池田小学校事件-1
2024.05.28-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240528-NEI2ZWJNR5I6XMY666FVUE7PBU/
「犯人の次に憎かった」 報道被害なくすため池田小事件遺族がたどり着いた答え
(木村さやか)
犯罪被害者が受ける報道被害軽減に向け、初めてリーフレットを作成した
大阪教育大付属池田小事件遺族の酒井肇さん(62)と妻の智恵さん(63)。
23年前の事件後、「二度と同じ思いをする人が出ないように」と学校安全や被害者支援、そして報道の問題に全力で取り組んできた。一定の成果を実感する一方、
報道被害については「現在も続いている」と指摘。リーフレットを通じた相互理解から
「報道による恩恵を増大させたい」と力を込める。
「犯人の次にメディアが憎かった」
「被害者にはメディアのことを知る機会はない。誰か間に入って助けてくれればいいのに、と思っていた」 23年前の事件直後の思いを、智恵さんはこう振り返る。
メディアスクラムなどに遭い、夫妻は「犯人の次にメディアが憎かった」という。
自宅に押し寄せたメディアに「なぜ家を知っているのか」「何をしに来たのか」「見張られている」と恐怖を感じ、約20年間は自宅窓のミラーレースカーテンを開けることもできなかった。
だが事件の翌年に渡米し、そこで面談した犯罪被害者遺族に「被害者が訴えるからこそ、社会は変わろうとするのであって、被害者が訴えるのをやめれば誰も必要性を感じないから、社会が変わるわけがない」と被害者自身が発信する重要性を指摘された。
信頼関係を築けたメディアを通じ、新たな支援者とのつながりや情報の取得といった「報道による恩恵」も実感し、自分たちの経験を生かしたいとさまざまな活動に取り組んできた。
今も続く報道被害に「被害者がメディアのことを知らず、メディアは被害者の状況や思いを理解していないところに起因するのではないか」と考え、約2年前からリーフレットづくりを模索。記載する内容は、自身の経験から事件直後の混乱期にこそ事前に知りたかった事柄に絞り込み、実際に被害者支援に当たる人々が説明し、質問に答える際に役に立つものにしようと、大阪被害者支援アドボカシーセンター側と協議を重ねて作り上げた。
夫妻はメディアと被害者の接触を
「断つ」のではなく
、「支援の輪」の中に入れる仕組みを構築することで、報道被害は軽減されるとみる。肇さんは
「まず必要なのは相互理解。センターとメディアの間で『顔の見える信頼関係』が構築されれば、メディアの取材を受けてみたいという被害者に対し、この人ならと紹介することもできるのではないか」と話す。
同センター副代表理事の杉本吉史弁護士は、リーフレットのQ&Aの
「もしもメディアから取材を申し入れられたら」とのタイトルに、
「メディアに対して犯罪被害者には権利があります」と明記した点を強調し、こう続けた。
「被害者には主体的に選択する権利がある、と自信を持って主張してよいのだということを、しっかり伝えていきたい」
国や行政のサポートも必要
常磐大元学長の諸沢英道氏(被害者学)
「被害者は事件後、想像を絶するほどの厳しい状況に置かれる。その要因の一つがメディアによる過剰な取材だろう。
遺族が自身の体験をもとに、メディアへの対応方法や取材に応じるメリットを記したリーフレットを作成したことは、事件で混乱する被害者がどうメディアと距離を取るのかを決める判断材料になり、意義がある。同時に、メディア側にも被害者への理解を求める機会になる。
ただ、リーフレット作成への
遺族の思いを考えるほど、被害者側が率先して被害者支援改善への主張や活動をしていかなければならない国内の状況に目が向く。
欧米諸国では被害者とメディアとの間に専門家が入って支援にあたっており、本来国や行政が果たすべき支援がなされてないともいえる」
(木村さやか)
2021.06.08-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210608/k10013073241000.html
児童8人殺害 附属池田小学校事件 きょうで20年
大阪 池田市の
大阪教育大学附属池田小学校で8人の児童が殺害された事件から8日で20年となり、学校で追悼の集いが開かれました。
平成13年の6月8日、大阪教育大学附属池田小学校に宅間守元死刑囚が侵入し児童8人が殺害され、児童13人と教員2人がけがをしました。
事件から20年となる8日、遺族と児童、教職員の合わせておよそ650人が出席して追悼の集いが開かれ、はじめに亡くなった8人の名前が刻まれた塔の鐘が鳴らされて全員で黙とうをささげました。
そして、当時6年生の担任だった眞田巧校長は学校の安全を確保する取り組みは20年の節目がゴールではないとしたうえで犠牲になった児童に対し「学校が安全で安心して学べる場所であるように、これからも努力を続けます」と語りかけました。
