ドイツ(Germany)

ドイツ連邦軍
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ドイツ連邦軍は、ドイツ連邦共和国の陸軍、海軍、空軍および戦力基盤軍、救護業務軍の総体を指す。
徴兵制
 ドイツは長年徴兵制度があり、満18歳以上の男子には兵役義務があった。連邦軍発足当初は、志願兵制を導入していたが、第二次大戦の後遺症で国民の
     反軍感情、反戦意識は根強く、志願制に頼っていては人員を確保できなかったからである。[2]。徴兵制の施行にあたっては、第二次世界大戦の
     歴史的経緯を踏まえて、良心的兵役拒否も申請することが認められた。この場合には、代替義務 (Zivildienst)として病院、老人介護施設等の
     社会福祉施設で兵役義務と同じ期間だけ社会貢献することになっていた。
 2011年7月4日、正式に徴兵制の「中止」が発表され、2014年には職業軍人と志願兵による部隊に再編された。今後の安全保障環境の変化によっては復活
     させる可能性にも含みを残しているが、事実上の廃止と考えられている[3]。しかし、徴兵制が廃止されると、その代替義務も無くなることになり、
     これまで男性によって成り立ってきたドイツの社会福祉政策は大きな転換を迫られることとなった[4]
人員
 1975年以来ドイツ連邦軍内に女性軍人が配属されているが、当初は医療部隊への配属にとどまっていた。ある女性軍人はこれを不服として裁判に訴え、
     欧州司法裁判所2000年、女性がこれまで以上により幅広い役割を軍隊内で果たすよう認めるべきであるという判決を下した。結果2001年より、
     女性軍人は連邦軍内のあらゆる任務に制限なく就けるようになった。連邦軍には1万3千人の女性が平和維持活動や他の作戦行動などあらゆる軍務
     についており、その他多くの女性が予備役となっている。
  一方、女性は徴兵制の対象にはなっていなかったためにある男性が「男性に対してのみ兵役を強制することは男性差別であり、憲法違反だ」として訴訟を
     起こしたが、憲法裁判所は男性に対してのみの徴兵制は合憲だという判決を出した。また、ある男性が、たまたま運悪く、徴兵の対象者に選ばれて
     出頭を求められた際に、徴兵制自体を不服として裁判を起こした例では、「現在のドイツではごく一部の男子のみが対象になっており、徴兵制の精神
     である、あらゆる国民が平等に国防の責任を負担するという機能は失われており、徴兵に服する必要は無い」という判例も出ており、その結果、
     徴兵の対象者に選ばれても自由に拒否できる状態になっていた。

歴史
冷戦期(1955年-1990年)
 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)1955年再軍備を開始した。第二次世界大戦に敗れたドイツは完全に武装解除され、連合国の命令でいかなる種類の
     再軍備計画も禁止されていた。小規模な国境警備隊機雷の掃海部隊はあったが、国軍は設置されず、占領下ドイツの国防には連合国のうち4カ国、
     アメリカ合衆国イギリスフランスソビエト連邦の各軍が責任を持っていた。
  しかし、朝鮮戦争後の西側諸国東側諸国の間の緊張の高まりによってドイツ非武装化政策に変化が生じた。ソ連の下でドイツ民主共和国(東ドイツ)が
     すでに密かに再軍備を行ったことで、米英仏も西ドイツの再軍備の検討を解禁した。1950年に新しい西ドイツ軍創設のための基本構想の策定が始まり、
     コンラート・アデナウアー初代連邦首相ラインラント=プファルツ州のヒンメロート修道院(en)にホイジンガーシュパイデルなど旧ドイツ国防軍の
     将軍15名を集め、再軍備の技術的な可能性を検討させた。専門委員会の検討の結果、西ドイツの新しい軍の基本構想(ヒンメロート覚書)が固まった。
     これに基づき、国会議員テオドール・ブランクが新国軍の設置準備を進めた。
  これゆえ連邦国防省の前身を「ブランク局(Amt Blank)」と呼ぶ。しかし、旧軍出身の15名の専門委員に新国軍の設置準備に参画することは求めなかった。
     またナチスに一方的に「汚された」とされた旧国防軍の伝統との「決別」を明確に示した。そのため西ドイツ時代から現在のドイツ連邦軍には
     アメリカ合衆国の影響が強く、軍服や階級についてもプロイセン帝政ドイツ色はわずかしか残っていない。
  旧国防軍の装甲兵大将であった自由民主党のリベラル派政治家ハッソ・フォン・マントイフェルが新しい国軍に「Bundeswehr」(連邦軍)の名を提案し、 
