日本の島々-1


2024.08.04-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240804-PBUZUMV52FPP5IMZZZQVRGOOWE/
硫黄島からの手紙の「未来」 歴史の証言となるために-日曜に書く 論説委員・藤本欣也
(ふじもと きんや)

  一冊の名著がある。梯(かけはし)久美子さん『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』。正直に言うと、私はこの本をまともに読むことができない。己の不明を恥じるが故である。

  終戦の5カ月前、太平洋の孤立無援の島、硫黄島で兵力・物量ともに勝る米軍を相手に激戦を繰り広げ、戦死した栗林中将の物語だ。彼の辞世の句「国の為(ため)重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」が、大本営によって「散るぞ口惜し」に改変され発表されていたことを世に知らしめた本である。
  梯さんはこの史実を、栗林中将が硫黄島から家族に書き送った41通の手紙などの内容とともに本の中で明らかにした
  実を言えば私も、栗林中将の硫黄島からの手紙や電報を手に取って読んでいたのだ。梯さんの本が出る10年も前の1995(平成7)年にである
亡き父の教え
  当時、栗林中将の妻、義井(よしい)さんは、長男で建築士の太郎さん一家とともに東京都昭島市に住んでいた。私はそのころ、連載「声なき声語り継ぎ 戦没者遺族の50年」の取材中だった。
  戦中戦後の混乱にもかかわらず、硫黄島からの手紙は大切に保存されていた。しかし私が注目したのはその内容ではなく、家族がどう読んだかだった
  「お前は今迄意思の鍛練(たんれん)と云(い)ふ事を真剣に考へ、それに努力したかと云ふと必ずしもそうではないと思ふ。将来男として一家を立てる事は難しく、必竟(ひっきょう)人世の落伍(らくご)者となる…」
  44(昭和19)年11月、20歳になった太郎さんに宛てた手紙だ。「意思の鍛練」「将来~難しく」の横に赤線があった。太郎さんが父の教えを忘れないようにと引いたものだった。
  文字が黒く塗りつぶされた義井さん宛ての手紙もあった。義井さん自らがペンで消したという箇所には「遺骨は帰らぬだろう…」などと書かれていた。
  〝軍神の家〟栗林家の戦後は一変した。40歳を過ぎた義井さんには大学予科生だった太郎さんと、10歳のたか子さんが残された。取材の際には戦後の苦労について多くを語らなかった義井さんと太郎さん。ただ、手紙からははっきりと、妻と子の声なき声が聞こえてきたのだ。
  たか子さんにも取材をした。当時、埼玉県川口市で幼稚園の園長を務めていた。「実は、硫黄島(で戦死した将兵)の遺族の方が私たちの家にお金を無心に来たことがありました、何度もね」  幼稚園でこう明かしたたか子さん。付近の通りに、市議を務めた彼女の長男のポスターが貼られていたのを覚えている。
戦争の悲しみ
  国会議事堂を見下ろす大臣室で、新藤義孝氏(66)に会ったのは先月下旬のことだ。・・・あれから約30年。たか子さんの長男、つまり栗林中将の孫は国会議員に上りつめ、経済再生担当相の重責を担っていた。
  「母には『自分はどうあるべきかを考えなさい』と厳しく鍛えられましたよ。『最も栗林忠道の性格を引き継いでいるのはたか子だ』と親戚の間で言われていましたから」・・・祖母の義井さんについては「上品で怒ったところを見たことがありません。でもそういえば、心から笑ったところも記憶にないですね」と振り返る。・・・「戦争の悲しみは決して癒えないということ。二度と国全体がそんな状態にならないようにするのが、私たちの務めです」
歴史の証言へ
  栗林家を約30年ぶりに訪ねた。義井さんは2003(平成15)年に99歳で、翌年にたか子さん、その翌年に太郎さんが相次いで亡くなっていた。太郎さんの長女、快枝(よしえ)さん(65)に改めて硫黄島からの手紙を見せてもらう。湿気を防ぐパラフィン紙とともに、クリアファイルに保管されていた。紙は劣化しているが文字はまだ判読できる。歴史的に貴重な資料をどう残していけばいいのか快枝さんの悩みである。彼女もまた栗林中将の孫なのだ
  先月、新著『戦争ミュージアム―記憶の回路をつなぐ』を上梓(じょうし)した梯さんに聞いてみた。
  「家族が手放したくないという間は家族が保管すべきです。でも、家族のものから『歴史の証言』になる時点があります。そのとき、硫黄島からの手紙をどこに託したらいいのか。日本には、あの戦争全体を振り返るような博物館がないのです」
  散るぞ悲しき―。来年、戦後80年の節目を迎えるこの夏、硫黄島からの〝声なき声〟がまたひとつ聞こえた、と思った。(ふじもと きんや)


