ダルビッシュ有・大谷翔平-wikipedia



ダルビッシュ有
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  ダルビッシュ 有英語: Yu Darvish1986年8月16日 - )は、大阪府羽曳野市出身のプロ野球選手投手)。右投右打。MLBサンディエゴ・パドレス所属。本名はダルビッシュ・セファット・ファリード・有(英語: Sefat Farid Yu Darvish
概要
  愛称は「ダル」。YouTuberYu Darvish ダルビッシュのゲームチャンネル名義)としても活躍している。
  NPB時代に5年連続防御率1点台を達成。MLBではアジア人史上2人目の最多勝利(日本人史上初)と最多奪三振(日本人史上2人目)を獲得している。妻は元女子レスリング選手の山本聖子。マネジメント窓口はエイベックス代理人ワッサーマン・メディア・グループ
家族
  イランテヘラン出身であるダルビッシュ・セファット・ファルサ(Farsad Darvishsefat)がアメリカ留学中に知り合った日本人女性との間に生まれる。ファルサは元サッカー選手で、母国イランの「イラン野球連盟」顧問に就任している他、事業を手広く扱っている。父親が共同経営するジャイレックス(大阪市住之江区)が「ダルビッシュ」の名称の商標を出願(商願2003-103566号)し、登録されている(登録番号:第4796097号)。なお、父の出身国であるイランはシーア派ムスリムが多数を占めるが、ダルビッシュ有自身はムスリムではないことを2010年9月13日に自身のTwitterで明かしている。
  2015年に格闘家の山本聖子との間に男児が誕生。山本とは当初は事実婚であったが、2016年に婚姻届を提出し、正式な夫婦となった。
  元妻はタレント紗栄子。元総合格闘家のダルビッシュ翔(Dark翔)、元俳優のKENTAは弟、元格闘家の山本KID徳郁は義兄である。
経歴
 プロ入り前
   イラン人の父と日本人の母を両親に持ち、3人兄弟の長男として生まれた。幼少時代、幼稚園に入るまで英語を使っていた。当時6歳となる1993年には、6月9日に行われた巨人対ヤクルト戦にて生まれて初めてとなる野球観戦をしており、この試合で篠塚和典伊藤智仁からサヨナラ本塁打を打ち、選手が喜んでいる場面を見たことが後に野球を始めるきっかけとなった。小学2年生で、地元の野球チーム「羽曳野ブラックイーグルス」で野球を始め、当時はアイスホッケーも行っていたが、後に野球のみに絞る。全羽曳野ボーイズでは中学校3年生時にエースとして全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収めた。3年夏時点での球速は144km/hであったという。東北高等学校に2002年4月に入学した。同校には2年先輩で、その後ヤクルトに入団した高井雄平がおり、目標としていた。 高校進学にあたっては50校を超える高校からスカウトされるも、「寮生活で親元から離れられること」、「上下関係が比較的緩いこと」を条件に上宮太子高校(大阪府)、広陵高校(広島県)、東海大学菅生高校(西東京)、前橋育英高校(群馬県)及び東北高校の5校に絞った上で監督の若生正廣の人柄、高井雄平の存在やチームの雰囲気から東北を選んだ、と自身のYouTubeチャンネルで語っている。
  入学後いわゆる成長痛に苦しみ別メニューを行っていたが、春からベンチ入りし、1年生秋からエースに就き、背番号1をつけた。10月の東北大会で優勝、2002年11月15日に行われた明治神宮野球大会の平安高校戦で全国デビューし、被安打7、12奪三振で完封勝利を飾り球速は最速147km/hを計測した。その結果、チームはベスト4の成績を残した。3年生時の2004年6月27日の横浜高校戦(秋田県立金足農業高等学校主催の招待試合)では自身初の150km/hを計測している。
  甲子園には2年、3年春夏と4度出場。2年は開会式後、女性に握手を求められた際強く引っ張られ右棘下筋痛で全治2週間と診断されるも、3月26日の静岡県立浜名高等学校戦で、完投勝利(2対1)を果たす。結果3回戦で花咲徳栄に敗退。2年夏は1回戦で腰を痛めるものの決勝進出。決勝で坂克彦を擁する常総学院に敗れて準優勝。東北勢初優勝とはならなかった。大会後に野球部キャプテンに就任。主将として臨んだ10月の東北大会は2連覇を果たす。3年春では1回戦で熊本工相手に大会史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する。しかし2回戦を前に今度は右肩を痛め、準々決勝に登板せず敗北。夏の県大会決勝にて宮城県利府高等学校を20対1で下し優勝、4季連続で甲子園出場を果たした。最後の夏の甲子園では1回戦から2試合連続完封。3回戦でも千葉経大附相手に8回まで無失点に抑えるも、今大会通算27イニング目となる9回に初失点を喫し、その後延長戦の末敗戦。自身が最後の打者となった。同級生に真壁賢守がおり、2枚看板で活躍した。
  10月末の段階ではプロ野球再編問題に伴い出身高校所在地の宮城県を保護地域として参入手続き中だった仙台ライブドアフェニックス東北楽天ゴールデンイーグルス(11月2日に楽天のみ新規参入決定)、出身地と同じ関西所在のオリックス・ブルーウェーブ(12月1日に大阪近鉄バファローズと合併してオリックス・バファローズ)、さらに北海道日本ハムファイターズの計4球団が獲得意志を明らかにし「注目度ナンバーワン」「松坂大輔以来の怪物」などと評されていた。11月17日に開催されたプロ野球ドラフト会議では日本ハムに単独1位指名され、12月17日に契約金1億円、年俸1500万円、出来高5000万円で高卒新人として史上3人目の最高条件で仮契約を結ぶ。背番号は11。2004年ドラフト指名選手の中で最後の入団決定だった
    ・高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10  ・甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47  ・センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70  ・選手権:登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87
日本ハム時代
  2005年、前年12月の自主トレ中に痛めた右膝の関節炎の影響で、1月の新人合同自主トレでドクターストップがかかり、春季キャンプは二軍で迎えた。ところが、2月に発売された写真週刊誌で未成年者にもかかわらずパチンコ店で喫煙していたことが報道された。それに対し球団は、同月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中の社会貢献活動を命じる処分を言い渡した(同月28日の12チーム合同新人研修会には出席)、これを受けて東北高校は同月22日に本人を無期停学処分とした。このため3月1日の卒業式は停学処分期間中だったため参加できなかった。その後処分が解除された3月8日に他の生徒より1週間遅れで卒業している。その後二軍でリハビリテーションを続け、5月5日にイースタン・リーグ(対インボイス)で中継ぎとして初登板[17]しその後完封勝利も記録。6月に一軍昇格し、6月15日の対広島東洋カープ戦で一軍初登板初先発を果たす。8回まで無失点に抑え、1987年の近藤真一以来となる「高卒新人一軍初登板初先発で初勝利・初完封」という快挙も期待された。その後9回表に新井貴浩野村謙二郎に2者連続本塁打を浴びて完封は逃したが、プロ初勝利を挙げた。2度目の登板となった6月27日の西武戦(札幌ドーム)では松坂大輔と投げ合い、序盤は制球に苦しんだが7回2失点と好投し、打線の援護も受けて勝利投手となった。それ以降先発ローテーションに定着し、14試合に登板して完封勝利を含む5勝(5敗)を挙げた。9月18日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)では、2安打2四球でプロ初完封を記録した。
  なお、この年の喫煙騒動については、メジャー移籍報告を兼ねた2012年1月の会見で再度謝罪している。またその会見の中で、初登板・初勝利のヒーローインタビューの際に温かく迎えてくれたことがその後の頑張りにつながったと語っている。契約更改では1500万円増となる推定年俸3000万円で一発サインした。
  2006年、2月に右肩を痛めたことで出遅れたが、プロ入り初の開幕ローテーション入りを果たした。前述の出遅れの影響で4月までは防御率5.16と不振であったが、5月30日以降は自身公式戦10連勝を記録。さらに、6月6日の阪神タイガース戦(札幌ドーム)で、プロ入り初の2桁奪三振を記録。そのままシーズン終了まで1度も敗戦投手になることは無く、最終的に25試合に登板して規定投球回に到達し防御率2.89、12勝5敗の成績を記録した。7月7日の埼玉西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)では先発を任されたが、ビジター用のユニフォームを札幌ドームのロッカーに置き忘れ、八木智哉のユニフォームを借りて登板し、7回1失点の好投でチームを勝利に導いた。この日の日本ハムは前身の東映フライヤーズが1961年9月に達成して以来のチーム11連勝(球団タイ記録、当時)がかかった試合だった。ちなみにその時本人は「これで負けたら最悪です」とコメントしている。この年の終盤あたりから、相性の良さから鶴岡慎也とバッテリーを組むことが多くなり、2007年も中盤以降からはダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた。
  プレーオフでは2ndステージ(福岡ソフトバンクホークス戦)第1戦に先発し、11奪三振1失点完投で勝利。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは初戦を任されるも6回3失点で敗戦投手となる。3勝1敗で迎えた第5戦に中4日で再び先発し、7回1/3を1失点で勝ち投手となり、チームは44年ぶり2度目の優勝を果たした。この活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。
  アジアシリーズでは台湾代表のLa Newベアーズとの決勝戦に先発。7回10奪三振無失点の好投で勝ち投手となり、シリーズMVPを受賞[17]。44年ぶり2度目の日本一、アジアシリーズ制覇に貢献した。契約更改では4200万円増となる推定年俸7200万円プラス出来高払いでサインした

  2007年、 初の開幕投手を務めた。7月20日にオールスターゲーム に初出場、初先発を果たした。8月9日、札幌ドームで行われた東北楽天ゴールデンイーグルス戦に先発して、4-2で勝ち投手となったダルビッシュは「狙っていた」という試合後のヒーローインタビューで、サエコとのできちゃった結婚を報告した。
  シーズン成績は15勝5敗、防御率1.82、完投数は12球団トップの12だった。シーズン終盤には成瀬善久千葉ロッテマリーンズ)と防御率争いを繰り広げ、0.003点差で最優秀防御率は逃したが、今中慎二以来14年ぶりに全7項目の選考基準を満たして沢村賞に選出されたほか、最多奪三振ゴールデングラブ賞ベストナインのタイトルを獲得。チームのリーグ連覇に大きく貢献し、パ・リーグシーズンMVPに選出。21歳でのMVPは沢村栄治稲尾和久の20歳に次ぐ年少記録となった。北京オリンピック野球日本代表監督の星野仙一からは、代表のエースにも指名された。
  クライマックスシリーズ2ndステージでは第1戦に先発登板し、9回2失点で勝ち投手となる。2勝2敗で迎えた第5戦クライマックシリーズ最終戦でも成瀬相手に勝利し、日本シリーズ進出を果たした。2勝を挙げて日本シリーズ進出の原動力となったダルビッシュはクライマックスシリーズ第2ステージMVP賞を受賞した。2年連続で中日と対決した日本シリーズでは、第1戦で先発し1失点13奪三振で完投、川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった。1勝3敗で迎えた第5戦で再び先発し7回を1失点11奪三振で抑えるが、味方打線が山井大介岩瀬仁紀のリレーの前に1人の走者も出すことができず(完全試合=継投による達成のため参考記録)敗戦投手となり、中日の日本一を許したが、この好投が評価されシリーズ敢闘選手賞を受賞した。
  契約更改では1億2800万円増となる推定年俸2億円プラス出来高払いで一発サインした。プロ4年目の2億円到達は5年目で到達の和田毅らを抜いて最速であり、史上最年少の2億円プレーヤーとなった。月刊女性ファッション誌『GLAMOROUS』同年8月号では初めてヌード写真を披露し、次いで女性誌『an・an』8月号でも、紙とグラビアに登場しフルヌード写真を披露している。
  2008年3月20日、2年連続で開幕投手を務め、ロッテを相手に1-0での完封勝利を挙げる。開幕戦で1-0で完封勝利した上に、2桁奪三振(10奪三振)を奪ったのは史上初の快挙となった。前年以上のペースで白星を積み重ね、シーズン前半から勝利数、防御率で楽天の岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた。シーズン唯一の直接の投げ合いとなった4月10日には、両者ともに5回までノーヒットピッチングで、岩隈が100球で被安打3の1失点完投、ダルビッシュが95球で被安打3の完封という投手戦の末に勝利を収めている。7月17日、東京ドームで行われた対楽天戦では89球10奪三振無四球完投で11勝目を挙げた。前半戦最後の登板となった7月24日の対ロッテ戦では165球の完投も、満塁本塁打を打たれるなど5失点を喫して負け投手となった。
  シーズン途中の8月に開催された北京オリンピック野球日本代表に選出された。予選リーグでは初戦となるキューバ戦に先発登板し、4回0/3を投げて4失点で敗戦投手になる。試合後は長髪をバッサリと切って、丸刈りにして球場に現れた。「おれもやるからお前もやれ」と半ば強要されて田中将大も丸刈りにし、田中は「僕は道連れにされました」とコメントしている。ダルビッシュの頭をバリカンで刈ったのは川﨑宗則であり、この翌日には2人に続いて川崎や阿部慎之助も丸刈りとなって球場に現れた。北京オリンピックでは計3試合に登板し0勝1敗、防御率5.14と結果を出せなかった。