  ドイツ連邦議会において承認された。ナチス・ドイツ時代は「Wehrmacht」(国防軍)といわれていた。初代連邦軍総監には国防軍時代に
     陸軍総司令部作戦部長であったホイジンガー将軍が就任した。
  米英仏の3カ国間にはドイツ再軍備に関して意見の相違もあった。特に、国境を接するフランスは19世紀以降の独仏関係史も鑑み、西ドイツの再武装に対して
     難色を示す見解が大勢を占めていた。
  フランスは、アメリカの進める西ドイツ再武装とNATO加盟案に対し、超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する欧州防衛共同体構想を打ち出し、実際に1952年
     西ドイツを含む西欧各国間で調印もされた。しかし、自身の主権も制限されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により、1954年に当の
     フランス議会で否決され、批准には至らなかった。その結果、フランスも西ドイツの単独再軍備とNATO加盟を認めた。
  連邦軍はゲルハルト・フォン・シャルンホルストの200回目の誕生日に当たる1955年11月12日に正式に誕生した。ドイツ連邦共和国基本法の修正後、
     西ドイツは1955年にNATOのメンバーとなり、1956年には18歳から45歳までの全男子国民に兵役義務が導入された。冷戦の間、ドイツ連邦軍はNATOの
     中央ヨーロッパ防衛の主力となり、三軍あわせて49万5千人の兵力と17万人の文民職員という大戦力を抱えていた。陸軍は12個師団からなる3つの軍団
     で構成され、戦車装甲兵員輸送車で重武装していた。空軍は戦術戦闘機多数を所有し、NATOの統合防空軍(NATINAD)の一部をなしていた。
     海軍はバルト海防衛を受け持ち、北海の増援軍や補給船の護衛を任され、ソ連のバルト艦隊の封じ込めを行った。
ドイツ再統一後
 1990年ドイツ再統一後、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」)により、ドイツ連邦軍は37万人まで
     削減された。かつての東ドイツ軍である国家人民軍は解散し、その兵員の一部と軍備のごく一部が連邦軍に引き取られた。約5万人の国家人民軍兵士
     は1990年10月2日に連邦軍に吸収された。増えた5万人分は、徴兵されている兵士や短期の志願兵が兵役期間の満了を迎えることで速やかに
     削減された。
  国家人民軍にいた多くの将校(将軍提督を除く)は2年以内に限定した雇用契約を交わして日常の任務を続けた。連邦軍に移った兵士は個人の適性と
     経験によって新規の雇用契約と新規の階級を受け取ったが、多くの軍人は国家人民軍時代より低い階級を受け入れている。
  しかしながら、一般的に「軍隊の統合(Armee der Einheit)」のスローガンの下で進められているドイツ国軍の統一過程は大きな成功とされ、ドイツ社会の
     他の分野における統一の手本と受けとめられている。国境線の消滅と合邦によって不要となった連邦軍(旧西ドイツ→統一ドイツ軍)や
     国家人民軍(旧東ドイツ軍)の機材が廃棄された。装甲車両や戦闘機は国際的な監視の下で解体されている。艦船は船舶解体スクラップにされるか、
     バルト三国インドネシアなどに売却された。
  インドネシア共和国国軍は国家人民軍のさまざまな艦船39隻を受け取っている。また、国家人民軍の装甲兵員輸送車がトルコ軍に売られ、トルコ東南部
     (独立を目指すクルド人との紛争地帯)で運用されていることが議論の的になったこともある。
  国連の平和維持活動・人道援助活動やNATOの域外軍事行動へのドイツ連邦軍の参加、ドイツの多国籍軍参加に関連し、ドイツ国外での作戦行動や
     援助活動が増加したことを受け、2000年には大規模な機構改革が行われた。指揮・兵站・通信・憲兵など、各軍の支援任務および医療任務を軍中央に
     統合し、戦力基盤軍救護業務軍が誕生した。特に、多くの国の軍隊では医療活動は各軍が個別に行っているため、医療の統合は前例の少ない
     ものである。
  ドイツ連邦軍は、その国家の人口と経済力を反映し、NATO内のみならず世界でも有数の先進的な技術力や確固たる補給力を誇っているが、冷戦終結後の
     西側諸国の例に漏れず、統一ドイツの国防予算は削減傾向にある。国防費のGDP比は1%台前半で推移しており、日本スペインおよびカナダよりは