このあと、児童代表の6年生が「あの事件のようにつらい思いをする人がもう二度と起こらない社会を作るために、この事件のことをいつまでも語り伝え続けたいです。亡くなった8人の皆さんの分まで精いっぱい生きていきたいと思います」と誓いのことばを述べました。
学校の前には一日、献花台が設けられ、訪れた人が花を手向けたり手を合わせたりしていました。附属池田小学校では不審者に対応する訓練を行うほか、事件を教訓に「安全科」という授業を設け子どもたちの命を守るための教育を続けています。
同級生「亡くなった人たちへの思い 背負って生きたい」
大阪 池田市に住む伊藤政貴さん(27)は事件当時小学1年生で、同級生を亡くしました。体育の授業で体育館にいたところ突然、教員から避難するよう指示され、クラスメートとともに一斉に運動場に逃げました。逃げる途中では救助にあたってスーツに血がついている教員や救急車で搬送される同級生の姿を目の当たりにしました。
事件から20年となる8日、伊藤さんは午前8時半すぎに母親とともに附属池田小学校を訪れ、亡くなった8人を思って選んだ8本のひまわりの花をあしらったブーケを献花台に手向け、手を合わせました。
伊藤さんは「同級生たちにはこれからもしっかりと生きていくと伝えました。6月8日は自分にとって人生を見つめ直す大切な日です。亡くなった同級生も事件がなければ社会人になったり結婚したり、さまざまな人生があったと思います。亡くなった人たちへの思いを背負って今後も生きていきたい」と、8人への思いを語っていました。
遺族「かなうものなら娘を抱きしめたい」
当時小学2年生だった長女の花菜さんを亡くした塚本有紀さん(54)は8日取材に応じ「かなえてもらえるなら抱きしめてあげたいです」と娘への思いを語りました。
20年前、塚本さんは母親からの電話で事件のことを知り、駆けつけた病院で花菜さんと対面しました。その後も、起きたことを受け入れられない時期が続き「なぜ娘は亡くなったのか、何がいけなかったのか」と問い続けてきました。
20年が過ぎた今もふとしたときに苦しくなることがあり、8日の追悼の集いでも事件当日と似た日ざしの強さに当時を思い出し、足が震え、胸が苦しくなったといいます。搬送先の病院で花菜さんの枕元に置かれ、最期まで寄り添ったハムスターのぬいぐるみは今も手元に大切に置いているということです。
塚本さんは「もうかなわないけれども、かなえてもらえるなら抱きしめてあげたいです。成長する娘が見たかったです。卒業式も出たかったし、成人式の晴れ着も一緒に買いに行きたかった。楽しい話も聞きたかった。こんなにもしんどいものなのかと思います」と話していました。そして「いつかあの子に会えたとき『ママ、頑張ってたよ』と言ってもらえるように頑張ることが今の私の生きがいです」と話していました。
遺族「事件を風化させず心に刻んでほしい」
当時小学2年生だった長女の優希さんを亡くした本郷由美子さん(55)は8日、NHKの取材に応じ、事件を風化させず語り継いでいくことの大切さを訴えました。
本郷さんは事件のあと心のケアについて学んで「精神対話士」の資格を取得し、事件や災害で家族を失った人たちなどを支える活動を続けています。
追悼の集いに出席するのを前に学校近くでNHKの取材に応じ「20年がたっても、朝、目覚めると夢であってほしいと思う気持ちは変わりません。きょうは大切な娘と向き合い、これまで自分が何をできたのか報告してことばを交わす一日にしたいと思います」と話しました。
そのうえで「再び悲しい事件が繰り返されないよう、事件を風化させず少しでも多くの人が記憶にとどめ心に刻んでほしいです。当時の子どもたちが成長するのを見る中で時間の経過は感じますが、新しい世代の人たちにも私たちの思いを紡いでいくことがこれから大切になってくると感じています」と話していました。
当時勤務の教員「今でも守れなかったのかを考える」
事件当時、大阪教育大学附属池田小学校で勤務していた教員は20年前を振り返り「今でも子どもを守ることができなかったか考えることがある」と話しました。当時、1年生のクラスで担任をしていた小林弘典さんは現在、市内の北豊島小学校の校長を務めています。
自分のクラスは体育の授業中で教え子が直接、被害を受けることはありませんでしたが、子どもたちの避難誘導や大けがをした同僚の介抱などにあたりました。
20年が過ぎた8日、小林さんは日課にしている校舎の見回りを行い、事件が起きた午前10時すぎには校長室から校庭で体育の授業を受ける子どもたちの様子を静かに見つめていました。
小林さんは20年間、事件のことは片ときも忘れたことがなく、あの日から時が止まったままになっているところがあるとしたうえで「今も、亡くなった子どもを守ることができなかったのかと考えることがある」と話しました。現在は自分自身の経験を児童や教員に伝えるようにしているということで「学校の安全に力を入れて、児童が怖い思いをしないようにしたい」と話していました。
