米紙に行った。
2017年9月25日、衆議院解散演説において「北朝鮮には勤勉な労働力があり資源も豊富です。北朝鮮が正しい道を歩めば、経済を飛躍的に延ばすこともできる」と前置きした上で、弾道ミサイル計画を完全な検証可能なかつ不可逆的な方法で放棄させるため「今後ともあらゆる手段による圧力を最大限まで高めていく他に道はない」と述べた。
朝鮮中央通信からは「米国の反共和国制裁・圧迫策動に追従してる」として名指しで「安倍の輩」「忠犬」と批判されている。2017年11月20日にトランプ米大統領が9年ぶりに北朝鮮をテロ支援国家に再指定した際は「北朝鮮に対する圧力を強化するものとして歓迎し支持する」と表明した。
2018年6月2日の講演で、
米朝首脳会談が設定されたことに触れ「核武装した北朝鮮を決して容認するわけにはいかない。抜け道は許さないという姿勢で日本は国際社会をリードし、国際社会とともに圧力をかけてきた。
その中で米朝首脳会談が行われることに期待したい」と述べた。これに先立つテレビ出演において「拉致問題が解決していない中で大きな経済支援をすることはない」と述べた。2019年5月に
日朝首脳会談を無条件で行う用意があることも表明するも朝鮮中央通信は「面の皮が厚い安倍は方針を変更したかのように喧伝して執拗に平壌の扉を叩くが、わが国への敵視政策は変わっていない」と批判し
、同年11月には弾道ミサイルの発射を非難したことに対して朝鮮中央通信は「安倍は世界で唯一無二の
白痴、史上最もばかな人間」と罵倒した。
オーストラリア(詳細は「
日豪関係」および「
安全保障協力に関する日豪共同宣言」を参照)
オーストラリアとは「基本的価値観を共有する」としている。
日豪FTAの交渉を開始し、2006年12月に合意した。2007年3月13日には
安全保障協力に関する日豪共同宣言に
ジョン・ハワード首相とともに署名した。この宣言には
PKOなどの海外活動や対
テロ対策、北朝鮮問題などで日豪が協力する、安全保障協議委員会の設置などが明記されていた。「豪との共同宣言が中国狙ったものでない」とした
。
インド
2007年8月に日印首脳会談を行い、政治・安全保障、経済、環境とエネルギーなど多岐に渡って合意した。また、インドの国会において、日印間の更なる関係強化について「二つの海の交わり」と題する政策演説を行った。外務省は「この演説内容はインドに非常に高く評価された
。2017年7月7日、
モディ首相と会談し、日米印3か国の安全保障協力を強化する方針で一致した
。
中東・アフリカ
2014年1月に
オマーンを訪問し、さらに
コートジボワールを訪れた
。2017年8月10日、
国連開発計画のシュタイナー総裁と面会し、貧困・飢餓の撲滅を目指す国連の持続可能な開発目標(SDGs)に向けて努力し、アフリカの開発の提案、防災、女性の活躍の分野で協力して成果を出す意欲を述べた
安全保障
日本版「
国家安全保障会議」(NSC)構想を推進した。総理就任以前から憲法改正に関しては
集団的自衛権の容認を打ち出してきた。2007年には
安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会を開催、集団的自衛権の行使は
日本国憲法第9条に反しないとの報告書を得て、
宮崎礼壹内閣法制局長官に対し、解釈変更の指示を行ったが、職員の総辞職の可能性を示される抵抗を受け頓挫した。
第2次安倍内閣では、集団的自衛権行使容認派の
小松一郎フランス大使を2013年8月8日に内閣法制局長官に任命した。しかし、体調不良のため小松は退任し、代わって内閣法制局次長であった
横畠裕介を2014年5月16日に内閣法制局長官に任命した。横畠は、2016年3月18日の参議院予算委員会において、「我が国を防衛するためにの必要最小限度に限られる」としながらも「憲法上全てのあらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されていると考えていない」と答弁している
。
2006年11月14日、安倍内閣は閣議で、核保有についての
鈴木宗男の
質問主意書 に対して、「政府としては、
非核三原則の見直しを議論することは考えていない」と強調しながらも、「
核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」との
答弁書 を出した。
自衛隊について、「政府の立場で言えば合憲であるという立場」と述べつつ、「憲法学者の7、8割が違憲である」「違憲であることが教科書にも記述があるのは事実」と説明し、憲法9条「3項に自衛隊を明記」することで、憲法上の自衛隊の位置付けの議論を促す答弁している。「新規隊員募集に対し、都道府県の6割以上が協力を拒否している」と述べ、憲法への自衛隊明記の必要性を述べた。
第2次安倍内閣においては
武器輸出三原則の撤廃を含めた根本的な見直しに着手。2013年10月9日、政府の有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」に安倍等が加わり、装備品の輸出を事実上全面禁止してきた武器輸出三原則の抜本見直しを盛り込む方針を固めた。
2014年3月、武器輸出三原則に代わる「防衛装備移転三原則」の原案が与党のプロジェクトチームに示され
、同年4月1日に武器輸出三原則に代わる
防衛装備移転三原則が閣議決定された。
「
日米豪印戦略対話」も参照
2015年11月1日、長崎で開催された第61回
パグウォッシュ会議世界大会へ「非核三原則を堅持しつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会における核軍縮の取組を主導していく決意」を表明するメッセージを寄せた。
2016年11月15日、
安全保障関連法で新たに認められた「駆け付け警護」を、
南スーダンで
国連平和維持活動(PKO)を行っている
陸上自衛隊の任務に加える実施計画を閣議決定した。安倍は、「自衛隊の安全を確保し、意義のある活動が困難であると判断する場合は撤収を躊躇しない」と述べた。一方で「危険の伴う活動だが、自衛隊にしかできない責務をしっかりと果たすことができる」と述べた。
2017年3月17日、
情報収集衛星「レーダー5号機」の打ち上げ成功について「情報収集衛星を最大限活用し、今後とも日本の安全保障と危機管理に万全を期す」とのコメントを発表した。
2017年8月9日、
長崎平和祈念式典において、真に「核兵器のない世界」を実現するためには核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要であり、日本は非核三原則を堅持し、双方に働き掛けを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意を表明した。
普天間基地移設問題
2013年12月25日、
米軍普天間飛行場(
沖縄県宜野湾市)の
移設に向け、
沖縄県知事の
仲井真弘多と会談し、
日米地位協定に関し環境面を補足する協定を締結するための日米協議開始などの基地負担軽減策を示した。仲井真は「驚くべき立派な内容だ」と評価して移設先である
名護市辺野古沖の埋め立て申請を承認する方針を固め、同年12月27日午前にこの申請を承認した
。2018年10月1日、共産党、社民党や労組などでつくる「オール沖縄」が推す
玉城デニーが沖縄県知事に当選したことについて「結果は政府として真摯に受け止め、沖縄の振興、基地負担軽減に努めていく」と述べた
。2019年2月25日、米軍普天間飛行場の辺野古移設を問う県民投票において、「反対」が有効投票の7割超となったことに対し「結果を真摯に受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と述べた。
なお、この件に関連して安倍は元
参院議員・
平野貞夫らにより
2019年1月28日、「
内乱罪を既遂した首謀者」として
刑事告発されている。
「
普天間基地移設問題」も参照
尖閣諸島問題
「歴史と
国際法によって、
尖閣諸島(中国名:
釣魚島)が日本の領土であり、中国と交渉の余地はない」と明言しており
、「日本と中国の間が異なる見解を有している」ことを認めている
小泉大臣就任記者会見録(令和元年9月11日(2018年)(水)22:03 ~ 23:07 於:環境省第1会議室)
1.
