フインランド共和国-1
2024.05.31-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240531-Q6ZR7GJHRROHJDJX6YH576SVR4/
ロシア領攻撃「国際法に従っていれば問題ない」 フィンランド大統領
フィンランドのストゥブ大統領は30日、首都ヘルシンキで共同通信などの取材に応じ、
ウクライナが欧米から供与された兵器でロシア領内を攻撃することは「国際法に従っていれば問題ない」と語った。
ウクライナへの兵器の供与国が相次いでロシア領への攻撃に前向きな発言をしている。
ストゥブ氏は供与した兵器は
「ウクライナが自分たちを守るためにある。(用途を)制限する考えは支持できない」と話した。ロシアと国境を接するフィンランドは、ウクライナに侵攻したロシアに強硬な姿勢を取っている。
侵攻について
「あらゆる国際法に反する。女性や子どもを殺害し、病院や学校を攻撃している」と非難。
「ウクライナが勝利するように支援するのは私たちの責務だ」と強調した。
フィンランドはウクライナ侵攻を背景に、2023年4月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。
(共同)
2023.10.20-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20231020/k00/00m/030/004000c
フィンランド「付近に中国とロシアの船」 バルト海パイプライン損傷
【ロンドン篠田航一】
フィンランドとエストニア間のガス輸送に使われる海底パイプラインが損傷した問題で、フィンランド捜査当局は17日、
損傷が見つかった8日にバルト海の現場付近を航行していた中国船とロシア船を含む複数の船舶を捜査していると発表した。ロイター通信などが伝えた。
損傷との関係は現段階では不明だ。
損傷したパイプラインは全長77キロの「バルティックコネクター」。8日にガス漏れが確認され、稼働を停止した。その後、フィンランドのオルポ首相は
「通常の使用や圧力の変動で引き起こされたものではない」と述べ、意図的な破壊工作の可能性を示唆した。
こうした中、ロシアの石油タンカーのほか、中国の貨物船「ニューニュー・ポーラーベア」が当時、現場付近を航行していたことが判明。
中国船の存在はエストニア当局も把握していたが、発表は遅れた。その理由についてエストニア公共放送(ERR)は17日、「政治的、外交的にセンシティブな情報だったため」と報じた。
バルト海では昨年9月、ロシアとドイツを結ぶ海底ガスパイプラインが爆発し、複数の箇所が損傷した。爆発に関与した実行役は現在も特定されていない。
【ロンドン篠田航一】
2023.04.17-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230417/k10014041111000.html
フィンランドで世界最大級の新型原発 営業運転開始
ヨーロッパでおよそ15年ぶりとなる世界最大級の新型の原発が16日、
フィンランドで営業運転を始めました。ヨーロッパではドイツが「脱原発」に踏み切ったばかりで、原発の新設を計画するフランスやイギリスなどと対応がわかれています。
営業運転を始めたのは、フィンランド南西部にあるオルキルオト原発3号機で、
最大出力は160万キロワットと世界最大級で、フィンランドの電力需要の14%を担えるということです。ヨーロッパで新たな原発が稼働するのはおよそ15年ぶりとなります。
原子炉はフランス企業などが手がける新型炉で、独立した4つの緊急冷却装置や溶け落ちた核燃料を冷却する「コアキャッチャー」と呼ばれる設備など、最新の安全対策を備えているとしています。しかし
2005年の建設開始の後さまざまなトラブルが相次ぎ、運転開始は当初の計画から14年と大きく遅れました。
ヨーロッパでは気候変動対策やエネルギー危機を受けて原発を活用しようとする動きが広がり、
フランスが新たに6基の原発を建設する計画を打ち出しているほか、イギリスやポーランドなども原発の建設を目指しています。一方で
ドイツが15日、すべての原発の運転を停止して「脱原発」を実現するなど、
対応はわかれています。
2023.04.04-Newsweek-https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/04/post-101289.php
NATO加盟で必要となる、フィンランドの新しい「国家の物語」
From Foreign Policy Magazine
(1)
<ロシアと西側との間で慎重なバランスを取ってきたフィンランド。しかし、軍事的中立を捨てることで「アイデンティティクライシス」に>
ロシアのウクライナ侵攻に危機感を覚え、フィンランドがNATO加盟申請を行ってからおよそ10カ月。3月30日にトルコ議会が加盟を認める法案を承認したことで、フィンランドの加盟が決定した。
