地震・噴火・事故-wikipedia



緊急地震速報
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緊急地震速報: Earthquake Early Warning、略称:EEW)は、地震発生後大きな揺れが到達する数秒から数十秒前に警報を発することを企図した地震早期警報システムのひとつで、日本気象庁が中心となって提供している予報・警報である。
  2004年に一部試験運用を開始、2007年10月1日からは一部の離島を除いた国内ほぼ全域すべての住民を対象とした本運用を開始した。同種のシステムとしては世界初である
  予測震度5弱以上のときに発表されテレビ放送や携帯端末などで「(震度4以上の)強い揺れとなる地域」を伝える「一般向け」(地震動警報・地震動特別警報)と、発表基準が低く誤報の可能性が高いものの「各地の震度や揺れの到達時間」などが分かる「高度利用者向け」(地震動予報)の2種類がある。


東日本大震災
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東日本大震災は、2011年平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。東日本各地での大きな揺れや、大津波火災等により、東北地方を中心に12都道県で2万2000人余の死者(震災関連死を含む)・行方不明者が発生した。これは明治以降の日本の地震被害としては関東大震災明治三陸地震に次ぐ規模となった。沿岸部の街を津波が破壊し尽くす様子や、福島第一原子力発電所におけるメルトダウン発生は、地球規模で大きな衝撃を与えた。発生した日付から3・11と称することもある。
地震
  2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル (km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。
  震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500 km、東西約200 kmのおよそ10万平方キロメートル (km2) に及ぶ。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館(MYG004)観測点で記録された2,933ガル
名称(「東北地方太平洋沖地震#名称」も参照)
  発生当日(3月11日)の16時20分に気象庁が「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名した。これに対し、メディアや組織・団体は、「東日本大震災」や「東北関東大震災」などの呼称を任意に用いていた。

  同年4月1日に、日本国政府(当時は菅直人内閣)は持ち回り閣議で、当地震によってもたらされた災害(震災)を指す名称を「東日本大震災」とすることを了解し、当時内閣総理大臣菅直人が平成23年度予算成立を受けての記者会見で発表した。これ以降、地震そのものを指す「東北地方太平洋沖地震」と、それによってもたらされた災害を指す「東日本大震災」という二つの用語ができた。しかし地震そのものについて「東日本大震災」の名称を用いるメディアもある。
被害
  この地震により、場所によっては波高10メートル (m) 以上、最大遡上高40.1 mにも上る巨大な津波が発生し、東北地方関東地方太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した。また、巨大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象地盤沈下ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北地方を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種インフラが寸断された。
  2019年令和元年)12月10日時点で、震災による死者・行方不明者は1万8428人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4893戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においては避難者は約47万人、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、2019年7月30日時点の避難者等の数は5万271人となっており、避難が長期化していることが特徴的である。

  日本国政府は、震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算している。この額は、被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県内総生産の合計に匹敵する(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどであった)。世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1位としている。
死傷者東日本大震災における死者・行方不明者の推移」も参照)
  警察庁は、2019年(令和元年)12月10日時点で、死者は1万5899人、重軽傷者は6157人、警察に届出があった行方不明者は2529人であると発表している(ただし未確認情報を含む。余震によるものを含む)。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が1万人を超えたのは第二次世界大戦後初めてであり、明治以降でも関東大震災明治三陸地震に次ぐ被害規模であった。岩手・宮城・福島の3県を中心に、1都1道10県で死者・行方不明者が、また1都1道18県で負傷者が発生した
死因
  この震災での犠牲者の死因のほとんどが、津波に巻き込まれたことによる水死であった。津波の中には、大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれていた。砂がに入れば気管を詰まらせ、有害物質が肺に入れば身体を侵す。水死に至る経緯は、これらで呼吸困難になったり、がれきが当たり意識を失ったり、3月の雪の舞う中で低体温を伴ったりなど、様々な経緯もあったと考えられる。