発言要旨
すいません。どうぞ。もう今日もぶら下がりで、皆さんから多くの質問もありましたし、官邸でも記者会見やったので、できる限り早く帰りましょう。
2.
質疑応答
(記者)読売新聞の安田と申します。
大臣就任おめでとうございます。2点お聞きします。まず最初にG20大阪サミットで出たブルー・オーシャン・ビジョンについて、プラスチックの対策ですね。10月に資源効率性対話は日本で行われることになってますが、掛け声だけでなく、その実効性のある削減を目指していくために何をすべきだとお考えなのか、それが1点。それからこの秋には気候変動のパリ協定から、米国が離脱する予定になっています。アメリカが一つ抜けるということは、枠組みにとって大きなことです。日本としてはアメリカと例えばヨーロッパをつなぐパイプ役みたいなものも期待されると思いますけれども、これから日本としてアメリカにどういうふうに働きかけをされていかれるというふうにお考えなのか、その2点についてお答えください。
(大臣)ありがとうございます。まず1点目ですが、海洋プラスチックにおいては、私も印象的だったのは、厚労部会長をやっている時に、自民党本部は、今年から、プラスチックストローをやめました。
それで、こうやっていろんなところで、少しでもプラスチックを減らしていこうと、そういった取組が出てきていることは素晴らしいことだと思います。そういう取組の一つ一つは、この前の大阪で決められたことの目標の達成に向けて、一つ一つやっていけばいいと思います。
ただ、実際に数字を見るとどうかというと、やはり世界全体のプラスチックの海洋への流出量これは中国が圧倒的です。100倍といってもいいですよ、日本の。ただ、一方で、日本の海洋プラスチックの1人当たりの排出量っていうのは、世界の中で、残念ながらベストスリー、この中に入ってしまいます。そういったことをもあるけども、日本としては、胸を張れるところは、この回収率は世界一です。9割超えてますから。そういうことをよくよく考えて、目の前のプラスチックやめようという取組とかはわかりやすいと思います。
そして、ペットボトルとか、国民生活に近いコンビニとかスーパーとか、日々の生活の中で実感しやすいことから始めていくというのは大切な一方で、本当に世界全体で、大きなインパクトのある動きに流れを変えていけるかどうかということを考えたら、より戦略的な取組を考えなければいけないんではないかと思います。例えば、日本が今まで先進的な技術、イノベーション、こういったものを持ってますから。仮にですよ、日本と同じような、この海洋プラスチックの取組や、それを支えるような社会、これが世界で広がった場合、もう何割、2割、3割ぐらいと言ってもいい、世界での海洋プラスチックの量は減らせるわけですよ。
だからこれから日本の技術の海外展開をしていくことも、目の前のわかりやすい、プラスチックストローとかペットボトルとかそういったものの取組と同時に大事なことだと思いますので、そういったことも併せて、しっかり取組を加速をさせます。
この大阪で約束をしたことというのは、イノベーションなくして達成できません。普通の、巡航速度でいったら、達成無理だと思いますね。ですので、このイノベーションに対する徹底的な取組と加速と、そして、海外国内、国内では国民運動に広げ、海外では、日本の取組を展開し広げていく。そしてアメリカの御質問が2点目だと思いますけど、アメリカ以上に、中国の海洋への排出量は大きいです。世界一が中国ですから。しかしアメリカも同時に重要な国であることは変わりません。
ただ、これはTPPのときの議論でもありましたけど、アメリカが離脱をするという、抜けても抜けなくても日本がやらなきゃいけないことに変わりがないことがあるわけです。だとしたら、努力として生産的だなと思うことは、抜けたからどうしよう抜けないならこうしようじゃなくて、抜けても抜けなくてもやるべきことをやる。
そして同時に、アメリカというのは、広い国です。大きい国です。私アメリカのワシントンそしてニューヨーク併せて3年間の生活をしてましたが、アメリカと言って一言で語れませんよ。日本に来た外国人の方が東京だけ見て日本のことを語れないように、アメリカは広いです。ワシントンDCってのは特殊なところで、本当に政治の町で、一方で中西部とか、他のところ行けば、全然、沿岸部とは違うアメリカが広がってます。だからトランプ大統領が誕生したんです。それを考えれば、トランプ大統領の思い、それはそれとして大統領として重要なことでありますが、カリフォルニアとか、いろんなアメリカも地域を見れば、日本以上に、先進的なイノベーションが起きている地域もあるし、そういった取組をしっかり評価しながら、後押しをしたり、連携をしたり、諦めない仲間たちを増やしていく。そこをしっかりと取り組むべきだと思っています。
私も総理から、海外での発信、海外に対する発信、そういったこともよろしくと、いうことを言われてますので、そういったことを念頭において、しっかりと仕事をしていきたいと思います。
(記者)朝日新聞の松尾といいます。
就任おめでとうございます。今まさに関連のことでお尋ねしたいのですが、9月23日に気候変動サミットがニューヨーク国連総会であります。そしてSDGsのハイレベルのもあります。こうしてそしてCOPもチリであります。こうしたイベントが並んでいます。環境大臣というお立場でそのサミットという場に、どういうふうに反映されるかちょっとわからないですが、これらのイベントにつきまして、国際発信という意味でですね、大臣、赴かれたりとか、何らか別のサイドイベントとかでの活動とか、何らか考えておられますでしょうか。
(大臣)そうですね。そこはスケジュールを環境省の皆さんとも調整をして、せっかくの機会ですから、状況が許せば、積極的にそういった場で発信をしなければいけないなと思ってます。
