monomousu   もの申す
ウイグル問題-1



2019.12.16-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191216/k10012216331000.html
サッカー元独代表エジル ウイグル族問題で批判に波紋広がる

サッカーの元ドイツ代表で、イスラム教徒のエジル選手がSNS上で、中国のウイグル族が不当な扱いを受けているとして批判したのに対して、中国で強い反発の声が上がるなど波紋が広がっています。
  中国の新疆ウイグル自治区ではウイグル族が不当に拘束されているとして、アメリカの議会下院が人権侵害に関わった中国の当局者に対し、制裁の発動を求める法案を可決するなど国際的に懸念が高まっています。
  この問題について、サッカーの元ドイツ代表でトルコ系移民のイスラム教徒、メスト・エジル選手は13日SNS上に、「コーランは焼かれ、モスクは閉鎖され、宗教学者は一人一人殺され、兄弟たちが強制収容所に送られている」とトルコ語で投稿し、中国のウイグル族が不当な扱いを受けているとして批判しました。
  これに対し、中国のサッカーファンからは「エジル選手を辞めさせるまで試合はもう見ない」などと強い反発の声が上がっていて、中国国営テレビはエジル選手が所属するイングランドのプレミアリーグの強豪、アーセナルの試合の中継を別の試合に差し替えました。
  こうした事態を受けて、アーセナルは「エジル選手の個人的な意見であり、アーセナルは一貫して政治に関与しない原則を堅持する」という声明をSNS上に投稿しました。
  しかし、この投稿の返信欄には、エジル選手のユニフォームを切り裂いた写真が投稿されるなど、反発が収まる気配はなく波紋が広がっています。


2019.11.28-BLOGOS-NEWSボストンセブン-https://blogos.com/article/420407/
中国の「ウイグル弾圧」内部文書が流出 民族浄化策が進行か

「決して容赦するな」「情け容赦は無用」──この物騒な言葉を発した人物は中国の習近平国家主席。対象は香港の学生たちでもチベットの独立運動家でもなく、イスラム教徒のウイグル人たちで、後述のニューヨークタイムズの報道によれば、2014年春に新疆ウイグル自治区を訪れた際に非公式の場で発せられたもの。以来、同自治区では危険分子の嫌疑をかけられたウイグル人の拘束と収容が相次いできた。
 米ワシントンに拠点を置き、本来イスラム教徒が多数を占めていた新疆ウイグル自治区の独立を目指す人権団体「東トルキスタン国民覚醒運動」によれば、グーグルアースを使って調査を行なったところ、同自治区内に収容施設や刑務所と見られる施設500か所近くを確認。収監・収容されているウイグル人の総数は100万人以上にも及ぶという(11月13日付AFPBB News)
 東トルキスタン国民覚醒運動による発表を待っていたかのように、2019年11月17日付の米紙ニューヨークタイムズは、新疆ウイグル自治区のウイグル人らへの弾圧をめぐり、400ページ超に上る中国政府の内部文書を入手したと報じた。
 これまで強制収容所の存在を否定していた中国政府は一転、希望者に対して過激思想に対抗するための教育と訓練を提供していると説明したが、同月25日、英国のBBCパノラマや英紙ガーディアンなど17の報道機関が参画する国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が新たな内部文書を入手したと発表。「中国電報」と命名されたその公文書には収容者の監禁や教化、懲罰の内容が詳細に記録されていた。
「違反行動には厳しい規律と懲罰で対応せよ」「悔い改めと自白を促せ」──収容所の宿舎と教室にはそれぞれ監視カメラが張り巡らされ、収容者は「思想変革、学習と訓練、規律の遵守」について点数が与えられる。そして自分の行動や信条や言葉を変えたと示すことができて初めて解放されるのだと、流出した内部文書には記されている。

 中国政府による、同様の少数民族に対する弾圧は過去にも行なわれたことがある。多民族国家の中国では総人口の91.5パーセントを占める漢民族のほか、公認されている少数民族の数だけでも55を数えるが、中国政府による弾圧が特にひどかった場所は陝西省と甘粛省、内蒙古(内モンゴル)自治区に囲まれた寧夏回族自治区だ。回族は唐から元の時代にかけて西域から移住してきたイスラム教徒の後裔で、アラブ系やイラン系もいれば、外見だけでは漢族と見分けのつかない者も多い。
 この寧夏回族自治区で1956年に始まる反右派闘争と1966年に始まる文化大革命の最中、徹底的な宗教弾圧が行なわれ、反右派闘争開始前に1895あったモスクが文化大革命終結時点には31にまで激減。男性は髭を蓄えること、女性はベールで髪の毛を隠すことを禁じられ、豚肉を食べることと養豚を強制された。イスラム教伝統の祝祭も反革命の違法集会として弾圧の対象とされるなど、回族からのアイデンティティ剥奪と漢民族への同化政策は留まるところを知らなかった(松本ますみ著『イスラームへの回帰 中国のムスリマたち』参照)
 ちなみに、元の時代(1271~1368年)には回族が官吏として大陸各地に赴任した。その際に一族や友人知己もこぞって移住したことから、回族の居住域は寧夏に限らず、中華人民共和国成立後は、全国ほぼすべての省に「回族自治県」が点在するかたちとなり、どこでも寧夏と同様の迫害が実施された。
 現在の中国の領土は明王朝時代(1368~1644年)の約2倍に相当する。その増えた部分が現在の内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル自治区にほぼ相当するわけで、内モンゴルでは都市化の進行がブレーキ役を果たしているのか目立った動きはないが、チベット自治区とチベット人が多く居住するその周辺地域、及び新疆ウイグル自治区では独立を求める動きが急進化している。

 新疆ウイグル自治区が成立したのは1955年のことだが、当時はまだ漢民族の人口が圧倒的に少なかったため、寧夏回族自治区とは事情が違っていた。けれども、漢民族の移住が奨励され、人口の過半数を占めるに至った1990年代以降、世界的なイスラム復興の動きとも絡み合い、新疆ウイグル自治区の情勢も不穏なものへと化していった。
 デモや暴動、テロ事件が相次ぐなか起きたのが2001年のアメリカ同時多発テロ事件で、中国政府はこの機に乗じ、もっとも煙たい存在だった「東トルキスタン・イスラム運動」をアメリカ政府と国連にテロ組織と認定させることに成功するなど、国際情勢を巧みに利用することで同自治区への締め付けをいっそう強化していった。

