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ターリバーン
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  ターリバーン、タリバーンタリバン英語: TalibanまたはTaleban、「学生たち」または「求道者」の意)とは、アフガニスタンで活動するイスラム教スンナ派(多数派)諸派デオバンド派イスラム主義組織である。指導部はパキスタンのカラチカイバル・パクトゥンクワ州のデオバンド派マドラサで宗教教育を受けたパシュトゥーン人が多数を占める。

概要
  1996年から2001年まで、ターリバーンはアフガニスタンのおよそ4分の3の地域で権力を握り、シャリア(イスラム法)の厳格な法解釈を施行していた。ターリバーンは1994年にアフガン内戦の有力な派閥の一つとして登場し、伝統的なイスラム教の学校で教育を受け、ソ連・アフガン戦争で戦ったアフガニスタン東部・南部のパシュトゥーン地域の学生(タリブ)を中心に構成されていた。ムハンマド・オマルの指導下、この運動はアフガニスタンの大部分に広がり、抗争に明け暮れていたムジャーヒディーン軍閥から権力を奪った。1996年にはアフガニスタン・イスラム首長国を建国し、実質的な首都機能をカンダハールに移した。その後、9月11日の同時多発テロの後、2001年12月にアメリカ合衆国主導でアフガニスタンに侵攻するまで、国の大部分を支配していた。最盛期には、パキスタンサウジアラビアアラブ首長国連邦の3カ国のみがターリバーン政権を正式に認めていた。その後、ターリバーンは反政府運動として再編成され、アメリカの支援を受けたカルザイ政権や北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)とアフガニスタン紛争で戦った。

  ターリバーン政権はイスラム法の法解釈を厳格に実施し、自国民への人権侵害を行った事で、国際的に非難されている。1996年から2001年までの統治期間中、ターリバーンとそのはアフガニスタンの民間人に対して虐殺を行い、16万人の飢えた民間人に対する国際連合の食糧供給を拒否し、広範囲の肥沃な土地を焼き、何万もの家屋を破壊する焦土作戦を行った。また、凧揚げや鳥の飼育などの趣味や活動を禁止し、宗教的・民族的少数派を差別した。国連によると、アフガニスタンの民間人犠牲者の76%(2010年)、80%(2011年)、80%(2012年)がターリバーンとその同盟組織によるものである。タリバンは文化浄化も行っており、1500年前の有名なバーミヤンの仏像を含む数多くの記念物を破壊している。
  パキスタン統合情報局軍部は、国際社会とアフガニスタン政府から、ターリバーンの創設時と政権を握っていた時期に支援を行っていたこと、そして反乱期にも支援を続けていたことが広く疑われている。パキスタンは、9月11日の同時多発テロの後、同グループへの支援を全て取り止めたとしている。2001年には、アルカイダのリーダーであるウサーマ・ビン・ラーディンの指揮下にある2,500人のアラブ人がタリバンのために戦ったと言われている。
  2021年5月に攻勢を開始し、同年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言し、ガニー政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。また、8月19日、のメディアにてアフガニスタン・イスラム首長国の建国を宣言した
名前の由来
  「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生又神学生」を意味する「ターリブ」のパシュトー語における複数形であり、イスラム教神学校マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された学生から構成される。厳密にはイスラム神学イスラム哲学イスラム法イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)によるイスラム教神学校において、イスラーム過激派の教育を受けた学生らによる、ジハードのための宗教的な学生運動である。このため、ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、三人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。
組織
  最高指導者の下に指導者評議会(クエッタ・シューラ)があり、軍事委員会や財政委員会などがある。日本のマスメディアでは、評議会は最高評議会とも表記され、構成員は26人で、その下にある部局は軍事、財政、宗教など17と報道されている。また各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている。国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち、パキスタンの都市クエッタに指導者評議会、カタールに外交交渉のための政治事務所を設置している
  2021年時点の最高指導者はハイバトゥラー・アクンザダであり、副指導者としてシラジュディン・ハッカニムハンマド・ヤクーブなどが居る。在カタール政治事務所代表はアブドゥル=ガニ・バラダルである。
  国際連合によるとタリバンの総数は約4万5000人から6万5000人である。2021年の攻勢において傘下の戦闘員は10万人とも報道されている。パシュトゥーン人だけでなくタジク人ウズベク人トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている。
  派閥としてはアフガニスタン東部のペシャワール派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会などがある。
