民主主義と社会主義-1



2023.03.30-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230330/k10014023641000.html
バイデン大統領 民主主義サミットで結束を呼びかけ

  アメリカのバイデン大統領はおよそ120の国や地域の首脳などを招いて「民主主義サミット」を開き、中国やロシアを念頭に民主主義国家の結束を呼びかけるとともに、各国が民主的な改革を推進するためなどの費用として最大で6億9000万ドル、日本円にして900億円あまりを拠出すると発表しました。

  おととしに続いて2回目となる「民主主義サミット」は29日から2日間の日程でオンラインで開かれ、日本やヨーロッパ諸国などおよそ120の国や地域の首脳らが出席しました。中国やロシアは前回のサミットに続き、招待されていません
  演説でバイデン大統領は「民主主義国家はかつてないほど結束してロシアの残忍な戦いを非難し、民主主義を守ろうとするウクライナの国民を支援している」と述べました。そのうえで「民主主義は強くなり、専制主義は弱体化している」と述べて軍事侵攻を続けるロシアや覇権主義的な行動を強める中国を念頭に、結束して対抗していくことを呼びかけました。
  そして各国が民主的な改革を推進することなどに最大で6億9000万ドル、日本円にして900億円あまりを拠出すると発表しました
  会合ではウクライナのゼレンスキー大統領もオンラインで演説「ロシアが血塗られた手を伸ばしているのはウクライナだが、ロシアの野望はそれだけにとどまらない。民主主義はただちに勝利しなければならない」と述べて各国に支援を呼びかけました。
ロシア「アメリカは世界の教師としての役を演じたい」
  「民主主義サミット」についてロシア大統領府のペスコフ報道官は29日「アメリカは、いわゆる民主主義の問題で世界の教師としての役を演じたいのだろう。世界を1流と2流とに分断しようとする試みだ。重要なイベントとも思えない」と述べ、アメリカを批判しました。


2023.02.20-日本経済新聞-https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00023/021400366/
ウクライナ戦争が示す、新帝国主義と新民族主義の挑戦
宮家 邦彦(みやけ・くにひこ)
キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹

(1)
  再び、日経ビジネスから難題を頂いた。「ウクライナ戦争の1年を回顧し、その歴史的意義を論じた上で、2023年を展望せよ」というのだから、恐れ入る。歴史学者でもない筆者には荷が重いが、受けた以上はやるしかない。されば、43年前、エジプトでのアラビア語研修中に尊敬する大先輩から教わった「3つの同心円」手法を活用し、筆者なりの分析を進めよう。
  3つの同心円とは、ある国の国際情勢を世界レベル(global)、地域レベル(regional)、2国間(bilateral)の3つの同心円に因数分解し、それぞれの円のベクトルを分析して、全体の流れを演繹(えんえき)する手法だ。本稿では同心円の中心にウクライナを置き、(1)ウクライナとロシアの2国間関係、(2)欧州東部の地域情勢、(3)ウクライナ戦争そのものの世界史的意義をそれぞれ考えたい。
  冒頭からけんかを売るようだが、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナで戦争を始めたのは1年前ではない。ウクライナにおける「プーチンの戦争」は、マイダン革命に危機感を抱き、クリミア半島に非正規ミリシア(編集部注:武装集団)を派遣し併合した14年に遡ると見るべきだ。ウクライナ戦争は既に9年間続いており、その悪影響も地球規模で不可逆的に拡大しつつある、というのが筆者の見立てである。

緩衝地帯の崩壊が始まった
  15世紀まで欧州の辺境にすぎなかったモスクワ公国がなぜ「ロシア帝国」になり得たのか。最大の理由は、平たんな大地に囲まれ自然の要塞を欠くロシアが軍事力を使って、周辺領域を次々と「緩衝地帯」として併合できたからだ。ロシア発祥の地であるウクライナは不幸にも、18世紀までにロシア帝国に併合されながら、ロシアと兄弟的関係を維持してきた。
  この特別なウクライナをロシアは1年前、正規軍を使って公然と軍事侵略した。この行為は、14年のクリミア半島併合とは質的に異なる国際法違反の暴挙である。クリミア半島併合はグレーゾーンを主舞台とするハイブリッド戦だった。
  ウクライナは過去9年間で変わりつつある。ロシアに対する特別の感情が薄れ始め、ウクライナ人としてウクライナという国家の独立を守る意識がようやく芽生えたからだ。このことはウクライナに史上初めて、独立した「ウクライナ」民族意識が生まれたことを意味する。皮肉なことに、このウクライナ民族主義を創造したのはウクライナ人ではなく、ロシアのプーチン大統領だった。この戦争がいかに終結しようと、ウクライナ民族主義は消えないだろう。
  戦争の長期化によって、ロシア帝国を支えたかつての緩衝地帯はさらに独自性を強め、NATO(北大西洋条約機構)、EU(欧州連合)への接近・加盟を志向していくかもしれない。
独露の「草刈り場」を脱却して一時的な「安定期」へ
  続いて、東欧史を考える。ナポレオン戦争を除く欧州大陸の近代史は、基本的にドイツとロシアという2つの強力なランドパワーによる覇権争いの歴史だった。この独露覇権争いのはざまで常に貧乏くじを引いてきたのが、バルト3国からチェコ、スロバキア、ポーランド、ルーマニアなどの東欧諸国だった。広い意味ではウクライナも、今やその一部と見てよいだろう。
  例えば、ポーランドは18世紀以降、幾度となく独露を含む周辺諸国により分割され支配されてきた。第1次世界大戦後に一時独立を回復したものの、第2次世界大戦で独ソにより再び分割。戦後に独立を実現したが、ソ連の衛星国となった歴史的に見て、近代以降の東欧地域は、独露の「草刈り場」であったと言えるだろう。
  こう見てくると、ウクライナ戦争の長期化とロシアの弱体化が進むことは、東欧地域が再び「安定期」、すなわちドイツとロシアいずれの脅威も直接及ばない時代に戻ることを意味する。ただし、東欧地域が今後も長期にわたって安定するという保証はない。現在の安定はあくまで一時的なものであり、次の覇権争いが始まるまでの「幕あい」にすぎないかもしれないのだから。
(2)
政治リーダーの判断ミスはこれからも続く
  ウクライナ戦争の世界史的意義については諸説ある。米国の影響力の低下、ロシアの弱体化、中国の超大国化――。だが、今のところ筆者はいずれにもくみさない。大国の変化は概して緩慢であり、どの現象も直ちに生起するとは思えないからだ。より懸念すべきは、ウクライナ戦争勃発が第2次大戦後の「世界史の大局」を「逆流」させる可能性である。
   ウクライナ戦争により、第2次大戦後に始まった民主主義と自由経済を基盤とする国際主義の流れは、一時的にせよ停滞している。世界は、自由、民主、人権などの普遍的価値よりも民族主義、国家主義、大衆迎合主義が幅を利かす1930年代の「弱肉強食」時代に戻るのだろうか。我々は主要国の政治家が「勢い」と「偶然」と「判断ミス」による政治誤謬(ごびゅう)を繰り返す時代に回帰するのか。筆者の問題意識はここにある
   ウクライナ戦争がプーチン大統領の戦略的判断ミスによって始まったことは疑いない。問題はその錯誤が生じた理由だ。同大統領は第2次大戦後の国際主義とルールに基づく秩序に挑戦し、法の支配よりもロシア民族主義を優先した。この種の劣化した保守主義はロシアだけでなく、中国、イラン、トルコなど旧帝国国家や欧米の極右ポピュリズムにも共通するものだ。
   米国のドナルド・トランプ大統領(当時)は米軍のアフガニスタン撤退を決断。プーチン大統領は、米軍撤退に端を発するNATO内の混乱を千載一遇の機会と誤認した。中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席はロシアがウクライナを短期で占領すると確信。イランの最高指導者、アヤトラ・アリ・ハメネイ師は中国・ロシアとの連携に活路を見出した。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領はウクライナ停戦仲介努力などを通じ、漁夫の利を狙った。トランプ氏や、フランスの極右政党「国民連合」のマリーヌ・ルペン党首は自国優先のナショナリズムでそれぞれの政治的影響力拡大を狙う。今後も、政治家によるこの種の判断ミスが続くだろう。
同心円分析が示す一層の不安定化
   以上の通り、これら3つの同心円のベクトルの方向は中長期的に見れば、いずれも情勢の不安定化を示している。現在、世界では巨大なパワーシフトが起きつつあり、ロシア、中国、イラン、トルコなど旧巨大帝国が現状変更を強く志向し始めたこの新帝国主義の傾向に、冷戦時代は封印されていた各国の不健全で暴力的な民族主義が呼応し、今後、世界は不安定性と不確実性が一層増すだろう
   20世紀に超大国となった米国は現在も世界一の経済力と軍事力を保持する。だが、1990年代のような「米国独り勝ち」状態には戻れない。第2次大戦後確立したパクスアメリカーナ(米国による平和)に対する新帝国主義・新民族主義からの挑戦が世界各地で始まったからだ。最近の欧州や中東で見られる国際政治の液状化現象はこうしたパワーシフトの一側面にすぎないと筆者は考える。
   目を東アジア地域に転じると、最大のパワーシフトは中国の台頭だ。残念ながら、それは巨大かつ長期的な趨勢である。しかも、これまではそれぞれ半ば独立していた欧州、中東、東アジア(インド太平洋)の各戦域は、今やグローバルな「1つの戦域」にまとまりつつある。こうした新たな安全保障環境の中で、どうすれば日本は生き残ることができるだろうか。


2022.01.06-朝日新聞-https://www.asahi.com/articles/ASQ162G3VQ16UHBI003.html
米議会襲撃事件「民主主義への攻撃」 725人以上を逮捕・起訴

  昨年1月6日に起きた米議会襲撃事件から1年の節目を前に、ガーランド司法長官は5日に同省で演説し、これまでの捜査で725人以上を逮捕・起訴したことを明らかにした。また、「事件は民主主義に対する前例のない攻撃だった」と述べ、改めて事件を非難した。

 「トランプが駆り立てた」戦うため男性は首都へ向かったあなたの考え「陰謀論」か 議事堂侵入した男に聞いた
  ガーランド氏によると、罪状には議事堂への不法侵入や警察官への暴力行為、器物損壊などが含まれる。また、議事進行や警備の妨害を事前に計画した罪でも約40人を起訴したという。議会では当日、バイデン氏が勝利した大統領選挙の結果を最終的に認定する手続きが進められていた。ガーランド氏は「罪を犯した全ての者に責任を取らせる」と述べ、今後も捜査を続ける方針を示した。
  また、ガーランド氏は、一部の州で広がる投票手続き厳格化や選挙結果の監査について、「2020年の大統領選挙で不正があったという根拠のない主張に基づいている。こうした主張は、前政権とこの政権両方の司法機関や情報機関によって繰り返し否定されている」と改めて訴えた。トランプ政権のバー司法長官も選挙後、選挙結果を覆すような大規模な不正の証拠はないとの見解を示していた。
  6日には議会で、当日警護にあたり、亡くなった警察官の追悼などをする式典が開かれ、バイデン大統領も議会で演説をする。また、全米の各都市では市民集会が開かれる。一方、トランプ前大統領は6日に記者会見を予定していたが、4日に中止を発表した。(ワシントン=大島隆


2022.01.04-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220104-CJ42B4WG3FLDVCRW2RHMISHKQU/
共産党、正念場の100年目 野党共闘深化見えず

  共産党の仕事始め「党旗びらき」が4日、党本部で開かれ、志位和夫委員長が夏の参院選での躍進や党勢回復に意欲を示した。しかし、昨年の衆院選を経て政界勢力図は変化し、共産が目指す野党共闘の深化と護憲の訴えは逆風にさらされている。党運営を支えてきた機関紙購読者と党員を増やすための妙手も見当たらず、今年で創立100周年を迎える老舗政党の道のりは平坦(へいたん)ではない

