イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)


テリーザ・メイ
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テリーザ・メアリー・メイ(Theresa Mary May、1956年10月1日 - )は、イギリス政治家イギリス首相(第76代)、保守党党首(第27代)。
   旧姓はブレイジャー(Brasier)。庶民院議員枢密顧問官内務大臣などを歴任した。マーガレット・サッチャーに続く、イギリスで2人目の女性
   の保守党党首かつ首相。

生い立ち
イーストボーンに生まれる[1]。公共活動派だったイングランド国教会司祭の父に影響され、12歳の時に政治家を志した[2] グラマースクール
     呼ばれる公立進学校を経て、オックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ英語版地理学を学ぶ[3]

EU離脱の是非を問う国民投票
メイは基本的には欧州懐疑派の政治家とみなされてきたが[5] 2016年6月23日に実施された英国のEU離脱の是非を問う国民投票ではEU残留に
     投票することを表明した。しかし残留のキャンペーン展開には消極的であった[6]

イギリスの首相
2016年7月13日、キャメロンの首相辞任を受けてバッキンガム宮殿に参内し、エリザベス2世女王から首相就任の承認を受け、
     第76代イギリス首相に就任した[10]
  マーガレット・サッチャーに続く女性で2人目の首相、かつ、21世紀で初めての女性のイギリス首相となる。首相就任後に首相官邸前で所信表明
     を行う[10][11]。新政権成立にあたって、主にEU離脱問題を担当する閣僚ポストとして欧州連合離脱大臣が新設され、
     デイヴィッド・マイケル・デイヴィスをそのポストに起用し、キャメロン政権で外務大臣を務めたフィリップ・ハモンド財務大臣に充て、
     ハモンドの後任外務大臣にボリス・ジョンソンロンドン市長を起用するなどの主要閣僚を発表して、正式にメイ内閣(第1次)を発足させた[12]
  2017年4月18日に下院を早期解散し、総選挙を行うことを提案した。下院の任期は満了させるとしていた過去の発言を覆した理由について、
     EU離脱にあたり強い体制が必要なためとした[13]が、最大野党の労働党の支持率低迷を受けたものとする見方もあった[14]。提案を受けて下院
     で早期解散についての採決が行われ承認された[15]
  当初各種世論調査では、保守党が支持率で他の党に対して大幅に先行していたものの徐々に労働党に詰め寄られ[16]6月8日に実施された
     総選挙では、保守党は第一党の地位は維持したものの、議席を選挙前から13減らしたため単独過半数を維持できず、ハング・パーラメント状態
     となった。しかし民主統一党の閣外協力を取りつけ[17]第2次メイ内閣を発足させた。
  2017年8月30日から9月1日にかけて来日し、安倍晋三内閣総理大臣と日英首脳会談を行い、皇居に参内し明仁天皇へ謁見した。
  2019年1月15日、ブレグジット(EU離脱)に関してEUとまとめた協定案について下院で採決が行われ、賛成202、反対432の大差で否決された[18]
     EU離脱により、英領北アイルランドアイルランド通関が復活すると、北アイルランドの民族主義者(アイルランド帰属派)との紛争が激化する
     ことを恐れた。そこでEU部分残留を可能にすることで、通関を不要にしたものだが、保守党内の強硬な離脱派などが反発し造反者が出たことが、
     大差による否決の原因だった[19]
  一方、労働党が提出した内閣不信任案も、1月16日に賛成306、反対325の19票差で否決され、メイ政権は続投することになった[20]
  5月24日、欧州連合(EU)からの離脱が行き詰まっていることを受け、辞任を表明。6月7日に辞任する見通し。


イギリス
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グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、通称の一例としてイギリス、あるいは英国は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・
     アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの
     4つの国で構成されている[1]