  対外的にはアルカーイダインド亜大陸のアルカイダ(AQIS)、パキスタン・ターリバーン運動(TTP)、ラシュカレ・タイバ(LeT)などと連携しており、パキスタン軍統合情報局(ISI)の後援を受けている。アメリカ合衆国やアフガニスタン政府、イスラム国(ISIL)とは敵対関係にある。
装備
  初期の段階では、戦闘員の多くはAK-47RPKRPG-7を装備し、移動にはテクニカルを利用するなど、テロリスト然とした装備であったが、アフガニスタン軍から鹵獲したアメリカ製武器のM16M4カービンや付属する多種多様な光学照準器、M240M249AT-4戦闘服ボディーアーマー防弾ヘルメット暗視ゴーグルなどの個人装備、M2などの支援火器、ハンヴィーMRAPM1117装甲車M113などの近代的な装備を利用し始めている。また、BTR-60BTR-70BTR-80BMP-1T-55などの旧式ながら強力な兵器も入手している。この他にも航空機として、MD-530UH-60CH-47Mi-17C-208/AC-208A-29C-130などを入手しているが、運用能力があるかは不明である。しかし、UH-60やMi-17は飛行している姿が度々撮影されている。
幹部
  歴代政権と同じく、ターリバーン政権期も首都カーブルとされ、中央省庁もカーブルから移転することは無かったが、パシュトゥーン人の組織であるターリバーンは、多民族が暮らすコスモポリタンな都市文化を持つカーブルの風土を嫌い、実際にはターリバーンの本拠地でありパシュトゥーン人の都市であるカンダハールに置かれた評議会から指令が下達される統治方法が採られた。そのためカーブルの省庁はカンダハルの評議会の従属機関に過ぎなくなり、実質的に首都機能の逆転現象が発生した。
  また、各省庁の長である大臣(相)も、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長であるムハンマド・オマルへの忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。
歴代の最高指導者・・・・・

歴史
1990年代前半
背景-1990年代初頭、アフガニスタンはムジャーヒディーンの軍閥によって領地ごとに分裂し、互いに同盟、裏切りを繰り返し激しい内戦の最中であった。ラッバーニー大統領やマスードを中心とするジャミアテ・イスラミのタジク人政権は首都カーブルと国内の北西部を支配し、ヘラート等の西部三州もジャミアテ・イスラミと深い繋がりを持つタジク人軍閥のイスマーイール・ハーンによって支配されていた。東部パキスタン国境地帯はジャララバードを拠点とするジャラルディン・ハッカニ等のパシュトゥーン人軍閥の評議会の手中にあった。また、南部の限られた地域とカーブルの東側はパシュトゥーン人のグルブッディーン・ヘクマティヤールが支配していた。後にタリバン発祥の地となるカンダハールを中心とするアフガニスタン南部の大半は、何十もの旧ムジャーヒディーン軍閥や強盗集団によって分割支配され荒廃していた。カンダハールを支配する数多の武装グループは、活動の資金源になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場の機械や道路用のローラーまでもスクラップにしてパキスタンの商人に売った。軍閥は家々や農場に押し入り、住民を強制退去させ支持者達の手に渡した。司令官らは住民を思いのままに虐待し、少年や少女を誘拐して性欲を満たした。バザールの商人から品物を強奪し、街中で武装グループ同士の喧嘩による銃撃戦が頻繁に発生した。カンダハールの住民の大部分を構成するパシュトゥーン人は、隣国パキスタンのクエッタなどの同じくパシュトゥーン人が多数派を占める都市に難民として脱出し始めた。
誕生-ターリバーン側の主張によると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに始めたものだとされている。またターリバーン隊士がイスラム教の聖典『クルアーン』を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。彼らが蜂起したきっかけはムジャーヒディーン軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。
発展-内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはイスラム神学校(マドラサ)の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。 しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった。
  1998年にターリバーンがマザーリシャリーフを制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この虐殺は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている
外国との関連-ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍諜報機関であるISI(軍統合情報局)の支援を受けていた。特にISI長官を務めたハミド・グルは「ターリバーンのゴッドファーザー」とも呼ばれ、アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の中華人民共和国拒否権を行使している。
  パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。 アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。
  1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。