  チームに復帰後は5試合に先発して2完投を含む5勝0敗、防御率1.29という投球を見せ、ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった。クライマックスシリーズでは2試合に登板し、1失点14奪三振完投と3安打完封で2勝、防御率0.50を記録した。この年は主要タイトルこそ獲得できなかったが、防御率・勝利数・奪三振の全てでリーグ2位、五輪での離脱期間があったにもかかわらず投球回と奪三振は2年連続で200を超え、防御率は2年連続の1点台を記録した。沢村賞の選考基準も2年連続で全項目達成したが、21勝という数字を評価された岩隈の単独選出となり、2年連続での選出はならなかった。基準を全項目達成して沢村賞を獲得できなかったのは基準ができた1982年の江川卓以来2人目となった(ただし、1982年は沢村賞を受賞した北別府学も基準を全項目達成しているのに対し、岩隈は完投数が選考基準に達していなかった)。勝ち星(ダルビッシュ16、岩隈21)、勝率(ダルビッシュ.800、岩隈.840)、防御率(ダルビッシュ1.88、岩隈1.87)、投球回数(ダルビッシュ200回2/3、岩隈201回2/3)、登板数(ダルビッシュ25、岩隈28)は岩隈が上だったが、奪三振(ダルビッシュ208、岩隈159)、完投(ダルビッシュ10、岩隈5)はダルビッシュの方が上だった。
  クライマックスシリーズでは1stステージ(対オリックス・バファローズ戦)第1戦に先発し、9回14奪三振1失点で完投勝ちした。この大一番でレギュラーシーズン後半は控えていたフォークボール、ツーシームを解禁し、速球は最速153km/hを計測。また、この試合で奪った14奪三振は日本シリーズを含むポストシーズン史上最多となった。負ければ西武に王手がかかるクライマックスシリーズ2ndステージ第2戦に先発。右打者が多い西武打線の内角をえぐるツーシームを多投し、この年打撃が強力だったライオンズ打線を3安打完封した。被安打3はポストシーズン史上最少を記録した。
  12月1日、契約更改に臨み、7000万円増となる推定年俸2億7000万円プラス出来高払いで一発サインした。プロ5年目としては球界史上最高額となった。19日(日本時間20日)にはサエコとハワイホノルル市内の教会で挙式を行った。挙式には、父・ファルサ、同年3月に誕生した長男ら家族のほか、藤井秀悟川﨑宗則西岡剛青木宣親にV旅行中の西武・涌井秀章中島裕之らが参列して祝福した。
  2009年はシーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック (WBC) の日本代表に選出された。同大会では松坂大輔、岩隈とともに先発3本柱として代表監督の原辰徳から指名される。3月5日、日本代表の初戦である中国戦に先発投手として出場し、4回を無安打無失点に抑え勝利投手となる。また、3月18日の対韓国戦でも先発投手として出場するも、この試合では初回に失策も絡み3失点を喫し、5回7奪三振3失点(自責点2)で敗戦投手となる。3月23日の準決勝、3月24日の決勝では先発を松坂、岩隈が務め、ダルビッシュはいずれの試合も抑え投手として出場し、決勝では勝利投手となった。この試合では球速100mph(約161km/h)を計時し、現地の放送では108mph(約174km/h)も計時されたが、こちらは球場内の電光掲示板では表示されず誤計測と見られた。大会通算で13回を投げ、2勝1敗、防御率2.08、大会最多の20奪三振の記録を残し、マニー・ラミレスケン・グリフィー・ジュニアらといったMLBの強打者からの賞賛も受けた。
  シーズンでは3年連続開幕投手として岩隈と投げ合ったが、初回にいきなり3点を献上し、9回3失点で自身初の開幕敗戦投手となると共に、岩隈との対戦で初の黒星を喫した。4月24日のオリックス戦では苦手と言われ続けた屋外球場でプロ初完封。その後の試合でも安定したピッチングを続け、5月は4勝0敗、防御率0.90の活躍でパ・リーグ投手部門月間MVPを受賞した。交流戦では12球団で投手3部門で1位で日本生命賞を受賞。7月15日のソフトバンク戦(福岡ヤフードーム)の完投勝利後ヒーローインタビューでは第二子を授かったことを公表した。その後も好成績を持続し、7月22日、前半戦最終登板の対ロッテ戦を9回2安打1失点で勝ち投手となり、自身通算60勝目とした。通算107試合目での60勝到達は2リーグ制後、高卒の選手としては松坂の111試合をしのぐ最速記録であった。シーズン前半戦を12勝3敗、防御率1.31、122奪三振の好成績で折り返し、この年のオールスターゲームでもファン投票・選手間投票ともに1位選出となる。7月24日のオールスター第1戦に中1日で先発登板したが、アレックス・ラミレスの投手強襲打が右肩を直撃し、1回を投げ終えて緊急降板した。以降は防御率2.80と調子を崩し、8月21日の対ソフトバンク戦では自己ワーストの6失点(8回)で黒星を喫した。打球が肩に当たってから、試合後半に球威が落ち、失点する場面が目立ち、内出血が引いた後も肉離れのような硬さがあり、肩の張りが出やすい状態であったため、翌日の8月22日に右肩の違和感を訴えた2006年6月以来になる故障による登録抹消となった。9月13日に一時復帰し、対ロッテ戦に先発して8回1失点で15勝目を挙げるも、本来の球速は影をひそめ、その次の9月20日の対オリックス戦では7四球の乱調で5回2失点で降板となり、その後右肩と腰の違和感により再び登録を抹消され、その後は登板機会もなくシーズンを終えた。
  チームはリーグ優勝を果たし、クライマックスシリーズ2ndステージに進出して勝利を収めるが、故障は完全回復せず自身の登板はなかった。しかし、日本シリーズでは依然不調ながらも、11月1日、第2戦に先発し、読売ジャイアンツを相手に普段は多投しない100km/h台前半のスローカーブを有効に使い、6回を7奪三振2失点で切り抜け、4-2で勝利を挙げた。怪我の箇所に負担がかからぬよう、歩幅を狭めてキャッチボールのような投球フォームであったが最速149km/hを記録し、お立ち台では「一世一代の投球ができたと思います」と語った。シリーズ終了後、3年間オフも休まなかったこともあり、病院の精密検査で右手人差し指を疲労骨折していたことが判明した。痛みは登板した11月1日以前の10月28日からあったが、誰にも告げずマウンドに上がり、右手人差し指の疲労骨折と左腰、左臀部痛の中で巨人打線を抑えて勝利投手となった。
  後半戦の戦線離脱があったが、現役の先発投手で唯一となる3年連続WHIP1.00以下を記録。最優秀防御率と最高勝率を獲得し、ベストナインとMVPを受賞した。プロ入り5年以内で2度目のMVP受賞は稲尾和久イチローに次ぐ3人目の記録である。契約更改では6000万円増となる3億3000万円プラス出来高払いでサインした。1997年オフに24歳で3億円を超えたイチローを抜く史上最速&最年少での3億円プレーヤーとなった。同年7月15日には自ら培ってきた技術を日本球界に還元したいとの思いから、ベースボール・マガジン社から10種類の球種の握り方と投げ方を写真付きで自ら解説した『ダルビッシュ有の変化球バイブル』を出版した。同年、山崎まさよし槇原敬之ら男性アーティストの「泣ける歌」を集めたコンピレーション・アルバム『オトコナキ』のジャケット写真に起用された。
  2010年3月20日に4年連続4度目の開幕投手を務め、ソフトバンク戦に先発。147球13奪三振で史上5人目の4季連続開幕戦完投を果たすも、5失点(自責点3)で敗戦投手となる。この日はロッテ・成瀬善久、楽天・岩隈久志も完投負けを喫しており、開幕戦3投手の完投負けは1951年に次いでリーグ2度目。3戦目にしてようやく初勝利を挙げると、4月17日の対西武戦まで、開幕から5試合連続で2桁奪三振という日本プロ野球新記録を樹立した(13K→11K→11K→12K→10K)。4月24日の対楽天戦から5月21日の対横浜ベイスターズ戦まで31イニング連続無失点を記録し、これまでの自己最長の25イニング連続無失点記録を更新。5月は要所を抑えて防御率0.90と好投したが、打線の援護に恵まれず1勝2敗と負け越した。右膝の違和感により6月5日の先発を回避するが、6月12日の対中日戦では7回無失点の好投で5月1日以来の白星を挙げた。7月3日の対楽天戦ではこれまでの自身の国内最速154km/hを更新する155km/hを記録。続く7月17日の同楽天戦では156km/hを記録し、更に自己記録を塗り替えるが、7回3失点で負け投手となり、6月12日からの自身の連勝は5で止まった。シーズン前半戦は9勝5敗、防御率1.56、143奪三振を記録。4年連続4度目のオールスターに選出され、7月23日の第1戦に2番手で登板。ワンシーム、高速チェンジアップに続く新球を披露するなど、2回を1失点(自責点0)に抑えた。シーズン後半戦は69回を投げ、3勝3敗、防御率2.22、79奪三振を記録した。自己ワーストとなる8敗を喫したが、2008年以来となる投球回数200イニングを達成。222奪三振で最多奪三振を獲得し、1959年の稲尾和久以来となる4年連続の防御率1点台を達成し2年連続の最優秀防御率も獲得。同じイニング数を平均的な投手が投げる場合に比べてどれだけ失点を防いだかを表すRSAAでも1959年の稲尾以来プロ野球史上2人目となる4年連続40点以上を達成。オフにはアリゾナ・ダイヤモンドバックスが獲得資金として8000万ドル(約65億6000万円)を用意するなど[82]ポスティングシステムでのメジャー挑戦が取り沙汰されたが、10月19日に自身の公式ブログで日本ハム残留を宣言した。契約更改では、前年までの総額8億円プラス出来高払いの3年契約から出来高なしの単年契約を結び、現役日本人選手では球界最高年俸となる5億円でサインした。24歳での5億円到達は、1998年に当時オリックス・ブルーウェーブに在籍したイチローの25歳を抜いて史上最速&最年少での到達となり、先発投手で5億円を突破したのも史上初となった。
  2011年4月12日に球団史上最長となる5年連続開幕投手を務めたが、自己ワーストの7失点を記録。4月26日の対ソフトバンク戦で史上129人目となる通算1000奪三振を達成した。6月15日の阪神戦で3回裏二死三塁の場面で、打者の新井貴浩に投じた3球目が高く浮いて暴投となり、この間に三塁走者のマット・マートンが本塁に生還し、この失点で5月10日楽天戦から続く連続無失点記録がプロ野球歴代11位(現役選手では藤川球児に次いで2位)の46回2/3で止まり、パ・リーグ新記録の4試合連続完封も逃した。交流戦では43回1自責点で防御率歴代1位の0.21を記録。6月30日のロッテ戦で今世紀最速となる56試合目での10勝目を挙げた。シーズン前半戦は13勝2敗、防御率1.44、140奪三振を記録。ファン投票、選手間投票共に1位で、5年連続5度目のオールスターゲームに選出された。シーズン後半戦は5勝4敗、防御率1.43、136奪三振を記録。最終的には自己最高の232イニングを投げ、自己最高の防御率1.44、自己最多の18勝、シーズン250奪三振、日本プロ野球史上初の5年連続防御率1点台を記録し、RSAAでも史上初となる5年連続40点以上を達成。また6年連続で2桁勝利を挙げたが、6年連続2桁勝利の記録は現役の投手では西武の西口文也の7年連続以来の記録となる。クライマックスシリーズファーストステージでは西武と対戦。初戦に先発し、7回1失点の好投を見せて後を中継ぎに託したが、9回に抑えの武田久が同点打を打たれ、勝利投手を逃した。結果的に延長10回に勝ち越され敗戦。次の試合でも敗れCS敗退となり、CS第1戦の先発が日本最後の登板となった。この年は2008年以来3年ぶりに自身の記録を更新する3度目の沢村賞選考基準全項目達成をしたが、実際に受賞したのは同じく基準を全項目を達成した田中将大であった(沢村賞の選考基準の全項目達成しながら受賞を逃した回数が複数回となるのは史上初で、2020年シーズン終了時点でも唯一である)。勝ち星(ダルビッシュ18、田中19)、勝率(ダルビッシュ.750、田中.792)、防御率(ダルビッシュ1.44、田中1.27)、完投数(ダルビッシュ10、田中14)は田中が上、奪三振(ダルビッシュ276、田中241)、登板数(ダルビッシュ28、田中27)、投球回数(ダルビッシュ232回、田中226回1/3)はダルビッシュが上だった。オフにはポスティングシステムの行使を申請したことを自身のブログで表明。12月20日にテキサス・レンジャーズがポスティングにおいてドルベースで松坂大輔を上回る史上最高額の5170万3,411ドル(約38億7800万円)で交渉権を得たことが発表された。
レンジャーズ時代
  2012年1月18日にレンジャーズと6年5600万ドル+出来高400万ドルの総額6000万ドルで契約合意したことを発表し、背番号は日本ハム時代と同じ11に決まった。同日に妻紗栄子との離婚も発表。ダルビッシュは以前「メジャーに行くなら、野球をやめる」と公言していたが、24日の日本ハム退団会見の席で「僕は、相手打者に強い気持ちで向かっていくのが好き。その相手に試合前から『打てないよ』とか『投げないで』とかいわれ、フェアな対戦をしていないんじゃないかと思った。純粋に、すごい勝負がしたかった」とMLB移籍に至った心境の変化を語った。
  4月9日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初先発。初回に4失点を喫するなど、5回2/3を8安打、5失点、5奪三振、5四死球の内容だったが、打線の援護に恵まれメジャー初勝利を挙げる。初回4失点以上でのメジャー初登板初勝利は1910年セントルイス・カージナルスビル・スティールが達成して以来102年ぶりの記録だった。24日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹と投げ合い、8回1/3を7安打、無失点、10奪三振、2四球で最速97mph(約156km/h)も記録する投球で3勝目を挙げる。4月は5試合の登板で4勝0敗、防御率2.18の成績でリーグ月間最優秀新人を受賞。5月27日のトロント・ブルージェイズ戦では腰の張りで5回を投げて降板するも、NPB/MLB通算100勝目を挙げる。前半戦は16試合の先発で10勝5敗、防御率3.59を記録し、最終投票オールスターゲームに選出される。最終投票の直前にはTwitterでの投票が可能になり、チームメイトと共に自身のTwitterで投票を呼びかけた。オールスターゲーム前日の会見では「すごい選手ばかりなので変な感じがする。どういう形であれ、ここにいるということは、成長したなと思う」とコメント。オールスターゲーム当日の登板はなかったが、デビッド・プライスジョー・マウアーらと会話し、「僕にとって初めてのオールスターで何人かの選手といろいろな話ができて楽しかった」とコメントした。
  後半戦は最初の6試合で与四球率6.15を記録する制球難に陥り、8月2日のロサンゼルス・エンゼルス戦ではプロ入り後のキャリアワーストとなる1イニング6失点を喫するが、GM補佐のグレッグ・マダックスから指導を受けたり、デビッド・プライスの投球フォームを参考にするなどして投球フォームを改良。以降の7試合では与四球率1.77と制球が安定し、9月8日のタンパベイ・レイズ戦では奪三振の球団新人記録を更新。14日のマリナーズ戦では岩隈久志と投げ合い、7回2安打1失点の好投で15勝目を挙げ、200奪三振に到達。20日のエンゼルス戦では8回4安打1失点の好投で新人の日本人選手史上最多となる16勝目を挙げる、シーズン通算ではリーグ6位の16勝と同5位の221奪三振を記録するが、チームはレギュラーシーズン最終戦で地区優勝を逃す。ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームに先発し、6回1/3を5安打3失点の投球を見せるも、チームは敗退して自身も敗戦投手となり、ディビジョンシリーズ進出を逃した。新人王投票では3位に入る
  2013年は開幕2戦目となる4月2日のヒューストン・アストロズ戦でシーズン初先発。9回二死まで無安打、無四球、自己最多の14奪三振、最速97mph(約156km/h)を記録する快投を見せるが、27人目の打者マーウィン・ゴンザレスに111球目となる初球を中前安打され、完全試合を逃し降板。マイケル・カークマンが後続を抑えシーズン1勝目を挙げる。9回二死から完全試合を逃したのは史上11人目だった]。19日のマリナーズ戦ではNPB/MLB通算1500奪三振を達成。5月5日のボストン・レッドソックス戦では、アメリカン・リーグでは2000年のペドロ・マルティネスマイク・ムシーナ以来となるシーズン2度目の14奪三振を記録。11日のアストロズ戦では、ドワイト・グッデンに次ぐメジャー史上2番目の速さとなる37試合目での通算300奪三振に到達。5月27日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦では自己最多タイの14奪三振を記録し、日本人選手初の両リーグ最速でのシーズン100奪三振に到達。前半戦を18試合の先発で8勝4敗、防御率3.02、リーグ1位の157奪三振の成績で折り返し、選手間投票で2年連続のオールスターゲームに選出される。右僧帽筋の張りで7月10日にDL入りしたため[124]、2年連続でオールスターゲーム当日の登板はなかったが、当日はジャスティン・バーランダーらと英語で会話するなどして、「素晴らしい選手たちに囲まれながら、楽しむことができました。またぜひ戻ってきたいです」と語った。MLB通算50登板目となった8月1日のダイヤモンドバックス戦では7回を5安打、無失点、自己最多タイの14奪三振の投球で10勝目を挙げ、シーズン4度の14奪三振は球団新記録となり、3度目の無四球での14奪三振以上は1997年ロジャー・クレメンス2001年ランディ・ジョンソン以来となった。12日のアストロズ戦では8回一死までノーヒットノーランの好投で自己最多の15奪三振を奪いシーズン200奪三振に到達。30日のミネソタ・ツインズ戦で球団新記録となる月間64奪三振を記録。9月4日のオークランド・アスレチックス戦では日本人シーズン最多記録となる240奪三振に到達するが、シーズン自己ワーストの5失点で7敗目を喫する。24日のアストロズ戦でMLB移籍後初の200イニングに到達。後半戦は14試合の先発で防御率2.59を記録するが、1989年オーレル・ハーシュハイザー以来となる4度の0-1での黒星を喫するなどもあり勝敗数は5勝5敗に終わる。シーズン通算では13勝9敗、リーグ4位の防御率2.83、両リーグ最多の277奪三振を記録し、野茂英雄に次ぎ日本人史上2人目の最多奪三振を獲得。このシーズンの奪三振率11.89はメジャー歴代9位となった。チームはレイズとのワイルドカードゲーム残り1枠を争うワンゲームプレーオフに敗れポストシーズン進出を逃す。サイ・ヤング賞投票ではマックス・シャーザーに次いで、日本人史上最高位となる2位に入る。
  2014年3月30日に首の凝りで15日間の故障者リスト入りし開幕を迎える。4月6日にリストから外れ、5月9日のレッドソックス戦では7回二死まで完全試合としたが、デビッド・オルティーズの打席で初出塁を許す(打球は二塁手と右翼手の間に落ち、右翼手の失策と判定される)。その後も9回二死まで無安打無得点を続け、ノーヒッター達成まであと1人の場面で再びオルティーズが二遊間を抜く打球を打ち初安打を許す。試合は3対0でレンジャースが勝利したが、このオルティーズの安打で降板し、MLB史上3人目となる9回二死からノーヒッターを2度以上逃した投手となった(14日にMLB機構がこの試合の7回にオルティーズが失策で出塁した記録を安打に訂正し、被安打は2となった)。6月11日のマイアミ・マーリンズ戦では6安打無失点の投球でMLB初完封勝利を挙げた。前半戦を17試合の先発で8勝5敗、防御率2.97の成績で折り返し、選手間投票で3年連続のオールスターゲームに選出。オールスターゲーム当日は3回に初登板を果たし1回を無安打無失点に抑えた。7月28日のヤンキース戦で日本人選手では野茂英雄以来となるデビューから3年連続2桁勝利を達成。また、日本ハム時代の2006年からNPB/MLB通じて9年連続で2桁勝利を挙げたことになる。しかし8月13日に右肘の炎症で15日の故障者リスト入り。その後リハビリを続けていたが、MLB歴代最多のシーズン出場選手記録を更新するほど故障者が続出するなどの低迷でリーグ最下位となったチーム状況もあり、9月6日にGMのジョン・ダニエルズがシーズン残り試合で登板しないことを発表した。オフには山本聖子と交際中であることを自身のTwitterにて公表。
