居民委員会-問題-1
居民委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
居民委員会(きょみん)とは、
中華人民共和国において都市地域社会に設置された住民組織である。
日本の町内会にあたり、住民の相互扶助組織として「大衆的自治組織」と性格づけられる一方、行政系統の末端に位置付けられて、政府の保護を受けながら行政補助機能を担っている。「都市居民委員会組織法」によると「自己管理、自己教育、自己奉仕の末端大衆自治組織」と定義される
概説
居民委員会の歴史は中華民国期の隣保制度(保甲制度等)に遡ることができる。中華人民共和国成立にあたって、全国の都市に居民委員会が設置された後、1954年の「都市居民委員会組織条例」で役割が定められた。1989年12月26日に新たに「都市居民委員会組織法」が採択されている。この居民委員会により、党・政府の主導下、社区の力に拠り、社区の資源を活用して社区機能を強化し、社区の問題を解決し、成員の生活レベルを向上させ、社区の経済、政治文化、環境の協調・発展を促進する過程である「社区建設」が強力に推し進められた。従来の「単位(ダンウェイ)」制度の下で周縁化されていた居民委員会の機能が強化された。居民委員会は行政の末端組織である「街道弁事処」の指導を受け、憲法、法律、法規、国家政策の宣伝、計画出産の管理、社会治安の維持、流動人口の管理、失業者の就業斡旋、青少年教育などの街道弁事処から下達された行政的な活動を行っている。この他にも、居民委員会は住民への福祉サービスや文化活動を行い、ボランティアを組織し、社区の環境美化、衛生管理、"空巣老人"(独居老人)の助け合い等を進めている
移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移民とは、異なる国家へ移り住む事象(英語
: immigration, emigration)、また出生国や育った国といった居住国を離れて、12か月以上、当該国へ移住して居住している人々(英語
: immigrants, emigrants)を指す
概要
移住は長期にわたる
居住を意味しており、
観光や
旅行は通常含まない。ただし、通常1年以内の居住を指す
季節労働者は移民として扱う場合が多い。
国際的に合意された「移民」の定義はまだ無い。最も引用されている定義は、
国際連合(UN)の国連統計委員会への
国連事務総長報告書(1997年)に記載されているもので、「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも
12か月間当該国に居住する人のこと(長期の移民)」を言う。この定義によると長期
留学生、仕事での長期赴任者、長期旅行者も「移民」である。
また、国籍に関する要件が含まれていないため、日本で出生した外国籍の保持者は通常の居住国は日本であるため、移民ではない。
国際移住機関(IOM)は「国内移動を含め、
自発的に他の居住地に移動すること」と定義している。「非自発的な移住」として自分の意思に反して強制的に移動を余儀なくされる場合で
戦争や内乱・武力紛争、
人権侵害、
自然災害などによって起こる
難民、あるいは避難民、また
人身取引の被害者、研修生や留学生で搾取を受けている人、自分の意思で移動してもその後に紛争に巻き込まれてしまったというケースなどを国際的な人道支援の対象としている。
出ていった移民を
移出民(いしゅつみん、emigrant)、入ってきた移民を
移入民(いにゅうみん、immigrant)と呼ぶ。受け入れ国の法的手続きによらず移入した人々を
不法移民(ふほういみん、illegal immigrant)と呼ぶ。
通常、統計上の移民は、外国からの(外国への)移住者と同義だが、社会的問題としての「移民」には、文字どおり「民」すなわち特定の出身国から来る「大勢の人々」という意味合いが含まれている。そのため、一般的に移民は、巨視的な移住現象(社会全体に影響しうる程度のもの)、又はそれを構成する個々の移住者を意味している(場合によってその子孫が含まれることもある)。
一方、相対的に移住者数が少数である国籍等の場合、移民ではなく、単なる移住者とみられる。例えば、日本には
欧州諸国(欧州文化地域)からの移住者が多少居住するが、日本の人口に比してその規模が非常に小さく、通常の社会・政治論ではこれを移民現象として捉えない。なお、より経済力のある豊かな国へ裕福な生活を求めることが多数の移民の動機になっていることから、移民が「経済的移民」を指すことも少なくない。
さらに、英訳の「イミグレーション」(Immigration)は、国の
入国管理事務も意味しているため、
日本語の「移民」より、語義が広範(曖昧)な言葉になっている。こうした定義の曖昧さが移民問題の議論を難しくする要因の一つである。
国連の推定によれば
2005年には1億9000万の人々が移民した。これは全世界の
人口の3%に満たない。残りの97%は出生した国もしくはその後継国に在住している。
1990年には国連で「
全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約」が採択された。
国際労働機関(ILO)は、2017年時点で世界の移民労働者数が推計1億6400万人、移民全体が同2億7700万人おり、いずれも前回調査(2013年時点)より増加しているとの報告書を2018年12月5日に公表している。また
SFなどで
宇宙移民について描かれることもある。
移民の法制
アメリカ合衆国
米国政府が発給する外国人への
ビザは、大きく「移民ビザ(Immigrant Visa)」と「非移民ビザ(Non Immigrant Visa)」に分けられる
。
移民ビザは「Permanent resident Visa(永住権)」とも呼ばれ、滞在期限や活動(就業)に一切の規制がない。一方で「非移民ビザ」は、滞在期限や滞在中の活動(就業可・不可やその職種・条件など)に制限があり、非移民ビザによる滞在の外国人は住居の有無・就労・滞在期間に関わらず全てVisitor(訪問者)として扱われる。
すなわち、米国政府は移民とは「永住権所持者」と定義している。なお、日本の
自民党特命委員会が提案している「入国時に在留期間の制限がない者」は、この定義に近い。(ただし、米国永住権は期間だけではなく在留中の活動にも制限がない)
対して、一般市民の認識では「永住権所持者」と「帰化米国籍者(他国で出生した後に米国へ移住し米国籍を取得した者)」の両方を含めて「移民」と呼ぶ事が多い。
フィリピン
フィリピン政府が移民法に基づき発給するビザには、割当移民ビザ(Quota Immigrant Visa)や非割当移民ビザ(Non-Quota
Immigrant Visa)がある。