  また、1990年代半ばにはサウジアラビア総合情報庁もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。
  また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジア石油天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインインド洋に輸送することを計画していたが、これはロシアイランを避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した。アメリカ合衆国議会関係者やアメリカ合衆国国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。
  1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した。
  ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった。
  1999年12月カシミールの独立を目指すイスラム過激派によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった(インディアン航空814便ハイジャック事件)。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、日本国内でも、国際社会もターリバーン政権をイスラム原理主義勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。
1990年代後半
政権掌握
 
ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。カーブル制圧後、アフガニスタン・イスラム首長国を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて政府承認し、すぐにサウジアラビアアラブ首長国連邦が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった。国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下に置いた。
ターリバーンの国内支配
  しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。例えば、ターリバーンは殺人を犯した者に対しその犠牲者の遺族による公開処刑を行ったが、これはイスラム法に基づくというより、パシュトゥーンワーリに基づくものである。
  また、アルカーイダと接近してからは、その過激主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガニスタン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。
政策
  ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動を行なった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。
  また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、親族男性を伴わなければ外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。
政権の孤立
  1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
  アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンはターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。
  1997年5月から、ターリバーンはアブドゥルラシード・ドーストム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。
  1998年8月7日、タンザニアケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた(前述)。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアルカーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。
  8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザーラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。
  1998年9月、サウジアラビアはアフガニスタン臨時代理大使の国外退去を求め、かつ、自国の在アフガニスタン臨時代理大使を召還させ、事実上ターリバーンと断交した。これはケニアとタンザニアのテロ事件の首謀者と見られたウサーマ・ビン・ラーディンの扱いをめぐる対立が原因であったといわれている。
  1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267が採択され、ターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。
2000年代前半
  2000年10月、アルカーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択された。