歴史
古代のグレートブリテン島はアルビオンと呼ばれた。ラテン語起源で、ドーバーの白い崖に由来するとされる。1066年にノルマンディー公であった
     ウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを征服し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。
     人口と経済力に勝るイングランドがウェールズとスコットランドを圧倒していった。
  13世紀、第一次バロン戦争第二次バロン戦争フランスに政治を左右された。1282年にウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれた。
     14-15世紀にわたりフランスと百年戦争を展開したが、1373年に英葡永久同盟を結んだ。
  ばら戦争を勝ち抜いたランカスター朝閨閥にバイエルン公でホラント伯のヴィルヘルム1世を迎えた。1497年、ジョン・カボットが北米海岸を発見した。
  1514年、検閲できない外国商人飛脚が設立された。1534年、国王至上法が出た。1536年及び1543年の統一法の下、スコットランドを正式に
     併合した(ウェールズ法諸法英語版)。1559年、キリスト教がイングランド国教会統一された。1562年フランスでユグノー戦争が起こってユグノー
     が移ってきた。亡命者トレンチ家はイギリスでクランカートリー伯となった[34]。1588年、アルマダの海戦でカトリック勢力を破った。1598年、
     ハンザ同盟の在ロンドン基地を閉鎖した。

  1600年イギリス東インド会社ができた。1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成した。そしてヘンリー・ハドソンやウィリアム・バフィンが
     北米探検に活躍した。1620年、ピルグリム・ファーザーズが北米に上陸し、またフランスでユグノーが反乱しだした。1628年に権利の請願がなされ、
     翌年にリシュリューがユグノーと和解した。1639-1640年、スコットランド王国に国教会を強制しようとイングランドは二度の司教戦争を挑むが
     共に敗れてしまった。そして矛先をアイルランド王国へ変えて、チャールズ1世、オリバー・クロムウェル、ウィリアム3世の3人が17世紀末まで苛め
     抜いた。ウィレム3世はルイ14世に1600年イギリス東インド会社ができた。1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成した。
     そしてヘンリー・ハドソンやウィリアム・バフィンが北米探検に活躍した。1620年、ピルグリム・ファーザーズが北米に上陸し、またフランスで
     ユグノーが反乱しだした。
  1628年に権利の請願がなされ、翌年にリシュリューがユグノーと和解した。1639-1640年、スコットランド王国に国教会を強制しようとイングランドは
     二度の司教戦争を挑むが共に敗れてしまった。そして矛先をアイルランド王国へ変えて、チャールズ1世、オリバー・クロムウェル、
     ウィリアム3世の3人が17世紀末まで苛め抜いた。ウィレム3世はルイ14世に迫害されたユグノーに支えられ、1694年イングランド銀行を設立した。
  1702年、ユグノーだったマシュー・デッカーがロンドンへ来た。1704年にジブラルタルを占領し、カトリック勢力を地中海に封じた。1707年の合同法で、
     イングランドとスコットランドは合邦しグレートブリテン王国となった。ピューリタンとユグノーが商売敵のカトリックに対し統一戦線を組み上げた
     のである。イギリス帝国の手が届く世界各地で、宗教と経済が不可分にからみあった紛争が続いた。植民地の争奪戦だけでなく、ロシア帝国
     とアメリカ合衆国で利権を工作するときも彼らは常に優位であった。繊維業における産業革命は、綿花を輸出するアメリカ合衆国へ通貨を独占的
     に供給した。迫害されたユグノーに支えられ、1694年イングランド銀行を設立した。1702年、ユグノーだったマシュー・デッカーがロンドンへ来た。
  1704年にジブラルタルを占領し、カトリック勢力を地中海に封じた。1707年の合同法で、イングランドとスコットランドは合邦しグレートブリテン王国となった。
     ピューリタンとユグノーが商売敵のカトリックに対し統一戦線を組み上げたのである。イギリス帝国の手が届く世界各地で、宗教と経済が不可分
     にからみあった紛争が続いた。植民地の争奪戦だけでなく、ロシア帝国とアメリカ合衆国で利権を工作するときも彼らは常に優位であった。
     繊維業における産業革命は、綿花を輸出するアメリカ合衆国へ通貨を独占的に供給した。
  1801年の合同法でアイルランド王国と合邦し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった[35]。しかしアイルランド共和軍は健在である。
     統一戦線としては、ジョージ4世の家柄・勲章、フリーメーソン加入、すべてが戦利品であった。フランス王が再びカトリックを強制することは
     ないだろうし、もはや神聖ローマ帝国もなくなっていた。ベルギーを独立させ、阿片戦争に勝利し、統一戦線は鉄道・通信の独占に注力した。
     しかし統一戦線は事をやりすぎる癖があった。ルイ16世には忌まわしきフォンテーヌブローの勅令を破棄させれば十分であったが、フランス革命
     がナポレオンを台頭させて神聖ローマだけでなく統一戦線まで脅かした。支援したプロイセン王国がロシアと組んでオスマン帝国を攻撃するのも
     都合がよかった。しかし普墺戦争でキール運河の利権をとられそうになったり、普仏戦争で南ドイツ連邦が水の泡となったり、オスマン債務管理局
     の利権をドイツ帝国に奪われたりして、ベルギーの統一戦線は飼い犬に手を噛まれた気持ちになった。