  圧死、損傷死、焼死も、ほとんどが津波によるがれきが要因となっている。建造物の倒壊や土砂崩れ、天井の非構造部材の落下、高所からの落下など、地震の揺れそのものが原因による犠牲者は、福島県36人、茨城県18人、宮城県13人、東京都7人など、分かっているだけで90人に上る

  岩手、宮城、福島の3県では、腕や脚などが見つかり身元が判明したものの、頭部未発見のために死者に計上されていない人が2016年6月10日時点で171人いる。「親指だけ見つかっても、亡くなっているとは限らない」などの理由による。この数を行方不明者数から除外するかどうかは3県で判断が分かれている
  静岡大学防災総合センターは、津波の浸水範囲の居住者数に対する死者、行方不明者数の割合をまとめ、明治三陸地震と比較した。それによると、最大は宮城県女川町の11.97 %、次いで岩手県の大槌町陸前高田市でともに11.72 %となった。明治三陸地震については、浸水域ではなく市町村の人口に対する犠牲者の割合を出したが、岩手県釜石市で約50 %になるなど11市町村で15 %を超えており、今回の津波では防災対策に一定の効果があった可能性がある
震災関連死
  東日本大震災では避難所の不衛生や寒さなどが原因で、避難後に死亡する例(震災関連死)が高齢者を中心に相次いでいる。復興庁では震災関連死の死者を「東日本大震災による負傷の悪化などにより死亡し、災害弔慰金の支給等に関する法律に基づき、当該災害弔慰金の支給対象となった者」と定義している。
  復興庁によると、2019年9月末時点での集計で3,739人(福島県2,286人、宮城県928人、岩手県469人など)が震災関連死に認定されている。死亡した時期別にみると、震災発生から1週間以内は472人、8日後以降1か月以内は743人、2か月目以降1年以内は1,587人で、5年目でも105人いる。福島県内の震災関連死による死者数は地震や津波による直接死者数を上回っている。福島県の震災関連死の大部分は、原発事故の避難の影響で体調が悪化するなどして死亡した「原発関連死」とみられ、『東京新聞』の2016年3月時点での集計によると、福島県内の少なくとも1,368人が原発関連死であった。

原子力発電所事故
  地震から約1時間後に遡上高14 - 15 mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1 - 5号機で全交流電源を喪失した。原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した(→福島第一原子力発電所事故)。
  この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置づけられている。同原発の立地する福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰還困難区域」「居住制限区域」も設定された(→福島第一原子力発電所事故の影響)。そのほか、火力発電所などでも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計画停電が実施された。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関西電力管内でも大飯発電所(大飯原発)の再稼働を巡って論議が起き、計画停電の可能性が議論された。
  東日本大震災被災地には、福島第一のほか、以下の原子力発電所があった。いずれも結果的に重大な原子力災害には至らなかったが、外部電源喪失、非常用発電機の破損、原子炉冷却用海水ポンプの破損など、重大な原子力災害一歩手前に追い込まれる発電所もあった。このうち福島第二原子力発電所では、第一原発と同様に冷却機能を喪失し、原子力災害対策特別措置法に基づく10条通報原子力緊急事態宣言発令に至った。

