メキシコ合衆国問題


2024.09.30-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240930-DGS2FHYNVBOPTECJZ3HK44TNTU/
500年前の征服巡り歴史認識で対立 メキシコ新大統領就任式をスペインが欠席

  スペインが現在のメキシコを征服した歴史認識を巡る対立が両国間で起きている。謝罪要求に応じていないとしてメキシコは新大統領就任式にスペインのサンチェス首相だけを招待し、国王フェリペ6世を排除。スペインが反発し、政府当局者が10月1日の就任式を欠席する事態に発展した。

  メキシコでは14世紀以降、現在のメキシコ市を中心にアステカ王国が栄えた。1521年にエルナン・コルテス率いるスペイン軍により征服され、以後約300年にわたって植民地化された
  メキシコのロペスオブラドール大統領は2019年にフェリペ6世に送った書簡で、スペインが「数え切れない罪」を犯して征服し、その後も先住民の土地を略奪するなどしたと指摘。先住民らに苦痛を与えたとの認識を公式に表明するよう求めた。スペインメディアによると同国側は、約500年前に端を発する出来事に関する要求に疑義を呈し、応じていない。(共同)


2024.06.03-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240603-PZ5AFCHRF5NGXLNGVKGLZUDMIM/
メキシコ大統領に初の女性 左派現職後継のシェインバウム氏が勝利、「米と友好関係築く」

  【ニューヨーク=平田雄介】メキシコ大統領選2日実施され、左派ロペスオブラドール大統領の後継で与党・国家再生運動(MORENA)が擁立したクラウディア・シェインバウム前メキシコ市長(61)勝利した。メキシコ初の女性大統領が誕生する。・・・選挙管理当局の即時集計によると、シェインバウム氏の得票率は58%以上で、中道右派の国民行動党(PAN)など野党3党統一候補のソチル・ガルベス氏(61)の28%を上回るのが確実となった。

  シェインバウム氏は3日未明に演説し、「メキシコ史上初めての女性大統領になる」勝利を宣言した。任期は10月1日から6年間。ガルベス氏は「敗北」を認めた。
  シェインバウム氏は環境工学の研究者出身。ロペスオブラドール氏がメキシコ市長だったときに市の環境部門トップに登用され、政治の世界に転じた。メキシコ市の区長や市長を務めた。
  大統領選では、年金の拡充や最低賃金の引き上げで政権支持率が5割を超えるロペスオブラドール氏の「格差解消」政策の継承を訴え、世論調査での支持率は独走していた。
  就任後は、ロペスオブラドール政権下で拡大した財政赤字の削減、組織犯罪の横行で悪化した治安の回復が課題となる。・・・治安対策は、大統領選と同日実施された地方選などの選挙に絡んで候補者30人超が殺され、選挙戦の一大争点となった。・・・外交面では、国境を接する米国との間に不法移民や麻薬組織の取り締まりなどの問題を抱える。
  対米外交について、シェインバウム氏は3日未明の演説で「友好関係」を築いていくと語った。


2024.03.16-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240316-MOURIGD3OFJSVBCGSYPTIJXTBE/
メキシコで女性襲う「酸攻撃」が後絶たず 恋愛もつれ、逆恨み…根強い男尊女卑

  メキシコで、恋愛感情のもつれや逆恨みから女性が強い酸性の液剤(強酸液)を浴びせられる事件が後を絶たない。「これは私じゃない」標的とされた女性は顔や体がただれたことによる絶望を乗り越え、被害者支援や犯罪処罰を厳格化する法改正の実現へ奔走初の女性大統領誕生が見込まれる大統領選を6月に控え、暴力の背景にある根強い男尊女卑文化の変革を願う