 新疆ウイグル自治区成立以前からその地に居住していたのは、ウイグル人をはじめ、トルコ系諸民族からなるイスラム教徒がほとんどで、同地が中国の版図に組み込まれたのは清の乾隆帝が君臨した1759年のこと。とはいえ、信仰の自由はもとより、社会や文化も現状維持が許されたから、大した問題は起こらなかった。
 しかし、中国共産党一党独裁下の中華人民共和国の統治はまったく異なる。特に求心力を共産主義から愛国心、中華民族に転換させてからの同化政策は目に余るほどひどく、イスラム教徒として、ウイグル人としてのアイデンティティを完全に捨て去るか、従順な民になるかの二者択一を迫るようでは民族浄化の誹りを免れまい。
 うがった見方かもしれないが、そこには圧倒的多数派の驕りや優越感よりも、強固な異文化に対する怯えのようなものが感じられてならない。
●取材・文/島崎晋(歴史作家)


2019.11.25-NHKNEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191125/k10012189951000.html
ウイグル族人権侵害裏付ける内部文書を公開 各国記者の団体

中国でウイグル族の人たちが不当に拘束されていると国際社会から批判が強まるなか、世界各国の記者でつくる団体は中国政府がウイグル族を監視する大規模なシステムを構築し、1週間で1万5000人余りを収容施設に送ったことなどが記された内部文書を公開しました。
  各国の記者でつくる団体、「ICIJ=国際調査報道ジャーナリスト連合」は、24日、中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル族に対して行っている監視活動や、収容施設の運営について記した20ページ余りの内部文書を公開しました。
  それによりますと、中国政府は携帯電話アプリの利用記録などの個人情報をもとにウイグル族に対する大規模な監視システムを構築し、この監視網を使っておととし6月には1週間で1万5000人余りを収容施設に送ったとしています。また施設では、収容者に対し、ウイグル語ではなく中国語を使わせることや、脱走を防ぐために食事中や入浴中も監視を徹底することなどが記されています。
  アメリカは中国政府がウイグル族に対する不当な拘束や虐待といった人権侵害を続けているとして、関与したとみられる政府当局者への入国ビザの発給を制限するなど圧力を強めています。今回、中国政府による人権侵害を裏付ける文書が明らかになったことで、国際社会からさらに非難が強まることが予想されます。

中国外務省「中傷のたくらみ成功しない」
これについて中国外務省の耿爽報道官は25日の記者会見で、「メディアが卑劣な手段で問題をあおり立てて、中国のテロや過激化対策を中傷しようとするたくらみは成功しない」と述べて、強く反発しました。
  そのうえで、「新疆ウイグル自治区が安定を保ち、民族が団結することが、メディアのデマに対する最も効果的な反撃だ」と述べ、ICIJの指摘は事実に基づいていないと強調しました。

内部文書が示す抑圧の実態
各国の記者でつくる団体、「ICIJ=国際調査報道ジャーナリスト連合」が入手したとする内部文書では、中国政府が職業訓練を行っていると主張する施設の運用方針が記されていて、抑圧された環境でウイグル族への思想教育などが行われていることがうかがえます。
  この文書では、施設では訓練を行う部屋や寮などすべての場所に監視カメラを置くほか、逃亡を防ぐためトイレや入浴する際などにも徹底して監視することなどが指示されています。また、施設では収容された人が施設外の活動に参加したり携帯電話を隠し持ったりすることを禁止するなどと記されています。
  文書では、家族との連絡について少なくとも週に1回は電話することを認めるほか、毎月1回、ビデオ電話もできるとされていますが、ICIJはこの規定も十分に守られていないなどと指摘しています。さらに施設から出る条件として、少なくとも1年以上入所し思想を改めることなどが必要だとしています。
  中国政府は、職業訓練の施設だとして一部の海外メディアなどを招いて正当性をアピールしてきましたが、文書では、施設の職員に機密を守るよう強く要求していて、施設の情報が外部に漏れて国際社会から非難を浴びることを警戒しているものとみられます。
  このほか、「ICIJ」が入手したとする別の文書では、中国政府が新疆ウイグル自治区で「一体化統合作戦プラットフォーム」という名の大規模な監視システムを構築し、ウイグル族を徹底的に管理していたことがうかがえます。
  この監視網を使って中国当局が危険と判断する国内外のウイグル族などを特定していて、テロに関わった疑いがあるとする人物が海外から入国した際にはすぐに拘束するよう入国管理を厳しくするよう定められています。
  また、内部文書では、当局が問題視する携帯電話のアプリを利用していたウイグル族180万人を特定したと指摘し、テロの疑いがある人物は施設などで徹底的に調べるべきだなどと強調しています。

専門家 「習指導部への反発の表れ」
各国の記者でつくる団体が、中国政府がウイグル族に対して行っている監視活動や、収容施設の運営について記した内部文書を公開したことについて、中国や香港の情勢に詳しい神田外語大学の興梠一郎教授は「習近平政権というのは、一強体制をつくって情報管理や規律を徹底し、敵なしの状況を作り上げてきたが、こうした文書が外国のメディアに渡されるというのは1つの規律のほころびで、内部では耐えられないという反発がかなり強くなっていると思う」と述べ、習近平指導部への反発の表れだとする見方を示しました。
  そのうえで、「現在の中国は習近平政権になってから、学者も誰も意見を言えなくなっている状況で、これが一強体制の問題だ。今後、国内のさまざまな意見を聞いて修正を図っていかなければ、中国は国際的にも厳しい状況に置かれることになる」と指摘しました。


2019.11.18-NHKNEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191118/amp/k10012182071000.html
米紙「新疆ウイグル自治区で思想教育」報道 中国が強く批判

アメリカの有力紙が、中国当局が少数民族のウイグル族を強制的に収容して思想教育を行っていることを示す内部文書を入手したと報じたことについて、中国外務省は「事実に目を背けて中国のテロ対策への努力を中傷している」として強く批判しました。アメリカの有力紙ニューヨーク・タイムズは16日、中国政府の内部文書を入手し、新疆ウイグル自治区で、当局が職業訓練を行っていると主張する施設にウイグル族の人たちを強制的に収容し、外部と通信が遮断された環境の中で徹底した思想教育を行っていると報じました。
  また、2014年に習近平国家主席が非公開で行った演説では、取締りについて「いっさい容赦するな」と指示しましたが、ウイグル族の弾圧をめぐって共産党内でも疑問視する声が出ていると伝えています。
  この報道について、中国外務省の耿爽報道官は18日の記者会見で、テロ対策によって治安が安定したと強調したうえで、「ニューヨーク・タイムズは事実に目を背けて論点をすり替え、中国のテロや過激化対策を中傷している」と述べ、強く批判しました。
  また、内部文書が存在するかどうかについては回答を避けた一方で、「新疆ウイグル自治区が繁栄し民族が団結することが個別のメディアに対する最も効果的な反撃だ」として、ウイグル族に対する政策を改める考えはないと強調しました。