  2015年はスプリングトレーニングの初登板で右上腕三頭筋の張りを訴え12球で降板する。翌日の3月6日に受けたMRI検査で右肘内側側副靱帯の損傷が判明。トミー・ジョン手術を受けることを13日に発表し、17日にジェームズ・アンドリュースの執刀で手術を受けた。7月30日に山本聖子との間に男児が誕生したことを自身のツイッターで発表。
  2016年5月28日のパイレーツ戦で、2014年8月9日以来となるMLB復帰登板を果たす。8月24日のレッズ戦ではNPB/MLB通じての初本塁打を記録した。プレーオフでは10月7日の地区シリーズの第2戦に先発したが、5回5失点で敗戦投手となった。レギュラーシーズンでは17試合に先発登板。7勝5敗、防御率3.41を記録した。2017年5月13日のフィリーズ戦でMLB通算50勝目を記録。6月24日のヤンキース戦では10奪三振を記録し、日本人投手最多タイとなる通算31度目の2桁奪三振を記録した。
ドジャース時代
  2017年7月31日、マイナーリーグ所属選手3名との交換トレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍した。背番号は21。8月4日のメッツ戦で移籍後初先発登板を果たし、勝利投手となったが、ドジャースでの初登板で10奪三振を記録したのは、2002年の石井一久以来のことだった。9月8日のロッキーズ戦でMLB史上最速となる128試合目・812投球回で通算1000奪三振を達成した(従来の最速記録はケリー・ウッドの134試合・853投球回)。ドジャース加入後は9試合に登板、4勝3敗、防御率3.44、レンジャーズとの2球団合算では31試合に先発登板、10勝12敗、防御率3.86の成績で、自身3年ぶりの2桁勝利。チームは5年連続のナ・リーグ西地区優勝を果たし、ポストシーズンではアリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第3戦、シカゴ・カブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦にそれぞれ先発。ダイヤモンドバックス戦では5回0/3を2安打1失点、7奪三振の投球で自身のポストシーズン初勝利を挙げると、続くカブス戦でも6回1/3を6安打1失点に抑え勝利投手となった。チームは1988年以来29年ぶりのリーグ優勝・ワールドシリーズへの進出を果たし、ヒューストン・アストロズとのワールドシリーズでは敵地ミニッツメイド・パークでの第3戦と本拠地ドジャー・スタジアムでの第7戦にそれぞれ先発したが、第3戦では1回2/3を6安打4失点、第7戦では1回2/3を3安打5失点でそれぞれ敗戦投手となり、先発としての役割を果たすことはできなかった。同一年度のワールドシリーズで先発投手が2イニング未満で2回降板したのは、1960年のアート・ディトマーに次ぐ史上2人目の記録だった。また、防御率21.60は3イニング以上登板した投手の中でワースト2位。チームは3勝4敗でワールドシリーズ敗退に終わった。11月2日にFAとなった。
カブス時代
  2018年2月13日にシカゴ・カブスと6年1億2600万ドルで契約を結んだ。背番号は11。しかし、8試合に登板し、1勝3敗防御率4.95の成績を残した後に右肘を故障。復帰に強い意志を見せていたが加療に最低6週間を要すると診断され、2018年シーズン中の登板はなくなった
  2019年4月15日、マーリンズ・パークで行われたマイアミ・マーリンズ戦で序盤に失点したが、5回2/3、1本塁打を含む4安打2失点、8三振5四死球で同年初勝利を挙げた。ダルビッシュが白星を挙げたのは2018年5月21日以来、330日ぶりであった。前半戦は18試合登板で防御率5.01と不振。97回で111三振を奪った一方、49四球6死球と制球難に苦しんだ。しかし後半戦、低迷していた成績は同僚のクレイグ・キンブレルから伝授された新球種のナックルカーブを武器に劇的な成長を見せ、13試合登板で防御率2.76と復活。81回2/3を投げて驚異の118奪三振数を記録し、7四球5死球と与四死球は激減。8月27日の対ニューヨーク・メッツ戦(シティ・フィールド)で6回にJ.D.デービスからこの日4個目の三振を奪い、MPB/MLB通算2500奪三振(NPB1250、MLB1250)を達成。日本人投手の通算2500奪三振は史上11人目。NPB/MLB通算では、野茂英雄(3122)、石井一久(2550)に次ぐ3人目となった。また、この試合でMLB100年間で史上3人目となる月間42奪三振1四球を達成した。142者連続無四球は同年MLB最長で、通算奪三振率は11・01となり、これはレッドソックスのクリス・セール(11・08)に次ぐ歴代2位(1000投球回以上)である。9月17日の対レッズ戦で、7回6安打4失点13奪三振の好投を見せながら敗戦を喫したが、この試合で8者連続奪三振を記録、カブスではケリー・ウッドが1998年5月6日のアストロズ戦で記録した7者連続を上回る球団新記録。日本人投手では1998、2001年の野茂英雄と同年の前田健太が記録した7者連続を上回る新記録。また、同月12日のパドレス戦で14奪三振を記録しており、日本人投手の2試合連続13個以上は1995年野茂英雄が13個ずつを記録して以来24年ぶり2度目。連続2試合で27奪三振はカブスでは最多となった。前半戦は本拠地でブーイングを浴びることもあったが、後半戦は「ユーイング」が響き渡るようになり、結果でファンの反応を変えてみせた。31試合登板で6勝8敗、防御率3.98、178回1/3を投げて229奪三振、56四球という成績でシーズンを終えた。オフから以前より開設していたYouTubeチャンネルを活発に更新しはじめ、球界に物申す動画内容は日本のメディアでもしばしば取り上げられている。
  2020年新型コロナウイルスの影響で開幕が遅れ60試合制で始まり、2年連続で開幕2番手に選ばれたが、4回3失点で黒星スタートを喫するが、前年後半戦での覚醒をそのままに、前半戦では初戦後の6試合で6戦連続クオリティー・スタート(6回以上、自責3以下)で自身初の6連勝。日本人投手の勝敗なしを挟まない連続登板勝利は、野茂英雄(1995年)と石井一久(2002年)の6連勝と並びタイ記録。また、5試合以上を全て1失点以下で記録したのは日本人投手では初となった。防御率はリーグ2位の1・47と圧巻の投球で、奪三振数を与四球数で割った「K/BB」ではリーグ3位の6.50。投球回数も43.0回で3位タイ。米全国紙「USAトゥデイ」の「MLB前半戦のオールスターズ」特集でナ・リーグのベストナインに選出された。また、8月のピッチャー・オブ・ザ・マンスに選ばれた。後半戦初戦で日本人投手として初の7戦7連勝を記録。前述の野茂、石井を抜き単独最多記録となった。また、7戦7勝かつ全登板で1失点以下は、球団では1906年エド・ロイルバック以来114年ぶり。MLBでは2014年クレイトン・カーショウ(ドジャース)以来。投球回6イニング以上かつ1失点以下を開幕から40試合以内で7度以上達成は、ナ・リーグでは1985年マリオ・ソト(レッズ)以来35年ぶり、球団では1919年ヒッポ・ボーン以来101年ぶりの快挙となった。その後はやや調子を落としたが、最終登板を7回無失点で締め、リーグ単独トップとなる8勝目を記録。これにより日本人初となる最多勝のタイトルを獲得した。最終成績は、12先発で76回(リーグ3位)を投げ、8勝3敗、防御率2.01(同2位)、93奪三振(同4位)という好成績を残した。 オフにはサイ・ヤング賞投票で2位にランクインした。10月16日に日米間の友好親善と対日理解の促進や、さまざまな慈善活動を通じた社会貢献、MLBで日本人初の最多勝に輝いたことなどを評価され、在シカゴ日本国総領事館で夕食会が催され、岡田健一から表彰された。12月9日にオールMLBチームのファーストチーム先発投手の1人として初選出された。ファーストチームに日本人選手が選出されるのは初めてのことだった。
パドレス時代
  2020年12月29日にザック・デイビーズオーウェン・ケイシーレジナルド・プレシアード、イスマエル・メナ、イェイソン・サンタナとのトレードで、ビクター・カラティーニと共にサンディエゴ・パドレスへ移籍した 
  2021年4月1日のダイヤモンドバックスとの開幕戦で移籍1年目ながら開幕投手を務めた。6月21日、本拠地サンディエゴでのドジャース戦にて先発。6回に先頭のスティーブン・スーザ・ジュニアにカッターでこの日11個目の三振を奪いMLB通算1500奪三振を達成した。MLB通算197試合での到達は、ランディ・ジョンソンの206試合、1220回1/3はスティーブン・ストラスバーグの1272回1/3を上回るMLB史上最速での記録達成となった。7月4日に選手間投票で通算5度目となるオールスターゲームに選出されたが、辞退している。8月13日の登板で腰の張りを訴え降板し、8月15日に10日間の故障者リスト入りとなった。シーズン全体では防御率がキャリアワーストとなる4.22を記録した他、7連敗、10登板連続勝ち星なしに終わった。
  2022年は開幕から好調でメジャー1年目の2012年に並ぶ16勝をマーク。WHIP 0.95、与四球率1.77と安定感抜群のスタッツを記録。まさしく「仕事人」と呼べるベテランらしい投球で、チームの24年ぶりリーグ優勝決定シリーズ進出に貢献した。ポストシーズンでも好投。オフの11月16日に全米野球記者協会(BBWAA)から4位票が3、5位票が1の計7ポイントでサイ・ヤング賞8位となった。12月6日に自身のツイッターで「栗山監督に「来年のWBC出場しなさい」と言われたので出場します」とツイートし、自身3大会ぶりとなる第5回WBC日本代表に参加する意思を表明した。
  2023年2月9日、最終年の契約を置き換え新たに6年総額1億800万ドルで契約を延長した。この契約内容には全球団へのトレード拒否権が含まれているため、事実上“生涯MLB”での活躍が約束された。
選手としての特徴
  スリークォーターから平均球速94.5mph(約152.1km/h、2021年シーズン)、レギュラーシーズンでの最速99mph(約159.3km/h)のノビのある速球(フォーシーム、ツーシームワンシーム)と、数種類のスライダーカットボール(カッター)、球速の違う数種類のカーブ、数種類のフォークボールスプリッター)、まれにチェンジアップなど多彩な変化球を投げ分ける。
  速球の平均球速は2010年には146km/hだったが、同年オフに取り組んだ肉体改造により翌2011年には平均球速を149km/hまで増加させ、9回でも平均球速148km/hを下回らなくなった。MLB移籍後も肉体改造を続け球速を増加させた他、カブス時代にはジャスティン・バーランダーを参考に回転効率の向上にも着手し球速及び球質を向上させた。MLB移籍後の速球の平均球速についても最も遅かった年で2014年の148.6km/hであり、同年以外のシーズンでは全て149km/h以上を記録し、2016年以降のシーズンは全て150km/h以上を記録している。2020年シーズンはMLB先発投手のストレートの空振り率ランキングにおいて、ルイス・カスティーヨを5%以上上回って第1位の数値となる42.3%を記録した。
  NPB時代には全ての球種が平均的なNPBの投手を上回る質を持つことが示されていた。中でもスライダーはMLB移籍後には「ジョン・スモルツ以来、最高の代物」と評され、MLBの打者からは「速いスライダーは視界から消えてしまうんだ。ボールの縫い目すらよく見えないくらいだ」、「緩い方のスライダーはあれだけ遅いとスラーブのように変化しそうなもんだが、そうじゃない。フリスビーみたいじゃなくて、右打者から遠ざかるように曲がり落ちていくんだ」と言われている。MLB全球団の監督を対象にした2014年の部門別ベスト選手アンケートではアメリカン・リーグのスライダー部門1位に入っている。
  2019年からはカットボール(カッター)の投球割合を速球以上に増やしており、投球割合は同年が34.2%、2020年は40.2%を記録した。種類としては90mph台前半の速いカッターと80mph台後半の曲がりの大きいカッターを投げ分けている。バッテリーを組んだビクター・カラティーニはダルビッシュの決め球としてこのカッターを挙げている。カットボールを中心に投球することで与四球率を大幅に減少させており、2012年シーズンの与四球率は年間を通しての数値が4.19、ワーストは4月の5.19であったが、カットボール中心の投球に切り替えた9・10月は1.72に減少させ、2020年はメジャー移籍後最高の数値となる1.66を記録した。
  数種類投げ分けるカーブもメディアで多く取り上げられており、中でもスローカーブは60mph(約96km/h)を下回ることもある遅球として取り上げられた他、パワーカーブは最大41センチの落差を誇ることが取り上げられた。カブス時代に投げ始めたナックルカーブクレイグ・キンブレルから握りと投球アプローチを教わった。
  過去にはナックルボールシンカーも投げたが、2007年以降公式戦では投げていない。ルーキーイヤーの2005年はシンカーを決め球にした変化球中心のピッチングで、ストレートの球速も140km/h程度だったが、2006年からはチェンジアップ、フォークボールの精度が向上したためシンカーをほとんど投げなくなり、翌2007年には封印した。2007年からはカットボールと縦スライダーを、2008年からはスプリットフィンガー・ファストボールを習得し投げ始めた。
  他の投手が投げない新球の習得にも取り組んでおり、2010年にはバディ・カーライルに教わったワンシームを日本人投手として初めて投げ始める。同年6月19日のオリックス・バファローズ戦からは140km/h台の高速チェンジアップを投げ始めた。高速チェンジアップの利点は、直球に近い球速で曲がるため、打者が直球と見分けが付きづらいこと、通常のチェンジアップに比べて制球がしやすい点があるという。さらに同年のオールスターゲームでは打者の手元で浮き上がるカットボールを投げ、対戦した阿部慎之助は同球種を「サイドとかアンダースローのようなふわっと浮くボール」と説明した。カーブは球速の違う数種類のカーブを使い分けていたが、2011年にはカットボールの握りで投げる100km/h前後の遅いカーブを投げた。2020年にはスプリームと仮称した新変化球を考案。本人は「スプリットとツーシームの間のような球です。ブルペンでのストレートの球速は93~96マイル(149~154キロ)ぐらいなんですがこの球は92~94マイル(148~151キロ)ぐらい出ます。どれぐらい変化しているかというと4シームに比べ、約18cm落ちていて、約10cmシュートしている感じです」と解説している。
投球フォーム
  投球フォームはセットポジションからのスリークォーター。2011年にはサイドスローやワインドアップからの投球も見せた。しかし本人曰く「もともとサイドスローなため、サイドの方が球速が出る」とのこと。2016年のスプリングトレーニングではノーワインドアップの投球も見せた。
  クイックは1.3秒台と盗塁阻止の意識は薄、2011年の日本シリーズ第6戦のTBSテレビ中継でゲスト解説を担当した際には「僕は一塁から二塁への盗塁は『走りたいならどうぞ』という感じ」「走者が二塁に進んでから力を入れて投げれば良い」「警戒しすぎて打たれた方が悔いが残る」と語った。
制球力
  2008年には日本ハムでコーチを務めた白井一幸から「非常に高いレベルにあるのは確かだが、細かいコントロールは当時の松坂のほうがまだいい」と評されていた他、MLBのスカウトからは「コントロール(ストライクを投げる能力)は平均以上である一方でコマンド(狙ったスポットに投げる能力)は平均的「球数を減らす必要がある「制球を良くすれば、ティム・リンスカムと肩を並べる存在となる」「コントロールは優れている。最大の課題はコマンド。20 - 80段階で50」と評価されていた。MLBのスカウトが岩隈久志の制球力を評価した際に「コマンド(狙ったスポットに投げる能力)と球を低めに集めるコントロール(ストライクに投げる能力)はダルビッシュよりずっと上」と比較対象にされたことがあり、ダルビッシュ自身も「ストライクゾーンには投げられるけど、コマンドはもともとそれほど優れている方ではなかったし、あまり必要としていなかった。でも、こっち(MLB)ではどうしても欲しい技なので、どうやったら上達するか考えながらやっています」と語っている。
  レンジャーズ時代の2013年にノーラン・ライアンは速球系の制球力を課題に挙げている。打者を2ストライクに打ち取れる状況に追い込みながら、速球の制球ミスで仕留めるチャンスを逃す点を指摘された。
  カブス時代には投手コーチのトミー・ホットビーの助言により、「投球テンポを速くすることを辞める」ことで制球が安定したことで与四球が激減した。前述のようにカットボールの投球割合を増やしたことも与四球の減少につながり、2020年の与四球率はメジャー移籍後最高の数値となる1.66を記録した。ダルビッシュ自身も「アメリカ(MLB)に来てから、多くのコーチが出来るだけ早く投げさせようとしてきましたが、僕には上手くいかなかった。テンポを早くしようとすると自分の投球に集中できなくなって、四球が多くなってしまうんです」と語り、投球テンポの見直しにより投球間隔はMLBワーストとなる平均30秒近い数字を記録するようになったが、配球や打者考察にも余裕が生まれた。
調整法
  シャドーピッチングをしてフォームを固めることをしないなど、独自の調整法を採用している。これについて日本ハムチーフトレーナーの中垣征一郎は「体感的、もしくは体験的な時間や空間的な位置を本人のなかの感覚で細かく調整できる。内部感覚による身体運動の具現力が彼は非常に優れている」「体全体を使って最後は腕を振るということではなく、体全体から生み出される力で自然に腕が振られているという感覚を彼は持っている」と証言している。体の左右のバランスを取る目的で、利き腕ではない左腕でも60メートルほどのキャッチボールをしており、球速は130キロほどであるが変化球を投げることも出来る。また、登録上は右打であるが左打席で打撃を行うことも可能であり、実際にMLBでも安打を放っている。
その他
  フィールディングも良く、レンジャーズ移籍当初に監督を務めていたロン・ワシントンからは、バックハンド捕球からのホームへの送球を賞賛された。防御率も高く、2011年には数少ない防御率1.50以下を記録したこともある。196cmの長身に対して「手は小さく、腕も短い」と自ら語っている。190cmを超す長身ながら、50メートルを6秒フラットで走ることができるという。
  使用する用具については、かつてはナイキを使用していたが、2013年からアシックス社の製品を使用している。メジャー1年目の2012年シーズン終了後に「アシックスのスパイクの履き心地に惚れ込んだ」とされ、グローブはアシックスの『a』ではなく、ダルビッシュの『D』マークが入った特注品を使用している。養生の一つとして自家製の蜂蜜漬けと、レモンと生姜の蜂蜜漬けを飲食している
評価
  2014年3月に『週刊ベースボール』が発表した「球界200人が選ぶ歴代投手ランキング」では1位に選出されている。
  2008年から2011年まで日本ハムの監督だった梨田昌孝は「野茂阿波野などいい投手を何人も見てきたけど、あれだけ器用な投手はいないんじゃないかな」と語っている。広岡達朗は「ダルビッシュが投げているのを見ると、身体に柔軟性はあるし、身体全体をバランスよく使っているから、ボールがピューッといく。これはやっぱりプロのピッチャーだなと思うね」と述べている。
  2005年から2009年まで楽天の監督だった野村克也は危険察知能力に優れ、スピードでも勝負できる本格派であり、緩急、内外、タテヨコの出し入れを自在に操る技巧派、つまり、ダルビッシュ有は本格派であり技巧派であると評している。
  渡米した際に新労使協定が改定され、「新労使協定の海外選手に対する『新人枠』から外れる」という報道から「ダルに新人王資格なし」という飛ばし記事が出たが誤報であり、「労使協定の規定は新人王の資格に影響しない」とされた。過去に野茂英雄佐々木主浩イチローと日本で実績のある選手が新人王を取っていたことから新人王資格が盛んに議論され、ダルビッシュも有力候補だったが、同年にはマイク・トラウトがア・リーグ新人王を獲得した


