高校生文化大賞-1



51回-http://www.sankeisquare.com/event/bunka_51/pdf/01_51.pdf
創造する・挑戦する」 最優秀賞
挑戦することを恐れずに― 宮崎県立宮崎大宮高等学校二年 黄蘭帆

  私の両親は中国人です。なので中国人から生まれた私ももちろん中国人です。幼い頃は中国人だと言うと驚いて、 「すごいね、中国語話せるの。 」と聞いてくれたり感心してくれたりする周りの反応がうれしくて、自分から自慢のように言いふらしていました。
  しかし、物心ついた時から自分が、そして自分の親が中国人であることに対して嫌悪感を抱くよう になっていました。日々テレビからは反日や中国人観光客の マナー違反などよくないイメージが多く流れてきます。
  その イメージに飲み込まれて、私は中国という国を気づけば嫌いになっていました。自身が生まれた国を嫌ってしまう自分はもっと嫌でしたが、小学校の時に同級生から名前や人種をからかわれてできてしまった中国人=嫌われる、という固定観念を上手くくつがえすことができなかったのです。
  もう辛い気持ちをしたくない、その一心で転校を機に自分の国籍を偽ることにしました。日本人だよ、と周りの人に嘘をつき両親には学校には来ないでと強く言いました。親のカタコトな日本語を聞かれて中国人だとバレるのを恐れたからです。誰にもバレたくありませんでした。知られたら友達がいなくなるとさえ思っていました。

  当然両親には自分の気持ちをくみ取ってもらえず、ずっと上手く向き合えることができませんでした。そして私は喉にひっかかった骨のようにつっかえている何か分からない気持ちとずっと対立していきます。とにかく目立たないように静かに生活していこう、そうして心がけるようになってからは、人前で発言することもなく意見も他人に任せっきりでした。

  ズルズルと十五年間このまま生きて気づけば高校生になっていました。そして進路希望調査用紙を手渡された高一の夏、ふと自分には何もないということに気づかされました。自分の主張をしなくなってから自分というものが分からなくなっていたからです。趣味もないし特別な特技もない。みんなと違うところと言えば中国人であるというコンプレックスだけでした。いつのまにかできていた夢もどこかで諦めて本当につくづく空っぽな自分に愛想がつきました。親にも相談することができず、きらきらと光る眼で夢を語る友人はとても羨ましかったし、きっと眩しく見つめていたと思います。

  どんより沈んで何もやる気が起きず、親への罪悪感や将来の不安から私を救ってくれたのは中学校の時に出会った担任の先生でした。突然の訪問にも不満を見せず優しく頷いて最後まで私の告白を聞いてくれた先生。今でもこの日のことは忘れずにしっかりおぼえています。あなたはあなただよ、この一言を聞いた瞬間、涙が止まらなくなりました。自分らしく、それに憧れてた私でしたがその自分らしさを自分自身で拒絶していたのに気づかされたのです。
  そして高校二年生に上がる前の春休み、私は逃げてきたもの一つ一つと向き合うことを決意しました。そこから自分の進路を明確にする大きな転機が訪れます。

  それは、今年の春に中国へ渡ったことです。自分の目で中国という国を見てみたい、この気持ち一つだけで一週間中国へと足を運びました。着いたばかりの頃は土地の広さと人口の多さに圧倒されていましたが、環境になれてくると余裕をもって周りを見れるようになりました。教科書でしか見たことのなかった歴史建造物を目の前にして迫力の大きさに驚き、食べ物の美味しさと町の賑やかさを肌で感じました。
  そして現地で多くの人々の輝く笑顔を間近で見ました。国境は違う けれど共通するものがないわけではない。私が中国を訪れて実感した一番のことです。
  今後世界は人種、種族を超えて多くの文化を交流する機会が増えていくはずです。その時に相手国の文化を尊重し、広い視野でその国について知っていくべきだと思います。私はこの経験を通じて多くの人と言語で積極的に友好を築く架け橋になりたいという夢ができました。今では私のふるさとは二つです。
  夢に向かって何をしなければならないのか、まだ明確には決まっていないけれど、知っていくことから始めて見ようと思います。挑戦することを恐れずに。