(記者)すみません。関連で一つだけ、今ヨットでヨーロッパからやってきたグレタさんっていう少女が、北欧から、ニューヨークの方に入っています。彼女がアメリカ横断してまた9月から冬にかけていろいろ活動するようですけども、彼女のような、若い環境を訴える人たちは、大臣にとってどのように見えますか。
(大臣)野球しかやってこなかった僕からするとすごいですよね。本当に授業は休むものだと思ってましたからね。授業が終わってから本番だと思って野球ばかりやってましたから。すごいね。
(記者)テレビ朝日の吉野と申します。大臣御就任おめでとうございます。ちょっと私から1点だけお伺いいたします。先ほどの中間貯蔵施設の考え方は、官邸でお伺いしました。その中でですね、またちょっと細部に入って申し訳ないんですけれども、今、その中でもですね、その減容化の一環として、公共事業の中で、除染土を使っていくと、それから飯舘村ではですね、これ、農業で再利用していくというふうに、地元の方の努力が、今一生懸命続けられてるんですが、こういう取組についてどのようにお考えでしょうか。
(大臣)はい。ありがとうございます。すべては、地元の皆さんの理解なくして実現なし。この1点に尽きると思います。以上です。
(記者)すいません補足で、これを前向きとしてとらえていかれるかどうかだけお聞かせください。
(大臣)減容化っていうのは不可欠です。そして、30年という福島県民の皆さんとの約束を、何としても守らなければいけません。その時にどうやったら、イノベーションの実現と地元の皆さんの理解、そういったものががっちりとかみ合う形を実現できるかというのは、やはり追求しなければいけないことだと思いますので、大前提として、地元の福島の皆さんの理解なくして、達成はないと、実現はないと。そのことを忘れずに、向き合っていきたいと思います。
(記者)TBS報道特集の膳場と申します。
今の質問にもあったんですけれども、伺いたいこと、汚染土について、2点あります。まずはその再生利用についてなんですけれども、再生利用を試験的に進めようとしていた自治体2ヶ所を取材しました。南相馬市と二本松市です。地域では根強い反対がありました。どのようにしておっしゃるような理解を得ていこうと考えていらっしゃいますか。具体的にどういった働きかけをなされるのか、そしてこの再生利用を続けるつもり、これは変わりがないのか、というのがまず1点。もう1つ最終処分場について、約束を守るとおっしゃいましたけれども、最終処分場の場所についてのめどが立っておりません。これはどのようにして地域を選定していくのか。イノベーションが必要だっておっしゃいますけれども、現状で足りていないのはどういった技術だと考えていらっしゃるのかを聞かせください。
(大臣)はい、ありがとうございます。1点目について、2点目についても、先ほどのテレビ朝日の吉野さんの御質問と同じ答えになりますが、地元の理解がなかったらできないと思います。だからそのために、理屈を超えた整理だったり、環境省の真摯な取組を強化していくことだったり、ありとあらゆることを考えなければいけないと思いますが、地元の理解が一番大事だと思います。
(記者)対話を重ねていくというようなことなんでしょうか。
(大臣)対話っていうのはどんな局面においても大事ですし、そしてあれだけ、原発事故の後に苦労されて、様々な避難を繰り返した方々、そして家族の中でも、分断が起きたり、友人、地域、様々な分断を生んだことは、事実だと思います。そういった中で、科学的な、そういった数字とか、結果とかだけで、完全なる理解を得られるかといったら、そんな単純な問題ではないと私は思います。ですので、今年も3月11日に、帰還困難区域の中に行って、私は折を見て、これからも帰り続けたいと思いますが、誰も戻れない、空気、景色、そして音もない、あの景色っていうのは、8年前の2011年の3月11日、東日本大震災と原発事故が残してしまった。その爪痕がいかに大きいか、これを自分の中でも、決して忘れさせないようにしなきゃいけないと、思うからでもあります。なので、そこのことを忘れないで向き合っていくのが、今膳場さんが言ったような課題もそうだと思います。
(記者)最終処分場の場所の選定についてはどうなさってくんですか。
(大臣)いずれにしても、見つけなければ、福島県民の皆さんとの約束は守れません。見つけるために、何ができるのか。それは絶対誰かが、答えを見つけなければいけない課題ですから。それを細部はこれから皆さんと、環境省の皆さんともしっかり議論をして、何ができるのかを考えていきたいと思います。
(記者)日本テレビの岩田といいます。大臣就任おめでとうございます。大臣、先ほどおっしゃられたように、今日で、福島原発事故、東日本大震災から8年と半年が経ちましたけれども、大臣はあれだけの汚染が起こってしまった、原発事故ということに関してどのように今お考えになられますか。
(大臣)二度起こしたら終わりだと思いますね。一つの国で。だから、思いを持って、復興に取り組んでいきたい。二度とあんなことを起こしてはいけないと。そして自分の中で何ができるのかということを考えて、継続的に足を運びながら、今広野町には、双葉未来学園という中高一貫校があり、とうとう中学校の入学式もこの前行きましたけども、ああいう教育復興ということに携わることで、教育というのは一過性の取組では責任持てませんから。これから長く、福島に関与し続ける、責任を果たし続けるというのは、政治家以前の私個人としても、思いを持っていることなので、この福島の強化を、福島で起きたこと起きていること、これを決して忘れない1人の政治家として、今日から環境大臣になりましたけど、しっかり取り組んでいきたいと思います。
(記者)それでもう二度と起こしていけないとおっしゃってますけども、原発の再稼働の原子力発電ということに関しては、防災大臣も兼ねられてますけれども、どのようにお考えなられますか。
(大臣)どうやったら残せるのではなくて、どうやったらなくせるのかを考え続けていきたいと思います。
(記者)共同通信の井田と申します。