2019.10.30-沖縄タイムス-https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491205
中国にウイグル族拘束の停止要求 国連で23カ国が声明

【ニューヨーク共同】国連総会第3委員会は29日、米ニューヨークの国連本部で人種差別撤廃について討議した。日米英など欧米諸国を中心とした23カ国は中国に対し、新疆ウイグル自治区の少数民族ウイグル族らの恣意的な拘束などを直ちにやめるよう要求した。英国のピアス国連大使が共同声明を読み上げた。
 ロイター通信によると中国の張軍国連大使は記者団に対し、米中貿易協議を念頭に「一方で貿易での合意を模索しながら、他方で人権問題を非難に利用するとは想像しがたい」と反発。貿易協議での合意成立に「役立つとは思えない」と語った。(共同通信)


ウイグル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ウイグルは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族(あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族)を指す。現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムである 

新疆
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、マーワラーアンナフルタリム盆地オアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった。モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年トルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。
ウイグル(維吾爾)
1921年、ソ連トルキスタン地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に独立的な軍閥を形成した盛世才政権が、1934年に「ウイグル」という呼称と「維吾爾」の漢字表記を定めた。この呼称は中華人民共和国にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)
民族・定義(「テュルク系民族」も参照)
ウイグル語テュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、ウイグル、カルルクバスミル沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される。
  森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったとしている。唐代末期にモンゴリアアルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する。それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者がテュルク語化した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。
  こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた。
  20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述)。森安孝夫によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている
この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年盛世才政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。
創生伝承
ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン集史』(1314年編纂完成)がある。
特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セムハムヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。
遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散
840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなる。 一部は吐蕃安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する
ジュンガルと清の戦争
1688年、ジュンガルは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻する。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは康熙帝に保護を求めた。1690年にはガルダンの甥のツェワンラブタンが反乱を起こし、イリ地方とタリム盆地を制圧して清と結ぶ。
ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、ウランプトゥン(ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。1693年にはハミのダルハン=ベク、アブド=アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した1696年、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンをチャオモード(昭莫多)で破ったジョーン・モドの戦い)。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。ガンダルの息子タンチラはハミに亡命したがアブド=アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となった
ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めた[45][46]北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官ヨハン・グスタフ=レナットはイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている[47][48]。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開く。
清による占領
1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した
清朝政府は、1762年天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)と呼ばれた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。このベグ官人制は1884年新疆省まで存続した。こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢化しながらも漢民族ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる。なお、イリ将軍府は辛亥革命後に廃止されている
ジュンガルを継承した清朝も1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている。1764年には満洲シベ族兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した
清朝の新疆討伐
1872年(同治11年)7月、清朝側は主戦派である左宗棠が兵を率いて蘭州に進駐し、新疆討伐への準備を開始した。
海防・塞防論争
しかし、1874年日本による台湾出兵を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し、1875年(同治13年・光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議(海防・塞防論争)が発生した李鴻章海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した陸防派(塞防派)である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。
  満州人の軍機大臣文祥は左宗棠の建議を奏上、朝廷の摂政西太后は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令・欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まった。左宗棠は軍費白銀1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両借款した[73]。ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされる。左宗棠は武器製造工場の蘭州製造局を設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功した。
  1876年(光緒2年)3月、左宗棠軍には湘軍劉錦棠軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となった。6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し、ウルムチ近郊のジムサルを占領した。ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得馬明・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人はトゥルファントクスンに、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。8月17日、清軍はウルムチ北部米泉を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらにサンジ・シャヒリフトビとマナス北城が陥落した。11月6日にマナス南城も陥落した。

1877年(光緒3年)4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えた。その後達坂城を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降した。清軍はトクスン、5月にはトゥルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡する。ヤクブ・ベクは逃亡中の5月29日に死亡する
  ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子ベク・クーリ・ベクが抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し、12月下旬までに西の4城を陥落させた。1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服した。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人である。
清朝の戦後処理とロシアとの交渉
イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあったが、ロシアはクリミア戦争のため、清の進出に対抗できなかった。
1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、黒海沿岸のリヴァディアにあるリヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)に調印した。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった。清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張した。結局、外交を担当した崇厚西太后によって死刑を宣告されるが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたる。
ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり、ロシアと清の関係は緊張する。しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始される、1881年2月、イリ条約が締結され、清朝がザイサン湖周辺地方すなわちホルゴス河以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意された。この条約は不平等条約ではあったが、中央アジア地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至る

