モンゴル-問題-1
(モンゴル=独立国
内モンゴル=中国の自治区




2021.12.10-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20211210-WZLUZVNNRFLQ3J6MIU6U33AQEY/
中国国内のモンゴル族弾圧「厳しい状況」19日に大阪で証言者集会

  人権問題などを理由に来年2~3月の北京冬季五輪・パラリンピックに首脳や政府使節団が出席しない「外交的ボイコット」が各国で相次ぐ中、中国国内で漢民族への同化政策を強いられているモンゴル族の証言者集会が19日、大阪府枚方市の市民会館で開催される。地元議員らでつくる実行委員会は「人権弾圧のない世界の実現に向け、現状を知ってもらいたい」と広く参加を呼びかけている。

  証言者集会は、「南モンゴルクリルタイ(世界南モンゴル会議)」の関係者を招き開催。同会議は11月25日に国会内でも会合を開き、自民党の「南モンゴルを支援する議員連盟」の高市早苗会長が「政府・与党は中国政府に対し、主張すべきは主張し、具体的な行動を強く求めていく」とのメッセージを寄せた。
  同会議副会長で、19日に証言予定のオルホノド・ダイチンさん(55)は、内モンゴル自治区の赤峰市出身。21年前、留学のため来日したという。

  ダイチンさんによると、同化政策が強まったのは昨年から。モンゴル族が多く住む地域の学校では、モンゴル語から中国語での教育に順次変更されたという。「民族の文化が奪われる」と、隣国のモンゴル国でも怒りの声が上がるが、ダイチンさんは「経済は中国に依存している。民間はともかく、モンゴル国政府は中国に強く物を言うことができない」と話す。

  当局は国内での抗議活動には強硬姿勢で臨んでいるといい、ダイチンさんは「1万人から1万5千人が施設に拘束され、威嚇や洗脳教育を受けた。非常に厳しい状況だ」と危機感を強めている。

  証言者集会は19日午後1時半開始。入場無料。問い合わせは実行委(072・846・5577)


2021.03.06-AFP.BB News-https://www.afpbb.com/articles/-/3335270
習主席、同化政策を強化 内モンゴルで標準中国語の推進を指示

  【3月6日 AFP】中国の習近平Xi Jinping)国家主席は5日、同化政策の強化を指示し、内モンゴル自治区Inner Mongolia Autonomous Region)当局は「民族問題を解決」して標準中国語の使用を推し進めていくべきだと述べた。同地区では昨年、モンゴル語に代わって標準中国語で教育が義務化されることに反対する住民らが激しい抗議活動を行った。
  中国政府は、少数民族を多数派の漢民族に同化させる政策の一環として、標準中国語による教育の義務化を全国的に推し進めているが、内モンゴル自治区では昨年、モンゴル語の代わりに標準中国語で教育を行うようカリキュラムが変更されたことを受け、数万人が抗議デモや授業のボイコットを行った。

  同自治区での抗議活動はまれだが、過去数十年で国内最大規模となった抗議デモを受け、政府は取り締まりを開始し、装甲車両で複数の学校を包囲し、警察当局はデモを主導した数十人を拘束。さらに当局は、子どもに学校をボイコットさせた親に対して、解雇や罰金、子どもの退学という脅しをちらつかせ、地域によっては、同級生らを説得して登校させた子どもに金銭の提供を申し出ていた。
  内モンゴル自治区での弾圧は、同様の同化政策を実施している新疆ウイグル自治区Xinjiang Uighur Autonomous Region)やチベットTibet自治区における中国政府の動きに呼応する。

  国営メディアによると、習氏は5日、全国人民代表大会(National People's Congress、全人代、国会に相当)で、内モンゴル自治区での文化や民族についての「誤った認識」を正すため、地元当局は「全国共通の教材の使用をしっかりと推進」すべきだとの考えを示した。
  習氏は内モンゴル自治区での抗議活動について、地元当局に「中国の特色で民族問題を解決するという正しい道を歩み続けるべきだ」と求め、内モンゴル自治区の住民らは「漢民族は少数民族から切り離せず、少数民族も漢民族からは切り離せないことを覚えておくべきだ」と述べた。(c)AFP


モンゴル情報クローズアップ!
内モンゴルとモンゴルの違いと由来
(2012.02.12)

