湾岸戦争問題-1



2022.12.21-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221221-LB6QKICHC5NY5IA4G3FTYR3SOY/
湾岸戦争の自衛隊派遣、駐米大使が極秘公電で促す「挽回へ絶好の機会」 平成3年の外交文書公開

  外務省は21日、1991(平成3)年の外交文書19冊、6877ページを一般公開した。このうち湾岸戦争停戦後、海上自衛隊の掃海艇派遣に向けて、当時の村田良平駐米大使が日本政府の決断を強く促していた極秘公電が明らかになった。開戦後、資金援助にとどまる日本への国際社会の批判が高まる中、政府はペルシャ湾の機雷除去のため、自衛隊の海外派遣を決断した。

  「人的貢献を行えなかったわが国に対する評価を挽回する絶好の機会になる」
  91年3月14日、「極秘」と記された公電によると、村田氏はこう主張した。湾岸戦争が停戦になったことを踏まえ、「幸い多国籍軍の圧勝により、紛争巻き込まれ論は説得力を持たない」と指摘。「国内の一部にいかなる反対があろうとも不退転の決意で実行」するよう訴えた。
  前年8月、イラクがクウェートに侵攻して始まった湾岸戦争で、日本政府は多国籍軍を主導する米国から輸送手段の提供や掃海艇の派遣を求められたが、「憲法上の制約」から自衛隊の派遣を見送った代わりに多国籍軍に計130億ドルの巨額の財政支援を決定したが、人的貢献を伴わない対応への国際社会の評価は低く、「小切手外交」と揶揄(やゆ)された
  米軍主体の多国籍軍は91年2月にクウェートを解放。クウェート政府は3月11日、自国解放に寄与した国に感謝する広告を米紙に掲載したが、日本は含まれていなかった。このことが、人的支援が必要との国内の議論を再燃させ、外務省は掃海艇派遣へ調整を加速させる。
  栗山尚一事務次官(当時)は3月22日、海部俊樹首相(同)に「外務省としては実施の方向で決断を得たい」と進言。26日には工藤敦夫内閣法制局長官(同)と協議し「憲法上、法律上可能であればぜひ日本が掃海に協力することが望ましい」と理解を求めた。


2022.07.20-NUMBER WEB-https://number.bunshun.jp/articles/-/853963
アントニオ猪木79歳が「イラクの戦友」と再会…湾岸戦争直前、あの“人質解放”の知られざるウラ側「猪木さん、残ってください」

(1)
  アントニオ猪木は懐かしそうに微笑んだ。目の前には約30年前、1990年12月の“人質解放”の際に、猪木のイラクでの活動を熱心に後押ししてくれた野崎和夫さんがいた。野崎さんは当時、伊藤忠商事に勤務していたが、イラク政府内に自身で開拓した独自のルートを持っていた。
  「イラクには先に三菱などが入っていたので、うちは自分でルートを見つけなければいけなかった。ちょうど内務省に空手を教えている人がいまして、そのツテから私は顔を売ることができたんです。他の商社に負けないように自分のルートを作り始めました」

  12月2日と3日にバグダッドで開催された「平和の祭典」を終えた翌朝、猪木がイベント関係者と一緒にトルコ航空のチャーター便に荷物をチェックインした時、野崎さんが現れた。猪木から託されたサダム・フセインあての長い手紙をしかるべきところに届けてから、野崎さんは空港にやってきたのだった。
「猪木さん、残ってください」「わかりました」
  その時点で、猪木がそのままチャーター便に乗って日本に帰るかどうかは微妙だった。筆者が前日に「私は残りますけれど、猪木さんはどうするんですか」と尋ねると、猪木「オレが帰ると言わないと、みんな帰らないだろう」と答えた。人質の家族からは「猪木さん残ってください」と言われていた。人質家族婦人会の女性たちはみな「夫と一緒に日本に帰る」と言っていた。
  さすがの猪木も、「私も、私もとバグダッドに残られても困る」と考えてはいたようだ。筆者は「猪木は帰らないだろうな」と思った。それでも、成り行き次第という部分は残っていた。猪木はCNNなどのインタビューに答えていたが、そこに姿を見せた野崎さんが強い口調で言った。
  「猪木さん、残ってください」・・・野崎さんには“ある感触”があった。待ち望んでいた人質解放は進行していたのだ。
  猪木が「わかりました」と言って、うなずいた。野崎さんはチェックインカウンター後方の荷物を運ぶベルトコンベアーに飛び乗ると、中に入っていった。「空港のイミグレーション内も、私は入ることができるようになっていました。日本の大使がダメだといわれても、野崎はいい、と。みんな知っていますから」
   野崎さんは猪木が預けた荷物をいくつか取り出すと、ほっとしたような表情で戻ってきた。
(2)
湾岸危機の真っ只中で「平和の祭典」を開催した猪木
  サダム・フセイン大統領の息子のウダイ・フセインはスポーツ大臣をやっていて、イラク・オリンピック委員会の会長もしていたが、野崎さんはそこの副大臣とも親しくしていた。
  筆者の記憶では、その副大臣は温厚な人柄の巨漢で、猪木にも優しかった。
  1990年のイラクでの人質解放は、猪木の中でも特別な出来事だった。9月、湾岸危機から湾岸戦争へと拡大してしまうその歴史的事象の真っ只中に、スポーツ平和党の参院議員として単身で飛び込んだ。
  イラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機では、クウェートで働いていた邦人の商社マンらが「ゲスト」という名の人質になってイラクに連れて来られていた。「人間の盾」とも呼ばれた。
  一度帰国した猪木は、成田空港での記者会見でバグダッドでの「平和の祭典」を実現すると宣言した。10月に再びバグダッドに入り、イベント開催に向けて奔走する。
  野崎さんはそんな仰天の行動をとった猪木に、自身が築いてきたルートを駆使して協力した。当時の彼はバリバリの商社マンだったから、眼光が鋭かった。その目でにらまれたら、誰でもすくんでしまうのではないか、と思うくらいの迫力があった。
  「私もかごの中の鳥でしたが、自由に動くことができました。当時、猪木さんはバグダッドの街を早朝に走っていましたが、大きな野犬がいて危ないんですよ。もし嚙まれたら、破傷風になりますから」
  野崎さんは自身が散歩に出るときは木刀を持って歩いた。黒いヤッケに木刀といういで立ちのため、警察から呼び止められたことがあったが、それが幾度か繰り返されると、相手も慣れて「また来たか」という感じになったという。イベントの開催は土壇場で実現にこぎつけた。まるで「開け、ゴマ」のおまじないのようだった。
  日本政府からはチャーター便の手配などに圧力がかかったが、猪木はそんなことには屈しなかった。いつものように「人の心というものがわからないのか。そんなのどうってことねえよ」と言って、一蹴した。
(3)
「飛行機が撃墜されるかも…」開戦直前に帰国
  「イラクの人たちは、いわゆる“砂漠の民”ではなく、もともと農耕民族なんです。市場に行けばわかりますが、野菜や果物も採れます。チグリス川やユーフラテス川では大きな魚も獲れるんです。イラクはアルコールも飲めます。店にはビールもあります。話せば、わかってくれるんですよ。こちらの話をちゃんと聞いてくれますし、『Yes,but,however』なんて決して言わない。YesはYesなんです」

