別海町HPの問題-1
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戦後75年 領土の記憶・・・北方4島とは?
別海町.JPーソ連軍による占拠(「はい」を3回押してね」)
昭和20年(1945)8月28日、ソ連軍が択捉島留別村に上陸以来、北方四島の島々はすべてソ連軍によって占領されてしまいました。
歯舞、色丹、国後の各島の居住者の中には、ソ連軍の手を逃れて漁船で根室方面に脱出するものが多く、しかし脱出時にソ連軍に発見されたり、あるいは荒波で船が遭難して命を落とした人が相当あったといわれています。
脱出者数は、終戦当時の北方四島居住者の約半数といわれ、主として北海道の根室支庁管内に近い、歯舞群島、色丹島、国後島の島民の人たちでした。
しかし、
択捉島の場合は島が最も遠く、しかも予期せぬソ連占拠が最初に行われたこと、脱出できるような船が無かったことなどがあり、ほとんどの全島民はソ連軍占領のもとにやむを得ず残留し、以後、ソ連の指導下にあって、心身ともに不自由な生活を余儀なくされることになります。
私有財産は取り上げられ、自分の土地も畑も使用できず、家畜の馬や牛も奪われ、個人所有の船舶もすべて、戦勝国の名において国有化され、あるいはロシア人の手に渡ってしまいました。
さらには
労働を強制され、今日は海へ、明日は山へと連れ回され、食料も十分に与えられることもなく、もちろん報酬さえろくに支払われないところもあったといわれています。
残留した島民たちの間には、春になれば帰れる、秋になれば帰れるというあらぬ噂が流れ、そのたびに島民は儚い希望を抱いていました。
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北方4島問題について
1941年、日本はアメリカ、中国、イギリスなどを相手に戦争を始めました。そして日本は1945年8月15日「ポツダム宣言」を受け入れて、無条件降伏しました。
その8月15日から3日後の8月18日になって、当時
ソ連と結んでいた有効な条約「
日ソ中立条約」
をソ連が一方的に破り、クリル諸島北端の占守島に上陸を始め、自衛のため応戦した日本軍と激戦が交わされました。
しかし、日本軍は北部方面司令官の命令で、23日に局地停戦協定を結び降伏しました。
その後ソ連軍は千島列島沿いに南下を始め日本軍の武装解除をして、得撫島まできましたが、択捉島には上陸せず、いったん北に引き返しました。
しかし、アメリカ軍が択捉島や国後島等に進駐していないことを知ったソ連軍は再び南下を始めました。
この一件は、当初ソ連軍も北方四島は日本の領土であるとの認識だったことを物語っています。
択捉島や国後島に上陸したソ連軍は、「アメリカ軍は来ているか?」と、住んでいた日本人に対して念を押しながらの上陸だったということでした。
ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸し、9月3日には歯舞群島にまで及び、ことごとく占領しました。
このため島で生活していた人々の中には、危険を冒して着の身着のままで脱出した人もいます。住み慣れた土地を離れられず島にとどまった人々も、1947年にはソ連軍によって強制的に日本へ送還されました。
このように日本固有の領土である北方四島は日本が無条件降伏した3日後から、ソ連によって不法に占拠されたままになっています。