(モンゴル=独立国
内モンゴル=中国の自治区)
モンゴル情報クローズアップ!
内モンゴルとモンゴルの違いと由来
(2012.02.12)
(1) 内モンゴルとモンゴルに詳しい人は少ないです。研究者や学者くらいでしょう。そもそも内モンゴルの存在さえ知らない人もいっぱいいるようです。
内モンゴルは中国の北の方にある自治区で、中国の領土になります。
モンゴルは独立した国家です。
(2)内モンゴルは学校とかでは、昔ながらの モンゴル縦文字を使い、社会では中国語がメインになります。モンゴル人も中国語を習わないと社会でて生き残るのは困難でしょう。日常会話に良く中国語が飛び回るのも
その原因の一つです。
(3)モンゴルはロシア文字と同じくキリル文字を使っています。モンゴルはソ連と仲良くて、ソ連を真似してきた文化が今でも残っています。小中学の制服は日本のメイド服に似てるのも、会話によくロシア文字の単語がでてくるのも
その一つです。
(4)中国人は、モンゴル国のことを「外モンゴル」、内モンゴル自治区のことを「内モンゴル」と呼ぶので、この呼び名のほうがピンとくるかたもいらっしゃるかもしれませんね。(ちなみに、モンゴル人は「北モンゴル」「南モンゴル」と呼んでいます。)
(5)モンゴルの人口265万人(うち9割がモンゴル人)いますが、内モンゴルのモンゴル人は400万人。
モンゴルの国土面積は日本の4倍ですが、内モンゴルの面積は日本の3倍です。
(6)モンゴルは1911年の辛亥革命後ロシアの支援で、チベット仏教の活仏ラマを君主とするボグド・ハーン政権が生まれ、1924年にモンゴル人民共和国として独立した。
(7)一方、内モンゴルではモンゴルへの併合か独立か自治かと主張もばらばらだった。1932年に日本が満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国に組み込まれた。
(8)これをチャンスと見たのが徳王で、百霊廟に内モンゴル西部の王族たちを集め、中国政府に対して内モンゴルの自治権拡大運動を開始。蒋介石はモンゴル人をつなぎ止めるためにこれを認めて、1934年に蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)が設立された。
(9)一方、日本軍も「第二の満州国」作りを狙って徳王に接近し、内モンゴル西部に侵入して中国軍を追い払い、1937年10月に厚和(現フフホト)で蒙古連盟自治政府が成立した。
(10)そのあと徳王は「ジンギスカン30代目の子孫」を名乗り、中国からの独立を宣言しようとしたが、関東軍は決して認めなかった。なぜなら「モンゴル固有の領土を回復」を掲げた徳王が独立国を作れば、満州国に編入されている内モンゴル東部が不安定になってしまうからです。
(11)1945年8月、日本の敗戦によって、日本軍に支えられていた蒙古自治邦は満州国と共に瓦解した。そのあとモンゴルは内モンゴルの独立を支援しようとしたがのですが、ソ連によって止められた。
(12)そして、1949年10月に中華人民共和国が成立され、12月に内モンゴル自治区が誕生して、ウランフは主席に就任した。
(13)毛沢東がこうして満州国や蒙古自治邦、東トルキスタン共和国のように、外国勢力が民族問題に付け入って傀儡政権を作り、そこで少数民族に「国」を作らせるのは止めて、自治体レベルのものに留め、区域自治だと称した。
(14)一方、ソ連の真似をした社会主義の道を歩んだモンゴルは1990年の民主化後国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。まだ20年しか経ってないのですが、モンゴル国民は自由と平等を訴えることができる。これが内モンゴルとの大きな差を生むでしょう。
(15)日本にいるモンゴルの有名人と言えば皆さん御存知の朝青龍、白鵬、日馬富士、 旭鷲山。そして内モンゴル出身の有名人と言えば楊 海英、バーボルド。
(16)モンゴルと内モンゴルの国民性の違い:モンゴルはハルハ族が大半数を占め、他のモンゴル系諸民族で構成した国家です。一方、内モンゴルは80%以上が漢民族と構成になっている為、モンゴル人はチンギス・ハーンの誇りを持ち、プライドも高いです。そして伝統文化への思いや保護活動はモンゴルよりも積極的に取り込んでいます。
モンゴル国
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モンゴル国(英語:Mongolian State)は、東アジア北部に位置する共和制国家。首都はウランバートル。東と南の二方向を中国内モンゴル自治区と、西を新疆ウイグル自治区、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国。モンゴル高原のうち、外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。
国名
正式名称は、
モンゴル語(
キリル文字)表記(モンゴル・オルス)、
ラテン文字転写は
Mongol Uls。日本語の表記は
モンゴル国。通称
モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。モンゴル語名「モンゴル・オルス」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/
ウルス」は「国」を意味する。
歴史(詳細は「
モンゴルの歴史」を参照)
19世紀、
外モンゴルから
内モンゴルにかけては、
清朝の支配下に置かれていた。
20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることで
ロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への
漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族の
トクトホのように「
馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人
ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族の
ツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。
1911年に
辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、
ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは
清からの独立を宣言した(
Mongolian Revolution of 1911)。
モンゴルにおける
チベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた
化身ラマ(活仏)の
ジェプツンダンバ・ホトクト8世(
ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(
ハーン)として推戴し、
ボグド・ハーン政権を樹立した。
1913年には、
チベットとの間で
相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、
内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていた
帝政ロシアが
中華民国への配慮から、内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。
1915年、
キャフタ条約(英語版)で
中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ
中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた
日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。
1917年、
ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、
1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。
1920年10月、
赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていた
ロマン・ウンゲルン率いる
白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。
しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中で
ボドー、
ダンザン、
スフバートル、
チョイバルサンら
民族主義者、
社会主義者はモンゴル人民党(のちの
モンゴル人民革命党)を結成、
ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や
極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(
Mongolian Revolution of 1921)。こうして
立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、
1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に
人民共和国へと政体を変更、
モンゴル人民共和国(
社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、
リンチノら
ブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。
ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。
モンゴル人民共和国は、
1924年 -
1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な
社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、
コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、
中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。
1929年 -
1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。
1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であった
スターリンから
ラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるが
ゲンデン首相は拒否した。
1936年にモンゴル
秘密警察が設立され、ソ連派の
チョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された。
また、同1936年3月にはソ連との間で
ソ蒙相互援助議定書が締結された。
1937年から800の修道院が破壊され、
約1万7,000名の僧侶が処刑された。同年、大規模な
ソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、
2万人が処刑された。
チョイバルサンは当初
バラーディンらブリヤート知識人が唱えた
モンゴル語の
ラテン文字化ではなく、
キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった
識字率が
1960年代には
文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。
1945年の
ソ連対日参戦ではモンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐
、その占領下では
東モンゴル自治政府や
内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件とした
外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。
チョイバルサンは
1952年に死去するまで
独裁政治を行った。後継者である
ツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、
1984年に健康上の理由に(
認知症との説が有力)より
書記長を事実上解任され、
テクノクラート出身の実務派である
バトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルの
ゴルバチョフと呼ばれ、ソ連の
ペレストロイカに呼応した
体制内改革を行った。
近代のモンゴルと外国との戦争は
1939年に当時の満蒙国境で
日本軍・
満州国軍とモンゴル人民軍・
ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(
ノモンハン事件)と
1945年の
ソ連対日参戦、
1947年に新疆で当時の
中華民国と武力衝突した
北塔山事件のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。
中華人民共和国とは
中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。また、
