各新聞社の問題-1


2024.01.12-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240112-EMGJ2XKDW5HXPJZIZHEWVTODYU/
門田隆将氏の新刊「尖閣1945」、八重山毎日新聞が広告掲載拒否 中国に配慮か

  ジャーナリスト、門田隆将氏の新刊「尖閣1945」(産経新聞出版刊)の新聞広告について、沖縄県石垣市に本社を置く「八重山毎日新聞」が掲載を拒否していたことが12日、分かった。同書は終戦直前に、石垣島から台湾に向かった疎開船の遭難と尖閣諸島とのかかわりを取材したノンフィクションで、尖閣が歴史的に日本の領土だったことを史実をもとに描いている八重山毎日新聞は、「原稿の内容を精査した結果、今回は掲載を見合わせていただきます」と、コメントしている。

  産経新聞出版によると、八重山毎日側から昨年末に広告代理店を通じて「広告の内容が、中国に対して偏ってしまうものは掲載が難しい。読者に対しても、センシティブな内容のため掲載は見送る運びとなった」といった説明があった。広告は1月14日の「尖閣諸島開拓の日」を前にした9日掲載の予定だったという。
  「尖閣1945」の広告は、同じ石垣島に本社を置く「八重山日報」には11日に掲載されている。昨年11月の発刊から1月中旬までに、「産経新聞」のほか「琉球新報」「沖縄タイムス」「読売新聞」にも掲載されている。
  産経新聞出版によると書籍は、昭和20年6月に、石垣島から台湾に向かった疎開船遭難と尖閣とのかかわりと、救出劇を描いた作品。アマゾンの「国際情勢部門」などで売れ行き1位になっている。
  広告には「書名」「書影」のほかに、「圧倒的な事実と壮絶なドラマ、奇蹟の生還、感動の尖閣領有ノンフィクション」「子や孫に伝えたくなる涙、感動、勇気」「この史実が中国の嘘にトドメを刺す」といった文言を掲載。さらに、中山義隆・石垣市長の「すごい本が出ました。石垣島の住民でも、ほとんどの人が知らなかった史実が記されています」といったコメントが書かれている

  産経新聞出版では「掲載が見送られた理由がわからず困惑している。もし、中国に配慮して掲載が見送られたのであれば、言論機関としての姿勢が問われるのではないか」としている。


2023.02.19-JIJI COM.-https://www.jiji.com/jc/v2?id=sufferings_02
JIJIの主な事件記録

(1)
エジプト熱気球墜落事故
  2013年2月26日午前7時半(日本時間同日午後2時半)ごろ、エジプト南部ルクソールで観光遊覧飛行中の熱気球が爆発、墜落し、日本人4人を含む乗客19人が死亡した。
  日本の旅行代理店大手JTBの子会社「JTBグランドツアー&サービス」(東京都渋谷区)によると、亡くなったのは同社が主催したツアーに参加した東京都在住で60代の夫婦2組。同社のツアーはカイロの旅行代理店「トライウェイズ」が請け負っていた。
  気球にはエジプト人操縦士1人と乗客20人が乗っていた。目撃者によると、着陸しようとした際にバーナーのホースが外れて漏出したガスに引火、爆発が起きて炎上しながら急上昇し、操縦士を含め約10人が次々と飛び降りた。操縦士と英国人1人が命を取り留めた。約5分後に約300メートル離れた地点に墜落し、その場で10人の遺体が発見されたという。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(2)
グアム無差別殺傷事件
  2013年2月12日午後10時20分(日本時間同9時20分)ごろ、米自治領グアム島の繁華街タモン地区で地元に住むチャド・ライアン・デソト被告(21)=加重殺人罪などで2月21日に起訴=が運転する車が暴走して通行人をはね、商店の壁に激突。被告はその後、周囲にいた人々を刃物で無差別に襲撃した。
  親族の結婚式や観光で訪れ、現場に居合わせた日本人3人が犠牲になり、10人以上が負傷した。
  現場となったのは、海岸沿いにホテルやレストラン、ショッピングセンターが軒を連ね、観光客に人気の地区。日本語の看板が立ち並び、町中は日本人の若い男女や子供連れの家族であふれかえる。グアム政府観光局によると、11会計年度における観光客のうち、日本人は7割以上を占める。日本人観光客は米軍基地とともに地元経済を支える柱となっている。治安が良いとされるグアムでは未曽有の凶悪事件となった。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(3)
アルジェリア人質事件
  2013年1月16日早朝(日本時間同日午後)、アルジェリア南東部イナメナスにある英石油大手BPが関係するプラント建設現場をイスラム武装勢力が襲撃し、警備要員と銃撃戦になり、プラント建設大手「日揮」の社員ら日本人17人を含む多数の人質を取って施設に立てこもった。
  アフリカ西部マリの国際テロ組織アルカイダ系武装勢力メンバーは、モーリタニアの通信社に、マリに軍事介入したフランスに領空使用を認めたアルジェリアに対する報復だと犯行を認めた。