2023.11.01-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20231101/k00/00m/040/195000c
硫黄島、噴火で直径100m程度の新島 火山予知連に報告
【山口智】

  小笠原諸島の硫黄島の沖合約1キロで噴火が起きているのを、毎日新聞社機が10月30日に撮影した。航空取材に同乗した東京大地震研究所の前野深准教授(火山地質学)は1日、一連の噴火で直径100メートル程度の新島が形成されたと、火山噴火予知連絡会に報告した。

  気象庁などによると、この場所では10月21日に噴煙や火山性微動が確認され、その後に噴火が発生。噴火は現在も続いている。また、海上保安庁の航空機が10月上旬にこの地点を撮影した写真には、新島は写っていなかった。このため、新島は今回の噴火で形成されたとみられる。
  新島は岩塊でできており、噴火地点のすぐ北側にある。前野さんによると、島の形状や、島から軽石と変色水が流れ出ていたことなどから、今回の噴火地点を含め、少なくとも2カ所で噴火が起きていた可能性があるという。
  硫黄島では近年、火山活動で島の隆起が続いており、この10年間で約10メートル隆起した地点もある。国土地理院によると、島の面積は隆起に伴い年々拡大し、2022年1月撮影の写真では15年に公開した従来の地図に比べて面積が約1・3倍の29・86平方キロに拡大、一部の海岸線は海側に最大約800メートル前進したという。
  前野さんは「硫黄島は世界でも最も隆起速度が速い火山の一つ。地下にマグマが蓄積していることは間違いなく、今回はその一部が漏れ出していると考えられる。流出している軽石の量が多いので、近くを航行する船は注意が必要だ」と話した。【山口智】


2023.02.28-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230228-GTM4ZFFMQNOOVKRLPOYXZCIHXY/
日本の島の数倍増、1万4125に 北方領土は衛星画像で調査

  国土地理院は28日、約35年ぶりに日本全国の島を数え直した結果、これまで公表されてきた6852から1万4125に倍増したと正式に発表した。北海道は509から1473と約3倍になった。領海の外縁を根拠付ける国境離島の数や領土、領海の広さには影響しないという。

  国土地理院によると、これまでは縮尺2万5千分の1の海図を基に海上保安庁が昭和62年に公表した島の数が幅広く使われていたが、測量技術が進化し、調査精度が大幅に向上。より正確に把握できるようになった。ロシアによる不法占拠が続き上空を飛行することができない北方領土を除き、解像度の高い航空写真を用いて計測したという。北方領土は衛星画像を使って調査した
  コンピューターを使った計測では、ごく小さな島を含め全国で12万729の陸地が見つかったが、地理院はこのうち満潮時でも水面上にある外周100メートル以上の島という条件で選び出した。人工島や湖の島、河川の中州なども除外した
  湘南を代表する観光地の江の島(神奈川県藤沢市)はこれまで、外周100メートル以上の島が2つあると数えられていたが、詳細な地図で確認したところ7つだったことが判明した。
  地理院の担当者は「近年、国土や領土に対する関心が高まっているので調査した。測量技術の進化でより細かく数えられるようになり、1つの島として地図に描かれていたが、実際には2つに分かれていたケースもあった」と話した。


2023.02.13-47 NEWS(KYODO)-https://www.47news.jp/8938521.html
日本の島、1万4000に 35年ぶり数え直し、倍増

  政府が日本全国の島を35年ぶりに数え直した結果、総数がこれまで公表されてきた6852から1万4125に倍増する見通しであることが13日、関係者への取材で分かった。地図の電子化に伴い調査精度が大幅に向上し、正確に把握できたためで、3月にも公表する方針。国土地理院が最終的な調整を進めており、数は変動もあり得る。