中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で
中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、戦後
台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(
中華民国の政治#対蒙関係参照)。
1955年、モンゴルなど東側5か国と、
日本など
西側13か国の
国際連合加盟が
国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して
拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。
1966年に
ソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。
1989年末、
ソ連・
東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの
1990年春には、初めて日本を公式訪問した
ドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、
一党独裁を放棄した。
1992年には
モンゴル人民共和国から
モンゴル国へと改称、新憲法を制定し、
社会主義を完全に放棄した。
この
民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な
市場経済化が進められ、
経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、
社会福祉を削減することで
貧富の差を拡大させた。
資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた
官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
ツェデンバル時代に批判されていた
チンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、
カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。
政治
社会主義時代は
モンゴル人民革命党の「指導的役割」が
憲法で規定される
一党独裁体制であり、議会制度も
ソビエト型の
国家大会議を最高機関としてきたが、
1990年の民主化後に
自由選挙による
複数政党制を導入し、
1992年の新憲法公布後はともに
直接選挙で選出される
一院制の国家大会議と
大統領が並立する
二元主義的議院内閣制(
半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。
なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や
首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。
政党(詳細は「
モンゴルの政党一覧」を参照)
軍事(詳細は「モンゴル国の軍事」を参照)
モンゴル国の正式国軍である
モンゴル国軍は、社会主義時代の
モンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では
徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。
総兵力は9,100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年現在)。モンゴル国軍の装備は、おもに人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、
戦闘機や
攻撃ヘリコプターなどはすべて退役している。現在保有するのは
Mi-8Tなど少数のみ。
地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備のあげく全機が退役した。
最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、
アメリカ合衆国などによる
イラク侵攻に際してはいち早く支持を表明したほか、ソ連製装甲兵員輸送車に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。ほかにもモンゴル国軍は、
アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)や
コンゴ民主共和国でのPKO活動にも参加している。
現在、
海軍は存在しないが(かつては存在した。現在は民営化されている)、モンゴル船籍の商船は世界中の海で活躍している。
モンゴル国境警備隊
国境警備隊は国軍とは別組織となっている。モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。
国際関係
モンゴルの外交方針は隣国の中国・ロシアとのバランスを維持しながら、それに過度に依存することなく「第三の隣国」(日本・アメリカ)との関係を発展させることである。2015年に当時の
ツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領によってモンゴルを
永世中立国にするという方針が定められたが、2020年5月には事実上頓挫している。(「
モンゴル国の国際関係」も参照)
対日関係(「
日本とモンゴルの関係」も参照)
以前は
ノモンハン事件による
反日感情も見られたが、
相撲による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持されている。日本より多額の
ODAが供与されており、
日本車の中古車(特に
トヨタ・プリウス)も人気である。
日本との外交関係は、
1972年(昭和47年)
2月24日に樹立された。
2004年(平成16年)11月に
在モンゴル国日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「もっとも親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な
親日感情を有する国となっている。
また
兵庫県の
但東町(現・
豊岡市但東町)との交流が長く、町内には日本でも数少ないモンゴルの博物館「
日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。
2010年(
平成22年)
4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合は
査証が免除されている。
朝青龍、