御就任おめでとうございます。リサイクル、プラスチックの件なんですが、今リサイクル進んでるというのはおっしゃる通りなんですが、すでにレジ袋禁止したり有料化している国は世界で80以上ありますので、使い捨てプラスチックを規制してる国も20ヶ国30ヶ国ぐらいになってですね、元を減らすプラスティック、使い捨てプラスチックを削減するという意味では、日本の対策は非常に遅れているという私の認識なんですが、元を絶つという意味でこれから、法改正含めてですね、どのようなものが必要かと、必要だと考えたというのが、1点。それとつまらない質問なんですが、象牙の印鑑をお持ちでお使いになったことがありますでしょうかというのを伺いたいです。
(大臣)象牙だったかどうかわかりませんね。印鑑は使ってますけど。はい。1点目の点については、多分この中でも使ってる方がいるかもしれませんけど、洗顔のね、スクラブ。あれだってマイクロプラスチックでね。だけど、あれをセルロースでできるという技術。そういったイノベーションをさらに後押しをしていこうと、こういったことも環境省やってるわけです。
その取組などもさらに進めて、これ1個のイノベーションで、この大阪のビジョンというのが達成できるかと言われればできませんから、イノベーションが連鎖を起こして、次々にイノベーションを起こして達成できるというそのリズムをどうやって描けるかっていうのはまさに、国際的な協力も必要だと思いますし、今、お名前なんでしたっけ、井田さん、その井田さんがおっしゃったように、海外でね、日本以上に取り組んでいるところがあれば、それがどうやって社会の中で実際に成功するのか、その国によって様々状況もあると思うので、私も、そういった関係者とか、話を聞きながら、時間とか状況が許せば、そういったところも自分の目で見ながら、実現に向けて全速力で走っていきたいと思います。日本だったらきっとできると思います。
(記者)熊本日日新聞の並松といいます。
水俣病について2点お伺いします。水俣病は環境省が発足するきっかけとなった公害の原点です。公式確認から60年以上が経っているんですけれども、今なお被害、救済を求める認定申請でありますとか、裁判が続いている現状があります。大臣は、この問題に水俣病問題のですね、課題認識をどのようにお持ちかということと、どう向き合うと思っているのかというのが1点お尋ねです。2点目は、来月19日、10月19日に熊本県水俣市で犠牲者慰霊式というのがありまして、毎年基本的に環境大臣出席されていると思います。新しい大臣のこの出席についての考えをお聞かせ願いたいと思います。
(大臣)行きたいと思います。以上です。
(記者)1点目、お願いします。
(大臣)1点目。これは、環境省の皆さんからもいろいろ聞きましたけど、やはりこの環境庁の発足。この原点は、水俣病にあると。だからこそ、環境問題の原点は、水俣病だと。そして今でも、そういった被害に苦しんでいる方々がいることを決して忘れることなく、何ができるかは、考えてやり続けなければいけないと思います。私はまだ水俣に行ったことがないので、来月、国会始まってると思いますけど、行けることを楽しみにしています。(記者)行って、何を一番したいのかというのをお聞かせいただけますでしょうか。現地で。
(大臣)一番大事なのは、苦しまれた方々、そういった方々の今までの苦難、怒りや悲しみ、そういった心に思いをはせて、現場で何が起きたのか、行政として国として、これからもう二度とそういったことを起こさないように何が必要なのか、まさに、環境庁発足の原点。今はそれから、環境庁が環境省になり、次々に新しい所管分野を持つようになってきて、そして今までは、環境省=SDGs担当省と。そして環境だけじゃなくて、社会変革担当省だと。地球規模の課題に、どこの省庁よりも取り組むのが、環境省であると。その原点は水俣にあることを、全職員が忘れないようにという、その思いを代表して、大臣である私が行きたいと、考えております。
(記者)毎日新聞の鈴木です。
(大臣)官邸でもね。
(記者)はい。よろしくお願いします。今の会見の発言を聞いててちょっと気になったことがありまして、環境問題を解決するためにはイノベーションが不可欠だと。イノベーションの連続によって環境も何か解決していきたいというふうな御発言だと思うんですけれども、今の政府の方針としても、非連続によるイノベーションによってこう解決実現していくっていうような考え方を示しています。特にですね、例えばプラスチック問題については、廃棄されるプラスチックごみのですね、約7割ぐらいは企業の出すごみ、イノベーションだけに頼ってていいのかっていう考え方もあると思います。その地道な取組っていうのは、重要になってくるのではないかと思うんですけれども、その点についてはどう考えでしょうか。
(大臣)両方大事だと思います。イノベーションも不可欠だし、一人一人の、意識が変わり、行動が変わり、社会が変わる。その連鎖が起きて初めて、国や未来は変わると思います。なので法律ができてそれで終わりとか、そういったことではなくて、だから環境省がやっている国民運動だったり、環境教育だったり、様々な取組を通じて、1人の意識でも変われば、それが連鎖をして、社会が変わるかもしれないと。
だから社会変革担当省だと私は言っているんです。そこにはイノベーションも不可欠で、そのイノベーションは様々な分野で起きていますが、この環境分野におけるイノベーションというのは、私はもっと知られていいと思うし、そして海外にこれこそまさに人口が減ったって、世界の中での日本の経済のシェアが相対的に低くなったとしても、日本がどこの国からも必要とされるものはこの環境分野なんだと。これは、全世界から求められる、私はそういうふうなとこと思ってますから。このイノベーションを、強く打ち出していることが、一人一人の、小さな取組のことを、決して軽視しているということではないと。両方必要なんだということを忘れないように、これからも発信をしていきたいと思います。これから、そうだなと。イノベーションだけではなくて、そっちの方もね、ちゃんと訴えていかなければいけないなと思ったので、2回目ありがとうございます。