  野崎さんは解放された人たちが政府特別機で帰国した後も、バグダッドにいた。年が明けて1991年になってもまだ在留していた。だが、もう戦争は止まらないという情報を得て、開戦の数日前にバグダッドを出た。アンマン、それからマレーシアを経由して日本に帰国した。
  「飛行機が撃墜されるかもしれないので、ムスリムが乗る航空会社を選んだ」と野崎さんは説明した。
  イラクのクウェート侵攻をチャンスと見たアメリカのジョージ・ブッシュ政権は、化学兵器を持っているからと多国籍軍でイラクを攻めた。だが、戦後の検証では化学兵器はどこからも発見されなかった。
  これは想像でしかないが、「砂漠の嵐作戦」と銘打たれ、多くの犠牲者を生んだ多国籍軍による爆撃は、武器商人の懐を潤わせただけのものだったのではないか。アメリカは隣国を含めた石油の利権が欲しかったのだろう。イラクを悪者にして都合のいい戦争を仕掛けたというのが、今日では多くの識者の見方だ。
  湾岸戦争では生き残ったサダム・フセインだが、2003年、ジョージ・ブッシュの息子であるジョージ・W・ブッシュ政権下の米軍に拘束され、2006年に死刑が執行された。フセイン政権崩壊後のイラクは荒れた。
「あなたがいくら強くても…」猪木に銃を抜いた議員
  野崎さんは商社マンとして、アフリカの多くの国も回っていた。「行っていないアフリカの国はほとんどありません。トラックを扱っていましたから。身に危険が及びそうな国では、銃を持っていました。タンザニアでは家に強盗が入ってきたら、自分の身は自分で守らなくてはいけない。銃は撃つ練習をしなくては撃てませんよ。弾は上に飛びますから、引き金に指をかけていても、銃口が上に向いている奴は素人でしょう。銃口は下を向いていなければいけないんです。でも、相手が先に構えていたら、決して撃つな、と教えられました。南アフリカのカールトン・センター(ヨハネスブルグにある223mの超高層ビル)に行ったことありますか。もう今じゃ危険で入れませんけどね」
(4)
  ヨハネスブルグのダウンタウンがスラム化して久しい。そういえば、猪木からもソ連時代のKGBの射撃練習場で実弾を撃った話を聞いたことがあった。
  バグダッドで猪木に「あなたがいくら強いといっても、これには勝てないだろう」とベルトに差したピストルを抜いた国会議員の話をすると、野崎さんは誰のことを言っているのかわかったようで「ああ、逆に差していた人でしょう」と笑った。その国会議員は、左側に差した銃を右手で抜いたのだ。
病床の猪木が野崎さんに贈った「特別なサイン」
  猪木の現在の体調は必ずしも良好とは言えない。でも、野崎さんのような人がやってくると、時間を忘れて思い出話は弾んでしまう。
  「痛風は大丈夫ですか」・・・野崎さん猪木にそう尋ねた。あの「平和の祭典」の時、猪木の足が靴も履けないくらいに腫れていたのを間近で見ていたからだ。ストレスもあったのだろうが、猪木はイラクでリングに上がることを断念したのだった。
  「痛風は大丈夫なんですが、今は心臓や内臓がね」・・・猪木の体には点滴の針が刺さっている。多臓器に深刻なダメージを与える全身性アミロイドーシスという病は難敵だ。だが、猪木はそれと毎日戦っている。リハビリも欠かさず行っている。
  再会の記念に、猪木野崎さんにサイン色紙をプレゼントした。筆で書いたものだった。見慣れたマジック書きの、力強い「闘魂 アントニオ猪木」ではない。
  「手が思うように動かなくて、マジックだとうまく書けないんですよ」
  野崎さんは猪木の特別なサインを大事そうに受け取った。スキルス性の胃ガンから奇跡的にカムバックしたという野崎さんは元気だった。手帳を広げるとゴルフのスケジュールがずっと先まで書いてある。「今日も行ってきたのですが、週に3回の出勤です」と笑った。