     高いが、オランダなどと並んでNATOでも低めである[5]。アメリカ合衆国とニュークリア・シェアリングを行っているため、自国領土が核戦争の舞台になる
     リスクと引き換えに、核開発に予算をかけることなく核抑止を可能としている。
任務
 ドイツ連邦軍はNATO軍の一員としてヨーロッパ防衛義務を負う。連邦軍の任務は基本法の87条aに規定されており、活動が許されるのは「防衛」のみとされて
     いる。しかし1990年以降、国際情勢が東西対立から全体的な不安定状態へと変化しており、ドイツ軍はその対応が問われることになった。特に1991年
     湾岸戦争で、多国籍軍に資金面のみで参加し人的参加しなかったことは国外から批判を浴びた。1994年の連邦憲法裁判所での判例で、基本法の
     「防衛」とはドイツの国境を守るだけでなく、危機への対応や紛争防止など、世界中のどこであれ広い意味でのドイツの安全を守るために必要な行動を
     指すと解釈が拡大され、さらにドイツ連邦議会の事前承認によりNATO域外への派兵が認められた。かつての連邦国防相、ペーター・シュトルック
     (Peter Struck)の解釈によれば、ドイツを守るためにはアフガニスタンヒンドゥークシュ山脈であっても軍を出すことは必要となる。
  こうしたことから、1990年代以降、ドイツ連邦軍はNATOや欧州連合、国際連合の一員としてドイツ国外でPKOなどの作戦を行うことが増えている。例えば
     カンボジアUNTACボスニア・ヘルツェゴビナ平和安定化部隊(SFOR)・欧州連合部隊 (EUFOR)、コソボKFORアフガニスタン
     国際治安支援部隊 (ISAF)、エチオピアエリトリアソマリアスーダンコンゴ民主共和国レバノンなどの軍事作戦や平和維持活動に派兵している。
     一方で犠牲者の数も、アフガニスタンのISAFでの55人、ボスニア・ヘルツェゴビナのSFOR/EUFORでの19人、コソボのKFORでの27人などと増大しており[6]
     1998年から2014年までの間に海外派遣兵士の自殺も22件に上った[6]。その他、多くの負傷者やPTSD[7]に苦しむ元兵士もいる。


ドイツ再軍備宣言
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ヴェルサイユ条約によるドイツの軍備制限
ドイツはヴェルサイユ条約
   によって、莫大な賠償金、フランス、ポーランド等への領土割譲、ライン河以西の非武装化、国内への国際軍備監視団の受け入れ、更に下記の軍事制限等
         を受けていた。
   陸軍兵力を10万人に制限 騎兵師団3個 歩兵師団7個(戦前の平時には78個師団を擁していた)
   戦争画策の本拠として陸軍参謀本部を廃止
   戦車の保有禁止
   義務兵役制度の廃止
   海軍も沿岸警備以外は禁止、潜水艦航空母艦の保有禁止、艦艇の備砲と排水量の制限
   軍用機の開発・保有禁止
ヴェルサイユ条約の抜け道
ヴァイマル共和国の歴代の陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトを含め、ヴェルサイユ条約の実質的な形骸化を目指して様々な方法を試みていた。
  禁止された参謀本部機能を兵務局 と呼び換えて温存する。
  兵力が10万人に制限された陸軍の内、将校は4000人が許されていた。そのため、その4000人を旧軍から選りすぐりの優秀な人材として確保する。
  兵士や下士官に対しても、将来の急速な兵力拡大を可能とするための将校級の教育を施す。
  ポーランド国境線を巡る紛争に暗躍する義勇軍に対し物的・人的に支援する(黒い国防軍と呼ばれた)。
  1922年のソビエト連邦とのラパッロ条約の秘密条項に基づき、国際監視の届かないソ連領奥地のカザンリペツクに独自の戦車学校や航空機工場、
     空軍学校を設け、ドイツ国内で禁止されていた戦車部隊運用、軍用機訓練・ガス兵器の研究を進め、ドイツ将校のみならず、赤軍将校も共に教育を
     受けさせた。当時、ソ連の赤軍革命の余波で1920年にはポーランド軍にキエフを占領されるまで弱体化していた。これらドイツ軍学校は赤軍の近代化
     に大きく貢献した。
  新型火砲の開発については、スウェーデンやスイスなど第三国との合弁会社を設立させてドイツ国外で開発させたり、国内でも輸出用の名目で開発させ、
     再軍備宣言後に正式採用した。これらの火砲はヴェルサイユ条約調印前の1918年に正式採用されたように取り繕う欺瞞工作として形式番号を
     ○.○cm ×× 18としていることが多い。(8.8 cm FlaK 1810.5 cm leFH 1815 cm sFH 18など)