第13回-https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/concours_ronbun/2015/pdf/15ron005.pdf
「金融と経済を考える」高校生小論文コンクール
女性の労働環境から考える日本経済
岡山県・岡山県立岡山大安寺中等教育学校 5年 吉元 えりか

  ドアが開く音と同時に聞こえる、不機嫌な「ただいま。」すぐにソファーに倒 れ込む音がした。リビングに行き、「また面接うまくいかなかったの?」と声を かけた。スーツのままふて寝した姉は「うるさいな。」と返してくるけれど、声 に力がない。今日も手ごたえはなかったようだ。
  姉は就職活動中である。報道の仕事に携わりたい。その思いでずっと就職活 動に励んできた。今はその成果が試されている時だ。両親は、地元で安定した 企業に就職してほしいと思っているようだが、まったく耳を貸す気配はない。
   姉に話を聞いてみると、最近報道の世界も女性の進出が目立つようになってき たそうだ。去年のインターンシップの選考では、女性の方が多く選ばれていた らしい。しかし、採用試験が進むにつれて男性が増え、今では逆転してしまっ ている。全国転勤というハードルが高いのか、採用側が女性を敬遠しているの かはわからないが、残念だと話してくれた。「転勤が多い仕事だし、結婚したら、 どうせ辞めると思ってるのかな。」姉は、唇を噛 か んだ。

   私は、今後もっと女性の社会進出が進むべきだと考えている。女性が安定し た収入を得ることにより、確実に税収が増え、国の財源は潤う。各家庭の収入 増により、購買意欲が高まり、経済活動が活発化する。大学進学率の増加によ る教育費の高騰にも対応できるだろう。
 しかしながら、皮肉なことに女性が社会で活躍すればするほど、少子化が進 んできたことも事実だ。その原因の1つには、社会進出に伴う晩婚化が挙げら れる。いわゆる「結婚適齢期」は、ちょうど仕事に慣れ、やりがいを感じる時 期と重なる。したがって仕事優先となってしまい、晩婚化につながっている可 能性がある。
   総務省の統計 によると、2013 年の女性雇用者数は、1985 年から約 1.6 倍 に増加。さらに厚生労働省の統計 2)では、1970 年には 24.2 歳だった女性の平均初婚年齢が、2009 年には 28.6 歳にまで上がっている。
   晩婚化が進めば、卵巣の老化による高齢不妊になりやすい。不妊治療には多 額の治療費がかかるうえ、肉体的精神的負担も大きいと言われている。やっと 出産にこぎつけても、仕事と育児の両立という問題に直面し、2人目を考える 余裕などなくなってしまうのが現状だ。最近では、家事や育児に積極的に参加 する男性も多くなっているそうだが、現実的には、育児の大部分は、女性の負 担となっている場合が多い。
   私の母も、大学卒業後 IT 企業に就職。仕事にやりがいを感じており、ずっと 働き続けるつもりだったそうだ。結婚後、子供は2人以上欲しいと思い、次女 である私を出産。けれど、ちょうどバブル崩壊の時期と重なり、育児休業を取 得するどころではなくなってしまった。保育園のめども立たず、結局退職とい う道を選ばざるを得なくなったそうだ。時期が悪かったとはいえ、育児休業の 制度がもっと確立していて、保育園も柔軟な対応をしてくれていたならば、母 は今もキャリアウーマンとして社会の第一線で活躍していたのかもしれない。

   私は、子育て中の女性が、具体的にどのような問題を抱えているのか知るた めに、叔母の勤務する保育園を訪ねた。保育士と保護者の方に話を聞くことが できたが、やはり仕事と育児の両立は大変で、女性にとって大きな負担を強い ていた。例えば、「仕事の都合で帰宅が遅くなっても、公立の保育園では保育時 間に限界がある。」「子供が病気だと預かってもらえないことがある。」などであ る。実際、近くに頼める人がいない場合は、仕事に影響が出て肩身の狭い思い をすることもあるそうだ。これらの問題に対して、延長保育や病児保育施設の 設置など、改善の兆しはあるものの、延長時間が短かったり、病児保育施設の 数が少なく、預けづらいという話を聞いて、まだまだ対策が不十分だと感じた。
   また、最近話題となった、埼玉県所沢市の育児休業による保育園退園問題に ついても聞いてみた。意外だったのは、私の住む岡山市にも同じような制度が あったことだ。幸い岡山市においては、待機児童がほとんどおらず、問題となっ てはいないそうだが、同じ母親として関心度は高いということだった。この問 題は多くのメディアで取り上げられた。その中で、上の子供を退園させるのは かわいそうだという意見と、待機児童のことも考えてほしいという意見があっ た。どちらの事情も理解できるだけに、十分な数の保育園を整備するなどの対策を、早急に検討してほしいと思う。