当時6年生の担任 眞田校長「事件を風化させず発信」
事件当時、6年生の担任を務めていた大阪教育大学附属池田小学校の眞田巧校長は追悼の集いのあと取材に応じ「20年前、子どもを守れなかった申し訳ない気持ちは今も変わりません。事件を風化させずに発信し続けていきたい」と話していました。附属池田小学校では8日、防犯や防災について学ぶ「安全科」の授業を行ったということです。
眞田校長は「児童たちには今後、守られる存在から守る存在になってほしいという思いがあり、きょうの『安全科』の授業では自分にできることは何かを考えてもらいました」と話していました。
大阪教育大学 “”事件の教訓 語り継ぐ講義”
大阪教育大学では教員を目指す学生たちに附属池田小学校で起きた事件について伝える講義が行われました。これは大阪教育大学が事件の教訓を語り継ごうと毎年行っているもので、瀬戸口昌也教授の講義には教員を目指す3、4年生およそ20人が出席しました。
講義ではまず、出席者全員で1分間の黙とうを行いました。そのあと事件をテーマにしたNHKの番組が上映されたほか、事件後附属池田小学校で定期的に行われている教職員の防犯訓練といった安全対策が紹介されました。
20年がたち事件の記憶がない学生がほとんどだということで、瀬戸口教授が教訓を語り継ぎ学校の安全管理に力を入れていってほしいと話すと、学生たちは真剣な表情で聞き入っていました。
出席した男子学生は「この大学だからこそ事件のことや学校の安全について学べることがあると思う。将来、小学校の教師になったら学んだことを生徒や他の先生に伝えていきたい」と話していました。
女子学生は「当時の教員や遺族の話などは初めて聞いたので胸が痛かった。守れたはずの命を守れないことほどつらいことはないと思うので、学校の安全について考え、子どもを守れる教師になりたい」と話していました。
宅間元死刑囚の弁護士は
この事件の裁判で宅間守元死刑囚の弁護を担当した戸谷茂樹弁護士(75)は8日、所属する大阪 都島区の弁護士事務所で取材に応じました。
戸谷弁護士は「裁判ではどう弁護したらよいのか苦しみに苦しみました。彼には物事を判断する能力があったので、減刑ではなく、事件を起こした背景を明らかにすることを目標にしていました」と当時の思いを語りました。
そのうえで「彼がしたことは許されないことですが、背景を探るためにほかとは違う特別な人間だと切り捨てないことが大切だと思って取り組んできました。今後もどのようにしたら同じような事件が起きないようにできるのか、考え続けなければならないと思います」と話していました。
文科相「たゆまぬ取り組みを行っていきたい」
萩生田文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で「犠牲になられた方々やそのご家族をはじめ、関係された方々に改めて哀悼の意を表したい。子どもたちが学校で安心して活動し学べるようにするには、前提として学校での安全を十分確保することが不可欠だ。文部科学省としても過去の事件を教訓として子どもの安全確保に関し関係機関や教育委員会等と連携しながら、たゆまぬ取り組みを行っていきたい」と述べました。
官房長官「再発防止に努めなければいけない」
加藤官房長官は閣議のあとの記者会見で「事件から20年が経過するが犠牲になられた方々やご家族、関係された方々に改めて哀悼の意を表したい。子どもの命を奪う犯罪は断じて許されるものではない。政府として事件を風化させることのないよう、関係機関が連携して再発防止に努めなければならない」と述べました。
そのうえで「保護者や地域住民による学校支援のボランティアの巡回や地域の防犯に関係したさまざまな協議の場の設置活用など、日常的な交流を含めて家庭や地域が連携する体制作りが重要だ」と述べました。
2021.06.08-Yahoo!Japanニュース(FRIDAY DIGITAL)-https://news.yahoo.co.jp/articles/8f7139a706840feaca52506bdcb237c812e6b664
池田小事件・宅間守の親族が初めて明かした「実父の最期」
「他界したのは、20年4月です。19年12月、あの人が『コンコン』と咳をしていたんです。それで20年2月に病院に検査に行って、レントゲンを撮ったら、すぐにがんだとわかりました。体力も落ちていましたし、食欲もなかったようで、『もう長くはないぞ』と自分で言うてました。覚悟していたんやと思います」
そう語るのは、
宅間守死刑囚(04年に死刑執行、享年40)の親族。「あの人」というのは、宅間の実父のAさんのことだ。
6月8日で「池田小事件」から20年が経った。