  「栄光ある孤立」と謳われた外交方針はエドワード7世のときに放棄された。1902年には日本とも日英同盟を締結した。彼らはドイツを第一次世界大戦
     で敵対国として敗戦後のヴァイマル共和政に対して多額の賠償金による債務奴隷にした。しかし、アメリカ合衆国に対する影響力でイギリスは
     ドイツにひけをとった。1926年にはバルフォア報告書が提出された。イギリスはラザードを支配したが、太平洋は支配できなかった。
  ウィンザー朝ジョージ5世による治世、デビッド・ロイド・ジョージ政権下の1922年英愛条約が発効され、北部6州(北アイルランド;アルスター9州
     の中の6州)を除く26州がアイルランド自由国(現アイルランド共和国)として独立し、1927年に現在の名称
     「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」へと改名した。なお、カントリーの一つであるスコットランドが独立すべきかどうかを問う住民投票
     が2014年9月に実施されたが独立は否決された[36]。1925年受託者法(Trustee Act 1925)の第61条は、裁判所に、公生かつ合理的に行動し、
     免責されるのが当然である受託者を、信託違反の責任から免除する権限を与えた[37][38]。この立法をなしたイギリス議会は、世界恐慌投資信託
     を通し大衆化した歴史にある程度の責任がある。イギリス投資信託全体の資産構成に占める下位証券の割合は、1933年で36.2%、1935年で
     42.0%、1938年で53.5%に上昇していった[39]
  1939年アドルフ・ヒトラー総統のナチ党率いるナチス・ドイツポーランドに侵攻し、フランスとともに宣戦布告を行い、バトル・オブ・ブリテンをはじめ
     ヨーロッパ戦線では対独伊戦争、太平洋戦線では対日戦争を経験し、アメリカ合衆国の民主党フランクリン・ルーズベルト大統領と大西洋憲章
     共同で提唱した保守党のウィンストン・チャーチル政権による挙国一致内閣の下に勝利を得た第二次世界大戦後、イギリス軍はドイツのハンブルク
     やハノーファーを占領し、旧西ドイツの形成の一役を担った。アメリカ合衆国は旧南ドイツ連邦とオーストリア西部を占領した。アメリカ合衆国の
     占領地域はオランダと歴史がつながっており、戦間期にまして欧州東西の資本が錯綜した。
  イギリスは、1945年冷戦開始以降にかけて政治経済その他多くの面でアメリカ合衆国に覇権を譲った。また、資本主義自由主義陣営の西側諸国
     の一国としてソビエト連邦とは敵対しながら、政治面では労働党クレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに福祉国家
     を作り上げた。経済面ではイングランド銀行がブレトンウッズ体制をめぐる駆け引きに競り負け、1960年代のポンド危機と1970年代の
     セカンダリー・バンキング危機に遭い、「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。産業面では戦前からゼネラル・エレクトリック産業革命
     威光を奪われていた。アトリー失脚後は、保守党へ政権交代となりチャーチルが首相に再任する。