新疆省設置
イリ返還をうけて清朝は1884年新疆省を正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に中国本土並みの行政が布かれた。清が自治権を認める従来のベグ官人制を廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った。その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえたといわれる。歴史学者の王柯は、その後、新疆省指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という。他方、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人が当たった
ウイグルの呼称の復活
西トルキスタンには、1881年のロ清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔であるタランチ集団は清朝への反乱(ヤクブ・ベクの乱など)に加担していたため、イリ地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住している。
日露戦争において、それまで国際的には小国とみなされていた日本ロシア帝国に勝利すると、それに触発されて1908年には青年トルコ人革命が起きる。青年トルコ人革命以降、汎テュルク主義がトュルク系民族に大々的に流行し、そうしたテュルク主義に影響されを受けていたナザル・ホジャというタランチ集団の記者が1913年にアルトゥシャフルを「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所」と表現している。またナザル・ホジャは1914年からは「Uyghur Balasï (ウイグルの子)」という署名をするようになっており、ムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されていた
1913年11月の雑誌『シューラー』での記事では「テュルク文学はウイグル(ユグル、ウグル、漢語でホイフ)方言で始められた。オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とする論評が掲載されている。
アルマ・アタ会議
1921年カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフが「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった。サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す
中華民国時代
1911年辛亥革命が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル旗人広福を臨時都督とする政府が樹立された。清の宣統帝が退位すると、ウルムチ知事であった楊増新新疆省長・督軍となる。雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた
他方、オスマン帝国汎トルコ主義中央ユーラシアに広めようとしており、トルコ人のアフメト・ケマルが新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった。
盛世才による改名
当時ソ連共産党党員でもあった遼寧省出身の漢人である盛世才は、1933年に軍を率いてクーデターを起こすと新疆軍閥を率いて1944年まで独立した政権を築いた。盛世才は従来の中華民国当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」を廃止して「ウイグル」民族を「設定」する指示を受け入れ、1934年に省府議会で正式採用させ「維吾爾」という漢字表記も定めた。
ハミ郡王家の反乱
楊増新が1928年に暗殺されると、金樹仁が新疆省長になる。しかし金樹仁はメッカ巡礼などを禁止するなどムスリムへの弾圧政策を行い、さらに土着の小王国であったハミ郡王家を消滅させようとする(回土帰流問題)と、これに反発した住民たちは1931年、大規模な反乱が発生する。ハミ郡王家軍は、回族の軍閥馬仲英に援助を求め、馬仲英軍はバルクルまで進出するが、新疆省政府軍が登場すると甘粛に撤退し、ハミ軍は山地へ撤退した
トルファンの反乱
ハミの反乱をうけて1932年にはトルファンのイスラム教諸民族の反乱が発生する。反乱軍はトルファンを掌握するが、ロシア白軍の残党を含む盛世才の省政府軍に敗北する。その後トルファンは馬仲英に占領された
東トルキスタン・イスラーム共和国
1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した。なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢族と同様に排除され、トルコ語系の住民が構成員とされた。
馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、盛世才が実権を握った。盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した。
1941年には、アルタイ地区のカザフ族遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された。このこの第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる。

人民解放軍によるウイグル侵略(詳細は「新疆侵攻」を参照)
1949年国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京政治協商会議に招いた。しかし、8月27日北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフイスハクベグ・モノノフ、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された(新疆侵攻)。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族シベ族回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。1950年伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。その後、入植当初人口7パーセントだった漢族1991年には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる
新疆ウイグル自治区の設置(詳細は「新疆ウイグル自治区」を参照)
1955年には中華人民共和国で2番目の自治区新疆ウイグル自治区が設置された。
東トルキスタン分離工作
新疆ウイグル自治区では、1930年代に英国の大規模な工作活動が引き起こしたウズベク族、キルギス族を主体としてウイグル族やカザフ族を含んだ少数民族の分離活動が今も国内外で続いている。キルギス族、ウズベク族などがいくつかの地下組織を結成し、「東トルキスタン国」の建設を名目として活動していると言われ、特に1990年代以降の新疆ウイグル自治区では無差別殺傷事件などのテロ事件が起きているという情報がある。1997年グルジャ事件以降はアフガニスタンパキスタンに逃れたウイグル族もいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻の際に米軍による拘束やパキスタン政府の引き渡しによってキューバグアンタナモ湾収容キャンプに収監された。収監中は中国当局者がグアンタナモを訪問して尋問に参加しておりアメリカ合衆国司法省監察官のグレン・A・ファインによれば中国当局者と米軍の尋問官は協力して15分ごとに睡眠を中断させる「フリークエントフライヤープログラム」と呼ばれる人権侵害も行ったとされる
2004年9月東トルキスタン共和国亡命政府がアメリカで樹立された。
2015年8月17日と18日、タイの首都バンコクで死者20名、負傷者125名(うち邦人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル族109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている[105]。また、タイと同じ軍事政権のエジプトなどでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることは問題となっている


2018.11.13-文春オンライン-https://bunshun.jp/articles/-/9651
日本で「ウイグル問題を報じづらい」3つの深刻な理由
(安田 峰俊)
(1)
  最近、中国が新疆ウイグル自治区でおこなっている少数民族ウイグル人への弾圧問題が、世界でのホットなトピックになっている。国連人種差別撤廃委員会は2018年8月末、最大100万人のウイグル人が強制収容所に入れられているとの指摘を報告。米中両国の政治的対立もあり、最近は米国系のメディアを中心に関連報道が続いている。

ますます厳しくなるウイグル人への締め付け
  トルコ系のウイグル人が多く住む新疆は、チベット・内モンゴルなどと並び、20世紀なかば以降にやっと中国政府による直接支配が確立した地域なので、少数民族の間では独立や自治獲得を望む意向が強い。
 だが、中国では1989年の六四天安門事件後、国家の引き締めのために漢民族中心主義的なナショナリズムが強化され、また経済自由化のなかで辺境地帯の資源・都市開発や漢民族による移民が進んだ。結果、2010年前後からは追い詰められた少数民族による大規模な騒乱が増えた。
  少数民族のなかでも、イスラム教を信仰するウイグル人は、中国共産党にとっては「党以外の存在」に忠誠を誓っているように見える。彼らは人種や文化習慣の面でも漢民族との隔たりが大きく、中央アジアや中東との結びつきも強いことから、他の少数民族以上に強い警戒を持たれている。
  結果、近年のウイグル人への締め付けはいっそう厳しくなっている。中国は現在、「テロ防止」を最大の名目として国内の治安維持費用に国防費を約20%も上回る予算を投入、さらに国内に1億7000万台近い監視カメラを設置(2017年時点)したり、当局が国民のネット接続を監視したりする監視国家になっているが、その最大のターゲットはウイグル人と言ってもいい。
新疆は中国の治安機関の見本市
  いまや新疆は、のどかなシルクロードのイメージとは裏腹に、強力な監視・警備体制が敷かれる恐ろしい場所になっている。筆者が2014年春に訪れたときは、街のいたる場所に制服姿の治安維持要員が立哨したり巡回したりしており、城管・公安・武装警察・特殊警察……と中国の各種治安機関の見本市のようになっていた。これらは現在、いっそう深刻になっているようだ。
  また、近年の新疆では多くのモスクが閉鎖されるなど、ウイグル人はイスラム教の信仰を事実上禁止されるに近い状況に置かれており、公教育機関でも、ウイグル人としての民族的なアイデンティティを持ちづらい教育が行われているとされる。家族や親戚を含めて、国外にいる知人と連絡を取ることも容易ではないという。
(2)
ウイグル問題への言及はなぜ「面倒くさい」のか?
  筆者はウイグル問題の専門家ではない。とはいえ、過去に現地に行ったこともあれば、自分の書籍で何度か詳しく言及したこともあるため、この問題への関心はおそらく他の中国ライターよりも強いはずだ。
  ただ、正直に言ってウイグル問題に言及するのは気が重い。その理由は、日本国内でこの問題を語ったり調べたりする行為が、極めて面倒くさい事態を引き起こしがちだからだ。これは筆者に限った話ではなく、過去にウイグル報道に関係したテレビ関係者や新聞記者に尋ねても、似たような感想を述べる人が何人も見られる。
  ここでいう「面倒くさい」事態とは、中国当局の妨害や圧力だけではない。もちろん妨害も深刻だが、こちらは事前に想定ができる。日本でわざわざウイグル問題を報じようとする報道関係者にはキモの据わった人が多く、ある程度の覚悟をしている人も多い。