割当移民ビザは、移民法13条に基づき、対象国ごとに一年あたり定められた人数まで発給されるビザである。非割当移民ビザは、移民法13条に基づき、フィリピン人と結婚した者などを対象として発給されるビザある。
移民の歴史
国民と移民
数十万年前から現象として起きている「人の移動」(人類の
アフリカ単一起源説を参照)に対して、
日本語の
移住とは広義においての「国内での地域間での人々の移り住み」も含まれる。狭義においての移民は、「ある
国家の
国民が別の国家に移り住むこと」を指す事が多い。
市民権や
国籍を管理するようになったのは
国民国家の形成以降であるから、移民とは一般に近代の概念である。
19世紀に進展した国民国家の形成において
国籍法の整備と
国境の画定により国民を登録して管理するようになり、国民と移民が
法律上、明確に分けられることになった。
植民
帝国主義時代の下、
ヨーロッパ諸国が
アメリカ大陸・
アジア・
アフリカ大陸で獲得した
植民地では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの
植民がなされた。アフリカからの
奴隷貿易も行われた。その後、世界的な
奴隷制度廃止に伴い、
鉱山や農園(
プランテーション)開発や
鉄道建設のため、アジアでも人口が多い地域(
中国大陸など)からの労働移民が
東南アジアやアフリカ大陸に渡った。
東南アジアにおける植民地経営を支えていたのは
イギリス領
マレー半島の
ゴムや
錫、
オランダ領
インドネシアの
農業生産などであり、そこで必要とされた労働力は
中国南部や
インド南部から調達された。彼らの多くは
契約労働者であったが、現地に定住する者も少なくなかった。これに伴い
商業活動に進出する者も増え、これらの中国系移民(
華僑・
華人)とインド系移民(
印僑)は、その後、東南アジア各地で大きな影響力を持つこととなった。
アフリカへの移民としては
南アジアとりわけインドからの人々が多く、
イギリス帝国の下ではイギリス領植民地相互の植民も行われた。
19世紀・移民の世紀
18世紀までのヨーロッパからの移民が主に年季契約の形をとった
労働移民であったのに対し、19世紀には
自由移民が主流となった。19世紀のヨーロッパでは、
産業革命の影響等による人口の増大や
交通機関の発達などにより大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中が見られた一方で、海外移民も増加した。
第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡った
ヨーロッパ人は6000万人に達し、19世紀は正に「移民の世紀」であった。
最大の移民受け入れ国は
アメリカ合衆国であり、その数は
1821年から
1920年までの100年で約3300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が到来し、これは各国の
工業化の進展の時期のずれを示している。人口増加や
貧困などの経済的な要因だけでなく、迫害を受けた
ユダヤ人のように政治的・宗教的な要因からの移民も行われた。また19世紀半ばにアフリカからの
黒人奴隷が解放されると、中国やインドから労働者を雇い入れ、不足する労働力を補った。
なお、アメリカ大陸・
オーストラリア・
南アフリカにおける
黄色人種(
モンゴロイド)のアジア系移民はヨーロッパ系の
白人労働者と競合したため、「
黄禍」として排斥されたり、移民を制限されたりすることもあった。
1870年代には
カリフォルニア州で
中国人(
中国系アメリカ人)排斥の動きが高まり、
1882年には
中国人移民禁止法が
アメリカ合衆国議会で成立した。
1924年にはアメリカ合衆国でとりわけ日本人移民(
日系アメリカ人)を制限する「
排日移民法」が制定され、日本で「アメリカ政府は
人種差別的である」とする
反米感情が生まれた。
オーストラリアではアジア系移民の市民権を容認しない「
白豪主義」が採用された。南アフリカではこの後、厳しい人種隔離政策である「
アパルトヘイト」が長い間継続された。
冷戦終結、
東欧革命による
共産圏国家の崩壊以降の近年は
欧州連合(EU)統合と
シェンゲン協定加盟国内の旅行が自由となった影響で、旧
東側諸国の
東ヨーロッパから旧
西側諸国の
西ヨーロッパへの移民が増加している。
ヨーロッパにおける移民
ヨーロッパにおける移民は、おおむね欧州大陸圏内での移住と、
北米(アメリカ合衆国と
カナダ)から
イギリスへの移住、
イスラム圏(北
アフリカ・
中近東諸国・
インドネシア)からの流入が大勢を占めている。主に欧州で問題となっているのは宗教的・文化的背景が大きく異なる
ムスリムの移民であるが、
イタリアなどでは
ルーマニアなど東欧(主にかつての
冷戦下の旧
東側諸国)からの移民があまりに増加したために
不動産価格の上昇・土地の不法占拠などの問題が深刻化してしまい、ムスリム・アジア系の移民だけでなく東欧系移民への地元民の反感も強まっている。
エマニュエル・トッドは
西洋四大国(アメリカ・イギリス・
フランス・
ドイツ)の移民の統合状況に大きな相違点があるとした。
移民の大多数は複数ある産業のいわゆる下流工程と言える職に就くことが多く、ヨーロッパ経済の下支えとしての役割を果たしている。とりわけ
天然ガスの採掘によって危機的な自国通貨高に見舞われた
オランダでは、
第一次産業・
第二次産業に従事する移民が経済復興の足がかりにもなった。ドイツには
トルコ人が、イギリスには旧
植民地の
インド人や
パキスタン人のほか、東欧の
ポーランド人・
アフリカ系・
カリブ系・
アラブ系・華僑が移民または労働者として流入している。
移民政策の歴史(詳細は「
移民政策」を参)
フランス
1960年代から70年代にかけて、北アフリカ諸国(
マグリブ)からの移民はフランス主要都市郊外の貧困地域に居住していた。移民の家族らがフランスへ移り住むに伴い低所得層の住宅が建設され移民の人口は増加していった。それらの地域では失業率は高く、生活水準は低く、警察の見回りもしばしばであった。それら移民は地理的にもフランス社会から隔絶されていた。
ムスリム2世3世のフランス社会への適応度合いはどうなのか。
フランス革命以後におけるフランスの社会政治的構造は
世俗主義の原則に依っている。
キリスト教国家として、学校の授業でも『
聖書』に言及することは教育
カリキュラムのうちの必須事項だが、
イスラム教聖典『
コーラン』に言及することは必須ではない。ムスリム系が多数存在する地域にある学校で、先生が聖書だけ触れるとクラスの生徒らは授業を遮りだす。またムスリムの女子生徒が学校で
ブルカの着用を禁じられる
[9]。ブルカ着用禁止は精神の抑圧でもあり、
信教の自由にも反している。この世俗主義の原則によって民族的マイノリティは無視され、フランス社会が分断される現象を示すことにもなった。フランス政府による同化政策の結果、ムスリム系移民の子孫らが社会からの隔絶され彼らの(フランス人としての)アイデンティティが喪失することになった。
