ウイグル問題



ウイグル
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ウイグルは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族(あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族)を指す。現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムである 

新疆
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、マーワラーアンナフルタリム盆地オアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった。モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年トルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。
ウイグル(維吾爾)
1921年、ソ連トルキスタン地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に独立的な軍閥を形成した盛世才政権が、1934年に「ウイグル」という呼称と「維吾爾」の漢字表記を定めた。この呼称は中華人民共和国にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)
民族・定義(「テュルク系民族」も参照)
ウイグル語テュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、ウイグル、カルルクバスミル沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される。
  森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったとしている。唐代末期にモンゴリアアルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する。それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者がテュルク語化した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。
  こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた。
  20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述)。森安孝夫によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている
この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年盛世才政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。
創生伝承
ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン集史』(1314年編纂完成)がある。
特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セムハムヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。
遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散
840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなる。 一部は吐蕃安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する
ジュンガルと清の戦争
1688年、ジュンガルは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻する。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは康熙帝に保護を求めた。1690年にはガルダンの甥のツェワンラブタンが反乱を起こし、イリ地方とタリム盆地を制圧して清と結ぶ。
ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、ウランプトゥン(ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。1693年にはハミのダルハン=ベク、アブド=アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した1696年、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンをチャオモード(昭莫多)で破ったジョーン・モドの戦い)。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。ガンダルの息子タンチラはハミに亡命したがアブド=アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となった
ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めた[45][46]北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官ヨハン・グスタフ=レナットはイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている[47][48]。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開く。
清による占領
1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した
清朝政府は、1762年天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)と呼ばれた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。このベグ官人制は1884年新疆省まで存続した。こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢化しながらも漢民族ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる。なお、イリ将軍府は辛亥革命後に廃止されている
ジュンガルを継承した清朝も1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている。1764年には満洲シベ族兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した
清朝の新疆討伐
1872年(同治11年)7月、清朝側は主戦派である左宗棠が兵を率いて蘭州に進駐し、新疆討伐への準備を開始した。
海防・塞防論争
しかし、1874年日本による台湾出兵を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し、1875年(同治13年・光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議(海防・塞防論争)が発生した李鴻章海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した陸防派(塞防派)である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。
  満州人の軍機大臣文祥は左宗棠の建議を奏上、朝廷の摂政西太后は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令・欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まった。左宗棠は軍費白銀1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両借款した[73]。ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされる。左宗棠は武器製造工場の蘭州製造局を設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功した。
  1876年(光緒2年)3月、左宗棠軍には湘軍劉錦棠軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となった。6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し、ウルムチ近郊のジムサルを占領した。ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得馬明・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人はトゥルファントクスンに、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。8月17日、清軍はウルムチ北部米泉を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらにサンジ・シャヒリフトビとマナス北城が陥落した。11月6日にマナス南城も陥落した。

1877年(光緒3年)4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えた。その後達坂城を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降した。清軍はトクスン、5月にはトゥルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡する。ヤクブ・ベクは逃亡中の5月29日に死亡する
  ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子ベク・クーリ・ベクが抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し、12月下旬までに西の4城を陥落させた。1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服した。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人である。
清朝の戦後処理とロシアとの交渉
イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあったが、ロシアはクリミア戦争のため、清の進出に対抗できなかった。
1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、黒海沿岸のリヴァディアにあるリヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)に調印した。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった。清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張した。結局、外交を担当した崇厚西太后によって死刑を宣告されるが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたる。
ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり、ロシアと清の関係は緊張する。しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始される、1881年2月、イリ条約が締結され、清朝がザイサン湖周辺地方すなわちホルゴス河以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意された。この条約は不平等条約ではあったが、中央アジア地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至る