メディアが直面する3つの問題
  むしろ問題なのは、いざウイグル問題について調べようとフタを開けてみると、中国の政治事情とはあまり関係がない問題に数多く直面し、精神力をいちじるしく消耗する点である。結果、ウイグル問題を1度くらいは取り扱ってみても、「次」にもう一度取り組もうという気にはなれない報道関係者も少なくないようだ。
  そこで今回の原稿では、日本のメディアがウイグル問題を報じる際に直面する「面倒くさい」問題の内実を指摘してみたい。おおまかに言えば、以下のような問題が存在しているのだ。
 1.中国政府からの取材妨害や情報の制限
 2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題
 3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題
「えげつない監視体制」
  まず「1.中国政府からの取材妨害や情報の制限」は想像が付くだろう。ウイグル問題は中国政府にとって、党の最高指導部の権力闘争と並ぶ重大なタブーだ。問題が現在進行形であり、かつ当局のコントロールが完全には成功していない点で、実は六四天安門事件や対日歴史認識問題よりも、ウイグル問題のほうが中国国内でのタブー度合いは高い。
  個人的な経験で言えば、2014年春ごろに中国国内にいる某新聞社の日本人記者と電話で話した際に、ウイグル問題に言及した瞬間に音声の雑音が増え、いきなり切れてしまったことがある。たとえ日本語の通話でも、中国のSIMカードを使った場合はばっちりリアルタイムで盗聴されているわけだ。
  ウイグル問題を取材しようと新疆に入る記者(報道ビザを持たない場合も含む)は行動を徹底的にマークされる。中国国内、特に新疆での携帯電話の通話内容やチャットソフトでの会話内容もすべてチェックされている。また街のあちこちにある監視カメラの画像も、顔認証技術を応用して解析されている可能性が高い。現代の新疆で、外国人の取材者が当局に捕捉されずに誰かと会って話を聞く行為は事実上不可能に近い。
ちょっと不満を漏らしただけで収容所送り?
  しかも、滞在中に接触した現地のウイグル人は、その後に高確率で当局による尋問や拘束を受ける。話を聞く相手が確実に当局に特定され、さらにその後で拘束される可能性が高いとなると、コメント取りが重要になってくる大手メディアの現地取材はかなり難しいと考えていい。
  加えて言えば、中国当局を過度に刺激するような取材をした場合、大手メディアの記者の場合はビザの延長が難しくなったり、中国支局に圧力が掛かったりする。フリーランスの場合は今後の入国自体が禁止される可能性も出てくる。当然、他の問題と比べて、日本のメディアがウイグル問題を取り扱うハードルは高い。
  それでも近年の日本メディアは、『朝日新聞』やNHKなども含めて、実は世界規模で見てもウイグル問題の取材に積極的なほうだ。だが、記者本人が新疆に立ち入るような取材は、監視体制が現在よりはユルかった2014~15年ごろまでは多かったものの、近年は減った印象がある。
  2018年現在は、ウイグル人がちょっと生活上の不満を漏らしただけで収容所送りになるという話もあり、現地取材はほとんどできなくなっている。
(3)
右翼勢力の影響が強すぎる「在日ウイグル人民族運動」
  もっとも、中国当局による妨害は想定内の話だ。むしろ、次に紹介する「2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題」のほうが、現実が想像の斜め上を行っているという点で、心理的負担が大きい問題だとも言える。
  過去、ウイグル人の海外渡航・海外留学が比較的難しくなかったゼロ年代ごろまで、日本は彼らの留学先として人気がある国だった。在日ウイグル人の留学生やビジネスマンのなかには政治的な考えを持つ人たちも存在していた。
  2008年春ごろ、彼らの一部は日本国内で民族運動の組織を立ち上げる動きを見せ、世界規模の団体である世界ウイグル会議(WUC)もこの動きを支持した。その後、「1人1組織」みたいなものも含めて、現在までに日本国内で複数のウイグル民族運動団体が成立している。
  だが結論から言えば、これらの団体の多くは結成当初から日本国内の保守・右翼系勢力との関係が深かった。戦前からのルーツを持つような伝統右翼系の勢力と、『日本文化チャンネル桜』のようなネット右翼系イデオロギーを持つ後発勢力の双方が影響力を及ぼしていたのだ。また、いわゆる宗教保守系の新宗教団体もここに接近している。
メンバーがほとんど日本人という組織も
  一部の組織には、ごく少数のウイグル人活動家を除けば、実質的にメンバーの大部分が保守系の思想を持つ日本人で占められるものもあった。こうした日本側の支持者の影響は、ウイグル民族運動の上位団体であるWUCまで及んでいる。
  2012年5月にWUCの総会が東京で開かれた際、WUC総裁(当時)のラビア・カーディルを登壇させてシンポジウムを開いた団体「世界ウイグル会議を応援する日本人の会」には、平沼赳夫・石原慎太郎・加瀬英明・藤井厳喜ら保守界隈の大物の名前が並んだ。同日には藤井らが付き添う形で、イスラム教徒であるラビア氏による靖国神社への昇殿参拝もおこなわれている。
  なお、ラビア・カーディルは「ウイグルの母」とも称されるウイグル民族運動の精神的指導者で、ゼロ年代ごろまではチベットのダライ・ラマ14世とならびノーベル平和賞候補としても名が取り沙汰された人物である。2013年には宗教保守系の新宗教の傘下政党の党首がラビア・カーディルと会談し、彼らのメディアで大々的にそれを報じる事件も起きている。
(4)
支持勢力に「忖度」するウイグル人活動家
  現在、日本国内でのウイグル人民族運動の主流は2012年当時とは別の団体に移り、彼らがWUCの事実上の出先機関になっているが、やはり右翼系の勢力との関係は確認できる(ちなみにウイグル人は、世界組織のWUCも日本国内の民族運動関係者も離合集散が激しく、お互いに足を引っ張ったり誹謗中傷を繰り返すような傾向も強いため、こちらもかなりウンザリする)。
  日本でのウイグル人の民族運動の多くは、2008年の発足当初から「反中国」を理由に右翼・保守勢力と共闘する形を取っている。こうした団体に関係している在日ウイグル人活動家には、日本人支援者への忖度もあるのか、ウイグル情勢について過剰に話を演出したり、日本国内の特定の政治思想におもねるような言説を繰り返す例も少なくない。
「反中国」のアイコンにされてきた歴史
  ただ、過激な右翼色や新宗教色が強い勢力がバックに控え、ウイグル人活動家自身も支持者の政治的主張をコピーした言動を繰り返したり、新宗教団体の広告塔に使われたりしているとなると、報道が極端なイデオロギーや新宗教思想の宣伝につながることを懸念する一般メディアや記者が取材を手控えるのも納得できる話ではある。
  ついでに言えば、日本においてウイグル問題は長年にわたり右翼・保守勢力の主張のパッケージに組み込まれ、「反中国」のアイコンにされてきた歴史があるので、ネットで「ウイグル」を検索するとネット右翼的な人たちのツイートやブログ・YouTube動画ばかりが引っかかって、扇動的な情報が異常に多く表示されるという問題も起きている。
  最近は少し減ったが、数年前まではツイッターで、旭日旗アイコンを掲げながら野党批判や「反日マスゴミ」への批判をウイグル問題に結びつける投稿が大量に流れるという、意味不明な状況すら生まれていた。
(5)
「中国通」でも歯が立たない分野
  最後に「3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題」は、様々な事情からあまり詳しく言及できないが、やはり浅からぬ問題が存在する。
  そもそもウイグル問題は中国についての一般的な理解に加えて、中国国家の少数民族政策・宗教政策やユーラシア史への理解、世界の民族問題への基本的なリテラシー、イスラム・トルコ文化への理解といった膨大な基礎知識がないと、なかなか全貌をつかめない。言語も中国語・英語・ウイグル語だけではなく、トルコ語やアラビア語ぐらいはできないと第一線の情報が入ってこない。
  なのでウイグル問題は、普通の「中国通」の人(筆者自身も含む)ではまず歯が立たない分野だ。中国の国土は広大で、北京や上海と新疆との距離は2000キロ以上も離れている。欧州でいえばパリ~モスクワ間にほぼ匹敵する距離だ。仮に北京や上海に詳しい人であっても、彼らが新疆を理解するのは、フランス在住者がチェチェンやモルドバの事情を理解するぐらい大変なのである。
  むしろ「中国通」の人のほうが、身近な中国人のウイグル人への偏見(テロリストや泥棒が多い、犯罪をしても逮捕されない特権を持っている、中国国家が新疆を発展させてあげているのに騒乱を起こすウイグル人は恩知らずである……など)からダイレクトな影響を受けているので、認識をミスリードされやすいという問題すらある。
  いっぽう、たとえ中東やイスラム文化に精通した人でも、中国はイスラム圏全体から見れば辺境にあたるため、やはりウイグル問題については縁遠くなりがちだ。東西をつなぐシルクロードの民の問題は、日本人にとってかくも理解が難しいのである。
美しい人が少なすぎる!
  ゆえにウイグル問題について、極端な政治勢力や新宗教勢力との関係を持たず、さらに現地情勢への文化圏規模での理解を持っていて人脈的なコネもある日本人の専門家は、人数がかなり限定されることになる。
  南米やアフリカの小国や、現地の特定の少数民族について詳しい日本人が少ないのと同様の問題が存在するわけだ。ゆえに、日本のメディアの関係者がこれらの問題を取材する必要が出た場合は、少数の専門家による細いルートになんらかの形でアプローチしていくしかない。
 だが、仮にこうした細いルートを担う専門家たちのなかに、
情緒的に不安定なところがある人や、他者とのコミュニケーションが苦手な人が含まれていた場合は大変である。現地へのチャンネルが限られた分野だけに、そうした個人の個性に由来したトラブルが、取材全体のボトルネックになってしまう可能性があるからだ。
  もちろんウイグル問題は深刻で、広く報じたほうがいい問題だ。だが、日本国内の極端な政治勢力と距離を置くことや、さまざまな関係者とのコミュニケーションを取ることなどへのコストが大きすぎるとすれば、やはり報じるトピックとしての優先順位は下がり得る。中国は他にも多数の問題を抱えており、他に伝えるべきことも数多くあるからだ。