01年6月8日、宅間は大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に出刃包丁を持って侵入。児童8名を殺害し、児童と教員15名に重軽傷を負わせた。抵抗ができない児童を狙うという卑劣極まりない凶悪事件である。
そんな池田小事件の加害者である宅間の実父のAさんが、20年4月に亡くなっていたことがわかった(享年88)。死因は肺がんだったという。宅間の親族の一人が、事件後初めて取材に答えた。
「あの人(Aさん)も私たち親族も、事件当時はもちろん、その後もマスコミにえらい目にあってるんですよ。家にひっきりなしに電話がかかってきたり、住んでいた家の前で待ち伏せされたり……。普通やったら引っ越そうとすると思うんですが、逃げるような形になるのが嫌だったんでしょうね。あの人はずっと兵庫県にある家に住み続けていました」
事件発生直後から、Aさんへのバッシングは起きた。一時は「Aさんが命を狙われている」という噂が流れ、自宅前にパトカーが常駐していた時期もあった。それでも宅間の生家でもある自宅にAさんは住み続けた。
自宅は元々、阪神大震災で建物の一部が傾いており、お世辞にも綺麗とは言い難い。妻は早くに介護施設に入っており、長く一人暮らしだった。 17年に自宅を訪れた際、Aさんは本誌記者にこう語っていた。
「家の中は座ることもできないんや。奥は雨漏りで畳は腐っている。居間は足の踏み場もない。悪いな」 前出・親族はこう話す。 「すごい生活をしていましたよ。それでも『ここ(自宅)で一人で寝るように死ねたらな』と言っていました。自責の念もあったんでしょうね。あの人なりの償いの気持ちもあったと思います」
01年の事件発生以来、Aさんはずっと悔恨の念にかられてきた。 小学校時代には拾ってきた仔猫を浴槽に沈めて殺してしまったり、成人してからも強姦事件を起こすなど悪行の限りを尽くしていた宅間のことを、Aさんは「あいつを殺し、心中することも考えた」と思っていたという。
しかし、どうしても実の子を手にかけることはできなかった。そうして01年、Aさんの感じていた不安は最悪の形で現実のものとなってしまった。 04年に宅間の死刑が執行された際、Aさんは本誌記者にこう漏らした。
「息子の処置を親父さんに任すといわれたら、ワシはすぐにクビを落とす」 事件を防ぐことができなかったことへの後悔、そして被害者へのせめてもの償いの思いから、荒れ果てた家でひとり暮らし続けた。
宅間の部屋も、そのままにしていたという。 そんなAさんが20年4月に亡くなり、自宅も同年9月に取り壊された。親族の間で「すべて綺麗にしたほうがいいんじゃないか」という話になったからだ。
いま自宅があった場所は更地になっている。自宅近くにあった墓も、20年の初夏頃に「墓じまい」をしたという。親族はこう話す。 「コロナでほとんど見舞いもできませんでした。
あの人(Aさん)は最後、『俺の人生、なんやったのかな』と言うてましたわ。一番最後に。私もかける言葉がなくて、黙ってしまいました」 関わった人たちのすべての人生を奪い、狂わせた事件から20年が経った。
FRIDAYデジタル
附属池田小事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
附属池田小事件は、2001年(平成13年)6月8日に大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件(建造物侵入・殺人・殺人未遂
・銃刀法違反事件)。宅間 守が校内に侵入し、同校の児童(いずれも1年生・2年生)8人を出刃包丁(刃体の長さ15.8 cm)で殺害、15人(児童13人および教職員2人)を負傷させた。日本の犯罪史上稀に見る無差別大量殺人事件として、社会に衝撃を与えた。
事件
事件前日
事件前日の
2001年(
平成13年)
6月7日夜、宅間は自宅マンションで過去に思いを巡らせ、「今迄散々な目に遭わされ、何もかも嫌になった。自殺しても死に切れない。いっその事大量殺人をして死刑になりたい」と考えていた。復縁しようとしてもますます離れていくばかりだった3人目の元妻について、小学校へ勤務していたときに薬物混入事件を起し免職になったのも彼女と別れて苛々していたためだと考え、「彼女と知り合っていなければ、こんなことにはならなかった」と全ての責任を押し付けて恨みを募らせた。生活に行き詰まっても自殺もできない自分が情けなく苛立たしかったが、「自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい」「大量に人を殺害すれば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろうし、世間の多くの人も絶望的な苦しみを味わうだろう」という考えに次第に変化していった。大阪市内の繁華街へダンプカーで突っ込むことも考えたが、小学生を襲うのが簡単だと考え、小さい頃に憧れて同時に嫉ましくも思っていた、エリート校の附属池田小を襲うことに決めたという。