  アルジェリア軍は翌17日昼(日本時間同日夜)、武装勢力と人質を乗せて施設内を移動していた車両を空爆、事件発生から2日目にして人質救出作戦に踏み切った。軍部隊が施設に突入して武装勢力側との地上戦にも発展。緊迫の作戦は数時間にわたった。この結果、日本人関係者10人を含む外国人多数が犠牲になった。安倍晋三首相は事件発生後、アルジェリアのセラル首相に電話し、人命最優先の方針から人質全員の無事救出を直談判してきただけに、危機管理を重要課題の一つに掲げる安倍政権にとっては大きな試練となった。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(4)
万里の長城でツアー客遭難
  2012年11月3日、中国河北省張家口市懐来県にある万里の長城で日本人観光客ら5人が大雪のため遭難、うち3人が死亡した。
  企画した旅行代理店「アミューズトラベル」(東京都千代田区)によると、今回のツアーは「世界遺産・万里の長城グレートウォール・100キロトレッキング」で、期間は10月28日~11月5日。万里の長城を歩くもので、初めての企画だった。遭難が起こった3日は、14キロを約5時間かけて歩く予定だった。懐来県政府のサイトによると、一行計6人は同日午前、北京方面から明代の長城を目指して山歩きを開始。同県瑞雲観郷の横嶺山まで来て暴風雪に巻き込まれ、行く手を阻まれたという。添乗員として行動を共にした中国人の明平銘さん(25)は、取材に対し、「急に天気が大雪に変わり、動けなくなった。寒さで意識がなくなった」と述べた。
  同社は、2009年7月に北海道・大雪山系のトムラウシ山(2141メートル)で8人が遭難、死亡した登山のツアーを主催し、観光庁から業務停止を命じられた。今回のツアー前に社員が現地の下見をしていなかったことなどもその後明らかになり、観光庁は12月19日、安全管理に問題があったなどとして、「アミューズトラベル」(東京都千代田区)を旅行業登録取り消し処分にした(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(5)
シリアで邦人記者死亡
  2012年8月20日、戦闘が続くシリア北部アレッポで取材中だった独立系通信社ジャパンプレスの日本人女性ジャーナリスト、山本美香さん(45)が、戦闘に巻き込まれて死亡した。
  在英人権団体「シリア人権監視団」によると、山本さんは政府軍と反体制派の激しい戦闘が続くアレッポのスレイマンハラビ地区で同社代表佐藤和孝さん(56)と行動を共にしながら取材中に負傷し、病院に搬送された後、死亡した。反体制武装組織「自由シリア軍」を構成する部隊のアブ・ラアシド司令官は21日、山本さんは「アサド政権の部隊に狙われた」と語り、シリア政府側に銃撃されたとの見方を示した。
  シリア北部の対トルコ国境付近の一部は、反体制派が押さえており、一部の報道機関やジャーナリストは、自由シリア軍などの手引きでシリア北部に潜入して取材活動を行っている。山本さんは山梨県都留市出身で1995年からジャパンプレスに所属し、アフガニスタン、イラク両戦争を取材。2003年に優れた国際報道に贈られるボーン・上田賞特別賞を受賞した。死後、日本記者クラブ賞特別賞、国際新聞編集者協会から「ワールド・プレス・フリーダム・ヒーロー賞」が贈られた。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(6)
ニュージーランド地震
  2011年2月22日、ニュージーランドの南島クライストチャーチ近くでマグニチュード(M)6.3の強い地震があり、日本人28人を含む、200人超が行方不明となった。
  巻き込まれた日本人の多くは、地震で倒壊したCTVビルに入居していた語学学校「キングズ・エデュケーション」で学んでいた富山市立富山外国語専門学校などの語学研修生だった。
  ニュージーランドに関連して日本人が被害に遭った例としては、1979年11月28日、南極観光飛行を行っていたニュージーランド航空901が、南極大陸のロス島のエレバス山の山腹斜面に墜落。日本人24人を含む257人全員が死亡した事故がある。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(7)
釜山室内射撃場火災
  2009年11月14日、韓国・釜山市の室内射撃場「ガナダラ実弾射撃場」で爆発とともに火災が発生、日本人10人を含む15人が死亡した。
  火災に巻き込まれたのは長崎県雲仙市からのツアー客で、同じ学校の卒業生。出火場所は射撃室の出入り口に最も近い射撃台付近。射撃時に発生した火花などが、残留火薬やポリウレタン製の防音材に引火、一気に燃え広がったとみられる。
  韓国の火災で日本人が被害に遭った例としては、71年にソウルのホテル、天然閣で10人が死亡したほか、74年のソウルのニュー南山観光ホテルで4人、82年に大邱市の琴湖観光ホテルで4人、84年には釜山の大亜観光ホテルで3人が犠牲になっている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(8)