  「あと何回手術を受けなければいけないのか」。2014年に元交際相手の男から酸を浴びせられ、顔や体の部位の再建へ65回の手術を受けたカルメン・サンチェスさん(40)=メキシコ市=が髪をかき上げた。右耳がない。右のまぶたは完全には閉じず、鼻は片方の穴でしか呼吸できない。
  男と同居していた当時は日常的に暴力を受け、刃物で腹部を刺されたことも。別れて母親宅に逃げ込んだが男は追いかけてきた。「やり直せないか」断ると酸をかけられ、8カ月間入院した
(共同)



2019.12.02-産経新聞(KYODO)-SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/191202/wor1912020007-n1.html
武装集団と治安当局衝突 21人死亡 メキシコ国境

  メキシコ北部コアウイラ州で1日までに、麻薬組織の武装集団と地元治安当局との衝突があり、双方で少なくとも21人が死亡した。当局が発表した。現場は米南部テキサス州との国境近く。同日で発足1年を迎えた左派ロペスオブラドール政権は、治安問題への対応の遅れで批判を受けており、さらに風当たりが強まりそうだ。
 トランプ米政権もメキシコの麻薬組織をテロ組織に指定する方針を表明し、移民問題に次ぐ両国関係の新たな火種に。ロペスオブラドール政権は米軍の越境による取り締まりなどを警戒し「内政干渉」と猛反発しているが、米国の圧力がさらに強まる可能性もある。
 ロペスオブラドール大統領は1日、メキシコ市中心部で行われた就任1年の記念式典で「メキシコは自由で主権ある国家だ。外国から、いかなる内政干渉も受け付けない」と主張し、テロ組織指定を認めない姿勢を改めて示した。バー米司法長官が近く協議のためメキシコ入りする予定。
 衝突の詳細は不明。(共同)


メキシコ合衆国-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  メキシコ合衆国通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾カリブ海に面する。首都メキシコシティ
  メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジル次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。