(1) 内モンゴルとモンゴルに詳しい人は少ないです。研究者や学者くらいでしょう。そもそも内モンゴルの存在さえ知らない人もいっぱいいるようです。
  内モンゴルは中国の北の方にある自治区で、中国の領土になります。モンゴルは独立した国家です。
(2)内モンゴルは学校とかでは、昔ながらの モンゴル縦文字を使い、社会では中国語がメインになります。モンゴル人も中国語を習わないと社会でて生き残るのは困難でしょう。日常会話に良く中国語が飛び回るのも その原因の一つです。
(3)モンゴルはロシア文字と同じくキリル文字を使っています。モンゴルはソ連と仲良くて、ソ連を真似してきた文化が今でも残っています。小中学の制服は日本のメイド服に似てるのも、会話によくロシア文字の単語がでてくるのも その一つです。
(4)中国人は、モンゴル国のことを「外モンゴル」、内モンゴル自治区のことを「内モンゴル」と呼ぶので、この呼び名のほうがピンとくるかたもいらっしゃるかもしれませんね。(ちなみに、モンゴル人は「北モンゴル」「南モンゴル」と呼んでいます。)
(5)モンゴルの人口265万人(うち9割がモンゴル人)いますが、内モンゴルのモンゴル人は400万人。モンゴルの国土面積は日本の4倍ですが、内モンゴルの面積は日本の3倍です。
(6)モンゴルは1911年の辛亥革命後ロシアの支援で、チベット仏教の活仏ラマを君主とするボグド・ハーン政権が生まれ、1924年にモンゴル人民共和国として独立した。
(7)一方、内モンゴルではモンゴルへの併合か独立か自治かと主張もばらばらだった。1932年に日本が満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国に組み込まれた。
(8)これをチャンスと見たのが徳王で、百霊廟に内モンゴル西部の王族たちを集め、中国政府に対して内モンゴルの自治権拡大運動を開始。蒋介石はモンゴル人をつなぎ止めるためにこれを認めて、1934年に蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)が設立された。

(9)一方、日本軍も「第二の満州国」作りを狙って徳王に接近し、内モンゴル西部に侵入して中国軍を追い払い、1937年10月に厚和(現フフホト)で蒙古連盟自治政府が成立した。
(10)そのあと徳王は「ジンギスカン30代目の子孫」を名乗り、中国からの独立を宣言しようとしたが、関東軍は決して認めなかった。なぜなら「モンゴル固有の領土を回復」を掲げた徳王が独立国を作れば、満州国に編入されている内モンゴル東部が不安定になってしまうからです。
(11)1945年8月、日本の敗戦によって、日本軍に支えられていた蒙古自治邦は満州国と共に瓦解した。そのあとモンゴルは内モンゴルの独立を支援しようとしたがのですが、ソ連によって止められた。
(12)そして、1949年10月に中華人民共和国が成立され、12月に内モンゴル自治区が誕生して、ウランフは主席に就任した。
(13)毛沢東がこうして満州国や蒙古自治邦、東トルキスタン共和国のように、外国勢力が民族問題に付け入って傀儡政権を作り、そこで少数民族に「国」を作らせるのは止めて、自治体レベルのものに留め、区域自治だと称した。
(14)一方、ソ連の真似をした社会主義の道を歩んだモンゴルは1990年の民主化後国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。まだ20年しか経ってないのですが、モンゴル国民は自由と平等を訴えることができる。これが内モンゴルとの大きな差を生むでしょう。
(15)日本にいるモンゴルの有名人と言えば皆さん御存知の朝青龍、白鵬、日馬富士、 旭鷲山。そして内モンゴル出身の有名人と言えば楊 海英、バーボルド。
(16)モンゴルと内モンゴルの国民性の違い:モンゴルはハルハ族が大半数を占め、他のモンゴル系諸民族で構成した国家です。一方、内モンゴルは80%以上が漢民族と構成になっている為、モンゴル人はチンギス・ハーンの誇りを持ち、プライドも高いです。そして伝統文化への思いや保護活動はモンゴルよりも積極的に取り込んでいます。