  領土や領海の広さは変わらない見込み。教育現場などで使われる各種資料の記述に影響を与える可能性がある。島の数はデータが古いまま長く放置され、実際と大きく異なると指摘されていた。
  今回は地理院の2022年の電子国土基本図をベースにコンピューターで自動計測。人工的に作られた埋め立て地などを除外するため、過去の航空写真などと照合した。条件に合致する島は小さいものを含め10万以上見つかったが、外周100メートル以上の島を選び出した。沖ノ鳥島など法令に基づく島も数に含まれる。
  領土の面積は同じ電子国土基本図が基になっており、変更はないとみられる。
(KYODO)


2023.01.19-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230119-IBCDBAQ4UJMGZCKQK4MBLLSYPQ/
<独自>パソナが万博パビリオンの淡路島移転検討 会期終了後に-(黒川信雄)

  大阪・関西万博に民間パビリオンを出展するパソナグループが、令和7年10月の万博会期終了後、パビリオン施設を兵庫県の淡路島に移転することを検討していることが19日、分かった。パソナは2年9月から淡路島への本社機能移転を進めているほか、淡路島で飲食店や宿泊施設も展開しており、パビリオン施設を新たな目玉として活用する方針とみられる。

  大阪万博はSDGs(持続可能な開発目標)への貢献を目標に掲げ、パビリオンや会場内の施設の再利用が重要な課題となっている。会場内に設置される木造の大屋根についても、資源を有効利用するため閉幕後に解体し、売却する方針が決まっている。
  パソナはまた同日、パビリオンの外観と建築コンセプトの概要を公表した。建築コンセプトは心臓(いのち)の螺旋(らせん)~アンモナイトからiPS心臓(いのち)まで~」で、アンモナイトのような独特のらせん状の形状をしている。パソナはアンモナイトが「約4億年前に誕生し、氷河期などを乗り越えて長期間にわたって繁栄」したことから、人類にとって「大先輩」にあたるとして、この形状を採用したと説明している。

  パビリオンでは、人工多能性幹細胞(iPS細胞)から心臓の筋肉の細胞を作製し、シート状にした「心筋細胞シート」などの最新の科学技術を紹介するほか、「からだ・こころ・きずな」をテーマにした展示も行う計画という。(黒川信雄)