  これまで政府は、アベノミクスによる景気回復を目指してきた。しかし、決 して将来を楽観視できないのも事実だ。少子高齢化は進行し続けている。放置 していれば、働き手は減り、日本経済は縮小するばかりだ。税収も減り、年金 など日本の社会保障制度も破綻しかねないだろう。だからこそ、女性の社会進 出と少子高齢化の改善とは同時に進める必要がある。
   では、同じような悩みを持つ他の先進諸国は、どのような対策を行っている のだろうか。まず成功例として挙げられるのが、フランスとスウェーデンである。 どちらも、一時期は出生率が 1.6 台まで低下したが、国が真剣に少子化対策に 取り組んだ結果、2011 年にはフランスが 2.01、スウェーデンが 1.90 にまで回 復している。特にフランスでは、経済的な支援に加え、保育の充実、さらに出 産・子育てと就労に関して、幅広い選択ができるような環境整備を行ってきた。 これは「両立支援」といわれ、スウェーデンでも同じような支援が行われている。 他にもドイツが「両立支援」へと転換を図っているが、2011 年の出生率が 1.36 となっており、まだ大きな成果は出ていない。わが国もあらゆる対策を講じて いるもののドイツとほぼ同じ状況である。
   日本が抱える少子高齢化問題は深刻だ。今の日本経済を維持するためにも、 働く女性が安心して出産・育児ができる環境を作り、改善していくしかない。 そのためには、まず不妊治療にかかる経済的負担の軽減を推進すべきだろう。 現在の取り組みは、1回の治療につき 15 万円までの助成金が出るものの、給付 には所得制限や助成回数などの条件があり、十分といえるものではない。今後、 晩婚化が進んでいくことを考えるともっと手厚い支援が必要ではないだろうか。
   次に、子育てする環境を整えなくてはならない。最近では育児休業をとる女 性もめずらしくはなくなったが、制度があるだけでは、利用しづらい職場もあ るだろう。国や自治体がより積極的に企業に働きかけるなど、社会全体に広く 浸透させる努力をしてほしい。
   保育園の問題も重要だ。特に都市部の待機児童の解消は急務である。保育園 を増やすことが困難であるならば、少しでも早く改善するために、既存の幼稚 園などを利用した「認定こども園」をもっと活用することはできないだろうか。 また、子供が増えることによる教育費の負担軽減も検討してほしい。

  日本の経済社会で女性が活躍することは、生産年齢人口の減少を食い止める という意味でも、必要不可欠である。女性がもっと働きやすくなるためには、 国や自治体の政策も必要だが、地域全体で子供を見守り育てるような環境づく りや、育児をしながら働く女性を積極的にバックアップする企業の態勢づくり、 そして、家族の協力も大切だ。
   これから後に続く女性が、何の不安もなく、子育てしながら仕事を続けられ る社会。そんな世の中になれば、日本の経済を維持し続け、未来に幸せな日本 を残していけるかもしれない。
   玄関から姉の声がした。「ただいま。」今日は声が軽い気がする。ソファーの 音も聞こえない。リビングにはジュースを飲みつつ、上機嫌な顔でソファーに 座る姉がいた。「内定が出たの!ずっと一緒に働いていきましょうって。」久々 に見る晴れやかな顔に、「あるべき社会」の姿を見た。


第13回-https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/concours_ronbun/2015/pdf/15ron003.pdf
「金融と経済を考える」高校生小論文コンクール
さとうきびで結ぶ島の産業と未来
沖縄県・沖縄県立八重山高等学校 2年 大久 勝利