建造物
  警察庁は2019年12月10日時点、全壊12万1991戸、半壊28万2902戸、全半焼297戸、床上浸水1628戸、床下浸水1万0076戸、一部破損73万0251戸の被害が出たと発表している。特に岩手県・宮城県・福島県の沿岸部では、津波によって多くの住宅が流され、全壊戸数は岩手県で1万9508戸、宮城県で8万3005戸、福島県で1万5435戸に上った
液状化現象および地盤沈下
  関東・東北地方の広い範囲で液状化現象が発生し、千葉県千葉市美浜区浦安市香取市我孫子市、東京都江東区江戸川区神奈川県横浜市八景島周辺、茨城県ひたちなか市・潮来市、宮城県大崎市江合川周辺などで、建築物の傾斜や断水、ガス供給停止、水田への土砂の堆積などの被害が生じた。東京湾岸の埋立地や千葉県北東部から茨城県鹿行地域南部にかけての利根川沿い(水郷地帯)での被害が目立ち、自治体により液状化の危険度が低いと認定されていた地域でも被害が発生した。
  東北地方から関東地方北部の太平洋沿岸では地震に伴う地盤沈下により、海岸河口付近などで浸水や冠水のおそれが出ている。宮城県石巻市塩富町では、満潮時に町全体が水没している。また津波によって東北・関東の6県で2万3600ヘクタールの農地が流失または冠水しており、塩害も発生したため、農林水産省は3年後の完了をめどにがれきの撤去や土中の塩分の除去を進める方針を固めたと報道された
火災
  津波被害の大きかった宮城県を中心に、330件の火災が発生した。そのうち、出火原因の159件(約40 %)が津波火災、約30 %が電気火災であった。また、停電下の避難中に灯りとして使用していた蠟燭などからの火災による死者も報告されている。他に、数日から数週間後に堆積していたがれきがバクテリアなどによる発酵で加熱して発火した事例や、海水に浸水した車両の電装部が劣化して発火した事例も報告されている。
  津波火災
  大津波によって倒壊した建造物や車両ががれきとなって内陸部に押し込まれ、浸水域の端や地形や風の影響で堆積(集積)した箇所では、がれきが内在している暖房用石油燃料(灯油重油)タンク、ガスボンベ、自動車用燃料タンクから漏出した可燃物質に何らかの火花が原因となって発火した。特に、切れ目なく積み重なったがれきは市街地から山林へと延焼を拡大させた。また、延焼しているがれきが海上を漂流し、対岸や離れた場所にも拡大した。住民や消防関係者への聞き取り調査を行った結果からは、津波火災現場では消防水利確保や移動手段の確保が困難で、津波や延焼に巻き込まれる二次被害から逃れるため、消火作業を中止し現場を放棄せざるを得ない状況が生じ、火災が急速に拡大していった。
  地震火災
  過去に発生した地震による火災と同様に、倒壊した家屋や建造物中の暖房器具、調理器具、電気配線や破損した電気器具が停電の復旧(復電)後に発火して火災となった。
人口変化
避難者
  岩手県内の避難所は2011年10月に、宮城県内の避難所は2011年12月に、福島県内の避難所は2011年12月に全て閉鎖された。埼玉県加須市に設置された、福島県双葉町から集団避難した住民の避難所は、2013年12月まで続いた。
  一方、災害公営住宅や仮設住宅での避難生活は長期化。震災直後の避難者は推計47万人であったが、2019年2月2日時点で5万1778人になった。各県にいる避難者は、福島9322人、宮城2083人、岩手3666人。県外避難者は福島から3万263人、宮城4196人、岩手1028人。建設済み災害公営住宅2万9495戸(計画3万167戸)、宅地造成済み4700戸(計画2万0600戸)。
  震災8年後の福島県の避難者は4万1299人(うち原発1次避難地域からは8.5万人)
  ・福島県の県外避難(2019年2月7日)(合計約5万人、県内避難は約8,600人)-(1) 山形県(1,822人)-(2) 東京都(7,449人)-(3) 新潟県(5,724人)-(4) 茨城県(3,943人)-(5) 埼玉県(3,820人)-(6) 千葉県(3,313人)-(7) 栃木県(2,948人)-(8) 神奈川県(2,449人)-(9) 宮城県(2,328人)-(10) 北海道(1,802人)-(11) 群馬県(1,688人)-(12) 長野県(1,003人)-(13) 静岡県(823人)-(14) 北海道(802人)-(15) 愛知県(795人)-(16) 沖縄県(738人)-(17) 大阪府(734人)-(18) 山梨県(710人)-(19) 京都府(702人)-(20) 兵庫県(604人)
推計人口
  被災地のうち、太平洋沿岸の青森県八戸市から福島県いわき市までおよび原発事故の避難地域の推計人口(2010年(平成22年)国勢調査基準)を、震災前(2011年3月1日)と最新とを比較して以下に記載する。
  最新の推計人口は、青森県が2020年12月1日現在、岩手県が2020年12月1日現在、宮城県が2020年12月1日現在、福島県が2020年12月1日現在。ただし、2015年(平成27年)国勢調査実施時点で全町・全村が原子力災害による避難指示区域となっている浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、飯舘村、葛尾村および、2015年9月4日まで全町が避難指示区域だった楢葉町については、福島県が最新の推計人口の発表をしていないため、平成27年国勢調査速報値(2015年10月1日時点の人口で代用する。
経済(「東日本大震災の経済への影響」も参照:福島第一原子力発電所事故に関わる経済面への影響については、「福島第一原子力発電所事故の影響#経済などへの影響」を参照;義援金振込の集中による2011年3月のみずほ銀行システム障害については、「みずほ銀行#2011年3月のシステムトラブル」を参照)

