一般社団邦人「北朝鮮者の記憶をする会」


2023.10.28-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20231028-NAFF2WOBWRLRJLVCFOHELVMVOU/
北朝鮮帰還事業、30日に控訴審判決 裁判所の管轄権など争点

  戦後、在日韓国・朝鮮人やその日本人妻らの北朝鮮への移住を促進した「帰還事業」で過酷な生活を強いられたとして、脱北者ら4人が同国に各1億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が30日、東京高裁で言い渡される1審は民法の「除斥期間」や日本の裁判所の管轄権などを理由に訴えを退けており、高裁の判断が注目される。

  昭和34~59年、北朝鮮政府主導で行われた帰還事業では、「地上の楽園」などの宣伝で勧誘された日本国籍者約7千人を含む9万3千人以上が北朝鮮へ渡ったとされる。脱北者側は訴訟で、日本国内での虚偽宣伝による勧誘行為と北朝鮮からの出国を禁じた留置行為は「連続する一連の行為」として行われており、日本の裁判所に管轄権があると主張する。
  昨年3月の1審東京地裁判決は、勧誘行為について、「北朝鮮が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を通じ、事実と異なる宣伝で勧誘した」と認定。日本の裁判所の管轄権内であるとしつつ、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で消滅する除斥期間を理由に、請求を棄却した
  一方、留置行為については、勧誘行為と継続して行われたものだと「認めるのは困難」と指摘。日本の裁判所の管轄権外として訴えを却下した。
  脱北者側は控訴審で、勧誘から渡航、留置までが時間・空間的にも連続した一体の「国家誘拐行為」だと改めて主張。特に日本人妻については、「3年で日本に帰れる」などと期間を示して勧誘し、出国を禁じており「より強い一体性が認められる」と訴えている。
  1審、2審を通じ裁判所は、北朝鮮政府に対する呼び出し状を一定期間掲示して法律上、届いたとみなす「公示送達」の手続きを取っている北朝鮮側は一切出廷していない


2023.10.28-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20231028-KOKJ3O7S45MUXKUTZL6JJUFMBU/
赤子の腹に銅線…「待っていたのは地獄」 北朝鮮へ渡航した日本人妻「3年で帰れる」信じ
(緒方優子)

  戦後、在日韓国・朝鮮人や日本人妻らを対象とした北朝鮮「帰還事業」で過酷な生活を強いられたとして脱北者ら4人が同国に損害賠償を求めた訴訟控訴審判決が30日に東京高裁で言い渡される「3年で帰れるといわれて船に乗ったが、食べるものもなく、生きるために何でもする地獄を見た」。原告の一人で日本人妻の斎藤博子さん(82)は、20歳で帰還事業に参加して韓国出身の夫と北朝鮮へ渡り、約40年を同国で過ごした。取材に対し、同国での生活の実態を語った。

だまされた
  「なんの心配もなく暮らせる」「病院にいってもタダ」-。昭和36年1月ごろ、朝鮮総連の関係者が何度も自宅を訪れ、渡航を強く勧められた。迷いもあったが「3年したらまた戻ることができる」という言葉を信じ、北朝鮮行きを決断した。
  同年6月、新潟港から船に乗った。異変に気付いたのは北朝鮮の港に近づき、デッキから対岸を望んだときだった。港に集まった現地の人々はみなひどく痩せ、顔は黒く汚れていた。船から降りると、体育館のような施設に閉じ込められた。「『日本へ帰して!』と叫び出す人もいたが、もう遅かった。だまされたと確信した」
  待っていたのは、トイレも風呂もないアパート。食料の配給はわずかで、夫は結核で死亡。出国は許されず、6人の子供らと「生きるため」盗んだ銅線を売って暮らした。ある日、銅線を運ぶために汽車に乗っていたときのこと。乳児を背負った乗客の若い女性が、警察に呼び止められた。女性が背中から乳児をおろすと、その子は亡くなっており、腹の中には銅線が隠されていた。
「本当の地獄を見た」
 子供5人と別れ
   平成13年に脱北し、日本へ。その後、娘1人と孫2人も脱北に成功したが、残る子供たちは病気や飢えで亡くなるか、消息不明となっている。
   控訴人の1人として、法廷でも惨状を訴えた斎藤さん。「子供たちに謝りたくても、もう謝ることもできない。北朝鮮という国の実態を知り、拉致被害者も含め、今も残る日本人を一日でも早く故郷へ帰れるようにしてもらいたい」と話している。(緒方優子)