大谷翔平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


大谷翔平(おおたに しょうへい、1994年7月5日 - )は、岩手県奥州市出身のプロ野球選手。右投左打。MLBのロサンゼルス・エンゼルス所属。
概要
  投手としても打者としても活躍する「二刀流(英語名:2way-player)」の選手として広く知られる
  2012年のNPBドラフト1位で北海道日本ハムファイターズから指名され、2013年の入団以降、投手と打者を両立する「二刀流」の選手として試合に出場した。2014年には11勝、10本塁打で日本プロ野球(NPB)史上初となる「2桁勝利・2桁本塁打」を達成した。2016年には、NPB史上初となる投手と指名打者の両部門でベストナインのダブル受賞に加え、リーグMVPに選出された。投手としての球速165km/hは日本人最速記録である。2017年オフにポスティングシステムメジャーリーグベースボール(MLB)ロサンゼルス・エンゼルスに移籍。2018年シーズンから投打にわたって活動し、同年は日本人史上4人目の新人王を受賞。2021年シーズンでは、2001年イチロー以来となる日本人史上2人目(アジア人史上でも2人目)のシーズンMVPシルバースラッガー賞を受賞している。
  2021年9月、タイム誌による「世界で最も影響力のある100人」 に、「アイコン(象徴)」のカテゴリーでヘンリー王子メーガン妃、女優のブリトニー・スピアーズらと共に選出された。
  2021年12月、スポーティングニュースは「スポーツ史上最高のシーズンTOP50」を発表し、エンゼルス大谷翔平の2021年シーズンを1位に選定した。
  2021年12月、AP通信の年間最優秀男性アスリート賞を受賞した。
経歴
生い立ち
  岩手県水沢市(現在の奥州市)に、社会人野球の選手だった父・大谷徹バドミントン選手の母を持つ、スポーツマンの両親の家に、三人兄弟の末っ子として生まれる(長男は社会人野球選手でトヨタ自動車東日本硬式野球部所属の大谷龍太)。
  翔平という名前は、父が地元の奥州平泉にゆかりのある源義経にちなんで、義経の戦うと飛ぶイメージから「翔」の字を用い、平泉から「平」を取って名付けられた。
リトルリーグ
  奥州市立姉体小学校3年時に水沢リトルリーグで野球を始め、全国大会に出場した。当時の捕手は、恐怖を感じるほど球が速かったと語っている。小学校5年生にして球速110km/hを岩手県営野球場で記録し、また1試合で6回17奪三振の成績を残したこともあった。奥州市立水沢南中学校時代は一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場した。大谷が少年時代に憧れた野球選手は、打者では松井秀喜投手ではダルビッシュ有だったという。
高校野球
  自身が中学3年時にセンバツ大会決勝に進出した花巻東高校のエース、菊池雄星に憧れ、同校へ進学。「日本一になる」「日本人最速となる160kmを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」ことを目標に掲げた。MLB移籍後も「僕にとって雄星さんは特別な存在」と語っている。
  大谷はこの高校での寮生活について、良い環境であり自身が大きく変わるきっかけになったと後に語っている。生活や娯楽に制限を受けたことで、何が正しいのかを考えて行動することの重要性を学んだという。親以外の指導者から教わる経験も初めてであった。監督の佐々木洋による『先入観は可能を不可能にする』(先入観を捨てることによって不可能が可能になる)という言葉を心に刻んだ。入部後は監督の佐々木洋の「まだ骨が成長段階にある1年夏迄は野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により、1年春は「4番・右翼手」で公式戦に出場。秋からエースを務め、最速147km/hを記録。

  2年春には最速151km/hを記録し、「みちのくダルビッシュ」と呼ばれ注目を集める。第93回全国高等学校野球選手権大会初戦の帝京高校戦では骨端線損傷により右翼手として先発出場するが、4回途中から登板し、田中将大駒澤大学附属苫小牧高校)に並ぶ甲子園での高校2年生最速タイ記録(当時)となる150km/hを記録。その後は治療に専念し、試合には打者限定で出場した。
  3年生になる直前、2012年3月の第84回選抜高等学校野球大会初戦の大阪桐蔭高校戦は、5回まで2安打無失点6奪三振の好投を見せ、相手エースの藤浪晋太郎から本塁打も放ったが、最終的に8回2/3を11奪三振11四死球で9失点(自責5)で敗退。
  3年生の夏、2012年度の全国高等学校野球選手権岩手大会の準決勝・一関学院高校戦ではアマチュア野球史上初となる160km/hを記録した。この試合は7回を3安打1失点13奪三振の快投でコールド勝ち。しかし決勝の盛岡大学附属高校戦では、多彩な変化球を操り15奪三振と力投するも、味方のミスや、相手チームによるファウルとの瀬戸際だった本塁打など運にも見放され5失点を喫し、高校最後の全国選手権大会出場はならなかった。

  甲子園通算成績は14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。
  9月には第25回AAA世界野球選手権大会日本代表に選出され、主に四番・指名打者として起用された。5位決定戦の対大韓民国代表戦に先発し、7回を投げ2失点、12奪三振、最速155km/hを記録するも敗戦投手となった。9月18日、プロ志望届を提出した。
  プロ野球ドラフト会議前にはNPBだけでなくMLB球団からも注目され、本人は当初「(MLBかNPBかは)五分五分」と語っていた[29]が、ロサンゼルス・ドジャーステキサス・レンジャーズボストン・レッドソックスとの面談を経て、10月21日にMLBへの挑戦を表明。会見では「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と語った。
日本ハム時代
  しかし、10月23日に北海道日本ハムファイターズGM山田正雄が大谷をドラフト会議で1位指名することを公表し、日本ハム監督の栗山英樹も「大谷君には本当に申し訳無いけれど、指名をさせていただきます」と話していた。
  10月25日に行われたドラフト会議ではファイターズが大谷を1巡目で単独指名し交渉権を獲得。指名後の会見では「びっくりしたし動揺もした。評価して頂いたのは有り難いが、アメリカでやりたいという気持ちは変わらない」と語り、指名挨拶のため日本ハムから訪問を受けた際にも面会しなかった。しかしその後、2度目の訪問で指名挨拶を受け、両親を交えた入団交渉も4度にわたって行い、3度目の入団交渉からは栗山も同席する。交渉では『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料が提示され、高校卒業後、直接アメリカへ渡った韓国の野球選手がMLBで活躍しているケースが少ない点や、過酷なマイナーリーグの現状、母国のプロリーグで実力をつけた選手の方が MLBで活躍できる確率が高い点などが説明された。更に前年までダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プランなどを提示された。結果的に大谷は12月9日に日本ハム入団を表明した。12月25日に契約金1億円+出来高払い5000万円、年俸1500万円(推定)で仮契約を結んで入団会見した。背番号は上記の通り前年までダルビッシュが着用していた「11」に決まった。会見後には札幌ドームで監督の栗山英樹と投打で1球勝負するエキシビションも行われた。
2013年
  2013年は春季キャンプで投手と野手の練習メニューを並行してこなし、2月途中から一軍に合流。オープン戦・春季教育リーグでも投手、右翼手指名打者として出場。3月21日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦のオープン戦では、投手として登板した後に打席に立ち、更に右翼手の守備に就くなど、本格的な二刀流起用を想定した采配をされる。
  投手登録のまま打者として開幕一軍入りし、2013年3月29日のシーズン開幕戦埼玉西武ライオンズ戦、西武ドーム)では8番・右翼手で先発出場。高卒外野手の開幕戦先発出場は2011年駿太以来で、球団では1959年張本勲以来54年ぶりだった。その開幕戦で2安打1打点を記録した。高卒新人が開幕戦で複数安打を記録したのは1960年矢ノ浦国満以来53年ぶり2人目であった。その後は下位打線で出場しながら二軍の試合で投手として調整していたが、4月13日のオリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)で外野守備中に右足首を捻挫し、出場選手登録を抹消された。5月4日に復帰し、5月6日の西武戦(西武ドーム)ではプロ入り後初めて一番打者として出場した。5月23日の東京ヤクルトスワローズ戦では、投手として初登板・初先発。5回2失点で勝敗はつかなかったが、新人投手の初登板では史上最速となる157km/hを記録した。6月1日の中日戦で先発投手を務め、5回3失点でプロ初勝利を挙げる。