アフガニスタンでの拉致、殺害事件
  2008年8月26日、アフガニスタンで人道支援活動を行うNGOペシャワール会メンバーの伊藤和也さん(31)が反政府武装勢力、タリバンに拉致された後、殺害された。
  アフガニスタンでは01年9月11日の米同時多発テロの後、テロを支援したとして米国を中心とする多国籍軍がタリバン政権を崩壊させた。しかし、その後も政情は不安定で辺境地域を中心にタリバンや武装組織が勢力を拡大、人道支援などを行っている外国人へのテロも相次いでいる。
  日本人も狙われており、10年4月にはジャーナリストの常岡浩介さん(40)が誘拐され、5カ月後の9月4日にようやく解放されている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(9)
スマトラ島沖地震
  2004年12月26日、インドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋でマグニチュード9.3の巨大地震が発生。インド洋一帯を襲った大津波などにより死者22万人に達する大災害となった。特に震源地に近かったスマトラ島西部のアチェ地方は壊滅的な打撃を受けた。
  クリスマス休暇の観光客を中心にした外国人の被害者も多く、日本人の死者は40人(行方不明2人)に上った。タイのプーケット島や、スリランカの東海岸で津波に巻き込まれた例が多かった。
  この地震をきっかけに、世界的な津波監視網の構築が進められた。スマトラ島近辺では04年12月の後も、05年3月、07年9月、09年9月、10年5月、10月に大規模な地震が起こっている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(10)
イラクでの襲撃、誘拐事件
  2003年11月29日、フセイン政権の崩壊後、米国を中心とした軍事占領下に置かれていたイラクに派遣された外交官、奥克彦さん(45)と井ノ上正盛(30)さんが4輪駆動車で移動中、イラク北部ティクリット近郊で銃撃され死亡した。
  イラク戦争終了後、イラクでは宗派・民族対立の激化で治安が急激に悪化。各国の政府関係者、民間人が多数、襲撃、誘拐などの被害に遭っている。
  日本人が巻き込まれた例としては04年4月、ボランティアの高遠菜穂子(34)さんら3人が武装グループに誘拐され1週間後に解放された。さらに同年10月には旅行中に誘拐された香田証生さん(24)の遺体がバグダッド市内で発見された。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(11)
米同時多発テロ
  2001年9月11日、米国東部で航空機を使った4件のテロ事件が発生、計2973人が死亡した。米国はウサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカイダ」が計画、実行したと断定。犯人引き渡しを拒んだタリバン政権のアフガニスタンを攻撃することになる。
  日本人の犠牲者の大半が、旅客機の自爆攻撃で崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルで被害に遭い、このうち12人が富士銀行(現みずほフィナンシャルグループ)とそのグループ企業の行員らだった。
  この同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン、イラクでの戦争などを契機に、イスラム過激派のテロが世界各国で頻発。日本人も被害に遭うケースもあり、02年10月にはインドネシアの観光地、バリ島の繁華街で起こった爆弾テロで、日本人夫婦が死亡した。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(12)
コロンビア副社長誘拐事件
  2001年2月22日、自動車部品大手、矢崎総業の現地合弁会社「矢崎シーメル」副社長、村松治夫さん(52)がコロンビアの首都、ボゴタ市内で拉致され、同国最大の極左ゲリラ組織であるコロンビア革命軍(FARC)に引き渡された。
  FARCは2700万ドル(約30億円)に上る身代金を要求していたとされ解放交渉は難航。村松さんは転々と移動させられた上、2年9カ月後の03年11月24日、北西部のサンフアンデリオセコ近郊で銃で撃たれた遺体で見つかった。
  極左ゲリラや麻薬ギャングと政府との対立が長く続いたコロンビアの治安は回復傾向にあると言われるが、10年3月には西部カリ郊外で園芸場を営む筒井雅夫さん(68)が誘拐される(8月15日に解放)事件が起こっている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(13)
えひめ丸事故
  2001年2月9日、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、ハワイ・オアフ島沖で浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、乗船していた35人のうち、実習生4人を含む9人が死亡した。