  猪木野崎さんも、30年の時を超えて、戦友のように話していた。



2020.8.3-産経新聞 SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/photos/200803/wor2008030005-p3.html
湾岸危機30年 中東混迷は世界に広まった
(1)
  1990年8月2日、イラクのフセイン政権が隣国クウェートに侵攻し、翌年の湾岸戦争に至る危機をつくり出した。東西冷戦から「米国1強」時代への変わり目で起きた事件から30年。世界有数の産油地帯という地政学的重要性を有する半面、世界の不安定要因でもあり続ける中東の情勢は、この間にどう変化したのか。日本の外交・安保政策にとっての意味とは。多角的に検証する。
□冷戦後、米国1強の時代に
「世界の警察官」が仕切る
  湾岸危機と湾岸戦争は、東西冷戦後の世界に「米国1強」時代の到来を告げた。湾岸危機が起きた1990年はソ連崩壊の前年。ソ連が国内への対処に追われる中、米国は、国際秩序を回復する“警察官”の役割を果たした。
  中東有数の産油国イラクは当時、世界的な原油価格の下落に苦しんでいた。88年まで約8年続いたイラン・イラク戦争で国庫が逼迫していたからだ。
  このため当時のフセイン政権は、小国ながら豊富な石油資源を持つ隣国クウェートに債務の帳消しなどを求め圧迫。90年8月2日にとうとう軍事侵攻に踏み切り、同国の併合を図った。これが湾岸危機だ。
  フセイン大統領は、日本人を含む人質を人間の盾として事態を膠着させ、併合の既成事実化を狙った。中東の覇権を確立する野心があったとされる。
  しかし、初代ブッシュ(父)米政権をはじめとする国際社会は、一方的な国境の変更や原油市場の混乱につながる行為を座視しなかった。国連安全保障理事会は、イラクへの経済制裁や武力行使を認める決議を相次いで採択。91年1月、米中心の多国籍軍による攻撃で湾岸戦争が始まった。
  イラクは、この戦争をパレスチナ問題と結びつけることで国際世論の分断を狙ったが、米国の指導力は揺るがなかった
  湾岸戦争は、初めてテレビで生中継された戦争でもあった。次々と映し出される巡航ミサイルなどの最新兵器が、米国の圧倒的な軍事力を世界に印象付けた。
(2)
□9・11から世界一変
開戦大義崩れ、テロ拡散
  2001年9月11日の米中枢同時テロで、世界は変わり始めた。03年にイラクへ侵攻した米国は泥沼に足をとられ、指導力にも陰りが生じた。イラクから広がった混迷は「テロの時代」につながり、多くの日本人も犠牲となった。
  ブッシュ(子)米政権は「9・11」を受け、01年10月に国際テロ組織アルカーイダの指導者、ビンラーディン容疑者が潜伏しているとされたアフガニスタンを空爆した。現在も続く米国とイスラム系テロ組織との戦いの幕開けだ
  米国の戦線拡大は止まらない。イラクが大量破壊兵器を開発・保有しているなどと非難。フセイン政権はアルカーイダを支援しているとも主張した。同国への武力行使に反対する仏独露との亀裂が深まる中、米国は安保理決議の採択をあきらめ、03年3月に英国とともに開戦に踏み切った。
  米英軍はわずか3週間でイラクの首都バグダッドを制圧した。
  しかし、大量破壊兵器や、フセイン政権がアルカーイダとつながっている証拠は見つからなかった。戦争の大義は崩れ、もう一つの開戦理由とされた「中東民主化」も達成にはほど遠い。
  フセイン政権の強権支配が消えたイラクでは、宗派や民族間の対立が噴出。対米闘争とイスラム過激派によるジハード(聖戦)が結びつき、イラクはテロリストの温床と化した。フセイン政権排除で開いた“パンドラの箱”は、米国といえども軍事力のみでテロを根絶することはできない現実を突きつけた
(3)
□「アラブの春」後、IS出現
■絶対的強者不在の時代
  「アラブの春と呼ばれる現象が世界に新たなうねりを引き起こした。2011年以降、中東各地で政権崩壊や内戦が発生。大量の難民が向かった欧州ではポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭した。米国は「警察官」や「調停者」の役割を捨て、中東への関与を後退させている。
  11年1月、大規模デモがチュニジアで権威主義的なベンアリ政権を崩壊に追い込み、中東各地に飛び火した。米国がイラク戦争で達成できなかった「中東民主化」への期待も膨らんだ。影響は、米ニューヨークの反格差デモ「ウォール街を占拠せよ」や香港の民主化要求デモ雨傘運動」などにも及んだといわれる。