淡路島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  淡路島は、瀬戸内海東部に位置する。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に面積が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で、人口は離島の中では最も多い約13万人。令制国淡路国の主要国域を占める。近畿地方兵庫県に属し、現在は北から淡路市洲本市南あわじ市の3市で区分される。日本神話国産みの島としても知られる。
  古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。淡路洲本城主である筆頭家老稲田家と蜂須賀家との対立に端を発した庚午事変の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。気候が温暖で、農業が盛ん。特に酪農タマネギ栽培がよく知られる。第二次世界大戦中までは、要塞地であったため、観光地として発展することはなかった。しかし、1950年国立公園に編入されて以降、鳴門と抱き合わせでクローズアップされ出した。2016年以降は、パソナグループ、さらに飲食業のバルニバービがこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、播磨灘の美しい夕日を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた。
概要
  北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が広がっている
  グアム島やシンガポール島とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、択捉島国後島沖縄本島佐渡島奄美大島対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位(約13万人)である。
  大阪湾播磨灘紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎明石海峡に、南東端の生石鼻紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞむ。本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州四国と繋がっており、1985年に大鳴門橋、1998年に明石海峡大橋が完成して南北が地続きとなった。
  北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫る。また周囲の主な属島には紀淡海峡の成ヶ島、紀伊水道の沼島がある。
気候
  全島が瀬戸内海式気候(年間平均気温約16℃、年間降水量約1300mm)の区分に属するが、諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混じる。このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にある。 近代以降もダム建設が行われてきたが、1999年平成11年)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mmの2条の水道管による本土導水が開始された。台風銀座であり第2室戸台風をはじめ、多くの台風が通過している。
地理
 地形と植生
   以下の分類は『土地分類図(地形分類図)経済企画庁総合開発局 昭和49年(1974年)発行』による。
 淡路山地
   淡路島北部と南部に分かれる地塁山地砂岩礫岩頁岩で形成される。諭鶴羽山柏原山先山の3峰は「淡路三山」と呼ばれる。
   森林面積は島の総面積の51.7%を占め、北淡山地と諭鶴羽山地にスギヒノキの人工林があるがその比率は8.6%にすぎず、ウバメガシシイヤマモモなどの照葉樹林が広がる。また諭鶴羽山には県内一のアカガシ極相林が見られる。
 津名山地
   島の北部、明石海峡から淡路平野までの山地。多くの活断層撓曲が見られ南部より北部のほうが起伏が大きい。白亜紀花崗岩の上に大阪層群が覆う。平地が少ないため中部東側の海岸には淡路市の市街地が南北に伸び、埋立地が造成され、西側海岸には棚田が見られる。
  北淡山地
   標高522m の妙見山を主峰とする津名山地北部。北東の六甲山へ伸びて六甲・淡路断層帯を形成している。
  千山山地
   標高448mの先山(淡路富士)を主峰とする起伏の小さな津名山地南部。東側に先山断層が通る。
 津名丘陵
   千山山地の西側、播磨灘に面した丘陵。志筑断層で北淡山地と分けられる。
  諭鶴羽山地
   島の中南部、淡路平野から紀伊水道までの起伏の大きな山地。白亜紀の花崗岩の上に和泉層群が覆う。東部に標高569mの柏原山、中部に標高525mの兜布丸山(かぶとやま)、西部に標高608mで淡路島最高峰の諭鶴羽山がある。兜布丸山は洲本川の、諭鶴羽山は三原川の水源である。諭鶴羽山地の南側は中央構造線の断層崖のため急斜面になっていて、みかん・ビワが栽培されるほか、水仙の自生地がある。
  西淡山地