国名
  正式名称は、Estados Unidos MexicanosEs-mx-Estados Unidos Mexicanos.ogg 発音、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、México[ˈme̞.xi.ko̞] ( メヒコ)。
  公式の英語表記は、United Mexican States(ユナイテッド・メクスィカン・ステイツ)、略称は、Mexico[ˈmɛksɨˌkoʊ] 、メクスィコゥ)。
  日本語訳はメキシコ合衆国で、通称はメキシコである。当て字は日本語・中国語ともに墨西哥で、と略される。「合衆国」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。
  国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メヒクトリの地」を意味する「Mēxihco」に由来する。メヒクトリはアステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。
  「合衆国」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「メキシコ共和国」に変更しようという動きがある。その一方で、伝統と歴史的背景を尊重する意見も多く、国名を変更することに対する賛否は分かれている。この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない。
歴史(詳細は「メキシコの歴史」を参照)
 先コロンブス期
   この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。
  先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原テスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。
 アステカ帝国(詳細は「アステカ」を参照)
   14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココトラコパンとともにアステカ三国同盟英語版を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
 スペイン植民地時代(詳細は「ヌエバ・エスパーニャ」を参照)(「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照)
   1492年クリストファー・コロンブスアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
 メキシコ独立革命(詳細は「メキシコ独立革命」を参照)
   スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争フランス革命ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。
  1808年ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キトラパスサンティアゴカラカスボゴタブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、1810年9月15日ミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。
  ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。
  スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。
 相次ぐ対外戦争(詳細は「テキサス独立戦争」および「米墨戦争」を参照)(「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照)
   独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。
   また、コアウイラ・イ・テハス州アメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハステキサス共和国として独立した。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。
   領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国ナポレオン3世メキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。
   インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。
 ディアスの独裁とメキシコ革命(詳細は「メキシコ革命」を参照)(「米西戦争」および「米比戦争」も参照)
   この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolución de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。(詳細は「棍棒外交」および「en:Border War (1910–19)」を参照)(「アメリカ合衆国のベラクルス占領スペイン語版英語版」および「パンチョ・ビリャ遠征英語版」も参照)
   1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャエミリアーノ・サパタベヌスティアーノ・カランサアルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年革命憲法が発布されたことで、革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。(詳細は「ツィンメルマン電報」、「第一次世界大戦」、「en:Battle of Ambos Nogales」、および「バナナ戦争」を参照)
 PRIの一党独裁
   1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ[7]1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成し。
   1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。
   1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレスは、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた。
   また、20世紀の前半から中盤にかけては石油の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。
 メキシコ麻薬戦争
   1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化してしまう。カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。
   冷戦が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、2000年に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。
   カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。
 中流層の増加
   一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。
   2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザH1N1)の発祥地とされている。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。
 PRI政権(詳細は「メキシコ総選挙 (2012年)」、「ジョ・ソイ・132」、および「エンリケ・ペーニャ・ニエト」を参照)
   2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。
   2013年MIKTAに加盟している。
政治(詳細は「メキシコの政治英語版」および「メキシコ政府」を参照)
  政体は連邦共和制である。・・・2018年メキシコ総選挙では、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが大統領に当選した。
大統領
  国家元首大統領である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。
  大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「混合政治体制」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。
  大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる。(「メキシコの大統領」も参照)
立法
  連邦議会両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。
行政(詳細は「メキシコの行政機関」を参照)
  現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。
法律(「メキシコの法律」も参照)
  世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。
  2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。
政党(詳細は「メキシコの政党」を参照)
  主要政党には、中道右派国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派民主革命党サパティスタ民族解放戦線や、労働党メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。
司法(詳細は「メキシコの司法」を参照)
  司法権は最高裁判所に属している。
国際関係(詳細は「Category:メキシコの国際関係」および「メキシコの国際関係」を参照)
 多元外交
   19世紀において、隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦キューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年キューバ革命以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、汎米主義に基づいて国交を継続していた。
 スペインとの関係(詳細は「メキシコとスペインの関係」を参照)
   スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。
 アメリカ合衆国との関係(詳細は「メキシコとアメリカの関係」を参照)
   2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。
   しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「国境の壁建設問題」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった。
   バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された民主主義サミットにおいてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された米州首脳会議では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「米州機構加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである。
 エクアドルとの関係
   グラス元副大統領との関係がこじれたため、2024年4月6日で国交を断絶した。
 日本との関係(詳細は「日墨関係」を参照)
   江戸時代の初めの1609年慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。
   1613年(慶長18年)に仙台藩伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会フレスコ画などに当時を偲ぶことができる。
   また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり[注釈 1]、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。
   19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。
 現在
   メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社(日産第二工場、ホンダマツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。なかでもアグアスカリエンテスは、1982年から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。アメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。日系企業進出の遠因は、賃金も安く未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にない親日国であることなどである。犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では軍隊や警察組織を駆使して独自の治安維持をしているところもあるので、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須である。
   2021年10月現在、メキシコへ進出している日系企業は1,272社となっている。これは前年(2020年)の1,300社から減少しているものの、中南米地域では最多の進出数となっている[15]。また同年の在留邦人は11,390人であり、中南米地域ではブラジルに次いで2番目であり、国別邦人数においても21位につけている。日本からの輸出額は138億9700万米ドル、メキシコからの輸出額は36億52万米ドルであり、メキシコからアジア地域の貿易相手国としては中国、韓国に次ぐ規模となっている。日本からの主要な輸出品として輸送機械(鉄道以外)や電気・電子機器などが挙げられる。要因としてメキシコの地理的要因(例として米国・メキシコ・カナダ協定が挙げられる)、人件費の安さ、メキシコ国内におけるサプライヤーの不足がある。メキシコ国外から輸入した部品をメキシコの現地工場で製品を組み立て、国内及び北米向けに販売を行うことで、低コストで生産できる利点から進出する日系企業が多い。
 日産自動車の関係
   特に、日本企業(現在はフランスルノー傘下)としては最初期の1966年7月に現地工場での自動車生産を開始した日産自動車は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。日産AD(現地名ツバメ)を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である[19]。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置するアグアスカリエンテスや、メキシコシティ郊外のクエルナバカに工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよびカナダ向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣のチリアルゼンチン、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「ティーダ(北米ではヴァーサ)」「ツル」「セントラ」「NP300フロンティア」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「マキシマ」「アルティマ」「370Z(フェアレディZ)」「エクストレイル」「パスファインダー」「アーバン(キャラバン)」「キャブスター(アトラス)」と新たに「リーフ」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「サクラ(シルビア)」「サムライ(バイオレット)」「280C(後のセドリック)」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。
 フィエスタ・メヒカナ
   独立記念日の前日の9月15日に、大阪市のメキシコ総領事館の主催で、フィエスタ・メヒカナという祭を領事館の入居している梅田スカイビルのワンダースクエアで開催する。メキシコ政府が国外で行う文化交流としての祭事としての規模は最大のものである。
 MIKTA
   MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシアIndonesia)、大韓民国(Korea, Republic of)、トルコTurkey)、オーストラリアAustralia)の5か国によるパートナーシップである。
国家安全保障(詳細は「メキシコ軍」を参照)
  成人男子には1年間の選抜徴兵制が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル(メキシコ麻薬戦争)、次いでサパティスタ民族解放軍である。
地理(詳細は「メキシコの地理」を参照)
  北米大陸の南部に位置し、約197万平方キロの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。
  地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、クラトンが存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古いアパラチア山脈に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、第三紀以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、ポポカテペトル山(5,465メートル、もしくは5,452メートル)、イスタシュワトル山(5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。
  最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川(リオ・グランデ川)であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖はチャパラ湖(1,680平方キロ)である。(「メキシコの河川の一覧」も参照)
気候(詳細は「メキシコの気候」を参照)
  カリフォルニア半島の大部分とメキシコ高原中央は、ケッペンの気候区分でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域はステップ気候BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンリュウゼツランなどしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類されるサバナ気候(Aw)が伸びる。ユカタン半島南部にのみ、弱い乾期の存在する熱帯雨林気候(Am)が見られる。熱帯雨林気候(Af)はテワンテペク地峡北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である温暖湿潤気候(Cfa)が、山岳部は温帯気候である温帯夏雨気候(Cw)と高山気候(H)が卓越する。首都メキシコシティの平均気温は、13.7℃(1月)、16.5℃(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。
  平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんある。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、西部・太平洋沿岸ではプエルト・バヤルタアカプルコなど、太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島にあるロス・カボスラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの雇用をもたらしている。
地下資源
  地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウムなどの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。
経済(詳細は「メキシコの経済」を参照)
  2013年の時点のGDPは1兆2,609億ドルであり、世界15位である。韓国とほぼ同じ経済規模であり、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位である。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る。メルコスール南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構(OECD)、アジア太平洋経済協力(APEC)、北米自由貿易協定(NAFTA)の加盟国でもある。
  カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、第二次世界大戦ごろより国営石油会社のペメックスを中心とした石油が大きな外貨獲得源になっている。鉱物ではオパールの産地としても中世から世界的に有名である。電線に使えるグルポ・メヒコが採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩やビールなどが大きな外貨獲得源になっている。また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。
  特に1994年1月1日北米自由貿易協定(NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカやカナダ向けの自動車や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、2004年9月17日には日本との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。
  2008年1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていたトウモロコシなど農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年1月30日にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。
二度の通貨危機
 1982年メキシコ債務危機
  