  共産党は大正11(1922)年7月15日に誕生した。志位氏は党旗びらきで党員らに「党の100周年にふさわしい勝利と躍進を半年後に迫った参院選で必ず勝ち取ろうではないか」と呼びかけた。
  参院選をめぐっては、小池晃書記局長が昨年12月の記者会見で「比例代表は5人全員の当選を目指す」として650万票、10%以上の得票を掲げた。改選数が2以上の複数区に関しては「全て擁立し、野党で競い合って自民、公明両党や日本維新の会などを少数に追い込む」と強調した。
  1人区については「最大限、野党統一候補の実現を目指す」と語ったが、「相互尊重という立場を貫いていきたい」と安易に他の野党が推す候補者を支援しない考えも示した。野党共闘の在り方を根本から見直すとしている立憲民主党の泉健太代表を牽制(けんせい)したとの見方がある。
  共産にとっては先の衆院選で議席を伸ばした改憲勢力の維新と国民民主党の動向も気がかりだ。機関紙「しんぶん赤旗」は「維新の会 危険ここまで」との大型記事(昨年12月16日付)で「『改憲策動の先兵』として自民党を支援してきた」と激しく批判。国民民主に対しても「維新とともに新たに国民民主党が『与党側』の幹事とともに憲法審開催の連絡会をつくるなど危険な動きが続いている」と懸念を示した。

  一方、足元では赤旗の購読者数と党員数の減少傾向に歯止めがかかっていない。志位氏は党旗びらきで「国民の中に打って出る活動はようやく始まったところだ」と苦境を認めており、野党共闘の行方、改憲勢力の動向とともに頭を悩ませることになりそうだ。(内藤慎二



2021.12.04-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211204/k10013374721000.html
中国「質の高い民主主義を実践」主張 米バイデン政権に対抗か

  中国政府は、中国は質の高い民主主義を実践してきたなどと主張する新たな白書を公表しました。
  アメリカのバイデン政権が今月、友好国などを招いて「民主主義サミット」を開くのを前に、独自の主張でこれに対抗するねらいがあるとみられます。

  中国政府は4日、記者会見を開き「中国の民主」と題する白書を公表しました。
  白書では「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」としたうえで、中国は独自に質の高い民主主義を実践してきたと主張しています。そのうえで「民主主義は多様なものであり、国によって形態が異なるのは必然だ」として「国が民主的かどうかは、その国の国民が判断することで、外部が口を挟むことではない」などと主張しています。

  記者会見で、中国政府で対外宣伝を担う国務院新聞弁公室の徐麟主任は「民主主義は少数の国家の専売特許ではない」と強調し「アメリカは民主主義のリーダーだと自慢しているが、実際は民主主義を掲げて、社会制度や発展モデルが異なる国々を抑圧している」と非難しました。

  アメリカのバイデン政権は、中国を「専制主義国家」と位置づけて批判を強める中、今月9日から2日間の日程で友好国などおよそ110の国や地域の首脳などを招いて「民主主義サミット」を開催する予定です。
  中国としては、これを前に中国には中国の「民主主義」があると独自の主張を強め、アメリカに対抗するねらいがあるとみられます。


2021.10.19-Yahoo!Japanニュース(現代ビジネス)-https://news.yahoo.co.jp/articles/19d0a079d819a41d43bc7883a6bd2539edf4d2d7?page=1
習近平総書記が力説する「中国式民主」と「Democracy」との大きな違い・・・近藤 大介『週刊現代』特別編集委員
(1)
またまた長時間の「重要講話」
  物言えば唇寒し秋の風(芭蕉)、である。と言っても、このコラムは江戸時代の話でなく、現代中国の話をしている。中国でこのところ、「一人の唇」が饒舌で、「万人の唇」が寂しい気がしてならない。 
  先週10月13日と14日の二日間にわたって、習近平主席が、「トップ7」(党中央政治局常務委員)や「トップ25」(党中央政治局委員)ら北京の幹部たち、それに地方幹部まで北京に集結させ、「中央人大工作会議」を招集した。

   この会議、このところ不動産会社の破綻懸念や電力不足などで「失速」が伝えられる中国の経済問題を話し合ったのではなかった。習近平主席がテーマにし、力説したのは、「人大」(人民代表大会)と「中国式民主」のあり方だった。人民代表大会というのは、国会にあたる全国人民代表大会と、地方議会にあたる〇〇省人民代表大会、〇〇市人民代表大会などの総称だ。
   おそらくいつものように、ものすごく長時間の「重要講話」を行ったに違いない。中国の官製メディアが伝えた「重要講話要旨」だけでも、かなりの長文だからである。
   「要旨」は内容から見て、2部構成になっている。第1部にタイトルをつけるとしたら、「人民代表会議への共産党の指導の絶対的堅持」である。その「要旨の要旨」は、以下の通りだ。

   「人民代表大会(議会)制度は、中国共産党の指導を堅持し、マルクス主義国家観の学説の基本原則を堅持し、人民民主専制の国体に合致させ、国家が社会主義の道を前進していけるよう効果的に保証するものである。」
   人民代表大会制度は、国家の一切の権力は人民に属することを堅持し、人民が国の主人となることを最大限保障し、党の指導・人民が国の主人・法治国家が有機的に結合し、国家が栄枯盛衰の歴史の周期から飛び出すのを有効に治めるよう保証するものである

   第18回中国共産党大会(2012年11月に開催し習近平総書記を選出)以来、党中央は中華民族の偉大なる復興という全体的な戦略と、百年に一度の世界の変化する局面とを統率してきた。
   共産党の指導を堅持し完全なものとし、中国の特色ある社会主義制度の全体的な戦略を堅固にすることから始め、人民代表大会制度の理論と実践を新しい想像を継続して推進し、一連の新理念・新思想・新要求を提出してきた。
   中国共産党の指導の絶対的な堅持を強調し、人民が家の主となる制度体系の保障を絶対的に堅持してきた。全面的な法治国家、民主集中制、中国の特色ある社会主義政治の発展の道、国家の統治システムと能力の現代化の推進を、絶対的に堅持してきた

   党の人民代表大会に対する全面的な指導を強化する必要がある。各級の党委員会は人民代表大会の活動を重要な位置に置き、党が人民代表大会の活動を完璧に指導する制度を作り、定期的に人民代表大会常務委員会の党組織の活動報告を定期的に聴取し、人民代表大会の活動の中の重大な問題を解決するよう研究するのだ」 ・・・・・・以上である。
(2)
「岩盤支持層」を失わないために
  「習近平重要講話」によれば、国会も地方議会も、共産党が完全に指導するよう命じている。そして全国に9514万人(6月現在)いる共産党員は、習近平総書記の「唯一絶対的な指導」を強制している。
   ということは習近平総書記が、自分が国会と地方議会を完全に掌握していくと宣言したに等しい。
   「人民代表大会の活動の中の重大な問題を解決するよう研究せよ」とも説いているから、もしかしたら有形無形の「地方の反抗」のようなものが起こっているのかもしれない。昨年来のコロナ禍の影響で、全国的に「百年に一度の変局」が起こっていることも影響しているのだろう。
   習近平主席の「岩盤支持層」というのは圧倒的に、中国の過半数を占める「貧しい庶民層」である。習主席は彼らを「人民」とか「人民群衆」と呼んでいる。
   2012年に第18回共産党大会で選出された習近平総書記が真っ先に行ったのは「トラ(腐敗幹部)退治」で、これに庶民層は喝采を送った。
   2015年夏に株価の大暴落が起こった時、損失を受けたのは機関投資家や、1.7億人いた「股民」(個人投資家)たちで、この時も株など買えない庶民層は傍観していた。
   2018年春から、アメリカとの貿易摩擦が激化した際も、一番損失を被ったのは対米輸出を行っていた企業経営者たちで、庶民層ではなかった。ところが、昨年の年初から中国全土に蔓延した新型コロナウイルスは、習近平主席の「岩盤支持層」である庶民層の生活を直撃した。昨年夏には全国で洪水も多発し、これも庶民層を痛めつけた。この先、庶民層の支持を失えば、政権運営に暗雲が垂れ込めることになる。
   そこで習近平主席は、8月17日以来、「共同富裕」を唱え始めたのだ。「調高拡中増低」(高所得者層の収入を調整し、中所得者層を拡大し、低所得者層の所得を増加させる)というスローガンのもと、富裕層に対する圧力を強めている。IT企業の創業者から芸能界のスターまで、富裕層は「受難の時代」だ
   そうした中、庶民の代表が人民代表大会の代表ということになっているから、人民代表大会を一度、引き締めておこうということなのだろう。近く「6中全会」(中国共産党第19期中央委員会第6回全体会議)が開かれ、来年秋には異例の総書記3期目を狙う第20回共産党大会が控えている。
(3)
続いて「中国式民主」を力説
  さて、「習近平重要講話」の第2部は、「中国式民主」について、大演説をぶったのだった。これだけ民主について詳しく持論を述べるのは、あまり前例がない。大変興味深い内容であり、以下、その要旨を訳す。

   「民主というのは、全人類の共通の価値観である。また、中国共産党と中国の人民が、終始絶え間なく堅持している重要な理念である。
   ある国家の政治制度が民主的か、有効的かを評する時に重要なのは、国家の指導者層が法に基づいて秩序立てて交代し、人民全体が法に基づいて国家と社会の事務、経済と文化事業を管理できるかという点を見ることだ。人民大衆の利益要求の表出をうまく通せるか、社会の各方面が効果的に国家の政治生活に参加できるかを見ることだ。

   国家の政策決定が科学化・民主化を実現できるか、各方面の人材が公平な競争のもとに国家の指導と管理システムの中に入って行けるかを見ることだ。執政党は憲法と法律の規定に照らして国家事務の指導を実現できるか、権力の運用は有効な制約と監督を受けているかを見ることだ。
   民主というのは装飾品ではない。置いておくものでもない。人民の必要な問題を解決するためのものだ。ある国家が民主的か民主的でないか、そのカギは真に人民が国の主人となっているかにあるのではないのか。人民に投票権があるか、さらに人民に広範な参政権があるかどうかを見るべきだ。
   すなわち人民が選挙の過程でどんな口頭の許諾を得るか、さらに選挙後にそれらの承諾がどのくらい実現したかを見なければならない。制度と法律がどのような政治手続きと規則を規定しているのか、さらにそれらの制度と法律が本当に執行されているかを見なければならない。
   権力の運行規則と手続きが民主的かどうか、権力が真の人民の監督と制約を受けているかどうかを見なければならない。もしも人民がただ投票時だけいいことを言われ、投票後に休眠期間に入ったならば、それはただ選挙時に空虚なスローガンを聞いただけで、選挙後には何の発言権もないことになる。ただ票を取る時だけ大事にされ、選挙後には冷たい。そのような民主は、真の民主ではない
   民主は各国人民の権利であって、少数の国家の特許ではない。ある国が民主的かそうでないかは、その国家の人民の評判によるのであって、外部の少数の人があれこれ評するものであってはならない。国際社会のどの国が民主的で、どの国が民主的でないかは、国際社会が共同で評するものであるべきで、勝手に少数の国家が評するものであってはならない。
   民主を実現するのには多くの方式があり、千篇一律にするのは不可能だ。単一の尺度を用いて世界の豊富多彩な政治制度を測ること、単調な視点でもって人類の色とりどりの政治文明を見つめること、そうしたこと自体がまさに民主的ではない。
   第18回共産党大会以来、われわれは民主政治を発展させる規則に対する認識を深化させてきた。人民民主のすべての手続きの重要な理念を提起してきた。
  わが国の人民民主の全過程は、完璧な制度手続きであるばかりか、完全な参与の実践である。わが国の全過程の人民民主は、過程の民主と成果の民主、手続きの民主と実質的な民主、直接民主と間接民主、人民民主と国家意志との統一を実現したのだ
   それは全連結、全方位、全カバーの民主であり、最も広範な、最も真実の、最も使い勝手がよい社会主義民主なのだ。われわれは引き続き、全過程の人民民主建設を推進し、人民を国家の主人とする具体的、現実的な統治政策を行っていく。具体的、現実的に党と国家機関の各級の活動を行い、具体的、現実的に人民のよりよい生活に向けた活動を実現させていく」 ・・・・・ 以上である。
(4)
習近平総書記は何が言いたかったのか
  まず始めの方の「中国共産党が民主を絶え間なく堅持している」というくだりに、日本人は疑問を持つかもしれない。
  だが確かに、習近平総書記は、自己の体制を確立した当初から、「社会主義の核心的価値観」を説いてきた。それは、「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」という12の概念からなっている。そこにはきちんと、「民主」も「自由」も「法治」も入っているのだ。