  国内外のウイグル人活動家が離合集散を繰り返したり、日本の政治勢力や新宗教勢力がウイグル問題を利用したり、その他もろもろの面倒な問題がグダグダと起き続けている間にも、新疆の人権状況は加速度的な悪化を続けている。中国の最深部で進んでいる強制収容所の建設や文化の抹殺は、とにかく心が痛い。


IRONNA-https://ironna.jp/article/2708
中国によるチベット族・ウイグル族への弾圧 イスラム国との戦闘も
澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授、日本戦略研究フォーラム政策提言委員)

 米政府系放送局ラジオ「自由アジア」によれば、2016年1月12日までに、青海省黄南チベット族自治州同仁県のホテルで、従業員がチベット語を使った場合、500元(約9000円)の罰金を取るとの張り紙が出されたという(本当に実施されているかどうかは澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授、日本戦略研究
フォーラム政策提言委員)

一般のチベット人にとって500元の罰金は高額である。また、母語であるチベット語を使用できないのは不便きわまりないだろう。これは、中国共産党によるチベット族に対する抑圧政策に他ならない。言うまでもなく、言語と民族のアイデンティティは密接に関係しているからである。 
 かつて、2010年10月、同仁県では数千人のチベット人中高生が街頭に出て抗議デモを行った。中学・高校の授業は、英語とチベット語の授業以外、中国語の教科書で行うという。 
 その時、生徒らは「文化的平等を要求する」というスローガンを掲げた。そして、中国当局の“教育改革”政策は、チベット民族の言語と文化を滅ぼそうとしていると訴えた。実際、大学入学試験は中国語で行われる。高等教育を受ける際、チベット族は不利を被るに違いない。 