  同乗していた民間人への対応で、ソナーによる確認作業がおろそかになっていたことなどが原因とされる。米国は過失を全面的に認め謝罪、03年1月に全遺族との和解が成立した。また、事故当時、休暇でゴルフ場にいた森喜朗首相は、事故の連絡後もプレーを続けたことが問題視され、支持率を下げた。
  米原潜による事故としては、1981年4月9日、東シナ海で「ジョージワシントン」が愛媛県北条市の会社所有の「日昇丸」に衝突したが救助をせずに逃走、船長ら2人が死亡したことがある(日昇丸事件)。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(14)
オーストリアケーブルカー火災
  2000年11月11日朝、オーストリア中西部のカプルンで氷河スキー場に向けてトンネル内を走行中のケーブルカーで火災が発生。猪苗代中学校(福島県猪苗代町)のスキー部員ら日本人10人を含む155人が犠牲となった。
  車内に設置された暖房器具の過熱が原因として、02年1月にケーブルカー運行会社幹部ら16人が失火罪で起訴されたが、ザルツブルク地裁は04年2月、全員に無罪を言い渡し、05年9月、リンツ高裁で確定。民事賠償でも08年までに和解が成立した。
  アルプス観光では10年7月23日、スイス南部で観光列車「氷河特急」が脱線、日本人女性(64)が死亡したほか、多くの負傷者を出している。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(15)
エジプト外国人観光客襲撃事件
  1997年11月17日、エジプト南部の観光地、ルクソールの王家の谷の近くにあるハトシェプスト女王葬祭殿で、待ち伏せしていたイスラム原理主義過激派「イスラム集団」のテロリスト6人が、約200人の観光客らに銃を乱射。日本人観光客10人を含む62人が死亡した。亡くなった日本人のほとんどが日本からのツアーに参加した新婚旅行客だった。
  エジプトでは90年代に入ってから観光客を狙ったテロが増え、97年9月18日にはカイロで観光バスが襲われ、10人が死亡する事件が発生。この事件の犯人に対する死刑宣告の報復として、ルクソールでのテロが計画されたとみられている。
  事件後、当局は徹底した掃討作戦を実施。しばらくはテロは収まったが、2005年7月、シナイ半島の保養地、シャルムエルシェイクなどでの同時多発テロで外国人観光客ら88人が死亡している。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(16)
ペルー大使公邸占拠事件
  1996年12月17日、在外公館の最重要行事である天皇誕生日祝賀レセプションを行っていた在ペルー日本大使公邸に、覆面姿の左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)メンバー14人が侵入、ペルー政府要人や日本人現地駐在員ら600人以上を人質にとった。
  その後、人質は順次解放されたが、犯人との交渉は決裂。127日後の4月22日に特殊部隊が密かに掘削を進めていたトンネルなどから進入して銃撃戦となり、MRTAは14人全員が死亡、さらに、72人に減っていた人質のうち1人が死亡、特殊部隊員2人も犠牲となった。 
  突撃を指揮、成功させた日系のフジモリ大統領の決断は国際的には賞賛されたが、国内での政争には敗れ2000年に日本に亡命。最後まで人質となった青木盛久大使も、帰国後は毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする評価を受けた。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(17)
日本人留学生射殺事件
  1992年10月17日、米ルイジアナ州バトンルージュの高校に留学中だった名古屋市の高校2年、服部剛丈君(16)が、ハロウィーンの仮装パーティーに行く途中、訪問先を間違え別の住宅の玄関をノック。強盗と思った住民の男性が「フリーズ(動くな)」と呼び止め、動いた剛丈君に発砲して死なせた。
  男性は傷害致死罪で起訴されたが、93年に正当防衛として無罪評決が出た。一方、民事訴訟では男性の過失責任が認められ、両親が勝訴した。
  服部君の死後、両親は米国での銃規制を求める嘆願運動を開始。日米合わせ200万人分の署名を集め、クリントン米大統領との面会も果たした。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(18)
上海列車事故
  1988年3月24日、上海市近郊で南京発杭州行きの急行列車311便が、長沙発上海行き急行列車と衝突、311便に乗っていた高知学芸高校(高知市)の一行193人のうち生徒27人、教師1人の計28人が死亡した。
