アフガニスタンの問題


2019.12.2-Yahoo!!-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191202-00000592-san-asia
混乱続くアフガン 大統領選2カ月未確定、和平交渉も「蚊帳の外」

  【シンガポール=森浩】アフガニスタンで大統領選(9月28日投票)の結果が2カ月を経ても確定しないなど、国内情勢の混乱が続く。米国とイスラム原理主義勢力タリバンの和平交渉再開が発表されたが、アフガン政府が関与できる見通しは立たない。政府が存在感を示せない中、中国がアフガン情勢で影響力を拡大しようとしている。
 18人が立候補した大統領選について、選挙管理委員会は10月に暫定結果を発表する予定だったが、複数回延期されている。
 本人確認用の生体認証機器の不具合を発端とした再集計をめぐり、有力候補であるアブドラ・アブドラ行政長官陣営が「ガニ大統領陣営が選管と結託して票の水増しをしている」と告発していることが大きい。11月29日には首都カブールでアブドラ陣営が呼び掛けたデモも行われた。
 選管は34州のうち、27州で票の再集計を行ったが、アブドラ氏の支持者が集計作業の妨害を続ける。ガニ氏としては円滑な選挙と自らの再選を通じて求心力を高めたい考えだったが、もくろみは外れた形だ。「むしろ選挙で政治的混乱が加速した」とは現地ジャーナリストの言葉だ。
 一方、タリバンは30日にも南部ヘルマンド州で政府軍司令官を殺害するなど、攻撃の手を緩めていない。27日に同国北部で起きた子供を含む市民計16人が殺害された事件への関与も指摘される。トランプ米大統領のアフガン電撃訪問を受けて発表された米国との和平交渉再開について、タリバンの報道担当者は「協議をめぐる方針は変わっていない」とコメント。テロ攻撃を続行するとともに、「傀(かい)儡(らい)政権」と批判するアフガン政府との対話はこれまで同様拒絶する見通しだ。
 政府が和平交渉で蚊帳の外に置かれる中、中国が政府とタリバンの対話実現に向けて関与を強める。中国外務省の耿爽報道官は記者会見で、「アフガンの平和のために助力している」と明言した。
 中国は、巨大経済圏構想「一帯一路」の中継地点として、中央アジアの要衝アフガンを重視する姿勢を見せる。アフガン民放によると、中国は10月末にアフガン国内の各政治勢力を集めた協議を北京で開催する予定だったが、出席者をめぐって調整が付かず延期となった。中国側は引き続き開催を模索しており、“調停役”を担うことで、影響力を拡大させたい意図がある。


2019.9.10-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190910/wor1909100016-n1.html
アフガン和平協議は「死んだ」とトランプ氏 米軍撤収は引き続き検討

  【ワシントン=黒瀬悦成】トランプ米大統領は9日、ホワイトハウスで記者団に対し、アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンとの和平協議について「私は、死んだとみなしている」と述べ、協議を再開しない意向を明らかにした。昨年10月から9回実施されたタリバンとの交渉は、いったん白紙に戻ることが確定的となった。
 トランプ氏は、8日にワシントン郊外の大統領山荘「キャンプデービッド」で予定したタリバン指導部とアフガンのガニ大統領との秘密会談に関し、「私が発案し、私自身が中止を決めた」とし、ポンペオ国務長官やボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)らに説得されて中止したとの米報道を否定した。
 米国でテロ組織とみなされているタリバンを大統領山荘に招待したことに批判が出ている問題では、「過去にもいわゆる『悪い連中』が山荘に招かれている」と反論し、「ホワイトハウスに招くのは行き過ぎなので、山荘なら適切だと思った」と説明した。
 大統領山荘には2000年にパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長が中東和平をめぐりイスラエルのバラク首相とともに招かれており、トランプ氏の発言はこうした事例が念頭にあるとみられる。
 トランプ氏はアフガン駐留米軍の撤収について「引き続き検討している。(現地の治安維持には)アフガン政府が責任を持つべきだ」と語り、「適切な時期に撤収する」と強調した。


2019.8.20-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190820/wor1908200017-n1.html
タリバン「協議進展」主張も 停戦などで米国と隔たり