モンゴル国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  モンゴル国(英語:Mongolian State)は、東アジア北部に位置する共和制国家。首都はウランバートル。東と南の二方向を中国内モンゴル自治区と、西を新疆ウイグル自治区、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国。モンゴル高原のうち、外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。
国名
  正式名称は、モンゴル語キリル文字)表記(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写は Mongol Uls。日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。モンゴル語名「モンゴル・オルス」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス」は「国」を意味する。
歴史(詳細は「モンゴルの歴史」を参照)
  19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。
  20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。
  1911年辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちはからの独立を宣言した(Mongolian Revolution of 1911)。
  モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていた帝政ロシア中華民国への配慮から、内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。
  1915年キャフタ条約英語版中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

  1917年ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。
  しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドーダンザンスフバートルチョイバルサン民族主義者社会主義者はモンゴル人民党(のちのモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。
  モンゴル人民共和国は、1924年 - 1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。

  1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した。1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された。
  また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された。

  チョイバルサンは当初バラーディンらブリヤート知識人が唱えたモンゴル語ラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった識字率1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。1945年ソ連対日参戦ではモンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐、その占領下では東モンゴル自治政府内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。
  チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

  近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)と1945年ソ連対日参戦1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。また、中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、戦後台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側5か国と、日本など西側13か国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年ソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。
  1989年末、ソ連東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。
  この民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
  ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。
政治
  社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。 
  なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。
政党(詳細は「モンゴルの政党一覧」を参照)
軍事(詳細は「モンゴル国の軍事」を参照)
  モンゴル国の正式国軍であるモンゴル国軍は、社会主義時代のモンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。
  総兵力は9,100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年現在)。モンゴル国軍の装備は、おもに人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、戦闘機攻撃ヘリコプターなどはすべて退役している。現在保有するのはMi-8Tなど少数のみ。地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備のあげく全機が退役した。
  最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、アメリカ合衆国などによるイラク侵攻に際してはいち早く支持を表明したほか、ソ連製装甲兵員輸送車に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。ほかにもモンゴル国軍は、アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)やコンゴ民主共和国でのPKO活動にも参加している。
  現在、海軍は存在しないが(かつては存在した。現在は民営化されている)、モンゴル船籍の商船は世界中の海で活躍している。
モンゴル国境警備隊
  国境警備隊は国軍とは別組織となっている。モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。
国際関係
  モンゴルの外交方針は隣国の中国・ロシアとのバランスを維持しながら、それに過度に依存することなく「第三の隣国」(日本・アメリカ)との関係を発展させることである。2015年に当時のツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領によってモンゴルを永世中立国にするという方針が定められたが、2020年5月には事実上頓挫している。(「モンゴル国の国際関係」も参照)
対日関係(「日本とモンゴルの関係」も参照)
  以前はノモンハン事件による反日感情も見られたが、相撲による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持されている。日本より多額のODAが供与されており、日本車の中古車(特にトヨタ・プリウス)も人気である。
  日本との外交関係は、1972年(昭和47年)2月24日に樹立された。2004年(平成16年)11月に在モンゴル国日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「もっとも親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な親日感情を有する国となっている。
  また兵庫県但東町(現・豊岡市但東町)との交流が長く、町内には日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。2010年平成22年)4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合は査証が免除されている。
  朝青龍白鵬日馬富士鶴竜の直近の横綱4名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した旭天鵬など多くの大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている[11]。相撲以外のスポーツではプロボクサーラクバ・シンが日本で畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。一方で、陸上長距離のセルオド・バトオチルが日本の実業団に所属し、防府読売マラソン大阪マラソンで優勝も果たしている。また、同じ日本の国技でもある柔道もモンゴル国内では相撲に並ぶスポーツとなっている。
  自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校校長がモンゴル国を公式訪問している。
対中関係(詳細は「モンゴル国の国際関係#中国」を参照)
対韓関係(詳細は「モンゴル国と大韓民国の関係」を参照)
地方行政区画(「アイマク (モンゴル国)」も参照)
  日本のにあたるアイマクが21設置されており、県には郡にあたるソムが347、さらにその下に村にあたる1681のバグが属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50 - 100家族ほどで構成されている(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。
地理
  東アジアの北西部に位置し、西には標高4,300メートルのアルタイ山脈と標高3,500メートルのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500メートルの高原が広がり、北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠ステップの植生が南の海抜平均1,000メートルのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖にそそぐセレンゲ川と、アムール川を経てオホーツク海太平洋)にそそぐヘルレン川がある。
  近年、国土の90%で砂漠化が進行、6万9,000㎢の牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3,800の河川と3,500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1,000の湖が地図上から完全に姿を消している。
経済
  IMFの統計によると、2018年のモンゴルのGDPは約130億ドル。一人あたりのGDPは4,041ドルで、世界平均のおよそ40パーセントの水準である2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40パーセント以上を占めている。2014年でおもな輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3パーセントを占め、おもな輸入相手国は中国が41.5パーセント、ロシアが27.4パーセント、韓国が6.5パーセント、日本が6.1パーセントとなっている

