資本主義 と社会主義-1



自由主義
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自由主義: liberalismリベラリズム)とは、自由と平等な権利に基づく政治的および道徳的哲学である。自由主義者はこれらの原則の理解次第で幅広い見解を支持するが、一般的には個人主義立憲政治、個人の権利(公民権および人権を含む)、資本主義自由市場)、民主主義世俗主義男女平等、人種の平等国際主義言論の自由表現の自由、そして信教の自由を支持する。

  自由主義は、西洋の哲学者や経済学者の間で人気が高まった啓蒙時代に明確な運動となった。自由主義は、遺伝的特権、国教絶対君主制王権神授説、そして伝統的な保守主義の規範を議会制民主主義法の支配に置き換えることを目指していた。自由主義者はまた、重商主義的政策、王室独占およびその他の貿易障壁を撤廃し、自由市場を促進させた。哲学者ジョン・ロックはしばしば自由主義を確かな流派として創設したと信じられており、各人は生命、自由および財産に対する自然の権利を有し、政府は社会契約に基づいてこれらの権利を侵害してはならないと付け加えた。イギリスの自由主義の伝統は民主主義の拡大を強調してきたが、フランスの自由主義は権威主義の拒否を強調しており、建国と結びついている。

  1688年の名誉革命、1776年のアメリカ独立、1789年のフランス革命の指導者たちは、王位の専制政治の武力による打倒を正当化するために自由主義哲学を用いた。特にフランス革命後、自由主義は急速に広がり始めた。 19世紀はヨーロッパと南アメリカの国々で自由主義政府が設立されたが、アメリカでは共和主義と並んで確立された。ビクトリア朝のイギリスでは、自由主義は人々を代表して科学と理性に訴えて、政治的エスタブリッシュメントを批判するために使われた。19世紀から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国と中東の自由主義は、タンジマートアルナダなどの改革時代、ならびに世俗主義、立憲主義、ナショナリズムの台頭に影響を与えた。これらの変化は、他の要因と共に、イスラム教内に危機感を生み出すことに繋がり、それは今日に至るまで続き、イスラム復興につながった。 1920年以前、古典的自由主義の主なイデオロギー的反対派は保守主義であったが、自由主義は新しい反対派からの大きなイデオロギー的挑戦、すなわちファシズム共産主義に直面した。しかし、20世紀の間、自由主義的な民主主義が二度の世界大戦で勝利を収めるなど、自由主義的思想も特に西ヨーロッパでさらにいっそう広がった。

  ヨーロッパと北アメリカでは、社会自由主義(米国では単に「自由主義」と呼ばれることが多い)の確立が、福祉国家の拡大における重要な要素となった。今日、自由主義政党は世界中で権力と影響力を行使し続けている。しかし、自由主義には、アフリカとアジアで克服すべき課題がまだある。現代社会の基本的な要素は自由主義のルーツを持っている。自由主義の初期の波は憲法上の政府と議会の権限を拡大しながら経済的個人主義を広めた。自由主義者は、言論の自由や結社の自由、陪審員による独立した司法裁判および公判、貴族の特権の廃止など、重要な個人の自由を尊重する憲法上の秩序を求め、確立した。最近の自由主義思想と闘争の後の波は、市民権を拡大する必要性によって強く影響された。自由主義者たちは、公民権を推進するためにジェンダー人種的平等を提唱し、20世紀の世界的な公民権運動は両方の目的に向けていくつかの目的を達成した。ヨーロッパ大陸の自由主義は、穏健派と進歩派に分けられ、穏健派はエリート主義になる傾向がある一方、進歩派は普遍的な参政権、普遍的な教育、財産権の拡大などの基本的制度の普遍化を支持している。時を経て、穏健派はヨーロッパ大陸の自由主義の主要な後見人として進歩派と取って代わった

語源と定義
  リベラル、リバティ、リバタリアンリバティーンなどの言葉は、すべて「自由」を意味するラテン語のliberにその歴史を辿ることができる。リベラルという言葉が最初に記録されたのは1375年のことで、自由に生まれた人間にとって望ましい教育という文脈でリベラルアーツを説明するために使われていた。この言葉が中世の大学の古典的な教育と結びついた初期の段階では、すぐに様々な意味合いが生まれた。リベラルは早くも1387年には「自由に与えられる」という意味になり、1433年には「気力のない」、1530年には「自由に許される」、16世紀と17世紀には「拘束から解放される」という意味になり、しばしば蔑称として使われるようになった。16世紀のイングランドでは、リベラルは、誰かの寛大さや軽率さを指すときに、肯定的な属性と否定的な属性を持つことができた。ウィリアム・シェイクスピアは、『空騒ぎ』の中で、「下品な出会いを告白する」リベラルな悪女のことを書いている。啓蒙主義の台頭とともに、1781年には「狭い偏見から解放された」、1823年には「偏見から解放された」と定義されるようになり、この言葉はより肯定的な意味合いを持つようになった。1815年には、英語で「自由主義」という言葉が初めて使われるようになった。スペインでは、政治的な文脈でリベラルという言葉を使った最初のグループであるリベラレスは、1812年憲法施行のために何十年にもわたって戦った。1820年から1823年にかけての「トリエニオリベラル」では、フェルナンド7世はリベラル派から憲法を守ることを誓うよう強制された。19世紀半ばまでには、リベラルは世界中の政党や運動の政治用語として使われるようになった。
  時が経つにつれ、リベラリズムという言葉の意味は、世界の様々な地域で多様化し始めた。ブリタニカ百科事典によると、「米国では、自由主義は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の民主党政権のニューディール計画の福祉国家政策に関連しているが、ヨーロッパでは、制限された政府と自由放任主義の経済政策へのコミットメントに関連しているのが一般的である」という。その結果、アメリカでは、以前は古典的自由主義と結びついていた個人主義と放任主義経済学の考え方が、リバタリアン思想の新興派の基礎となり、アメリカの保守主義の重要な構成要素となっている。
  ヨーロッパやラテンアメリカとは異なり、北米のリベラリズムという言葉は、ほとんどが社会自由主義を指している。カナダの支配的な政党は自由党であり、米国では民主党が通常リベラルと考えられている。
種類
古典的自由主義
  古典的自由主義Classical liberalism)とは、ジョン・ロックジョン・スチュアート・ミルなどのイギリス啓蒙主義時代の政治哲学を源泉とする思想である。彼らはホッブス社会契約論をもとに個人の生命(Life)、自由(Liberty)、財産(Property)の3権利を自然権として主張し、以前の神学から決別した形で社会のあり方を説いた。初期の自由主義は王政のイギリスで主張されたもので、必ずしも民主主義を主張するものではない。この場合の自然権とは政治的権利はともかく個人の権利として、国王であろうとも犯すことのできない最低限の権利を論じるものであった。その後のフランスなどの革命思想において民主主義平等主義共和主義世俗主義などの要素が先に述べられた3権利の維持には不可欠であるとの主張が加わる。個人の自由の尊重、平等な個人の観念、寛容の尊重、権力の分立議会制度、市場経済の承認といった価値観を主張する思想ともいえる。