   三原平野の西部、鳴門海峡との間にある海抜200m級の山地。標高265mの南辺山など。
 淡路平野
   島の中南部、大阪湾へ注ぐ洲本川河口から播磨灘へ注ぐ三原川河口へかけて島を南北に分かつ沖積平野
 洲本平野
   洲本川が流れ、河口洲に洲本市の人口密集地が広がる。
 三原平野
   三原川が流れ、水稲タマネギレタスなど路地野菜の栽培地が広がる。
  諭鶴羽北麓台地
   三原平野南部から諭鶴羽山地北部へかけての砂礫質の台地。
 吹上低地
   吹上浜で紀伊水道、鳴門海峡にのぞむ。
海峡
 明石海峡
   北端の松帆崎と、本州の兵庫県明石市の間にある海峡。峡間は3.6km。潮流が早く、古くから海の難所である。全長3,911mの世界最長の吊橋明石海峡大橋」が架けられているほか、高速船「淡路ジェノバライン」が運航。
 紀淡海峡(友ヶ島水道)
   南東端の生石鼻と、本州の和歌山県和歌山市の間にある海峡。峡間は約11km。海峡内に4つの島があり、最も広い淡路島 - 友ヶ島間でも4.7kmである。航路などはない。費用対効果の面から今後も往来実現の可能性は低い。
 鳴門海峡
   南西端の門崎と、四国の徳島県大毛島北東部の孫崎の間にある海峡。峡間は約1.4km。激しい潮流のため海の難所である。全長1,629mの吊橋「大鳴門橋」が架けられている。架橋にともない航路は廃止された。名勝に指定されている鳴門では、瀬戸内海と外海(太平洋側)の潮位差により起こる「鳴門の渦潮」が著名。淡路島からは観潮船「うずしおクルーズ咸臨丸・日本丸」が毎日運航、間近で渦潮を体感することができる。なお、大鳴門橋には渦潮見物のための遊歩道「渦の道」が併設されているが、入口が四国側のみ、淡路島側からは利用不可。
歴史
 古代
   『記紀』の日本列島国産み神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島である。『古事記』では淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま、あわじのほのさわけのしま)と記される。
   『先代旧事本紀』「国造本紀」には、仁徳天皇の御代に淡道国造が設置されたとの記述があり、『日本書紀』では淡路洲と記される。海人族とされる阿曇浜子によって水軍が形成され、初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。
   古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室朝廷(にえ)を貢いだとされる。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。
 近世
   江戸時代になり徳川家康は大坂の陣で貢献した蜂須賀氏に従来の阿波国に加えて淡路国を加増した。その際、蜂須賀家の家祖蜂須賀正勝(子六)と義兄弟の契りを結び蜂須賀家の家臣となっていた稲田植元、その子の稲田示植、そして孫の稲田植次の活躍が特に大きかったため、徳川家康の命により稲田氏が淡路一国を支配する城代に代々任じられる事となった。
   ただし蜂須賀家にとって稲田氏はあくまで一家臣に過ぎず、しかし稲田氏では代を重ねるごとに徐々に蜂須賀家からの独立意識が芽生え、次第に軋轢が生じるようになる。明治維新では、佐幕であった蜂須賀家に対し、稲田氏は倒幕・新政府側に立って活動した。それにも関わらず家臣は士族ではなく卒族とされた(陪臣とみなされた)ために、稲田氏側は淡路を阿波藩から分藩独立することを画策した。その動きに対し庚午事変(稲田騒動)で蜂須賀家側が一方的に稲田氏側を殺傷したことより確執は決定的なものとなった。それが遠因となり、1876年に初代兵庫県知事となった伊藤博文が大きな領域を望んだこともあり、淡路は阿波と別れて兵庫県に編入されることになった。以来、兵庫五国の一角として発展している。
 年表  ・1871年12月26日 - 名東県が成立(阿波国・讃岐国・淡路国)   ・1876年8月21日 - 兵庫県に編入   ・1940年2月11日 - 洲本町の市制施行により洲本市が成立   ・1970年9月16日 - 台風第25号の接近に伴う集中豪雨三原川洲本川など島内の河川が氾濫。7000戸以上が床上・床下浸水。   ・2005年1月11日 - 南部の4町の合併で南あわじ市が誕生   。2005年4月1日 - 北部の5町の合併で淡路市が誕生
 行政
   兵庫県は地方自治法に基づく支庁として、淡路島全域を管轄する淡路県民局を洲本市に設置している。
   1965年昭和40年)以降、洲本市津名郡三原郡の1市10町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005年平成17年)1月11日には三原郡4町(緑町三原町西淡町南淡町)が南あわじ市に、同4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町北淡町東浦町一宮町津名町)が淡路市となった。残る五色町は2006年(平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに洲本市となった。これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっている。淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかった。