イスラム過激派は「西洋と戦争状態にある」と考えているために、西洋社会と絶交するムスリム系移民の子孫らにとっての恰好の受け皿になっている。フランス政府による世俗主義によって彼らが西洋社会から阻害され、イスラム原理主義に感化され教化される動機となるのである
[8]。この傾向はとりわけ
2001年9月11日発生の
アメリカ同時多発テロ事件以降顕著になっている。(「
ライシテ」も参照)
イギリス
戦後の復興の労働力として
バルバドスや
ジャマイカなどのカリブ地域の植民地や英連邦から多くの移民を呼び寄せた
[10]。特に1948年から1973年にカリブ地域から来た移民は「ウィンドラッシュ世代」と呼ばれる、この名称は初期に移住した者が客船エンパイア・ウィンドラッシュ号でやってきたことにちなむ
。
移民統合と多文化主義の問題
異郷の地において同郷の者たちが一つの地区に居住することによって
コミュニティが形成される場合もある。
日系人による
日本人街・
リトルトーキョーや
中国人による
中華街(
チャイナタウン)、
朝鮮半島(主に
韓国)出身者による
コリア・タウンなどがある。これらは数ブロック程度の「一区画」であることが多いが、規模が大きくなって村や市がまるごと移民によるコミュニティになっている場合も、しばしばある。例えば、
ボリビアにおける
サンフアン・デ・ヤパカニ市は集団移民した日本人が作り上げた市である。
フランス
フランスは東欧からの移民の統合には成功しているとされる(元大統領の
ニコラ・サルコジは
ハンガリー移民2世である)が、旧
宗主国として
北アフリカ諸国から受け入れた移民の統合はうまくいっていない。移民の多い
大都市の郊外では治安の悪化・暴動(
2005年パリ郊外暴動事件など)が頻発するなどの問題が深刻化している。
2015年1月に首都
パリで勃発した
シャルリー・エブド襲撃事件では17人の犠牲者を出した。
この事件はフランスの過去50年で最悪の事件であった。犯人は全てフランス生まれのムスリム(イスラム教徒)だった。フランスの人口の12%がフランス国外生まれであり、またイスラム系の全人口に占める割合は西欧州一である
2005年のパリ郊外暴動事件はイスラム系移民とフランス国民との溝の深さを示したものである。
2015年以前からフランス国民の約74%が、イスラム教はフランス社会の価値観と相容れないと述べている。
元来植民地時代から独立・建国以来の国家形成が移民によって成立しているアメリカでも同様のことは起こりうるが、アメリカは欧州など
キリスト教国家からの移民を中心に受け入れており、それらの移民は宗教的アイデンティティーをアメリカ政府から抑圧されることがないのである。(詳細は「
シャルリー・エブド襲撃事件」を参照)
このシャルリー・エブド襲撃事件を境に大陸欧州における移民排斥の動きが一段と活発になり、特にイスラム系移民の制限強化を求める世論は日を追って大きくなっている。
ドレスデン(ドイツ)で開かれたイスラム移民排斥のための集会では、約25000人が参加した。またフランス国内の学校では移民の児童と地元の児童との間で
文化的対立が高まっており、移民が多数居住する地域である
クリシー=ス=ボワの学校では生徒の4分の3が黙祷を捧げる(キリスト教の宗教的行為)ことを拒否した。
またこのパリでの襲撃事件をうけて、
ハンガリー首相の
オルバーン・ヴィクトルはパリでのデモに参加した。そして、「ハンガリーがそのままのハンガリーであることを我々は望むのであり、身体的特徴や文化的背景が著しく異なる
マイノリティーを我々の社会で見たくはない」とオルバーンは主張し、政治的比護目的での移民の数を制限するようEUに求めた。「移民によって欧州は問題と危険を抱え込む些末であり、移民を阻止しなければならない」とオルバーンは述べた。
チェコ大統領
ミロシュ・ゼマンは、「欧州の規範を守れないような移民は彼らの本国の文化や慣習のなかで生活するべきであり、それら移民を本国へ送還するべき」と唱えた。フランス首相
マニュエル・ヴァルス(自身は
スペインからの移民で後に仏国籍取得)は、「フランスにおけるイスラム教徒の割合は欧州一であり、
ジハーディスト・
イスラム原理主義や
テロリストとの戦争状態にある」と述べた。
ドイツ
ドイツの首都
ベルリンの移民集住地区
ノイケルン区では2006年3月に、全校生徒の約80%を移民子弟で占めるリュトリ基幹学校(Rütli-Schule)では、教師が生徒に暴力を振るわれ、強盗が日常茶飯事になるなど
学校崩壊が進んだため、全教員が廃校要望書をベルリン市教育長に送付した事件が発生。ドイツにおける移民統合や
多文化主義の失敗としてドイツのメディアでは報道された。2010年には
アンゲラ・メルケル首相が「
多文化主義は失敗」と公言した。
2010年代以降、
シリア内戦などを理由に
アラブ・
イスラム系移民・難民が増加しており、2015年には大規模な難民受け入れが行われたが、これにより
欧州難民危機が引き起こされた。その後も比較的貧しい旧
東ドイツ地域を中心にドイツ各地で反移民活動が行われており、反移民を掲げた政党
ドイツのための選択肢(AfD)の躍進の要因となっている。
スイス
EU諸国から
スイスへの移民の数は毎年8万人であり、この数は当初2007年に見積もられていた数の10倍であることが
スイス国民党によって指摘されている。そして移民超過の結果、
教育システムや
交通、公的
医療システムに負荷をかける事態になっており、
健康保険・
年金など移民への社会保障のためのコストを誰が負担するかについての議論がある。そしてスイス国内労働者の賃金の下方硬直性が移民労働者の低賃金と競争にさらされることで脅かされる状態になっている。この状況を受け、2014年スイスは、EU諸国からの移民の数を制限する是非についての国民投票を行い
、移民規制強化への賛成が過半数を占めた。スイス国民党代表のトニー・ブルンナーは、この国民投票の結果はスイスの移民政策のターニングポイントだとする声明を出した。
これをうけてスイス政府は2017年からEU諸国からの移民の数を制限する声明を発表した。EU側は先行する条約に反すると批判したが、「もしスイス有権者が我々を信頼しなくなったら、民主主義の危機となってしまう」とスイス司法・警察担当の
連邦参事会員
シモネッタ・ソマルーガは述べた。その移民制限法は「スイス国内に4か月以上在住する全ての外国人」が対象となり、またスイス在住ではないが国境を越えて通勤しスイスで労働に従事する外国人も対象となる。
イギリス
イギリスへの移民の数は、年間22万-26万人。2014年、EU加盟国からの移民は、2004年以降、当時の
労働党トニー・ブレア政権が中・東欧8カ国の労働者を受け入れたこともあり、