  特に、前者の最初期の自由主義をもって古典的自由主義という場合はレッセ・フェール(放任される自由)を強調する思想となり、個人主義の哲学・世界観に基づく市場経済社会と、政治体制として最小限の政府(小さな政府)を理想とする「夜警国家」を主張する。古典派自由主義経済学は、利己的に行動する各人が市場において自由競争を行えば、その意図しない結果として(「見えざる手」)、公正で安定した社会が成立すると考える思想(→アダム・スミス)である。経済的自由を重視する立場から、英語圏ではEconomic liberalism経済自由主義)やMarket liberalism市場自由主義)とも呼ばれる。一方で後者の後期の自由主義の場合は、放任される自由という観点とは逆に政府によって保護される権利という観点に立ち、国民の生活水準を守る目的での累進課税や保護主義、さらには公共機関においての宗教的服装を禁止など、自由との表現と矛盾するように見えるものである。これは日本語に明確に翻訳されていないLibertyがどのように解釈されるかでその政策的意味が変化することもあげられる。
近代自由主義
  近代自由主義(モダン・リベラリズム、: Modern liberalism, Reform liberalism)は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。レッセフェール(自由放任)を基本原理とする古典的自由主義や自由至上主義とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりする(無政府資本主義リバタリアニズム新自由主義)のではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
  「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす職務につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。

  よって、近代自由主義は積極的自由に基づく自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題などさまざまな弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。
  日本語では消極的自由を重視する古典的自由主義とのニュアンスの違いを表すため、また、混同を避けるためにあえて自由主義ではなくリベラリズムと呼ばれることが多い。英語圏ではSocial liberalism社会自由主義)と表現される。社会的自由を重視することから、社会民主主義との親和性がイメージされることも多い。ただし、事後的な社会保障としての福祉国家論を主張した社会民主主義とは異なり、個人主義に信頼するロールズのリベラリズムでは、人的資本を含む生産手段の広範な分散的保有の事前的な制度的保障が主張されている。
歴史的起源とその展開

  政府は、共同体一人ひとりのメンバーを強力な権力でつぎつぎと押さえ込み、都合よく人々の人格を変質させたあと、その超越的な権力を社会全体に伸ばしてくる。この国家権力は細かく複雑な規制のネットワークと、些細な事柄や征服などによって社会の表層を覆った。そのために、最も個性的な考え方や最もエネルギッシュな人格を持った者たちが、人々を感銘させ群集の中から立ち上がり、社会に強い影響を与えることができなくなった。
  人間の意志そのものを破壊してしまうことはできないが、それを弱めて、捻じ曲げて、誘導することはできるのだ。国家権力によって人々は直接その行動を強制されることはないが、たえず行動を制限されている。こうした政府の権力が、人間そのものを破壊してしまうことはないが、その存在を妨げるのだ。専制政治にまではならないが、人々を締め付け、その気力を弱らせ、希望を打ち砕き、消沈させ、麻痺させる。そして最後には、国民の一人ひとりは、臆病でただ勤勉なだけの動物たちの集まりにすぎなくなり、政府がそれを羊飼いとして管理するようになる— アレクシス・ド・トクビルアメリカの民主政治

  われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。」「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。— トーマス・ジェファーソン、1776年(法律学全集3『憲法』pp.90)— トーマス・ジェファーソン、1776年(法律学全集3『憲法』pp.90)

  自由主義の哲学的、思想的源流をさかのぼると、17世紀イギリスのジョン・ロック1632年 - 1704年)の思想に行き着く。ロックは、人間は生来自由で可能性に充ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められていると主張した。この権利は「自然権Natural Rights)」として個々の人間に生まれた時から備わっているものであり、誰からも妨害されることはない。人間は誰もが、個人の自由な意思に基づいて自らの判断で思想も宗教も生き方や生活のスタイルも自由に選ぶことができると主張した。当時、市民の生活に強力な王権で干渉し、人々の財産までその一存で奪うことができた絶対主義政府の国家権力に対抗する思想としてロックが生み出した主張が、リベラリズムの始まりであると言われる。

  ロックはさらに、この個人の自由に生きる権利を実際に行使するためには、専制的権力者や独断的な政府政策、政治制度や社会制度の一方的な主義や主張、イデオロギーなどによって勝手に奪われてしまうことのない自分の「財産」を所有する必要があると主張した。ロックによれば、当人の所有物となるのは身体を用いて自然界の共有物から切り離されたものであるとされた。また、この自己所有は自己の身体に対する所有権にその原型を有するものとされた。この立場からは、当人の所有物をその同意を得ないで使用することはいわば奴隷化と同等であって正義に反するとされた。