  おもに畜産業鉱業が中心で、モリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。現在、モンゴル政府は鉱や鉱、モリブデン石炭などの開発を推進しており、エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源、とりわけオユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。
  しかしながら、政治的安定性がいまだに構築されておらず、政権が変わるたびに政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80パーセントである。畜産は、そのほとんどが遊牧で行われている。農業は、社会主義時代は土を掘ることを忌避する風習が改められ、食糧自給できたものの、市場経済化で穀物生産は落ち込み現在は中国やロシアからの輸入が多い。
  内陸国ではあるが、便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、約400隻を超える船舶が認められている。


内モンゴル自治区
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内モンゴル自治区、(中国語:内蒙古自治区、英語: Inner Mongolia)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区内蒙古自治区(うちもうこじちく)とも。

地理
  東西に長く伸びており、東から順番に黒竜江省吉林省遼寧省河北省山西省陝西省寧夏回族自治区甘粛省と南に接し、北はモンゴル国ロシア連邦と接している。面積は、日本の約3倍。
  内モンゴルの高原は広く、標高600-1400mである。地形は西が高く東が低く、南が高く北が低い。なだらかな丘と広いモンゴルの平野と盆地が広大な草原を形成している。
歴史
  50万年前から20万年前ごろの原人の化石が見つかっている。紀元前4700年から紀元前2900年にかけては紅山文化燕山山脈の北方に栄え、紀元前20世紀ごろにはオルドス人が住みつき始め、春秋戦国時代には匈奴との間で抗争が繰り広げられた。
モンゴル帝国と清朝
  1206年に建国した大モンゴル国(後に大モンゴル帝国)のチンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの領地となり、のちにはその子孫が支配し、モンゴル帝国帝位継承戦争でモンゴル帝国が南北に分裂した際はクビライの本拠地となり、クビライが即位を行った上都では首都の大都北京)に次ぐ陪都となった。
  1368年に元が漢民族によって滅び、帰還したモンゴル人は西部のオイラート・モンゴル(現在のカザフスタン中央アジア)、ハルハ・モンゴル(現在のモンゴル国)、内モンゴルに大きく三つに分けられ、互いに権力争いを続ける。そうした中、1646年満州女真人が内モンゴルと手を結び、明を倒し、の時代が始まる。
  1688年、モンゴル西部オイラート・モンゴルが作ったジュンガル王国ガルダン・ハーンが対ハルハ戦争を行い、成功したが、ハルハ・モンゴルの貴族が逃げ、1691年に清の支配を認める。ガルダン・ハーンがハルハ戦時中に甥のツェウェーン・ラウダンに王位を奪われ、後ろからの援助が止まる。1694年、事実上、最後の統一したモンゴルの王ガルダンが現在のモンゴルの中心部(現在のウランバートルのあたり)で清、ハルハ・モンゴル、内モンゴル軍の連合軍と死ぬか生きるかの戦いに出たが、圧倒的に強い連合軍に敗れ、大敗する。その後、半世紀にわたり、1755年、ハルハ・モンゴルと内モンゴルの手を借りた清がジュンガル王国を倒し1755年モンゴルが独立を失う。
辛亥革命後
  1911年、中国では辛亥革命中華民国が成立するとともに、モンゴルが独立を宣言し、内モンゴルも合併を申し出た。1913年にモンゴル軍が内モンゴル解放戦争をはじめ、ほぼ全域から中華民国軍を追放した。しかし、帝政ロシアの介入で、この解放戦争は失敗に終わる。1915年6月7日、モンゴルの国境にあるキャフタで露・蒙・華三国の間でキャフタ協定が結ばれ、中華民国北京政府は内モンゴルと外モンゴルを自治区とした(ただし外モンゴルは広範な自治権を獲得した)。
  1933年満州事変に影響されたユンデン・ワンチュク(雲王)はデムチュクドンロブ(徳王)とともに内蒙古自治会議を開催し、内蒙古の「高度な自治」を要求する運動を開始し、内蒙古自治政府が設立された。1937年には盧溝橋事件で内蒙古方面へ本格的に出兵した日本軍の援助で蒙古聯盟自治政府が樹立され、徳王を戴いた1939年には徳王を戴いた蒙古聯合自治政府張家口で成立した。当時の蒙古聯合自治政府は総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人だった。