  2001年2月26日、ターリバーン政権は、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていたバーミヤーンにある石窟仏陀の像(バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群)を、ターリバーンが最終的に、爆弾を用いてこれらを徹底的に破壊。しかし、この行為に対しては、非イスラム圏のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった。支持した者は、ごく少数にとどまった。
  イランの映画監督モフセン・マフマルバフは、著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』の中で、アフガニスタンで長年続いている人道的危機を無視し続けながら、大仏の破壊を大きく取り上げた欧米のメディアを批判した。
  2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。しかしクンドゥーズ包囲戦のように包囲されてもパキスタンの飛行機で脱出するなどして、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降、アフガニスタン南部及びパキスタンのトライバルエリアワズィーリスターンを根拠地に勢力を回復した。(詳細は「アフガニスタン紛争 (2001年-)」を参照)
穏健派ターリバーン-ターリバーンには、主にアブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル元外相やアブドゥルサマド・ハクサル元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派ターリバーン」という勢力も存在する。彼らは武装闘争を放棄し、政治的な方法、すなわち選挙への参加を通じた議会進出による合法的な支持拡大によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン側でも穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。
  2005年の議会選挙では、ムタワッキルやハクサルらは落選したものの、元ターリバーンの中でもムラー・アブドゥル・サラム・ロケッティ元司令官やムハンマド・イスラーム・ムハンマディ元バーミヤン州知事のように下院議員に当選した人物もいる。モハマディ議員は2007年1月に、ハクサル元次官は2006年1月に暗殺された。このようにターリバーンと袂を分かち、当時のハーミド・カルザイ政権に協力することは容易ではない状況にあった。
2000年代後半(「ワジリスタン紛争」を参照)
  ターリバーンは2006年から南部・南東部・東部を中心に攻撃を増加させ、2007年も手を休めなかった。そのため2008年にはアフガンスタンの治安は著しく悪化した。またターリバーンは南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でも攻撃を行った。2009年、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加」し、即席爆発装置(IED)による攻撃を急増させた。
  有志連合諸国も反撃を行い、2006年から国際治安支援部隊(ISAF)をアフガニスタン全土に展開させ、チョーラの戦い(ウルズガーン州)やパース作戦(ウルズガーン州)などを行った。また2008年のワナトの戦いの結果などを受けて2009年にはアメリカ軍を倍増させ、オカブ作戦(クンドゥーズ州)やカカラクの戦い(ウズルガーン州)などを行った。
  しかしタリバンは2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のISIが深く関与していると見る向きが強く、同年末にはアフガニスタン暫定行政政府の大統領ハーミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという。
  一方、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、パキスタン国内でも過激化した武装勢力(パキスタン・ターリバーン)が誕生した。パキスタン・ターリバーンはアフガニスタンのターリバーンとは別物であり、米軍への攻撃に加え、米国を支援するパキスタン政府に対するジハードも目的としている。2007年12月には、ターリバーンを支持するパキスタン人の武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。発足時の最高指導者はバイトゥッラー・マフスード。パキスタン国内ではパキスタン・ターリバーン運動がアメリカ軍による最大の打倒目標になっている(ワジリスタン紛争)。

  アフガニスタン南部ではターリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。ヴァルダク州ではターリバーン独自の州知事、軍司令官、シャリーア法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にターリバーンの統治下にある。ローガル州のバラキー・バラク地区はターリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。ヘルマンド州の大部分も中央政府の支配が及ばず、ターリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの"政府"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくターリバーンを支持しているという。
  また、再起したターリバーンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラク戦争で反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれら自爆テロでは同様の自爆テロや米軍の空爆で手足を欠損した身体障害者が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たったカーブル大学により2008年明らかにされている。