  だがデモは、結果として中東の多くの国では混乱の引き金となった。地域大国エジプトの地位は失墜し、シリアやリビアは今も内戦下にある
  統治能力の低下はテロリストを利した。14年にはイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)がイラク・シリアにまたがる国家を名乗った。欧米でもISやその共鳴者によるテロが相次ぎ、難民の流入などと相まってイスラムへの恐怖を呼び覚ました
  対ISでは有志連合による軍事作戦を主導した米国も、地域秩序のバランサー役は放棄しつつある。

  「米国第一」を掲げるトランプ現政権は、イランとの対決やイスラエルの後押しには熱心な半面、各国の利害が錯綜(さくそう)するシリアやリビアの内戦などには関心が薄い。「絶対的強者」の不在は、中東の混迷を深める要因でもある。(前中東支局長 大内清、中東支局長 佐藤貴生)
(4)
首脳外交が鍵握る中東政策
□元アラビスト外交官(8月から三菱総合研究所主席研究員)中川浩一氏
  中東はほぼ10年に1度、世界を揺るがす事件の震源地になってきた。1990~91年の湾岸危機・戦争2001年の米中枢同時テロ11年の「アラブの春」。俗に“10年周期説”といわれ、外務省のアラビスト(アラビア語研修組)はしばしば自分たちを「季節労働者」と自虐的に呼ぶ。むろん、彼らは常に人脈を開拓し情勢をウオッチしている。
  湾岸危機を収拾した米国は、唯一の超大国の地位を確立した。その後の10年間で、中東ではクリントン米政権の仲介努力でパレスチナ和平が最も実現に近づいたが、これは冷戦後の平和機運があったからだ。
  しかし、米中枢同時テロが起き混乱がもたらされた。「テロとの戦い」を旗印としたイラク戦争は同国に無秩序をもたらし、隣国イランの伸長を手助けした。イランへの警戒を強めたアラブ諸国の多くは米国と良好な関係を保ちつつ、国内の引き締めを続けた。
  そんな中で強権体制への反動として起きたアラブの春は、皮肉にも、中東では民主主義という基本的な価値よりも「力が安定をもたらすことを実証した。オバマ前米政権は「価値」と「安定」のどちらを優先するかで悩み、石油確保のためには中東安定が最大の国益である日本も、同様のジレンマに直面した。

  トップダウンが基本の中東外交では、首脳同士の関係が決定的に重要だ。湾岸戦争時に日本は政治的役割を果たさなかったと批判されたが、その後は首脳レベルの訪問が増え、存在感を増した。安倍晋三首相が昨年6月、イラン首脳と会談し、米国との緊張緩和を働きかけたことは、外交実務上、大きな意味があった。
  今秋の米大統領選の結果は中東情勢を大きく左右する。日本は今後、中東と米国を行き来するシャトル外交がいっそう求められよう。中東専門家の真価が問われる時代がくるといえる。(聞き手 大内清)
(5)
自衛隊の海外派遣増す
憲法解釈による制約大きく
  イラクによるクウェート侵攻から30年が過ぎたが、その後の湾岸戦争は自衛隊の役割を大きく変えた。自衛隊の歴史は「湾岸前」と「湾岸後」に分けられるといっても過言ではない。
  冷戦時代、自衛隊の役割はソ連の侵攻を食い止め、米軍の来援を待つことに限られた。1980年代以降は海上自衛隊がシーレーン(海上交通路)防衛に当たるが、自衛隊の海外派兵はタブー視されていた。
  政府は自衛隊による多国籍軍支援を可能とする国連平和協力法案を国会に提出したが野党の反対で廃案になる。多国籍軍などへ計130億ドルを支援はしたが、国際的な批判を招いた。

  「130億ドル払ったにもかかわらず、国際世論からボロクソに言われた。そこで何かやらなきゃいけないと思った人が増えた」
  この頃、外務省条約局長を務めた柳井俊二氏は、証言録『外交激変』でこう語った。91年4月にはペルシャ湾で機雷を除去するため海自を派遣。92年6月に成立した国連平和維持活動(PKO)協力法も湾岸後の国際貢献を求める声に後押しされた。
  自衛隊はカンボジアなどに部隊を派遣したが、憲法解釈による制約も大きかった。象徴的なのが「駆け付け警護」だ。遠方の国連職員らが襲撃されても救援活動は許されず、2016年3月に安全保障関連法が施行されるまで超法規的措置で対応することもあった。

  一方、PKO以外の任務でも自衛隊の海外派遣が増えた。01年9月の米中枢同時テロに続くアフガニスタン戦争を受け、自衛隊は特別措置法に基づきインド洋で多国籍軍に給油したほか、04年1月からはイラクで人道復興支援活動に当たった。
  自衛隊は現在、PKO活動で大規模な部隊は派遣していない。防衛省には「もはや国際貢献の時代ではない」(幹部)としてPKO派遣に消極的な声もある。中国や北朝鮮の脅威が顕在化し、日本周辺でこそ自衛隊の役割が求められているからだ。
  ただ、湾岸戦争がなければ、自衛隊の役割や日米協力は今のような姿ではなかった可能性もある。その意味でクウェート侵攻はなお影響を及ぼしている。(田中一世、石鍋圭)