  3月、僕は今年も家のさとうきびの収穫を手伝った。自分の背丈ほどもある さとうきびを父が次々に斧 おの で倒していき、茎に巻き付いている枯葉を鎌でそぎ 落しながら集め、束ねて持ち運ぶ。いつもなら、ここまでの作業だが今年はな ぜか続きがあった。
  収穫したさとうきびを一本一本きれいに洗い、搾汁機で搾っていく。その汁 を煮詰めて黒糖を作るためだ。母が自分で栽培したさとうきびから黒糖や黒蜜 を作り、それをお土産として売りたいというのだ。果たして、そんなことが実 現可能なのか?
  20 年前、県外から石垣島の父のもとに嫁いだ母は、さとうきびの風景にとて も感動したという。そのため、石垣島のさとうきび産業がもっと発展するよう にと僕が1歳の頃、黒糖に携わる仕事をはじめた。
   あくまでも子育て優先だったため、あまり拡大しなかったが、黒糖を大切に 和紙で包んだ母のお土産は沖縄の世界遺産施設でも販売され、沖縄ブームの最 盛期にはかなり売れていたようだ。幼い頃、いつも夜遅くまで包装作業をして いた母の姿が思い起こされる。
   だが最近では、競合品が多くなりなかなか厳しい状況になっているという。そ こで3年前に沖縄本島から父の故郷、石垣島に引っ越してきたのを機に、自分 で栽培したさとうきびでオリジナルの黒糖を作ろうと、試行錯誤しているのだ。 
   姉の大学進学にあわせて一昨年から別の仕事も増やし、二足のわらじ生活を 続けている。なぜそこまで?毎日、朝から晩まで働き、休みの日には黒糖の仕 事をする母に、「ちょっと無理しすぎじゃない?もうお土産の仕事やめたら?」 とつい、言ってしまった。
   「でも、夢がないと楽しくないから。この仕事はお母さんのライフワーク。可 能な限り続けたい。」と母はにっこり、ほほ笑んだ。

  もともと我が家は祖父の代はさとうきび専業農家だったという。祖父と祖母が 一緒に過酷な農作業に精を出し、末っ子の父を含む8人の子どもを育て上げた。
   あまり知られていないが、実は石垣島では黒糖は作られていない。製造して いるのは波照間島・与那国島・西表島などをはじめとする沖縄の小さな離島の 8工場のみだ。  石垣島は国内産の砂糖を確保するため国が農家に交付金を支給し、その生活 を支えている。本来なら1トンあたりの原料代がわずか約 5,500 円のところを 交付金約1万 6,000 円を上乗せし、約2万 1,500 円とし、さとうきび農家の手 取りを大幅に引き上げている。
   石垣島で製造していない黒糖をなぜ、作ろうとするのか?その場合は、交付 金は得られない。厳しい農作業と収穫後の様々な工程。採算が合うのかを計算 すればする程、厳しそうだ。それでも母の夢に興味を持った僕は農協や市役所 に行き調べてみることにした。
   調べてみて驚いたのだが、さとうきびは沖縄県の農家の約8割、全ての耕地 面積の約5割で栽培されているそうだ。県内の製糖企業や運送業、金融業など 関連する産業への波及効果も高く、沖縄県にとってとても重要な作物なのだと いうことだ。特に、離島地域では製糖を通した雇用機会の確保など大変大きな 役割を果たしているという。
   近年では、さとうきびを利用した新しいエネルギー資源であるバイオエタノー ルの研究開発や地球温暖化を抑制するため、高い光合成速度を誇るさとうきび の環境保全の可能性が世界からも注目されている。
   さらに、栄養豊富なさとうきびの搾りかす「バガス」は製紙用パルプの原料 にもなる他、農地へ還元されることで地力の衰えを防ぎ、農作物の再生産を可 能にするという。