  そして、自由な政治と経済体制のもと、自由な市民による自主的な合意によって制定される「法律」と、自由な意思を持つ個人どうしの自発的で主体的な裁量によって結ばれる「契約」によって初めて、各人がこの「所有権」を保障され、自分自身や自分が自由に生きるために必要な自分が占有できる財産を得るのだと主張した。「政府」の真の役割とは、こうした個人の権利を「守る」ことに限定される。これを破ってその国家権力を乱用し人々の自由を奪った時には、市民が抵抗権革命権を行使しその政府を交代させる権利を持つのだと主張した(社会契約説)。
  スコットランド古典派経済学classical economics)の学者であるアダム・スミスはロックに続いて、個人の利己心がその意図しない結果として社会全体の利益をもたらすという「見えざる手」の議論を展開した上、そのために、政府の干渉や介入政策を受けない、自由な経済環境(自由市場)における自由な経済活動が必要だと説いた。(「重商主義」および「国富論」も参照)
  このイギリスの自由主義(リベラリズム)の思想が18世紀にアメリカに渡り、米3代大統領トーマス・ジェファーソンらアメリカ建国の中心人物たちであるファウンディング・ファーザーズ(建国の父達)によってアメリカ建国の国家思想として引き継がれた。彼らは、巨大な国家権力で人民を縛り付けたイギリスの政府支配体制に対抗してイギリスを離れ、新天地アメリカに王権にも専制政府権力にも統制を受けない、独立した市民による自発的な人々の自由な市民社会の設立を目指した。建国後に建国の父達は人民の基本権を守るために権利章典を制定した。だが、この権利章典憲法の制定当初にはなく、後に、「修正条項」としてアメリカ合衆国憲法に追加された。
  その後ジョン・スチュアート・ミルのように自由民主主義の方向で対応していく流れ(レオナルド・トレローニー・ホブハウス、アレクサンダー・ダンロップ・リンゼイ、アーネスト・バーカージョン・デューイ)に対して、とりわけ20世紀の前半になると、新自由主義論(グレイのような論者は「古典的自由主義の復興」として取り扱う)が台頭してくる。代表はフリードリヒ・ハイエクである。
近代自由主義の成立とその後
  19世紀後半から20世紀前半にかけて、ホブハウス、デューイ、ルヨ・ブレンターノトーマス・ヒル・グリーンジョン・メイナード・ケインズベルティル・オリーンといった人たちによって哲学的・経済学的な視点から、自由放任主義を放棄し、時には国家による介入も容認するべきであるとする根拠と方法が次第に理論化され、こうした思想家の影響を受けた自由主義者たちはニューリベラル(new liberals)と呼ばれ影響力を増していく。
  かれらは階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、古典的自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考えた。
  なかでもケインズは「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全雇用均衡からの脱却のための経済政策が、政府によって実現されることを求めた。
  こうして、大恐慌を代表とする「市場の失敗」やニューディール政策などを経たアメリカでは、民主党などに代表されるように、自由を実質的に実現するためには、その現実的制約となっている社会的不公正を政府によって是正しなければならない、というアイザイア・バーリンによって分類された「積極的自由」を重んじる(他からの不干渉というのにとどまらず実質的な自己決定、自己支配が達成されなければ、形式的自由には意味がないという)思想がリベラルの中で優勢となった。
  しかし、20世紀後半、石油危機後の低成長時代を迎え、スタグフレーションや財政赤字といった問題が深刻化する中、従来のリベラリズムに対する批判が経済学のシカゴ学派から始まり、福祉国家の見直しや国営企業の民営化、規制緩和を志向する新自由主義が優勢となった。その後、1980年代新自由主義への対抗から、小さな政府大きな政府との中道を模索し、市場を重視しつつも国家による公正の確保を志向する第三の道1990年代に台頭した。2000年代の今日では、グローバル化の進行に伴い、市場を自由化しようとするリバタリアニズム新保守主義とどのように対応していくかがリベラリズムの課題となっている。
議論
現代の自由主義としてのリベラリズムに関する議論としては、
  ・「自由」に対して普遍的な価値を認めるリベラリズムの普遍主義が、リベラリズムを否定する価値をも包摂しうるアイザイア・バーリンなどの価値多元論との整合性をもたないという批判
  ・積極的自由に基づく自己決定の推奨が、消極的自由を重視する古典的な自由主義の立場から見て、一種のパターナリズムにあたり、ことに所得再配分のための私的所有権に対する規制を、かえって自己決定の余地を狭めるもので、政府の恣意的な干渉と捉えるノージックらのリバタリアニズムからの批判
  ・人格の有する諸属性は本質的なものであって、ロールズの想定する偶有性は、無意味な仮想であり、リベラリズム的な個人主義が、家族や地域などとの紐帯を欠いた負担なき自我にすぎないというサンデルらの共同体主義からの批判

  がなされており、リベラリズムの側からのロールズによる反論もなされている。なお、リベラルという語が、本来的な中道左派思想としての社会自由主義(Social liberalism)を超えた広がりを現在では有していることから、広く左翼的と観念された思想として批判を受けることもある。


社会主義国
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  社会主義国とは、社会主義を標榜する国家のこと。通常は憲法などで社会主義を国家理念・国家政策として掲げる共和国であり、単に共産党政権を担っているだけでは社会主義国とは呼ばれない(キプロスサンマリノネパールなど)。狭義にはマルクス・レーニン主義を掲げる国家、広義には社会主義的諸政策を推進している国家である。
  最初の社会主義国家はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)で、ソビエト連邦の崩壊後の現在では中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナムラオスキューバである。