ポーランドを中心に約150万人の移民が英国に入国したとみられる。政府統計では、過去1年間で移民が実質26万人増えた。英国は独仏などに比べても、とりわけ移民に対する
社会福祉が手厚いとされ、「ベネフィット・ツーリズム(
失業手当など
福祉目当ての移住)」も一部で問題になっている。 イギリス国内では、過去2年間においてEU市民による犯罪は5万4千件以上となった。最多の犯罪者は、主に東欧出身者で、過去2年において、(全ての)外国人による犯罪件数も2倍に増加した。
2014年、
保守党デイヴィッド・キャメロン英首相は、「欧州連合(EU)からの移民に対する
社会福祉の制限などを柱とする移民制限措置」を導入すると発表した。「移民が職を奪ったり福祉予算を圧迫したりしている」とする国内の不満に対応する狙いだ。キャメロン首相は演説で「移民は現代のオープンな英国社会と経済にとって不可欠なものだ」「英国に来る移民の数を適正にコントロールし、社会福祉の悪用を防止するための追加の手段が必要だ」と語った。制限措置では、EU移民が英国で職をみつけても、4年間は公営住宅への入居や税額控除などの対象外とする。現在は就職後、数か月後には申請できる。6か月以内に職を探せなかった移民は国外退去を求めるほか、新規EU加盟国からの移民も制限する考えだ。
2019年には合法的に移住したグループであるウィンドラッシュ世代が国外に追放、NHSサービスの提供停止、職場から追放と国民としての権利侵害が起こっていたことが判明し社会問題となった。この問題は政府の不法移民の管理強化が原因であった。イギリスにいる人間は滞在資格や就労資格の証明などを証明する必要が出た、しかしウィンドラッシュ世代が移住した当時はそのような書類が不要であったため旅券を持っていない、さらに管理強化をした政権が入国の記録を破棄した事により証明をすることが出来なくなったためである。
日本における移民(「日系人」も参照)
7~8世紀、倭国/日本国は
蝦夷支配と開拓を目的に
陸奥国・
出羽国、
越国に強制的な
移民政策を行った。
柵戸の最初の事例は7世紀、
大化3年(647年)の越国・渟足柵への送り込みで、翌大化4年(648年)には
信濃国・越国から同じく越国・磐舟柵への柵戸の送り込み
[29] を城柵支配を目的に行われている。8世紀には陸奥・出羽の支配拡大のために、主に東国の住民を対象に大規模な柵戸を行った。当初は公民を対象に柵戸を行っていたが、移住先の環境の厳しさが認知されるにつれ柵戸は忌避されるようになり、後には犯罪者、浮浪人、乞食などを強制的に移住させるようになった。
また、これと正反対に、征服した東北の蝦夷を西日本各地に強制移住した。これを俘囚と言う。俘囚はしばしば反乱を起こし、手をやいた朝廷は897年全ての俘囚を現住地の東北へ戻すことを決定した。
また九州では8世紀初頭、
薩摩国・
大隅国成立時にも
隼人の公民化を目的に柵戸が行われた。
鹿児島県には当時の柵戸に由来する地名が現存しているとされる。
また
遣唐使の
阿倍仲麻呂のように求められて留まり、
唐で高官に出世した者もいた。
労働力としての人の移動は、
室町時代には既に存在していた。御
朱印状による御
朱印船貿易で、
アユタヤ日本人町のような大規模な街を造る者たちもいた。
江戸時代に入り、
鎖国政策が採られて以降、
江戸幕府は
幕末まで移民を海外に送り込むことは無かった。
日本人移民
日本では20世紀の両大戦の前後の一定の時期に、特に人口増加の解決策のひとつとして移民が奨励された。
第二次世界大戦前
明治元年(
1868年)に
ハワイ王国のサトウキビプランテーションに移民が渡り「
元年者」と呼ばれた。駐日
ハワイ総領事
ヴァン・リードの要請を受けたもので、153名が送られたが、その待遇は劣悪極まりないものであったため国際問題に発展した。同じ1868年には
グアムにも移民が渡航している。
1885年にはハワイへの「
官約移民」が始まり移民は本格化・加速化した。
当初、出稼ぎ目的の移民の送出しについては、救貧対策や外貨の獲得など積極論がある一方、外交当局は移民先の環境が奴隷労働に近い労働で現地住民との摩擦を引き起こしかねないとして慎重であった。そのため1894年(明治27年)4月に移民保護規則、1896年(明治29年)に移民保護規則に代わる移民保護法が制定された。
1887年以降、ペルーなどと比較して労働条件の良かった米国への出稼ぎ目的での移民が急増し、1899年(明治32年)には3万5千人に達した。しかし、低賃金の日本人労働者の流入による賃金低下、習俗の違い、
日露戦争後の
黄禍論などが原因となり現地では日本人排斥の動きが強まった。
日本政府は1900年(明治33年)2月に米国およびカナダへの移民を禁止したが、日露戦争(1904-1905年)後にはハワイ、カナダ、メキシコからの転航者が急増したため、1907年12月に覚書(日米紳士協定)が交わされ米国への移民は大幅に制限された
[35]。ハワイから米国本土への移民制限されると、ハワイからカナダへの転航が増えたため、カナダとも移民制限の取極めを締結した。なお、この頃のアメリカへの移民については、
日本政府による政策や移民斡旋業者に頼らないやり方をした女性
伊東里きなどがいた。
北米への移民制限によって、移民の渡航先は南米(ペルー、
ブラジル、アルゼンチンなど)や太平洋の諸国(フィリピン、オーストラリア、フィジーやニューカレドニアなど)に拡大した。ただし、オーストラリアでは1902年に
移民制限法(Immigration Restriction Act, 1901)が施行されたため移民は制限された
。
その他の受入先としては、アメリカ統治下にあった
フィリピンの
ダバオ市、
満州国、日本の
委任統治下にあった
パラオなどの
南洋群島などがある。
ただし、日本統治下にあった地域への移住は「国内移住と同等」であると考え、移民とは呼ばないことがある。これは、
日清戦争による領土割譲また当時の
大韓帝国に対する
韓国併合以後、
日本統治下にあった台湾および
朝鮮(
日本列島本土を指す
内地と区別して
外地とも呼ばれた)から日本に移住した
朝鮮人や、
台湾人に対しても同様である。
第一次世界大戦後の
戦後恐慌や1923年(
大正12年)の
関東大震災により失業者や困窮者が大量に発生し、労働者や
小作人の争議が頻発するなど社会不安に襲われた政府は、打開策の一つとして
1923年(大正12年)から南米移民の宣伝を開始し、翌1924年(大正13年)には渡航費の全額補助を決定。全国の道府県に海外移住組合を設立し、現地に大型移住地を建設して移民を送り込んだ。
とりわけ、
1926年(
昭和元年)以後の
昭和恐慌の
農村への影響は大きく、
1934年(昭和9年)の冷害は特に大きな打撃を与えた。その一方で
中国東北部での自国による
傀儡政府・
満州国の成立によって、
満蒙開拓団が国策として必要となった。
拓務省が設置され、『月刊拓務時報』が刊行され、拓務省内には海外移住相談所が開設された。