  6月18日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)はセ・リーグ球団の主催試合で指名打者が使えないため、五番・投手で先発出場。先発投手が3番から5番の打順(クリーンナップ)を打つのは1963年梶本隆夫以来50年ぶりのことだった。投手としては4回3失点で降板したが、降板後に右翼手の守備に就き、打者としては1安打1打点を記録した。7月10日の楽天戦(クリネックススタジアム宮城)では永井怜からプロ初本塁打を打つ。高卒新人でプロ初勝利とプロ初本塁打を記録したのは1967年江夏豊以来、46年ぶりであった。しかし翌11日(楽天戦)の試合前練習中に外野をランニングしていたところ、フリー打撃の打球が右のこめかみ付近に直撃し試合を欠場した。「右頬骨不全骨折」と診断されたが、その3日後の14日(千葉ロッテマリーンズ戦)で復帰し、大谷智久から自身初の代打本塁打・本拠地初本塁打・2試合連続本塁打となる2号本塁打を打った。
  オールスターゲームにはファン投票で外野手として初選出され、第1戦では5回から投手として登板し1回2安打無失点、最速157km/hを記録する投球を見せ、降板後は左翼の守備に就いた。第2戦では高卒新人としてはオールスターゲーム史上初となる一番打者で起用され、第1打席で初安打となる二塁打を記録、続く第3戦では高卒新人としては1986年清原和博以来となるオールスターゲームでの打点を記録し、敢闘選手賞とスカイアクティブテクノロジー賞を受賞した。
  8月9日のロッテ戦では6回からプロ入り後初の救援登板を果たす。8月18日の福岡ソフトバンクホークス戦(帯広の森野球場)では五番・右翼手で先発出場し、8回からは投手を務め1回を1安打無失点に抑える。
  初年度、投手としては13試合に登板し、3勝無敗、防御率4.23を記録した。打者としては77試合に出場し、打率.238、3本塁打、20打点を記録した。
2014年
  2014年は3月30日のオリックス戦(札幌ドーム)でプロ入り初の猛打賞を記録した。4月12日の西武戦(札幌ドーム)でプロ入り初の2桁奪三振とシーズン初勝利を記録。5月13日の西武戦(函館オーシャンスタジアム)では、9回を被安打6・奪三振9の内容でプロ入り初完封勝利。6月4日の広島戦(札幌ドーム)ではパ・リーグ史上最速の球速160km/hを計測。その後も6月11日の巨人戦(札幌ドーム)、6月18日の阪神戦(甲子園、6月25日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で最速160km/hを4試合連続、他球場でも計測した。20歳となった7月5日のロッテ戦では、プロ入り初の1試合2本塁打を記録。7月9日の対楽天戦(楽天Koboスタジアム宮城)では毎回の16奪三振で1失点の完投で8勝目。1試合16奪三振は、1980年木田勇と並ぶ球団タイ記録。毎回奪三振は自身初で、球団では史上10人目(13度目)。また1968年の江夏豊の20歳2か月を更新する16奪三振以上のNPB最年少記録とした。

  オールスターゲームには前年の外野手に続き、投手として監督推薦で選出。投手と野手の両方で選出されるのは関根潤三以来2人目。7月19日の第2戦(甲子園)に先発登板し、1回裏に先頭打者の鳥谷敬への2球目でオールスターゲーム史上最速の162km/hを計測、この後、阿部慎之助への初球でも計測。公式戦を入れると、2008年のマーク・クルーン以来の史上2人目のタイ記録。1イニングを投げ、打者5人に対し3被安打1失点の内容で、全23球のうち12球で160キロ以上を記録した。試合は12対6でパ・リーグが勝利し大谷が勝利投手となるが、20歳0か月での先発勝利は池永正明の19歳1か月に次ぐオールスターゲーム年少記録となった。
  前半戦終了迄に7連勝していたが、後半戦最初の登板となった7月26日の楽天戦(コボスタ宮城)では8イニングを投げ被安打5、奪三振10、失点2の内容で勝敗はつかず、8月3日のソフトバンク戦(札幌ドーム)で日本人最速タイ記録の161km/hを計測したが、7イニングを投げ被安打9、失点2で敗戦投手となり連勝がストップ。8月26日のソフトバンク戦(福岡 ヤフオク!ドーム)で自身初の10勝目を挙げたが、同一シーズンで10勝と6本塁打を記録したのはパ・リーグ史上初。8月29日のロッテ戦(東京ドーム)で初回に自身初の2日連続となる8号本塁打を記録し、2桁勝利を挙げた投手としては1950年の藤本英雄(26勝)の7本塁打のNPB記録を更新した。9月7日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で10号本塁打を記録し、NPB史上初となる「同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打」を達成した。9月21日の楽天戦(コボスタ宮城)で登板したあと、発熱などの影響で登板機会が10月5日の楽天戦(札幌ドーム)までずれ込んだが、その試合で初回に銀次への投球が球速162km/hを計測した。NPBシーズン公式戦記録(2008年6月1日にマーク・クルーンが記録)に並ぶ自己最速記録であり、由規による日本人NPB最速記録および自身によるパ・リーグ記録を更新した。10月11日のクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(オリックス戦)の第1戦(京セラドーム)でポストシーズン初登板初先発。2回には二死満塁からの2四死球で2点を取られたが、6イニングを3失点に抑えCS初勝利を挙げた。20歳3か月の投手がCSで勝利するのは2009年の田中将大の20歳11か月を更新する史上最年少記録。

  2014年度、投手としては24試合に登板し、11勝4敗、防御率2.61を記録した。打者としては86試合に出場し、打率.274、10本塁打、31打点を記録した。
  オフには「日米野球2014」の日本代表に選出。背番号は過去に涌井秀章らが着用した「16」に決まった。第1戦では中継ぎとして登板し、1回を三者凡退に抑えた。先発となった第5戦では4回2失点7奪三振という結果だったが敗戦投手になった。12月には高卒3年目選手では松坂大輔以来史上2人目となる年俸1億円(推定)で契約を更改した。
2015年
  2015年は3月27日の楽天戦(札幌ドーム)で自身初の開幕投手を務め、5回2/3を被安打3、失点1、6奪三振に抑え勝利投手になった。5月14日の西武戦(西武ドーム)では、チームでは1979年高橋直樹以来となる完投勝利での開幕6連勝を飾った。一方で、打撃面では低調で、4月1日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)では先発の藤岡貴裕から野手では2試合目、6打席目でのプロ入り最速となる第1号本塁打を放つが、6月19日のソフトバンク戦ではプロ入り初の1試合4三振を記録した。
  オールスターには2位の牧田和久と28万票以上の大差をつけ、投手部門で選出。投手と野手の両方でオールスターゲームへファン投票選出されたのは、1953年の投手部門、1963年の外野手部門で選出された関根潤三以来52年ぶり2人目となった。オールスターには第1戦に先発し、結果は2回2安打1失点という成績だった。
  8月8日の楽天戦では自身初となるサヨナラ安打を記録した。8月18日、対ロッテ戦(QVCマリン)で9回12奪三振の完封で前年の11勝を上回る自己最多の12勝目を挙げた。

  最終的には、10月6日のパ・リーグ全日程終了時点でハーラートップの15勝、防御率2.24、勝率.750で最多勝利最優秀防御率最高勝率の投手三冠に輝いた。高卒3年目での15勝到達は、球団では2007年ダルビッシュ有以来となった。一方、野手としては年間通して低迷し、最終的に打率.202、5本塁打、17打点の成績に終わった。
  10月9日に第1回WBSCプレミア12日本代表の最終ロースター28名に選出された。チームがリーグ2位で迎えたクライマックスシリーズファーストステージ第1戦に先発したが3回途中5失点で敗戦投手となった。第3戦では1点ビハインドの8回一死一・三塁のチャンスで代打で登場するも三振を喫してしまうなど投打に精彩を欠きチームはCS敗退した。プレミア12では投手一本で専念。プレミア12開幕戦の韓国戦で先発して、6回を2安打無失点に抑える活躍を見せて勝利に貢献した。日本はグループリーグを突破して準決勝の韓国戦でも先発し、7回を1安打無失点に抑えたがチームは3-4で敗れた。この好投を評価されてプレミア12のベストナインに選出された。
  この年はその他、8月17日に日本郵便北海道支社が大谷の写真を使った切手セットを北海道内で発売すると発表した。プロ野球選手の切手は前例があるが、日本ハムの選手では初めてとなった。
2016年
  2016年も開幕投手を務めたが、打線の援護に恵まれず、先発した5試合で白星が無かった。先発6戦目となった5月1日のロッテ戦(QVCマリン)で9回を4失点で抑えてシーズン初完投初勝利を飾った。しかし、5月途中まで防御率3点台と、シーズン途中まで投手として調子が上向くまで時間を要した。一方、打撃は好調で、5月11日のオリックス戦(東京D)では東明大貴から、自身初の4試合連続の本塁打を記録した。5月29日、楽天戦(コボスタ宮城)ではパ・リーグの公式戦ながら指名打者を最初から起用せず、6番・投手として先発出場し、投手としては7回4安打1失点で3勝目を挙げ、打者としては3安打1打点の猛打賞を記録した。
  6月5日の巨人戦(東京D)でルイス・クルーズへの投球で自身の持つNPB公式戦最速記録を更新する球速163km/hを計測した。7月3日、ソフトバンク戦(ヤフオク)では自身初となる1番・投手として先発し、打者としては初球先頭打者本塁打を放ち、投手としては8回10奪三振で抑え、8勝目(4敗)を挙げる活躍をした。投手のNPBにおける1番先発は1971年外山義明以来45年ぶり史上3人目だが、先頭打者本塁打は史上初。ちなみにMLBにおいても投手の先頭打者本塁打は過去に例がない。6月は4勝0敗、奪三振41個、防御率0.29の成績で自身2度目となる月間MVPを受賞した。
  7月10日の対ロッテ戦で試合中にマメを潰して途中降板し、その影響で約2か月の間、先発投手としての登板は無かった。マツダオールスターゲームでは投手としてファン投票に選出されたが、マメの影響で投げられないことが考慮され、異例の野手として出場が許可された。7月15日、オールスター第1戦試合前のホームランダービーでは一回戦で山田哲人、決勝戦で柳田悠岐を破り、優勝を果たした。7月16日、オールスターの第2戦では5番・指名打者として先発して、自身初のオールスター本塁打を放つなどMVPを受賞する活躍を見せた。7月24日の対オリックス戦で、3年ぶりとなるリリーフ登板で1回を無失点に抑え、プロ初ホールドを記録。
  9月7日の対ロッテ戦で約2か月ぶりに先発投手に復帰すると、9月13日に対オリックス戦で、糸井嘉男への投球で自身の持つNPB公式戦最速記録(かつ日本人最速)を更新する球速164km/hを計測した。9月28日の西武戦(西武ドーム)で9回1安打15奪三振で完封勝利を挙げ、日本ハムの4年ぶりのリーグ優勝達成に貢献。この試合で10勝を挙げ、自身2度目の「同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打」を達成し、NPB史上初の「10勝、100安打、20本塁打」を達成した。規定投球回にはあと3回足りず、2年連続の最優秀防御率は逃した。

  クライマックスシリーズファイナルステージでは、第1戦に8番・投手として先発出場し2打数1安打、7回1安打6奪三振無失点で初勝利。第5戦では3番・指名打者として先発出場し9回にDH解除でリリーフ登板。自身初セーブを挙げ、4年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。同試合では自身の持つ当時のNPB最速記録(かつ日本人最速)を更新する球速165km/hを計測している。
  日本シリーズでは、第1戦(マツダスタジアム)に8番・投手として先発出場、打席では3打数2安打と結果を残すも、投球内容は2本の本塁打を打たれるなど6回3失点で敗戦投手となる。投手としてはこの1試合のみの登板となるが、打者としては第2戦に9回表に代打で出場、第3・4・5戦(札幌ドーム)では3試合とも3番・指名打者として先発出場する。特に第3戦では延長10回裏、二死二塁の場面で大瀬良大地からサヨナラ適時打を放ち、チームのシリーズ初勝利に貢献した。チームはこの勝利から3連勝となり、日本一に王手をかけた状態で第6戦を迎える。その第6戦(マツダスタジアム)では出場機会が無かったものの、ベンチ入りメンバーには入っていた。スコア4-4の同点、8回表2アウト満塁、打席に中田翔、次の打者が投手のバースで代打が予想される場面で大谷がネクストバッターズサークルで待機すると、結果的に相手投手ジャクソンは中田に対し、1球もストライクが入らず押し出し四球となる。その後大谷は打席に向かわずベンチに退くも、そのまま打席に入ったバースの適時打、レアードの満塁本塁打が飛び出し、この回だけで計6得点が入ったことにより勝敗がほぼ決まった。後に栗山はこの場面において、ジャクソンに重圧を掛ける意図があり、「大谷を起用するつもりは全く無かった」と明かしている。この試合にも勝利したチームは4勝先取となり、大谷自身初の日本一を経験した。
  10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出された。東京ドームで行われた11月13日のオランダ戦では、7回表に放った打球が右翼方向の天井に入り、ルールに従って二塁打となっている。これは2002年に記録した松井秀喜以来となる。
  11月25日、パ・リーグのベストナインが発表され、史上初の投手と指名打者のダブル受賞を果たした。本来、ベストナイン投票規定では投手部門と野手部門の重複投票は禁止されていたが、同年の大谷の活躍を考慮し9月下旬に規則変更されていた。12月22日、ホリプロとマネージメント契約を締結したことを発表。
2017年
  2017年は4月8日のオリックス戦で一塁への走塁の際に、左ハムストリングス(太もも裏)を痛め、大阪市内の病院で検査を受けた結果、左大腿二頭筋の肉離れと診断され9日に登録を抹消された。6月27日に一軍復帰出場を果たすものの、シーズンも怪我の影響で満足のいくプレーはできず、投手としてはプロ入り後ワーストタイの3勝、野手としても65試合出場、8本塁打という成績に終わっている。
  9月12日の楽天戦で通算40勝となり、史上4人目となる40勝・40本塁打を達成。最終登板となった10月4日のオリックス戦ではNPB史上66年ぶりとなる「4番・投手」で出場し、打席では4打数1安打、投球では10奪三振の完封勝利を記録。10月12日に東京都内の病院で内視鏡による「右足関節有痛性三角骨(足関節後方インピンジメント)除去術」を受けた
  11月11日にポスティングシステムを利用してMLBに挑戦することを表明した。MLBの労使協定により、プロ経歴5年で23歳の大谷はインターナショナル・ボーナス・プールでの契約対象選手となるため契約金は低額で、かつマイナー契約しか締結できない(年俸調停権を得るまではMLB最低保証年俸程度で選手を保有できる)ことから、資金力に関係なく様々な球団が大谷の獲得を目指した。交渉期間はMLB選手会からの要望により、大谷に限って通常の30日間から21日間に短縮され、その代わり交渉期間前の書類によるプレゼンテーションが許可された。11月29日に代理人を通じてMLBの全30球団に対し、「自身に対する評価」「今後の育成法」、といった内容を書き記した質問状を送付した。12月4日に書類審査の結果、移籍先候補はアメリカ西海岸沿いを中心とする7球団(シアトル・マリナーズロサンゼルス・エンゼルステキサス・レンジャーズサンフランシスコ・ジャイアンツロサンゼルス・ドジャースサンディエゴ・パドレスシカゴ・カブス)に絞ったと代理人が表明した。落選した球団には、ニューヨーク・ヤンキースボストン・レッドソックスといった名門も多く含まれており、MLBファンの間でも大きな反響を呼んだ。
エンゼルス時代
  2017年12月9日にロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表された。同日に球団側も大谷の獲得を表明し、背番号は「17」と発表された。翌10日にマイナーリーグ契約を結び、ルーキー級アリゾナリーグ・エンゼルスに配属され、本拠地のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで入団記者会見が行われた。日本ではその一部が日本テレビ系列の情報番組「シューイチ」内で生中継された。代理人はネズ・バレロ(Nez Balelo)、通訳は水原一平
2018年
  2018年2月6日、スプリングトレーニングに招待選手として参加。オープン戦では投手として2試合で先発登板、打者としても指名打者で11試合で起用されるが、防御率27.00、打率.125と投打ともに不振にあえいだ。現地の一部メディアでは「マイナー起用すべき」との声も上がった。3月28日にメジャー契約を結び、アクティブ・ロースター入りした。
  3月29日の開幕戦オークランド・アスレチックス戦で「8番・指名打者」で先発出場し、ケンドール・グレーブマンから初打席初球初安打を記録。4月1日のアスレチックス戦で初登板初勝利、4月3日、本拠地初戦のクリーブランド・インディアンス戦で指名打者として出場し、第1打席で初本塁打を放った。勝利投手が2日以内に打者として出場した試合の初回に本塁打を記録したのは、1921年ベーブ・ルース以来、実に97年ぶりの快挙である。
  4月6日のアスレチックス戦の第1打席で、3試合連続となる第3号本塁打を記録した。日本人による3試合連続本塁打は、2004年9月(2年目)と2007年7月に記録した松井秀喜以来2人目であり、1年目の4月に達成したのは日本人選手史上初。MLB史上では4人目の快挙。また、打点が公式記録となって以降で、本塁打と2打点を本拠地開幕戦から3試合続けたのは、ア・リーグでは初めてである。4月8日に本拠地初登板となったアスレチックス戦で、7回を投げ1安打12奪三振1四球の快投を見せ、開幕2勝目を挙げた。新人投手としてデビューから最初の2試合で6奪三振以上は、球団史上3人目の記録となった。また、デビュー登板から2試合のうちに12奪三振を記録したのは、ア・リーグタイ記録であり。開幕から10試合で2勝&3本塁打は1919年のジム・ショー以来99年ぶりの快挙となった。4月9日にプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを初受賞した。日本人選手の受賞は2016年8月7日のイチロー以来、2年ぶり。また、1973年にア・リーグで「Players of the Week」が作られて以降、二刀流選手としては初の選出となった。1年目の日本人選手で4月上旬の選出は最速で、23歳9か月というのも最年少記録となった。4月22日に4番・指名打者で出場したが、同一シーズンで3試合以上先発登板している選手が4番で出場したのは、MLBでは1961年のドン・ラーセン以来57年ぶり史上16度目で13人目。