  3月11日の東京証券取引所の大引けまであと14分という時間に震災が発生。株式市場には売りが殺到、10,350円前後で推移していた日経平均は10,254円43銭と前日比180円安まで急落し、安値引けとなった。週明け3月14日の東京市場は9時より通常通り取引を開始したが、ほとんどの銘柄が売り気配で始まった。日経平均は、始値は210円安の10,044円17銭で始まり、幅広い銘柄に売り注文が殺到し下げ幅を拡大、終値は9,620円49銭(633円94銭安 6.18 %の下げ)と1万円を割りこんだ。更に翌3月15日には4号機が爆発・炎上し、放射能汚染が広範囲に拡大したことで日経平均は大幅続落、一時1,392円安の安値8,227円63銭まで下げ、終値は1,015円安の8,605円15銭と9,000円を割り込んだ。15日の日経平均株価は前日比-10.55 %、過去3番目に高い下落率の大幅下落を記録する事となった。震災前と比べ、3営業日で2,361円87銭安(22.3 %安)になった。その後、地震から4営業日目の16日に反発となり、488円高の9,093円まで戻した。

  一方、外国為替相場では、復興資金調達のために円の価値が高まるとの思惑から急激な円高が進行し、3月17日に一時1ドル = 76円台となって戦後最高値を更新した。これに対し、日本銀行やG7合意に基づく協調介入により市場の安定化を図ったため、3月20日には80円台を回復し円高にも一応の歯止めがかかった。さらに、原子炉事故への対応の進展が伝えられると株価も反発し、3月22日には日経平均も9,600円台を回復した。
  しかし、世界銀行が最大で2,350億ドル(約19兆円)、日本政府が16 - 25兆円の震災被害想定額を発表するなど、経済的影響の大きさが伝えられたほか[213][リンク切れ][214]日銀短観景気動向調査でも景況感の悪化が伝えられた[215][リンク切れ][216]。工場の被災や部品不足により、国内外で生産停止や特定製品の品薄が発生した一方、「震災特需」「復興特需」による一部産業での景気の上向きが発生している。ただ、2011年末で推定12万人の震災失業が伝えられるなど、被災地を中心に経済への影響はいまだ続いている(2020年)状況にある。
  復興費用は10年間で23兆円(2011年7月時点)と見込まれていて、復興債による補填も行われている。
地震の混乱から発生した問題(詳細は「東日本大震災関連の犯罪・問題行為」および「福島第一原子力発電所事故の影響#風評被害・デマ」を参照)
  震災に便乗した犯罪がなかったわけではないが、諸外国で見られるような略奪や暴動はなく、秩序は比較的保たれていた。しかし、首都圏を中心に不安を感じた市民が生活物資の買い貯めを行う動きが収まらず、物流の回復後も小売店の店頭では品薄状態が続き、震災の影響がなかった地域にも拡大した。震災だけでなく、東日本での電力不足なども加わったことなどから、日本全体が過度の自粛ムードに包まれ、経済への悪影響が懸念された