2020.7.31-Yahoo!!Japanニュース(NewsWeek)-https://news.yahoo.co.jp/articles/bf1701110b194c5ebb40802179721ae24db5c662
イラン・イラク戦争から40年、湾岸危機から30年:イラン革命以降、いまだに見えない湾岸地域の到達点

アメリカだけでなく湾岸地域の全ての当事国が、長期的なビジョンを描けないまま迷走を続けている
(1)
  2020年は、中東のいろいろな出来事の「〇〇周年」だ。 ちょうど一世紀前は、第一次世界大戦が終わって、ヴェルサイユ条約の発効や国際連盟の発足など、戦後処理にまつわるさまざまなことが起きた年だから、第一次世界大戦を契機に英仏の間接植民地統治を受けることになった中東でも、各地で動乱が起きた
  建国前夜のイラクで起きた反英暴動(1920年暴動)はその一例で、暴動100周年を記念して各地でいろいろなイベントが予定されていた。新型コロナウィルスの感染拡大で、どれも軒並みキャンセルである。 もっと近いところだと、イラン・イラク戦争勃発から40年、というのがある。
  1980年9月(開始日については両国で意見が食い違っている)、前年のイラン革命の飛び火を恐れたフセイン政権下のイラクと、革命の混乱の最中にあったイランが、国境を巡る衝突を本格化させた。 イラン・イラク戦争については、開戦40周年というよりも、最近起きた別の事件で改めて蘇らされた記憶がある。
  2020年7月23日、テヘランからベイルートへと向かうイランの民間旅客機が、シリア上空で米軍機に異様に接近され、慌てて高度を下げたことで乗客に怪我人が出た、という事件だ

  今年初めからのイラン・米間の緊張のなかで、すわ米軍による攻撃か、と震えあがるのは当然だが、震えあがったのは、それを杞憂とは思わせない事件が過去にイランと米軍の間に起きていたからである。1988年7月3日、イラン・イラク戦争も末期、テヘランからドバイに向けて航行中のイラン航空655便が米軍の地対空ミサイルによって撃墜されて、木っ端みじんになった。機体は完全に破壊、290人の乗客・乗組員全員の命が失われた。
  この衝撃的な事件に対して、米軍は「誤射」だったと釈明した。だが、にわかに信じられるものではない。当時はイランとイラクが戦火を交わすなか、アメリカはイラク側についてイランに停戦を求めていたものの、米軍が直接手を下せる状況ではなかった。
  誰しもが、米軍は「誤射」のふりをしてイラン側に譲歩を迫ったのだ、と理解した。これ以上、停戦要求を飲まなければ、米軍が乗り出すぞ、と。そのメッセージはしっかりイラン政府側に伝わり、その半月後には長年拒否し続けてきた国連による停戦決議を受諾したのである
  ホメイニー師の、「受諾は毒を飲むより辛い」という、名言を残して。 <読み違いのなかで始まったイラン・イラク戦争> 「〇〇周年」で、最も思い起こされるのは、1990年に発生した「湾岸危機」だろう。

  8月2日、イラク軍がクウェートに軍事侵攻し、その後占領、併合へと発展したため、翌1991年1月に湾岸戦争が起きた。今年は、湾岸危機発生から30年に当たる。 イラン・イラク戦争にせよ、湾岸危機にせよ、振り返れば、いかにその時代に問題とされていたことが今になって再び噴出しているか、のデジャブ感を、つくづく感じざるを得ない。
  40年前に築き上げた湾岸地域の虚構が、30年前に破綻したのに、気が付けば今もまだ、破綻したまますべての問題が残されている。 中東、特に湾岸地域が現在抱えている安全保障上の問題は、イラン・イラク戦争と湾岸戦争の原因と遺恨を、きちんと解決しないままに放置したがゆえのものである
  それは、1979年のイラン革命によって成立したイラン・イスラーム共和制政権とどう向き合うか、と課題に端を発するともいえよう。なによりもイラン革命という域内の大変動に対して、多くの国がきちんと先を読めず、先を見通す青写真をもっていなかった。
   イラン・イラク戦争も、湾岸危機も、すべての関与する国々が数えきれない読み違いばかりをするなかで、始まった。イラン・イラク戦争は、イラクの当時のフセイン大統領が、アメリカや湾岸アラブ諸国の、イランのイスラーム政権は認めがたい、という空気を読み取って、国際的に孤立したイランに軍事攻撃を行うことで始まったものである。このとき、革命後の混乱に乗じての攻撃なら、短期で決着をつけられるに違いない、とイラク側は予想したが、それ自体が大きな目算違いだった。
(2)
決定的だったクウェートの石油価格調整からの逸脱
  周辺のアラブ産油国もアメリカも、戦争が8年も長引くとは思わなかったので、やむなくイラク側への協力、関与を深めざるを得なくなった。長年対立してきたイラクとアメリカが、「イラン憎し」一点で手を結んだのが1984年の米・イラク間国交回復だったのだが、イラン・イラク戦争が終わったころには、アメリカは、日本やフランス、ドイツなどそれまでの主要交易国を抑えて、イラクの最大の交易相手国となっていた。
  湾岸産油国は、イラクがイランに負けたらたいへんだ、との危機感だけでイラクを支援し、総額500億ドル近いカネを投入し続けた。 このつぎ込んだカネが、無償援助だったのか借金だったのかでもめ始めたのが、イラン・イラク戦争が終わってからである。
  それは貸しただけだ、返せ、と最初にいったのがクウェートだった。長引く戦争の過程で、イランと戦っているのは湾岸アラブ諸国とアメリカの権益をイランの脅威から守るためだ、と自己正当化していたイラクにしてみれば、守ってやったのに今更何を、という気分だっただろう
  同じ時期クウェートでは、域内大国に唯々諾々とするのではなく、独自の政治展開を目指すような傾向が見られた。それは、いきなり借金だから返せと言われてむっときていたイラクだけでなく、サウディアラビアの神経をも逆なでするような態度だった。
  1990年2月にクウェートで開催された湾岸サッカー大会(ガルフ・カップ)に、サウディアラビアは直前で出場を取りやめたのだが、それはかつてクウェートがサウディのイフワーン軍団の進軍を撃退して独立を維持した(1920年ジャフラの戦い)という史実を大会のシンボルに起用したため、それに不快感を示してのことだった。
  つまり、クウェートを挟むイラクとサウディアラビアという地域大国のいずれもが、クウェートが「頭に乗っている」と、多少なりとも感じていたのである。 そしてクウェートにとって決定的だったのが、石油価格調整からの逸脱だった