  4月24日には、ヒューストン・アストロズ戦で100マイル(160.9km/h)越えの投球を連発し、5回裏にはジョシュ・レディックに対し101マイル(162.5km/h)の速球を2度に渡り投じ、過去10年で先発投手で101マイル越えの速球を投げたのは大谷が7人目。また、前年ア・リーグMVPだったホセ・アルトゥーベを3打数無安打(うち2奪三振)に封じたため、同一シーズンで「サイ・ヤング賞投手」(4日に対戦したコーリー・クルーバー)から本塁打を打ち、「MVP打者」から三振を奪ったMLB史上5人目の投手となった。4月27日のヤンキース戦で、MLB移籍後初の5番・指名打者で出場し、第1打席で第4号本塁打を放った。1か月での4本塁打、25奪三振達成は1971年9月のファーガソン・ジェンキンス以来、47年ぶり史上4人目。
  5月2日に、4月のア・リーグルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。日本人選手の選出は2012年4月のダルビッシュ有以来6年ぶり6人目。
  6月8日、右肘の内側側副靱帯を損傷し、自身初となる10日間の故障者リストに登録された。7月3日、シアトル・マリナーズ戦に6番・DHで6月4日以来、約1か月ぶりに打者として復帰した。7月23日のホワイトソックス戦(エンゼル・スタジアム)で8号ソロを放った。これまでの本塁打全てが本拠地エンゼル・スタジアムで放ったものであり、新人選手が最初の8本(最終的に9本)全てをエンゼル・スタジアムで放ったのは球団史上初となった。8月3日、敵地クリーブランド・インディアンス戦に3番・DHで先発出場し、マイク・クレビンジャーからMLB初となる第1打席に先制10号2ラン、続いて第2打席に2打席連続の第11号ソロ本塁打を放った。MLB1年目での日本人選手による2桁本塁打到達は2012年の青木宣親(10本)以来、6年ぶり7人目となった。

  9月2日、アストロズ戦で6月6日のロイヤルズ戦以来88日ぶりに投手として復帰登板した。同一シーズンで10試合以上に先発登板し、かつ10本塁打以上を記録したのは、ベーブ・ルース以来の出来事でMLB史上2人目の快挙である。
  9月5日の試合前にMRI検査の結果、大谷の右肘靱帯に新たな損傷が判明し、医師からは靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を勧められていると発表した。
  9月7日、5番・DHで出場したホワイトソックス戦でカルロス・ロドンから3試合連続の第19号勝ち越し3点本塁打を放った。城島健司(2006年)に並んでいた日本人のメジャーリーグ第1年目での本塁打記録を更新し、単独1位となった。9月10日、今シーズン2度目となる9月3-9日までのプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞した。日本人メジャーリーガーによるシーズン2度の受賞は1996年の野茂英雄以来2人目となり、1年目では史上初だった。9月15日、4番・DHで出場したマリナーズ戦の第一打席でエラスモ・ラミレスから第20号ソロ本塁打を放った。日本人選手のシーズン20本以上は松井秀喜に次いで史上2人目。
  このシーズンは打者として104試合(代打22試合)に出場し、打率.285、22本塁打、61打点、10盗塁。投手としては10試合に先発登板し4勝2敗、防御率3.31の成績を残し、MLB史上初の「10登板、20本塁打、10盗塁」を達成し、シーズンを終了した。
  10月1日、ロサンゼルス市内の病院でトミー・ジョン手術を行い、成功した。同日、9月のア・リーグのルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。4月以来2度目の受賞となり、日本人選手が同賞を複数回受賞するのは2001年のイチロー以来となった。2位のミゲル・アンドゥハーに48ポイントの大差をつけ、ア・リーグの新人王を受賞した。日本人選手の受賞は2001年のイチロー以来17年ぶり4人目となった。
2019年
  2019年は開幕からリハビリを重ね、5月7日のデトロイト・タイガース戦で打者として復帰した。6月13日のタンパベイ・レイズ戦に「3番・指名打者」で出場し、日本人初のサイクル安打を達成した。1900年以降、投手で2勝以上し、サイクル安打を放ったのは、1920年、1921年のジョージ・シスラー(5勝、サイクル安打2度)以来史上2人目、98年ぶり。6月27日のアスレチックス戦で2年連続2桁本塁打となる10号2ランを放った。日本人メジャーリーガーで入団から2年連続10本以上の本塁打を打ったのは、松井秀喜、井口資仁、城島健司、福留孝介に次いで5人目となった。9月12日、翌13日に左膝蓋骨の手術(二分膝蓋骨)を行うと発表した。全治まで8週間から12週間の予定で、残りのシーズンを欠場。106試合に出場し、打率.286(384打数110安打)、18本塁打、62打点を記録した。
2020年
  2020年から"Two-Way Player"(二刀流選手)がルール上定義され、大谷はMLB初の「二刀流」適用選手となった。"Two-Way Player"は、前年まで不可能だった「投手として故障者リスト入りし、マイナーリーグ公式戦でリハビリ登板しながら (rehab assignment) 、同時に野手としてMLB公式戦に出場する」ことが可能となり(詳細は 「ロースター (MLB)#選手区分」 を参照)、エンゼルスは開幕から大谷をDHで起用しつつ、同時にマイナーで調整登板させ、5月中旬を目処にMLBで復帰登板させるプランを発表した。しかし、COVID-19の影響でシーズン開幕が7月下旬に延期となり、二刀流での起用が開幕から可能となった。7月26日のアスレチックス戦で2018年9月2日以来693日ぶりに復帰登板を果たしたが、1回途中一死も取れず3安打、3四球、5失点で降板し、敗戦投手となった。8月2日のアストロズ戦ではこの試合最速156km/hの速球が2回途中から140km/h台に落ち、1回2/3を無安打5四球2失点(押し出し四球2)3奪三振で降板した。この登板後にMRI検査を受け、翌3日に「右屈曲回内筋群の損傷、投球再開まで4~6週間」と診断され、同年中の復帰登板は絶望的となり、投手としては上記2試合だけの出場に終わった。負傷者リスト登録はせず、同月6日からDHとして出場を続けたが、最終的に44試合で、打率.190(153打数29安打)、7本塁打、24打点の成績に終わった。オフにMLBサービスタイムが3年に達して年俸調停権を取得したが、年俸交渉は越年となった。
2021年
  2021年2月9日に年俸調停を回避して2年総額850万ドルで契約合意したことが公式発表された。シーズンでは4月4日の対ホワイトソックス戦では、MLB移籍後初となる「2番・投手」で先発出場。打者として初回に先制の2号本塁打を放った。投手としても球速163km/hを計測するなど好投したが、4回途中3失点で負傷降板し3年ぶりの勝利とはならなかった。4月9日のブルージェイズ戦で、松井秀喜の1393打席を大幅に塗り替え、日本人最速となる997打席でのMLB通算50本塁打を達成。4月21日のテキサス・レンジャーズ戦ではNPB/MLB通算100本塁打を達成した。4月24日の対アストロズ戦でMLBでは初となる左翼手の守備に就いた(交代させる野手がいなかったため急遽DHを解除して起用)。同26日のレンジャーズ戦では、5回9奪三振4失点で、3シーズンぶりに勝利投手となった。5月11日のアストロズ戦では2番・投手として7回10奪三振1失点の快投後、右翼に就いて試合終了までプレーを続けた。同17日のインディアンス戦に13号本塁打を放ち、日本人メジャーリーガー初の両リーグ本塁打王単独トップに躍り出た。6月4日、マリナーズ戦に2番投手で投打同時出場を果たすと6回を4安打2失点で4月25日以来39日ぶりのシーズン2勝目を挙げた。この試合では、MLB20試合目の登板で初の無四球を達成し、さらには10奪三振を記録した。11日に敵地で行われたダイヤモンドバックス戦では、2番・投手で、MLB移籍後初の交流戦先発登板を果たした。ナ・リーグの球場で投手が1番から4番までの打順に入るのは初となった。翌16日のアスレチックス戦ではシーズン10個目の盗塁を成功させ、2年ぶりの2桁10盗塁に到達した。
  18日、オールスターゲームのホームランダービーに出場することを表明した。日本人の出場は史上初であるのに加え、投手としてキャリアをスタートさせた選手の出場も史上初となる。

  2番・DHで先発出場した同日のタイガース戦で、第3打席に20号2点本塁打を放ち、2018年以来3年ぶりのシーズン20号本塁打に到達したチーム70試合目(打者出場65試合目)での20号到達は、松井秀喜が2007年に樹立した、チーム106試合目(打者出場93試合目)での20号到達の日本人選手最速記録を大幅に更新した。その後、第5打席にも21号ソロ本塁打を放ち、2019年以来2年ぶりの1試合2本塁打を記録した。同19日、本拠地アナハイムでのタイガース戦に2番・DHで先発出場。第2打席に2試合連発、MLB1年目の2018年に並ぶ22号本塁打を放った。同20日、本拠地でのタイガース戦に2番・DHでスタメン出場。第3打席に3試合連続の23号本塁打を放った。自身のプロ最多本塁打数を更新した。同23日、本拠地でのジャイアンツ戦に2番・投手で先発出場。これにより、ア・リーグのチームがDHを解除し、ナ・リーグのチームがDHを使用するという史上初の珍事が生じた。結果、この週(6月14日 - 20日)で7試合に出場し、打率.296(27打数8安打)、6本塁打、9打点、1盗塁を記録。投げては6回1失点、奪三振5でシーズン3勝目を挙げ、翌日の21日には2018年4月、9月に続いて、3年ぶり3度目となるア・リーグのプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞した。
  同27日、MLBオールスターゲームのファン投票の1次結果を発表し、ア・リーグ指名打者部門で196万1,511票を集めてトップ通過した。7月1日にMLBオールスターゲームファン投票の最終結果が発表され、ア・リーグ指名打者部門で全体の63%を集める圧倒的な得票率でMLBオールスターゲームに初選出された。同28日には第25号本塁打を放ち、アジア人では歴代2位であった秋信守大韓民国出身。MLB通算本塁打数では松井秀喜を上回ってアジア人歴代1位)の最多記録24を抜いた。
  6月は25試合に出場し、打率.309、13本塁打、出塁率.423、長打率.889、OPS1.312を記録し、7月2日にア・リーグ野手部門で初の月間MVPに選出された。同2日のボルチモア・オリオールズ戦で第2打席で右翼席へ29号ソロ、第3打席で左翼席へ30号2点本塁打を放ち、NPB/MLB通じて自身初となる30本塁打に両リーグ最速で到達。日本人選手としては2004年の松井秀喜が31本塁打を記録して以来、17年ぶりの快挙となった。また、オールスターゲーム前の本塁打数として2019年にマイク・トラウトが記録した28本を抜き、エンゼルスの球団新記録となった。なお、ベーブ・ルースが先発投手として1試合以上出場したシーズンで記録した最多本塁打は1919年の29本であったことから、アメリカ合衆国の記者ジャック・ベアは「二刀流選手として大谷はベーブ・ルース以上」と述べたという。

  7月4日、ニューヨーク・ポスト紙は、アメリカン・リーグの前半戦MVPに大谷を選出した。
  同4日本拠地で行なわれたオリオールズ戦に「2番・DH」で先発出場。第2打席で第31号本塁打を放ち、2004年に松井秀喜ニューヨーク・ヤンキース所属)が記録した日本人選手として最多のシーズン本塁打数「31」(アジア人としても最多)に並んだ。同4日にオールスターゲームの選手間投票などで選ばれた投手と控え野手が発表され、ファン投票選出のア・リーグDH部門に続き、同先発投手部門でも選出され、史上初めて投打二刀流で選出された。6日には、シーズン2度目となるプレイヤー・オブ・ザ・ウィーク(6月28日 - 7月4日)を受賞した。打者として6試合に出場し、打率.286、6本塁打、8打点、1盗塁、OPS1.543を記録。同6日本拠地アナハイムでのレッドソックス戦に「2番・投手」で投打同時出場。シーズン最長タイの7回、89球を投げ5安打2失点でNPB/MLB通算50勝目となる4勝目を挙げた。
  同7日には本拠地でのレッドソックス戦に「2番・DH」で出場し、3試合ぶりとなる第32号本塁打を放った。松井秀喜による日本人選手最多本塁打記録であった31本をシーズン前半戦のうちに更新し、日本人では単独最多となった(アジア人としても最多)。さらに、当時点ではMLB両リーグ内で最多の本塁打数であり、またオールスターゲーム前に32本塁打以上かつ12盗塁以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)。同4日の31本塁打達成時および同7日の32本塁打達成時には松井から大谷を絶賛し応援する内容の祝辞を贈られ、大谷は「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った。
  最終的にオールスター前に33本のホームランを放った。これはアメリカ合衆国外出身者のオールスター前のホームラン数ではサミー・ソーサドミニカ出身)に並びトップタイの記録である。同10日、米スポーツ界で目覚ましい活躍をした選手や優れたプレーなどに贈られ、スポーツ界のグラミー賞またはアカデミー賞と言われるESPY賞の「ベストMLB選手」部門に日本人選手で初めて選出された。
  7月12日、翌日に控えるオールスターゲームにアメリカンリーグ側「1番指名打者」で先発出場すると同時に先発投手としても出場することが発表された。日本人選手がオールスターゲームで先発登板するのは1995年野茂英雄ロサンゼルス・ドジャース所属)以来、26年ぶり2人目であった。同日に開催されたホームランダービーでは第1ラウンドでワシントン・ナショナルズ所属のフアン・ソトと2度の延長戦にもつれる熱戦を繰り広げるも、敗退となった。翌13日に開催されたオールスターゲームでは、1回表に先頭打者としてナショナルズのマックス・シャーザーと対決してMLBオールスターゲーム初打席に立ったが、二塁ゴロとなった。1回裏には先発投手としてMLBオールスターゲーム初登板を果たし、三者凡退に抑えた。2回裏にはホワイソックスのランス・リンが登板したため1回表限りの登板となった。打者としてはそのまま続投し、3回表に2打席目を迎えてブルワーズのコービン・バーンズと対決したが、初球を叩いて一塁ゴロとなった。5回表にレッドソックスのJ.D.マルティネスを代打に送られた。2回表にブルージェイズのマーカス・セミエンが先制点を記録し、最終的にアメリカンリーグが5-2でナショナルリーグを下したことから、大谷は勝利投手となった。このオールスターゲームで大谷が使用したハンドグローブ、スパイクシューズ、フットガードはアメリカ野球殿堂入りした。
  同18日、本拠地で開催されたマリナーズ戦、5試合ぶりに後半戦初となる34号本塁打を放った。7月19日のアスレチックス戦では「2番・投手」の投打同時出場で後半戦初登板し、6回を3安打無失点、8奪三振1四球の快投を見せるも勝敗は付かなかった。また、打っては4打数1安打で二塁打を放ち、7回からは右翼の守備に就き、8回の守備で退いた。同26日本拠地でのコロラド・ロッキーズ戦に「2番・投手」で投打二刀流出場し7回被安打5、奪三振5、失点1で1打点も記録し、MLB自己最多となる5勝目を挙げた。