災害対策の動き
  日本国政府は地震発生から28分後の15時14分、史上初の緊急災害対策本部を設置した。3月12日夜の持ち回り閣議で、政令により「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震等による災害」を激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律(激甚災害法)に基づく激甚災害に指定し、同じく政令により特定非常災害特別措置法に基づく特定非常災害に指定した(いずれの政令も3月13日公布)。
  また、青森・岩手・宮城・福島・茨城・栃木・千葉・東京の各都県は災害救助法の適用を決定した(適用市町村は都県ごとに指定)。3月22日、青森・岩手・宮城・福島・茨城・千葉の各県と内閣府は、東北地方太平洋沖地震と津波による被害について被災者生活再建支援法を適用することを決定した(適用地域は青森・岩手・宮城・福島・茨城・栃木・千葉の7県)。ただし、国および福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めず、福島県には適用していない。
自衛隊の損害
  陸上自衛隊東北方面隊管内にある宮城県の多賀城駐屯地や航空自衛隊松島基地は、震災後の津波によって浸水し、施設や装備に大きな被害を受けた。そのほか東北地方に所在する他の陸海空自衛隊の基地・駐屯地においても、施設や設備に多数の損害を受けた。
  松島基地では駐機場および格納庫に駐機していた航空機28機(F-2B戦闘機 × 18機、T-4練習機 × 4機、U-125救難捜索機 × 2機、UH-60J救難ヘリコプター × 4機)すべてが水没するなどの被害を受けた。これにより第4航空団は救援活動を行おうにも手も足も出ない状況に陥った。
  また、仙台空港において整備中であった、陸上自衛隊第1ヘリコプター団特別輸送ヘリコプター隊所属のEC225LP型1機が津波による空港の浸水によって水没し、全損となった。
自衛隊員の災害関連死
  2011年4月1日、震災発生翌日の12日に駐屯地を出発し、15日から作業に従事していた50歳代の曹長(陸上自衛隊・旭川駐屯地所属)が死亡した。死因は過労死の可能性があるとされている。
  曹長が所属していた第2特科連隊連隊長は曹長の死亡について、「誠に残念で、ご冥福をお祈りする。災害派遣活動との因果関係を調査し、原因を究明したい」と述べた。4月2日、防衛省は同曹長を1日付で准尉に特別昇任させることを決めた。15日には遠野市の指揮所で運用調整に当たっていた第9施設大隊所属の1等陸曹が脳幹出血で死亡、防衛省は同日付で1曹を曹長に特別昇任させた。1曹が所属していた第9施設大隊の大隊長は、「大変残念。倒れた隊員の復興に懸ける気持ちを受け継ぎ、全力で活動するとともに、隊員の健康管理に万全を期す」と述べた。5月27日未明には第18普通科連隊所属の3等陸曹が死亡。本震災における自衛隊員の災害関連死は3人目となった
緊急消防援助隊
消防庁の指示で全国の消防本部から緊急消防援助隊のべ10万9919人が派遣されて5064人を救出した。
  ・派遣期間 - 平成23年3月11日 - 平成23年6月6日(88日間)
  ・部隊・隊員数 - 1都1道2府40県 総人員30,684人(8,854隊) 延べ人員109,919人(31,166隊)
  ・活動地域 - 岩手県、宮城県、福島県、千葉県
  ・活動内容 - 航空部隊は人命救助、空中消火、情報収集などに、陸上部隊は消火、救助、救急活動などに従事した。
問題点・課題
  震災後、ボランティア活動に対する保健衛生上の規制や支援車両に対する道路交通法の規制など、現在の法令による制限が復興の障害となっていることが明らかになった。復興の遅れにより経済や生活に二次的な被害が生じているため、関係自治体では災害特区指定や特別立法への期待も大きい。市街地が壊滅した岩手県陸前高田市などでは、集落ごと高台に移転するといった大規模な対策が検討されているが、課題も山積している。
  震災以後も、2011年9月には戦後最大級の勢力をもって上陸した台風15号によって被災地が広範囲で浸水し、福島第一原発では汚染水の水位上昇などの被害が起きている。膨大な量のがれき(たとえば岩手県では、前年1年間のごみ処理量の23倍に上るがれきが発生した)をどのように処理するかについても、がれきに付着した放射性物質の濃度が問題とされ、広域的な処理は進んでいない。
  国および福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めていないことから、原発事故の長期避難に伴う災害関連死(特に「原発関連死」と呼ばれる)対策や原発避難者生活再建支援施策が求められている。