ドミニカ共和国における
日系ドミニカ人の場合には、当時の日本政府の喧伝内容と実際の現地の状況・待遇にかなりの相違があり、事実上の「
棄民」ではなかったのかと、後年日本の
国会などで議論されている。
横浜、
神戸には移民希望者が集まり、彼らを相手に出国手続や滞在中の世話をする
移民宿が誕生した。またその出身地にちなんだ「
薩摩町」「
加賀町」などの町名が残されている。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後の日本では1950年(昭和25年)には復員や引揚者が600万人以上に達していたが、雇用機会が少なく移民再開が待ち望まれていた。
サンフランシスコ講和条約締結後、1952年末にブラジルへの移民が再開され、パラグアイ・ドミニカ・ボリビアなどへの渡航が増加した。
2007年(
平成19年)以降、日本の失業問題や労働環境の悪化に伴い、
世界に職を求めて流出する若者が増加している。
日本への移住者
日本統治時代の朝鮮から日本へ移住した朝鮮人から、また戦後の
難民・
密航などの
不法入国から、
在日韓国・朝鮮人が誕生した。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦、
ポツダム宣言受諾(
日本の降伏)により、それまで所有していた領土の内の
朝鮮半島と
台湾の領有権について、日本政府は放棄を受け入れた。その後、
1947年(昭和22年)5月の「
外国人登録令」で旧植民地出身者である朝鮮人や台湾人らは「外国人」とみなされるようになり、
1952年(昭和27年)
4月28日の
サンフランシスコ講和条約発効・日本の主権回復に合わせて「
外国人登録法」が施行され、日本籍を所持していた
在日外国人らは日本国籍取得者から除外されました。
1980年代には一部の
中小企業や
農林業(第一次産業)、とりわけ第二次産業(製造業・工業)、
第三次産業(商業・サービス業)での
ブルーカラー職種で「人手不足」が深刻化、外国人労働者によって人手不足を埋め合わせる機運が生まれる。
1990年(
平成2年)の「
出入国管理及び難民認定法改正」により、日系海外移住者3世まで
就労可能な地位が与えられ、
日系ブラジル人・
日系ペルー人や中国人を中心に外国人労働者が増大した。
1991年(平成3年)には「
日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が施行され、「
特別永住者」という地位が新たに法的に規定された。
また
中国残留孤児や
フィリピンの日系人家族などを想定した「定住者」という法的地位も新設された。
外国人労働者は2020年の時点で日本には約172万人の外国人労働者が在留している。また日本にいる
在留外国人は288万人おり、日本に定住・永住する者も増加している
。
自由民主党の
外国人材交流推進議員連盟は
2008年(平成20年)に日本は、「今後50年で総人口の10%程度の移民を受け入れるのが相当で1000万人規模の移民受け入れを達成すること」も決して夢でないとし、「
移民庁」を創設し日本が受け入れる移民のカテゴリーとして、
1ー高度人材(大学卒業レベル) 2-熟練労働者(日本で職業訓練を受けた人材) 3-留学生 4-移民の家族(家族統合の権利保障) 5-人道的配慮を要する移民(難民、日本人妻等北朝鮮帰国者、その他日本が人道上受け入れを考慮すべき人々) 6-投資移民(富裕層) などを想定していた。
しかし、
ヨーロッパなどの移民政策への評価が分かれており、あえて移民政策を推進することへの疑問や反対意見も多く、日系人やこうした姿勢の一つの倫理的な正当化は日本の保安を守るという視点もある。
日本介護福祉士会は、2014年技能実習生の対象を介護の分野に広げることに反対した。しかし2017年技能実習制度は拡大され介護職種も対象となった。
同様に建設業界から「国内の若年者の雇用確保が本筋」「外国人材の活用は、言葉や習慣の違いなど課題も多い」とする声も人手不足の改善が見られないことから外国人労働者の拡大を求めるようになり2019年新たな在留資格である特定技能が始まった。
2019年時点で
生活保護を受給している世帯主が外国人の世帯は4万4852世帯(人数は6万5096人)である。
2015年(平成27年)10月、
国家戦略特別区域諮問会議で内閣総理大臣
安倍晋三(当時)が「外国人を積極的に受け入れ、総合的に在留資格を見直す」との考えを示した。
2016年(平成28年)4月25日に自由民主党の「労働力確保に関する特命委員会」(委員長・
木村義雄参院議員)がまとめた提言案では、単純労働者について「その概念自体をなくす」とし、5月中に安倍首相に対し提言を提出。自由民主党外国人材交流推進議員連盟では(<移民の定義>国連事務総長報告書による「通常の居住地以外の国に移動し少なくとも12か月間当該国に居住する人のこと(長期の移民)」(国連事務総長報告書による))としていたが、政府内で統一的な定義のなかった「移民」の定義について(「入国時に在留期間の制限がない者」)との独自の定義を近く示し、「入国時に在留期間の制限がない者」を受け入れる政策は国民に抵抗感が強いとして踏み込まない考えを明らかにする方針。今後は、大学教授や経営者、高度な技術者など「国の利益になる高度な人材」だけでなく、建設作業員などの「単純労働者」の受け入れを「必要に応じて認めるべきだ」とし、外国人の受け入れを基本的に認めるよう求めた。
しかし2018年、移民の定義を問われた国会答弁では移民とは文脈により意味が変わるため統一的な定義は出来ないと回答した。
2019年に建設作業員など人手不足の対応を目的とする在留資格、特定技能が始まった。
留学生30万人計画により東南アジアの
ベトナムや南アジアの
ネパールで
日本語学校が相次いで設立され留学生が急増しているが、実質的に安価な労働力として受け入れられていることが問題となっている。(「
移民1000万人計画」、「
アジア・ゲートウェイ構想」、「
留学生30万人計画」、「
外国人研修制度」、および「
技能実習制度」を参照)
社会問題
賃金への下方圧力
イングランド銀行が2015年に発表したレポートにおいて、英国に流入する移民が増加することで労働者の平均
賃金が低下することが示された。移民の比率が10%増加することで非熟練労働者の賃金は1.88%下落、熟練労働者の賃金は1.68%下落する。
移民と賃金格差増大
移民労働者の増加で自国の労働者の所得格差が増大することがわかっている。
1965年に米国が
移民政策を転換して以来、
欧州からの比較的熟練した労働力とアジアや
ラテンアメリカからの比較的非熟練労働力の両方が米国に流入し続けた。全ての移民労働者に対する非熟練移民労働者の割合と全ての自国籍労働者に占める非熟練自国籍労働者の割合の比率は
ルイジアナ州、