  【シンガポール=森浩】米国との8回のアフガニスタン和平協議を経て、イスラム原理主義勢力タリバン側も「交渉は進展している」(広報担当者)との認識で、和平成立は遠くないとの見方を示している。ただ、停戦の在り方などをめぐって両者には意見の隔たりがある。すんなりと実現するかはまだ見通せない状況だ。
 タリバン関係者によると、カタールの首都ドーハで3~12日の日程で行われたタリバンと米国の第8回協議では、和平合意案にある両者の停戦の方法に時間が割かれたもようだ。米国はアフガン全土で一斉に停戦することを要求したが、タリバン側は米軍が退いた地域から戦闘を段階的に停止していくことを主張したという。
 タリバンは米軍撤収後のアフガン国内で主導権を握りたい考えがある。少しでも優位な立場が築けるよう停戦交渉を進めたい意向だ。タリバン関係者は産経新聞の取材に対し、米国の交渉役であるハリルザド・アフガン和平担当特別代表はこれまでの協議で「一度は段階的な停戦で同意したが、その後に翻意した」と主張。停戦の在り方については米国主導ではなく、アフガン各勢力の協議で決められるべきだと訴えた。
 また、第8回協議では米軍の撤収期間についても話し合われ、米国は「18カ月以内での段階的撤収」を主張したが、タリバンは1年以内での撤収を要求するなど、隔たりは解消されていない。トランプ米大統領はテロ情報収集のため、米軍の一定数を残留させる計画を述べているが、この点についてもタリバンは正式に合意していない。
 交渉が進む一方、タリバンは攻勢の手を緩めておらず。7日には首都カブールで、自動車爆弾によるテロを起こし、少なくとも14人が死亡した。2001年から続く戦闘でタリバン構成員には厭戦(えんせん)ムードが漂っているともされるが、内部には「こちらの条件を米国がのまないことには和平はありえない。交渉を急ぐメリットはタリバンにはない」(別のタリバン関係者)との強硬論も存在する。


2019.8.18-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190818/wor1908180014-n1.html
アフガンでテロ、結婚式で63人死亡 IS系が犯行声明

  アフガニスタンの首都カブールにある結婚式場で17日夜、爆発があった。アフガニスタン内務省は18日、63人が死亡し182人が負傷したと明らかにした。大統領報道官はツイッターで、自爆テロだとの見方を表明。AP通信によると、過激派組織「イスラム国」(IS)系の地元組織が犯行声明を出した。式には1000人以上が招かれていたとの情報があるという。
 式場はカブール西部にあり、同国で少数派のイスラム教シーア派を信仰するハザラ人の結婚披露宴が開かれていた。ハザラ人は、ともにスンニ派のISと反政府武装勢力タリバンの双方から標的とされてきた。 爆発後、タリバンは犯行を否定し、非難する声明を出した。
 カブールでは7日に自爆テロがあり、14人が死亡、145人が負傷した。この際はタリバンが犯行声明を出した。同国では9月28日に大統領選が予定されており、治安の悪化が懸念されていた。(共同)


アフガニスタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  アフガニスタン・イスラム共和国、通称アフガニスタンは、南アジアまたは中央アジアに位置する共和制国家内陸国であり、南及び東にパキスタン、西にイラン、北にタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンが位置し、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブルパシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人ハザーラ人ウズベク人トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。

イスラーム化の進展
  8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争トランスオクシアナ征服)、その支配下へ入る。751年タラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝サッファール朝サーマーン朝が興り統治する。
  995年マームーン朝のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝英語版は滅亡した。 1017年ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。 10世紀以降、この頃からパシュトゥーン人の存在が確認され始める。 1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。