当日
6月8日午前9時40分頃(事件の40分前)、宅間とみられる男が、白い乗用車を運転し猛スピードで駐車場から出ていった様子が目撃された。目撃した人物は「何かやるぞと感じた」という
。宅間は刃物店を訪れると「丈夫なやつ」と告げ、凶器の出刃包丁1本(刃体の長さ約15.8 cm)を購入し、池田小へと向かった。池田小学校に着く直前に思ったのは「よく考えると僕死んどったんじゃないか。たまたま助かっただけやないか、と思ったのを覚えているんです。(病院から)飛び降りたときに。あの時死んどったんや。おまけ(の人生)やないか、と」ということであったという。車内には、元妻を殺そうとの目的で以前から準備していた文化包丁もあった。
宅間は
大阪教育大学附属池田小学校東門の前に車を停めると、約100メートル離れた南校舎へ向かい、午前10時10分過ぎ、1階にある2年生の3教室に次々と侵入し犯行に及んだ。時間は2時間目の授業が終わった休憩時間で、2年南組担任の教諭は、数人の児童と共に花壇の世話のため外へ出ていたが、児童の悲鳴を聞いて校舎へ近づき、2年東組担任と1年南組担任の教諭が宅間を追いかけているのを目にした。1年南組担任は、宅間の振り回した包丁で背中を刺されている。2年南組担任がテラスに出ていた児童にグラウンドへ逃げるよう指示すると、宅間は一瞬児童らを追う素振りを見せたが、方向を変えて1年南組教室へと飛び込んだ。
午前10時20分、1年南組の児童たちはちょうど音楽の授業から教室へ戻ってきたところで、一足早く音楽室から戻ってきていた男児が、ここで刺され犠牲となった。宅間は他の児童にも次々と切りつけ、教室の後ろにいた女児らは泣きながら廊下へと逃げ出した。駆け付けた副校長と2年南組担任が宅間と格闘になり、2年南組担任は包丁を持った手を押さえようとして顔を切られた。しかし手を押さえられると宅間はおとなしくなり、二人により取り押さえられた。15分に及んだ犯行の間、宅間は終始無言だった。
児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った。その後、宅間は駆けつけた
池田警察署の署員により、殺人未遂容疑で
現行犯逮捕されたが、左手指に怪我をしていたため、まず病院で手当てを受けた。その後、
大阪府警察(
捜査一課・少年課)が池田署に設置した
捜査本部により、容疑を殺人容疑に切り替えられ、取り調べを受けた。その後、同月10日には1年南組の児童4人に対する殺人および殺人未遂(男児1人を刺殺し、同級生3人を負傷させた)容疑で、
大阪地方検察庁へ
送検された。残る2年生の女児7人への殺人容疑と、児童および教師計12人への殺人未遂容疑、そして銃刀法違反容疑でも、同月29日に再逮捕された。
宅間は7月8日から
刑事責任能力を調べるため、大阪地検によって
大阪拘置所に鑑定留置され、翌日(7月9日)から本格的な
精神鑑定を受けた。当初の留置期限は10月7日まで(3か月間)だったが、同年9月6日には鑑定人が大阪地検に「完全責任能力があった」とする鑑定結果を報告した。これを受け、大阪地検は早期起訴を目指し、鑑定留置期間の短縮を
大阪地方裁判所に申請。それが認められたことから、鑑定留置は同月13日午前をもって終了し、宅間は翌日(9月14日)に大阪地検によって、児童8人への
殺人罪や、児童および教師15人に対する殺人未遂などの罪で、
大阪地方裁判所へ
起訴された。また、同月25日には余罪(傷害・暴行・器物損壊)の罪でも追起訴され、一連の捜査は終結した。
取り調べ
宅間は取り調べで、事件を起こした理由について「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」などと供述していた。
逮捕当初、宅間は
精神障害者を装った言動を取っていた。しかし、
被疑者に対して起訴前と
公判中に2度行われた
精神鑑定の結果で、2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、
統合失調症ではなく、
責任能力を減免するような精神障害はない」となり、事件の責任能力を認める結果が出た。また、同時に宅間の犯行時の制御能力について「2、3歳程度の水準にまで」退行していた可能性があるという判断がされた。
宅間は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して医師の診察を受けたが、宅間が飲んだとされる薬は通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「
セロクエル」と抗うつ薬「
パキシル」、睡眠剤「