ワイオミング州、
イリノイ州において高くそれぞれ10.4, 7.29, 7.23であった。この数字が10%増加すれば熟練労働者と非熟練労働者の賃金比率は0.22%増加する。この数字の全米平均値は3.61であり、アラバマ州では3.58であった。この条件では自国籍の熟練労働者と非熟練自国籍労働者の平均賃金の比率は1.44であった。
アラバマ州では、非熟練自国籍労働者の平均賃金は熟練自国籍労働者の平均賃金のおよそ0.694倍ということになる。賃金格差の増大は1970年代より始まり、
NAFTAが発効された1990年代における所得格差の増大は顕著であった。
移民と若年労働者の雇用
移民の流入によって仕事が奪われるとし、移民の流入による職や雇用機会の減少という不安が持たれる場合がある。地域間の差を用いた研究では、外国人の流入が雇用に与える影響は存在しない、あるいは存在してもわずかな負の影響であることを示したものがほとんどであるが、Borjas(2003)の研究は移民流入が母国労働者に意味のある大きさの影響を与えることを示し、塗師本(2014)の研究は外国人比率の上昇は若年失業者割合および非労働力人口割合を高めることが結論付けられ、1990年
- 2010年の日本においては外国人労働者と若年労働者は代替関係にあることを示した。すなわち、この時期の日本においては移民の流入によって若年層の雇用が奪われていたと言える。
移民と財政負担
米国では中途半端な移民政策が政治問題になっている。とりわけ
スペイン語圏の中南米(ラテンアメリカ)の国々から米国
メキシコ国境付近へ、毎年多数の子供(児童)・未成年者たちが押し寄せてくる。彼ら彼女らは、祖国での
暴力や
貧困などから逃避するために米国への移民を希望している。米国大統領
バラク・オバマ(
民主党)は、政治的議論を捨てて、それら子供らを米国に受け入れる必要性を唱えた。だが米国メキシコ国境付近へやってくる中南米の子供らの数は、年を追って増え続け、その対処は政治問題になっている。
2013年10月から2014年6月までに間に、
グアテマラや
ホンジュラスなど
中米から米国へ逃亡してくる子供らの数は約5万2千人にのぼっている。その収容負担を軽減するために、米国政府は移民の家族をテキサスや南カリフォルニアの都市などへ移送している。だが、その移民の移送先で新たな問題を引き起こしている。カリフォルニア州
マリエータ市長であるアラン・ロングは、「
米国政府がすべきことはその不法移民を
テキサスやカリフォルニアに留めておくことではなく粛々と法に基づいて強制送還させることだ」と述べる。
ニューメキシコ州では、現地住民が、その移民が米国で就業し現地住民の仕事を奪ってしまうことを恐れ、移民に住居を与え留めておくことに反対の声をあげた。8年間続いた
共和党ジョージ・ブッシュ政権下での不法移民の国外追放者数は200万人であったが、オバマ政権では6年目にして既にほぼ同等数の不法越境者の国外追放を実施している。また国外追放するにしても、
アメリカ合衆国憲法に基づいて
検査官らの法的聴取が先行されなければならない。その法的聴取には人員と時間がかかる。
米国政府は2014年度に米国へ流入する子供達の数は6万人から8万人に達すると見込んでおり、それら子供達の宿泊場所を手配する政府の負担が急増している。
テキサス州知事
リック・ペリーは、「バラック・オバマがこの問題に十分対処できていない」と述べる。「オバマは国境地域の治安確保維持を軽視しているために、彼は集中してこの問題に取り組んでおらず、結果としてそれら子供達への施設提供が不足しているのだ」とペリーは述べた。
その他の共和党議員は、「国境地帯にやってくる中南米の子供達にオバマ政権がそれらの国外追放に猶予期間を与えたことで、他の中南米の子供達に誤った希望をあたえてしまい、それが彼らの越境に拍車をかけているのだ」とオバマ政権を非難した。移民政策の専門家は、オバマ政権の移民容認姿勢が中南米の子供達の越境をあおってしまったことを示唆する強い証拠があると述べた。
これをみたオバマ政権は方針を転換し、それら子供達の国外追放のための法的聴取の検査員や国境警備隊の拡充に37億ドルの資金を出すと声明を出した。その37億ドルのうち、子供達を本国に無事に送還するための移送費として約1.16億ドルが計上されている。また本国送還のサポートなどに3億ドルが使われることになっている。テキサス州の国境の治安向上には3000万ドルが使われる。それら子供達は法的聴取の間に施設に拘留されるが、その衛生・健康状態をケアするのに18億ドルが
アメリカ合衆国保健福祉省によって費やされる。
移民と住宅バブル
スイス政府統計によれば、住居を有しているスイス居住者は全体の3割しかない。スイスでは住宅所有は少しの贅沢である。だが超低金利、移民の増加、そしてスイスが投資家達にとっての金融避難所としての魅力的な国家であることから、スイスでは不動産
抵当の貸付が急上昇している。スイス政府は2014年2月以降、資産価格の急激な上昇を抑えるべく努力している。スイス政府は2014年6月、新規に住宅を購入する者が年金基金をその住宅の頭金として使うことを認めない声明を出した。スイス連邦参事会員である
ヨハン・シュナイダー=アマンは、この政策によって住宅価格高騰が鈍化することを期待すると述べた。
他方、
金融政策の観点では
スイス国立銀行は既に対
ユーロでの為替ターゲットを維持しているために、政策金利を上げることができず、スイスの住宅価格高騰に対して有効な術を喪失している。そして
スイス銀行は抵当ローンへの条件を厳しくすると表明した。
犯罪
移民、特に貧困層の移民は、移民元では
余剰人口の排出、移民先では安価な低賃金未熟練労働力の供給源となる一方、
文化摩擦や
失業などを背景に
犯罪集団を形成し各種犯罪を起こすことも各国で発生しており、両方にプラスマイナスともに様々な影響を与える。一般に移民問題とは移入民に関する問題を指すが、移民による
頭脳流出が移出国で問題となることもあり、特に医療従事者の流出による
医療崩壊は
発展途上国で深刻な社会問題となっている。
移民への差別的な扱いからの暴動、移民による社会変化によってネオナチや民族主義者が活発化し移民だけでなく元々のマイノリティに対する攻撃の増加、現地の貧困層から移民が襲撃されるなど様々な国で起こっている
移民政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移民政策(
英:Immigration policy)とは本国において行われる海外からの移民に関する政策
アメリカの移民政策
米国では
アメリカ同時多発テロ事件の後に多くのテロと無関係なアラブ・イスラム系移民を国外退去処分にした。
オバマ政権
当初
バラック・オバマ政権は、未登録の約1100万人の不法在米外国人に米国公民権を与えるための移民政策改革案を提示していたが、米国議会との長い対話の結果、その改革案を放棄した。