 さて、大多数のチベット族はチベット仏教を信奉している。チベット仏教の真髄は「不殺生戒」である。生きとし生けるものを慈しむ。たとえ虫ケラでさえ、不殺生の対象になる。ましてや、人殺しなどタブーである。 
 だから、多くのチベット族には、中国共産党の同族への弾圧に対し、「目には目を、歯には歯を」という発想を持たない。そのため、原則、共産党へ暴力による“報復”を行わない。チベット仏教は、どんな人間に対しても殺傷することを厳しく禁じているからである。したがって、チベット族は、政府に対し暴力という手段に訴えることは極めてまれである。 
 一般に、彼らの中国共産党への抗議は、僧侶や尼僧らによる焼身自殺という形を取る(チベット仏教では自殺さえも奨励されているわけではない)。2009年以降、現在に至るまで、チベット族による焼身自殺は、約140人にのぼる。その中で亡くなったのは約120人である(インド・ダラムサラのチベット亡命政府、ロブサン・センゲ首相による)。 

 一方、北京は、ウイグル族(大半がイスラム教を信仰する)に対しても、抑圧政策を採る。例えば、18歳以下のウイグル族は、コーランの学習やラマダン(日の出から日の入りまでの断食)への参加を禁止されている。 

しかし、よく知られているように、イスラム教には「ジハード」という概念がある。この言葉は、本来「奮闘努力する」という意味だが、ムスリムを抑圧する異教徒に対して、「聖戦」を容認しているふしがある。そのため、ウイグル族は中国共産党の苛酷な支配に対し、しばしば敢然と立ち上がる。 
 近年、まず、2013年10月、ウイグル族の親子3人(夫婦とその親)がジープで天安門金水橋で自爆テロを行っている。容疑者の3人を含む5人が死亡、38人が負傷した。ただ、警備の厳しい天安門広場に、どのようにジープが入ったかが謎である。その約1ヶ月後、「トルキスタン・イスラム党」が“犯行声明”を出した。 
 この事件が契機となり、その後、新疆・ウイグル自治区を中心にテロ事件が頻発している。 最も記憶に残るモノを挙げるとすれば、次の2つの事件ではないだろうか。 
 1つは、2014年3月1日、雲南省昆明駅でウイグル族によるナイフ等を使った無差別テロ殺傷事件である。結局、テロ容疑者4人を含む35人が死亡、141人が負傷する大惨事となった。 
 もう1つは、翌4月末に起きたウルムチ南駅爆破テロ事件だろう。その日、習近平主席が側近らと新疆・ウイグル自治区を視察した最終日だった。ウイグル族と見られる容疑者が自爆し、テロ容疑者2人を含む3人が死亡、79人が負傷している。習主席を狙ったテロだった可能性も捨てきれない。 
 実は、ISIS(「イスラム国」)には、約300人の中国人が参加しているという。恐らく、ほとんどがウイグル族に違いない。そのISISが、2015年12月、中国国内にいるイスラム教徒(約2000万人)へ中国語で、習近平政権に対し「ジハード」を起こすようインターネットで呼びかけた。今後、中国国内で、ISISと習近平政権の戦闘が開始されたとしても何ら不思議ではあるまい。 (日本戦略研究フォーラム『澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」』より転載)