  1945年8月、ソ連対日参戦によるソビエト連邦軍(赤軍)とモンゴル人民共和国軍の侵攻に満州国(一部が内モンゴル東部)と蒙古連合自治政府は崩壊する。ソ連軍とモンゴル軍は内モンゴル東部のみならず、チャハルや熱河省といった内モンゴル西部にも進駐し、その影響下で統一国家を目指す独立国家として内モンゴル人民共和国が成立する。ソ連とモンゴルは中ソ友好同盟条約に基づいて中華民国にモンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げた。
内モンゴル自治区の成立
  占領したソニド右旗を慰問で訪れたモンゴル人民共和国の指導者ホルローギーン・チョイバルサン中国共産党との連携を現地民に指示[2]してウランフが代表となった内モンゴル人民共和国は東モンゴル自治政府フルンボイル地方自治政府などを取り込み、1947年内モンゴル自治政府となって国共内戦中は中華民国から事実上独立し、1949年に中華人民共和国が建国すると中華民国時代の察哈爾省綏遠省熱河省遼北省興安省を廃止して内モンゴル自治区となった。中華人民共和国の自治区としては最も早い成立である。徳王はモンゴル人民共和国に亡命するもソ連が捕えていた満州国皇帝の愛新覚羅溥儀のように中華人民共和国に引き渡されて内モンゴルで特赦と役職を与えられた。外モンゴルは独立の道を歩んだが、内モンゴルは中国共産党の影響があったとはいえ、同じモンゴル族同士の運動と対立の結果自治区となった。
文化大革命時の抑圧と名誉回復
  1966年に始まった文化大革命の勃発によりウランフは失脚し、内モンゴル人民革命党粛清事件などの弾圧の上にモンゴル人は自治権が完全に剥奪されていた。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人ののうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされたとされ、後に犠牲者らは胡耀邦によって名誉回復された。1967年フフホトに革命委員会が成立した。中ソ対立の軍事的緊張下に1969年には内モンゴル生産建設兵団が設置され、1970年には行政区画の大幅な変更が行われた。これによって内モンゴル東部は東北三省に、西部は寧夏甘粛に分割されたが、1979年に旧に復してウランフも中央政界では文革中の国家主席の廃止から再設置された国家元首に次ぐ国家副主席の地位を得るまで復権し、地盤の内モンゴル自治区でもウランフの妹婿の孔飛、息子のブヘ、孫のブ・シャオリンが自治区主席を務めるなどウランフの一族は太子党となって権勢を振った
民族
  内モンゴル自治区政府トップの歴代主席などをモンゴル族が務めているものの、漢民族が人口の80%以上を占めており、その他モンゴル族・ダウール族エヴェンキ族オロチョン族回族満洲民族朝鮮族などが居住している。また、モンゴル族の英雄であるチンギス・ハーンの肖像を踏むといった行為が民族への侮辱や差別の扇動として逮捕・刑罰の対象となる。内モンゴル自治区内のモンゴル族は発表統計から400万人を超えているとみられ、モンゴル国の270万人(2004年)と比べても自治区内のモンゴル族の人口の方が多い。
経済
   農業畜産業を主要な産業として、鉄鋼業林業などもある。主要な農作物はソバで、日本はソバの8割近くを中国から輸入しているが、生産量の3割超を占める最大の産地は内モンゴルとされる。ブドウ栽培とワイン製造を始めた地域もある。豊富な石炭天然ガスのほか、希土類(レアアース)の生産量は中国一であり、特にバヤン鉱区は世界最大の希土類元素鉱床がある。
  石炭は年間5億トンの産出を目指す。独立国モンゴルよりも内モンゴル自治区は経済発展を遂げている。 2009年のGDPは1420億ドルで、前年より17%伸びた。2000年代は13.2%、17.9%、20.5%、23.8%、19%、19.1%、17.2%と全国31の省・直轄市・自治区の中でも最高のGDP成長率を記録しており、他の中国都市と同じように商業施設やマンションの建設ブームとなっていた。
  中でもオルドス市は不動産バブルが崩壊して鬼城化するまで2010年には中国全体ではマカオ香港と並ぶ中国本土で最も一人当たり域内総生産(GDP)が高い都市となり、2015年には内モンゴル自治区の一人当たりGDPも上海北京天津に次ぐ全国4位となった。最西部に中国のミサイル開発や宇宙開発で活躍している酒泉衛星発射中心があり、内モンゴルの四子王旗は宇宙船の帰還場所でもある。
  また、軍需産業も少なくなく、中国戦車の基礎を築いた59式戦車など中国軍の兵器を製造してきた旧第617廠(現・内蒙古第一機械集団)があるも砂埃の激しい地域のためにエンジン類は他で作られている。風も強い地域のために風力発電容量は中国で最も多く、規模は三峡ダムを超えるとされる