   僕はこれまで自分にとってあまりにも身近で気にもとめてこなかった「さと うきび」がこんなに様々な可能性を秘めている作物だということに驚いた。同 時に、さとうきびの特性を最大限に引き出していく知恵を出せば、利益を安定 して出せるしくみが作り出せるかもしれないと希望が湧いてきた。
   まず、さとうきび農家としては、付加価値の高いさとうきびを作ることを1 番の目標とするべきだと思う。化学肥料を極力使わない有機農法や無農薬農業
の技術を確立できれば、そのさとうきびで作った黒糖も付加価値が高まり高値 で販売できるようになるだろう。
   だが、有機肥料で栽培するには、化学肥料よりも色々なコストがかかってく るに違いない。そうしたなか、どのように利益を出していくのか。
   コストを下げるためには、無料のもの、もしくは要らなくなったものを再利 用するのが確実だと思う。例えば、家の畑の近くには牛舎が沢山あるが、そこ で廃棄される牛糞 ふん を畑に肥料として使っている農家が多いと聞いた。
   また、バガスを畑にまけば、とてもよい肥料になるという。黒糖を煮詰める時 のガス代も高くつくが、バガスを乾燥させればマキ代わりとしても使えそうだ。  近年、限りある資源を効果的に循環活用する資源循環型社会という言葉をよ く耳にするが、案外こうした身近なアイディアをつなぎ合わせて色々な産業同 士助け合うような流れを作れば実現可能なのかもしれない。

   母の黒糖製造も例えば、観光客に農作業やさとうきび搾り体験を提供するな ど、さとうきびの他の側面と組み合わせれば、利益の出るしくみが作り出せる かもしれない。
   母の夢について調べるうちに、様々な素晴らしい側面について知ることになっ たさとうきびだが、将来、石垣島の様々な産業が相互に助け合い、共に発展し ていけるシステムを、さとうきびを通して構築出来たらどんなに素晴らしいこ とだろう。
   そのために今、自分に出来る事からはじめたいと思う。家の畑の有機農法の 取り組み、母の黒糖の製造の手伝いをはじめ、もっと国内外の産業にアンテナ を張り、各地で取り組まれている様々な施策について学びたい。そして石垣島 でも取り組めないか常に考えていきたいと思う。
   見慣れたさとうきび畑の風景が未来に向かって輝きはじめた。


第14 回-https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/concours_ronbun/2016/pdf/16ron007.pdf
「金融と経済を考える」高校生小論文コンクール
たくさんの「あたりまえ」
海外・早稲田大学系属早稲田渋谷シンガポール校 2 年 小野 たえ

  コンビニやスーパーで買物をする時にお釣りが出ることがあると思うのだが その時に金額をごまかされたことがあるという人は日本ではほとんどいないだ ろう。私もそのような経験は一度もない。これは日本という国を的確に表現し ている現象だと私は考える。
  父親の仕事で私はインドに約3年滞在したのだが、 店で会計の際に金額とレシートとお釣りをしっかり確認しないことには店を去 ることができなかった。さすがにデパートなどのようなところでお釣りをごま かされるようなことは起きないけれど、地元のスーパーなどでは日常茶飯事な のである。
  普段、何も考えずに行っていることが実は日本特有だったり、日本 だからこそ実現していることが海外に出たこの5年間で日本を客観視するうち 多く見つかった。

   先にも書いた通り私はインドで中学校生活を送った。もちろん父親の転勤で ある。小学校6年生の終わりのころ、夕食後に4歳年下の妹と私が父と母に話 があると呼ばれて4人でテーブルを囲んだ。転勤族な一家だったためなんとな く引っ越しの話だと勘付いていた私だったが、いきなり父親に地球儀をもって おいでと言われた時は面食らった。
  インドに転勤が決まったと父親の口から聞 いた時、涙と一緒に笑いが止まらなくなってしまった。何を意味する涙と笑い なのかは覚えてはいない。ただ5年前の私はインドと聞いて漠然とただ象とカ レーとガンディーしか想像できなかった。
  飛行機で7時間飛んでデリーに着い た時、疲れきっていたこともあって唯一感じたのは暑さだった。後に日本人学 校の友達とインドの第一印象について話した時に「最悪」や「汚い」とか「く さい」などがあがっていたのに比べて私が全くそのようなことを感じず、言わ れて初めて「確かに汚いしくさいな」と思ったので私は鈍いのかもしれない。
   しかしそんな私でも数々の驚くようなことがあった。まずは、道路に牛がい ることである。何も牧場から逃げ出した牛なのではなくて、ヒンドゥー教では牛は神様の乗り物とされているから捕まえることもできずに野放しにされてい る純野生の牛なのだ。それも田舎限定ではなくて首都デリーの幹線道路にもた くさんいるため、いつどこで渋滞が起きるかなど予想もつかない。