ハンガリーとトルコの反対により承認は遅れ、同時に加盟申請したスウェーデンはまだだが、ひとまずフィンランドが西側軍事同盟の31番目の加盟国となることが確定した。そして、フィンランドが数十年来守ってきた軍事的中立を捨てることも。
ロシアと約1300キロに及ぶ国境を接し、「フィンランド化」と称される中立外交に象徴されるようにロシアと西側諸国の間で慎重なバランスを保ってきたフィンランドにとって、NATO加盟は一大事だ。と同時に、ロシアが一線を越えたときのためのいわゆる「NATOオプション」を着々と準備してきた安全保障政策の集大成ともいえる。
昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻まで、フィンランドは長年、軍事的非同盟に満足していた。ロシアと経済的・外交的関係を保つ最善のシナリオを信じつつも、最悪のシナリオも想定していた。「ロシアの侵攻がなければNATO加盟は考えなかっただろう」と、アレクサンデル・ストゥブ元首相は言う。
「一夜にしてとは言わないが、数日にして世論が一変した。恐怖もあるが、現実主義的でもある。あんなふうに(ロシア大統領ウラジーミル・)プーチンが無実のウクライナ人を虐殺できるのなら、フィンランド人に同じことをしない保証はないだろう、と」
ストゥブが率いた中道右派の国民連合党は、NATO加盟を主張してきた数少ない政党だが、今やサンナ・マリン首相の与党・社会民主党はじめ主要3政党が漏れなく加盟を支持する。それだけに、4月2日のフィンランド議会選挙の選挙戦でも、NATO加盟は争点にすらならなかった。
国家観の再構築が必要
中立を貫いてきたとはいえ、フィンランドはゆっくりと確実に西側の安全保障・軍事的枠組みに統合されつつあったと、安全保障専門家らは分析する。1995年にはEUに加盟し、2014年のロシアのクリミア併合後は欧州への傾斜をさらに強めた。
(2)
その前後から西側との軍事協力も進め、09年にはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、アイスランドとの軍事協力機構「北欧防衛協力」に参加(うち3カ国がNATO加盟国)。昨年にはスウェーデンと共にバルト海でのNATO軍事演習に加わった。
NATO加盟には「心理的な」意味合いもあると、ヘルシンキ大学欧州研究センターの研究員ヨハンナ・ブオレルマは言う。NATOに参加することは、自らの国家観と、欧州における自国の役割を、西側の価値観に適合させていく必要があることを意味する。
「これは安全保障の問題ではあるが、心理的な問題でもあり自らの国家観を再考するものでもある。国としてのフィンランドの意味は何か、国家の物語をどう再構築していくか、などを考え直さなければ」と、ブオレルマは言う。
「いかなる外部の軍事同盟にも属さないという信念をフィンランドが守り続けてきたからこその問題だ。アイデンティティー模索のプロセスは、まだ時間を要するだろう」
From Foreign Policy Magazine
2023.04.03-dmenuニュース-https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/asahi/world/ASR4365Y7R43UHBI00F?utm_source=dnews&utm_medium=article&utm_campaign=contentsmatch1
マリン首相が退陣へ 中道右派の党首「フィンランド人は変化求めた」
北欧フィンランドのマリン首相(37)が退陣する。2日の総選挙(定数200)で、与党・社会民主党が第3党(43議席)に転落した。
国内外で知名度が高いマリン氏は、フィンランドの北大西洋条約機構(NATO)加盟などを背景に政権維持を目指したが、エネルギー価格の高騰による生活苦への不満や、政府債務の増大などへの懸念が足を引っ張った。
歳出削減と経済成長を掲げた中道右派「国民連合」が第1党(48議席)、右派で移民・難民受け入れの制限を掲げる「フィンランド人党(フィン党)」が第2党(46議席)に。3党とも過半数に届かず、国民連合のオルポ党首(53)を軸に連立協議が進む。
現政権の歳出拡大を批判してきたオルポ氏は2日、
「フィンランド人は変化を求めた。経済を立て直し、経済成長を促す改革を進める」と語った。
同党も親NATO路線で加盟方針に影響はない。だが、
フィン党と連立を組めば、移民や環境問題で欧州連合(EU)との関係が悪化しかねないとの懸念もある。
2023.02.10-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230210-V3KHZNUQKVLNPHU5PPEHKVYHXM/
露のハイブリッド攻撃に警戒を 駐日フィンランド大使
ロシアと約1300キロの国境で接するフィンランドのタンヤ・ヤースケライネン駐日大使が都内で産経新聞の取材に応じ、