1970年代、石油価格高騰を受け、石油投資ブームが発生した。また、賃金がアメリカよりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。国際金融市場を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど1995年前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から東南アジアへ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは固定相場であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による債務保証がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの対外債務は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、1980年代になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。1982年8月、利払いの一時停止(モラトリアム)を宣言する羽目になり、国民は急激なインフレーション失業の増大によって苦しんだ。
   当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカのメガバンクに与える影響が大きいため、IMFアメリカ合衆国財務省、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「大きすぎて潰せない」有名な事件となった。ネルソン・バンカー・ハントを破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の民営化はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。
   危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、カルロス・スリムのようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。
 1994年メキシコ通貨危機
   1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。
   しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。
   その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。
税制
  企業への法人税は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、ミニマムタックス制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている。企業は税金を回避するために「新しい税制憲法により保障された権利を侵している」として訴訟を起こすのが毎年恒例となっている。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある。ただし、訴訟期間中は税金を払うことが望ましい。
  国民の7割が肥満となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している
NEXT11
  メキシコは米投資銀行のゴールドマン・サックスおよびエコノミストのジム・オニールが研究論文において、BRICs諸国に次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在能力があるとしたNEXT11に含まれている。メキシコは1994年の通貨危機以降、アメリカの景気拡大や国際石油価格の高騰、新興国への資金流入の活発化に支えられ、2022年現在、順調な回復軌道を辿っている。特に製造業が好調であるが、最大の輸出相手であるアメリカの経済に左右されやすい特徴を持っている。
社会