白鵬、
日馬富士、
鶴竜の直近の横綱4名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した
旭天鵬など多くの
大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている
[11]。相撲以外のスポーツでは
プロボクサーの
ラクバ・シンが日本で
畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。一方で、陸上長距離の
セルオド・バトオチルが日本の実業団に所属し、
防府読売マラソンや
大阪マラソンで優勝も果たしている。また、同じ日本の国技でもある
柔道もモンゴル国内では相撲に並ぶスポーツとなっている。
自衛隊との交流も進展しており、
防衛大学校への留学生派遣や
防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校校長がモンゴル国を公式訪問している。
対中関係(詳細は「
モンゴル国の国際関係#中国」を参照)
対韓関係(詳細は「
モンゴル国と大韓民国の関係」を参照)
地方行政区画(「
アイマク (モンゴル国)」も参照)
日本の
県にあたる
アイマクが21設置されており、県には郡にあたる
ソムが347、さらにその下に村にあたる1681の
バグが属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50 - 100家族ほどで構成されている(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。
地理
東アジアの北西部に位置し、西には
標高4,300メートルの
アルタイ山脈と標高3,500メートルの
ハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500メートルの
高原が広がり、北東には
針葉樹林が広がる。あとの国土は
高山砂漠と
ステップの植生が南の海抜平均1,000メートルの
ゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは
牧草地に使用されている。重要な河川は
バイカル湖にそそぐ
セレンゲ川と、
アムール川を経て
オホーツク海(
太平洋)にそそぐ
ヘルレン川がある。
近年、国土の90%で
砂漠化が進行、6万9,000㎢の牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3,800の河川と3,500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1,000の湖が地図上から完全に姿を消している。
経済
IMFの統計によると、2018年のモンゴルのGDPは約130億ドル。一人あたりのGDPは4,041ドルで、世界平均のおよそ40パーセントの水準である
。2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40パーセント以上を占めている。2014年でおもな輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3パーセントを占め、おもな輸入相手国は中国が41.5パーセント、ロシアが27.4パーセント、韓国が6.5パーセント、日本が6.1パーセントとなっている
おもに
畜産業と
鉱業が中心で、
モリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。現在、モンゴル政府は
金鉱や
銅鉱、
モリブデン、
石炭などの開発を推進しており、
エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源、とりわけ
オユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。
しかしながら、政治的安定性がいまだに構築されておらず、政権が変わるたびに政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。
畜産は、
ヒツジ1,168.6万頭、
ヤギ1,223.8万頭、
ウシ184.2万頭、
ウマ200.5万頭、
ラクダ25.7万頭を
飼育し(2004年統計)、
牧草地の広さは国土の約80パーセントである。
畜産は、そのほとんどが
遊牧で行われている。
農業は、社会主義時代は土を掘ることを忌避する風習が改められ、食糧自給できたものの、市場経済化で穀物生産は落ち込み現在は中国やロシアからの輸入が多い。
内陸国ではあるが、
便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、約400隻を超える船舶が認められている。
内モンゴル自治区
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内モンゴル自治区、(中国語:内蒙古自治区、英語:
Inner Mongolia)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の
自治体。中国領土の北沿に位置する自治区
。内蒙古自治区(うちもうこじちく)とも。
地理
東西に長く伸びており、東から順番に
黒竜江省・
吉林省・
遼寧省・
河北省・
山西省・
陝西省・
寧夏回族自治区・
甘粛省と南に接し、北は
モンゴル国・
ロシア連邦と接している。面積は、
日本の約3倍。
内モンゴルの高原は広く、標高600-1400mである。地形は西が高く東が低く、南が高く北が低い。なだらかな丘と広いモンゴルの平野と盆地が広大な草原を形成している。
歴史
50万年前から20万年前ごろの
原人の化石が見つかっている。紀元前4700年から紀元前2900年にかけては
紅山文化が
燕山山脈の北方に栄え、
紀元前20世紀ごろには
オルドス人が住みつき始め、
春秋戦国時代には
趙・
燕と
匈奴との間で抗争が繰り広げられた。
モンゴル帝国と清朝
1206年に建国した大モンゴル国(後に大
モンゴル帝国)のチンギス・ハーンの弟
ジョチ・カサルの領地となり、のちにはその子孫が支配し、
モンゴル帝国帝位継承戦争でモンゴル帝国が南北に分裂した際は
クビライの本拠地となり、クビライが即位を行った
上都は
元では首都の
大都(
北京)に次ぐ
陪都となった。
1368年に元が
漢民族の
明によって滅び、帰還したモンゴル人は西部の
オイラート・モンゴル(現在の
カザフスタンや
中央アジア)、
ハルハ・モンゴル(現在の
モンゴル国)、内モンゴルに大きく三つに分けられ、互いに権力争いを続ける。そうした中、
1646年、
満州の
女真人が内モンゴルと手を結び、明を倒し、
清の時代が始まる。
1688年、モンゴル西部オイラート・モンゴルが作った