  原因は311便の運転手の信号見落としとされたが、過密ダイヤや安全システムの未整備なども背景にあるとみられている。その後、日中間の事故補償の交渉が難航して政治問題化したほか、学校側の対応をめぐって遺族が訴訟を起こすなど事後処理も紛糾した。
  中国で日本人が事故に遭った例としては、92年8月、浜松からの社員旅行客が、ヘリコプターで万里の長城を遊覧中に墜落、10人が死亡した事故などがある。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(19)
三井物産マニラ支店長誘拐事件
  1986年11月15日、三井物産マニラ支店長の若王子信行さん(53)が、マニラ市郊外のゴルフ場近くで武装した5人組に誘拐された。犯人は身代金を要求したが、三井物産はこれに応じず拘束は長期化、翌87年1月13日には報道機関に若王子さんの中指を切られたような写真や、か細い声を録音したテープなどが送りつけられた。
  その後も脅迫が続いたが、誘拐から137日目となる3月31日、ケソン市内で解放された。1000万ドル(当時のレートで約2億2500万円)の身代金が支払われたとされる。
  犯行は極左ゲリラ組織「新人民軍」の一派によるもので、日本赤軍も関与していたとされる。若王子さんは帰国後、三井物産の札幌支店長などを務めたが89年2月、肝不全で死去した。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(20)
大韓航空機撃墜事件
   1983年9月1日、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空ボーイング747が米アラスカ州のアンカレッジ経由後、旧ソ連領空を侵犯。サハリン沖で追跡していたスホイ15戦闘機にミサイルで撃墜される。犠牲者は269人、うち日本人は28人だった。
  原因は慣性航法装置の設定に人為的なミスまたは作動に不具合が生じたためとされる。ソ連は当初撃墜の事実を認めず、後には「スパイ飛行」だったと主張。さらに、交信記録が残るブラックボックスを回収した事実も公表しなかった。
  大韓航空は78年4月20日にも、旧ソ連領空(コラ半島上空)を侵犯、戦闘機に銃撃され日本人と韓国人の乗客2人が死亡する事件を起こしている(大韓航空機銃撃事件)。また、87年11月29日には北朝鮮の工作員、金賢姫らによってバグダット発ソウル便が飛行中に爆破され、乗客乗員115人全員が死亡した(大韓航空機爆破事件)。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(21)
ミニヤコンカでの大量遭難
  1981年5月10日、中国・天山山脈のミニヤコンカ(7556メートル)の登頂を目指していた北海道山岳連盟の8人が次々と滑落死。日本隊の海外登山では最大の遭難事故となった。
  困難な条件を求めて危険に挑む海外登山では大きな遭難事故も多く、世界最高峰のエベレスト(中国名チョモランマ、8848メートル)では登頂成功の後だけでも計8人の日本人が死亡している。
  有名な探険家、植村直己さん(43)も1984年2月、米アラスカの北米最高峰、マッキンリー(6194メートル)の冬季単独登頂に成功後、下山中に消息を絶った。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(22)
北朝鮮による拉致、テロ
  1970年後半から日本人の拉致を行っていた北朝鮮は、80年に入ると欧州でも同様の犯行に及ぶようになる。80年6月ごろ松木薫さん(26)と石岡亨さん(22)がマドリードで消息を絶ち、83年10月にはロンドンに留学していた有本恵子さん(23)がコペンハーゲンからの手紙を最後に行方不明になった。
  この一連の事件は2002年9月の日朝首脳会談を契機に明るみに出た。しかし、北朝鮮は3人とも既に死亡したと主張。帰国を求める日本との交渉は進んでいない。
  欧州で日本人の拉致を行ったのは「よど号」事件で北朝鮮に入国した日本人とその妻らのグループ。よど号事件は1970年3月31日に発生。赤軍派によって羽田発福岡便が乗っ取られ、人質になった乗客乗員ら130人余りが4月3日ソウルで解放された。犯人9人はその後、北朝鮮に入国、一部が日本人拉致事件などの工作活動に関わったとみられている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(23)
日本赤軍によるハイジャック   1973年7月20日、日本赤軍らのグループが乗客乗員145人を乗せた日本航空のパリ発アムステルダム経由羽田便をハイジャック。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ、シリアのダマスカスを経て、リビアのベンガジ空港に到着。24日に人質全員を解放した後、機体を爆破した(ドバイ事件)。
  さらに、日本赤軍は77年9月28日にも、パリ発東京行きの日航機をハイジャックして、バングラデシュのダッカに着陸させた。服役中の過激派らの釈放や身代金の要求を実現させた後、人質を解放しながら、クウェート、シリアのダマスカスと移動。最終的にはアルジェリアのダル・エル・ベイダ空港(アルジェ)で全人質を解放して投降した(ダッカ事件)。