  第二次大戦中イギリスは帝国内で最大規模の人口を誇るインドに対して、ヨーロッパ、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後
     インドの地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。イギリス政府は1947年にインド独立法を承認し、インドとパキスタンの独立を、翌1948年
     にはセイロン(スリランカ)の独立を承認した。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでもイギリス支配下に復することに混乱が見られ、
     1948年ビルマ(ミャンマー)の1957年マレーシアの独立を承認した。
  1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、1960年ナイジェリアが、1962年ウガンダが、
     1963年ケニアが、1964年マラウイザンビアがイギリスから独立を宣言した。又1961年南アフリカが、1966年ローデシアが 
     アパルトヘイト維持のためイギリスからの独立を宣言した。

  1956年にはエジプトスエズ運河の国有化を宣言し、同地帯を占領したためイギリス、フランス、イスラエルとの間で戦闘が勃発した。これが
     第二次中東戦争(スエズ危機)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、地中海紅海を結ぶスエズ運河の利権
     を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、1971年バーレーンカタールアラブ首長国連邦がイギリス
     から独立した。
  残る最大のイギリス植民地は香港だけになったが、これも1984年にマーガレット・サッチャー首相と鄧小平中華人民共和国中央軍事委員会主席の間
     で行われた英中首脳会談で新界の租借期限が切れる1997年に割譲地も含めて一斉に中国に返還されることになった。香港を返還したことで、
     イギリスは主要な植民地のほぼ全てを喪失することになり、世界の7つの海を跨いだイギリス帝国は消滅していった。
  1964年にはハロルド・ウィルソンが首相に就任し、アトリー以来13年ぶりに労働党が政権に復帰する。1969年イングランドウェールズ
     スコットランド1973年北アイルランドで死刑制度が一部例外を除き廃止された。また、ウィルソン労働党政権下で、妊娠中絶の合法化、
     死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化(ソドミー法の廃止)を含む社会的改革がなされ、通貨ポンドの平価切り下げや、日本の放送大学
     模倣ともなった通信制公立大学であるオープン大学の設置などの政策が実施された。
  1980年代に成立した保守党マーガレット・サッチャー政権は、新自由主義による構造改革ネオリベラリズムサッチャリズムに基づく
     民営化行政改革規制緩和)を急進させて(小さな政府志向・自由主義国家論)、多くの失業者を出した。地方経済は不振を極め、ロンドン
     を中心に金融産業などが成長した。
  1990年代、政権は保守党のジョン・メージャーから労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正しつつかつての重厚な
     福祉国家にも逆戻りしない「第三の道」への路線に進むことになった。また、1998年人権法を制定し、死刑制度が完全に廃止された。この頃から
     イギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべく「クール・ブリタニア」と呼ばれるイメージ戦略・文化政策に力が入れられる
     ようになった。
  2000年代〜2010年代、21世紀に突入し、労働党のゴードン・ブラウン、保守党のデーヴィッド・キャメロンと政権が続く。2014年からは、同性結婚
     合法化された。
  2016年6月23日イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票が実施されその結果、僅差をもって離脱賛成派が過半数を占めたため、
     イギリスの欧州連合離脱(通称:ブレグジット、Brexit)が決定された。これを受けて、キャメロン首相兼保守党党首が責任を取る形で辞任を表明し、
     テリーザ・メイが、サッチャーに続く2人目のイギリスの女性首相兼保守党党首として2016年7月13日に就任した。メイ政権は、新たに欧州連合離脱省
     を設置した。
  今後のイギリスは「ブレグジット(Brexit)」という「欧州連合(EU)からの離脱とその後の方針について」という主要課題に直面していくこととなっている。

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