新疆省設置
イリ返還をうけて清朝は1884年新疆省を正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に中国本土並みの行政が布かれた。清が自治権を認める従来のベグ官人制を廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った。その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえたといわれる。歴史学者の王柯は、その後、新疆省指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という。他方、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人が当たった
ウイグルの呼称の復活
西トルキスタンには、1881年のロ清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔であるタランチ集団は清朝への反乱(ヤクブ・ベクの乱など)に加担していたため、イリ地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住している。
日露戦争において、それまで国際的には小国とみなされていた日本ロシア帝国に勝利すると、それに触発されて1908年には青年トルコ人革命が起きる。青年トルコ人革命以降、汎テュルク主義がトュルク系民族に大々的に流行し、そうしたテュルク主義に影響されを受けていたナザル・ホジャというタランチ集団の記者が1913年にアルトゥシャフルを「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所」と表現している。またナザル・ホジャは1914年からは「Uyghur Balasï (ウイグルの子)」という署名をするようになっており、ムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されていた
1913年11月の雑誌『シューラー』での記事では「テュルク文学はウイグル(ユグル、ウグル、漢語でホイフ)方言で始められた。オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とする論評が掲載されている。
アルマ・アタ会議
1921年カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフが「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった。サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す
中華民国時代
1911年辛亥革命が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル旗人広福を臨時都督とする政府が樹立された。清の宣統帝が退位すると、ウルムチ知事であった楊増新新疆省長・督軍となる。雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた
他方、オスマン帝国汎トルコ主義中央ユーラシアに広めようとしており、トルコ人のアフメト・ケマルが新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった。
盛世才による改名
当時ソ連共産党党員でもあった遼寧省出身の漢人である盛世才は、1933年に軍を率いてクーデターを起こすと新疆軍閥を率いて1944年まで独立した政権を築いた。盛世才は従来の中華民国当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」を廃止して「ウイグル」民族を「設定」する指示を受け入れ、1934年に省府議会で正式採用させ「維吾爾」という漢字表記も定めた。
ハミ郡王家の反乱
楊増新が1928年に暗殺されると、金樹仁が新疆省長になる。しかし金樹仁はメッカ巡礼などを禁止するなどムスリムへの弾圧政策を行い、さらに土着の小王国であったハミ郡王家を消滅させようとする(回土帰流問題)と、これに反発した住民たちは1931年、大規模な反乱が発生する。ハミ郡王家軍は、回族の軍閥馬仲英に援助を求め、馬仲英軍はバルクルまで進出するが、新疆省政府軍が登場すると甘粛に撤退し、ハミ軍は山地へ撤退した
トルファンの反乱
ハミの反乱をうけて1932年にはトルファンのイスラム教諸民族の反乱が発生する。反乱軍はトルファンを掌握するが、ロシア白軍の残党を含む盛世才の省政府軍に敗北する。その後トルファンは馬仲英に占領された
東トルキスタン・イスラーム共和国
1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した。なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢族と同様に排除され、トルコ語系の住民が構成員とされた。
馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、盛世才が実権を握った。盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した。
1941年には、アルタイ地区のカザフ族遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された。このこの第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる。

人民解放軍によるウイグル侵略(詳細は「新疆侵攻」を参照)
1949年国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京政治協商会議に招いた。しかし、8月27日北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフイスハクベグ・モノノフ、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された(新疆侵攻)。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族シベ族回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。1950年伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。その後、入植当初人口7パーセントだった漢族1991年には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる
新疆ウイグル自治区の設置(詳細は「新疆ウイグル自治区」を参照)
1955年には中華人民共和国で2番目の自治区新疆ウイグル自治区が設置された。
東トルキスタン分離工作
新疆ウイグル自治区では、1930年代に英国の大規模な工作活動が引き起こしたウズベク族、キルギス族を主体としてウイグル族やカザフ族を含んだ少数民族の分離活動が今も国内外で続いている。キルギス族、ウズベク族などがいくつかの地下組織を結成し、「東トルキスタン国」の建設を名目として活動していると言われ、特に1990年代以降の新疆ウイグル自治区では無差別殺傷事件などのテロ事件が起きているという情報がある。1997年グルジャ事件以降はアフガニスタンパキスタンに逃れたウイグル族もいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻の際に米軍による拘束やパキスタン政府の引き渡しによってキューバグアンタナモ湾収容キャンプに収監された。収監中は中国当局者がグアンタナモを訪問して尋問に参加しておりアメリカ合衆国司法省監察官のグレン・A・ファインによれば中国当局者と米軍の尋問官は協力して15分ごとに睡眠を中断させる「フリークエントフライヤープログラム」と呼ばれる人権侵害も行ったとされる
2004年9月東トルキスタン共和国亡命政府がアメリカで樹立された。
2015年8月17日と18日、タイの首都バンコクで死者20名、負傷者125名(うち邦人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル族109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている[105]。また、タイと同じ軍事政権のエジプトなどでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることは問題となっている







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