   いま日本では、中国に対抗する「価値観外交」が花盛りで、安倍晋三政権以来、「自由と民主、法による支配という価値観を同じくする国々との連携」を標榜している。だが中国共産党政権も、同様の価値観を掲げているのである。
   ちなみに中国の憲法も、ものすごく麗しい文面である。一例を挙げると、第35条では、こう謳っている。

   〈 中華人民共和国の公民は、言論・出版・集会・結社・デモ・示威の自由を有する 〉  実際には、憲法の精神と矛盾するような政策を、次々に行っている。直近でも、10月8日に国家発展改革委員会が公開した「2021年度版市場参入ネガティブリスト」の草案には、新たに以下のような「第6項」が加えられた。民営企業のメディアからの締め出し条項である。
   〈 規則に違反してニュースメディア関連の展開を行うことを禁止:非公有(民営)資本はニュース取材・編集・放送業務に従事してはならない。非公有資本がメディア機構に投資・設立・経営してはならない。それは通信社・新聞・出版事業・ラジオ・テレビ放映機構やセンターに限らず、インターネットニュース情報の取材・編集・発布のサービス機構なども含む。
   非公有資本は、ニュース機構の版面・周波数・チャンネル・番組・公衆番号などを経営してはならない。非公有資本は、政治・経済・軍事・外交・重要な社会・文化・科学技術・衛生・教育・スポーツ及びその他の政治関係方面、世論の価値観を誘導する活動、事件の実況生中継の業務に従事・干渉してはならない。
   非公有資本は海外の主体が発布したニュースを国内に持ち込んではならない。非公有資本は、ニュース世論分野のフォーラム・サミット・表彰活動を行ってはならない 〉
   かつて毛沢東主席は、「メディアは軍と並ぶ党を守る両剣だ」と述べた。習近平主席も2016年2月以来、「メディア党姓論」(メディアは共産党の姓を名乗るという考え方)を説いている。

   次へ進むが、「民主というのは装飾品ではない」というくだりも、日本人からすれば、そのまま中国に言い返してやりたくもなってくる。だが中国側の言い分は、昨年来、中国が強調している「人命救出こそが最大の人権保護である」といった概念に通じるものなのだ。
  つまり、昨年来、世界中がコロナ禍に陥る中で、中国は「社会主義の強制力」でもっていち早くコロナ禍から脱出した。日本が「個人のプライバシー保護」などでコロナ対策が遅々として進まなかったのとは対照的だった。「広範な人民の要望を聞いて、結果で応えるのが中国式民主」というわけだ。
   また、中国はアジア最大の経済大国になり、軍事大国になった。それによって個人も裕福になったし、自由に海外旅行に行けるようにもなったし、誇れる国になった。自由も民主も進んだでしょうと言いたいのだ。
(5)
古代から受け継がれた「中国式民主」
  第2部の後半部分は、「表現の自由が実質的に保証されている日本から見ていると、「開き直り」とも受け取れる。これは、古代の政治哲学から連綿と受け継がれた「中国式民主」を言っている。
  古代中国の文献の中に、「民主」という言葉はすでに使われている。だがそれは、「Democracy」の意味ではなくて、「為民作主」(民のために主をなす)の意味である。すなわち、「民が主」ではなくて、「民の主」=「明主」(聡明な君主)なのである。
   ただ、その根底には、「民本思想」という「民がおおもとである」という思想がある。日本でも大正デモクラシーの時に、この中国の古代哲学をもとに「民本主義」が説かれている。
   そして、「おおもとであるところの民の代表者」が皇帝である。皇帝は民の代表として、天と対話する「神聖にして犯すべからず」な存在である。
   中国で皇帝制度を始めたのは、有名な秦の始皇帝である。中国を統一したのは、紀元前221年のことだ。
   始皇帝は、強烈な独裁者だったが、その一方で法治国家を目指した。独裁国家と法治国家は矛盾するようだが、実はそんなことはない。
   始皇帝には、国家のシステムを、「自分とそれ以外」に分ける目的があった。つまり、自分だけ法律の「外枠」に置き、それ以外は国家のナンバー2も市井の庶民も、同様の法律の枠にはめることにより、「皇帝の特別な指導力」が際立つようにしたのである。皇帝の命令と法律とが矛盾する場合には、皇帝の命令が優先するとした。これが中国伝統の皇帝制度の本質である。

   このシステムを現代に応用したのが、「建国の父」毛沢東主席だった。始皇帝をこよなく敬愛していた毛沢東主席は、「中国人民は全員一律に貧乏」という社会を築き上げ、自分だけが「現代の皇帝」として君臨した。
   その毛沢東主席を、こよなく敬愛しているのが習近平主席である。習近平主席もまた、今回の重要講話でもそうだが、常に「法治国家の確立」を説いている。そこにはやはり、「国家のナンバー2も市井の庶民も、同様の法律の枠にはめる」という意図が透けて見える。
   ちなみに、「Democracy」の意味の「民主」を実行した時代が、中国にまったくなかったかと言えば、実は古代に14年間だけ、それに近い時代があった。
   周王朝の紀元前844年、歴王が、自己の富と権力を拡大するため、強烈な独裁に走り、民の非難を買った。部下の召穆公が「民の口を防ぐのは、川の水を防ぐより難しいものです」と忠告したが、聞き入れない。それどころか、「国人」(城壁の中の住人)が政治について語ったら誅殺するというお触れを出した。
   3年後の紀元前841年、圧政に耐えかねた国人たちが、「国人暴動」を起こし、歴王はいまの山西省に放逐された。国人たちは、召穆公と周定公を、暫定的な指導者に推挙した。そして元号を「共和」と改め、重要な政務上の決議は、「六卿」と呼ばれる6人の幹部の合議制によって行うことにした。この制度は、紀元前828年まで続いた。
   それにしても、「民の口を防ぐのは、川の水を防ぐより難しい」とは、いまに通じる箴言に思えてならない。
近藤 大介『週刊現代』特別編集委員