新疆ウイグル自治区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新疆ウイグル自治区 Shinjang Uyghur Aptonom Rayoni新疆維吾爾自治区)は、中華人民共和国の西端にある自治区である。1955年に設立され、首府は烏魯木斉(ウルムチ)である。民族構成はウイグル族のほか、漢族カザフ族キルギス族モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間UTC+8)より2時間遅れの新疆時間UTC+6)が使われている
歴史
清朝以前
古代中国から西域と呼ばれたこの地域は中央アジアや中国との政治的・経済的な繋がりを古くから有し、オアシス都市国家が繁栄し、代と代には、中国の直接支配下に置かれた時期もあった。
隋煬帝大業五年(609年)、楊広が自ら隋軍を指揮して吐谷渾を征服、今の新疆南東部を実効支配し始めた。中原王朝が西域の実効支配もその時期から始めた。
唐太宗貞観十四年(640年)、唐軍が高昌を占領し、西州を設置した。また可汗浮図城において庭州を設置した。同じ年、高昌で安西都護府を設置。後庫車へ遷し、安西大都護府へ転換。
  唐代後期、ウイグル帝国の支配下に入り、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、ウイグル人の残存勢力による支配が続いた。
13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれ、チャガタイとその子孫による支配が行われた。16世紀に至りヤルカンド汗国が地域を統一したが、17世紀末ジュンガルに征服された。
清朝
1755年にジュンガルにおける清朝の領域はほぼ確実なものとなった。 1775年以降、ジュンガル征服(清・ジュンガル戦争)にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、「故土新帰」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと清朝側から呼ばれた。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は崩れたが、左宗棠により再征服され、1884年中国内地並の省制がひかれて新疆省となった。
中華民国以降
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。これに対して1933年1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦で東トルキスタン共和国のセイプディン・エズィズィと新疆省のブルハン・シャヒディらが中国共産党に帰順したことでこの地域は中国人民解放軍が展開し、1955年新疆ウイグル自治区が設置された。
  大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者を出した。自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた。1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡した。また、1966年には自治区内に文化大革命が波及。こと文革に関しては、少数民族を多く抱える同自治区の闘争は中国の他地域と比較してある程度は抑制されていたというが、それでも一部で行なわれたモスクの破壊や紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかった。
1980年代以降
文化大革命が終結し、言論統制の緩和がなされた1980年代から1990年代には、ウイグル族住民の中で、グルジャ事件など新疆ウイグル自治区における民族自治の拡大を求める動きが見られた。また、国外の汎トルコ主義者が独立を主張する動きも見られた。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロを契機に世界的に反イスラムの潮流が強まったことに後押しされ、特に2014年のウルムチ駅爆発事件以降「テロとの戦い」(厳厲打撃暴力恐怖活動専項行動、厳打高圧)を名目に当局は新疆ウイグル再教育キャンプなど徹底的な管理統制の構築に乗り出し、様々なハイテク技術を用いて一挙手一投足を住民は監視されていることから「世界でも類のない警察国家」「完全監視社会の実験場」が築かれてると欧米メディアや人権団体は批判している。
中華民国の主張
中華民国(台湾)は、中国共産党の実効支配を認めず、新疆ウイグル自治区を新疆省と呼称しており、自国領土だと主張している。
地理
  新疆ウイグル自治区の面積165万km2は中国の省・自治区の中で最大であり、中国全土の約1/6を占める(日本の約4.5倍)。ただし、面積の約4分の1は砂漠が占めており、これは中国の砂漠総面積の約3分の2に相当する。
  新疆ウイグル自治区は中国の最西部に位置しており、東部から南部にかけて、それぞれ甘粛省、青海省、西蔵自治区と省界を接している。また、インド、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン、ロシア連邦、モンゴル国の8カ国と国境を接し、国境線の総延長は約5,700kmに達する。国境を接する国の数は、中国の行政区分で最大である。ユーラシア大陸の到達不能極に位置する。
  天山山脈は中央アジアと東アジアの自然国境とされ、カラコルム山脈は西南アジアと東アジアの自然国境とされる。カラコルム山脈は急峻な山々が峰を連ね、パキスタン国境にあるK2は海抜 8,611 メートルに達するエベレストに次ぐ世界最高峰である。
  1931年8月11日、新疆ウイグル自治区北部でM8の地震が発生。地震研究のための貴重な資料として、当時の地震断層や地形の変化がそのままの状態で残されている。2007年4月19日、断層の保護作業が終了した。
住民
総人口は約1,900万人で、その3分の2は漢族以外の少数民族である。自治区内の住民はウイグル族、漢族のほか、カザフ族、回族、キルギス族、オイラト族(カルムイク族)(民族区分ではモンゴル族)などの様々な民族で構成される。また、カザフ族、キルギス族、タジク族、ウズベク族など、隣接する旧ソ連領中央アジア諸国と国境を跨って居住する民族も少なくない。
漢族の大量入植
自治区の北部・東部を中心に居住する漢族は、1954年に設立された新疆生産建設兵団を中心に、1950年代以降に入植した住民が大半を占め、急速にその数を増やしている。中国政府の公表する人口統計には、軍人の数が含まれていないことから、実際の人口比では、漢族の人口はウイグル族を上回っていると推測されている。2003年の兵団総人口は257.9万人である
1990年時点で新疆ウイグル自治区の総数が1499万人のうち、漢族が565万人。1995年には、総人口1661万人のうち漢族が632万人と、5年間で漢族人口は67万人も増加している。2000年には、漢族人口は約749万人となっており、5年間で117万人も増加しており、10年間で184万人の漢族が新疆ウイグル自治区において増加している。
経済
第一次産業としては、小麦、綿花、テンサイ、ブドウ、ハミウリ、ヒツジ、イリ馬などが主要な生産物となっている。特にこの地域で生産される新疆綿といわれる綿は、エジプト綿(ギザ綿)、スーピマ綿と並んで世界三大高級コットンと呼ばれ、繊維が長く光沢があり高級品とされており、日米欧に輸出され高級シャツ、高級シーツなどに利用される。また、中国四大宝石の中で最高とされる和田玉はホータン市で産出される。この他、石油と天然ガスなどのエネルギー資源産業をはじめ、鉄鋼、化学、機械、毛織物、皮革工業が発達している。主要な工業地域として烏魯木斉、克拉瑪依、石河子(シーホーツ)、伊寧(イーニン)、喀什(カシュガル)が挙げられる。
エネルギー資源の影響で内陸部の割には2002年から2013年にかけて新疆の平均成長率は15%を超え、特に中国最大級の油田があるカラマイは2008年には一人当たりのGDPが中国本土で最も高い都市となった。
省都のウルムチは200万人を超える人口規模で中央アジア最大の都市タシュケントに匹敵し、中国北西部および中央アジアで最も高いビルである中信銀行大廈(旧・中天広場)などの高層ビルで街並みは沿岸部の大都市のように近代化されている
資源
新疆は石油と天然ガスの埋蔵量が豊富で、これまでに38カ所の油田、天然ガス田が発見されている。新疆の油田としては塔里木(タリム)油田、準噶爾(ジュンガル)油田、吐哈(トゥハ)油田が3大油田とされ、独山子(トゥーシャンツー)、烏魯木斉(ウルムチ)、克拉瑪依(カラマイ)、庫車(クチャ)、塔里木の5大精油工場で原油精製も行われている。
新疆の石油と天然ガスの埋蔵量は、それぞれ中国全体の埋蔵量の28%と33%を占めており、今日では油田開発が新疆の経済発展の中心となっている。特に、西部大開発政策開始以降は、パイプライン敷設や送電線建設などが活発化している。これには、中国国内最大の油田であった黒竜江省の大慶油田の生産量が近年では減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。
砂漠化
新疆ウイグル自治区には、タクラマカン砂漠があるが、近年、過放牧によって草原が荒れて、砂漠化が進行している。その理由は、タリム盆地周縁のオアシス人口の急激な人口増加によるとされる。漢族の急激な入植による人口増加が主な原因とされる
タクラマカン砂漠やゴビ砂漠(中国北部 内モンゴル・甘粛・寧夏・陝西)、黄土高原などにおける砂漠などは、黄砂の飛翔原でもあり、黄砂は日本を含む東アジアの広い範囲に被害を及ぼしている。
核実験場(「中国の核実験」および「東トルキスタン#中国による核実験」も参照)
新疆ウイグル自治区ではロプノール核実験場の付近を中心に、1964年から46回の中国による核実験が行われており、放射能汚染による地域住民の健康状態や、農作物への被害が指摘されている。
ウイグルの独立運動(詳細は「東トルキスタン独立運動」を参照)
世界ウイグル会議日本・東アジア全権代表を務めていたトゥール・ムハメットによると、中華人民共和国のウイグル族は、下等市民あるいは人間以下とみなされ、市民同士はトラブルを怖れて接触したがらないという。2013年10月末には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ自動車で北京の天安門に突入し自爆する事件も起こった(天安門広場自動車突入事件)。
2009年のウイグル騒乱(詳細は「2009年ウイグル騒乱」を参照)
2009年にはウイグル人の暴動が発生。武装警察の介入もあって、世界ウイグル会議によると死者三千人、中国当局によると死者156人となる惨事となった,、 主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)に参加するためにイタリアを訪問していた胡錦濤(中国共産党総書記)が「新疆ウイグル自治区の情勢」を理由にサミットをキャンセルして三日後に急遽帰国するにまでに至った










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