 貧困問題(詳細は「メキシコにおける貧困」を参照)
   国の所得格差を表すジニ指数によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(参照:国の所得格差順リスト)。また、カルロス・スリムという世界一の億万長者を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている。
   教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)については、自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、奨学金制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である。
 治安
   メキシコの治安は非常に危険な状況に陥っている。特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まるメキシコシティや、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗窃盗誘拐レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。
   カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。(「メキシコ麻薬戦争」も参照)
   また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている。(「メキシコにおける犯罪」も参照)
   治安・市民保護省などの統計に基づく国立統計地理情報院の2023年5月24日付発表によれば、ロペス・オブラドール大統領政権下(2018年12月~2023年5月24日)の累計故意殺人件数は、過去最高値を記録したペニャ・ニエト政権の殺人件数を上回り、156,136件に上った。
 治安維持(詳細は「メキシコの法執行機関」を参照)
   ・・・
文化
 食文化(詳細は「メキシコ料理」および「メキシコのビール」を参照)
   一般的に辛いことで知られているメキシコ料理は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされたタコスブリートファストフードとして広く普及しているが、それらはテックス・メックス(Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食はマサと呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、トルティーヤと呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆やトウモロコシ、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにもや魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。
   伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、モーレがある。
   海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。
   近年はカップラーメンが広く普及しており、中でも東洋水産の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。
   蒸留酒であるテキーラの一大産地として有名であるが、それはハリスコ州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、ビールの特産地としても知られており、コロナビールやXX(ドス・エキス)などの著名なブランドが世界中に輸出されている。
スポーツ(詳細は「メキシコのスポーツ」を参照)
  メキシコで開催された著名な国際大会としては、夏季オリンピックの1968年メキシコシティオリンピックや、FIFAワールドカップ(サッカー)の1970年大会と1986年大会が行われている。なお、2026年にはアメリカやカナダとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となっている。またメキシコでは伝統的に闘牛が盛んに行われており、大都市には必ず闘牛場がある。
 サッカー(詳細は「メキシコのサッカー」を参照)
   メキシコ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1943年にプロサッカーリーグのリーガMXが創設された。北中米カリブ海地域では最もレベルの高いリーグであり、歴代のCONCACAFチャンピオンズリーグではメキシコのクラブが優勝を独占している。
   メキシコサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーメキシコ代表は、これまでFIFAワールドカップには17度出場を果たしており、北中米カリブ屈指の強豪国として知られている。CONCACAFゴールドカップでは大会最多11度の優勝を達成しており、FIFAコンフェデレーションズカップでは1999年大会で優勝するなどメキシコはサッカー大国としても名高い。著名な選手としては、元バルセロナラファエル・マルケスや、元マンチェスター・ユナイテッドハビエル・エルナンデス(チチャリート)などが存在する。
 野球(詳細は「メキシコの野球」を参照)
   野球もアメリカ合衆国の強い影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ、メキシコにおける野球は国境に近い北部でも盛んである。しかし主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。またMLB選手を多く輩出しており、2019年までに129人のメキシコ人選手がプレーしている。国内には夏季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル、LMB)と、冬季リーグリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ、LMP)の2つのプロリーグが存在する。LMB1925年にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。MLBから3A相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれていたが、2021年のマイナーリーグ再編に伴いMLB機構から切り離され、現在では独立したプロ野球組織となっている。ウィンターリーグであるLMPは8チームからなり、優勝チームはLMP代表としてカリビアンシリーズに出場する。
 ルチャリブレ(詳細は「ルチャリブレ」を参照)
   ルチャリブレはメキシコを代表するスポーツのひとつ(厳密にはショー)で、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・プロレスであり、メキシコの象徴でもある。古くは「エル・サント、ウラカンラミレス、エル・ソリタリオ、ミル・マスカラスドス・カラス兄弟、エル・カネック、チャボ・ゲレロ・ジュニア、ドクトルワグナーJr、レイ・ミステリオJr、アルベルト・デル・リオ、ミスティコ」まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。CBLLおよびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。
   日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず初代タイガーマスク獣神サンダーライガーザ・グレート・サスケタイガーマスクウルティモ・ドラゴンエル・サムライスペル・デルフィングラン浜田百田光雄CIMATARU後藤洋央紀オカダ・カズチカなど日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために、留学や遠征をするケースも多数見られる。なお、日本の全日本プロレスやアメリカのWWEなどの団体にも多くの選手を送り込んでいる。
   メキシコシティ市内にある競技場、アレナ・メヒコとアレナ・コリセオは『ルチャリブレの2大聖地』と言われ、二大のルチャ団体『CMLL・トリプレ・ア』の看板スターや、フリーランスのドス・カラス・ジュニアエル・イホ・デル・サントが繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやって来る。
 ボクシング
   ボクシングもまた、メキシコで人気スポーツのひとつでもある。世界最大の団体であるWBCの本部が置かれており、3階級制覇を達成したフリオ・セサール・チャベスを筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟やイスラエル・バスケス、日本でもなじみの深いルーベン・オリバレスリカルド・ロペスら世界王者も数多く輩出している。なお、チャベスがエスタディオ・アステカに、グレグ・ホーゲンを迎えたWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチは、世界最多の有料入場者となる13万人を記録した。
   コミッションは「CBLL」であり、タイ同様にプロボクサーライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。2000年代後半に、本部があるWBCが創設した同国内王座「FECOMBOX」と並存している。
   さらに女子プロボクシングもあり、2階級制覇を達成したジャッキー・ナバを筆頭に、多くの女子世界王者も輩出している。アマチュアボクシングも盛んで、2007年グアンテス・デ・オロには亀田和毅が出場している。オリンピックでは2021年東京大会まで13個のメダルを獲得し、競技別では飛込競技に次いで2番目に多い数字でもあるが、金メダルは自国開催の1968年メキシコシティー大会で獲得した2個のみで、女子に至ってはメダル未獲得のままである。
その他の競技(「オリンピックのメキシコ選手団」も参照)
   ブラジルアルゼンチンなど他の中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツもメキシコでは人気スポーツのひとつである。1950年代に行われた国内を縦断する公道レースのカレラ・パナメリカーナ・メヒコや、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レースのバハ1000は世界的に有名で、F1メキシコグランプリメキシコシティ国際空港の近くにあるエルマノス・ロドリゲス・サーキットにて開催されている。さらに2004年からはWRCがメキシコ北部を舞台に毎年開催され、人気を博している。







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