モンゴル帝国
モンゴルのホラズム・シャー朝征服の後、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国クルト朝の支配を受ける。
ティムール朝
1370年頃、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂し、ヘラート政権に移行。1507年ウズベク族シャイバーン朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。
サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争
1510年サファヴィー朝イランによって征服される。1526年第一次パーニーパットの戦いカーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルインドムガル朝を建設。
1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年第二次パーニーパットの戦いスール朝ヘームーを破る。
1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。
1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。
1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。
アフガンの王家による統治のはじまり
ホータキー朝1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族ミール・ワイス・ホータキーが反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立。 1719年ミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。1729年アシュラフナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い
1736年アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。
ドゥッラーニー朝
サドーザイ朝
1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立。
1757年マラーターのインド北西部侵攻パンジャーブが占領される。 
バーラクザイ朝
1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国とする。
1838年1842年第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。
一方、第二次アフガン戦争1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。
イギリス保護国期
1880年に起こった第二次アフガン戦争に敗れイギリスの保護国となる。1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争が起きる。イギリスは巨文島巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。
1893年デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年チトラル遠征
アフガンの王家による再独立
1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流及びスワート川流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。
王妃ソラヤ・タルズィーは近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。
タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニーは、イギリスから資金と武器の支援を受けて、カーブルを占領してアマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦)。
1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。
1939年に開戦した第二次世界大戦では、日本ドイツなどからなる枢軸国、イギリスやアメリカソ連からなる連合国の、どちらにもつかない中立国として機能していた。
冷戦
パシュトゥーニスタン独立運動
1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタンは「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国英語版の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合英語版として独立させた。しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争英語版)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。
パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとした為、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン英語版独立運動」を起こし牽制した。
ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進したが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命した。
王政廃止からソ連軍の撤退まで
1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧する。この時パキスタンに脱出したヘクマティヤールヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、ラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。
1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命英語版」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し国名をアフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する中、1979年2月にイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。11月にイランアメリカ大使館人質事件が起きた。
1979年12月24日 ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。ブレジネフソビエト連邦共産党書記長はソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるといわれている。 12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。
1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。
1987年ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。
1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。

ターリバーンとの戦い
ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで
1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。 1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。またケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267英語版が採択される。 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

テロとの戦い(詳細は「テロとの戦い」を参照)
有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで
2001年10月2日アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日アメリカ軍不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した[9]11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。(ボン合意)アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで
2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。
  2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される[14]。1500人以上の代表参加。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した[15]6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。
2003年12月14日2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。北部同盟ターリバーン政権転覆に成功した後、かつての「パシュトゥーニスタン独立運動」の地域が逆にターリバーンアルカーイダの潜伏場所に変わっていた。2004年3月、ワジリスタン紛争が勃発。

アフガニスタン・イスラム共和国成立以降
2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。2005年、総選挙・州議会選挙実施。2006年、ISAFの指揮権がNATOに移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。
2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定
2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人[17]について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した[18] 9月18日、下院議会選挙。97か所の投票所を含む多数のターリバーンによるテロ攻撃があったと発表
2011年5月2日、CNNが、ビン=ラーディンアボッターバードで殺害した、と報道した[20]7月12日カンダハール州議会議長アフマド・ワリー・カルザイ(大統領の弟)が自宅で警護官によって暗殺される。7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した(後にターリバーンが犯行を認めた)。12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハール州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。
2014年9月29日アシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。なお、大統領選の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も新設された首相格の行政長官に就任した
2015年7月8日、アフガニスタン政府がパキスタンの首都イスラマバードでタリバンと初めて公式に和平を直接協議(中国とアメリカもオブザーバー参加)。
2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがタリバンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立するも[25]、同年3月にタリバンは和平交渉を拒否し[26]、同年4月にタリバンがカブールの情報機関、国家保安局を襲撃。9月5日午後2時半ごろ、カブールの国防省近くで自爆テロがあり、治安当局高官を含む35人が死亡、103人が負傷し、タリバンが犯行声明を出した。

人権問題
純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。
そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。

欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。 これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。
飲酒などにおいてはイスラム教・非イスラム教を問わず、発覚した場合は鞭打ちに科せられることがある。最悪の場合は死刑が言い渡される場合もある。
アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、例えば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる、「名誉殺人」も行われているという[32]。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしている、と報じられた。
ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの、巡礼・宗教問題省の名で復活している。

アフガニスタンは34の州 (velāyat) で構成されている。

経済
後発開発途上国の一つで、農業牧畜への依存度が高い。1973年の王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態は極めて悪い。
国家予算の約7割を国際支援に依存している。国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活しており、IMFの統計によると、2013年時点のアフガニスタンのGDPは207億ドルである。一人当たりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中で最も低い。失業率も高く、ネパールレソトなどと同じように40%を超える。
2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。

鉱業
古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。
もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190km、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山が主力。産出量は数トン程度。その他、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタン国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。
有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。
アイナック銅鉱山 (Aynak Copper) は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1.56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。その他には、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハルの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。
金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見らる。

麻薬アフガニスタンは「黄金の三日月地帯」に属し、旱魃地域ではアヘン等の原料となるケシの栽培が盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達するとされる。政府は麻薬対策省を設け、撲滅に当たっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成等の問題もあり、未だに解決を見ていない。
国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年現在もアフガニスタン南部のタリバーン支配地を中心に推定26万3000haの面積でケシの栽培が行われている







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