歴史
誕生
  19世紀資本主義社会は過酷な労働環境をもたらすなど多くの矛盾・問題点を孕んでいた。その問題点は多くの社会主義学者によって分析され理想の社会が論じられてきたが、特にカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスらは、資本主義が成熟した後に社会主義(共産主義)が実現しうるとした。
  世界初の労働者による革命政権は1871年パリ・コミューンであり、世界で最初の社会主義国家は、ロシア革命十月革命を経てボリシェヴィキが主導権を握ったことで1917年に成立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国である。ボリシェヴィキの政権ロシア内戦を経て1922年に成立したソビエト連邦(ソ連)の前身となった。この他にもロシア内戦の時期には旧ロシア帝国領内に複数の社会主義政権が生まれている。1919年にはハンガリー評議会共和国が成立したが、まもなく消滅した。1924年には中華民国から独立する形で、アジア最初の社会主義国としてモンゴル人民共和国が誕生した。
拡大と冷戦(「東側諸国」も参照)
  第二次世界大戦後、多くの社会主義国が誕生した。
  東欧では、多くの国々がソ連により「解放」された結果として社会主義国(衛星国)となり、ソ連を盟主とする軍事同盟のワルシャワ条約機構に加盟した(東ドイツポーランドチェコスロバキアブルガリアルーマニアハンガリーアルバニア)。ただしアルバニアは中ソ対立の際に親中路線をとり脱退した。ユーゴスラビアは当初の親ソ路線から独自の社会主義路線に転じ、非同盟中立政策や、一定の自由市場経済を認める市場社会主義を採用した。
  東アジアでは、大日本帝国の敗戦により、1948年大韓民国樹立に対抗する形で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立した。中国では汪兆銘政権が崩壊した後に国共内戦が再開され、蔣介石率いる中国国民党及び中華民国が台湾に逃走した結果、1949年中国共産党率いる中華人民共和国が成立した。ソ連、中国の間では同盟が結ばれた。
  東南アジアでは、終戦の混乱に乗じて1945年旧仏領インドシナ地域が独立を宣言し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が成立した。しかし1946年にはフランスが東南アジアの利権を守るべく傀儡政権コーチシナ共和国を成立させたことで、南北分断国家となり、南北対立と断続的な戦争が行われた。
  北ベトナムはソ連や中国の(中ソ対立ではソ連側に付いた)、南ベトナムは当初はフランスの、後にはアメリカ合衆国の支援を受けた。しかし1975年、北ベトナム軍は南ベトナムの首都サイゴンを陥落させ、社会主義国としての統一を実現した。周辺国のカンボジアラオスも社会主義国となった。
  これに対し、ミャンマー(ビルマ)では、1962年ネ・ウィンがそれまでの国内の混乱を背景にクーデターを決行。「社会主義へのビルマの道」と呼ばれる独特の民族主義国家主義・社会主義体制を確立。アメリカ・ソ連との関係を最低限の範囲にまで縮小させて、国際的には孤立化の道を歩む事となった。
  南アジアにおいては、インドはソ連の支援を受け、社会主義的政策を取った。
  中東アフリカでは、1976年にはアンゴラ、1977年にはセーシェル1978年にはエチオピアモザンビーク南イエメンアフガニスタンで社会主義政権、もしくは親ソ政権が誕生した。
  中南米では、アメリカの半植民地状態であったキューバで、1959年カストロ率いる革命政権が発足した。また1970年チリ自由選挙においてサルバドール・アジェンデ大統領に選出される。しかしこのアジェンデ政権は、1973年にはCIAの後援を受けたピノチェト将軍らによるチリ軍事クーデターにより崩壊した。
  以上のように西側諸国は「ソ連が国内には恐怖政治、国外には革命の輸出を行っている」として軍事的圧力や経済封鎖、反革命勢力への武器提供や資金援助を行った。東側諸国はこれに対抗して国内統制を強化しコミンフォルムを通じて西側の社会主義政党にも介入したため、冷戦や、朝鮮戦争ベトナム戦争などの代理戦争が繰り広げられた。(「冷戦」も参照)
  なお東南アジア、アフリカ、南米などの社会主義国は、資本主義が進化して社会主義へ進んだというより、旧宗主国である西側諸国と対決して植民地や半植民地状態から独立し、ソ連などの援助を得て国家指導の近代化建設を推進する面が強く、陣営は異なるものの反共主義を掲げて西側の援助を得た開発途上国開発独裁とも共通する。
ソ連崩壊
  1953年にソ連及び社会主義陣営に絶対的な影響力を持っていたソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンが死去すると、1950年代半ば以降は社会主義諸国の間でもさまざまな紛争が起こり「共産主義は一枚岩」(社会主義国は将来的には共産主義を実現すると標榜していた)という理念は短期間で崩壊した。1956年スターリン批判ハンガリー動乱、米ソの平和共存路線に反対する形での中ソ対立や、1968年ソ連のチェコスロバキアへの軍事介入1978年からのソ連のアフガニスタン侵攻1979年中越戦争などである。
  いくつかの社会主義国では教育福祉制度の充実がはかられ一定の生産性の向上がみられたものの、軍事負担や西側の経済封鎖の影響もあり、生活水準の向上では資本主義国に取り残された。共産党一党独裁と中央集権的な官僚主義の弊害により、民主主義は制限され、労働組合は傀儡の御用組合となり、党幹部は共産貴族とも呼ばれた。