民主主義
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民主主義(英: democracy、デモクラシー)または民主制(民主政とは、人民が主権を持ち行使する政治。近代では市民革命により一般化した政治の形態・原理・運動・思想で、民主主義に基づく社会は「市民社会」、「ブルジョア社会」、「近代社会」などという。対義語は君主制、貴族制、神政政治、寡頭制、独裁制、専制、全体主義など。
用語
デモクラシー
  「デモクラシー」(democracy)の語源は古代ギリシア語、「人民民衆大衆」などを意味する、「権力支配」などを意味する、を組み合わせたもので、「人民権力」「民衆支配」、「国民主権」などの意味である。
  この用語は、同様に「優れた人」を意味するとの対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。
  古代ギリシアの衰退以降は、「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。古代ローマでは「デモクラシー」の語は使用されず、王政を廃止し、元老院市民集会が主権を持つ体制は「共和制」と呼ばれた。
  近代の政治思想上で初めて明確にデモクラシー要求を行ったのは、清教徒革命でのレヴェラーズ(Levellers、平等派、水平派)であった。
  近代啓蒙主義以降は、「デモクラシー主義」は自由主義思想の用語として使われるようになった(自由民主制主義)。更にフランス革命後は君主制・貴族制神政政治などとの対比で、20世紀以降は全体主義との対比でも使用される事が増えた。なお政治学では、非民主制(の政体)の総称は「権威主義制(権威主義制政体)」と呼ばれる。
  日本語で「デモクラシー」は通常、主に政体を指す場合は「民主政」、主に制度を指す場合は「民主制」、主に思想・理念・運動を指す場合は「民主主義」などと訳し分けられている。なお政治学では、特に思想・理念・運動を明確に指すために「デモクラティズム」(: democratism、民主主義(思想))が使用される場合もある。
  なお、現代ギリシャ語では「民主主義」を表すと同時に「共和国(共和制)」を表す語でもあり、国名の「~共和国」と言う場合にも用いられる。
「民主」という語
  民主という漢語は、伝統的な中国語の語義によれば「民ノ主」すなわち君主の事であり書経左伝に見られる用法である。これをdemocracyやrepublicに対置させる最初期のものはウィリアム・マーティン(丁韙良)万国公法(1863年または64年)であり、マーティンは a democratic republic を「民主之国」と対訳していた。しかしこの漢訳は、中国や日本でその後しばらく見られるようになる democracy と republic の概念に対する理解、あるいはその訳述に対する混乱の最初期の現れであった。
  マーティンより以前、イギリスのロバート・モリソン(馬礼遜)の「華英字典」(1822年)は democracy を「既不可無人統率亦不可多人乱管」(合意することができず、人が多くカオスである)という文脈で紹介し、ヘンリー・メドハースト(麥都思)の「英華字典」(1847年)はやや踏み込み「衆人的国統、衆人的治理、多人乱管、少民弄権」(衆人の国制、衆人による統治理論、人が多く道理が乱れていることをさすことがあり、少数の愚かな者が高権を弄ぶさまをさすことがある)と解説する。さらにドイツのロブシャイド(羅存徳)「英華字典」(1866年)は「民政、衆人管轄、百姓弄権」(民の政治、多くの人が道理を通そうとしたり批判したりする、多くの名のある者が高権を弄ぶ)と解説していた。
  19世紀後半の漢語圏の理解はこの点で一つに定まっておらず、陳力衛によれば Democracy は「民(たみ)が主」という語義と「民衆の主(ぬし、すなわち民選大統領)」という語義が混在していたのである。一方で日本では democracy および republic に対しては当初はシンプルで区別なく対処しており、1862年に堀達之助が作成した英和対訳袖珍辞書では democracy および republic いずれにも「共和政治」の邦訳を充てていた。これが万国公法の渡来とその強力な受容により「民主」なる語の併用と混用の時代を迎えることとなる。
概要
  民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権(主権)を持つという政体制度政治思想であるが、その概念、理念、範囲、制度などは古代より多くの主張や議論がある。
  古代ギリシアの民主主義は、寡頭制(少数派支配)に対する人民支配(民衆支配、多数派支配)であり、法の支配自由自治法的平等などの概念と関連していた。しかしその後は長く衆愚政治を意味するようになり、17世紀以降に啓蒙主義による自由主義の立場から再評価され、社会契約論により国民主権の正統性理念となり、名誉革命アメリカ独立革命フランス革命などのブルジョワ革命に大きな影響を与えた。民主主義は功利主義経験主義の立場からも評価されるが、同時に古代より多数派による専制や、民衆の支持を背景に少数独裁に転じる危険性も存在する。
  民主主義の理念に対する評価は、2つの世界大戦をきっかけとして20世紀に激変した。第一次世界大戦総力戦となり、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国ロシア帝国などでは帝政が終焉した。第二次世界大戦では「民主主義と全体主義の対決」という意味づけが特に途中から参戦したアメリカ合衆国によって強調され、冷戦の開始後は「全体主義」にソビエト連邦スターリン主義が加えられた。戦争中は銃後の女性を含め多くの国民が戦争に動員され、戦争に貢献する以上は政治的発言も認められるべきとして、結果として選挙権の拡大につながった。こうして民主主義の正当性は高まり、最も独裁的な国家も自らこそが真の民主主義を体現していると主張するようになり、民主主義の理念を否定する体制が事実上なくなった反面、民主主義とは何かが曖昧ともなった。
  民主主義の種類は大別して、構成員が直接参加する直接民主主義と、構成員が代表を選出して代表が議論や意思決定を行う間接民主主義(代表制民主主義)があり、組織の規模や、意思決定の重要度などによって選択や組み合わせが行われている。直接民主主義的要素には、構成員全体による会議の他にイニシアティブ(住民発案、国民発案)、レファレンダム(住民投票、国民投票)、リコールなどがあり、間接民主主義の代表例には議会大統領などがある。これらの制度は組織全体の統合機能を持つため、仮に形骸化した場合には統合機能が低下する。また自由な議論の前提には、言論の自由、少数派の尊重、情報公開なども必要とされる。
  民主主義を実現するための制度にはその組織や国の歴史的経緯などにより、議会主義による議院内閣制、二元代表制による大統領制、あるいはその組み合わせ(半大統領制)などがある。また権力による独裁を防ぐための三権分立など各種の権力分立がある。また現代の大衆社会では政党圧力団体マスメディアなどの役割や影響力も増加した。
種類
  民主主義の代表的な種類・分類には以下があるが、その分類や呼称は時代・立場・観点などにもよって異り、多くの議論が存在している。
直接民主主義(詳細は「直接民主主義」および「#ルソー」を参照)
  直接民主主義は、集団の構成員による意思が集団の意思決定に、より直接的に反映されるべきと考える。直接民主主義の究極の形態は、構成員が直接的に集合し議論して決定する形態であり、高い正統性が得られる反面、特に大規模な集団では物理的な制約や、構成員に高い知見や負担が必要となる。また議員など代表者を選出する形態でも有権者の選択が重視され、議員は信任されたのではなく有権者の意思を委任された存在であり、有権者の意思に反する場合はリコールや再選挙の対象となりうる。
  古代アテナイ古代ローマでは民会が実施された。現代ではイニシアチブ(国民発案、住民発案など)、レファレンダム(国民投票住民投票など)、リコール(罷免)が直接民主主義に基づく制度とされ、都市国家の伝統を受け継ぐスイスアメリカ合衆国タウンミーティングなどでは構成員の参加による自治が重視されている。
間接民主主義(詳細は「間接民主主義」、「#代表制原理」、および「#代表制」を参照)
  間接民主主義(代表民主主義、代議制民主主義)は、主権者である集団の構成員が、自分の代表者(議員、大統領など)を選出し、実際の意思決定を任せる方法・制度である。主権者による意思決定は間接的となるが、知識や意識が高く政治的活動が可能な時間や費用に耐えられる人物を選出する事が可能となる。選挙制度にもより、議員の位置づけ(支持者や選挙区の代表か、全体の代表か)、選挙の正当性(投票価値の平等性、区割りなどの適正性、投票集計の検証性など)、代表者(達)による決定の正当性(主権者の意思(世論、民意)が反映されているか)などが常に議論となる。自由民主主義(詳細は「自由民主主義」および「ブルジョワ民主主義」を参照)
  自由民主主義(自由主義的民主主義、立憲民主主義)は、自由主義による民主主義。人間は理性を持ち判断が可能であり、自由権私的所有権参政権などの基本的人権自然権であるとして、立憲主義による権力の制限、権力分立による権力の区別分離と抑制均衡を重視する。古典的には、選出された議員は全員の代表であり、理性に従い議論と交渉を行い決定する自由を持つと考える。
宗教民主主義
  宗教における民主主義。キリスト教民主主義会衆制、仏教民主主義、イスラム民主主義など。
社会主義
  社会主義における民主主義には、フェビアン協会等による社会民主主義の潮流、民主社会主義マルクス・レーニン主義(いわゆる共産主義)によるプロレタリア民主主義人民民主主義新民主主義などがある。
ジェファーソン流民主主義(詳細は「ジェファーソン流民主主義」を参照)
  アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソン等による民主主義。共和制、自立を重視し、エリート主義に反対し、政党制と弱い連邦制(小さな政府)を主張した。
ジャクソン流民主主義(詳細は「ジャクソン流民主主義」を参照)
  アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソン等による民主主義。選挙権を土地所有者から全白人男性に拡大し、猟官制や領土拡張を進めた。
草の根民主主義(詳細は「草の根民主主義」を参照)
  市民運動住民運動など一般民衆による民主主義。ジェファーソン流民主主義を源泉とし、フランクリン・ルーズベルトが提唱した。
戦う民主主義(詳細は「戦う民主主義」を参照)
  第二次世界大戦後のドイツ等、自由を否定する自由や権利までは認めない民主主義。
歴史
  古代より多くの時代や地域あるいは共同体で、多様な合議制や、ルールに基づいた合意形成意思決定が存在したが、一般的には民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)の起源は古代ギリシャおよび古代ローマとされ、また近代的な意味での民主主義は17世紀以降の啓蒙思想自由主義、それらの影響を受けたフランス革命アメリカ独立革命などを経て形成され、20世紀に多くの諸国や地域に拡大した。
古代ギリシア
近代ローマ
中世
近代国家の成立と啓蒙思想
  13世紀、イングランド王国マグナ・カルタにより王権の制限が定められた。16世紀以降、ジャック=ベニーニュ・ボシュエロバート・フィルマー王権神授説を唱えて政治権力の教会権力からの独立を宣言し、ジャン・ボダンが「国家主権論」を唱え、1648年 ヴェストファーレン条約により中世とは異なる近代的な主権国家が成立した。
  17世紀以降、啓蒙思想による自由主義が主張され、ヴォルテールは自由主義や人間の平等を主張した。17世紀、清教徒革命でリヴェラベーズ(平等派)が社会契約や普通選挙を要求した。また人民主権の理論として社会契約論が唱えられた。ホッブスの社会契約論は、権力の正統性を神ではなく被支配者である人民に求めたが、国民による統治は構想しなかった。次にジョン・ロックの社会契約論は、更に国民の抵抗権(革命権)を認め、アメリカ独立革命に影響を与えた。またジャン・ジャック・ルソーの社会契約論は、堕落した文明社会を変革する方法として人民が一般意思(公共我)を創出するとし、また代表制を批判し直接民主主義の理念を提示し、後のフランス革命に影響を与えた。モンテスキューはブルジョワジー、特に知識階級の自由を権力の専制からいかに保障するかを考え、権力分立の形態として三権分立を構想した。
アメリカ独立革命
  1775年、アメリカ独立革命が発生した。北アメリカのイギリス植民地では、植民地への重税や植民地からの輸入規制等への不満から、ミルトン、ハリントンロックの理論を学び、基本的人権と代表制(「代表なくして課税なし」)を確立した。1776年 トーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言では社会契約論、人民主権、革命権が明文の政治原理として採用された。各植民地は憲法制定など共和国としての制度を整え、タウンミーティングなど直接民主主義の伝統が形成されていった。特にペンシルベニアバージニア等の共和国憲法は、人民の意思の反映、議会の優位を強く打ち出し、連邦の強化は専制に繋がるものとして警戒された。
  独立戦争後の財政危機、無産階級の台頭による政治不安の中、有産階級は各植民地共和国の独立・自治を見直し、強力な中央連邦政府の樹立へ向かった。1787年採択のアメリカ合衆国憲法は、多数派の権力もまた警戒すべしとの考えから、権力分立の徹底と社会秩序の安定を重視し、議会の二院制、議会から独立した強力な大統領による行政権、立法に優位する司法権を確立した。この結果、ブルジョワジー中心の体制が確立した。その後、ジェファーソン流民主主義ジャクソン流民主主義が2大潮流となり、また大衆社会による議会制度の形骸化を受けて草の根民主主義も提唱された。
フランス革命
  1789年からのフランス革命では、1791年憲法で人民主権、一般意思、主権の分割譲渡不可が明記された。更に1793年憲法(ジャコバン憲法)で、抵抗権、直接民主主義的要素などルソーの影響を強く受けた憲法が制定されたが、施行されずに終わった。

(人および市民の権利の宣言)
 ・第1条 人間は、自由かつ権利において平等として生まれ、かつ生存する。(後略)
 ・第3条 すべての主権の根源は、本質的に国民にある。(後略)
 ・第6条 法律は一般意思の表明である。すべての市民は、個人的、または彼らの代表者によって、その作成に協力する権利を持つ。(後略)
(憲法)
 ・第11条 主権は1つで、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にもかからない。主権は国民に属する。(後略)
 ・第56条 フランスには、法律の権威に優越する権利は存在しない。国王は、法律によってのみ統治し、かつ国王が服従を強要することができるのは、ただ法律の名においてのみである。
フランス1791年憲法
(人間および市民の権利の宣言)
 ・第33条 圧政にたいする抵抗は、人間のほかの権利の当然の結果である。
(憲法)
 ・第7条 主権者人民は、フランス市民の総体である。
 ・第10条 主権者人民は、法律を審議する。
— フランス1793年憲法
現代(「普通選挙」、「女性参政権」、および「公民権運動」も参照)
  18世紀から20世紀にかけて、主要各国で男性普通選挙や、女性も含めた完全普通選挙が普及した。特に第一次世界大戦第二次世界大戦総力戦となり女性の社会進出が進み、また民族自決を掲げて植民地の独立が続き、多数の主権国家が誕生した。
  19世紀以降、社会主義の潮流の中より、従来のブルジョワ民主主義を欺瞞として暴力革命を唱える共産主義マルクス・レーニン主義)が登場すると、共産主義陣営は資本主義陣営を帝国主義と批判し、資本主義陣営は共産主義陣営の共産党一党独裁を批判した。更に第二次世界大戦後、イタリアではファシズムドイツではナチズムが台頭し、国家主義民族主義を掲げて民主主義を批判した。
  2007年、国際連合総会は9月15日を「国際民主主義デー」とし、すべての加盟国および団体に対して公的意識向上のための貢献を感謝する決議を行った
思想-民主主義に関する思想、見解、発言には多数のものがあるが、世界的に著名なものには以下がある。
 デマラトス・・・--- ペリクレス・・・--- プラトン・・・--- アリストテレス・・・---ポリュビオス・・・---キケロ・・・---マキャヴェッリ・・・---ホップス・・・--- ロック・・・---ルソー・・・---モンテスキュー・・・---ヴォルテール・・・---フランソワ・ギゾー・・・---リンカーン・・・---ベンサム・・・---ミル・・・---フランソワ・ギゾー・・・---ジェファーソン・・・---レーニン・・・---トロッキー・・・---ムソリーニー・・・---ヒットラー・・・---カール・シュミット・・・---チャーチル・・・---ハイエク・・・---フランシス・フクヤマ・・・
議会
議会主義
  議会主義は政治的主導権が議会に与えられる政治運営の体制で、この場合の議会とは「国民の代表」とされる選挙された議員から成る会議体であり、政治的主導権とは立法権更には行政監督権限である[73]。中世身分制議会は、国民代表ではなく、諮問機関にすぎないため、議会主義における議会ではない。また憲法上で議会の主導権が認められていても、実際の運用上で行政権を制御できない独裁国家などは議会主義と言えず、逆に制度上は諮問機関でも議会が内閣を選出する慣習ができれば議会主義が成り立っているといえる[74]。議会は中世ヨーロッパの各国で貴族・僧侶・平民などの身分制議会が定期的に招集されるようになった事に始まり、中世封建制度が崩壊と絶対王政確立により廃止され、ブルジョワ革命による王政打倒後に近代議会が誕生した。ただしイギリスではブルジョワ革命の比較的穏やかな進展により、身分制議会が国民を代表する近代議会に成長した。
多数決原理
  近代議会は個々人の政治的主張を調整する事により社会を統合する機関であり、その統合は社会全体の代表者である議員達の自由で理性的な討論と説得、そして妥協の積み重ねによるが、現実に解決すべき政治的課題の緊急性から意見の一致が得られぬ場合には、集団的意思決定手段として、相対的多数者の意見が暫定的に議会の意思とされる。しかし議会による統合の観点より、多数派と少数派の差異は常に相対的とされて将来の状況変化や討論進展による逆転可能性が留保されている必要がある。議会制を採用していても、(a)相対主義的価値観の社会への浸透(複数の価値観が承認されうる社会) (b)議員とその背後の社会構成員の一体的同質性(階級宗教イデオロギー等の対立が激しくない社会) (c)理性的かつ客観的な判断ができる議員 (d)意見発表の自由とその機会の均等、などの条件が揃わない場合には議会主義は変質または形式化する。
代表制原理
  近代議会を構成する議員は「国民の代表」のため、彼らの意思が国民全体の意思とされるが、この「代表」の意味はブルジョワ革命期より根本的な思想的対立がある。
  ・国民(ナシオン)代表原理 - 自由委任制(信託制)、間接民主制
     イギリスのホイッグ党の主張、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらによるフランス1791年憲法などが起源。各議員は全国民の代表として全国民のために政治活動し、自分の選挙区や出身階級などの利害のためには活動してはならないと考え、リコールなどの直接民主主義的制度は禁止される。この原理の代表は、具体的に現実の国民の意思と結びついている必要は無いため、身分制選挙や制限選挙により選出された議員でも国民を代表できる。
  ・人民(プープル)代表原理 - 拘束委任制、直接民主制
     起源は中世身分制議会の諸身分代表で、議員の地方代表性を強調したイギリスのトーリー党、道徳的市民が直接民主制の人民集会で一般意思を表示すべしとしたルソー、その思想を反映したフランスの1793年憲法などに例が見られる。各議員は現実に存在する一定の人民から委託を受けた代表で、議会は社会全体の縮図と捉える。議員は全て直接普通選挙で選ばれ、選出母体の意思を忠実に議会で代弁し主張すべきため、選出母体の意思に反した場合はリコールが認められる。討論による説得や妥協は困難なため、同質性の高い小共同体など以外では採用が難しいが、アメリカ合衆国タウンミーティングなどが精神を受け継いでいる。
二院制
  議会政治の母国とされるイギリスでは、中世身分制議会が連続的に近代議会に発展した歴史より貴族院庶民院二院制だが、二院制の目的や性格は各国により異なる。
  ・階級別 - イギリス、かつてのプロイセンなど
  ・連邦の各邦の代表による一院を加える - アメリカ合衆国スイスロシアなど
  ・選出方法に差を設けて「数」と「理」を各院に代表させる - フランス、イタリア、日本など
  ・立法作用を慎重にする - ノルウェー(下院議員間の互選で4分の1が上院議員となる)
  二院制は権力分立、自由主義を背景とした制度であり、フランス革命や社会主義のコミューン理論など自由主義よりも民主主義を代表する立場からは批判される。また政党の発達による両院の性格相違の減少もあり、新たに二院制を採用する国は少ない。