  デビッド・スワンソンは、アフガニスタン国内での米軍の軍需物資の輸送のための運輸業者への支払いが、ターリバーン勢力の資金源となっていると主張している。
日本人拉致殺人事件(詳細は「アフガニスタン日本人拉致事件」を参照)
  ・NGOボランティアで働いていた日本人2008年8月26日に拉致され殺害される事件が発生。ターリバーン広報官は拉致について関与を認め、NHKに対して「たとえ復興支援が目的であっても、アメリカに協力して、アフガニスタンを訪れる外国人はすべて敵だ」と語った。
  ターリバーンはこの他にも多くの外国人NGO関係者の殺害に関与しているとされる。NHK論説委員山内聡彦の解説によれば、援助関係者を標的にすることでアフガニスタンの復興支援を妨害し、自分たちの武装闘争を有利に運ぶ狙いがある。
  ・日本はテロ対策特別措置法(時限立法)に基づいてインド洋において給油活動(自衛隊インド洋派遣)を行なっているが、上記NGO職員殺害事件の結果、2008年10月にこれを延長することへの影響が懸念された。
2010年代前半
  2011年5月、アメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)
2010年代後半
  2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、最高指導者としてハーフェズ・サイード・ハーンを任命した。ハーフェズはパキスタン・ターリバーン運動の元幹部である。4月、イスラム国とターリバーンはお互いに対するジハードを宣言した。5月、ナンガルハール州ファラー州でイスラム国とターリバーンの武力衝突が起き、ナンガルハール州の戦いは6月も続いた。同月、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはイスラム国の最高指導者バグダーディーに書簡を送ったが戦闘は止まらなかった。7月、ヘクマティヤール派がイスラム国への支持を表明した。
  2015年5月、中華人民共和国新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでターリバーンの代表3名(アブドゥル・ジャリル、アブドゥル・ラザク、ハッサン・ラフマニ)とアフガニスタン政府のマスーム・スタネクザイ大統領顧問による秘密協議が行われたと報じられた。前年の2014年にはターリバーンの代表団が訪中したと報じられていた。
  2015年7月、パキスタンのイスラマバードでターリバーンとアフガニスタン政府の初の公式和平協議が開催され、オブザーバーとして中国とアメリカも参加した。タリバンの最高指導者ムハンマド・オマルはラマダン明けの声明で「武力によるジハードと同時に、神聖な目標達成のための政治的努力や平和的な道を探ることは正当なイスラムの信条であり、預言者ムハンマドの政見の不可欠な要素だ」と述べ、和平協議に肯定的な態度を示した。そのため第二回の和平協議は中国で行われる予定だった。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は無期限延期になった。一説によるとオマルの病死説は以前から浮上していたがターリバーンやアフガニスタン政府、交渉を仲介したパキスタン政府、アメリカ合衆国や中華人民共和国にとっては生存説の方が都合が良かったため誰も追及しなかった。しかしターリバーン内の和平協議反対派がオマルの病死に気づいた為、7月下旬にオマルの息子のムハンマド・ヤクーブが幹部をクエッタのマドラサに集めて病死を発表した。7月末、2010年から最高指導者を代行していたアフタル・ムハンマド・マンスールが最高指導者に指名され、ジャラールッディーン・ハッカーニーが副指導者に指名された。しかし反対派はムハンマド・ヤクーブの最高指導者就任を求めて納得せず、アフガニスタン北東部のクンドゥーズ州や西部のヘラート州、南部のザブール州などで武力衝突が起きた。一方、アルカーイダはアフタルを支持した。9月、反対派は選挙を要求し、11月に別の最高指導者としてモッラー・モハンマド・ラスール・アーホンドを選出した。モハンマドはターリバーン設立当初からオマルの信任が厚く、ニームルーズ州ファラー州の知事を務めた人物である。
  2016年3月、ヘラート州でマンスール派とラスール派が武力衝突し、約150人が死亡した。バードギース州のラスール派の指揮官はマンスール派をパキスタン情報部の走狗と呼んで非難した。2016年5月、アフタル・ムハンマド・マンスールが米軍の無人機攻撃により殺害された。同月ハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した。8月、ザーブル州のターリバーンがダードゥッラー戦線を立ち上げて独立した。ザブール州の司令官ダードゥッラーは前年マンスール派に攻撃された際にファラー州のイスラム国軍に援軍を求め、見返りにイスラム国に忠誠を誓っていた。
2020年代(詳細は「アフガニスタン和平プロセス」を参照)
  2020年2月29日、ターリバーンを代表してアブドル・ガニ・バラダル、アメリカ政府を代表してザルメイ・ハリルザドが和平合意に関する文書に署名した。まず135日以内に1万2000人規模のアフガン駐留の米軍を8600人規模に縮小する。そして、アフガン国土をテロ攻撃の拠点にしないなどの和平合意をターリバーンが履行したと判断すれば21年春ごろに完全撤収する予定[105]。なお、アフガニスタン政府の治安部隊は、和平合意の対象外であるとして同年3月2日に攻撃作戦を再開すると発表している。
  2020年4月、ターリバーンはサーレポル州の「州知事」にシーア派のハザラ人を任命したと発表した。ターリバーンがシーア派ハザラ人を州知事に任命したのはこれが初である。これは、ターリバーンによるマザーリシャリーフ攻略で悪化した民族対立を緩和させ、国内のハザラコミュニティの支持を集めようとする動きと見なされている。