呼びかけ人:金時鐘(詩人) 、文京洙(立命館大教員)、辛淑玉(のりこえネット共同代表)、ヤン ヨンヒ(映画監督)、 石丸次郎(ジャーナリスト)、 郭辰雄(コリアNGOセンター代表理事)、 林範夫(弁護士) 、宋毅(医療福祉従事者)、文世一(京都大教員)
賛同人:朴正鎮(津田塾大教員)、 金敬黙(早稲田大教員) パク ジョンナム(翻訳家)、田月仙(オペラ歌手)、 合田創(自由ジャーナリストクラブ理事) 、洪敬義(社会福祉法人勤務) 、金明秀(関西学院大教員) 、魁生由美子(愛媛大教員)、加藤博(北朝鮮難民救援基金)、山田文明(帰国者家族の生命と人権を守る会)、三浦小太郎(評論家)姜誠(フリージャーナリスト)、前田達朗(大学教員)


1959年12月14日、新潟港から朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)への帰国第一船(975人)が出港しました。1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業では、日本国籍者6,730人を含む93,340人の同胞家族が、北朝鮮に渡りました。当時の「在日」人口の実に6.5人に1人にあたります。この93,340人は、いったいどのような“生”を送ったのか? それは在日朝鮮人史の中にしっかりと刻まれるべき重大な事柄ですが、詳細な記録はなく、今もその

“生き様”を記録するために
2019年12月14日で、帰国第一船が新潟港を出港して60年になります。帰国者の多くは今や高齢で、すでに亡くなられた方もいます。帰国者の「生き様」を調べ、記録するための時間は残されていません。現在、脱北して日本に戻った帰国者は200人あまり。関東に約150人、大阪に約50人が住んでいます。韓国には約400人の帰国者が入国していると思われます。この中には北朝鮮で生まれた方、また、脱北後に日本や韓国で生まれた方もいます。

非営利、非政治、協働での調査、学術研究

  一般社団法人「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会では、在日韓国・朝鮮人と日本人が協働・共同して、「在日」と日本人の家族が北朝鮮で生きた記憶を残す作業を始めました。2018年7月8日には、二人の脱北帰国者をお迎えし、証言を聞く集会を開催しました。今後、2020年末を目標に聞き取り調査と取材を重ね、記録集「在日帰国者は北朝鮮でどう生きたか?(仮題)」の刊行をめざしています。


一般社団法人 北朝鮮帰国者の記憶を記録する会 http://www.kikokusya.org/
お問合せ 電話/FAX 06-6373-2444 1959@kikokusya.org

帰国事業開始から60年 : 北朝鮮帰国事業とは何だったのか? 帰国者と在日家族の証言で考える

キム・ジュソンさん(関西から1970年代に帰国、「飛べない蛙」著者、韓国在住)
榊原洋子さん(1960年代初めに帰国、関西在住)
チョン・ムンジャさん(1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国。「帰らなかった在日家族」の立場から発言)司会進行 合田創/石丸次郎

  12月で、在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業が始まって60年を迎えます。「在日」人口の6.5 人に1人にあたる計93,000人余り(日本国籍者約7,000人を含む)が北朝鮮に渡りましたが、彼・彼女たちは、その後どのような人生を送ったのでしょうか? 帰国した時期、地域、経済事情、日本との繋がりによって、帰国者の暮しも思い、苦楽も様々だったはずです。60年代、70年代に帰国し、その後北朝鮮を離れたお二人と、多くの親族が北朝鮮に帰国した在日2世をお招きし、北朝鮮帰国事業とは何だったのかを考えます。

帰国事業開始から60年 : 北朝鮮で在日どのように生きたのか その「生」を当事者に聞く

・リ・チャンソンさん  1941年岡山出身 1962年に単身帰国 韓国在住
・キム・ルンシルさん  1948年福岡出身 1960年に母と姉妹と帰国 韓国在住
・石川学さん    1958年東京出身 1972年に朝鮮中学在学時に帰国 東京在住
・チョン・ムンジャさん 1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国。
●パネリスト/聞き手
・朴正鎮 (津田塾大学)
・石丸次郎 (ジャーナリスト/アジアプレス)