  海軍は、排水量10,000t以下、主砲28cm以下と限定された範囲内に装甲艦三隻を建造した。
     ドイッチュラントアドミラル・グラーフ・シュペーアドミラル・シェーアである。
  1933年に民間航空事業の促進を理由に航空省を設け、民間航空操縦士養成学校で将来の軍用機パイロットを養成した。Ju 87急降下爆撃機も当初の開発
     はスウェーデンで行われている。
再軍備宣言後の急速な発展
 周到な準備が水面下で進んでいたため、再軍備宣言後は外国から干渉されない独立した普通の軍隊になるべく急速に発展した。義務兵役制を復活
     (36個師団、50万人)
 軍帽と軍服の右胸にハーケンクロイツを銜える鷲を図案化した主権紋章をつける。プロイセン派軍部とナチス党の和解の象徴
 陸軍・海軍・空軍をまとめた国軍の総称の変更:Reichswehr(ヴァイマル共和国軍) → Wehrmacht(ドイツ国防軍)陸軍の名称変更:Reichsheer → Heer
 海軍の名称変更:Reichsmarine → Kriegsmarine
 航空省から空軍へと脱皮:Luftwaffe
 国防省の名称変更:Reichswehrministerium(国防省)→ Reichskriegsministerium(戦争省)
 陸軍総司令部の名称変更(海軍も同様):Heeresleitung der Reichswehr (陸軍統帥局)→ Oberkommand des Heeres(陸軍総司令部) 
 陸軍参謀本部の名称の復活:Truppenamt(兵務局) → Generalstab(参謀本部)
 陸軍大学の復活
     1936年、スペイン内戦に主として航空部隊、戦車部隊から成るコンドル軍団を派遣してフランコ軍を援助、派遣部隊は実戦経験を積んだ。
再軍備の完了を待たずに戦争開始
1939年9月の第二次世界大戦開始時点で陸海空軍全て当初の再軍備計画を完了していなかった。「ポーランドに侵攻しても英仏は参戦しないだろう」との
     ヒトラーの誤算があった。海軍は1945年頃に向けての再建(Z計画)を図っている状況であり、陸軍も戦車は数量的に僅かであり、主力となるはずであった
     III号戦車IV号戦車の不足で、訓練用の戦車や併合したチェコ製の戦車を主力として実戦に使用した。空軍のみが時代の先端に達しているという状況
     であった。
  海軍は当時の英海軍の前には比べるまでもなく非力な存在でしかなかった。軍艦建造は短時間で出来るものではない。また、全世界に張り巡らされた
     大英帝国のネットワークの効果は絶大である。陸軍も兵力数比較では連合国軍に大きく劣っていた。スペイン内戦でもドイツのI号戦車II号戦車
     攻撃力でソ連のT-26に劣っていることが明らかになった。また、急降下爆撃機ゲルニカ空襲の成功は、水平爆撃の非効率を印象付け、後の英米の
     戦略爆撃機に類するような四発重爆撃機の研究開発を遅らせた。
  大戦緒戦における勝利は、スペイン内戦における実戦経験が大きかった。第一次世界大戦による戦争への忌避の風潮が大きかったこの時期において、
     この実戦経験は得難いものであった。そのうえにドイツ兵器の優秀性のみならず、奇襲による先制攻撃、旺盛な敢闘精神、戦車部隊と急降下爆撃機を
     立体的に展開した電撃戦等の戦術的な先進性、そしてスペイン内戦の参加による最新の実戦経験がもたらしたものである。しかし、戦争の長期化は
     ドイツの生産能力の限界を露呈し出した。
  海軍はヴェーザー演習作戦において艦艇の大量損失を招き、量産が短期間に可能なUボートに依存し、一時的にはイギリスの海上補給線を脅かすが、
     Uボート対策が採られはじめると、その効果は大きく減じられ、やがてUボートの損失が乗組員の養成を超えるものとなり破綻した。
  空軍はバトル・オブ・ブリテンに敗北し、独ソ戦でもドイツ軍のIII号戦車IV号戦車といった主力戦車の砲弾ですらソ連のT-34KV-1の分厚い装甲の前に
     ことごとく跳ね返された。ソ連軍に恐れられたティーガー戦車も生産数量はわずかで(月産25両)、個別戦線の火消し役的な運用しか出来なかった。
  空軍はドイツ本土への爆撃に対して、一時的にはアメリカの昼間爆撃を中止させるまでの活躍をしたが、やがて英米の戦闘機の前に屈し全土が焦土と化して
     いく。結局、空襲を受けながらも高い生産性を維持するが、ドイツの兵器開発・量産能力はソ連とアメリカの圧倒的な生産力の前に屈服するのである。




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