   衆議院の小選挙区は「兵庫県第9区」(上記3市ならびに明石市)であるほか、兵庫県議会の選挙区は各市ごとの選挙区(それぞれ定数1)である。人口は、昭和30年代には20万人を超えていたが現在では約13万人である。
 地域
   淡路島の南北に神戸淡路鳴門自動車道が縦断する。島北東部の大阪湾に面する海岸線に沿って国道28号が走り、津名港がある。このうち、南東部の洲本市周辺の洲本平野から南西部の南あわじ市(旧南淡町)へ通じる部分を四国街道と呼ぶ。
   島北西部の播磨灘に面する海岸線に沿って、南あわじ市で三原平野西部を縦断する兵庫県道31号福良江井岩屋線が走っている。かつて島内には1922年大正11年)から1966年昭和41年)にかけて洲本と福良をむすぶ淡路交通鉄道線が存在したが、以降は路線バスに置き換えられており、鉄道路線はなくなった。
   市外局番島内全域0799であるが、淡路市(津名MA)と洲本市・南あわじ市(洲本MA)との相互通話には市外局番が必要である。MA(単位料金区域)の統合は現在実施されていない(2009年現在、全島でMA統合が実施されたのは2005年6月の佐渡島のみである)。
   自動車のナンバープレートは「神戸ナンバー」(神戸運輸監理部兵庫陸運部魚崎庁舎)である。
 メディア
   1877年に安倍喜平によって淡路新聞が発行された。地域紙としては極めて早い時期に誕生したものといわれており、昭和50年代まで刊行された。
   島内にコミュニティ放送は無いが、2018年10月よりインターネットラジオエフエム・ギグ淡路島にんぎゃかステーションが開局している。
 「10% 都市圏(通勤圏)」
   一般的な都市圏の定義については都市圏を参照のこと。
  都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷
   10% 通勤圏に入っていない自治体
文化
   島内には伝統芸能や農業から生まれた民間信仰、独特の習俗などが多く残っている。ここではその内の一部をリストアップする。
  伝統芸能
   ・淡路人形浄瑠璃 - 室町時代末期に南あわじ市市三條で始まったとされる。三条八幡神社に発祥の地の碑がある。現在残っている人形座は淡路人形浄瑠璃資料館の市村六之丞座と人形浄瑠璃館(大鳴門橋記念館)の淡路人形座の二つ。また島内の小中高校の各郷土芸能部や淡路人形浄瑠璃青年研究会などが後継団体となって保存している。1976年(昭和51年)国の重要無形民俗文化財に指定。
   ・だんじり - 淡路のだんじりは赤い布団を5枚重ねた「布団だんじり」が特徴である。他にも「つかいだんじり」、「投げだんじり」や「舟だんじり」などがあり、他府県からの見物客も多い。
   ・五尺踊り - 縄騒動で処刑された才蔵らの命日、3月23日に南あわじ市の広田八幡宮・大宮寺の「天明志士の碑」の前で奉納される。
   ・阿万の風流大踊小踊 - 南あわじ市阿万上町の亀岡八幡神社に伝わる。大踊は室町時代末期から、小踊は江戸時代中頃から。
  民俗信仰
   ・粥占祭 - 洲本市の厳島神社、淡路市一宮多賀の伊弉諾神宮。   ・御田植神事 - 洲本市の栢野森住吉神社、淡路市一宮多賀の伊弉諾神宮。   ・庚申講 - 島内全域。   ・社日ッツァン - 民間信仰。淡路市(旧北淡町)。   ・ヤマドッサン - 田の神・山の神・年神である尉と姥をヤマドッサンと呼び、正月9日にお迎えして豊作を祈る。淡路市舟木地区。   ・団子ころがし - 死者の五七日忌(35日)に団子を山上から谷に向かって投げる供養行事。先山や妙見山、地蔵山、開鏡山、愛宕山など。   ・芝右衛門狸 - 芝右衛門狸、柴右衛門狸(しばえもんたぬき、しばえもんだぬき)、日本三名狸に数えられている。
  スポーツイベント   ・淡路島女子駅伝競走大会   ・淡路駅伝競走大会   ・淡路国生みマラソン   ・すもとマラソン   ・淡路島たまねぎリレーマラソン   ・淡路島ロングライド150
災害
   1995年平成7年)1月17日の05時46分(JST)に発生した、マグニチュード(M)7.3の兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)では、島の北部で震度7の激しい揺れを観測し、大きな被害が出た。また、この地震によって、野島断層という活断層が出現した。
経済
   総生産額は4426。就業割合は1次産業が6.0%、2次産業が27.4%、3次産業が66.6%で、1次産業の割合が県平均 (0.6%) を大きく上回っている(2003年)
 製造業
   ・パナソニックエナジー社洲本工場 (旧三洋電機モバイルエナジーカンパニー本社)   ・三洋エナジー南淡、三洋エナジー東浦   ・東洋合成工業淡路工場   ・ワールドインダストリーファブリック(ワールドの関連会社)   ・山本光学淡路工場、北淡工場   ・ダントーホールディングス   ・パイオニア (パチスロ)   ・栗之浦ドック淡路工場(南あわじ造船)   ・淡路マテリア   ・イズミフードマシナリ   ・大昭和精機   ・ミツ精機・ミツテック   ・ムネ製薬   ・三和製作所   ・森長組   ・プライミクス   旧鐘淵紡績洲本工場