その改革法案では、米国のメキシコとの国境での移民労働者の詳細な調査が必要であり、不法移民のうち誰を国外追放して誰を受け入れるかなどの判定にはさらなる検査人員配置とコストがかかることに加え、米国政府の庇護を求めて移住してくる中南米からの移民の急激増加で、米国議会と政府共にその改革法案の成立に消極的になった。この米国の移民制度改革によって1100万人の不法移民が米国の公民権を得ると言われている。
ヘリテージ財団の計算で、移民は税を払うよりも多くの社会保障費を受け取る傾向にあるので、長期的には移民増加は米国の財政を悪化させることが指摘されている。その移民政策は、今後50年で6.3兆ドルのコストになると概算されている。
移民の子どもたちと国外追放
その移民制度改革法案を通したいオバマ側と阻止したい米国議会との対立が激化していた。オバマ側の主張は、暴力や貧困を逃れるために中央アメリカ諸国から米国のメキシコとの国境へやってくる子供達を、人道上の観点から米国に受け入れるというものだった。国境線地域にやってくる何千という子供達を見れば、政治的議論を捨てて移民制度改革に着手する必要性が理解できるはずだとオバマは述べた。しかしながら米国への移民を希望する中南米の子供達の数の急激な増加は、危機と呼ぶにふさわしい事態となっている。
8年間続いた
ジョージ・ブッシュ政権下での不法移民の国外追放者数は200万人であったが、オバマ政権では6年目にして既にほぼ同じ数の国外追放を行っている。そして子供達の国外追放に関しては、法的に時間を要する。それらの子供達を法的聴取もなしに国外追放のためのバスにのせることはアメリカ合衆国憲法の観点から不可能だとコーネル大学教授であるスティーブン・イェールレーは述べる。
合衆国憲法が定めるところでは、米国内のあらゆる人はその人が米国民か外国人かどうかについての
法の適正な過程という権利を有する。アラバマ州選出の共和党議員
マイク・ロジャースは、オバマ政権はそれら子供たちを国外追放させるためのバスにのせることはできないだろうと述べる。法的聴取とその結果を待つ間、子供達は暑く窮屈な拘留所で生活する。その数は日を追って増加していく。また、それらの子供達への法的聴取をするための公的職員をよりメキシコ国境地域に派遣するのであれば、ほかの地域のマンパワーが減ることを意味していて、それは一種の
ゼロサムゲームになりかねない。ゆえに皆がその法的聴取を速やかに遂行するには、米国議会に相応の財政支出が求められる。
移民政策についての政治活動家らの要望もあり、オバマは国外追放の対象者を深刻な犯罪歴のある不法移民や、国家安全保障上の脅威となる渡航者などに限定して適用するという方針を示したが、これは共和党から非難をうけた。米国下院議長の
ジョン・ベイナーは、米国議会はこの移民制度改革法案の2014年度中の成立を阻止すると述べた。「米国民と米国の代議士らは、この移民制度改革法案が仮に成立した場合、その法に忠実にオバマが移民政策を実行するとは信じていない」とベイナーは述べた。
その他の共和党議員は、国境地帯にやってくる中南米の子供達にオバマ政権がそれらの国外追放に猶予期間を与えたことで、他の中南米の子供達に誤った希望をあたえてしまい、それが彼らの越境に拍車をかけているのだとオバマ政権を非難した。
移民政策の専門家は、オバマ政権の移民容認姿勢が中南米の子供達の越境をあおってしまったことを示唆する強い証拠があると述べた。
トランプ政権
ドイツの移民政策
第二次世界大戦後、ドイツ政府は、労働力不足を補うため、
トルコから単純労働者を呼んだ。「ゲスト労働者政策」で家族と共にドイツに来たトルコ人は、定住化し、トルコ系移民となった。
ルーマニア・ブルガリア移民は、2013年度に7万5千人、2014年度はこの倍になると見積もられている。それでも、ポーランドからの移民が多数派である。
貧しい移民が移り住んだ
デュースブルクでは、児童手当の支払い負担が増え、自治体が悲鳴を上げている。ドイツ政府は、「これら移民労働者がドイツの年金システムを乱用しないような措置」や「移民労働者の子供手当てに制限を課す」ことなどを検討している。
ドイツの一部の大都市では、住民との軋轢が強まっている。ドイツ内相の
トーマス・デメジエールは、「移民が問題を引き起こすことは頻繁ではないにしても、いくつかの都市におけるブルガリアとルーマニアからの移民労働者の急速な増加は、懸念材料だ」と述べた。その為、ドイツでは「移動の自由を制限するべきだ」という議論が出ている。
2010年に
アンゲラ・メルケル首相は「
多文化共生は失敗であった」と発言している。
スイスの移民政策
EUとスイスとの間で取り決められた人的資本の自由を認める条約は2002年に施行され、EU加盟国の国籍を有する者は、居住や仕事の目的でスイスに自由に出入りできるようになった。
しかし、それと同時に素行に問題のある外国人の流入も増えることになった。外国人犯罪の高まりに対処するため、スイス政府は外国人の国外追放についての基準を2010年から導入した。その法律によれば、強盗や薬物など犯罪が確定した外国人は国外追放されることになる。実際には、その法律で国外追放されたのは政治的亡命者で、それらのなかには犯罪をしていない者も含まれていたことから、その法律の効果は議論の的になった。スイス政府が亡命者の本国への送還費用(およそ一人当たり2100ドル)を出したこともあり、それら亡命者の約4割は自発的に国外退去勧告に応じた。ビザの有効期限以上に滞在している者や現地の住民と結婚して居住権を獲得した不法移民もいたが、居住権を獲得後に離婚して滞在する者もいた。
スイスは、EU諸国からの移民の数を制限する是非についての国民投票を2014年に行い、移民規制強化への賛成が過半数を占めた。
スイス国民党(SVP)が指摘するように、EU諸国からスイスへの移民の数は毎年8万人にのぼり、この数は当初2007年に見積もられていた数の10倍であった。移民超過の結果、教育システムや交通、公的医療システムに負荷をかける事態になっている。健康保健・年金など移民への社会保障のためのコストを誰が負担するかについての議論がある。
また、スイス国内の労働者の賃金が移民労働者の低賃金によって脅かされる状態になっている。スイス国民党代表のトニー・ブルンナーは、この国民投票の結果はスイスの移民政策のターニングポイントだとする声明を出した。「スイス有権者は、移民の現実的問題についてスイス政府よりもよく理解している」とブルンナーは述べた。スイス連邦参事会員(司法・警察担当)の
シモネッタ・ソマルーガは、今回の投票結果は異常な人口増加に対するスイス有権者の不安を反映するものだと述べた。(「
底辺への競争」も参照)
フランスの移民政策
2015年1月、パリで大規模な襲撃事件がおこり民間人17名が犠牲となった。この襲撃事件をうけてフランス国内のイスラム系住民への取り締まりが厳しくなっている。既に約100人がテロを擁護する発言をしたとして捜索対象になっており、一人のチュニジア系フランス人が逮捕され6カ月の禁固刑となった。(「