阪神・淡路大震災
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阪神・淡路大震災は、1995年平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害
  1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒、兵庫県淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生した。
  近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区灘区中央区三宮元町ポートアイランドなど)、兵庫区長田区須磨区)の被害は甚大で、当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434人に達し、第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模である。戦後に発生した自然災害全体でも、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。
  同年7月25日激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づく激甚災害にする。
地震の特徴
  地震による揺れとして、地震後の気象庁の地震機動観測班による現地調査で阪神間(兵庫県東南部の神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市)および淡路島の一部(津名町北淡町一宮町)に震度7の激震が適用された。神戸海洋気象台(神戸市中央区中山手)および洲本測候所(洲本市小路谷)では震度6を観測し、地震機動観測班による現地調査で兵庫県南部の広い範囲に加え、大阪府でも大阪市西淀川区佃、豊中市庄本町、池田市住吉において震度6と判定される地域があった。
  ほか、東は小名浜福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。
  戦後に発生した地震では、1946年(昭和21年)の昭和南海地震1948年(昭和23年)の福井地震を大きく上回り、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した1944年(昭和19年)の昭和東南海地震以来となる。

  福井地震を契機として新設された「震度7」が適用された初めての事例であり、実地検分(気象庁の地震機動観測班による現地調査)によって震度7が適用された最初の事例であった。しかし、現地調査後に震度7を発表したのでは対応が遅れるとの意見を踏まえ、この震災の翌年から震度7も計測震度によって速報可能な体制に変更された。これ以降に発生した、2004年新潟県中越地震2011年東北地方太平洋沖地震東日本大震災)、2016年熊本地震2018年北海道胆振東部地震における震度7の観測は、震度計によって実測されたものである。
  建造物に対する被害が大きいとされる周期1-2秒程度のキラーパルスを伴った地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され、10秒以上続いた地域もあった(ただし、その後の地震では兵庫県南部地震を超える地震動が観測されている)。神戸海洋気象台(現・神戸地方気象台)では、最大加速度818ガル、最大速度105カイン、最大変位27cmの地震動が襲ったと分析されている。これらは、釧路沖地震(922ガル、67カイン、変位93cm)、ノースリッジ地震(約800ガル、128カイン)に匹敵するものである。六甲アイランドの地震計では縦揺れ507ガルが記録された(日本で過去最大は2008年(平成20年)6月に岩手県一関市で観測された4022ガルである)。
その他
  道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などの生活インフラ(現代社会においてはライフラインと通称される例が多い)は寸断されて、広範囲においてまったく機能しなくなった。これ以降、都市型災害および地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」などの行政の対策などが注目されるようになった。
  もともと日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震には耐えられない構造であることが分かったので、1981年(昭和56年)には大幅な建築基準法の改正が行われた(いわゆる新耐震基準)。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、また新耐震基準施行の1982年(昭和57年)以降に建てられたビルマンション病院鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多く見られた。
名称
  1995年1月17日午前5時46分に発生した当地震に対し、同日午前10時(4時間14分後)に政府が「兵庫県南部地震非常災害対策本部」の設置を決定した。同日午前11時、気象庁は当地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」。
  一方、当地震によって引き起こされた災害(震災)を指す名称は、マスメディア等により任意に命名されていた。『毎日新聞』は地震発生当日の午後3時半ごろ、「阪神大震災」の名称を発案し、1月18日付朝刊以後、同紙上で広められた。テレビでは読売テレビが地震発生当日から一部の番組で「阪神大震災」を使い始め(1月24日昼から統一)、毎日放送テレビは1月18日昼頃から呼称を「阪神大震災」に統一した。その後、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。関西テレビ1月19日から、『読売新聞』は1月22日付朝刊から朝日新聞と『産経新聞』は1月23日付朝刊から、『日本経済新聞』は1月23日付夕刊から、朝日放送テレビは1月23日から、NHKは1月23日夕方から、『神戸新聞』は1月24日付朝刊から、共同通信は1月24日の配信記事から、『週刊文春』は2月2日号から、それぞれ「阪神大震災」の名称を使い始めた。
  一方で、『週刊現代』(2月4日号)や『サンデー毎日』(2月5日号)、『週刊朝日』(2月3日号)、『アサヒグラフ』(2月1日号)、『AERA』(1月30日号、2月5日号緊急増刊、2月13日号、2月25日号臨時増刊、3月25日号臨時増刊など)、『諸君!』(3月号、4月号)、『日刊スポーツ』(1月18日付)では「関西大震災」、『東京新聞』(1月23日付夕刊まで、『週刊読売』(2月5日号)、『産経新聞緊急増刊』(『産経新聞』『週刊Gallop』『サンケイスポーツ』1月27日号)では「神戸大震災」、『週刊新潮』(2月2日号)では「神戸地震」、読売テレビの一部の番組では「関西大地震」など、当初は統一されていなかった。