ジュンガル王国の
ガルダン・ハーンが対
ハルハ戦争を行い、成功したが、ハルハ・モンゴルの貴族が逃げ、
1691年に清の支配を認める。ガルダン・ハーンがハルハ戦時中に甥のツェウェーン・ラウダンに王位を奪われ、後ろからの援助が止まる。
1694年、事実上、最後の統一したモンゴルの王ガルダンが現在のモンゴルの中心部(現在の
ウランバートルのあたり)で清、ハルハ・モンゴル、内モンゴル軍の連合軍と死ぬか生きるかの戦いに出たが、圧倒的に強い連合軍に敗れ、大敗する。その後、半世紀にわたり、
1755年、ハルハ・モンゴルと内モンゴルの手を借りた清がジュンガル王国を倒し
1755年モンゴルが独立を失う。
辛亥革命後
1911年、中国では
辛亥革命後
中華民国が成立するとともに、
モンゴルが独立を宣言し、内モンゴルも合併を申し出た。
1913年にモンゴル軍が
内モンゴル解放戦争をはじめ、ほぼ全域から中華民国軍を追放した。しかし、
帝政ロシアの介入で、この解放戦争は失敗に終わる。
1915年6月7日、モンゴルの国境にある
キャフタで露・蒙・華三国の間で
キャフタ協定が結ばれ、中華民国
北京政府は内モンゴルと外モンゴルを自治区とした(ただし外モンゴルは広範な自治権を獲得した)。
1933年、
満州事変に影響された
ユンデン・ワンチュク(雲王)は
デムチュクドンロブ(徳王)とともに内蒙古自治会議を開催し、内蒙古の「高度な自治」を要求する運動を開始し、内蒙古自治政府が設立された。
1937年には
盧溝橋事件で内蒙古方面へ本格的に出兵した
日本軍の援助で
蒙古聯盟自治政府が樹立され、徳王を戴いた
1939年には徳王を戴いた
蒙古聯合自治政府が
張家口で成立した。当時の蒙古聯合自治政府は総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人だった。
1945年8月、
ソ連対日参戦による
ソビエト連邦軍(
赤軍)と
モンゴル人民共和国軍の侵攻に
満州国(一部が内モンゴル東部)と蒙古連合自治政府は崩壊する。ソ連軍とモンゴル軍は内モンゴル東部のみならず、チャハルや
熱河省といった内モンゴル西部にも進駐し、その影響下で統一国家を目指す独立国家として
内モンゴル人民共和国が成立する。ソ連とモンゴルは
中ソ友好同盟条約に基づいて中華民国にモンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げた。
内モンゴル自治区の成立
占領した
ソニド右旗を慰問で訪れたモンゴル人民共和国の指導者
ホルローギーン・チョイバルサンは
中国共産党との連携を現地民に指示
[2]して
ウランフが代表となった内モンゴル人民共和国は
東モンゴル自治政府や
フルンボイル地方自治政府などを取り込み、
1947年に
内モンゴル自治政府となって
国共内戦中は中華民国から事実上独立し、
1949年に中華人民共和国が建国すると中華民国時代の
察哈爾省、
綏遠省、
熱河省、
遼北省、
興安省を廃止して内モンゴル自治区となった。中華人民共和国の自治区としては最も早い成立である。徳王はモンゴル人民共和国に亡命するもソ連が捕えていた満州国皇帝の
愛新覚羅溥儀のように中華人民共和国に引き渡されて内モンゴルで特赦と役職を与えられた。外モンゴルは独立の道を歩んだが、内モンゴルは中国共産党の影響があったとはいえ、同じモンゴル族同士の運動と対立の結果自治区となった。
文化大革命時の抑圧と名誉回復
1966年に始まった
文化大革命の勃発によりウランフは失脚し、
内モンゴル人民革命党粛清事件などの弾圧の上に
モンゴル人は自治権が完全に剥奪されていた。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人ののうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされたとされ、後に犠牲者らは
胡耀邦によって名誉回復された。
1967年フフホトに革命委員会が成立した。
中ソ対立の軍事的緊張下に
1969年には内モンゴル生産建設兵団が設置され、
1970年には行政区画の大幅な変更が行われた。これによって内モンゴル東部は
東北三省に、西部は
寧夏、
甘粛に分割されたが、
1979年に旧に復して
ウランフも中央政界では文革中の
国家主席の廃止から再設置された
国家元首に次ぐ
国家副主席の地位を得るまで復権し、地盤の内モンゴル自治区でもウランフの妹婿の
孔飛、息子の
ブヘ、孫の
ブ・シャオリンが自治区主席を務めるなどウランフの一族は
太子党となって権勢を振った
民族
内モンゴル自治区政府トップの歴代主席などを
モンゴル族が務めているものの、
漢民族が人口の80%以上を占めており、その他モンゴル族・
ダウール族・
エヴェンキ族・
オロチョン族・
回族・
満洲民族・
朝鮮族などが居住している。また、モンゴル族の英雄である
チンギス・ハーンの肖像を踏むといった行為が民族への侮辱や差別の扇動として逮捕・刑罰の対象となる。内モンゴル自治区内のモンゴル族は発表統計から400万人を超えているとみられ、
モンゴル国の270万人(2004年)と比べても自治区内のモンゴル族の人口の方が多い。
経済
農業・
畜産業を主要な産業として、
鉄鋼業・
林業などもある。主要な農作物は
ソバで、日本はソバの8割近くを中国から輸入しているが、生産量の3割超を占める最大の産地は内モンゴルとされる。
ブドウ栽培と
ワイン製造を始めた地域もある。豊富な
石炭と
天然ガスのほか、
希土類(レアアース)の生産量は中国一であり、特に
バヤン鉱区は世界最大の希土類元素鉱床がある。
石炭は年間5億トンの産出を目指す。独立国モンゴルよりも内モンゴル自治区は経済発展を遂げている。 2009年のGDPは1420億ドルで、前年より17%伸びた。2000年代は13.2%、17.9%、20.5%、23.8%、19%、19.1%、17.2%と全国31の省・直轄市・自治区の中でも最高のGDP成長率を記録しており、他の中国都市と同じように商業施設やマンションの建設ブームとなっていた。
中でも
オルドス市は不動産
バブルが崩壊して
鬼城化するまで2010年には中国全体では
マカオや
香港と並ぶ中国本土で最も一人当たり域内総生産(GDP)が高い都市となり、2015年には内モンゴル自治区の一人当たりGDPも
上海、
北京、
天津に次ぐ全国4位となった。最西部に中国のミサイル開発や宇宙開発で活躍している
酒泉衛星発射中心があり、内モンゴルの
四子王旗は宇宙船の帰還場所でもある。
また、
軍需産業も少なくなく、中国戦車の基礎を築いた
59式戦車など中国軍の兵器を製造してきた旧第617廠(現・
内蒙古第一機械集団)があるも砂埃の激しい地域のためにエンジン類は他で作られている。風も強い地域のために
風力発電容量は中国で最も多く、規模は
三峡ダムを超えるとされる