シャルリー・エブド襲撃事件」も参照)
フランスは欧州で最大の移民を有し、フランスの慣習などに適合できない移民が群をなして生活している地区があり、治安悪化で事実上立ち入れない区域もある。襲撃事件の容疑者はすべて移民の子孫であったことから、移民の同化政策が岐路にたたされている。
フランス首相である
マニュエル・ヴァルスは、移民が彼ら独自の
ゲットーを形成し表社会と交流を断つケースではフランス国家による同化政策は無力となると認め、30年にわたる移民の同化政策は失敗だったと示唆した。
欧州議会議長である
マルティン・シュルツは、欧州はイスラム系の若年層の同化政策のためのサポートを必要としていると述べた。パリでの襲撃事件に対して断固たる対処が必要だとする一方で、社会から隔絶されがちな移民を同化できるように多額の資金を教育や同化政策に費やすべきだとシュルツは唱える。
フランスがジハーディストの巣窟となった理由は移民政策によって移民を大量にフランスに流入させたからである。2016年7月時点で、フランスの総人口の約1割がムスリムである。
2015年11月には
パリ同時多発テロ事件が発生し130人以上が犠牲となり、翌年の7月には
ニースでのトラックテロ事件が発生し84人が犠牲となった。
日本の移民政策
萩原里紗、
中島隆信は「
日本では海外からの移民を積極的に受け入れるという方向で移民政策が行われている。なぜならば、日本は
少子高齢化社会などと言われているように、
人口においての働き手となる
若者の割合が減少してきており、それを解消するために積極的に移民を受け入れて、
労働力に割り当て問題解決を行っていこうとされているからである。国内の労働力の減少。それと共に特に労働力の不足が著しくなると想定されている
産業として
農業や
福祉が存在しているわけであるが、
日本国内に移民として入ってきた外国人にこれらの産業に従事してもらおうという意見が根強い。だが短期的な視野で、その場しのぎという形での問題解決を目的とした移民の受け入れを行ったならば、
歴史での前例も多いように、これらは将来への禍根を残すということにもなり兼ねないわけであり、そのような問題を発生させないためにも長期的な視野で物事を考えた上で、
多文化共生を成し遂げる形で日本人と共存できるような形での移民政策を行っていくことが望ましい」という考えを、示している。
2015年2月、日本の
建国記念の日に
曽野綾子は移民政策についての自説を展開した。曽野は、人種を隔離しない限りは日本の移民政策はうまくいかないと発言。曽野によれば20から30年前の
南アフリカにおける状況を学んで以来、白人やアジア人、黒人はそれぞれ離れて生活するべきだと信じるようになったという。南アフリカで白人が居住していた地域を黒人のアフリカ人が破壊しており、仮に居住地域の自由が認められれば同様のことが日本でも発生しうるとすると曽野は力説する。これに対し南アフリカ大使館は、曽野の提案は恥ずべきであり
アパルトヘイトを称賛するものであると抗議した。
菅義偉は、曽野の見解が安倍政権の見解を反映するものかという質問に対し明確な回答を避けた。
2014年3月、
自由民主党の
第2次安倍内閣は毎年20万人の移民大量受け入れの本格的な検討に入った。
2016年3月、
自由民主党は「労働力の確保に関する特命委員会」を立ち上げ、移民を含めた
労働力としての外国人の受け入れに関する議論を開始した。
下村博文は「1000万人、2000万人くるのは国民的理解を得られない」としたものの、特命委委員長の
木村義雄は「『移民の寸前』まで持っていけるかも含めて議論したい」としている
。
2020年10月時点の外国人労働者は約172万人で過去最高を記録した。
一方で日本政府は移民とは国籍取得者のみとの立場を取っており外国人労働者拡大の新規在留資格等は移民政策ではないと否定している。外国人労働者の家族帯同、無期限の在留、国籍取得の優遇などを取っていない。
学者の見解
移民の経済分析の泰斗、
ハーバード大学の
ジョージ・ボーハス教授によると、長年の移民経済効果の実証実験で明らかになったのは、
途上国からの移民流入が、移民の取り分を除けば、
先進国の経済規模に全体としてほとんど影響を与えないことである。移民拡大は、経済成長政策ではなく、純粋な
所得再配分政策であって、経済のパイは拡大せず、もともと居る国民の中でパイの配分を変えるだけである。勝者は途上国からやって来た移民と先進国の
エリート、敗者は先進国の
大衆である。またボーハス教授は、外国人労働者は自国労働者がやりたがらない仕事をしてくれるので、移民は不可欠という主張に対して、移民が行っているのは、自国民がやらない仕事ではなく、現在の賃金ではやりたくない仕事であると指摘する。不法移民を一掃した
アメリカのある地域で実際起こったように、外国人労働者という選択肢がなければ、自国民がやりたくなる水準まで賃金は上昇する。あるいは、
経営者は
技術革新で乗り切ろうとする。
経済学者の
大竹文雄は「高度な移民を受け入れた国にプラスの影響を与えることを否定する経済学者はほとんどいない」と指摘している。
大竹文雄は「外国人労働者と国内労働者が同質的で同じ仕事をしているのであれば、外国人労働者の増加は国内労働者の賃金を引き下げる。ただし、国全体では便益がある可能性が高い。機械・設備といった資本が労働とは補完的だからである。資本と労働が補完的であれば、低賃金でより多くの労働者を雇って生産量を増やす。それに伴い資本への需要が増加し、資本所得が増加する。つまり、国民にとっては、賃金所得の低下と資本所得の増加という両方の効果があり、資本所得が増加する効果のほうが大きいことが知られている。適切な
所得再配分政策があれば、国民全体は外国人労働の増加によって便益を受ける」と指摘している。大竹は「国内労働者が高度な労働を行い、外国人労働者が単純労働を行い両者の労働が補完的であれば、国内労働者の賃金を引き上げることができる。また、高度な外国人労働者の増加は、高度な国内労働者の賃金を低下させるが、国内の単純労働の賃金を引き上げることになり、国内両者の賃金格差は縮小する。高度な外国人労働者であれば、高所得で
税金を納めてくれると同時に福祉への依存が低いと予想されるため、
イノベーション促進による経済成長を高める効果も期待できる」と指摘している。
萩原里紗、
中島隆信は「技術・技能を有し、受入国の語学ができる人材を受け入れることができれば、受入国の経済成長の促進、自国労働者の社会保障負担の軽減、財政安定化の寄与など、よい影響をもたらす。ただし、選択的移民制度は『いい移民ならば受け入れる』という受入国のエゴ以外の何ものでもない。急場しのぎ、自国都合の移民の受け入れは、将来に禍根を残すことになる」と指摘している