  他方、資本主義諸国では、アメリカ合衆国のニューディール政策やイギリスの福祉国家、更には北欧諸国の社会民主主義政策など、教育水準の向上が社会流動性をもたらし、社会保障等の福祉制度の充実と生産力の向上が、貧困の克服と一定の社会の成熟と安定をもたらした。この背景には、国際的にも国内的にも社会保障面で社会主義勢力に対抗する必要があったこと、各国の社会民主主義勢力の役割などが挙げられる。
  1980年代後半にはソ連共産党による体制が消耗を見せ、ベルリンの壁崩壊などの東欧諸国の民主化ペレストロイカを経て、1991年にはソ連が崩壊した。重しの外れたヨーロッパの社会主義国は次々に社会体制を改め、現在ヨーロッパにはソ連型社会主義国は残っていない。
現在(「社会主義#ソ連崩壊後」も参照)
  2016年現在では、アジア中華人民共和国ベトナムラオス北朝鮮)と中米キューバ)では一党独裁制の社会主義国が残っているが、それらの国々でも北朝鮮を除けば、ある程度開発独裁的な体制である社会主義市場経済を採用している。
  アジアでは、中華人民共和国改革開放ベトナムドイモイ政策を採用し、政治的には社会主義(共産党一党独裁)を堅持しながらも、経済的には資本主義化(国有企業の株式会社化、外資誘致など)を導入して効率化と発展を追求する、一種の混合経済を進めている。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は独自の主体思想を掲げる軍事独裁専制国家で、経済的・政治的な体制はソ連型社会主義とも異なるが、2002年7月の経済改革では農産物など部分的な自由市場が認められ、2009年の憲法では、「社会主義」を標榜してはいるが、「共産主義」の語は削除され、独自の「先軍思想」が明記された。
  一方、中南米ではキューバの社会主義政権が崩壊せず続いている事に加え、1990年代末より市場開放による国内産業の壊滅や貧富の差の拡大もあり、左派勢力が力を増し、ベネズエラチャベス政権を筆頭に、エクアドルニカラグアボリビアなど社会主義を志向する国が続いており、2009年にもエルサルバドルでは、かつては共産ゲリラであったファラブンド・マルティ民族解放戦線が選挙で政権を奪取した。米州自由貿易地域に対抗した米州ボリバル同盟が結成されている。
  なおロシアベラルーシなどの旧社会主義圏では、エリツィン時代の急速な市場経済導入による混乱と国家弱体化の反動で、超大国時代の社会主義ソ連を懐古する層もあり、大統領への権限集中を後押しする一因となっている。
西側諸国の現在
  西側諸国の社会主義者や社会主義政党では、かねてよりイギリス労働党などの社会民主主義と、プロレタリア独裁を掲げソ連型社会主義を目指したマルクス・レーニン主義が対立していたが、マルクス・レーニン主義勢力は次第に縮小した。
  日本共産党は1950年代から「自主独立路線」を掲げ、ソ連共産党や中国共産党から次第に自律的な路線を模索しはじめる。1963年には部分的核実験禁止条約をきっかけにソ連共産党と対立し、関係を断絶。1966年には中国との対立も表面化し翌年には関係断絶に至る。このような流れの中で日本共産党は1966年の党綱領に自主独立路線を明記。1974年には党綱領からプロレタリア独裁の規定を削除し、1976年には「自由と民主主義の宣言」を出して議会制民主主義の擁護を明確にした。
  西側最大の共産党であったイタリア共産党は、1970年代にはマルクス・レーニン主義を放棄しユーロコミュニズムの路線を確立、1980年代には社会民主主義政党へ路線転換した。西側では長らくソ連共産党への支持を続けたフランス共産党は、退潮傾向にあり1990年代より多様な路線を模索している。
  対立する一方の超大国が消滅したため、世界唯一の超大国となったアメリカ合衆国の軍事力の突出に懸念する声もある。冷戦下では共通の敵を持ち歩調を合わせてきた西側諸国の中でも、アメリカ合衆国の軍事行動に同調しないケースが増えつつある。また冷戦終了後もアメリカ合衆国の二重基準が続いている(民主主義と市場経済を唱えながら、サウジアラビアなどの独裁政権は支持し、選挙で選ばれたイラン、ベネズエラなどの政権には敵対する)ことを批判する声もある。
  2007年世界金融危機が発生したが、その背景として「社会主義に勝利した」とする新自由主義によって推進された、自由主義経済の行き過ぎ(市場原理主義)と、政府や社会による市場の監視・管理機能の低下が、資本主義諸国の指導者からも含め、広く指摘されている。
評価
  ソ連及びソ連の影響下で成立した多くの社会主義国家では、基本的な教育・賃金住宅医療などが保障され、身分民族・男女などによる差別は公式には否定され、国家による産業(特にインフラ)の整備が行われて近代化が促進された。一方、基本的には共産党一党独裁であり、言論の自由信教の自由などはしばしば制限され、また官僚制による腐敗や非効率も深刻化した。特にスターリン時代には大規模な人権侵害が長期間行われた事がスターリン批判で暴露されたが、共産党独裁自体は継続された。またソ連の影響下の国々は衛星国とも呼ばれ制限主権論も唱えられた。
  ソ連の影響下ではなく独力で社会主義政権を建設した国では、ユーゴスラビアキューバのようにソ連に比べ政権党の統制が比較的緩やかな場合もあるが、とりわけ、中国カンボジア北朝鮮 は、ソ連以上に厳しい抑圧体制を敷いた。カンボジアのポル・ポト政権は、中国の文化大革命に触発されて極端な農業集団化を推し進め、人口700万の同国で150万から300万の国民(国外亡命者を含む)を処刑した。1989年6月には中国で天安門事件が発生し、民主化を求める学生デモを武力鎮圧した。中国では現在、ネット検閲によってサイバー空間でも国民を抑圧し、またチベットにおける人権侵害が現在進行形で行われている。
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(以降はwikipedia参照)
社会主義国の一覧
社会主義を掲げた暫定・臨時政権の一覧