エバミール」の三種類と判明した。仮にこれら全部を宅間の供述通り10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはない。
また宅間の自宅を捜索すると、睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物が押収されたが、これは宅間が複数の病院に通院しては、医師に「眠れない」などと睡眠障害・不眠症を偽って(いわゆる
詐病の一種)薬を処方してもらい、服用せずにため込んでいたものだった。さらに、逮捕後に宅間の血液や尿を採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった。
捜査員がこの事実を宅間へ突きつけると、「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた。逮捕直後池田警察署に連行されたが、座ることもできないほど疲労した状態であり、楽になるための一時的な申告であったという。
弁護団によると、初公判が近付くにつれ宅間は多弁になり、「こんなことを言ったらマスコミは騒ぐかな」「(自分に対する)傍聴人の不規則発言は退廷させられるんですかね」などと語っていた。また、弁護団は遺族の思いを伝えることで内省を深めさせようと、宅間に遺族ら被害者の調書150点を差し入れていた。しかし返ってきたのは「遺族にとても聞かせられない言葉」であったといい、弁護団も「公表は控えたい」と口をつぐんでいる。
夏には弁護士に、反省の気持を綴った手紙を3通送っていたが、のちに弁護士も「こんなに上手に謝罪の手紙が書けるということを示したかったのかもしれない」と振り返っている。自分の気持を本に書かないかとも言われていたが、「高く売れるんだったら書きましょうか」「フェルトペンでは書きにくいから」として、その気を示さなかった。
またこの頃、「こんなところでいたずらに生かされるのは嫌だ」「死刑になってもなかなか執行されないなら、早くやるよう訴訟を起こそうかな」などと話しており、弁護士も「普通の感覚では理解できない。精神医学でどの程度説明できるのだろうか」と洩らしている。
刑事裁判
2001年(平成13年)12月27日、
大阪地方裁判所(
川合昌幸裁判長)で
被告人・宅間守の初
公判が開かれた。罪状認否で、宅間は「池田小に入って殺傷したことに間違いありません」と起訴事実を全面的に認めた。検察側は宅間が元妻や自分を勘当した父親への恨みを社会へ向け、不特定多数の人の殺害を考えたと指摘。弁護側は「極度に追い詰められた心境下にあって、善悪をわきまえる能力を一時的に喪失したか、著しく減退した状況のもとで犯行に及んだ可能性がある」と、犯行時の
責任能力の判断を裁判官に求めた。宅間は弁護団からあらかじめ用意された書面を手に、「自らの命をもって償いたい」とくぐもった声で語った。
また宅間は、口笛を3度吹きながら入廷したといい、検察官による起訴状朗読が始まって約2分後、突然「座ったらあかんか」と左手で席を指しながらぶっきら棒に発言。裁判長に「立ったまま聞いてなさい」とたしなめられる場面もあった。
2003年(平成15年)5月22日の公判で、検察官による
論告求刑が行われ、検察官は宅間に完全な責任能力があった旨を主張した上で、「我が国の犯罪史上、特筆されるべき凶悪かつ重大な
無差別大量殺人事件。いかなる観点からも極刑以外に
科すべき刑はあり得ない」として、宅間に死刑を求刑した。第24回公判(2003年6月26日)で、弁護人による最終弁論が行われ、弁護人は「犯行時、宅間は心神喪失もしくは心神耗弱状態だった」と主張し、無罪か量刑の減軽を求めた(公判は同日に結審)。この時、弁護人は論拠を述べるだけでなく、宅間に対し「君は自らを『殺人鬼』と蔑むことはない」と、異例の呼びかけを行う形で、反省の念を引き出そうとしたが、宅間は最終意見陳述で「今まで、散々不愉快な思いをさせられて生きてきた。」「しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のパターンの方が良かった。」「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう。いずれにしても死ぬことはびびっていません」などと話し、謝罪の言葉は述べなかった。
2003年8月28日に
判決公判が開かれ、大阪地裁刑事第二部(川合昌幸裁判長)
[注 4]は、求刑通り
宅間を死刑に処す判決を言い渡した。宅間は午前10時2分、刑務官に囲まれて法廷へ姿を現したが、裁判長の「