   淡路島の中心地である洲本市は、かつて鐘淵紡績洲本工場カネボウ)の企業城下町であった。淡路島には1896年創業の淡路紡績があった。鐘淵紡績(カネボウ)は1900年(明治33年)に淡路紡績を買収し、関西の拠点として洲本工場を開設した。1950年(昭和25年)には従業員数4200人を超えるまでに成長したが、その後の経済構造の変化により洲本工場は縮小の道を辿り1985年(昭和60年)に綿紡事業に終止符をうち、新たに発足したカネボウ電子へ移管され、そして1986年(昭和61年)に紡績操業を停止するに至った。カネボウの歴史の中で洲本工場は、綿紡織事業を手掛けてきた工場として最長(87年)の歴史をもつ。
   現在跡地は洲本市新都心ゾーンとしてイオン洲本ショッピングセンターエディオン(ミドリ電化洲本店)、兵庫県立淡路医療センター兵庫県立淡路病院を移転)、洲本市文化体育館洲本健康福祉館みなと銀行洲本支店等が立地し、洲本市民広場として整備されたエリアに点在する洲本市立図書館洲本アルチザンスクエア淡路ごちそう館「御食国」等は、鐘淵紡績洲本工場の近代建築を再生した施設として注目されている。
  地場産業   ・線香   ・淡路瓦(いぶし瓦)   ・真珠核(明石海峡大橋の愛称の元となった)。
  農業   農家戸数は8,775戸。生産額は369億円。1888年に兵庫県はアメリカからタマネギの種を直輸入して農家に配布し、旧賀集村での栽培をきっかけに南部を中心に栽培が普及し一大たまねぎ産地となった。昭和40年代から三毛作が行われており、水稲 - レタス - レタスの作付けの割合が42.6%で最も多く、次いで水稲 - レタス - タマネギが25.7%となっている(2005年)。
  作付面積   ・水稲 - 4380 haキヌヒカリが74%を占める)   ・タマネギ - 1946 ha(国内シェア9.3%、淡路島たまねぎ)   ・レタス - 1220 ha   ・果樹 - 367 ha(ウンシュウミカンビワナルトオレンジなど)
  農畜産品の県内出荷額比率の大きいもの(2004年度)   ・肉用牛 - 36.0%(飼育頭数21,800頭、淡路ビーフ)   ・繁殖和牛 - 61.0%   ・乳牛   ・花き - 33.8%(カーネーションは全国シェア9.5%)
  水産業   ・5t未満の小型船と養殖漁業が中心で、生産額は153億円、漁獲量は18,378t(2004年)   ・主な漁港(岩屋港淡路市) 由良港洲本市) 福良港南あわじ市)   ・名産(ちりめんじゃこイカナゴ - 10,343t(全国シェア8.7%) ワカメ - 2,884t 海苔 - 4億8,800万枚 
  観光業
   年間の観光客数は1,062万人(2004年)。豊かな自然や食の宝庫であるなど、観光資源は豊富である(古くから淡路国は食の宝庫として知られ、御食国として皇室・朝廷に御食料を貢いだとされる)。
   ・観光名所(兵庫県立あわじ花さじき 国営明石海峡公園 江埼灯台 松帆砲台跡 由良要塞 五斗長垣内遺跡 パルシェ 香りの館・香りの湯 伊弉諾神宮
 厳島神社 淡路国分寺 大和大国魂神社 自凝島神社 諭鶴羽神社 護国寺 本福寺 淡路ワールドパークONOKORO たこせんべいの里、産直淡路島赤い屋根 養宜館 洲本温泉 洲本市民広場の近代化産業遺産 洲本アルチザンスクエア洲本図書館御食国旧鐘紡原綿倉庫 淡路ファームパーク イングランドの丘 淡路島牧場 灘黒岩水仙郷 立川水仙郷 平和観音寺 淡路人形座 観潮船(うずしおクルーズ「咸臨丸・日本丸」)-淡路島福良港から出港している大型観潮船 淡路島うずしおの郷 兵庫県立淡路島公園 アワイチ 瀬戸内海国立公園 明石海峡 常隆寺山 大浜海岸 洲本城(三熊山) 先山千光寺 五色浜 慶野松原 諭鶴羽山 鳴門海峡
  教育
    大学   ・兵庫県立大学 淡路緑景観キャンパス(大学院緑環境景観マネジメント研究科(兵庫県立淡路景観園芸学校))   ・関西看護医療大学(看護学部、大学院看護学研究科)   ・吉備国際大学(農学部(元・地域創成農学部))
    大学附属施設   ・神戸大学 大学院海事科学研究科附属国際海事教育センター海洋実習施設   ・神戸大学 内海域環境教育研究センター   ・芦屋大学 淡路島臨海セミナーセンター
    専修学校   ・関西総合リハビリテーション専門学校   ・平成淡路看護専門学校
    高等学校・私立中学校   ・兵庫県立洲本高等学校   ・兵庫県立津名高等学校   ・兵庫県立淡路三原高等学校   ・兵庫県立洲本実業高等学校   ・兵庫県立淡路高等学校   ・蒼開中学校・高等学校   ・AIE国際高等学校   ・相生学院高等学校 洲本校   ・神村学園高等部 淡路島学習センター
    特別支援学校   ・兵庫県立あわじ特別支援学校