分断国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


分断国家とは、本来なら一つの国家であるべきだが、人為的に分裂させられた状態にある国民国家のことである。特に、第二次世界大戦後の冷戦時代に西側陣営と東側陣営とで国内が分裂した国家を指す。分裂国家などの呼び方もある。

概要

分断国家の特徴として、以下の点が挙げられる。
 1.一つの国家内に複数の政府承認を受けた2つ以上の政府が並立している。
 2.並立する政府がいずれも「当該国家で正統性を有する(合法的な)唯一の政府である」との認識から自身が主導する国家の統一を志向している。
 3.その状況が平時において長期間持続している。
  分断国家は、各政府が公式には当該国家の領土全域に対する主権を主張しているものの、実際はその一部を実効支配するに留まっている為、国内が政府支配地域毎に分裂している。分断国家の各政府は、自己が認識する正統性を根拠に、国家の統一を目指して政府同士の戦争・交渉または諸外国との外交を行う。並立する政府の外交上の扱いは国・時代によって異なっており、並立する政府に対する他国の政府承認を一切否定する方針(ハルシュタイン原則、及び「一つの中国」論に基づく二重承認否定)もあれば、逆に否定しない方針(南北等距離外交)もある。

  統一が実現するまでの間、各政府はそれぞれが実効支配する地域で独自の内政を実施し、かつそれぞれの地域住民は政府によって相互交流が制限されるため、同じ国家内の地域同士であっても経済格差や住民の価値観の変化等が生じる。また、別個に政府承認を受けた各政府が独自に外交政策を展開することで、国際社会では分断国家の存在を前提とした国際関係が構築される。分断国家で分断状態が長期化すると、これらの事象が複合的に発展し、「国家が分断されている異常な状態が常態である」という「分断の恒久化」が発生することが多い。

  分断国家は、「一国家一政府」を原則とする国民国家(近代国家)の概念が普遍的になった近代以降に現れた概念である。従って、ローマ帝国東西分裂や、領邦国家が乱立していたドイツ統一以前のドイツ、及び三国時代魏晋南北朝時代の中国等、近代国家でない国の分裂は分断国家に該当しない。また、スールー王国のように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した場合も、分断国家に該当しない。一方、近代国家で2つ以上の国家が並立していても分断国家と見なされない場合がある。

分断国家の一覧
  2019年時点で現存する分断国家は、中国朝鮮の2か国である。これらの国の各政府はいずれも、「国土全域を支配する正統性を有する」と主張し、対立相手の正統性を認めていない。また、過去の例としてはイエメンドイツベトナムがある。
  いずれの事例も、冷戦の最中に独立・主権を回復する過程で、「政治経済体制自由資本主義体制と社会主義体制のどちらにすべきか」というイデオロギーの選択が対立の原因となって分裂している。
分断国家と見なされない例
上記の分断国家に対し、
  1.住民の民族問題宗教問題が原因で分裂した国家・地域
  2.キプロス島以外の事例は、独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域か、一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家である。
  3.戦中の短期間のみ政府が分裂した国家
  4.消滅した政府は敵対した交戦勢力の傀儡政府ないし衛星国と見なされることが多い。
  5.国民の自発的意志によって分裂した国家
のいずれかに該当する場合は分断国家とはみなされない。また特殊な例としては、従前の民族自決権(自決権)による統一の正統性が戦争によって全面的に否定され再分裂した大ドイツがある。
住民の民族・宗教問題が原因で分裂した国家・地域
キプロス島
   キプロス:南キプロス(既存のキプロス共和国)と北キプロス
  ・キプロスは、民族問題が原因で分裂し、並立する政府がいずれも再統一を志向している唯一の国家である。
  ・1960年に独立したキプロス共和国のマカリオス政権は、キプロス紛争が継続する中でギリシャ系住民トルコ系住民の共存を目指し、中立主義の一環としてエノシス(全キプロスのギリシャへの統合)の放棄を宣言した。そのため、エノシスを望むギリシャ軍事政権とギリシア系軍人民兵1974年クーデターを起こし、キプロスはマカリオス派とクーデター派との内戦状態に陥った。これを受け、エノシス実現の可能性を恐れたトルコは「トルコ系住民の保護」を名目にトルコ軍をキプロスへ侵攻させ、キプロスはグリーンラインを境に北キプロスのトルコ軍実効支配地域と南キプロスのキプロス共和国実効支配地域に分断された。分断後、1975年にトルコ軍実効支配地域はキプロス連邦トルコ人共和国を樹立して連邦制による南北の再統一を目指した。だが、分断以前の体制への復帰を望む南キプロスとの統合交渉が決裂した為、1983年に北キプロス・トルコ共和国として一方的に独立を宣言した。以降、南キプロスはトルコ以外の国連加盟191カ国から国家承認を受ける一方、北キプロスはトルコからしか国家承認を受けていない

  ・1974年の南北分断以降、キプロス共和国は北キプロスを実効支配するトルコ人共和国の正統性を認めておらず、北キプロスは分断前の状態に復帰すべきと認識している。一方の北キプロス・トルコ共和国は、南北分断以降のキプロス共和国が「正統なキプロス政府」であることを認めず、南北両国の連邦による再統一を目指している。両国は国際連合ギリシャトルコイギリスを交えながらキプロスの再統一に向けた交渉で妥協点を探っている。
独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域
  ・イギリス領インド帝国インド・パキスタン分離独立によって インド パキスタン分離独立
  ・インド亜大陸は主な言語がヒンドゥースターニー語で共通していたが、イギリス植民地体制を解体する過程で宗教マイノリティーであるムスリムがムスリム人口の多い地域を別個の国家として分離独立させることを強く主張した。その結果、インド帝国はムスリム国家(パキスタン)とヒンドゥー国家(インド)に分離し、独立後は印パ両国のいずれもが統一インドを志向していない。ただし、両国は国交を有するものの、カシミール地方を巡るカシミール紛争印パ戦争含む)で軍事的緊張が続いている影響から相互交流が低調で、両国間の言語分断が進んでいる。