主文を言い渡します」という言葉を遮るように「最後にちょっと言わせてえな」と叫んだ。裁判長は「今日は発言を認めません」と制したが、「どうせ死刑になるんやったら、言わせてくれ。たったメモ3枚や」「今までおとなしくしとったんや、それぐらいあってもええやないか」と、右手のメモを繰り返し突き出しながら矢継ぎ早に叫んだ。「発言をやめなさい」と厳しい口調で繰り返されてもやめなかったため、10時4分に退廷を命じられ、刑務官に両脇を抱えられて連れ出された。その際、怒りを露わにして傍聴席を振り返り、遺族1名の実名を挙げて大声で罵った。10時5分、裁判長は刑事訴訟法に基づいてそのまま判決を言い渡す旨を告げ、「被告人を死刑に処する」という主文を2度読み上げた。死刑判決の際は通常、主文を後回しにして
判決理由から朗読し始める場合が多いが、同日は冒頭で死刑の主文が言い渡される異例の展開となった。
大阪地裁は主文宣告後、判決理由で、児童殺傷事件以外の余罪3件も含めてすべて有罪を
認定した上で、「宅間は事前に出刃包丁を用意したり、逮捕直後に薬物の影響を装ったりしており、十分な事理弁識・行動制御能力を備えた上で犯行に臨んだ。これは、被告人(宅間)の自己中心的で他人の痛みを顧みない著しく偏った人格傾向の発露であり、精神疾患の影響はなく、完全な責任能力が認められる」と判断し、「犯罪史上類を見ない凶悪事件。残虐非道な犯行に及んだ宅間の責任は重大で、科すべき刑は死刑以外にありえない」と判示した。
判決宣告後、川合裁判長は「せめて二度とこのような悲しい出来事が起きないよう、再発防止のための真剣な取り組みが社会全体でなされることを願ってやまない」と所感を述べたが、このように裁判所が所感を述べることは異例である。また、
内閣総理大臣の
小泉純一郎は同日昼、
首相官邸で記者団に対し「死刑判決は当然だろう」という感想を述べた。
死刑確定後
死刑判決に対し、宅間は控訴しない意向を示していたが、弁護団は宅間を説得し、「取り下げるのは自由だが、ゆっくり考えるように」と伝えた上で、9月10日付で
大阪高等裁判所へ
控訴した。しかし、宅間は同月26日付で控訴を自ら取り下げ、
第一審の段階で自ら死刑を
確定させた。宅間は主任弁護士への手紙で「6か月以内、出来れば3か月以内の死刑執行を望みます」と記していた。
宅間は6か月以内に死刑を執行されなかった場合、「精神的に苦痛を受けた」として
国家賠償請求訴訟を起こす準備も行っていた。また、今の境遇になったのは過去に入院した精神病院や家族のせいであるとして、「どうせ死刑になるんだったら一矢を報いたい」と、賠償請求訴訟を起こすことも考えていたという。
死刑確定後、宅間は支援者の女性(当時30歳代)と
獄中結婚し、「吉岡」に改姓した。このほか、
愛知県出身の既婚女性から告白を受けており、その女性とも文通を行っていた。
死刑確定から1年足らずの
2004年(平成16年)9月14日、宅間守(吉岡守)死刑囚は
野沢太三法務大臣の発した死刑執行命令により、収監先の
大阪拘置所で
死刑を執行された(40歳没)。宅間の望んだ通り異例の早さでの執行となった。確定から一年未満での執行は極めて異例で、戦後の混乱期を除く史上最速の執行とも言われている。執行当日の
朝食は摂取することが許されなかったが、宅間は執行直前に刑務官から受け取った
煙草と
リンゴジュースをゆっくり味わってから死刑台に消えていったという。死亡時刻は8時16分だった。宅間が最期に残し、妻が死刑執行後に
刑務官から伝えられた言葉は「ありがとうって、僕が言ってたって伝えてください」とされている。妻に対しては感謝の気持ちを表すまでには至ったものの、事件によって犠牲になった
被害者の児童やその遺族への謝罪は最期まで一切なかったと言われる。また、同日には
福岡拘置所で、別の死刑囚1人の死刑も執行されている。
なお、葬儀は
マスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、信者ではなかったが
大阪市内の
キリスト教関係の施設で行われたという。
事
件後の反響
学校側の対応
混乱の中、教員が救急車に乗らず児童に付き添わなかったため、保護者への児童の搬送先病院の連絡が遅れていた。事件直後、ある死亡児童の保護者は、早い段階で来校したにもかかわらず、学校内で負傷していた児童に会うことも付き添うこともできなかった末、自力で探し回った病院で死亡した我が子と対面することとなった。さらに事件後、学校からの説明や弔問が遅れただけでなく、教員の心ない表現、発言および行動が遺族の心を大きく傷つけた。
その後、附属池田小学校では、事件を教訓に学校安全の取り組みを積み重ねてきたことが評価され、
2014年(平成26年)、日本の小学校では初めて国際的な学校安全認証「インターナショナルセーフスクール(ISS)」を取得した。
学校の危険対策
この事件をきっかけに、学校(
小学校など)、
幼稚園、
保育所などの児童・生徒・幼児が頻繁に利用される教育関連施設にも「
警察官立寄所」の看板(プレート)またはシールが貼り付けられたり、学校にも部外者の
学校施設内への立ち入りを厳しく規制したり、
警備体制を強化するなどの方策を主張する声も増えた。また、