権力分立
  近代国家はブルジョワ革命の産物のため、自由主義の理念と専制的な権力に対する警戒から何らかの権力分立制度が採用されているが、国家の運営と行政の効率上は立法権と行政権の協働も要請され、その調和が課題となるが、各国の沿革や事情により複数のパターンがある。
  ・議院内閣制 - 行政府(内閣)を議会の信任により成立・存立させ、議会に対して責任を負わせる
  ・大統領制 - 行政府(大統領)を独立して選挙し、直接国民に対して責任を負わせる
  ・議会統治制 - 行政府を完全に議会に従属させ、その責任を認めない (スイスなど)
議院内閣制
  18世紀のイギリスで形成された。国王の行政権が次第に大臣に移り、1742年に国王の信認を得ていたロバート・ウォルポール首相が議会の不信任により辞職し、大臣も議会の信任なくしては在職できない慣習が確立した。その後に連帯責任の原則、議会の首相指名による内閣成立制度などが整備された。議院内閣制では内閣成立の指名と内閣の責任追及において議会が内閣をコントロールし、内閣は議会の解散により議会に対する選挙民の信任を問いうる事で、両者間に抑制と均衡が成立する。このようなイギリス型の議会制度はウェストミンスターモデルとも呼ばれる。
  ・長所 - (1)議会主義の貫徹が達成できる (2)議会と内閣の共働で政策を推進できる (3)内閣の責任 = 議会の多数派の責任が明瞭で国民の選挙による責任追及が容易。
  ・短所 - 議会の多数派が内閣を組織するため、内閣の予算や法案が容易に通過し、野党の追及が困難(権力分立が不十分。二大政党制では政権交代による権力分立でこの弊害を緩和)
大統領制
  アメリカ合衆国の政治体制として創始された。大統領は国民の間接選挙(実質的には直接選挙)により選出され、任期の間は弾劾決議成立を除き免職は無い。議会は大統領の責任を追及できない反面、大統領は議会を解散できない。また大統領は議会への法案提出権が無いが、議会で成立した法案の施行への拒否権がある(両院が3分の2以上の多数で再可決すれば拒否にかかわらず成立)。
  ・長所 - 徹底した権力分立(全国民から直接選ばれるとの強い正統性を背景にした、大統領への強力な行政権限の集中)
  ・短所 - (1)立法府と行政府の対立による非効率 (2)失政責任を大統領と議会多数派が押しつけ合う事が可能 (3)民主主義の未定着国で大統領が独裁者と化す危険性
  アメリカ型の純粋な大統領制を採用する国は少ないが、儀礼象徴的な大統領制はドイツ、イタリア、スイスなど多数ある。フランスは直接国民投票によって選ばれ、首相任命権、議会解散権などの強大な権力を持ち、議院内閣制と大統領制の混合形態と考えられる。
政党(詳細は「政党」および「政党制」を参照)
  政党は、17世紀のイギリス名誉革命の前後に生まれたトーリー党ホイッグ党が最初とされるが、19世紀後半迄の政党はいわゆる貴族政党(名望家政党)で、「財産と教養」ある階層によるサロン的なグループで、特に綱領や組織を持たず、個々の議員に対する拘束力は非常に緩かった。普通選挙実施後の現代の大衆政党(組織政党)は、議員以外にも多数の一般党員を全国的に組織し、綱領や役割組織も備え、党費により財政を賄い、議員や党員は党議に拘束され違反には除名などの罰則が設けられているが、これら拘束は「議員は全く自由な個人として討議し議決する」との近代議会主義の原則からは本来は認められないため、ルソーワシントンジェファーソンらは政党否定論を唱えた。
  普通選挙が進み近代ブルジョワ国家から現代大衆国家へ変質すると、従来の「理性的な個人」とされた財産と教養あるブルジョワジーによる議会主義が形骸化し、有権者と候補者を政治的に組織する媒体として政党(大衆政党)が登場した。政党は私的結社として生まれたが、一定の条件((1)普通選挙制と議会主義 (2)複数政党制の存在 (3)党内民主主義)を満たす場合には公的役割を果たしていると言える[77]。また近代議会制民主主義の自由委任制は大衆社会では修正を余儀なくされ、有権者の意思を正しく議会に反映させるために選挙制度における人口比例が重要となった

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共産主義
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  共産主義: Communism、コミュニズム)とは、政治経済分野での思想理論社会運動政治体制のひとつで、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす。広義には共同体(コミュニティ)のための財産共有を意味し、狭義には特にマルクス主義ボリシェヴィズムマルクス・レーニン主義などを指す(用語を参照)。当記事では広義の意味で記述する。
  共産主義のシンボルには、社会主義と同様に赤色赤旗が広く使用されている。また特にマルクス・レーニン主義系の共産主義を表すシンボルには赤い星鎌と槌なども使用されている。

用語
  共産主義英語: communism、コミュニズム)の用語は「フランス語: communisme」より派生し、その語源は「コミュニティ(共同体)の」または「コミュニティのための」を意味する「ラテン語: communis」と、「状態、運動、思想」への抽象化を示す接尾語の「ism」により造られた。このため直訳では「コミュニティの(コミュニティのための)状態」を意味する。この用語は色々な社会的状況を指すために使用されたが、現代では経済的政治的な組織や体制に関連して使用されるようになり、特にマルクス主義と関連付けて使用されるようになった。著名な例には1848年の『共産党宣言』がある。

  この用語の現代の意味での初期の使用例には、1785年頃にフランスの著作家のVictor d'Hupayニコラ・エドム・レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ に送った手紙があり、その中でd'Hupayは自分自身を「フランス語: auteur communiste」(共産主義の作家)と記述した。後にレチフはこの用語を彼の著作で頻繁に使用し続け、政治体制として「共産主義」の用語を使用した最初となった。更に1840年頃にイギリスの社会主義者のJohn Goodwyn Barmbyがこの用語を最初に英語で使用した。
  1793年、フランソワ・ノエル・バブーフは「共産主義」との言葉に「完全な平等」という意味を込めて「平等クラブ」を「コミュニストクラブ」と言い換えた。1795年、バブーフは「平民派宣言」で「土地は万人のもの」として、個人が必要以上の土地を私有する行為を批判するなど、平等社会実現のために私有財産制の廃止を主張し、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。

  1840年代には「共産主義」は「社会主義」と通常は区別されていた。1860年代に「社会主義」の現代的な概念と用法が確立して、同義語として従来使用されていた連携主義者(associationist)、協働主義者(co-operative)、相互主義者(mutualist)などの用語の中で主流となると、この時期は「共産主義」の用語は使用されなくなった。また初期には、社会主義は生産の社会化のみを目的とし、共産主義は生産と消費の両方の社会化(最終財への無償アクセス)を目的とする、との区別も存在した。1888年までにマルクス主義者は「共産主義」の代わりに「社会主義」を採用し、「共産主義」は「社会主義」の古い同義語とみなされるようになった。
  1914年の第一次世界大戦勃発で第二インターナショナルが分裂し、社会主義者は自国の戦争を支持する多数派と、戦争反対と国際主義を主張する少数派に分裂した。
  1917年のロシア革命ウラジーミル・レーニンは、ロシアの生産力社会主義革命には不十分との古典的マルクス主義による批判に対抗して、ボリシェヴィキによる権力奪取を行い、「社会主義(社会)」は「資本主義(社会)」と「共産主義(社会)」の中間の発展段階と主張するようになった(二段階論。更に1918年にロシア社会民主労働党ロシア共産党(後のソ連共産党)に改名すると、「共産主義者」は特にボリシェビズムレーニン主義、後のマルクス・レーニン主義などの理論や政策を支持する社会主義者を意味するようになり、政治的思想としての「共産主義」と「社会主義」の区別が明確となったが、しかし各共産党は以後も自らを社会主義を掲げる社会主義者と説明し続けた。
  また「共産主義」と「社会主義」の区別は、宗教に対する文化的態度など地域によっても異なる。キリスト教ヨーロッパでは「共産主義」は無神論と信じられた。プロテスタントイングランドでは「共産主義」はローマカトリック教会の聖体拝領(英語: communion rite)に言葉が近すぎたため、多くの無神論者は社会主義者を自称した。1848年に出版された「共産主義宣言」でフリードリヒ・エンゲルスは「社会主義は大陸で尊敬されたが共産主義は違った」と述べた。イギリスのオウエン主義者やフランスのフーリエ主義者らは労働者階級の「全体的な社会変革の必要性の提唱者」として尊敬できる社会主義者と考えられたが、共産主義者とは自称しなかった。社会主義の中の共産主義の系統より、フランスのÉtienne Cabetやドイツのヴィルヘルム・ヴァイトリングなどが共産主義的活動を生み出した。そして1848年革命を、民主主義者は自由、平等、友愛を掲げた民主革命とみなし、マルクス主義者はブルジョワ階級によるプロレタリア階級への裏切りとみなした。
  なお日本語訳の「共産主義」の「共産」は、「を行う」ことから作られた言葉である。
社会主義との違い
  