  2020年7月28日イード・アル=アドハーに際して3日間の停戦を発表した。これに引き続き29日最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは純粋なイスラーム政府の樹立と反対勢力にタリバンへの参加を呼び掛けた。
  2021年1月、アフガニスタン政府が首都カーブルで武装した中国人集団を逮捕した。一説によると中国人集団は中華人民共和国国家安全部の工作員であり、東トルキスタンイスラム運動に対抗するためにハッカーニ・ネットワークと接触していたと言う。
  2021年2月、Pajhwok Afghan Newsの電話調査によると、ターリバーンはアフガニスタンの国土の約5割(52%)を掌握・勢力圏内に収めていると言う。アフガニスタンの388郡のうちターリバーンが郡内を完全に支配しているのは27郡(7%)、政府が完全に支配しているのは67郡(17%)である。またターリンバーンが郡の中心都市を支配しているのは39郡(10%)だと言う。
  2021年7月28日、ターリバーンの代表団が訪中し、外交部長(外相)の王毅と会談したアブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた
  2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言(2021年ターリバーン攻勢)。アブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行は、平和裏に権力の移行を進めると表明した
イデオロギー
  ターリバーンのイデオロギーは、デオバンド派原理主義に基づく「革新的な法解釈シャリーア(イスラム法と、ターリバーンのほとんどがパシュトゥーンの部族民であることから「パシュトゥーンワーリー」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的範を組み合わせたイスラム主義[117]だと言われている。
  アメリカの研究所の調査によると、調査対象のアフガニスタン人のうち、99%がシャリーア法による国の統治を望み、85%が姦淫者を石打ちすることを望み、81%が泥棒の手を切断する事を望み、79%が背教者の処刑を望んでいる。

資金
  ターリバーンは麻薬鉱物の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうちケシ栽培による収入は約1億ドルと言われている。ターリバーンは2017年頃からヘロインの生産も開始し、現在はターリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある。
麻薬問題
  アフガニスタンでは、メソポタミア文明以来、医薬品抗がん剤モルヒネ鎮痛剤)「植物性アルカロイド」の原料であり、麻薬のアヘンヘロインの原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。
  こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年ウズベキスタンタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。

  アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。
  しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはターリバーンが支配するただ一つの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている。

  麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる
  この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、国内総生産(GDP)の50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である。
  アフガニスタン共和国政府はケシからの転作を進めて、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はターリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという指摘もある。
  ターリバーン政権の成立後に情報文化大臣になる予定とされるザビフラー・ムジャーヒド報道官は、今後アフガニスタンはいかなる種類の麻薬も作らなくなることを明かし、市民が麻薬に代わる作物を栽培できるようになるためには国際的な支援が必要だと指摘した。
対外関係
イスラム主義組織
アルカーイダ
  1996年にスーダンから追放されたビン・ラーディンはターリバーン統治下のアフガニスタン・ジャララバードに亡命した。ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築き、ターリバーンの庇護下で反米テロ活動を続けた。この頃からターリバーンはアルカーイダの過激思想の影響を受け、反米感情を抱くようになり、内政においても過激な政策が増加した。
  ターリバーンはアルカーイダに軍事や資金面で支援を受けていた。1997年にターリバーンがマザーリシャリーフ攻略に失敗し、捕虜となったターリバーン兵数千人がアブドゥル・マリクによって虐殺された際、ビン・ラーディンはISIと共にターリバーンを強化するために新兵採用の資金と軍用車両などを支援した。また、ターリバーンはアフガニスタン・イスラム首長国の外国人精鋭部隊「055旅団」の育成をアルカーイダに任せた。