露軍に侵略されるウクライナへの一層の支援を訴えるとともに、ロシアからのフェイクニュース発信など、「ハイブリッド攻撃」に備えるべきだと指摘した。
--ドイツ製戦車「レオパルト2」を保有するフィンランドは、ウクライナに戦車を供与する国際支援に参加の意向を表明した。
「私たちはウクライナにさまざまな防衛装備を送っている。ドイツから購入した榴弾(りゅうだん)砲についても独政府から輸出許可が下り、現地に送った。12回にわたり防衛装備を送っている。ウクライナへの軍事支援は重要だ。彼らは『防衛する権利』を持つ」
--フィンランドは木製の柵などで仕切ったロシアとの国境のうち、安全保障上重要と見なした部分に頑丈なフェンスを建設する
「フェンス設置は国境検問所とその周辺の約200キロだ。国境全体の15%に相当する。建設がすでに始まっており、建設の成果を今後、評価していく方針だ」
--フィンランドは1939年、ソ連から侵略された(冬の戦争)歴史を持つ。ロシアの脅威とは
「フィンランドとロシアは激動の歴史を持つ。それでも、ウクライナで起きたことは衝撃的だった。私たちはロシアへの考え方を変える必要がある。ロシアの軍事力の誇示の仕方は過去数十年で変化してきた。従来は古い伝統の〝軍事の筋肉の翼〟を伸ばし、領空侵犯をしたり、軍事能力を(各地で)見せたりしてきた。しかし、私たちは近年、新たな脅威に直面している。サイバー攻撃や、(フェイクニュース発信など)メディアを通じてフィンランド国民の心理に影響を与えようとするハイブリッド攻撃だ。私たちは新たな作戦に適切に対処する必要がある。教育現場では、メディアを批判的に読み解き、情報の真偽を見分ける方法を教えている。国民は(情報をうのみにしない)『メディアリテラシー』を身に付けることが肝要だ」
--北大西洋条約機構(NATO)へのフィンランドの加盟申請が昨夏に承認され、各国で批准が進む
「加盟承認後、約4カ月で(全30カ国中)28カ国が批准した。この速度は記録的で、喜ばしいことだ。残りの2カ国はトルコとハンガリーだ。ハンガリーについては2月末に国会が開催され、議題は承認問題のみと聞いている。批准されるのではないか」
--NATO加盟後、フィンランドはどう動く
「フィンランドはすでにNATOの軍事演習に定期的に参加している。このため、加盟が実現した『1日目』から、NATOと一緒に仕事ができる」(聞き手 黒沢潤)
■タンヤ・ヤースケライネン氏
1967年、フィンランド生まれ。93年にタンペレ大修士号取得。95年にフィンランド外務省入省。2006年に外務大臣上級顧問。13年に駐チュニジア大使(リビア兼轄)。17年に外務省中東・北アフリカ課シリア危機特別代表(大使)。18年に外務省政治局副局長。22年9月から現職。
2022.05.14-JIJI COM.-https://www.jiji.com/jc/article?k=2022051400432&g=int
フィンランド、プーチン氏にNATO加盟通告 ロシアは送電停止
AFP通信などによると、
フィンランドのニーニスト大統領は14日、ロシアのプーチン大統領と電話会談し、
北大西洋条約機構(NATO)への加盟方針を通告した。理由について、
ロシアによるウクライナ侵攻などが「
フィンランドの安全保障をめぐる状況を根本的に変えた」と訴えた。プーチン氏は「
フィンランドにとって安全保障上の脅威はなく、伝統的な中立政策の放棄は誤りだ」と主張した。
一方、ロシアからフィンランドに行われていた電力供給が14日に停止した。NATO加盟の動きに対する報復措置の可能性もある。ロシア政府系電力大手インテルRAOの子会社は13日、電力料金が6日以降支払われていないため、14日未明(日本時間朝)に送電が止まると発表していた。
ウクライナ侵攻でロシアの脅威が高まったことを受け、フィンランドはスウェーデンと共に近くNATOに加盟申請する見通しだ。ニーニスト氏とマリン首相は12日、共同声明で「遅滞なく申請すべきだ」という自国の立場を示した。14日のプーチン氏との電話会談で電力供給の問題も話し合ったとみられる。
2022.05.12-BBC NEWWS JAPAN-https://www.bbc.com/japanese/61420545
フィンランド、NATO加盟申請の方針を発表 ロシアのウクライナ侵攻受け
フィンランドのサウリ・ニーニスト大統領とサナ・マリン首相は12日、
同国は軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)への加盟申請を行うべきだとする共同声明を発表した。
ニーニスト大統領とマリン首相は共同声明で、「フィンランドは遅滞なくNATOへの加盟を申請しなければならない」と述べた。
フィンランドはロシアと、1300キロメートルにわたって国境を接している。これまではNATOに加盟しない方針だったが、
ロシアのウクライナ侵攻を受け、大きな政策転換を行った。