「社会主義」と「共産主義」は、とりわけマルクス主義に関し、同一視される場合と使い分けられる場合がある。それは以下の歴史的経緯による。
 (1)マルクス主義=共産主義
  カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847年には、社会主義と共産主義の違いは明瞭なものだった。エンゲルスは1890年に出版された『共産党宣言』ドイツ語版の序文で「1847年には、社会主義はブルジョア(中産階級)の運動を意味し、共産主義はプロレタリア(無産階級)の運動を意味した」と説明している。マルクスもエンゲルスも共産主義者と自認していた。
 (2)マルクス主義=科学的社会主義
  1875年にマルクス派とラッサール派の合同によってドイツ社会主義労働者党が創設された際、マルクスはラッサール派によって書かれた綱領草案を厳しく批判する手紙を関係者宛に送った。『ゴータ綱領批判』として知られるものである。その中でマルクスは共産主義の低い段階と高い段階を区別し、低い段階では労働者は労働に応じて受け取り、高い段階では欲求に応じて受け取る、とした[21]。批判対象の綱領草案には共産主義という単語は含まれていなかったにもかかわらず、マルクス自身は手紙の中で共産主義について語った。とはいえ、新しい党は社会主義政党であり、そこに参加したマルクス主義者は社会主義者ということになる。
  1880年に出版された『空想から科学へ』において、エンゲルスは、「唯物史観剰余価値説によって社会主義は『科学』となった」、という見解を示した。マルクスもこの小冊子を「科学的社会主義の入門」として推薦する序文を書いた。これによりマルクス主義は科学的社会主義とも呼ばれるようになった。
 (3) 社会民主主義と共産主義の対立
  ドイツ社会主義労働者党は1890年にドイツ社会民主党と改称され、マルクス主義者は社会民主主義者とも称するようになった。ドイツ社会民主党は順調に党勢を拡大し、国際的な社会主義運動(第二インターナショナル)の中でもリーダー的存在だった。
  しかし第一次世界大戦の勃発に際し、それまでの政策を捨てて自国政府を支持したため、反戦を貫いた社会民主主義者から激しく批判された。レーニンはボリシェヴィキに対して「その公式の指導者たちが、全世界で社会主義を裏切り、ブルジョアジーの側に寝がえってしまった『社会民主党』(『祖国防衛派』と動揺的な『カウツキー派』)という名称のかわりに、われわれは共産党と名のるべきである」と提案した。ボリシェヴィキは1919年に党名を共産党と改称した。以後、社会民主主義と共産主義は明瞭に区別されるようになった。社会民主主義は議会制民主主義の尊重や漸進的改革の主張を意味し、共産主義は革命によるプロレタリアート独裁の主張を意味した。
  レーニンは1917年に出版された『国家と革命』でマルクスの『ゴータ綱領批判』を詳しく解説し、理論面でもマルクスの共産主義論を復権させた。以後、革命後の体制はプロレタリアート独裁期を経て社会主義へと移行し、さらに共産主義へと発展する、という考え方が定着した。マルクスの言う共産主義の低い段階は社会主義と位置づけられた。
 (4) 共産党の社会民主主義化
  一時は圧倒的だったソ連の権威は、1956年のスターリン批判ハンガリー動乱、1968年のプラハの春などの事件によって次第に低下した。西欧諸国の共産党はソ連共産党との違いを強調するようになった。自由や民主主義を強調するユーロコミュニズムがその一例である。共産党の政策は社会民主主義政党の政策と大差ないものになり、社会民主主義と共産主義の違いも再び曖昧になった。
思想
黎明期の共産主義思想
  コミュニズム(共産主義)という言葉の由来はラテン語の「communisコムニス」であり、共有、共通、共同 を意味する。歴史的に最も早い使用例はシルヴィ父子によって書かれた『理性の書』(1706年)である。私有財産の否定による完全平等の実現という現在使われる文脈とほぼ同じ意味でコミュニズム(共産主義)という語を用いた最初の人物はフランソワ・ノエル・バブーフである。バブーフは後に「共産主義の先駆」とも呼ばれ、また前衛分子による武装蜂起階級独裁などの革命思想の概念の先駆者の一人でもある。またルイ・オーギュスト・ブランキも武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取や人民武装による独裁といった概念を主張した。
  その後、フランスにおいて社会主義や共産主義などの思想が広まった。1842年に出版されたローレンツ・フォン・シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』がその概要をドイツに伝え、マルクスエンゲルスもそれによってフランスの思想状況を知った。
  エンゲルスは『空想から科学へ』の中で次のように述べた。
  「大きなブルジョア運動がおこるたびごとに、近代的プロレタリアートの、多少とも発展した先駆者である階級の、自主的な動きがいつも現われた。たとえば、ドイツの宗教改革農民戦争との時代における再洗礼派トマス・ミュンツァーイギリス大革命における平等派(レヴラーズ)フランス大革命におけるバブーフがそれである。まだ一人前になっていなかった階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた。一六、一七世紀には理想的社会状態の空想的な描写が、一八世紀にはすでにあからさまな共産主義理論(モレリーとマブリー)が現われた。」
マルクス主義(科学的社会主義) (詳細は「マルクス主義」を参照)
  マルクスとエンゲルスは、1847年6月に共産主義者同盟の綱領的文書として執筆した『共産党宣言(共産主義者宣言)』において、資本主義社会をブルジョワジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)の階級対立によって特徴づけ、ブルジョワ的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の当面の目標とした。最終的に階級対立は解消され、国家権力は政治的性格を失うとし、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会(共産主義社会)を形成する条件が生まれるとした。
  エンゲルスは、1880年に出版された『空想から科学へ』において、唯物史観剰余価値説によって社会主義は科学となったとし、自らの立場を科学的社会主義と称した。共産主義社会の詳細な構想を語るのではなく、資本主義社会の科学的分析によって共産主義革命の歴史的必然性を示そうとするところにマルクス主義の大きな特徴がある。

  とはいえ、マルクスやエンゲルスが共産主義社会のイメージを語った例もいくつか存在する。前述の『共産党宣言』のほか、1873年に出版された『資本論』第一巻の第二版には、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体[25]」についての言及がある。社会的分業の一環としての労働が私的な労働として行われる商品生産社会を乗り越えた社会についての記述であり、事実上の共産主義論と見なされている。また、直接言及した箇所には第一版の「共産主義社会では、機械は、ブルジョワ社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」、第二版の「共産主義社会は社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう。」がある。1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。
  その後の歴史的展開により、マルクス主義には様々なバリエーションが存在する。マルクス・レーニン主義トロツキズム毛沢東主義ユーロコミュニズムなどである。
無政府共産主義
  無政府共産主義は自由主義共産主義とも呼ばれ、国家私的所有権資本主義などの全廃を提唱し、生産手段社会的所有、自主的な組合や生産現場における労働者評議会による直接民主主義や水平的なネットワーク、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」との指導原理をベースとした消費、などに賛成する。
  ピョートル・クロポトキンマレイ・ブクチンなどの無政府共産主義者は、そのような社会のメンバーは公的企業や相互扶助の利益を認識しているために必要な労働を自発的に達成すると信じた。一方で、ネストル・マフノリカルド・フロレス・マゴンなどは、無政府共産主義の社会では子供や老人、病人、弱者などを除いた全員は労働を義務とされるべきと確信していた。
  クロポトキンは、真の無政府共産主義社会では「怠惰」または「サボタージュ」は大きな問題になると考えなかったが、自由な無政府共産主義では、担当した仕事を実行するという共通の合意を満たさないままで離脱する事を認めた。
キリスト教共産主義(詳細は「キリスト教共産主義」を参照 )
  キリスト教共産主義は、キリスト教を中心にした宗教的共産主義の形態の1つである。その理論的および政治的な理論は、イエス・キリストキリスト教徒に理想的な社会体制としての共産主義を論じた、という視点をベースとしている。
  キリスト教共産主義は、キリスト教社会主義急進的な形態と見ることもできる。また多くのキリスト教共産主義者は、過去に独立した、国家の無い共同体を形成したため、キリスト教共産主義とキリスト教無政府主義の間には関連がある。キリスト教共産主義者には、マルクス主義の色々な潮流に、賛成する者、賛成しない者などがいる。
  キリスト教共産主義者はまた、資本主義を社会主義に置換え、更に将来には共産主義に移行する、などの点では、マルクス主義者と政治的な目標を共有する。しかしキリスト教共産主義者は、社会主義者または共産主義者の社会が組織されなければならないとするマルクス主義、特にレーニン主義に対してはしばしば賛同しない。
歴史
  共産主義の源流とされる思想の歴史は古く、プラトンの国家論[37][38]キリスト教共産主義などの宗教における財産の共有、空想的社会主義と呼ばれる潮流における財産の共有、フランス革命でのジャコバン派、一部のアナキズムによる無政府共産主義などがある。19世紀後半にカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスが共産主義思想を体系化し、唯物史観を基本に生産手段の社会的共有と私有財産制の制限による共産主義革命を掲げた「マルクス主義(科学的社会主義)」が共産主義思想の有力な潮流となった。また十月革命の成功によるソビエト連邦の成立により、ウラジーミル・レーニンによる革命的な党の組織論などをマルクス主義に総合した「レーニン主義」が影響力を高め、後に「マルクス・レーニン主義」として定式化された。
  更にレフ・トロツキーによるマルクス主義の概念である「トロツキズム」、毛沢東による当時の中国の状況に適合させたマルクス主義の解釈である「毛沢東主義」など、マルクス主義は革命の起こった国の指導者の考えや国情により多数の思想や理論、運動、体制となり世界へ広まっていったソビエト連邦の崩壊以降は「正統派マルクス主義」の影響力は世界的に大きく低下したが、マルクス主義または非マルクス主義の、各種の共産主義の思想や運動が存在し続けている。
空想的社会主義
  19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンシャルル・フーリエロバート・オウエンといった思想家達が、ユートピア構想に基づく社会主義的理論と、共同体の運営実験を行った。ロッチデール先駆者協同組合ニュー・ラナークはその試みの例である。彼らの思想はカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスにも影響を与えた。エンゲルスは彼らの思想を「空想的社会主義」と特徴づけた。
共産主義者同盟
  1834年、パリで君主主義に反対するドイツ人亡命者の秘密結社追放者同盟が結成された。1837年カール・シャッパーヴィルヘルム・ヴァイトリングらが分裂し、正義者同盟を結成した。1838年に同盟では共産主義的綱領が採択され、最初の共産主義団体となった。やがて合法活動に転じたシャッパーと武装蜂起路線をとるヴァイトリングの対立が表面化し、同盟は分裂状態に陥った。
  1846年2月にマルクスとエンゲルスはブリュッセルでブリュッセル共産主義通信委員会を結成した。マルクスらとシャッパー派は連携し、正義者同盟の再編を行った。1847年6月に正義者同盟は共産主義者同盟と改称し、再スタートを切った。シャッパーはマルクスとエンゲルスに綱領的文書の作成を依頼し、シャッパーの校閲を経た上で発表された。これが『共産党宣言(共産主義者宣言)』である。
第一インターナショナル(詳細は「第一インターナショナル」を参照)
  1866年、ジュネーブで社会主義者の国際組織第一インターナショナルが初開催された。この組織の中でマルクスの理論は次第に影響力を強めていくが、ピエール・ジョゼフ・プルードンミハイル・バクーニン等の無政府主義者と対立した。1872年にはマルクス派がバクーニンを除名し、第一インターナショナルは分裂した。
  同じ頃ピョートル・クロポトキンは無政府主義の延長上にある無政府共産主義を唱え、幸徳秋水を始めとする世界の思想家に影響を与えた。
社会民主主義の成長と挫折
  1889年にはマルクス主義派が中心となって第二インターナショナルが設立された。中心的な役割を果たしたのはドイツ社会民主党であり、カール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。しかし同党では1890年代プロレタリア独裁暴力革命を否定するエドゥアルト・ベルンシュタインらによる修正マルクス主義とカウツキーらの論争(修正主義論争)が勃発した。後に修正主義の路線は社会民主主義の思想を生み出すことになる。
  マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。ロシア社会民主労働党のウラジミール・レーニンは、ボリシェヴィキと呼ばれる分派を形成し、マルクス・レーニン主義と呼ばれる思想を形成しつつあった。彼の思想に対する有力な反論者がドイツ社会民主党のローザ・ルクセンブルクであり、激しい論争が起こっている。
  しかし1914年第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義的な戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルはばらばらになった。戦争反対を貫いたのはボリシェヴィキのほかには、カウツキー、ベルンシュタイン、ルクセンブルクらが結成したドイツ独立社会民主党をはじめとするごく少数だった。
ロシア革命の成功と世界革命支援
  ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年には党名をロシア共産党に変更し、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱した。土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。
  一方ドイツ帝国では、1918年11月12日に皇帝ヴィルヘルム2世が退位すると、独立社会民主党のカール・リープクネヒトによって社会主義共和国の成立が企てられたが、戦争中から和平に転じた社会民主党が機先を制し、社会民主党主導の政府が成立した。同年12月、独立社会民主党から分裂したルクセンブルクとリープクネヒトによってドイツ共産党が成立し、ドイツ革命を目指したが翌年1月に鎮圧された(スパルタクス団蜂起)。
  ロシア共産党は1919年コミンテルンを設立して世界各地の革命を支援した。この結果生まれたのがハンガリー・ソビエト共和国等であったが、大半が短期間のうちに消滅した(参照)。しかしコミンテルンの革命支援・共産党に対する指令の動きはその後も継続された。コミンテルン書記のカール・ラデックは、革命を起こすために各国の右派との連帯を目指すナショナル・ボルシェヴィズム路線を提唱し、ルール占領に反対するストライキなどで右派政党との協調路線をとらせた。
  ペルーではホセ・カルロス・マリアテギが1928年にペルー社会党を結成したが、彼が『ペルーの現実解釈のための七試論』(1928年)で示した独自の理論は1929年にコミンテルンから否定され、1930年にコミンテルン支部としてペルー共産党が結成された。彼は生前は評価されなかったが、死後ラテンアメリカ先住民の復権を唱えたインディヘニスモラテンアメリカのマルクス主義者に大きな影響を与え、チェ・ゲバラセンデロ・ルミノソトゥパク・アマル革命運動などの後のラテンアメリカ左翼運動に影響を残している。
スターリン主義とトロツキー主義
  内戦終結後の1922年ソビエト連邦が成立した。1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた世界革命の思想をソ連の現実に合わせる形で修正した(スターリニズム)。
  マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だとする一国社会主義論を主張した。そして、1936年スターリン憲法制定時に、ソ連において社会主義は実現されたと宣言した。コミンテルンの指導部もスターリンの影響下に落ち、社会民主主義を「ファシズムの双生児」と定義した社会ファシズム論が主張されるようになった。
  スターリンは農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョワジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。
  しかしコミンテルン支部である各国共産党による革命路線と社会民主主義勢力への攻撃は、各国での共産主義革命にはつながらず、結果的にはイタリアでのファシズムやドイツでのナチスの政権獲得を許したため、1935年にコミンテルンは左派の連帯をとる人民戦線戦術へと転換し、スペイン内戦で人民戦線政府を支援した。しかし1936年から1938年には大粛清がはじまり、共産党幹部を含めた数百万の人々が犠牲になった。コミンテルンの活動家も例外ではなく、ハンガリー革命の指導者クン・ベーラを始めとする多くの活動家が処刑された。
  第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト連邦を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。また連合国の警戒心を解くため、1943年にコミンテルンを解散した。
  レフ・トロツキーと彼の支持者は、スターリンの一国社会主義論を強く批判し、ボリシェヴィキ内部で党内闘争を続けた末に敗れた。1929年にトロツキーはソビエト連邦から追放された。トロツキー派は変質したコミンテルンに変わる新しい国際組織として1938年第四インターナショナルを創設した。
社会主義国家陣営の成立
  1945年の独ソ戦におけるソビエト連邦の勝利は、ソ連の影響下に置かれた社会主義国を多数生み出した。1947年、ソ連を含む東欧諸国の共産党はコミンフォルムを結成し、東側諸国を形成していくことになる。西側諸国との対立は深まり、冷戦が開始された。西側諸国の一部では共産主義者の追放(赤狩り)なども発生した。
  1948年にはユーゴスラビア共産党非同盟運動を提唱してコミンフォルムを脱退、ソ連・東欧諸国とは一線を画した。同時に独自の自主管理社会主義を打ち出し、ソ連型とは異なる分権的な経済システムの構築を始めた。1949年には中国共産党国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させた。1950年には朝鮮戦争が勃発し、冷戦期に多く見られる西側と東側の支援を受けた地域紛争の初例となった。
共産主義運動の多様化
  スターリンが死んだ3年後の1956年、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフスターリン批判を行ってスターリンの権威を失墜させ、世界中の共産党に大きな衝撃を与えた。ソ連はスターリン体制の改革に動きだし、各国の共産党も追随した。
  一方、中華人民共和国とアルバニアはスターリン死後のソ連の変質を、「修正主義」「社会帝国主義」と見なして激しく攻撃し、自らを反修正主義として正当性を主張した。一方のソ連も毛沢東の人民弾圧を非難して、両国は厳しく対立することになった(中ソ対立)。ソ連の指導から離れた中国共産党は毛沢東の指導下で毛沢東思想を形成していくことになる。中ソ対立は世界中のコミンテルン直系の共産党に分断をもたらし、新左翼の間にも信奉者を生んだ。国家の政権を握った例では、アルバニア労働党クメール・ルージュが中華人民共和国側についた(日本では日本共産党(左派)や一部の日本の新左翼など)。毛沢東の指導下の中国共産党は、事実上、国際的な共産主義潮流の分断を再びもたらした。毛沢東死後の中国では鄧小平が実践する鄧小平理論の下で社会主義市場経済が導入されたが、中華人民共和国が資本主義を導入して反修正主義的な毛沢東主義が顧みられなくなった1980年代以降も、ペルーインドネパールなどで毛沢東主義を掲げる共産党によって武装闘争が繰り広げられた。