  8月2日、2か月連続でアメリカンリーグの野手部門でプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞した。日本人野手の複数回受賞は史上初の快挙である。打者として23試合出場でリーグトップタイの9本塁打を放ち、投手として3試合登板し、2勝0敗、防御率1.35。20イニングを投げて17奪三振を記録した。8月14日の対ヒューストン・アストロズ戦(エンゼルス・スタジアム)には1番・DHで出場。1回裏にルイス・ガルシアから第39号本塁打を打ち、1982年のレジー・ジャクソンに並ぶ、球団タイ記録の左打者シーズン最多本塁打を記録。同18日、敵地でのタイガース戦に「1番・投手」で出場。MLBでの自己最長となる8回を投げ、被安打6、与四死球0、奪三振8、失点1(自責1)で8勝目を挙げた。打者としても8回の第4打席で4試合ぶりの40号本塁打を打ち、レジー・ジャクソンの持つ球団左打者のシーズン最多本塁打記録を更新した。8月31日には自己初のホームスチールを決める。9月3日、レンジャーズ戦で9勝目を挙げた。
  9月15日にタイム誌が「世界で最も影響力のある100人」を発表し、野球界で唯一選出された。推薦人はヤンキースのレジェンドで、MLB通算696本塁打を放ったアレックス・ロドリゲス
  同24日、3試合で11四球のアメリカンリーグ新記録を50年ぶりに更新した。また、2016年のブライス・ハーパーと並ぶMLB最多記録と並んだ。同25日、4試合で13四球のMLBのタイ記録を達成し、ベーブ・ルースと並んだ。
  10月3日、シーズン最終戦に「1番DH」で先発。第1打席で11試合ぶりとなる本塁打を放ち、この1本でシーズン100打点を達成。打者として138安打・100打点・103得点、投手として130回1/3、156奪三振という、MLB初となる投打5部門での「100」を成し遂げた。
  後半戦は打撃の調子を落としたことに加えて、一発を恐れた相手チームから勝負を避けられることも多く、本塁打王にはあと一歩及ばなかった。しかし、MLBでは自身初めて投打の二刀流として怪我なくシーズンを完走し、打者としての最終成績は打率.257、46本塁打、100打点、OPS.965、26盗塁、投手としての最終成績は9勝2敗、防御率3.18、156奪三振という飛躍のシーズンとなった。
  オフの10月22日に日本版のフォーブス30アンダー30の一人に選ばれた。11月18日には同年の二刀流での活躍が評価され、アメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に史上19人目の満票で選出された。日本出身の選手としては2001年のイチロー以来史上2度目となる。この年のエンゼルスはポストシーズン進出争いに絡めずに負け越したが、ポストシーズン進出を逃したチームからの選出は史上4人目、満票での選出は史上初となった。11月23日に自身初めてオールMLBチームのファーストチーム指名打者、そしてセカンドチーム投手に選出された。その他にもシルバースラッガー賞エドガー・マルティネス賞など数々の表彰を受けた。
2022年
  2022年はシーズン開幕前の2月1日にソニーから「MLB The Show 22」のカバーを務めることがニューヨークタイムズスクエアで発表された。前年にMVPを受賞した選手がカバーを務めるのは5人目となった。
  4月8日には米有力雑誌「TIME」米国版(4月25日、5月2日号)でMLBで2004年に86年ぶりに世界一となったレッドソックス以来となる表紙を飾った。
  5月16日アスレチックスとのダブルヘッダー2試合目に「3番・DH」で先発出場し今季7号本塁打を放った。これが日本選手最速の出場459試合目でのメジャー通算100号となった。
  6月10日にはレッドソックス戦に「2番・投手兼DH」で投打同時出場。投げては7回1失点、打っては5回に逆転の12号2ランを放ち、チームの連敗を14で止めた。エンゼルスは1988年に記録したシーズン球団ワースト記録を34年ぶりに連敗「14」に更新していた。
  7月14日アストロズ戦に「1番・投手兼DH」で先発し、6回を4安打1失点、12三振2四球で自身6連勝で今季9勝目(4敗)を挙げた。6連勝中は無失点を続け、6月10日レッドソックス戦から32イニング連続自責点ゼロを記録。2013年に岩隈久志(マリナーズ)がマークした31回2/3を抜き、日本人の最長記録とエンゼルスの連続自責点ゼロの球団新記録を樹立した。 同21日、米スポーツ界の「アカデミー賞」と言われる「ESPY賞」でNBAファイナルでMVPに輝いたカリーの他、NFLでMVP4度のアーロン・ロジャーズ、NHLで20-21年シーズンMVPのコナー・マクデビッド等を抑えて「男子最優秀アスリート」部門を日本人で初めて受賞した。野球界では過去に94年バリー・ボンズ、96年カル・リプケン、98年ケン・グリフィー・ジュニア、99年マーク・マグワイアが獲得。大谷はメジャーリーガーとして23年ぶりの受賞となった。
選手としての特徴
  投手として先発出場し降板後に野手として守備に就くケースや、野手として先発出場し途中の回から救援登板するケースもある。
投手
  オーバースローから繰り出す、平均96.7mph(約155.6km/h、2018年シーズン)・最速165km/hのフォーシーム、平均139km/hのフォークボール、鋭くブレーキのかかるスライダーを軸に、稀に平均115km/hのカーブを交える。フォークは米スカウトから高く評価されている。プロ入り後、フォークを習得。高校時代はカットボールチェンジアップも混ぜた。
  高校時代はフォームの安定やスタミナが課題とされていた。高校通算奪三振145に対し、与四死球61を記録するなど制球力にも課題がある。NPB通算奪三振は624、与四死球は223。日本ハム時代に捕手としてバッテリーを組んだ近藤健介は「リズムができてくればしっかりとコースにコントロールできるが、四球から崩れるという失点パターンに注意している」と語っている
野手
  打撃については高校時代にプロのスカウトから「高橋由伸タイプで三冠王を狙える素材」、「松井秀喜以来の長距離打者」と高い評価を受け、高校では通算56本塁打を記録。また一塁到達まで3.8秒台の俊足、ノーステップで遠投90メートルという強肩を兼ね備える。
  MLBでの平均打球速度は、リーグ平均が約88mphであるのに対して、2018年が92.9mphで全体10位、2019年92.8mphで全体9位であった。またスプリントスピードは、2018年が28.4ft/秒、2019年が28.2ft/秒と、リーグ平均の27.0ft/秒を上回っている。一方で打席数に比べて三振が突出して多く、例として2018年シーズンは367打席で102三振を記録している。これに対して2018年シーズン終了後に雑誌で「これも実力が足りないなりに、捨てた部分ではあります」「打率も出塁率も残しながら、求められているのは長打力だと思っているので」と回答をしている。MLB通算 (2018 - 2019)のOPSは.883で、このうち対右投手の値は.945、対左投手の値は.725となっており、相対的に左投手の値が低い。
  指名打者の難しさについては「極端な言い方をすると、4回代打で出場するようなもの。如何に集中しながらゲームに臨むかが一番大事だと思います」と話している。
  田淵幸一は大谷の打法を「でんでん太鼓打法」と名付けている。
二刀流に関する賛否
  大谷翔平の「二刀流」に関してOB選手・専門家がそれぞれ様々な見解を表明している。
二刀流派
  イチロー(打者派から後に二刀流容認に転向)
    2015年のインタビューにおいて「バッターをやればいいのにと思いました。すごいピッチャーはいくらでも出てきます。でも、あんなバッターはなかなか出てこない。実際にグラウンドで対戦したわけでもない距離感の中での話ですけど、彼ほどのバッターはなかなかいないと思います」「(二刀流は)ピッチャーをやって、その翌日に外野を守れるなら両方やってもいいと思います。」と述べ、MLBでは大谷レベルの投手が希少ではないことを指摘し、打者寄りの二刀流、もしくは打者に専念することを推奨していた[255]。 しかし、2021年シーズン終了後に所属事務所を通じてコメントを発表し、大谷選手の今季の活躍を称賛した。 「大谷翔平と言えば二刀流、無限の可能性、類いまれな才能の持ち主、そんなぼんやりした表現をされることが多かったように思う。比較対象がないこと自体が誰も経験したことがない境地に挑んでいるすごみであり、その物差しを自らつくらなくてはならない宿命でもある。外野からの視点だが、けがなくシーズンを通して活躍した2021年は具体的な数字で一定の答えを示した年だと思う。中心選手として長い間プレーするには1年間、全力でプレーした軸となるシーズンが不可欠だ。それが今年築けたのではないか。アスリートとしての時間は限られる。考え方はさまざまだろうが、無理はできる間にしかできない。2021年のシーズンを機に、できる限り無理をしながら翔平にしか描けない時代を築いていってほしい」。
  ・長嶋茂雄
    入団直後の大谷を見て、「バッターも良いけどやっぱり俺はピッチャーだな。とにかく彼はこれまでの日本人が持っていない物を持っている。何より体がいい。(身長も)194~5(cm)あるわけでしょう。それでいてあの身のこなしができる。あの動きを見ると、やっぱりMLBのピッチャーだなと思う」と投手派の意見を語っていたが、後に「今は(二刀流をやめろとは)言えないね、スケールが違う。二刀流のままでいい」と意見を変えている。
  ・王貞治
    将来的に投手と打者のどちらかに専念していくという見解を持ちつつも、「200勝、2000安打のどちらかなんて言わず、両方達成して名球会に来ればいい。二刀流を続けるというなら、それぐらいの意気込みでやってほしいよな」と語っている。
  ・落合博満
    「せっかく自分がやりたいと言っているのに、その芽を摘む必要がどこにあるのか。やらせてみて、結果責任は自分で取ればいい」「人のことなんだけど、気にはなるじゃないですか。見てみたい。野球をやっていた人間として、本当にこれが米国でできるのかどうかっていうのを見たいっていうのは人より多いかもしれない」と述べ、大谷本人の意志とメジャーリーグにおける二刀流の可能性に興味を持っていることを語っている。
  ・松井秀喜
    本人の意思を尊重した選択を勧めており、大谷のプロ入り1年目途中であった2013年夏の時点で「両方やっていては一流になれないという意見もあるようだが、これまでほとんどいなかったわけだから、無理だと言うこと自体がおかしいと僕は感じる。難しいのは分かるが、前例のないことをいきなり否定できない。可能なら両方続けたらいいし、いずれどちらかに決めるならそれもいいと思う。」「両方いいから両方やってみるというのは極めて単純な考え方だが、球界の常識にはなかった。常識と思われていることを突き詰めれば、中には覆ることもあるのだろう。」などと語っている。2021年に自身の持っていたシーズン日本人最多本塁打『31』を更新された際も大谷を祝福し、「シーズン32本塁打は、大谷選手のバッティングを持ってすれば、ただの通過点に過ぎないと思います。大リーグでは私も長距離打者とは呼ばれたことはありましたが、彼こそが真の長距離打者だと感じます。また、大谷選手は素晴らしいピッチャーです。大リーグの常識を変えた唯一無二の存在です。今後もファンの方々や少年たちの夢を背負い、シーズンを乗り切って欲しいと思います。私も一野球ファンとして、楽しみにしています」などと賛辞を贈った。
  ・田中将大
    2014年冬に、プロ入り2年目を終えた大谷について「ピッチャーとして今年ここまでよくなっているのは正直驚いた。すごい成長スピード」と話し、二刀流について「なかなかできることではない。納得するまでやればいい」と応援した。
  ・張本勲(投手派から後に二刀流容認に転向)
    投手としての大谷を「あの投げ方を見ると、アメリカのバッターは打てないと思う」と称賛し、「二刀流は怪我するし、世界一のピッチャーになれるかもしれないのにそのチャンスを二刀流で怪我して逃すのはもったいない。このような逸材を二刀流で怪我して失うのは球界においての大損失だ」と述べ怪我のリスクの点から二刀流を批判したが、バッティングの技術があることも認めており、「あの打ち方を見たら、代打起用くらいだったら良い」とほんの一部だけ二刀流を認めていた。かつてはこのような発言をしていたが、2021年12月5日放送のサンデーモーニングにおいて出演した際に「私はピッチャーの方がいいんじゃないかと言っていましたが、ここのところに来てバッターもすごく成長してきましたから、誰が見ても2つやらせたいと思ったんじゃないでしょうか」とコメントするなど、二刀流を容認する考えに変わってきている。
  ・バリー・ボンズ
    2021年に投打で活躍した大谷について、「本当に信じられないし、驚異的な活躍だ。これまで、私にとってイチローが日本選手のパイオニアというべき存在だった。米国だけで3000安打以上を放ち、日米合わせて4000安打以上を記録した。大谷が今年見せた投手と打者の二刀流は、本当に素晴らしいことだ。今後(大谷以外に)このような選手を見ることはできないのではないだろうか。今までこのような選手を見たことがなかった。信じられないという言葉しか出てこない」、「大谷選手は他に類を見ない存在と言えるだろう。投手としても打者としてもエリート級。彼のような選手はこれからも現れないのではないだろうか。」、と絶賛し、「もし私が監督なら、うまくいっていることを直そうとはしない。大谷選手がハッピーであることが一番大事だからだ。力を最大限に引き出してあげたいし、今の二刀流を継続させるだろう。」と二刀流に好意的な意見を述べている。
投手派
  ・野村克也
    当初は二刀流起用について「日本プロ野球界を舐めるな」といった旨の意見を持っていたが、その後の活躍を見て二刀流を続けることを勧めるようになり、「あれだけのバッティングとピッチングができるなら、大賛成。今まで誰もやったことがないことをやるというのも、魅力である。『10年に1人の逸材』と呼ばれる者はよくいるが、プロ野球80年の歴史で、あんな選手は初めてだろう」と語っていたしかし2017年4月のインタビューでは「『二兎を追うもの一兎をも得ず』にならないか」「ピッチャーは五体満足じゃなければ投げられない。全力投球は全身を使った仕事だから、どこのケガも本当はダメ。ただ、俺が監督だったら、大谷は文句なしにピッチャーで使いたいね。バッターにはいつでも転向できるけど、165キロを投げる選手なんて居ないんだから」と二刀流起用の懸念点を述べている。野村の没後、孫でエンゼルス職員の野村沙亜也は、晩年の野村が「投手でも打者でも本当に凄い野球選手なんだ」と二刀流の大谷を評価していたという回想を述べている。
  ・ダルビッシュ有
    「ナンバーワンになれる可能性があるとしたら投手なので。ナンバーワンになれる可能性を取ったほうがいい」「(二刀流は)プロ野球の人気を考えれば見ていて面白いし興味があることになると思うけど、本人がメジャーに行きたいと思った時は絶対に足を引っ張ることになる」と述べ、投手に専念することを推奨している。大谷がMVPとなる活躍を果たした2021年シーズンにおいても、パドレスの地元紙のインタビューで「彼には投手と打者の両方をやれる能力がある。それが驚異的なのは間違いないが、彼の身体のことはいつも心配している。投手としてだけでもフルシーズンを戦うのはきつい。それなのに彼は毎日DHでプレーしながら、7~8日に一度はピッチングをしている。それって身体に相当なストレスがあると思う。普通の2倍以上は感じているはず」と負担を心配するコメントをしている。