  イラン・イラク戦争で資金をすっかり使い果たしたイラク、イランにとっては、石油収入を少しでも増やしたい、だから石油価格を上げたい。イラク、イランという域内大国の意向を一概に無視するわけにはいかないと、調整役のサウディアラビアも価格高めで了解する。その「空気」を堂々と無視したのが、クウェートとUAEだった。
  安値での売却を主張して、合意を破ったのである。イラクやサウディアラビアの再三の忠告で、UAEは折れた。だがクウェートは最後ぎりぎりまで、価格調整に抵抗したのである。

  <米イラクの「チキンゲーム」> こうして始まった湾岸危機もまた、関連する国々の間での目論見違いが原因で、事態が戦争に至るまでに深刻化したといってもよい。 まずはイラクである。その一。国際社会がこんなに早く反イラク包囲網で固められるとは思っていなかった。前述したように、サウディアラビアはクウェートに不快感を抱いていたので、イラクのクウェート侵攻に共感してくれるのでは、と期待していたふしがある。
  クウェートに侵攻したイラクは、ひたすらサウディアラビアに対して、サウディにまで侵攻するつもりはさらさらない、というメッセージを伝えているからである。さらには、クウェートをサウディとイラクの間で分割してはどうか、といった提案があったのでは、とまで憶測が流れた。
  イラク政府は歴史を紐解いて、いかにクウェートがもともとイラクのバスラ州の一部だったかを主張したが、前述したガルフ・カップでサウディが不快に思ったジャフラの戦いというのは、この戦いでサウディ側が勝っていればクウェートはサウディの一部になっていたかもしれないというものだ。 さらには、アメリカ、そして国際社会がここまで決定的な反イラク姿勢をとるとは、イラクが予想していなかったことだろう。
  クウェート侵攻直後から即座に国連の経済制裁が課され、侵攻をただの地域領土紛争程度に済ませたかったイラクの思惑と外れて、国連やアメリカが全面的に出張ってくる国際紛争の様相を呈してしまった。 そのアメリカも、イラクが戦争に至るまで折れないとは思わなかったかもしれない。
  冷戦後初めての国際紛争に、唯一の超大国としてのアメリカは、きっぱり手本を示さなければならなかった。だがイラク側は、従来通り、紛争を大きくして手を引くときは何等かの見返りを得る、といった交渉に固執した。
  全面譲歩はあり得ない。それこそチキンゲームのように、開戦ギリギリまで待ってクウェートから撤退すれば、アメリカの鼻をあかせるとでも考えていたのかもしれない。反対にアメリカは、そうはさせじと国連の武力行使期限が来ると早々に、クウェート駐留のイラク軍に猛攻を開始した。
・・・・・酒井啓子(千葉大学法経学部教授)


湾岸戦争
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  湾岸戦争(英語: Gulf War‎)は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。

  1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに当時の冷戦の終結を象徴した。翌年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成され、これは第二次世界大戦以来の連合であった。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍にはノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将の指揮下に置かれた。
  国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。
  イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた
  このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
  空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた
湾岸危機(開戦までの経緯)
イラクとクウェートの摩擦
  1988年8月20日に、イラクはシーア派イスラーム共和制国家のイランとの8年間に及ぶイラン・イラク戦争の停戦を迎えた。
  戦争中に五大国のアメリカ、ソビエト連邦中華人民共和国、イギリス、フランスや経済的に豊かなペルシア湾岸のアラブ諸国に援助され、イスラエルをのぞいた中東では最大かつ世界的にも第四位の軍事大国となったが、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱え、戦災によって経済回復も遅れていた。イラクの外貨獲得手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレルあたり15~16ドルの安値で、イラク経済は行き詰っていた。
  イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農産物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。

  フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、カタールアラブ首長国連邦の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。
  一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPECの割当量を超えた石油増産を行っていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全無視し大量採掘、原油価格は値崩れし石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。
  1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセイン大統領は「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。
 これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。7月18日、イラクのターリク・アズィーズ外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えた石油生産により、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。

  クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田は、イラクも領有を主張、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。また、クウェート国内では石油利益配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。
  この事態に周辺アラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。 これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。7月21日には、エジプトのホスニー・ムバラク大統領が、フセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。

  事態を重く見たムバラク大統領は、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結。同日、ムバラク大統領はイラクを訪問し、フセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。これに対してフセイン大統領は、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバラク大統領の提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたフセイン大統領は、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。
  同日、フセイン大統領と会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に共和国防衛隊集結をアメリカ軍の偵察衛星も確認した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。

  アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセイン大統領はすでに交渉による解決に関心を示さなかった。一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していたワルバ島英語版ブービヤーン島をイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。これに対してクウェート側代表のサアド首相はイラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。イラクは、次回協議をバグダードで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。
  8月1日に、両国を仲介していたムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。
イラクのクウェート侵攻
  1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。
  クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。同時に革命指導評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドは少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。
多国籍軍
  イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。
  8月7日、アメリカのブッシュ大統領は  サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得し、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にメッカという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、友好国ではあるものの異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。
  しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。
  しかし国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(砂漠の盾」作戦)。
イラクの反応
  イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。
  8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。
「人間の盾」
  さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。
  なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空ブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。
  だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。
戦争推移
砂漠の嵐
  1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開始。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍B-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。
  1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。
  アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。ただし開戦初日にはイラク空軍MiG-25によりF/A-18が撃墜されている。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。
周辺諸国攻撃
  一方、フセイン大統領は「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。
  イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した
  イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセイン大統領のもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。
  アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。

  またスカッドを捕捉、破壊するためイギリス特殊空挺部隊(SAS)偵察チームがイラク後方に潜入したが、偵察チームの多くはイラク軍に捕捉され、死傷者が出た。特にアンディ・マクナブ軍曹の指揮する偵察チーム、コールサイン「ブラヴォー・ツー・ゼロ」は8名中3名が死亡、マクナブを含めて4名が捕虜となり、ただ1人クリス・ライアン伍長だけがシリアへの脱出に成功した。
  1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃。しかし戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。
砂漠の剣
  1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦(砂漠の剣」作戦)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。
  大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。
  イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた[10]。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。2月28日の朝(イラク時間)に戦闘が終結した。
  アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された。」「イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である。」と述べた。一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した
  3月3日には暫定停戦協定が結ばれた。
停戦協定
  3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。
  国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。(その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。)
損 失
一般市民
  巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。
  地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した[25]。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。
  カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテの調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された。
イラク
  正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士の中で負傷者が数百名しかいなかったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある
  フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した
連合国
  国防総省は、MIA(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロットが追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である
  多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した。
  多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった
  しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている
  イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。
  これは国別の多国籍軍の死亡者数である。
 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 - 294名 (114名が敵からの攻撃、145名が事故、35名が友軍相撃による。) イギリスの旗 イギリス - 47名 (38名が敵からの攻撃、9名が友軍相撃による。) サウジアラビアの旗 サウジアラビア - 18名 エジプトの旗 エジプト - 11名 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 - 6名 シリアの旗 シリア - 2名 フランスの旗 フランス - 2名 クウェートの旗 クウェート - 1名 (砂漠の嵐作戦下)
友軍相撃
 イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に低く、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。
被害と補償
クウェートにおける石油火災(詳細は「en:Kuwaiti oil fires」を参照)
  クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された。
  生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m3)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した[44]。しかし、火災は発生より10ヶ月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。
ペルシア湾への石油流出(詳細は「en:Gulf War oil spill」を参照)
  1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった。
戦後補償
  国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。
  フセイン政権は1994年から賠償金を支払い、現在までに301億5000万ドル(2兆6000億円)が支払われた。しかし、残高が223億ドル(1兆9300億円)も存在し、現行ペースでは完済に十数年かかると見られている。
  このため、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。
国境画定問題
  現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833に基づいて画定された。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。
戦 費
 アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。
投入兵器
  トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾F-117ステルス攻撃機、パトリオットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾全地球測位システム (GPS)、F-15E戦闘爆撃機など、特にアメリカは数々の新兵器を投入した。
  中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。
  アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといった誘導爆弾は、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにもかかわらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。ジャーナリストたちが、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行われた。
  多国籍軍が投下した爆弾のうち、7.4%は精密誘導によるものであった。クラスター爆弾を含む複数の子弾を四散させる爆弾及び15,000ポンド爆弾デイジーカッターは、数百ヤードにわたる範囲内の建造物を破壊可能である。
  全地球測位システムは、砂漠全域における円滑な部隊運用を可能にした。
  早期警戒管制機 (AWACS)及び衛星通信システムもまた重要な役割を果たした。アメリカ海軍E-2ホークアイ及びアメリカ空軍E-3セントリーがその一例である。これらの航空機は作戦範囲における司令及び管制に使われた。これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った多くの理由の内の一つである。
  対して、イラク軍は地上戦力では9K52やT-72といったソ連製兵器や中国製59式、69式戦車などを投入した。ところが、中にはモンキーモデルと呼ばれる性能を輸出向けにダウングレードさせた仕様も存在したため、これらは多国籍軍の戦車に相次いで撃破された。他にも、対地攻撃用にスカッドミサイルやカチューシャといった装備も投入しており、これらの存在に多国籍軍は苦戦することになった。