  また同年、ハンガリー動乱においてソ連率いるワルシャワ条約機構軍が民衆の蜂起を弾圧したことは、各国でソ連に対する失望を産むことになった。欧米や日本では新左翼(ニューレフト)と呼ばれる潮流が発生し、トロツキズムも影響力を拡大した。
  1959年キューバ革命が成功すると、ラテンアメリカ、アフリカ、中東におけるソ連派と西側派の抗争が高まった。これらは「代理戦争」とも呼ばれる。ベトナム戦争コンゴ動乱アンゴラ内戦オガデン戦争などきわめて長期間に及ぶ大規模な紛争も発生した。ラテンアメリカでは、マリアテギやチェ・ゲバラ毛沢東思想等の多様な影響を受けた左派がゲリラを形成した。
  1968年にはチェコスロバキアの改革の動き「プラハの春」が始まったが、再びワルシャワ条約機構軍によって鎮圧された。この事件はさらにソ連への失望を産むことになり、西欧の共産党はソ連型社会主義とは一線を画した、いわゆる「ユーロコミュニズム」と呼ばれる、市場経済や、個人の自由や民主主義を前提とした共産主義を目指して行く。その中心はイタリア共産党であったが、日本共産党も「自由と民主主義の宣言」によって、市民的自由や政権交代を含む多党制の擁護を明確にし、日本型社会主義のビジョンを提起する(ユーロコミュニズムと基本的には同様の傾向をもつが、非同盟平和主義を正面に押し出した点が異なる)。

  1977年頃、アルバニアのエンヴェル・ホッジャはアメリカと接近した中国とも訣別し、アルバニア派と呼ばれる独自のスターリン主義派(ホッジャ主義)を形成した。この潮流は、自分自身をスターリンの遺産の厳格な防衛者と定め、他の全ての共産主義集団を修正主義と激しく批判した。エンヴェル・ホッジャアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華人民共和国を批判し、1968年にワルシャワ条約機構チェコスロバキアに軍事侵攻したプラハの春を非難した。ホッジャは1978年の中国との決裂後、アルバニアは世界で唯一のマルクス・レーニン主義国家となると宣言した。同様にソ連と距離を置く独自路線を行っていたユーゴスラビアのチトー主義や、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、北朝鮮の金日成も批判したアルバニアは孤立を深めることになる。一方でこのアルバニアのイデオロギーは、 コロンビア人民解放軍ブラジル共産党など主にラテンアメリカで毛沢東主義の大きなシェアを獲得し、国際的な賛同者を産んだ。この傾向は後にホッジャ主義と呼ばれた。アルバニアで共産主義者の政権が倒れた後、親アルバニア政党は国際会議のマルキストレーニスト諸派諸組織の国際会議に参加した。
ソ連型社会主義の崩壊と各国の動向(「社会主義国」も参照)
  ソ連や東欧の共産党政権は、1989年以降に次々と崩壊し、1991年にはソ連が解体された。
  ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の理由としては、社会主義国の経済の停滞が長く続き、西側から大きく引き離されてしまったこと、ゴルバチョフ政権が推進したグラスノスチにより共産貴族の腐敗の実態が暴露されたこと、衛星放送の普及などで国民が西側の豊かな生活を知ってしまったことなどがある。経済停滞の原因には、一党独裁・中央集権による官僚主義(ノーメンクラトゥーラ)や非効率、西側の封じ込め政策である禁輸、過度の軍需・重工業優先による民生部門(軽工業・流通・サービス・農業)の立ち後れなどがある。
  中華人民共和国は、毛沢東が主導した大躍進政策文化大革命によって社会的混乱を経験した後、1970年代後半から主導権を握った華国鋒により西側諸国との国交を相次いで樹立し、次いで後継者となった鄧小平の指導で1980年代以降改革開放を進め、社会主義市場経済を標榜した。これは、資本主義と社会主義の混合経済とする見方もあり、毛沢東時代の横並び的な平等思想とは全く異なる。「鄧小平理論」として具現化されたこの考えは、ほぼ同時期に西側で行われたレーガノミクスサッチャリズム同様、一種のトリクルダウン理論だと考えられている。「発達した資本主義経済から社会主義経済へ移行する」というマルクス主義の経済発展段階の学説に基づき、市場原理の導入によって経済を発展させ、それを基に社会主義社会を通して共産主義社会を目指すとしており、現在は資本主義社会から社会主義社会への過渡期であると主張している。しかし、鄧小平による改革開放路線採用以降、民工などの過酷な労働者の搾取が存在し、貧富の格差が増大するなど、その路線の問題点も指摘されている。

  ベトナムは、ベトナム戦争期において、中ソ間の等距離外交に努め、両国の支援によりアメリカ合衆国と砲火を交え、これを撤退に追い込んだ。戦後は親ソ政策に舵を切り、また隣国カンボジアに侵攻して独自の原始共産主義を掲げる親中派のクメール・ルージュポル・ポト派)を駆逐したことで、中越戦争を招いた。さらに、カンボジア駐留の長期化により、国際的に孤立し、経済を悪化させた。しかし、1986年にはドイモイ政策を掲げて市場経済を部分的に導入し、以降中国を除く他の社会主義国が急速に衰えていく中、逆に高い経済成長率を達成した。ソ連崩壊の前後には、ベトナム共産党の党規約および憲法に「ホー・チ・ミン思想」を明記し、共産主義をベトナムの事情に合わせて解釈する独自路線を採用した。その後は、アメリカや日本など西側諸国との関係を深め、またカンボジア問題の解決により中華人民共和国とも和解し、これらの国々と良好な状態を保っている。
  北朝鮮は独自の主体思想を標榜し、ソ連・東欧の崩壊に伴う交易環境の悪化にもかかわらず体制を維持したが、経済は破綻、深刻な飢餓によって数百万の死者を出したといわれる。なお、2010年9月28日の第3回党代表者会で採択された朝鮮労働党の党規約では、「社会主義」や「マルクス・レーニン主義」は残されたものの「共産主義」の文言は削除されている。

  冷戦終結後に最大の援助国ソ連を失ったキューバは、米国の経済封鎖下で深刻な経済危機に直面したが、都市部での有機農法での食料増産や省エネルギー政策で持ち直した。国民には民主化が不十分な事への不満は多いが、無料の教育や医療や、他のラテンアメリカ諸国への医療援助などで一定の支持を得ている。最近ではベネズエラなどのラテンアメリカ諸国との経済交流が進んでいる。
  西側諸国では、冷戦期は社会主義に対する脅威もあり、労働法制の強化や、社会保障を充実させるなど、労働者の権利を認めざるを得なかったが、1980年代以降経済的な規制を緩め、市場原理主義を推進する新保守主義新自由主義)が台頭し、再び資本主義国の労働者が過酷な境遇に追い立てられている。新自由主義の影響が強いのは先進国の中ではアメリカ合衆国や英国、ニュージーランド、日本などである。
  また国際通貨基金の介入により韓国、中南米諸国など中進国に導入された新自由主義は、先進国以上に深刻な貧困と社会的な分断を生み出した。これらの資本主義諸国における国会に議席を持つ共産主義諸党の多くは、自由と民主主義を土台にした共産主義(スペイン共産党などユーロコミュニズムの流れをくむ諸政党、日本共産党など)を主張している。
現在
  アジア、アフリカやラテンアメリカの国々では、国家や政権与党が「社会主義」や「共産主義」を掲げ、複数政党制をとる諸国が多数あるが、これらは通常は、「社会主義国」「共産主義国」とは呼ばれていない。また資本主義を掲げる政党が与党の国々で、通常「資本主義国」と呼ばれる国々でも、共産主義を掲げる共産党や、各種の共産主義の思想や運動が存在しており、資本主義自由主義、あるいは新自由主義に対する批判や共産主義の思想に基づく政策の実施を要求している。また共産主義の思想や運動に対する反対や批判には各種の反共主義がある。
  国際組織としては、1943年のコミンテルン解散以降、各国主要共産党が参加する国際組織は存在しないが、大会時に相互に代表を派遣したり、共産主義に関する研究の到達点に関して、相互に情報を交換しあう理論交流などが行われている。また、社会主義系の国際組織であるインターナショナルのうち、共産主義を掲げているものには、トロツキズム系の第四インターナショナル(各派に分裂中)、左翼共産主義系の国際共産主義潮流などがあり、共産主義が提唱されているが存在していないものに第五インターナショナルがある。
  日本では日本共産党や、新左翼系の革マル派中核派社青同解放派第四インターナショナルなどの党派が、それぞれ異なる共産主義を掲げている。