  ・高橋直樹
    「大金を出して獲得する選手に、MLBはそんなリスキーなことはさせない。各チームとも、DHは最も年俸の高いスラッガーが打つだろうし、守る場所も無い。せっかく投手として可能性があるのだから、本気でMLBを目指すなら打者は早々に諦めるべきです」とコメントした。
  ・ジョン・スモルツ
    MLB1年目のシーズンとなった2018年から「投手に専念すべき」と主張していたが、2021年の打者としての活躍を見て「僕の予想は間違っていた」と述べている。しかし以降も投手に専念することを勧めており、「世界一の投手になれるのは、投手に専念したら、という条件がつく。今でもそう思っているくらい、投手として僕は評価しているんだ」、「現時点で彼の身体能力によって再現性が高いファストボールはメジャーでも他の追随を許さないし、スプリットは間違いなく球界一だよ。もし投手に専念していたら球界を代表する変化球を3つ有している、そんな投手になるような気がしているんだ」と述べている。また、投手に専念すればジェイコブ・デグロム(2018年、2019年のサイ・ヤング賞投手)のような投手になれると述べている。
打者派
  ・清原和博
    大谷の1年目開幕後には、「大谷は開幕直後からプロの投手の球に対応できている」「とてもじゃないが高卒ルーキーの打撃ではない。あいつは本物の天才。」「ストレートで三振を奪える球を武器として身に着けているなら投手一本で行け。だが変化球で躱す投球を主体にしなければ抑えられないと感じたなら、思い切って打者一本にすることを俺は勧めたい。『一流の投手』にはなれると思うが、野茂・松坂クラスの『怪物』には及ばないと思ってもらいたい。だったら、打者に専念してほしい。」と述べ、投球スタイルに関する条件をつけての打者専念を勧めた。しかし、1年目が終わった後では、「両刀使い」「何がしたかったん、君?みたいな」と揶揄し、「160キロも出るんやからピッチャーでええんちゃうの?ピッチャーでアカンかったらバッターになればええんや」と述べている。
  ・高橋由伸
「絶対どっちかにしないといけないなら」という仮定のもとで、「僕が監督だったらバッターで毎日使いたい」「飛距離がすごい」と評価している。
  ・長谷川滋利
    二刀流にも賛成はしているものの、日本では松井秀喜に匹敵あるいはそれ以上のホームランバッターで、打者に専念したら50本以上は打てる潜在能力を秘めた選手と評している。走塁にもすぐれ、ホームランも打てる点からバリー・ボンズタイプのバッターだと述べている。
二刀流否定派
  ・江本孟紀
    二刀流という起用法に反対しているが大谷の投手、打者それぞれの能力は高く評価しており、どちらかに専念すればシーズン記録の更新は容易くしてしまうだろう。という持論を展開している。
その他
  二刀流の経験があるブルックス・キーシュニックは「MLBに来たら両方やらせてくれることは無い。両方をやっていたら色んなことが起きるからだ。例えば、自打球を足首や足のつま先に当てて骨折でもしたらどうする。特に年間に500〜2000万ドルも稼ぐ奴ならまず無理だ」と語っている。
  大学時代に二刀流選手をしていたジョン・オルルドは「おそらくプロのチームは、大谷が100マイルを投げられるなら彼を守りたがるだろう。そして、投手としてやらせたいと考えるはずだ。だって、守っていれば無理な体勢から投げなければならない時もある。そんな時に腕でも痛めたらどうするんだい」と語っている。ただ、ベストナインを2部門で受賞した2016年オフには、MLB機構が公式サイトで「伝説誕生」として大谷のダブル受賞を報じるなど、「二刀流」起用を念頭に置いて大谷に注目するMLB球団も現れていた。
  日本プロ野球名球会(名球会)の入会条件は2021年現在通算200勝・250セーブ・2000安打のいずれかだが、大谷のような二刀流を考慮していない。そのため古田敦也副理事長は「極端なことを言うと大谷君が1000安打、100勝とかしたときに名球会としては価値がないのかというと。それは規約としては半分しか満たしていないけど、すごいこと。自分の2000安打よりすごいことをやっている。そういうときに対応しないのか」と懸念を表明している。
家族
  ・父親の大谷徹は、岩手県立黒沢尻工業高等学校を卒業してから三菱重工横浜でプレーしていた元社会人野球選手。現在は金ケ崎シニアの監督。
  ・母親は、元バドミントン選手としてインターハイ国民体育大会に出場した実績を持つ。
  自身は3人兄妹の末っ子で、7歳上の実兄・大谷龍太は、かつて独立リーグの高知ファイティングドッグスに所属し、現在はトヨタ自動車東日本でプレーする社会人野球の選手。また、2歳上の姉がいる。
愛称
  アマチュア時代は大谷自身も目標としていたダルビッシュと比較される形で「みちのくのダルビッシュ」と称された。
  MLB移籍後は英語表記のShohei Ohtani(ショウヘイ・オオタニ)を短縮して「ショータニ」とファンから呼ばれていた。 その後、ショータイムSHOWTIMEもしくはSHOTIME)と言う愛称も誕生したが、当初は不評だった。しかし、その後はベストニックネーム8位に選出されるなど人気の愛称となった。
  他にも、2018年4月にMLB初本塁打を記録した際、エンゼルス専属実況のビクター・ロハスが叫んだ「Big fly, Ohtani-san!」という言葉は、日本国内のスポーツ新聞で大きな話題となった。以降ロハスは「大谷がホームランを放った時だけ」"Ohtani-san"の呼称を使っている("Big fly"は元々用いていた)。そのためロハスが実況を退いてからも大谷が試合で活躍した際などにはTwitterで「オオタニサン」がトレンド入りするなど愛称の一つとして親しまれている。
野球に対する信念
世界への挑戦
  ・高校時代には野手としても高い評価を受けていたが、本人は投手に対する拘りが強く、「世界一の投手」を目標に掲げていた。「誰もやったことが無いようなことをやりたい。野茂英雄さんもそうですし、成功すれば高校からメジャーへという道も拓けると思う。160km/hの目標を掲げた時には『無理じゃないか』という声もあったが、そう言われると、絶対やってやるという気持ちになる。刺激というか、やる気になる」という考えを持った。
  ・高校3年時にはNPBを経ずに直接MLB球団との契約を目指す意向があることを明かし、「日本を選択した場合でも、肉体的ピークだという25歳でメジャーに挑戦していたい」日本人投手として最初のアメリカ野球殿堂入りを果たしたい。メジャーで殿堂入りするためにはメジャーで最低15年はやらないといけないという話なので、30歳近くになってからメジャーに挑戦するのは遅いと思う」「マイナーリーグから這い上がってメジャーに行くことも魅力」と話していた。
  日本ハム入団を表明した後も「やっぱり最終的にはメジャーリーグに行ってみたいと思いますし、自分の憧れている場所」と述べた。アメリカで生活していく覚悟に ついても「その気持ちはあります」と話し、日米の文化言語、野球の違いについては「合うかどうかというより慣れだと思っています。そういう意味も含めて、若いうちに慣れた方がいいと思うんです。だから不安はありません」と話した。なお大谷の二刀流でのプレイについては、前述の活躍も相容まって有識者は高く評価し賛成している。
練習への意志
  ・野球を毎日続けることは楽しいが、練習に関しては好きなわけではなく、上達するための義務として行っていた。渡米後の2019年には「本当は練習したくないんです。(中略)毎日、ゲームだけして、試合に行ったら打てるというなら、それでいいじゃないですか。(中略)僕はやらないと打てないので、練習、やりますけどね(笑)」と語っている。この信念は、花巻東高校での寮生活によって培われたという。
用具
  ・使用する用具はアドバイザリースタッフ契約を結んでいるアシックス社が製造するものを使用し、毎年12月には大谷とアシックスの用具開発担当者が顔を合わせて用具についてヒアリングを行っているグローブには験担ぎでウェブに揚羽蝶をあしらったり刻印を施している。
交友関係
日本ハムチームメイトとの親交
  日本ハム時代にチームメイトだった上沢直之は大谷がエンゼルスに入団するにあたって、札幌ドームで行われた公開記者会見のビデオメッセージで、「野球では何も教えることはできなかったですけど、僕はギャグというか、しゃべりを教えることができたと思います。この前のエンゼルスの(入団)会見で『トラウトの27番が欲しかったけれど、17番にしました』というセリフを聞いて、このジョークを言えたのは僕のおかげだなと思いました。」と語り、両者の仲の良さを伺わせた。
  同じくチームメイトだった鍵谷陽平は「投手と野手をやっているので全員に隔てなく接して話すことができている。誰とでも気さくに話すし、言いたいこともしっかり言える性格。皆んなから親しまれている」と話している。
エンゼルスチームメイトとの親交
  ・ンゼルスのチームメイトで大谷と同い年のデビッド・フレッチャーとは、試合の直前にビデオゲーム大乱闘スマッシュブラザーズ』や『マリオカート』をクラブハウスで長時間遊んでいたことが報じられている。
  その直後の試合では、大谷はMLB移籍後では初となる2打席連続本塁打を放ち、4安打2本塁打3打点1盗塁という大活躍を記録した。フレッチャーも適時二塁打を放った。同試合でエンゼルスはインディアンスに勝利し、インディアンスの本拠地プログレッシブ・フィールドでの10連敗記録を止めた。
  ・同じくブレイク・パーカーマイク・トラウトなどとはスマホゲームクラッシュ・ロワイヤル』をともに遊び、大谷はプロ野球選手が10人以上所属するクラン(同ゲーム内でのチーム)を率いていたという。パーカーにとって同ゲームは大谷との共通の趣味であり、「負けず嫌い、楽しむのが好き、若くて元気でよく笑う、そういった(大谷)翔平をゲームを通して知るのはとても楽しかった」と語っていた。
  ・また、親しい選手たちや通訳者水原一平たちと、アーバインの自宅でプレイステーションシューティングゲームを遊ぶことも趣味としていた。
  ・チームメイトのホセ・イグレシアスは「僕は(大谷)翔平が大好きだ。人として素晴らしい。だから彼が何か素晴らしいことをやる時は、自分のことのように祝福する」と語り、大谷と食事へ出かける仲だという。
  ・イグレシアスはキューバ出身で母語はスペイン語だが、大谷とは英語で会話するほか、多少のスペイン語や日本語でも会話している。
  ・大谷はイグレシアスとコンピュータゲームを通して交流しようとしたものの、イグレシアスは遊び方がわからないため、イグレシアスは大谷へポーカーを教えた。
水原一平との親交
  ・通訳者の水原一平とは日本ハム時代から親交があり、渡米後は大谷の専属通訳として公私ともに支えられた。
  ・大谷は米国での自動車運転免許を持たないため水原が運転手を務め、キャッチボールを行うなどした。水原の支援なしでは活躍できなかったと大谷は2018年に語っている。
  ・大谷が2020年2月に同免許を取得した後も、大谷が運転する際には水原が助手席に同乗して監督した。 2018年には1月から11月14日時点まで水原と毎日顔を合わせており、オールスターゲーム期の休暇にはユニバーサル・スタジオ・ハリウッドへ同行した。
  ・同年に水原が結婚したことを大谷は祝福し、水原と妻のために新婚旅行のチケットを贈った。
  ・2018年から2019年春にかけて大谷が故障からのリハビリテーションおよび復帰のための調整を行っていた期間には、水原は大谷と冗談を言い合ったり、クラッシュ・ロワイヤルなどのビデオゲームを一緒に遊ぶなどしてリラックスさせた。
  ・クラブハウス管理人のエンゼルは「(水原)一平が(大谷)翔平をすごく助けてくれている。だから精神的にも良い状態だったと思う」と語ったという。
  ・2021年のオールスターゲームに大谷が出場した際には、前日の「レッドカーペットショー」(出場選手たちが着飾って行進するイベント。家族と同伴することが通例であり、独身選手の場合は恋人と同伴することもある)へと独身の大谷が誰とともに登場するのか注目されたが、水原とともに歩いた。さらに同日に大谷が参加したホームランダービーでは水原が捕手を務めた。
私生活・趣味
  ・血液型B型
  ・高校時代の好きな教科は歴史で、「特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。革命維新というものに惹かれるんです」と語っている。
  ・日本ハム時代には外出をほとんどせず、「二刀流をやろうとしていることを考えたら、我慢しなくてはいけないことが一杯ある」という方針から外出する際は監督の栗山英樹に許可を得なければならなかったが、本人は「制限されてもされなくても変わらないと思う。何したいとか特に無いですし、いいのかなと思います」と話している。
  ・収入のうち自由に使う金額は日本ハム時代から2018年時点にわたって両親からお小遣いとして渡される10万円のみで、それもほとんど使わずに貯蓄していたという。
  ・「無趣味」とも2013年時点で公言しており、強いて挙げた趣味は読書DVD鑑賞であった。読書については「その時にもよりますけど、読める時は1日で一気にいっちゃいますし、移動の際とか、時間があって。眠くない時に読んでいます」と話し、漫画では井上雄彦の『リアル』や『スラムダンク』、寺嶋裕二の『ダイヤのA』などを読んだことがあると語っている。
  ・恋愛には2013年時点であまり関心がなく、兄の結婚式に出席したのち自身の恋人について質問された際に「興味はないですね」と答えた。
  ・自動車へのこだわりは2013年時点では無く、日本国内では2020年時点で一度も自動車を運転したことがなかった。
  ・渡米後も2018年時点で自宅から球場までの通勤手段は球団から貸与されたレンタカーであり、車種は大谷の希望に基づいてヒュンダイ・ソナタ(日本円で200万円ほどの大衆車)であった。大谷は運転免許を持たなかったため通訳者の水原が運転した。
  ・その後、2020年に米国での運転免許を取得したのち、初めての愛車として電気自動車であるテスラ・モデルXの特注品を購入したことが2021年7月に
明かされた
  ・テスラ社の取締役である水野弘道が発表して「Good choice, Shohei(いい選択だ、翔平)」と賛辞を送り、同社の創設者であるイーロン・マスクも好意的に反応した。
  ・コンピュータゲームの『大乱闘スマッシュブラザーズ』や『マリオカート』、シューティングゲーム、また『クラッシュ・ロワイヤル』を上述のように愛好している。特にクラッシュ・ロワイヤルは日本ハム時代からエンゼルス時代にわたってチームメイトや通訳者とともに遊んでいた。
食事
  ・好物はクレープ。ファイターズ時代にはコンビニエンスストアで生チョコクレープをよく購入していた。本人は洋菓子が大好物と語っているが、栄養管理のため比較的分の少ない和菓子を食べるようにしているという。渡米後もこしあんクレープを好んでいた。
  ・2015年4月にザバスとアドバイザリー契約を結んだ。2020年7月の報道によると、主食・主菜・野菜・果物・乳製品を揃える「栄養フルコース型」の食事で1日に4500kcalを摂取し、特にたんぱく質へのこだわりは強く、豚ヒレ肉鶏胸肉、鶏ささみ、魚介類など、脂質が少ないものを選別するという







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