NATO加盟をめぐっては、フィンランド国民の支持率は長い間20~25%で推移してきた。軍事的な非同盟と中立は、多くのフィンランド人が紛争に巻き込まれないために選択してきた立場だ。
しかしウクライナ侵攻後の最新の世論調査では、NATO加盟に賛成している人は76%まで上昇。この戦争を機に、ロシアとの友好関係を空疎なものとみる人が増えている。
また
隣国スウェーデンも、数日以内にNATO加盟を決定する見込み。
共同声明の中でニーニスト大統領とマリン首相は、今春にフィンランドのNATO加盟の可能性をめぐる重要な議論が始まったが、議会や社会が立場を決め、
NATOや隣国スウェーデンと協議するには時間が必要だと述べた。
その上で、2人の立場の表明と議会への情報提供として、「NATO加盟によってフィンランドの安全保障は強化される」と説明した。また、「フィンランドが加盟すればNATO全体も強化される」と述べ、遅滞のないNATOへの加盟申請が必要だとの認識を示した。
一方で、「この決定をするにはまだ国内で踏むべき段階があり、今後数日のうちに迅速に進められることを望んでいる」と述べた。
フィンランドのペッカ・ハーヴィスト外相は、ロシアによるウクライナ侵攻がフィンランドの安全保障状況を変えたと指摘。一方で、現時点で脅威はないと述べた。また、フィンランドがNATOに加盟すれば、NATOだけでなくバルト海地域の安全保障強化にもつながるとの見方を示した。
実際のNATO申請までにはいくつかの段階を経る必要があるが、今回の発表を受け、すでにNATO加盟国からはフィンランド支持の声が出ている。
デンマークのメッテ・フレデリクセン首相は、フィンランドのNATO加盟を歓迎するとし、その手続きを迅速に処理するよう努めると述べた。
フレデリクセン首相は、フィンランドの決定は「NATOと我々の共通の安全保障を強化する」ものであり、「デンマークは正式な申請後、迅速な加盟手続きのためにあらゆることを行う」と話した。
一方、BBCのフランク・ガードナー安全保障担当編集委員によると、
バルト3国の1つのエストニアはフィンランドとスウェーデンのNATO加盟を歓迎している半面、バルト諸国への攻撃に向けてロシアが長期的な準備を進めているとして警告を発している。
エストニア国防省の高官は、防空部隊の緊急配備を含め、NATOのさらなる強化を要求している。
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<解説> カティヤ・アドラー欧州編集長(ヘルシンキ)
今回の決定は、フィンランドにとって地政学的な大転換だ。フィンランドは何十年もの間、NATOの内部ではなく、NATOと共に行動することを選択してきた。ロシアがウクライナに侵攻するまでは。(、してからは)NATO加盟に対する国民の支持は急上昇し、
フィンランドでも、隣国スウェーデンでも、加盟を求める政治的な動きが活発になっている。しかし、
フィンランドの加盟申請のハードルはもう少し高く複雑だ。
フィンランドの大統領と首相は12日、NATO加盟は自国の安全保障を強化するだけでなく、NATO自体も強化することになると述べた。
フィンランドは装備が整った、洗練された軍隊を持っている。また、ロシアと1300キロにわたって国境を接している。
NATO加盟国。暗い紫色は1997年以前、明るい紫色は同年以降に加盟。ロシア(RUSSIA)と国境を接するフィンランド(FINLAND)や、スウェーデン(SWEDEN)、ウクライナ(UKRAINE)は加盟していない
2022.04.26-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220426-NWII7CR4ZRJGTJLX6HHCPJUQ4Y/
「レジ係」と揶揄された世界最年少首相 柔軟思想でフィンランド改革
(ロンドン 板東和正)
北欧フィンランドで北大西洋条約機構(NATO)加盟の議論を牽引するのは、2019年に現職として世界最年少の若さで首相に就任した女性、サンナ・マリン氏(36)だ。ロシアと緊張関係になることを見越して
フィンランドの伝統的な軍事的中立方針を転換。ウクライナ侵攻後は強い対露姿勢を打ち出し、国民の支持を得ている。
(ロンドン 板東和正)
「侵攻で全てが変わった」「ロシアはわれわれが思っていたような隣人ではない」
マリン氏は露軍の侵攻を受け、紛争地への武器輸出を認めないフィンランドの伝統的な方針を覆し、ウクライナへの兵器供与を決断した。ウクライナ情勢をめぐり
NATOと情報共有も進めている。
首都ヘルシンキで生まれたマリン氏は、国内の大学で行政を学んだ後、13年に27歳で工業都市タンペレの市議会議長に就任。15年に国会議員となった。
マリン氏は幼少の頃、父親のアルコール依存症が原因で、両親が離婚。母親とその同性パートナーに育てられた。学生時代は経済的に困窮し、スーパーのレジのアルバイトなどで生計を立てていた。自身の生い立ちから、ジェンダー平等や福祉の強化を訴え、若い世代を中心に支持を集めた。