  今年12月、在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への帰国事業が始まって60年を迎える。帰国事業は冷戦下の東アジアにおける南北朝鮮と東西陣営の体制間競争と、日本社会の「在日」に対する差別と貧困、「在日の厄介払い」に利用したい日本政府の意向などが絡み合って始まった。
  「帰国前夜」については調査研究が進んだ一方で、当時者である9万3000人超の帰国者たちが「北朝鮮」でどのような生を送ったかについては、いまだに情報は断片的で詳細は不明のままである。在日史に残る空白のページを埋めるためには、脱北した帰国者たちの体験を体系的に収集・整理する作業が不可欠だ。
  現在、日本に戻った帰国者は約200名。韓国にも300人以上が住む。北朝鮮における「在日」の人生といっても、帰国した時期、地域、経済事情、日本の親戚との繋がりの濃淡などによって、暮しも思いも苦楽も様々だったに違いない。
  南北朝鮮を取り巻く国際関係、北朝鮮社会の政治経済的変化が、帰国者の生き様にどのような影響をもたらしたのか。60年代、70年代に北朝鮮に渡り、その後脱北した3人と、多くの親族が帰国した在日2世を招いて証言を聞きます。

帰国事業開始から60年 : 北朝鮮で在日どのように生きたのか その「生」を当事者に聞く

・リ・チャンソンさん  1941年岡山出身 1962年に単身帰国 韓国在住
・キム・ルンシルさん  1948年福岡出身 1960年に母と姉妹と帰国 韓国在住
・石川学さん    1958年東京出身 1972年に朝鮮中学在学時に帰国 東京在住
・チョン・ムンジャさん 1940年鳥取県出身。両親と兄弟姉妹ら一族10数人が帰国。
●パネリスト/聞き手
・朴正鎮 (津田塾大学)
・石丸次郎 (ジャーナリスト/アジアプレス)

  今年12月、在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への帰国事業が始まって60年を迎える。帰国事業は冷戦下の東アジアにおける南北朝鮮と東西陣営の体制間競争と、日本社会の「在日」に対する差別と貧困、「在日の厄介払い」に利用したい日本政府の意向などが絡み合って始まった。
  「帰国前夜」については調査研究が進んだ一方で、当時者である9万3000人超の帰国者たちが「北朝鮮」でどのような生を送ったかについては、いまだに情報は断片的で詳細は不明のままである。在日史に残る空白のページを埋めるためには、脱北した帰国者たちの体験を体系的に収集・整理する作業が不可欠だ。現在、日本に戻った帰国者は約200名。韓国にも300人以上が住む。
  北朝鮮における「在日」の人生といっても、帰国した時期、地域、経済事情、日本の親戚との繋がりの濃淡などによって、暮しも思いも苦楽も様々だったに違いない。南北朝鮮を取り巻く国際関係、北朝鮮社会の政治経済的変化が、帰国者の生き様にどのような影響をもたらしたのか。60年代、70年代に北朝鮮に渡り、その後脱北した3人と、多くの親族が帰国した在日2世を招いて証言を聞きます。

設立にあたって
1959年から25年間にわたって行われた在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業では、93,000人余り(日本国籍者約7,000人を含 む)が、北朝鮮に渡りました。当時の「在日」人口の実に6.5 人に1人にあたります。
  この93,000人は、いったいどのような 生を送ったのか? それは在日朝鮮人史の中に刻まれるべきですが、詳細な記録はなく、今もそのページは空白のままです。帰国事業は、差別と貧困にあえぐ在日朝鮮人を祖国に帰す人道事業、「慶事」として、在日朝鮮人と日本人が共同して推し進めました。いわば、日本社会全体で93,000人の背中を押して北朝鮮に送り出したと言えます。
  帰国事業開始から60年が経とうとしている今、在日韓国・朝鮮人と日本人が協働・共同して「在日」が北朝鮮で生きた記憶を残す作業を始めることにしました。








このTopに戻る





monomousu   もの申す
最近のニュース
TOPにもどる