内モンゴル独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


内モンゴル独立運動は、中華人民共和国の実効支配下にある内モンゴル南モンゴル)における先住民族であるモンゴル人の独立運動のこと。モンゴル人による独立運動には全権独立を求めるものから高度自治を求めるものがある。

歴史

大清帝国からの独立

1636年満州人が建国した大清帝国満洲モンゴルチベット東トルキスタン中国本土におよぶ大帝国であった。満州人はモンゴル帝国玉璽をモンゴル王族から受け継ぎ大清帝国を建国するという形をとり、モンゴル人と血縁関係を結ぶとともにモンゴル人を優遇していた。1906年漢民族孫文が「駆除韃虜、回復中華」を提唱し、1911年に漢民族によって「駆除韃虜、恢復中華」をスローガンに辛亥革命が行われ、大清帝国は崩壊した。崩壊直前の1911年12月に外モンゴルではロシア帝国を後ろ盾としたモンゴル人諸侯によってチベット人活仏ボグド・ハーン皇帝とする独立国家が樹立された(ボグド・ハーン政権)。1912年1月1日に漢民族によって中国本土中華民国が建国されると臨時大総統に就任した孫文漢人満州人モンゴル人回族人チベット人を一つに合わせて一国とする旨を宣言した。

  1913年1月11日モンゴル人チベット人チベット・モンゴル相互承認条約を締結してチベットモンゴル清王朝から独立するとともに外部からの侵略に対して相互防衛を図ることとした[2]。外モンゴルのボグド・ハーン政権内モンゴルにも勢力を伸ばしモンゴルは一時的に統一状態となったが、ロシア帝国が内モンゴルからモンゴル軍を撤退するよう圧力をかけたため、再びモンゴルは南北分裂に陥った。1915年にロシア帝国と中華民国によって外モンゴルのみの自治を認めるとした取決めがなされた。1917年ロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、1919年に中華民国は外モンゴルに軍を進めて占領した。1920年ソビエト連邦に抵抗するロマン・ウンゲルンが外モンゴルに白軍を進駐させて中華民国軍を追い出したことによってボグド・ハーン政権が復権したが、外国軍である白軍に反感を持つものたちの間に共産主義が浸透するようになり、モンゴル人共産主義者によってモンゴル人民党が設立されると、1921年ソビエト衛星国としてモンゴル人民共和国が外モンゴルに建国された。

 1921年に孫文は漢民族を中心として、満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の四民族を全て漢民族に同化させて中華民族を形成することにより単一民族国家を組織する旨を『三民主義ノ具体的方策』で発表した[1]1925年に孫文は中国民族の総数は4億人であるが外来民族である満州人モンゴル人ウイグル人チベット人は一千万人に過ぎないから中国人の大多数は全て漢人であり、同血統、同言語文字、同宗教、同風俗習慣を持つ完全な単一民族であるとする旨の『三民主義』講演を行った。1929年、内モンゴル東部にロシア帝国が敷設した北満鉄道の権益をめぐってソビエト軍中華民国軍が全面衝突する(中ソ紛争)。
満州国・蒙古聯合自治政府
  1932年関東軍清朝皇帝であった溥儀を執政とした満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではチャハルデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王公によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。ただし、総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル人は15万4203人だった。満州国とともに蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。