  ・イギリスアイルランド島英愛条約によって独立国家 アイルランド(南アイルランド)と英国領の北アイルランドとに分離
  ・アイルランド島は、アイルランド独立戦争の最中に制定されたアイルランド統治法によってカトリック系住民主体の南アイルランドとプロテスタント系住民主体の北アイルランドとに分割された。その後、1921年英愛条約によって南アイルランドはアイルランド自由国(アイルランド)として英国から独立が認められたが、北アイルランドは多数派のプロテスタント系住民が英国に残留することを選択したため、アイルランドへの統合を望む少数派のカトリック系住民が反発し北アイルランド問題となった。この間、アイルランド政府は北アイルランドの領有権を主張していたが、1998年ベルファスト合意によって領有権の主張を放棄した。
一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家
  ・アゼルバイジャンナゴルノ・カラバフ地域
  ・ナゴルノ・カラバフ戦争によって、1991年 ナゴルノ・カラバフ共和国(現アルツァフ共和国) が分離独立を宣言。ただし、アゼルバイジャンは同地域の分離を承認しておらず、国際連合加盟国から国家承認を受けていない
  ・アメリカ合衆国アメリカ南部地域
  ・奴隷制や連邦制を巡る見解の相違によって、1861年 アメリカ連合国が分離独立を宣言。ただし、合衆国は同地域の分離を承認しておらず、ドイツ領邦国家1か国以外から国家承認されなかった。南北戦争の敗北によって連合国が消滅し、同地域は合衆国に復帰した。
  ・ジョージア南オセチア地域とアブハジア地域
  ・南オセチア紛争及びアブハジア紛争によって、 南オセチア共和国(1991年)と アブハジア共和国 (1992年)がそれぞれ分離独立を宣言。ただし、ジョージアは両地域の分離を承認しておらず、国家承認する国際連合加盟国が数か国しかいない
  ・モルドバトランスニストリア地域
  ・トランスニストリア戦争によって、沿ドニエストル共和国 1992年)が独立宣言。ただし、モルドバは分離を承認しておらず、国家承認する国際連合加盟国が数か国しかいない
  ・中華民国南満州東北三省
  ・満州事変によって、満州国1932年に分離独立を宣言。ただし、中華民国は同地域の分離を承認しておらず、国際連盟リットン調査団の報告を受けて「満州国の分離独立を承認すべきではない」と結論付けた。第二次世界大戦日本の降伏と共に満州国が消滅し、南満州は中華民国に復帰した。
  ・パキスタン東パキスタン(旧東ベンガル州
  ・バングラデシュ独立戦争によって、バングラデシュ1971年に分離独立。1974年国際連合加盟。独立後、バングラデシュはパキスタンに対する敵対政策をとっておらず、隣国のインドとも2015年国境の飛地群の領土交換を行う等、関係は悪くはない。
  ・ソマリアソマリランド(旧イギリス領ソマリランド
  ・ソマリア内戦によって、ソマリランド共和国(1991年)がそれぞれ分離独立を宣言。ただし、ソマリアは分離を承認しておらず、国際連合加盟国から国家承認を受けていない
  ・ユーゴスラビア旧ユーゴ):連邦を構成する各構成体
  ・ユーゴスラビア紛争によって、 スロベニア クロアチア 北マケドニア1991年)、及び ボスニア・ヘルツェゴビナ1992年)が相次いで分離独立。連邦に残った構成体は、1992年に ユーゴスラビア(新ユーゴ)を発足。各国は紛争終結後に国交を樹立したが、民族間の心理的わだかまりは残っている。
  ・ ユーゴスラビア(新ユーゴ):コソボ・メトヒヤ自治州
  ・コソボ紛争によって、1999年にコソボ・メトヒヤ自治州が連邦から分離し、2008年 コソボが独立を宣言。連邦に残った構成体は、2003年 セルビア・モンテネグロを発足。ただし、分離前にコソボが属していた セルビアはコソボの独立を認めておらず、国連常任理事国から国連加盟が認められていない状態である。
国民の自発的意志によって分裂した国家
  ・ セルビア・モンテネグロ セルビア モンテネグロ
  ・国民投票の結果を受けて連邦制を解消。2006年にモンテネグロが分裂し、セルビアが継承国となる。
  ・ チェコスロバキア チェコ スロバキア
  ビロード離婚によって連邦制を解消。1993年にスロバキアが分裂し、チェコが継承国となる。
大ドイツ(詳細は「ドイツ問題」を参照)
  ・大ドイツとは、フランクフルト国民議会提案された大ドイツ主義に基づく地域概念で、ドイツ国小ドイツ主義に基づくドイツ)に旧オーストリア・ハンガリー領ドイツ民族居住地域(オーストリアズデーテン地方)を加えた範囲から成る。
  ・大ドイツは、民族自決権正統性の根拠として1つの国家に統一されたが、後に勃発した戦争第二次世界大戦)で正統性が全面的に否定され、戦後に同一民族が複数の国家に分裂した唯一の事例である。
大ドイツの発生から統一・分裂までの経緯
  ・ドイツ語圏は、神聖ローマ帝国三十年戦争の影響で統一国家としての実権を失うと、帝国内が主権国家化した各地の領邦帝国自由都市毎に分裂した状態となった。第三次対仏大同盟下での帝国解体後、ウィーン議定書の取り決めで1815年オーストリア帝国を永久議長国とするドイツ連邦が発足したが、その実態は「連邦」よりは国家連合であった。また、議長国オーストリアの領土は連邦の域外であるハンガリー人スラブ人等の非ドイツ人主体のハンガリー王国にも及び、プロイセン王国の領土もドイツ人主体のプロイセンポーゼン州にも及んでいた。その為、ウィーン体制の安定期にドイツでは「ドイツ民族の国民国家」と言える国家が存在していなかった。