(記者)端的に関連でもう1点だけ。特にその気候変動に関して、日本の政府の考え方としては、その2050年以降、できるだけ早い時期に、CO
2の削減を目指していくっていうのは今課題点になっているんですけれども、そのイノベーションばかり考えるとですね、なかなかそこまでに向けた今後の約40年ぐらい。30年ぐらいですか。具体的にどうこうステップバイステップでこう、進んでいくかっていう計画見通しがなかなか見えない部分があるんですけれども、その点についてはどう考えでしょうか。
(大臣)イノベーションというのは、まさに、お名前何でしたっけ。
(記者)毎日新聞の鈴木といいます。
(大臣)鈴木さん。鈴木さんがおっしゃっている、多分イノベーションの議論の前提には、イノベーションが階段のように積み重なっていっても、そういう十分なのかっていうような思いもあると思うんですけど。イノベーションは階段ではなくて、エスカレーターとかエレベーターみたいなものですから。段階を追ってこう上がっていくのでなくて、非連続にスコンと上がるんですよ。だからこれは、まさに今、世界の中では再生可能エネルギーのコストっていうのが、イノベーションによって劇的な下がり方をしてますよね。ああいったことだって別に階段状で下がっている訳ではないです。
こういったことが、1日も早く起きて、達成不可能だと思われた目標が達成可能だというふうになっていくのがイノベーションで、だから最近、そういったことを、ムーンショットってあるじゃないですか。
あれはまさにケネディ大統領が人を月に送ると、そんなのできっこないよって言われてから8年で、やったんですよ。それだけ前にできたことが、イノベーションが、今の時代にできないとは私は思いませんので、イノベーションも大事、一人一人の構造の変化も大事。両方しっかり訴えていきたいと思います。
(記者)長野県の信濃毎日新聞の林と申します。
大臣就任おめでとうございます。6月にですね、軽井沢の方でG20のエネルギー環境大臣会合がありました。ちょっと最初の質問と重なる部分があると思うんですが、海洋プラスチックごみ削減に向けてですね国際枠組みの構築に合意をしたと。共同声明も発表されて、前原田環境大臣のもとでしたけれども、この国際枠組みが各国が自主的な対策を講じて内容を定期的に報告する共有するというものだと思います。
先ほど大臣、中国での流出が多いっていうふうな話ありましたけれども実態がまだよくわかってないっていう現状もあると思います。日本が国際的にですねどのようにリーダーシップを、この問題についてはっきりしていくのか、お考えをお聞かせください。
(大臣)様々できることあると思うんです。例えば、今、日本政府を挙げて、インバウンドの投資をやっていることも、日本来たら驚く方多いと思いますね。この社会を見て。こんなに清潔で、こんなに町中にごみがなくて、どうしてこんなことが成り立つんだろうかと。そういったきっかけで、一体日本ってどういう技術を持ってんのかと思っていただくことも大事だから、G20の場でショーケース的に、そういった技術の展示だったり、機会を見て、いろんな大臣、参加者が、その分野において日本がということをPRをしたりっていうこともありました。
ですので、これって、環境行政だけに関わることではないと思いますが、日本を見てもらうということと同時に、日本て、あんまり自分たちで、売り込まないんですよね、いいもの持っているのに。それを変えていかなければいけないから、私もこれから積極的に、こんなに露骨に売り込むのかと。これはアメリカ3年間の生活で大分鍛えられましたから。授業の中でね、静かにしていてしっかり座って良い生徒だなんてことはありえないから、もう、とにかく手上げて言わなければいけないしね。そういった姿勢で、ちょっとでも日本のことを世界に広げる、知ってもらう。
大臣として。すごい優秀な官僚、環境省の職員のみなさんいますから。今日1日だって、これだけ、1日で、たたき込んでくれてるんですよ。やってくれてるかどうかわからないけど、そういう皆さんと一緒にやれば、間違いなく、今まで環境省の中に眠っていた宝は、世界の宝になりますよ。だから、私は環境省の取組を知れば知るほど、発信力がなくてもったいないと思う。
なのでしっかり総理から言われたように、この分野ってのは、海外世界、そして国内双方において発信が必要だと。だからよろしくと言われたことを、しっかりと、発揮できるように取り組んでいきたいと思います。(記者)日本農業新聞の関山と申します。小泉大臣は農林部会長も進められていましたが、環境省はこれまで農水省など関係省庁と連携し、循環型社会の実現、鳥獣害対策など地方創生農山村活性化にも取り組んできました。環境省の地域振興、地方創生について今後大臣が力を入れていきたいことを教えていただきたいです。
(大臣)先週、富山県南砺市の世界遺産、五箇山に行ったんです。茅葺き屋根の合掌集落、数十分車で行けば有名な岐阜県の白川郷もあります。その地域に行ったのは、今でも茅葺き屋根で本当に生活されていて、集落として残っていて、別に茅葺き屋根の家で育ったわけではないのになんか懐かしく思うんですよね。
これやっぱり日本人だと思います。そういう、環境、文化、そして、日本の自然、そういったものを守りながらも、日本は人口は減るので、人工知能やロボットや、様々なオートメーションとか、徹底した省人化省力化、そして社会の高度化、そういったことをアクセルを踏んでやっていって、今まで守ってきたような日本のいい部分と、そしてこれから、日本が持っている最先端のテクノロジーの、ミックスだね。
この社会を新しい社会に、変えていけると私は信じているから、自分の中で、その景色を焼き付けたいなと思って五箇山に行ってきたんです。私のイメージは、五箇山の合掌集落の茅葺き屋根が、茅葺き屋根のドアを開けたら超ハイテクっていうようなものなんですよ。これイメージだったんだけど、実際にそこに移住してきた方と会いましたが、その方の家の中は茅葺き屋根の扉開けたら、まるで億ションみたいだっていうんですよ。