    公立中学校   ・淡路市立・一宮中学校岩屋中学校津名中学校東浦中学校北淡中学校   ・洲本市立・洲浜中学校青雲中学校由良中学校安乎中学校五色中学校   ・南あわじ市・洲本市小中学校組合立・広田中学校   ・南あわじ市立・南淡中学校三原中学校西淡中学校倭文中学校沼島中学校
    公立小学校   ・淡路市立・津名東小学校石屋小学校浦小学校大町小学校学習小学校釜口小学校一宮小学校塩田小学校志筑小学校多賀小学校中田小学校北淡小学校   ・洲本市立・洲本第一小学校洲本第二小学校洲本第三小学校大野小学校加茂小学校中川原小学校安乎小学校由良小学校都志小学校鮎原小学校鳥飼小学校広石小学校堺小学校   ・南あわじ市・洲本市小中学校組合立・広田小学校   ・南あわじ市立・市小学校榎列小学校神代小学校三原志知小学校阿万小学校賀集小学校北阿万小学校湊小学校松帆小学校福良小学校辰美小学校八木小学校倭文小学校西淡志知小学校沼島小学校
  交通   ・徒歩で橋を渡って出入りすることはできないため、歩行者はバスタクシー、もしくは船舶を利用する必要がある。
  道路   ・本州と四国を結ぶ神戸淡路鳴門自動車道が淡路島を縦断しており、北は明石海峡大橋本州に、南は大鳴門橋四国に連絡している。本州(特に京阪神)と四国を結ぶ高速バスも多数設定されている。淡路島北端部にある淡路SAおよび隣接する淡路ハイウェイオアシス観覧車や展望台が併設された大規模な休憩施設であり、淡路島の新たな観光スポットとなっている。明石海峡大橋と大鳴門橋はいずれも自動車専用道路であるため、徒歩・軽車両・原付・小型自動二輪・ミニカーいずれも通行できない。   ・タクシーを利用する場合は降車時タクシーメーターに表示された料金の他に神戸淡路鳴門自動車道の通行料を往復分支払う必要がある。   ・本州・四国 - 淡路島間には以下の会社によって高速バスが運行されている。各社とも明石海峡大橋経由(本州 - 淡路島間)で利用可能。大鳴門橋経由は淡路交通(淡路島 - 徳島県間)とフットバス(淡路島 - 香川県間)のみ利用可能。
   ・淡路島発着(淡路交通神姫バス阪急観光バス 本四海峡バス西日本ジェイアールバス みなと観光バス (南あわじ市) 本州と四国を結んで且つ淡路島にも停車-本四海峡バス・徳島バス - 淡路島に停車するのは関西国際空港リムジンバス(関西空港交通南海バスと共同運行)・阿波エクスプレス京都号(西日本ジェイアールバス・ジェイアール四国バス京阪バスと共同運行)のみ。-高松エクスプレス(フットバス) - 淡路島に停車するのは大阪発着便のみ。)
航路
    2010年11月15日を最後に明石淡路フェリー(たこフェリー)が休止したことにより、淡路島と外部を結ぶ航路は約7年間にわたり明石港 - 岩屋港間の高速船「淡路ジェノバライン」のみとなった。淡路ジェノバラインに載せることができる車両は自転車のみであるため、自転車を除く軽車両・原付・小型自動二輪車・ミニカーが自走で淡路島へ出入りする手段はなくなっていたが、橋が通行不能になった場合や原付や125cc以下の小型自動二輪車の通行手段を確保するため、兵庫県、明石市、洲本市、南あわじ市、淡路市でつくる「明石海峡海上交通に関する協議会」で国からの補助を受け淡路市が新造船「まりん・あわじ」を導入することが決まり、淡路ジェノバラインに運航を委託する形で2015年8月2日から就航、同年9月23日から原付・小型自動二輪車の航送を開始した。2017年7月9日から2018年7月13日まで関西国際空港 - 洲本港間に「淡路関空ライン」が就航していた。
鉄道
    四国新幹線が淡路島を経由して走らせる計画があるが、費用に比べて経済効果が低いため、[要出典]実現の目処は立っていない。また大鳴門橋は鉄道道路併用橋として建設されたものの、明石海峡大橋は道路専用橋として建設されたため、今後しばらくは淡路島に本州との連絡鉄道が通ることはない。実現したのは下記の淡路鉄道のみである。   ・淡路鉄道 洲本 - 福良間 1966年(昭和41年)廃止(軌間1,067mmの電化された鉄道)
    路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の北海道本州九州四国の主要な四島をのぞいたにおける鉄道路線は、(中州など四島から直通するものをのぞいて)第二次世界大戦後はこの淡路島のみであった(洲本駅の駅舎がバスターミナルとして利用されるなど、今なお当時の面影が残る)。このほか、岩屋 - 志筑 - 洲本や志筑 - 江井を結ぶ淡路快速交通計画が存在したり、前記の淡路交通の区間を含む形での「本四淡路線」(須磨 - 淡路島 - 鳴門)が鉄道敷設法別表に掲載されたが、後者については四国新幹線に計画が吸収された。







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