  1941年4月13日日ソ中立条約ソビエト連邦日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された。ところが、1945年2月11日ソビエト連邦アメリカ合衆国大英帝国ヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道南満州鉄道をソ連・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみを独立させ、内モンゴルを中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した。

  1945年8月9日に突如としてソ連と外モンゴルの連合軍が満州国と内モンゴルに侵略してきたことによって満州国・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した(ソビエト参戦)。日本の根本博中将揮下の駐蒙軍は約4万の在留邦人が引き揚げるまで張家口でソ連軍の進撃を食い止めた。ソ連軍の1個師団と3個機械化旅団、モンゴル人民軍の4個師団及び1個機械化旅団は内モンゴルに侵攻し、内モンゴル東部からチャハルや熱河省といった内モンゴル西部まで進駐した。旧蒙古自治邦政府では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国興安総省では東モンゴル自治政府ホロンバイル自治省政府などが成立して外モンゴルへの内モンゴルの併合を求める運動が勃発した。ソ連とモンゴルは当初汎モンゴル主義を煽って内外モンゴルの統一を掲げてたが、中ソ友好同盟条約で中華民国に外モンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げて撤退することになった。
中華人民共和国
  1945年8月以降、中華民国政府と反政府勢力の中国共産党との間で国共内戦が起きた。ソ連やモンゴルといった占領軍の取り計らいで満州や内モンゴルに進出していた中国共産党ウランフは内モンゴル人民共和国、内モンゴル人民革命党、東モンゴル自治政府、ホロンバイル自治省政府、西蒙政府などを懐柔して東西モンゴルを統一して打ち立てた内モンゴル自治政府1949年中華人民共和国建国後の内蒙古自治区の主席となるも、1966年7月12日鄧小平がウランフを内外モンゴル統一を企む「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は内モンゴル人民革命党粛清事件と呼ばれるモンゴル人への大粛清を行った。これにより数十万人が粛清された。さらに中国は自治区とは名ばかりに自治区主席などをモンゴル人が務めるだけで漢民族は内モンゴルに移入し続けて漢民族は人口の80%超を占めるにいたった。
  1989年天安門事件以降、内モンゴル独立運動も再び活発になり、1995年に内モンゴルではハダ等によって中国からの独立を目指す南モンゴル民主連盟が設立された。しかし1995年12月10日、代表のハダと連盟員は中国政府によって逮捕され、ハダはスパイ、国家分裂主義者として刑務所に送られた。このため、これ以降のモンゴル人は国内よりも海外で活動を積極化させていった。1997年には内モンゴル人民党アメリカ合衆国で設立し、2006年にはモンゴル自由連盟党日本で設立された。同時に南モンゴル人権情報センターはメディアに南モンゴルの人権情報を発信している。内モンゴル人民党モンゴル自由連盟党ヨーロッパにも支部を設置するなどしてヨーロッパ人とともに中国政府による人権抑圧への抗議活動を行っている。独立を目指す団体は共同して抗議活動や声明文を出すなど協力関係を保っている。

  2010年には内モンゴル人民革命党粛清事件における民族浄化を描いた楊海英静岡大学教授の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』が司馬遼太郎賞を受賞した。 2010年12月10日ハダの刑期満了日以降、ハダとその家族が行方不明となっており、アムネスティ・インターナショナル日本などから中国政府に対する非難が上がっている。このハダ失踪事件が国際的に報道されたことでチベット東トルキスタン同様に内モンゴルの人権問題に注目が集まっている。
  現在、内モンゴルは東トルキスタン・チベットと並んで中国におけるレアメタル等の鉱物資源の主要産地となっていることや中国政府による漢民族移入政策によって、中国からの独立を図ることが困難になりつつある。
日本での活動
  日本国内では日本人、チベット人、ウイグル人たちが協力して中国大使館へのデモや抗議書の投かんなどを行っている。モンゴル自由連盟党は中国の脅威と戦うという立場から、保守系政治団体頑張れ日本!全国行動委員会主催の「自由と人権アジア連帯集会」に参加している。また、モンゴル人は維新政党・新風などの保守系政治団体とも交流を深めるようになっている。2011年以降はハダの釈放を求める活動をウイグル人、チベット人、日本人と共同で行っている








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