その五箇山の集落の方がね、そういったことを守り続けていく、こういった取組は、農林部会長時代に、棚田を守る、そういう取組も私はしてましたし、石川県輪島市の白米千枚田だという、千枚田がありますが、私はそこのオーナーなんですよ。そこの取組もそうですが、日本て、守るべき自然環境、すばらしいものありますよ。国立公園も、八つの国立公園を満喫してもらおうということでプロジェクトで指定をして、少しでもそれをインバウンドとか含めてね、取組を加速をさせていますけど、日本にはそういったところありますから、もしそういった部分で、農林水産省とか、他の省庁とも連携できることがあれば、積極的に連携をしていきたいと思ってまいす。(記者)NHKの杉田と申します。
ありがとうございます。気候変動の問題についてお伺いしたいんですけれども、先ほどおっしゃっておりましたけれども、最大のテーマであるけれどもまだ日本では関心が低いということをおっしゃっておりました。どうしたら、国民の関心が高まると思いますか。それをどのようなことを具体的に今後やっていきたいと思われますか。
(大臣)まず発信の強化、これは間違いなく必要だと思います。それが私が環境大臣に、安倍総理から、任命を受けた一つの理由でもあると思うので、海外と日本国内の環境問題に対する、政治課題、また社会課題としての、位置付けのギャップを埋めたい。切に、そう思います。そして私も、様々海外の方々といろんな繋がりがあるので、そういう時に本当に思うのは、これからの時代、地球規模の課題の、この気候変動の取組に対してどのような取組を日本がやっているのか。
そして、一人一人の政治家や国民は、どういう思いでいるのか。それが語られなければ、世界で勝負はできないと思います。ですので、これからの時代の必須科目、それが、この気候変動だと。日本は自然を大切にして、自然とともに生きてきた、それを世の中の力や社会の魅力に変えてきた国ですから。ちゃんとそれを国際的な協力や、日本のプレイヤーとしての力を高めていくことは、必ずできると思って、環境大臣として、この気候変動の問題は、日本国内でも、海外と同じかそれ以上に真剣に、メディアの皆さんも、政治も国民レベルでも、みんなが本当に一丸となって取り組んでいて、その結果こんな素晴らしい社会が人口が減ってもできたんだなと、だから人口減っても豊かさ活力を失わない社会が、実現できたんだと。そんな社会を築きたいと思います。
(記者)環境新聞の小峰と申します。
あなたの島、選挙区にはですね、横須賀石炭火力っていうのがね、今年の8月に環境アセスメントの手続きを皆終えてですね、四、五年先にはCO
2をもくもくと出すんですね。それで、あなたは気候変動だなんだと綺麗ごと言ってますけどですね、いっそのことですね、
東京電力の小早川社長呼んでね、もう中止したらどうかと、1号機の着工だったら2号機ではまだ100万キロワットあるんですけどね、そのぐらいのことで、隗より始めたらどうですか。それは今日の午前中の原田義昭大臣ね、この方は小早川社長を呼んでですね、それを言ってるんですよ。
事務局も寄ってたかって、これは大臣、もうアセスメント手続きが終わっております、何とか法のあれでどうのこうのと言って、それから首相官邸のですね、菅官房長官はですね、俺の島に手を出すな、なんて言ってるわけですよ。
でもこれ菅官房長官の島じゃなくてあなたの島なんですよ。それで、そういうことで、石炭火力をですね、具体的な視点はどうあれですね、小泉さん、あなたはですね、東京電力にですね。アセスの手続きは終わってるけれども、やめたらどうだと、このぐらいのことを言ってね、初めてね、価値のある会見だと思うんですよ。
(大臣)横須賀は、いいとこですよ。ぜひ、来てください。そこ見てください。本当にいいところです。あそこ久里浜なんですけどね。石炭火力は減らしていきますよ。それは日本政府の方針ですもの。私もそうなるべきだと思ってます。だけども、私は横須賀大好きで、小泉さん神奈川県民ですよねって言われても、いや、横須賀市民ですと、そう答えるぐらい横須賀が大好きです。
だけど政治家というのは、選挙区から選出をされているということを、地元の皆さんに感謝しつつ、一地域のために仕事をするのが国会議員ではなく、日本全体、世界の中に日本ということを考えて仕事をするのが国会議員の役割と私は思います。
特に大臣という立場において言えば、まさにそれこそ、横須賀だからということで、何かをやるっていうことは、私は大臣としては、それは違うというふうに思いますので、横須賀を愛する気持ちを持ちながら、大臣になってさらに横須賀に行く時間が少なくなったなあという、寂しいなあと思う気持ちを、環境を憂う、横須賀市民、三浦市民、皆さんの気持ちを決して無駄にすることないような環境行政の推進に、日本全体世界全体としてプラスになるようにやっていきたいと思います。
(記者)NHKの根本ですよろしくお願いします。
霞が関の働き方改革についてお伺いしたいんですけども、今日の夜の9時半から始まった幹部訓示でも、大臣ちょっと御指摘されてましたが、これまで政治家として霞が関及び永田町の働き方改革をずっと追求されてこられたと思うんですが、今回環境省率いる立場になられたわけで、環境省の働き方改革をこれからどういうふうに進めるのか。今日1日、官僚の皆さんとお話されてですね、メスを入れられそうなところがあれば教えてください。
(大臣)次の大臣が来る時があったらこの記者会見は時間変更すべきだと思いますね。まず最初に、何時ですか今、10時45分ですよね。そしてさっき官邸で、ぶら下がりをやって、あれだけ質問を受けて、そして官邸で記者会見もやって、そして、この記者クラブでやって。それを、1日の中でこの時間まで、環境省の職員の皆さんが残ってやるという、今までの慣例を辞めたいと。そして皆さんは、これやりたいですか。これ皆さんがやりたいんですか。
(記者)やりたいです。
(大臣)この時間に?