  「阪神大震災」の表記が優勢となる中で、それまで独自の名称を採用していたメディアも震災名を「阪神大震災」に切り替える傾向が進んだ。『東京新聞』は1月24日付朝刊から、『週刊朝日』は2月5日緊急増刊号から、『アサヒグラフ』は2月10日号から、それぞれ「阪神大震災」を使い始めた。
  2月14日、災害名を「阪神・淡路大震災」とすることが閣議で口頭了解された。これは政府が、神戸市を中心とした阪神地域および淡路島北部において被害が甚大であり、また、災害の規模が大きいことに加え今後の復旧に統一的な名称が必要と考えたためである。なおそれ以前から、震災当時の北淡町長・小久保正雄は「阪神・淡路大震災」の名称を提案していた。2月24日には、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(1995年(平成7年)法律第12号)が制定、即日施行された。

  なお、大阪府下では豊中市を除くと兵庫県ほどの被害でないにも関わらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神間」(神戸市灘区・東灘区と兵庫県の芦屋市尼崎市西宮市近辺)における被害が甚大であったためである(なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い)。ただし、上記の用法による「阪神」では神戸市、明石市も豊中市も外れてしまうことになり、大阪市や神戸市も含めた、より広義の「阪神」では大阪府西部・兵庫県南部の順で表現されていることになるため、なお異論は少なくない。そうしたこともあって、「南兵庫大震災」という表記を用いる書籍もある。
  また、現在でもマスメディアなどで単に「阪神大震災」と呼ばれることがある。これに対して疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けたように表現され、同様に甚大な被害を受けた淡路島北部のほか、阪神地区の周辺について考慮されていないからである。『毎日新聞』には、実際に淡路島の読者から「阪神大震災」の名称に対して「なぜ淡路を入れないんだ」という抗議の手紙が届いたという。また震災当時に淡路島にあった津名町(現・淡路市)町長の柏木和三郎は「阪神大震災」の名称に対して、「どこで起きた地震かと、他人事のような気がする」「マスコミに厳重に抗議したいが、忙しくてそれどころではない」と発言している。またNHKでは「阪神大震災」と呼ぶ際、できるだけ「淡路島を震源とする」という注釈を添えて呼ぶようにしていた。
被害
  関東大震災では、木造住宅が密集する地域での火災が被害を大きくしたため、おもに焼死により日本の災害で最悪となる約10万人の死者を出した。東日本大震災では主に津波による水死で1万5千人を超える戦後最悪の死者を出した。これらと比べ、当震災では断層沿いに被害が集中して被災地域が狭かったものの、冬季の早朝に発生し、自宅で就寝中の者が多かったため、主に圧死で6千人を超える死者を出した。甚大な被害を伴った震災であったが、その中でもいくつかの被害軽減の要因となった事項が挙げられる。
  ・発生時刻:冬季の早朝であったため、公共交通機関・道路の利用率が少なく(山陽新幹線の下り列車は新大阪発6時始発)、外出者も少なかったことで、市街地-自宅外での被害を抑えた。
  また、気温が日中10℃前後の低温の季節だったことから、倒壊建屋に閉じ込められた生存者の熱中症、凍傷等の衰弱要因がなかったことも人的被害を抑えた。さらに多くの被災者が就寝時の被災であったことから、本震時は毛布で身体を覆うことで落下物から防護したり、救出までくるまって暖をとっていたりした被救助者もいた。多くの市民が自宅での被災だったため帰宅困難者などが発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であった。火の使用も少なかった。
  ・気象条件:風が穏やかで、延焼が最小限に抑えられた。降水が少なかった。
  また、兵庫県西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34人が犠牲になった。
被災者の死因
  NHKによる死体検案書の分析によると、地震当日に死亡した5,036人の76%に当たる3,842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死(圧死、窒息死など)だった。多くは木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとみられる。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
  2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。