  ここにも日 本との相違が見られる。たしかに道路に牛がいる時点ですでに違うのだけれど、 インド人がいかに宗教を重んじているのかがわかるだろう。神様が乗る乗り物 が日本にはないにしろ、野生の動物がいたらどんな象徴だろうと保護するのが 日本である。
   また日本ではクリスマスをお祝いし、神社に初詣にいき、結婚式は教会で挙 式し、お葬式はお寺で行うなどという海外から見たらとんでもないことをして いるのだが、私達からすれば普通のことだ。我々日本人はほとんどの人が無宗 教という立場をとっているため宗教上での争いはほとんど起きていない。それ は島国という閉鎖された土地で限定された民族しかいないということと、その 島国限定の穏やかな人柄であるがゆえのことだとも私は考える。
  本当にこれは 素晴らしいことなのだとインドにいた3年間で知った。インドでは土地争いに 宗教が絡み、国際的な戦争だけでなく国内でも紛争が起きている。
  日本でも領 土問題は抱えているものの宗教上での争いはないと言っても過言ではないだろ う。日本人の宗教観は海外から見たら信じられないことだけれどそれと同時に 本当に平和なのだ。
   宗教問題に絡めて民族についても違いを感じた。日本とインドは大陸と島国で もう1点大きな違いがある。それは言語だ。言語の他にも数々の違いはあるが、 私はインドで生活を送る中で英語を話さない民族であるということを痛感した。
   日本人は日本語を話し、日本語が母国語である。しかしインドではそうはいかず、 ヒンディー語が一番話されている言語であるものの共通語は英語なのだ。ある程 度の一般教養を終えたほとんどの人達が読み書きをそつなくこなして生活をし ており、インドで英語を話せないと言葉の通り話にならないことのほうが多い。
   最近の日本では英語教育に力を入れる動きが見られるが私は全く足りないと 感じる。インド人は小学校1年生のころからヒンディー語と並行して英語を学 んでいるけれど彼らの文化は廃れることはなく、彼らの価値観は変わることは ない。それに比べて日本では日本の文化がなくなってしまうのではないかとい う心配の声があがっている。インドを見て思うのだが英語という言語が入ってくることで得ることはあっても失うものはないと思う。たとえそれが島国であっ たとしてもだ。世界が様々な面でつながりを持つ現代で英語なしに渡り歩くこ とは困難だろう。

   私はインドで何人かの韓国からきた友達にも巡り会えた。韓国は韓国人学校 というものを持たないため現地では現地校かインターナショナルスクールに通 わざるをえない。けれど彼らの文化的価値観は損なわれておらず、今や韓国も 世界に十分認められた国のうちの1つであると言える。この先これまで以上に国 際化が進む中でどのようにして英語を活性化させるのかは日本の大きな課題だ。
   そして日本とインドを比較して、もう1点述べたいことがある。それは格差 だ。日本に住んでいて自分は裕福だと思ったことは一度もなかった。冷房があり、 ベッドがあり温かい食事が食べられ、テレビもあってトイレも付いている。毎 日お風呂にも入れてそして何よりも家族がいること。すべて「あたりまえ」の ことに見えて決してそうではないのだ。
  今述べたすべての「あたりまえ」がな い人達がインドには何人いるのか想像もつかない。私達日本人が住んでいたい わゆる高級住宅地のような地区のすぐ脇にはスラム街がいくつもある。更には スラム街にいることもままならず、フライオーバー(陸橋)の下で物乞いをし ている人も何人もいるのだ。
  車の窓を叩 たた いていってお金を乞う。彼らを見れば「物 乞い」という言葉を使うことを躊 ちゅう 躇 ち ょ してしまう。実際私の周りの友達や先生達 も別の言い方を探す。だから先日、日本の友達が何のためらいもなく、笑いな がら「お前物乞いかよ」と言った時に心に突き刺さる何かがあった。
   また、ある時私が習い事で使っていた更衣室に落ちている大量のゴミを見て インド人の友達になぜゴミをゴミ箱に捨てないのかと聞いたところ、そのゴミ を片付ける人の仕事を奪ってしまうからだと答えた。信じられない回答だけれ どこれが人口爆発と縦社会の名残がある世界の現実なのだ。インドで IT 産業が 盛んな理由のひとつもここにある。