(記者)はい。
(大臣)そういう内容を求められている方が、もしもこの記者クラブの皆さんだとすると、全員とするとね、働き方改革っていうのは、難しいですね。だから私、幹部職員の方で、今日の朝から会っているんですよ。
だけど、メディアに画をやっぱり作らなければっていう、そういったことも含めて、幹部職員の訓示の姿をまずやってくださいと。もちろん中には今日、幹部訓示の中で初めてお会いした幹部の皆さんもいらっしゃいます。だけど、私はそういう形式的なことがあんまり好きではないので、こういう時間の中でどれだけ省けるかなと。
そして、そういったことを省きながらも、メディアの皆さんを通じての国民に対する発信というものをちゃんと果たすことの両立というのは、私はできるはずだと思っています。なので、願わくばこの時間の、この会見というのは、次の環境大臣が来られた際には、この日ではなくたっていいのではないかなと。
今日1日の流れを考えたときに、環境省の皆さんも大変だと思いますので、何かこう、危機管理上の何かとか、今すぐ説明責任を果たさなければいけないことがあるという時に、時間を問わず、こうやって発信することは間違いなく政治家としては大切だと思います。
だけど、今日1日の流れというのが、ぜひNHKの根本さんには、NHKはWEBでも、霞ヶ関のリアルという、そういう企画をやっていて、私厚労部会長のときに印象的だったのは、厚生労働省の若手職員の皆さんが叫びにも似ている、近い、もうこんな毎日死にたくなると、あれだけの叫びを提言としてまとめた。
そういう実態を見ていますから、何とかしたいと思いますね。なので、一つ一つ、自分のところからでもできることを確実にやっていきたいと思いますから、今日の、呼び込みの後のぶら下がりで官邸の中で申し上げたように、官邸の向かいである内閣府の本府から、この環境省の建物にわざわざ移動しなければレクができないような環境はやめていきたいし、逆に、環境省の皆さんがわざわざ仮に私が本府で仕事をしているときに、暑い中寒い中、忙しい中、移動の時間をかけて環境省から本府にいくようなコスト、そういったこともなくしていきたいと思うし、私は率直にそういった取組に対するメディアの皆さんの協力もぜひ仰げればと思っています。なので、若手職員の方にも意見を聞きながら、私になにができるのか。そういったことも、幹部の方だけではなくて、環境省の職員の皆さんにもコミュニケーション取りながら、聞いてみたいなと思います。
(記者)エネルギーと環境という専門誌の清水といいます。
2点ほど伺いたいんですが、
1つは、来年以降になると、解散総選挙も近いのではないかと言われてるんですが、それで、大臣が環境省に来たというのは、環境省が重要閣僚じゃないということで、そういう意味もあるんじゃないかと思うんですが、いいたいことは、環境省としての手腕を環境行政としての手腕を期待されたのではなくて、自民党としても、仕事というか、解散総選挙睨んだ、そういうことを期待されているという指摘もあるんですけども、その点をどう思われますか。これが1点。
もう1点は原子力について、やっぱり地球温暖化の観点から原子力は必要だという指摘も相当あります。これについて、小泉純一郎さんのことも含めて、どう思われていらっしゃいますか。以上二点です。
(大臣)1点目は、エネルギーと、なんていう雑誌でしたっけ。」
(記者)エネルギーと環境です。
(大臣)エネルギーと環境の清水さんが1点目の質問というのは、政治部みたいですね。誰が来たら、重要閣僚だって思うのかは、エネルギーと環境、そこで書いていただければ面白い政治コラムになるのではないかなと思います。
環境省の課題は、どんな閣僚が来ようと、世界の最重要課題でしょう。そこに充てられたと。ありがたいことです。
二点目。うちの親父にぜひその雑誌のインタビューしてください。私は、さっき言ったように、二度と原発事故起こしちゃいけないと。1つの国で二度やったら終わりだと。本当そう思いますよ。特にこれだけ、いつ地震が来るかわからない、台風の規模も大きくなっている、そして、天災は忘れた頃にやってくるという日本の昔から伝わってる言葉は、私もう、終わったのではないかと思います。忘れた頃どころか、天災は、常にやってくる。忘れる暇がないですよね。
そういう中で、どうやったら残せるかということを考えている一部の人たちは言うかもしれませんが、どうやったら、なくても、経済や雇用とか、そういったことを、悪影響を与えることのない、自然を再生可能エネルギーとして、社会の中で実装して、そして、事故の教訓に怯えることなく生活ができる、日本の未来というものを、どうやって描けるかということを考え続けていくことも、私はやってみたいと思いますので、
そういった未来を描くのも、イノベーションが絶対に不可欠です。そして国民の一人一人の意識と行動の変化の連鎖が社会の変化に繋がるので、今日1日目ですから、これからも清水さんよろしくお願いします。
(記者)日本テレビの森と申します。
よろしくお願いします。大きく2点お尋ねなのですけれども、ちょっと別々に尋ねさせてください。一つ目は原子力の問題です。福島に精力的に通われてることよく存じ上げています。あの事故の原因というのは、いろんなところが調査したりとか、出してますけれども、大臣として事故の原因はどこにあったのか、御自身としてどのような総括を持ってらっしゃるのか。そして事故によって環境が非常に破壊されましたけれども、あれは公害に当たるのかどうか、この点についての大臣の考えをまずお聞かせください。
(大臣)黒川さんが委員長やられて、国会事故調がありました。国会事故調の報告書の中にも、規制官庁と推進官庁の関係がいつしか規制官庁が推進官庁の虜のようになってしまったと、そういったことを断罪されました。そこがポイントだと私は思います。そういった中で、環境省も変化を遂げて、今までは除染・中間貯蔵、規制庁、原子力防災、まさに私がその部分を担当する日が今日なのですけれど、あの事故調の報告書を直視して、そこから教訓をこれからの社会づくりに、そして福島や東日本大震災の被災地の復興に生かしていきたいと思っています。2点目は何でしたか。
(記者)公害という考え方です。環境基本法での公害には、放射性物質が当たらないということに法律上なってますけれども。
(大臣)細部のことにわたっては、これからしっかり官僚の皆さんと話していきたいと思います。
(記者)あともう一点だけ。エネルギーミックスのことなのですぐ終わります。2030年のエネルギーミックスについて政府として方針を決めてます。これまでの話や大臣とのやりとり聞いておりますと、「石炭火力は減らす」、それから「原子力もできるだけ減らしていきたい」、そうするとやはり再エネは今の2030年のエネルギーミックスの考え方ではやはり少し不十分で、再エネをもっと増やしたほうがいいと、このように考えてらっしゃるということでよろしいでしょうか。
(大臣)思います。
(記者)日本テレビばかりで申し訳ありません。日本テレビの後閑です。
この度は就任おめでとうございます。先月地元であった報告会の方で、これからの10年、日本らしい日本を作っていきたいという御発言ありましたけれども、環境大臣として日本らしい日本というところのテーマでどういった取組をされていきたいと思っていらっしゃいますでしょうか。
(大臣)環境省が取り組んでいる気候変動対策、そして、自然環境を守る取組、国民運動、環境教育、イノベーションの推進、このありとあらゆる取組はすべて日本にしかできない世界への貢献になりうると思っています。