  ・国民国家としての大ドイツが初めて具体的に議論されたのは、1848年フランクフルト国民議会においてである。1848年革命を受けドイツ民族のナショナリズムが高揚する中で開催された議会は、国民国家としてのドイツ統一を実現するために、「ドイツ」の定義やその範囲についても討議した(詳細はこちらを参照)。だが議会では、多民族国家であるオーストリアを除外した地域で統一国家の樹立を目指す「小ドイツ主義」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「大ドイツ主義」が対立し、その他諸事情も相まって、統一に関する実行可能な合意を得ることができなかった。統一策を巡る「小ドイツ主義」と「大ドイツ主義」の対立は1866年プロイセン王国とオーストリア帝国の戦争(普墺戦争)に至り、オーストリア敗北後にドイツ連邦が解体された事で大ドイツを統合する枠組みが消滅した。その後、プロイセン王国は小ドイツ主義によるドイツ統一を達成する一方、オーストリア帝国はアウスグライヒによって人口の過半を占める非ドイツ人(主にハンガリー人)にもドイツ人と対等の自治権を認める同君連合へ変化し、旧ドイツ連邦領は1871年までに①ドイツ民族の国民国家・ドイツ国ドイツ帝国)、②多民族国家・オーストリア・ハンガリー帝国、③元領邦国家・リヒテンシュタイン公国及びルクセンブルク大公国のいずれかに分裂した。

  ・大ドイツが民族分断による分断国家と認識されるようになったのは、20世紀戦間期に入ってからである。第一次世界大戦末期にオーストリア・ハンガリー帝国でオーストリア革命が起きると、帝国からチェコスロバキアを始めとする非ドイツ人の居住地域が相次いで分離し、後に誕生したオーストリア第一共和国版図がほぼドイツ人の居住地域に縮小された。これにより、大ドイツ主義による統一の問題となっていたオーストリアの多民族性が解消され、オーストリアでは大ドイツ主義を望む機運が高まった。この時期、オーストリアは正式な国名に「ドイツ=オーストリア共和国」(Republik Deutschösterreich1918年1919年)を採用し、オーストリア国民のアイデンティティがドイツにあることを示した。だが、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約(対独)及びサン=ジェルマン条約(対墺)には、「国際連盟の承認が無い限りオーストリアの独立を変更できない」とする条文が盛り込まれ、敗戦国に対する戦勝国の圧力で独墺両国の統合が事実上禁じられた。これは、オーストリアの非ドイツ人を独立させる根拠となった民族自決権に反する内容で、そのために戦間期の独墺は分断国家の側面が強い。ただし、両国では講和後も統一を求めて法律税制交通通信等の共通化政策を進め、またオーストリアは当時の国歌に「ドイツ=オーストリア」(1920年1929年)、または「ドイツの地」(Deutsche Heimat)(1929年1938年)という詞を含め、引き続きアイデンティティがドイツに向いていることを示した。また同時期には、帝国崩壊時にチェコスロバキア領とされ、ドイツ人が域内人口で多数を占めていたズデーテン地方においても、民族主義の高揚からドイツへの併合を求める運動が活発化した。

  ・ドイツ帝国崩壊後、ヴァイマル共和政下のドイツ国では世界恐慌の影響等からナチスが権力を掌握した。すると、アドルフ・ヒトラーはオーストリア・ズデーテンにおけるドイツ統一の機運に乗じてオーストリア併合ズデーテン併合を相次いで達成し、1938年10月10日に大ドイツは史上初めて1つの国民国家として統一された。ドイツのオーストリア・ズデーテン併合は「民族自決権」の論理が正統性の根拠となり、ミュンヘン協定締結時にはドイツ国内だけでなくイギリスフランス等の諸外国も「自決権行使」の観点から大ドイツ統一を承認した。だが、ナチスによる大ドイツ統一は、単なる「民族自決権の行使」ではなく「生存圏東方生存圏)確保の一環として行われており、統一直後の1939年3月15日には自決権に反してチェコ人の居住地域であるボヘミアモラヴィアドイツ保護領として事実上併合した。ナチスによるドイツ拡大の対象は東方領土にも及び、メーメル一帯を3月22日に併合した後、ポーランド侵攻第二次世界大戦)によって占領したポーランドをドイツ本国に組み込むかポーランド総督府統治区域とした。更に、ナチスは独ソ戦開戦によって広大な東部占領地域を獲得し、東部総合計画による大ゲルマン帝国の構築を目論んだが、最終的にドイツの敗戦によってナチスが目論んだドイツ拡大は失敗に終わり、逆に戦前から小ドイツの一部であった旧ドイツ東部領土全域を喪失する結果となった。

  ・第二次世界大戦発後、連合国ナチス・ドイツによる一連のヨーロッパ占領侵略行為と認定し、大戦前に「民族自決権」を根拠として統一された大ドイツについても統一の正統性が否定された。その為、大戦末期のウィーン攻勢で連合国軍がオーストリアを占領すると、新たに発足したオーストリア臨時政府が独墺併合の無効を宣言して大ドイツから離脱した。また、ズデーテン地方は大戦後に再建されたチェコスロバキアに戻され、現地のドイツ人は旧ドイツ東部領土のドイツ人と同様に追放された。大戦後、ドイツ(1990年までは西ドイツ)でもナチスによるアンシュルス以降のドイツ拡大政策が「侵略行為」と認定され、またオーストリアでは独墺統一時代に受けた苦渋の経験から「ドイツ人」ではない「オーストリア人」としてのアイデンティティーが形成された。その為、連合国軍の占領統治から主権を回復した後、独墺両国は共に自国を「ドイツ民族の分断国家」と認識しておらず、オーストリア国内でオーストリア人を「ドイツ民族」と呼ぶ風潮も右派や年配者に限られるようになっている。
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