  死者の90% 程度は圧死とされている。また、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2,456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2,221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた。サンデー毎日による調査では、分析対象とした247人のうち、47人が建物の下敷きになる一方、家具の下敷きは2人のみだった。
  死者のうち、20代が30代よりも200人近く多く、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している。20代が多かった理由としては、大学が多い神戸市灘区などで高齢者と同様、文化住宅など木造アパートに住んでいた学生が、倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いと見られている。31の大学で111人が死亡し、特に、神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した
瓦屋根・木造・日本家屋の危険性
  日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の屋根はほとんど見られなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」にもかかわらず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている
  古い木造住宅は、年月の経過によって乾燥している点、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅が地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、なおかつ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる工法の住宅が高い耐震性を示している。3階建住宅の被害もほとんどなかった。
生存空間
  日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの即死者が出た原因は、潰れた建物の下敷きになり生存空間がなくなったためである。分解しやすい構造のため、地震の場合瓦屋根、屋根土、土壁、床、柱がバラバラになって落下し、下敷きになって人体が潰れるためである。揺れが小さい場合は土壁が建物を守るが、揺れが大きい場合は土壁も破壊され落下し凶器になる場合がある。
  鉄筋コンクリート造りの場合は、強固な一体構造であり、大破しても柱、屋根、床はバラバラになって潰れることがない。柱は破壊されても、天井が低くなるだけで床や屋根部分はバラバラになることはなく、即死することが少ない。さらに普通のマンションの場合、壁が多く、壁が柱の役目をするので構造的に潰れにくい。マンションは大破した場合でドアが開かない、大きな亀裂が入るなど住むことはできないが、建物の下敷きになって怪我をしたり即死することはない。例外的に低層階に会社、スーパーマーケットなど窓が大きく、柱が少なく、壁の少ない構造のマンションでは一階の柱が破壊され、天井が極端に低くなった例がある。
建築基準法改正前の住宅
  耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1981年(昭和56年)以降で1982年頃から建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年(平成8年)・2000年(平成12年)・2006年(平成18年)に建築基準法は改正されている。
  危険な合法住宅の問題点としては、古い住宅の場合は耐震性がなく危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後に老朽化して危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法がない江戸時代の建造物は危険であっても合法である。
  3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年(昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていたため、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかったためである。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より2008年(平成20年)時点で約1,050万戸(日本の住宅総数の約23%に当たる)あるといわれている








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