  1990年代にビン・ラーディンはムハンマド・オマルに忠誠を誓い、アルカーイダは形式的にターリバーン傘下の組織となっている。ビン・ラーディン死後もアルカーイダ2代目最高指導者ザワーヒリーがターリバーン2代目最高指導者アフタル・マンスールや3代目ハイバトゥラー・アクンザダに忠誠を誓っているが、ターリバーンはこれを拒否している。2020年に結ばれたアメリカ合衆国-アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)間の和平合意で、ターリバーンは国際テロ組織(アルカーイダ等)との関係断絶を受け入れた。
パキスタン・ターリバーン運動
  パキスタン・ターリバーン運動は、主にアフガニスタンと国境を接するパキスタン領土内の連邦直轄部族地域並びにカイバル・パクトゥンクワ州で活動するパシュトゥーン人のイスラム主義組織である。パシュトゥーン人が多数を占める組織という点でターリバーンと類似しているものの、組織・指揮系統及び活動目的は大きく異なる。
  パキスタン・ターリバーン運動は、彼ら自身とは民族の異なるパンジャーブ人が多数を占めるイスラマバード中央政府に対する敵意によって、複数のイスラム主義グループが連合して誕生したものであり、中央指導部の運動全体に対する統制力は低いとされる。ターリバーンは2010年代まで、最高指導者ムハンマド・オマルが絶対的な権威を持っており、オマルの死後には内紛が起きたものの、連合組織であるパキスタン・ターリバーン運動に比して現在でも指導者評議会の組織に対する統制力は強い。活動目的については、ターリバーンはアフガニスタンをイスラム国家として復興させることであり、他方、パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府を打倒してイスラム国家に改造することである。
  パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府とは強い敵対関係にあるものの、ターリバーンはパキスタンと親密な関係にあるとされている。
  2009年、パキスタン・ターリバーン運動の指導者3人がターリバーンの最高指導者オマルの要請を受け、アフガニスタンで協力してジハードを行う事に合意したがすぐに破綻し内紛が起きた。
  2013年には、ターリバーンとパキスタン・ターリバーン運動が武力衝突して後者の司令官が戦死したとする報道があった。
  2014年にパキスタン・ターリバーン運動が実行したペシャーワル学校襲撃事件に対し、ターリバーンは「非イスラム的だ」として非難した。
  ターリバーンはパキスタン・ターリバーン運動との間に何ら関係を持っていないと主張している。
IS(イスラム国)
  ISとターリバーンは敵対関係にある。ISのアフガニスタン支部である「イスラム国ホラサン州」はパキスタン・ターリバーン運動から分離した勢力であり、ターリバーンと200回以上交戦している。ISはターリバーンが根付いていないアフガニスタン北部や、パキスタン・ターリバーン運動の影響を受けている東部の山岳地帯を中心に活動していた。
  2013年イラクのアルカーイダ支部から発展したISは、アルカーイダ本部からの解散命令を無視し、アルカーイダの統制下にあるシリアのアル=ヌスラ戦線とも衝突を繰り返すようになった。ISとアルカーイダ本部は敵対関係に至り、ターリバーンはISに対して沈黙していた。ISはアフガニスタンもカリフ制の支配下に入るべきだとし、アフガニスタン紛争へ介入する姿勢を見せた。
  2015年にターリバーンの副指導者であったアフタル・マンスールは最高指導者ムハンマド・オマル(2013年に病死)の名義で、IS最高指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディー宛に、アフガニスタン紛争への関与を警告する旨の声明を発表した。同年、ISのアフガニスタン支部である「イスラム国ホラサン州」が同国東部で、共和国政府またはターリバーンに同調する「背教者」とする人質を爆殺し、ターリバーンは非難声明を出した。
  2017年から2018年にかけてジョウズジャーン州ダルザーブ郡の支配権を巡ってIS-ターリバーン間で激しい戦いが起きた。残虐な振る舞いを理由にターリバーンから追放されISに忠誠を誓ったウズベク系のカーリ・ヘクマトとネマットは2016年から2018年にかけて地元のターリバーンを駆逐して実権を握っていた。
  2018年7月初旬、ターリバーンは特殊部隊を投入してISを撃破。司令官ネマットはターリバーンから逃れるために共和国政府に降伏する事を決定し、生き残ったIS戦闘員は政府軍のヘリコプターで州都シェベルガーンまで運ばれ、手厚くもてなされた。
  2021年4月19日、ISPP(イスラム国パキスタン州)はペシャーワルで、ターリバーン司令官のナイク・ムハンマド・ラーバーを暗殺した。ナイク・ムハンマド・ラーバーは、ナンガルハール州における対IS作戦を率いてきたターリバーン司令官の1人であり、ナンガルハール州のホギャニ地区で行われた葬式には大勢の地元住民が参列した。
  2021年8月26日、ターリバーンの支配下にあるカーブル国際空港で自爆テロを行い、ターリバーン兵28人を含む182人を殺害した。

中村 哲
  アフガニスタンで支援活動を長年続けた中村哲医師は、「タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う。恐怖政治言論統制もしていない。田舎を基盤とする政権で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・貧民層にはほとんど違和感はないようです」と評している。中村医師は2019年、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、イスラーム過激派のパキスタン人に銃撃され死去している。