  なおダッカ事件発生の前日の77年9月27日、マレーシアのクアラルンプール空港に日航機が墜落、日本人11人を含む34人が死亡する事故があり、日航は二つの事件の対策に追われた。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(24)
日航機モスクワ墜落事故
  1972年11月28日、日本航空のコペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのDC8型機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に失速して墜落・炎上、日本人53人を含む、62人が死亡した。人為的な操縦ミスによるものとみられている。
  このほか、海外での航空機事故では、87年11月28日に南アフリカ航空機がインド洋モーリシャス近海に墜落して47人、83年12月7日にはスペイン・マドリード郊外の空港での航空機同士の衝突事故で34人の日本人がそれぞれ死亡した。
  一方、海外からの帰国便が国内で墜落した例としては、94年4月26日、台北発の中華航空機が名古屋空港(現名古屋飛行場)への着陸に失敗して墜落、264人(うち日本人154人)が死亡した惨事があった(中華航空機墜落事故)。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(25)
マリアナ海域漁船集団遭難
  1965年10月7日、南太平洋に出漁中のカツオ・マグロ漁船7隻が、台風の進路を避けマリアナ諸島アグリガン島付近で台風を待避しようとしたところ、予想に反し台風の中心が同島付近を通過。死亡・行方不明者209人という海外での海難事故としては最大の被害を出した。
  海外での海難事故としては、64年12月に「宇治丸」がアフリカのアンゴラ沖で行方不明になり32人、82年1月に「第28あけぼの丸」がアリューシャン列島沖で転覆して同じく32人が死亡するなど、漁業関係での大きな被害が多い。
  また、日本の船舶が海外で巻き込まれた特異なケースとして、83年11月に冷凍貨物船、「第18富士山丸」の乗組員がスパイ容疑で北朝鮮に拘束され、このうち紅粉勇船長ら2人が2年5カ月の獄中生活を含み約7年間も抑留された事件(第18富士山丸事件)も起こっている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(26)
第五福竜丸事件
  1954年3月1日午前6時45分(現地時間)、米国は国連信託統治領だったマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆「ブラボー」の実験を行った。強い放射能を帯びたサンゴ片の「死の灰」が降り注ぎ、公海上で操業中だった遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(静岡・焼津市)の乗組員23人が被ばく。約半年後、無線長だった久保山愛吉さん(40)が亡くなり、人類初の水爆犠牲者となった。
  第五福竜丸は米国の設定した危険水域外で操業していたが、米国が水爆の威力の見積もりを誤ったため、死の灰が予想以上に広がったとされる。
  第五福竜丸はその後、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船として使用されたが、67年には廃船となって「夢の島」に放置されていた。しかし、次第に保存を求める声が強くなり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されている。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)
(27)
番外・アナタハン島の女王
  1951年7月6日、マリアナ諸島の孤島、アナタハン島で終戦を知らずに過ごして生き残った比嘉和子さん(28)と男性19人が帰国。島で起こった数奇な出来事が明らかになった。
  44年、米軍の攻撃を受けて沈没した船からたどり着いた兵士、漁師らがアナタハン島に漂着。当時、同島にはヤシ林の経営をしていた男性と、その部下(当時行方不明)の妻、和子さんの日本人2人、さらに70人ほどの現地人が住んでいた。
  その後、現地人は逃亡、終戦時には日本人の男性32人と女性1人だけが島に残される形となった。この状況で和子さんをめぐって殺人、さらには争いの原因となった和子さんの殺害計画など数々の事件が起こり、最終的に救出されるまでに3分の1の男性が死んだ。この「アナタハン島の女王」事件は映画になり、和子さん本人が出演。ハリウッド映画にもリメイクされた。(肩書き・名称、年齢はいずれも当時)







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