私は日本らしい日本という言葉を、これからの未来づくりのキーワードとして掲げていますが、日本らしい日本という言葉の中に、そしてそれを政策に落とし込んでいったときに、環境分野、気候変動その部分において、日本らしい日本の核となる政策分野は間違いなく、この環境分野になるだろうなと。
だから、環境省という省は、社会変革担当省、SDGs担当省だと。そういった思いを持って取り組むと言ってるのは、環境だけを考えてるのが環境省ではないと。社会全体に、大きな変革を起こして、一人一人の国民の行動が変化をし、社会全体を歯車が回ってくように変えていく。そういった、夢のある取組をやっているのが環境省だと思いますので、その思いをともにかみ合わせて、良い日本を作っていきたいと思います。
(記者)エネルギーフォーラムの松﨑と申します。
よろしくお願いいたします。カーボンプライシングについてお伺いしたいのですけども、長年導入の是非をめぐって経済派と環境派の意見の溝がちょっと埋まらないような状況が続いてる中で、この前、環境省の次年度の税制改正要綱の方に文言が入ったという状況なのですけども、大臣は炭素税なり排出量取引なりにどのようなお考えをお持ちなのかお聞かせください。
(大臣)この秋以降の、税制改正の中でも一つのテーマになると思います。今日もその話を官僚からも受けましたけれども、単純に、例えば経済界と、環境省とかそういった取組を推進したいと思っている側がぶつかっているという単純な構図ではないなと思います。経済界のイベントとか、様々な場に私はいつも行きます。ちょうど3日前の9月9日に経済同友会のイベントにも出席をして、パネルディスカッションに出ましたが、その中で同友会の幹部の1人の発言は、「よく経済界経済界と言うけども、経済界という界はないよ」と。
「今の時代、一社一社によって全然違うから」と。「まとめて経済界と言っていると便利だから言ってるけども、そんなことはないよ」と。私は一言に表れてると思います。ですのでこの問題も、業界によって立場は違うし、意外なことに理解を示してくれているところもあると聞くし、前に進めていくためには、そういうきめ細かい構図の見方、その中でどこに理解を得られれば、前に進めていけるのか。大きな一歩をすぐではなくても間違いない確かな一歩を足跡として刻んで、その後に踏み込んでいけるのかということはすごく大事なことだと思うので、経済界イコール反対だとか、そういった誤解を、また偏見とかバイアスを、先入観を持つことなく、しっかりとコミュニケーションをとって、どういう形で前に踏み出せるのかなということは、考えてみたいと思います。
あとは環境省イコール環境環境環境ばかりで、経済や雇用のことは全く考えてないといわれるようなステレオタイプな見方。そういったことって今そんなことないなというのが今日1日だけでもよくわかります。確実に環境と成長の好循環を実現をして、脱炭素社会を築いていくのだと。そういったことというのは、私は環境省も経産省も、そして経済界も、そして多くの国民の間でも、そこは共通の認識なのではないかなと思っています。
(記者)すみません。その上で、必要だというお考えということでよろしいでしょうか。
(大臣)何がやるべきことか。どういうふうに税制改正に向けた準備、そういったことをするのかはこれからしっかりと考えていきたいと思います。(記者)フリーランスのハタケヤマと申します。中間貯蔵施設等最終処分場の件で伺いますけれども、30年で福島県外に移すというのが福島県との約束ですけれども、福島県が引き受けたくないと思っているものを、他の地域で、現実的に引き受けてくれるとお思いかということです。30年で絶対に県外に移すという約束ができるのであれば、その根拠がどこにあるのか、国への信頼が揺らいでいますけれども、根拠を教えていただければと思います。
(大臣)やります。それが約束ですから。
(記者)共同通信の竹尾といいます。
御就任おめでとうございます。最後の質問として、かなりそぐわないものかと思って恐縮なのですが、来年の終戦の日のことなのですけれども、小泉大臣は当選以来、終戦の日に靖国の参拝を続けてこられていると思いますが、安倍政権はここ3年間は全閣僚が参拝を見送るという形をとっています。
来年の8.15はどうされますかということと、もう一点、官邸でもぶら下がりの際に、育児休暇の話題も出まして、賛否両論と随分騒ぎになっていると仰いました。この点についてやはり世間は、小泉議員の情報発信力があるからこそ、小泉さんが取れば社会が変わるんじゃないかとそのイノベーションに期待されてる部分があるかと思いますが、その点について、三つの大事な要素を両立させるという、国会議員ならではの難しさはあると思います。環境省ここにきて、改めてその点の考え方を教えていただけますでしょうか。
(大臣)育休については、私が横須賀で個人演説会をやって、あのときのぶら下がりから始まっているのです。あれの文字起こしを見ていただけると。私は取るとも取らないとも両方言っていないと。記者の方からどうするんですかというふうに言われて、「率直に検討してます。」と言ったらこうなっているのですね。
そしてあの時に言っている、一番伝えたかった思いというのは、子供が生まれてからのことではないのです。子供が生まれるまでのことなのです。私の妻は今41歳で、来月42歳になりますが、高齢出産です。だから私の気持ちとしては、本当に無事を願ってます。元気に健康で過ごして欲しいし、その日を迎えて欲しい。だけど、8月から激動の日々で、変化が著しくて、さらに、今日私が大臣になるということもありましたから、本当に大変だと思います。だから私としては、大臣になったから、家のことはよろしくではなくて、大事になったから家のことをもっと頑張ります。そういう時代だと思います。
そして、育休というこの2文字で、こんなにも人の受けとめとは多様なのだなということを今回学んでいます。育休の実態を、例えば1年、休むと思い込んで受けとめている方とか、私はそうではないと、様々な形があるのだと。そしてその形というのは、固定化して決めることではなくて、まさに夫婦の中で、どういう形をとることが、その夫婦にとって一番良い形の育休になるのかということによって決まってくるのが、どのような形の育休なのかということだと思うから。政治家としての先輩でもある、鈴木英敬三重県知事に連絡をして、どう取ったのですかと聞いてみたら、今日私が官邸のぶら下がりで言ったような、まとめて取るのではなくて、飛び石というか、取れる時に取る。
また、2人目のお子さんが生まれたときは、奥様が朝のサポートが必要としているということだから、30分県庁に行く出勤の時間を遅らせる形を3ヶ月間とると、そういう形で2人目はとりました、そういうお話を聞いて、いかに育休という形が、その家族によって様々で、多様で、そういう実態かということを、この際、世の中の皆さんにもお伝えできればという思いでお話をしました。だけど、政治家ですから、一般のお勤めの方と状況が違うということはその通りです。ですので、大事な三つのポイントだと言ったのは、公務最優先、そして危機管理は万全にする、そして3点目が妻の不安を払拭する。そういったことをしっかり踏まえて、どれが一番いいのかなということを考えていきたいと思いますが、最初に言った通り、無事に元気に。今日の日をきっかけに、ますますストレスたまると思いますよ、犬の散歩行くのも簡単じゃなくなるのだから。そこを全力で考えたいと思います。
(記者)1点目の、8.15の件は。
(大臣)よく考えます。以上です。それではみなさん、長時間、11時過ぎまでありがとうございました。
(以上)