勧善懲悪委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  勧善懲悪委員会英語: Committee for the Promotion of Virtue and the Prevention of Vice、略称: CPVPV)は、サウジアラビアの宗教警察。別名はムタワ

概要
  正式名称は「徳の奨励と悪徳の禁止の省」となる。サウジアラビアの国教であるイスラム教ワッハーブ派の三大教義の一つである「勧善懲悪の実施」を行う政府機関として宗教警察の役割を持ち、国内の思想統制に大きな力を発揮している。一般にはイスラム社会における宗教警察を表す「ムタワ」の略称で呼ばれている。
  代表者は長年にわたりシャイフ・イブラヒム・ビン・アブダラ・アルガイス (Sheikh Ibrahim Bin Abdullah Al-Ghaithが務めていたが、2009年に解雇され、穏健派指導者へと代えられている。
  ターリバーン政権下のアフガニスタンにも同様の組織として勧善懲悪省が存在していた。
歴史
  現在の名称になったのは1940年であるが、組織の発足は1927年のイフワーンの反乱にまで遡る。1912年頃、サウード家アラビア半島に支配権を確立して現在のサウジアラビアの基礎ができた当時、宗教的な取締りの役目はイフワーンが担っていた。しかし、1926年にイフワーンがエジプトから来たメッカ巡礼団を異教徒として襲撃した事件が問題になり、襲撃事件がイラククウェートにまで越境して深刻な問題に発展した。このため、イフワーンから襲撃の大義名分を奪う目的で、国王勅令により勧善懲悪委員会の前身となるムタワが設置された。イフワーンの反乱が鎮圧され、イフワーンが実質的に壊滅してからは現代に至るまで勧善懲悪委員会が宗教警察としての役目を担っている。
  元々は地域住民への生活指導などを行うボランティア組織的なものであり、懲罰といっても小さなで軽く叩く程度であった。湾岸戦争以降、西洋文化の流入が進むと態度を硬化させるようになり、取り締まりの過激化が進み、違反者の逮捕処刑まで行うようになった。
  近年では、皇太子ムハンマド・ビン・サルマーンの近代化改革で影響力が低下しつつあり、2016年4月には、サウジアラビア政府の決定により逮捕権が剥奪された。
組織と活動
  イスラム宗教庁の内部委員会であり、日本の省庁でいうところの局に相当する組織である。
  サウジアラビアでは3,500人の職員と多数のボランティアによって運営されており、総人数は4,000人から5,000人ともいわれている。委員には王族に知事や副知事、宗教指導者まで幅広い権力者が在籍しており、サウジアラビア国内における影響力は非常に大きく、イスラムにおける倫理委員会の役目を果たしている。
  勧善懲悪委員会自体は司法警察権や裁判権は持っていないため、正規の警察官と二人一組で活動している。実際に逮捕を行うのは警察官である。逮捕した相手に対する告発を行うだけで裁判そのものは裁判官が執り行うが、実質的に警察裁判所も勧善懲悪委員会の威光には逆らえない。
  湾岸戦争以降に流入するようになった西洋文化に対して非常に強い拒否反応を示しており、彼らの考える「イスラムの教義」に合わない欧米文化の排除に積極的に活動している。
魔法部
  人間が魔法などの超自然的な力を持つと主張したり、信じることはアラーへの冒涜であるとされており、勧善懲悪委員会では魔法部が魔術師を自称する者を取り締まっている。
  魔法部では魔法使いに魔法をかけられた場合にどうしたらよいか電話相談を受け付けており、相談内容に信憑性がある場合には実際に調査、逮捕、起訴が行われ、実際に魔女とされる人物が摘発される(魔女狩り)。ただし、魔法部の担当者はウラマー一人しか居ない。
活動
  インターネットサイトの監視に加えて、ペットとして飼うことを禁止したり、の販売禁止と取締り、バレンタインデーを禁止して、市内の店舗からバレンタイン関連の商品を撤去させたりしている。
  近年の悪名高い活動の一つに、2002年3月11日メッカの女学院が火事になった際の対応が挙げられる。当時、委員会は「女子生徒たちのセーラー服が規則違反だから外に出てはならない」という理由で、燃えさかる炎の中に女子生徒たちを閉じ込め、さらに消火活動にきた消防隊に「女学院に男性は立ち入ってはならない」と言って、消火活動を妨害した。その結果、女性15人が死亡、50人が負傷する事態になった。(詳細は「en:2002 Mecca girls' school fire」を参照)

  2005年5月には、霊媒師の女性を魔術を使用して男性を性的不能にしたとして逮捕し、殴る蹴るの暴行を加えて自供を強制、死刑判決が出された。このため欧米では、悪名高い人権侵害組織として批判されている。
  あまりにも過激な活動から、近年ではサウジアラビア内部でも批判されるようになり、サウジアラビア内務省は活動を制限しようとしている。そのため、外国人が多い地域や外国人向けのショッピングモールなどでは、勧善懲悪委員会の立ち入りを制限するなどの動きも出始めている。

  2008年には、逆に一般市民が勧善懲悪委員会メンバーに「集団暴行を行う」という事件まで起きている。
  2008年に、メディナへの聖地巡礼に来ていたレバノン霊能力者、アリ・フセイン・シバット (en:Ali Hussain Sibat) を、魔法を使った罪で逮捕告発し、死刑判決が出されている。死刑判決を受けた人物は、レバノンではテレビに出演し、霊能力と称して人生相談を行う番組を持っていた有名なタレントであるが、もちろん本当に魔法使いだったわけではない。彼は30ヶ月にもおよぶ拘留の後、死刑判決は撤回され、釈放されている。
  メッカの元委員会責任者だったアフメド・カシム・ガムディは、勧善懲悪委員会のやり方に疑問を投げかけ、対立している








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