議論(詳細は「反共主義」、「マルクス主義批判」、「反レーニン主義」、「フリードリヒ・ハイエク」、「エドマンド・バーク」、「実在」、および「反動」を参照)
  共産主義に関する議論は、「共産主義」の定義によっても異なる。また共産主義に対しての論争は、右翼や保守主義者以外にも、左翼や社会主義者からもなされている。
  反マルクス主義の立場からは、生産手段や商品売買の形態を土台とする、下部構造・上部構造論に異論がある。また、唯物史観生産手段や雇用形態の発展とその矛盾による階級闘争でしか人類の歴史を見ていないと言う批判がある。マルクス経済学の等価交換の法則は、価値観や品質という概念を無視して材料費や生産性のみで商品を解釈しているという批判がある。
  自由主義者は「財産を共有する」必要性や、平等を絶対善と前提した上での平等主義や階級闘争に反対している。社会主義者のベルンシュタインは階級間は単純に闘争しているのではなく時に敵対しつつも、お互いに補完したりアウフヘーベンしているとし、労働者の反乱や革命にのみ注目して、階級闘争を歴史の必然だとするマルクスの歴史観に反対し、社会主義革命は不要だと唱えた。
  ユダヤ人で反ファシストのハンナ・アーレントは、国家社会主義(ナチス)と科学的社会主義(共産主義)は敵対したが、計画経済集産主義という点でこの2つの概念は共通していると考察した。(全体主義の起源)


金融ファクシミリ新聞
国際政治学者-北海道大学名誉教授-早稲田大学名誉教授
伊東 孝之 氏
「中国の影響受け世界が独裁化」

――香港やミャンマー、ロシアなど、力で民主化を抑えるような事件が相次ぎ、世界的に民主化の危機が始まっているようだ…
伊東 
  米国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンによれば、19世紀初頭から現在に至るまで、三つの民主化の波が起きた。第三の波といわれる最新の民主化の動きは1974年頃に始まり、2000年代まで続いた。民主化の波が終わると、通常民主化の揺れ戻しの波、つまり独裁化の波が起こる。実際にアフリカ、ラテンアメリカ、アジアなどを中心に2000年代に入ってから独裁化の兆候が目立つようになった。また旧ソ連諸国ではバルト諸国、ウクライナなどを除き独裁政治体制が支配的となっている。EUに加盟しているポーランドやハンガリーでさえ独裁化の傾向が目立っている。
――どういったことがきっかけで、その波は起こるのか…。
伊東
  それについてはいろいろな説があるが、分かりやすいのは政治体制の波はその時代に一番強大である国をモデルとして起きるというものだ。第二次世界大戦後に起こった民主化の波のモデルは米国だったが、その傍らにはソ連のモデルも存在した。東西冷戦中の約40年間にはソ連的な政治体制を目指す国もあったが、米国をモデルとする民主化の波の方が徐々に優勢となった。そして1991年のソ連崩壊後、世界は米国一強になったと思われ、実際に多くの国々が民主化した。しかし、実のところ米国が世界で占めるGDPの割合は第二次世界大戦直後に50%ほどに達したのをピークとして縮小し続け、現在では10%くらいに過ぎなくなっている。もはや米国一強という時代ではなく、米国は軍事的に強力な国であっても、経済的には必ずしも魅力的な国とは言えなくなっている。
――今後、米国の政治体制モデルにとって代わる国は…。 
伊東
  米国に代わる国として台頭してきているのはEUだが、EUは27カ国もの集まりであるため、必ずしも政治的にまとまっているわけではなく、軍事的にも米国に頼っているところがある。他方で、中国は経済的にも米国に迫る勢いでGDPは米国を追い抜こうとしている。軍事的にはすでに大国といえよう。何よりも中国自体が他の国にとって政治体制のモデルとなることを目指しており、実際にアフリカ諸国や近隣アジア諸国など、中国モデルに追随する国々が出てきている。
――中国は、独裁国家だが比較的安定しており、且つ経済成長も遂げている。この中国モデルの波が大きくなれば、今後は西側諸国の民主主義と中国モデルが拮抗していくことになるのか…。
伊東
  基本的に独裁モデルは軍事独裁、政党独裁、個人独裁の三つに分類され、中国は今までのところ政党独裁といえる。政党独裁は政党を作ったり、大衆組織を作ったりするなど民主主義に学んでいる側面もあり、三つのモデルの中では一番長持ちすると言われている。実際に、初めて政党独裁を導入したソ連の独裁政治は72年間続いた。ソ連の場合、第二次世界大戦に勝利し、領土を拡大したという側面が大きいが、中国の場合も第二次世界大戦で日本を破り、国土を統一して大いに国民の支持を集めた。出発時点での経済水準が低く、色々な問題があったものの、中国の政党独裁体制は今年で71年目に突入している。特に鄧小平以降の中国のGDP成長率は年平均10%超が30年以上も続くなど、世界史に例を見ない長期の高度成長を遂げた。それに乗じて指導者の習近平は近年、国家主席、党総書記、党中央軍事委員会主席など国家の枢要な地位を独占し、かつその任期を撤廃するなどして政党独裁を超えて個人独裁の傾向を示し始めている。この政治体制がどれくらい続くか判断が難しいところだが、取りあえずあと10年から20年程度は保つのではないか。その間、西側モデルに対抗できるかどうかは分からないが、一部のアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国にとっては魅力ある選択肢を示すと思われる。
―― 一方で、トランプ元大統領による連邦議会襲撃の扇動問題などで、民主主義国家の代表格である米国は揺らいでいるように見えるが…。
伊東
  確かにトランプ大統領末期の混乱によってアメリカの民主主義は動揺したが、民主党のバイデン候補が大統領選挙において幾多の困難にもかかわらず快勝したことによって再び安定を取り戻すだろうと思われる。おそらく暫くはトランプ主義の後遺症が続くだろうが。中国においては力を持ち始めた中産階級が習近平政権に批判的になってくることが考えられる。中国でも急速な経済成長によって中産階級が財産を蓄え、教育水準を高め、海外でも見聞を広めて、自信を深めつつある。彼らが個人独裁を長く許すとは思えない。なんらかのきっかけで政治体制が動揺しはじめるかも知れない。それは経済危機かも知れないし、地方の反乱かも知れないし、外交政策の失敗かも知れない。一番ありそうなのは政権内部で分裂が起きることだろう。ソ連も政権末期にはほぼ無政府状態に陥った。
――14億人という国民をもつ中国の将来の安定を考えると、それぞれの民族に分かれて連邦制度にするやり方が良いのではないかという意見もあるが…。 伊東
  連邦制は封建制となじみが深い国家体制だが、中国は古代の周王朝を除いて封建制を採ったことがない。中国史は中央集権的な国家になるか、或いは分裂して多くの地方政権に分かれて相互に争うかだった。そのため、今後も中国が連邦制を取るだろうと予測するのは難しい。ソ連の連邦制は民族共和国を単位としたもので、連邦制としては珍しいあり方だった。それは異民族が人口の半分を占めるという特殊事情に基づいたもので、民族問題解決の一つの方策だった。しかし、中国では異民族は人口の8%程度を占めるだけで、しかも辺境に位置している。同じ共産党国家として中国もソ連に倣って民族連邦制を採ろうとしたことがあるが、結局は単一制を採用した。統一国家を維持するという意味ではこれは正しい選択だったかも知れない。ソ連では民族政策がかなり成功して、ソ連が解体しかかったとき中央アジアの民族共和国は連邦中央を支持し、国家の統一維持を主張したほどだった。しかし、結局は民族共和国の境界線に沿って分裂してしまった。中国はソ連が崩壊したのを見て、ますます諸民族の自立的傾向を抑え、高度中央集権国家への道を歩もうとしているかのように見える。それはウィグル人やチベット人に対する抑圧的な政策によく現れている。
――中国は敢えて民族的自立を抑圧していると…。
伊東
  国家の分裂か、中央集権国家かという中国史における宿命的な揺れが、現在、後者の方に強く傾いているとすれば、それは日本のような周辺国家にとっても無関心ではいられない。中国はこれまで内陸において領土拡張を行ってきたが、現在では内陸方面ではロシア、カザフスタン、キルギス、インド、ミャンマー、ベトナムなどの既成国家に阻まれて領有権を拡張することができなくなっている。これに対して、海洋方面ではまだその余地があるかのように考えている感じがする。例えば、南シナ海では、これまでベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、インドネシアなどが領有権を主張していた西沙諸島、南沙諸島(スプラトリー諸島)、ミスチーフ礁などに対して自らの領有権を主張し、軍事基地を建設しはじめている。しばらく前からわが尖閣諸島に対しても領有権を主張しはじめた。領土紛争はゼロサムゲームであるため妥協が困難だ。隣国との間でそのような紛争が起きないように、なるべく早めに解決を求めた方がよい。日本は既にロシア、韓国との間に領土紛争を抱えている。幸い、尖閣諸島は無人島であるので、解決のチャンスがあるかも知れないと思ったが、中国は尖閣諸島の次には沖縄に対しても領有権を主張する気配を見せている。したがって、ここは譲ることができないだろう。米国、アジア、太平洋、インド洋諸国と連携して、中国の領土拡張傾向を抑え込むように努力すべきだ。/p>
――今後、民主化後退の波が大きくなれば、アセアン諸国や一帯一路に関わる国々は中国の政治体制の影響をうけ、独裁政治へと舵を切っていくのか…。 伊東
  すでにその動きはある。ベトナム、ラオス、カンボジアはもともと共産党の影響が濃い独裁国家だった。フィリピン、タイは過去に民主化した経験があるが、しばらく前から独裁化の傾向を顕著に見せている。最近のミャンマーの動きも、ある意味ではそうした独裁化の流れに沿ったものと考えてよいだろう。今後、独裁化の傾向は他のアセアン諸国にも及ぶ可能性がある。しかし、アセアンはEUと違い民主主義が加盟の要件とはなっておらず、政治体制とは関係なしに東南アジア諸国すべてを経済的に統合することを狙った地域組織だ。日本も政治体制を問わない外交を行っているので、その点ではあまり大きな問題にぶつからないだろう。ただ、ミャンマーの軍事クーデターについてはわが国では誤解されている側面がある。一般的に中国が背後にいるのではないかと言われているが、必ずしもそうではない。中国はアウン・サン・スーチー国家顧問と良好な関係を保っていた。むしろ軍部との間で距離があったようだ。ミャンマーの軍人は国家の安全保障の観点から中国に対して警戒心をもっているといわれる。中国は古くから雲南省とインド洋の間に通商路を開くことに関心をもっていた。石油パイプラインを開設したが、さらにハイウェイも施設したいと考えている。これに対してミャンマー軍部は首を縦に振らなかったと言われる。確かにここは第二次大戦以来戦略上の要衝だ。ミャンマー軍部はインドと中国に挟まれて選択に苦慮しているのかも知れない。いずれにせよ、軍事独裁は独裁制のタイプとして今日の世界で次第に稀少となる傾向を示している。それは経済発展を阻む恐れがあるし、内部分裂の危険も孕んでいる。すでに外国資本が撤退し始めたと伝えられている。中国からも西側からも支援が得られなければ、軍事政権は孤立してしまうだろう。他方で、アウン・サン・スーチー国家顧問もロヒンギャなど少数民族問題で西側諸国と衝突し、かつての民主化の旗手としての評価には翳りが見えている。そろそろ新しい政治家世代が登場して、民主化の事業を引き継ぐことを期待するべきではないか。(了)








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