防犯ブザーを携帯する児童も増加したほか、
保育士や
教職員が防犯や心肺蘇生を必ず学ぶきっかけとなった。この事件をきっかけに日本では、幼稚園、保育所や学校はそれまでの「地域に開かれた施設」から安全対策重視の「閉ざされた施設」に方針転換するきっかけとなった。それまでは地域のコミュニティに重要な役割を果たしていたと言い、校庭などは子供たちの遊び場にもなっていた。この事件をきっかけに
監視カメラを設置したり、原則的に部外者の立ち入りを禁じると言うこれらの傾向が強まった。一部では常に
警備員を配置したり、集団登校時に保護者や地域のボランティアによる見守りも行われるようになった
。
しかし一方で、
毎日新聞が、事件から20年目となる
2021年までに、日本全国の
県庁所在地や
政令指定都市、
東京23区にアンケート調査を実施したところ、登下校中など校門が開いている際に各学校の教職員らが校門に立って見張りをしているかどうかを把握していない自治体が全体の6割に及ぶことが判明し、事件の風化が指摘されている。
触法精神障害者に対する対応
心神喪失と認められ、
無罪あるいは
不起訴処分となった者に対する処遇のあり方について議論された。それまでは、
精神障害者に対して司法機関が関与して処遇が行われることは、一部の団体が
保安処分に対して、極めて抵抗感が強かったが、この事件以降に『
心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律』が制定された。
保護観察所に社会復帰調整官(
精神保健福祉士)が置かれ、社会復帰調整官が中心となって
医療観察が実施されることとなった。
被害者の精神的な障害
児童や教職員・保護者の中には、
心的外傷後ストレス障害 (PTSD) に未だかかっている人もいる。また、「あの時ああすればこの事件が起きなかったのに(または被害を抑えられたというのに)」という
サバイバーズ・ギルト、いわゆる「見殺しにしたという自覚」ともとれる自責の念に駆られている教員もいる(一審の最終弁論で
現行犯逮捕に携わった教員の証言)。
精神障害者における報道被害
精神障害者のうち、
統合失調症や
気分障害などの者の家族らで運営する、
精神障害者家族会のかつてあった全国連合組織、
財団法人全国精神障害者家族会連合会(全家連)が、
精神科医を通して、事件後の精神障害者に対する
報道被害の様子の変化を調査している。
1.自分の病気や障害について深く考え悩むことがあった患者がいた (73.9%)
2.他人の目が気になったりして外出が嫌になった患者がいた (63.0%)
3.再発というほどではないが症状が不安定になった患者がいた (57.6%)
4.眠れなくなったりするなど生活のリズムが乱れた患者がいた(50.0%)
深刻な事例として、精神科医から挙がった声としては
1.自殺した患者がいた(1.1%、2人)
2.入院・再入院した患者がいた(16.3%、24人)
3.再発した患者がいた(13.0%、21人)となった。
全家連から報道機関への見解と要望
全国精神障害者家族会連合会(全家連)は、
報道機関に対し「大教大池田小児童殺傷事件の報道について」(2001年
6月8日付)と「小学校児童殺傷事件報道について」(2001年
6月18日付)を送付している。
・前者では「この事件で逮捕された男には、精神病院の通院歴があったと報じられていますが、その記述については、私たち身内に
精神科治療を受ける者を持つ立場から見て、重大な疑義を感じざるをえません。記事(番組)の中で報道されている『男は、精神病院に通院中で…』という部分は、その表現 (以下、病歴報道)によって、読者(視聴者)には、『
精神疾患』が本事件の原因であり、動機であると理解されてしまいます。その結果、「
精神病者(
精神障害者)はみな危険」、という画一的なイメージ(=
偏見)を助長してしまうと考えるからです」と、安易な病歴報道の問題点を指摘し、
・「妄想や幻聴などの症状は、
薬物療法でコントロールしやすいといわれています」と精神科治療の実情を説明、「なぜこんな事件が起きたのか、服薬はきちんとしていたのかなど、事件の背景をきちんと取材し、今後の教訓となるような報道をしてください」と要望している。
・後者では「安易な報道によって、「精神障害者は危険だ」という社会の偏見がより強くなりました。(中略)これは『
報道被害』であるといっても、過言ではありません」と、報道によって受けた
報道被害を訴え、
1・事件の報道をする場合、警察発表であったとしても、事件の背景、病気の状態などが明らかになっていない段階で、特定の病名や通院歴・入院歴を報道するべきではないこと
2・法的責任能力の問題を
精神障害に置き換えて報道しないこと
3・この事件と
触法精神障害者の
処遇問題を安易に結びつけないこと
の三点を要望している。