  航空戦力には、装備していたソ連製・フランス製・中国製戦闘機や爆撃機を投入。中にはMiG-25のように撃破ないし撃墜に至らせた機体もあった。しかし、全天候能力を持たない機体も多く大部分は撃墜されているか隣国のイランに退避する事態を迎えた。現在でも、イラン空軍には当時イラクから逃げてきた飛行機が何機か配備されているが、これはイランも革命後にアメリカから支援を断たれたためやむを得ず使用しているためである。
  イラク海軍はフリゲートやコルベット、ミサイル艇といった小型の艦艇で構成された艦隊が配備されていた。海上戦力において重大な脅威とみなされたのは(クウェート海軍から鹵獲された物を含む)ミサイル艇のみであったが、これらは多国籍軍の航空戦力によって一方的に殲滅されている。なお、イラン・イラク戦争後、イラク海軍はイタリアにミサイルフリゲートや補給艦を発注して海上戦力の充実を狙っていたが、フリゲートはキャンセルされている。また、補給艦はイラクへの回航中に湾岸戦争勃発により引き渡しが禁止され、エジプトのアレクサンドリア港に留め置かれた。
テロリストへの影響
  サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており、また、アメリカ上院情報特別委員会[55]はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。
  過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。
レバノン内戦への影響(「レバノン内戦」も参照)
  湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団ミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。
  一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。
  アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。
日本への影響
  湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対してアメリカ政府は、同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合はこれを拒否。さらに当時の外務大臣中山太郎が、外国人の看護士介護士医師日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の運航乗務員組合と整備員の加入する組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。
  さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。
 また、鶴見俊輔鈴木正文などの「文化人」は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して柄谷行人中上健次津島佑子田中康夫らは『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表する。これらの作家や「文化人」の多くは、イラクによるクウェート侵攻については批判するものもいたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。

  日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行ったが、人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難され孤立[要出典]。また、ドイツも同様に非戦協力のみであったが、格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも、中央上段に国名が掲載されている。
  クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議をし、またワシントンポストに感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡ったことも要因となる。また、クルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)の内、695億円がアメリカに渡った(いずれも1993年〔平成5〕4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より)。日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある。

  同盟国のアメリカなどから非難された結果、自民党・外務省・保守的文化人などのあいだで「人的貢献がなければ評価されない」とのコンセンサスが形成された。その後の自衛隊の任務拡張のための根拠にたびたび使われた。日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ、「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。その後、ペルシャ湾機雷除去を目的として海上自衛隊掃海艇を派遣し、自衛隊海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動に参加する事が可能となった。
  2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のために米国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ(サウード・ナシール・アル・サーウド・アル=サバー)駐米大使(娘のナイラはナイラ証言をしたことで著名)の発案であり、大使の求めで国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話している。同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明がされていること、2011年3月の東日本大震災を受けて、富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられたこと、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では、湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。(ただし、前述のように直接クウェートに渡った資金は6億3千万円程度に過ぎない)

呼称の変動
  日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。
  一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。
  アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。
  また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「ニンテンドー戦争」とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された。
作戦名
  ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。

  ・砂漠の盾作戦 - 1990年8月2日から1991年1月16日にかけて行われた、アメリカによる、戦力増強及びサウジアラビア防衛の作戦名。
  ・砂漠の嵐作戦 - 1991年1月17日から1991年4月11日にかけてのエアランド・バトル
  ・ダゲ作戦 - フランス軍による作戦名
  ・フリクション作戦 - カナダ軍の作戦名
  ・ロクスタ作戦- イタリアの諸作戦
  ・グランビー作戦 - イギリス軍の諸作戦
  ・砂漠の送別作戦 - 1991年のクウェート解放後のアメリカ軍部隊および装備のアメリカ合衆国本国への帰還作戦。しばしば「砂漠の平穏作戦」と呼称される
  ・砂漠の剣作戦 - 1991年2月24–28日、「砂漠の嵐作戦」の一部として行われた、アメリカ軍によるクウェート地域のイラク軍への「100時間戦争」。 砂漠の剣  作戦の初期においては、デザート・ソード作戦とも呼ばれた。
  これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。
戦闘
  アメリカは、この紛争を以下のように大きな3つの戦闘に分けた。
  ・「サウジアラビアの防衛 - 1990年8月2日から1991年1月16日までの期間。
  ・「クウェートの解放と防衛 - 1991年1月17日から1991年4月11日までの期間。
  ・「中東アジア停戦 - 1991年4月12日から1995年12月30日までの、プロバイド・コンフォート作戦を含む期間。







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