  この制度があった時代のこの国では少し極 端だけれど、トイレ掃除はトイレ掃除の係がいて、またトイレのドアを開ける 係は別にいるのだ。そんな社会で知識をつければ誰でも上にあがれる IT 産業と いう仕事はインド人にとって素晴らしかったに違いない。私はなぜインドで IT 産業が盛んになったかという1つの要因を知って大いに納得した。
  これは日本 では納得しづらい事実である。数々の「あたりまえ」だと思っていたことが覆される毎日でその事実を受け 止められるのが日本人であると私は中学校生活を通して感じた。より良い社会 や生活にむけて進んでいくことができるのも日本人であると思う。
  だからこそ 今のこの暮らしやすい日本があるのだ。たしかに最近経済が伸び悩んでいるけ れどその中でもやはり秩序を保ち、他人を気遣うことができるのは日本人なら ではだと思う。
  このように、世界に誇れるところがたくさんある国だと「あた りまえ」を通して感じた。閉鎖された環境で限られた民族の中で世界を見よう とするのは簡単なことではないはずである。けれども日本が世界各国と肩を並 べることができるのだと4年後に控えた東京オリンピックが物語っている。
  こ の日本の俗に言われるジャパン・クオリティーを世界に示すことができるのか と思うとワクワクする。この先に待つ日本の未来を担うのは間違いなく私達な はずであり、そして自分達の行い次第で良くも悪くもなりうるのだ。
  私が今イ ンドとシンガポールにいて日本を、更には自分をも見直せたのは親がいるから であり、日本でももちろん、インドでは恵まれすぎているこの環境をどう活 い か して私の今後につなげるかはすべて自分次第だ。経済発展を遂げた日本もまだ まだインドから見習える点はあるはずだろう。視野を広くして様々な角度から 物事を捉えていきたい。


高校新聞ONLINE-https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/6093
2020.2.14-太田朝弓さん(福島高校3年)は、絵本を送るなどカンボジアの人々を支援する活動を続けている。
自分のボランティア活動は自己満足なのか 葛藤乗り越えた高校生の答えは

東日本大震災で義援金が…カンボジアに恩返しがしたい
太田さんは福島県出身。東日本大震災の際に、カンボジアから義援金が届いたことに感動した経験がある。-「カンボジアの人に恩返しをしたい」その思いで、いとこと2人でボランティア活動を始めた。
自力で絵本を翻訳-活動は「サンキュー・カンボジア・プロジェクト」と題した。絵本を762冊集め、そのうち151冊は自分の力で翻訳した。その他、お絵かき帳やクレヨン、打楽器などをカンボジアの子供たちに送った。
自己満足では…葛藤したけれど-活動を始めたのは、いとことの2人だけ。さらにカンボジアという知らない国への活動だったため、初めはどうしたらいいか手探り状態だった。-「自分のやっていることが、自己満足になっていないか」
不安な気持ちもつきまとった。しかし、「カンボジアの人に恩返しがしたい」「子どもたちに勉強する楽しさを知ってほしい」という強い思いは失われなかった。恩返ししたい、その気持ちを胸に抱き、活動を続けた。
  次第に、メディアに活動が取り上げられ、協力してくれる仲間が10人に増えていった。
米国で活動を発表しに-昨年12月に行われた、ボランティア活動を表彰する「第23回ボランティア・スピリット・アワード」では、「米国ボランティア親善大使」に選ばれた。5月に渡米し、活動を発表しに行く。他の受賞者と関わる中で、「それぞれが自分の考えを持って、オリジナルの活動を自分の力でやっていることに感激した」という。その事をアメリカに行って伝えたいと話した。

今後の夢は、これからも途上国の教育に携わることだ。「子供たちに勉強する楽しさを知ってほしい」(高校生記者 川本采季・3年)










このTopに戻る





monomousu   もの申す
最近のニュース
TOPにもどる