人気の高さが評価され、
19年に辞意を表明したリンネ前首相の後任として白羽の矢が立った。34歳で首相に就任したマリン氏は当時、「
自分の年や性別については考えたこともない」と強調。若い女性の政界進出を後押しする立場を示し、多くの女性を閣僚に起用した。
ただ、
若い女性首相を「政治家」として扱おうとしない海外の閣僚もいた。英紙フィナンシャル・タイムズなどによると、エストニアのヘルメ内相(当時)は19年12月、
「レジ係が首相になった」などと発言。過去の経歴を理由にマリン氏を侮辱した発言と非難されたが、「
政治経験が浅いマリン氏の実力に疑問を投げかけた」(ヘルシンキ市民)と力量を不安視する受け止めもあった。
だが、
マリン政権は、軍事力を強化する方針を積極的に打ち出し支持を広げた。21年に国防軍の人員拡大を決定したほか、最新鋭の米戦闘機「F35A」60機以上の導入を表明。現地メディアが今年3月下旬に実施した世論調査では6割近くがマリン氏を支持している。
特に、評価が高いのは、
ロシアに対する毅然とした姿勢だ。マリン氏はウクライナ侵攻が始まる前の昨年末、NATO加盟を申請する権利を主張。今月13日には「
NATOの抑止力と集団防衛ほど国家の安全を保証する方法はない」と加盟を検討する考えを示した。
フィンランドにはロシアを刺激しないよう中立を守ってきた歴史があり、マリン氏が党首を務める社会民主党も加盟に否定的だったが、同氏は所属議員や国民に加盟の必要を訴えた。
北欧情勢に詳しい英軍事専門家は、マリン氏が主導する方針転換について、「
政治経験の浅さが柔軟な発想を生み、歴史にとらわれず対露関係を見直すことができている」と分析している。
冬戦争
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冬戦争は、
第二次世界大戦の勃発から3か月目にあたる
1939年11月30日に、
ソビエト連邦が
フィンランドに侵攻した
戦争である。フィンランドはこの
侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、
独立を守った。
両国間の戦争が
1941年6月に再開されたため、
第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言う。なお、後続の戦争は、日本では第2次ソ・芬戦争と呼ばれることもあるが、英語圏では
継続戦争と呼ばれることが多い。
1939年8月23日の
独ソ不可侵条約の秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、両国間の交渉は、11月に決裂した。
ソ連は
自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、
1939年11月30日にフィンランドに侵攻した。明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年
12月14日に
国際連盟から追放されたが、ソ連の行動に何の影響も持たなかった。ソ連の指導者
ヨシフ・スターリンは、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ
3倍の兵力を投入したが、結局
マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常に苦戦を強いられた。
既に、ドイツと戦争中であった
イギリス、
フランスは、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産に不可欠なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣を
ノルウェーなど
スカンジナヴィア半島北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。フィンランドは
1940年3月まで戦い抜くが、フィンランド第二の都市である
ヴィープリを含む国土の10%、工業生産の20%が集中する地域をソ連に譲り渡すという苛酷な条件の
講和条約を結び、3月13日に停戦は成立した。
この戦争により、スターリンの
大粛清で弱体化したソ連軍の実態が諸外国に知れ渡ることになり、特に
アドルフ・ヒトラーの
ソ連侵攻の決断に影響を与えたと言われている
背景
歴代のソビエト政権にとって、革命発祥の地であり、ソ連第2の大都市である
レニングラードと近すぎるフィンランド国境は、重要な安全保障上の課題であった。1930年代後半になり、ナチス・ドイツの膨張政策があきらかになるにつれて、この問題はスターリンにとって座視できるものではなくなった。
外交交渉(1938-1939春)
そこでソ連側は、1938年4月より、在ヘルシンキ大使館員ボリス・ヤルツェフ(NKVD職員)を通じて、フィンランド政府と非公式な交渉を始めた。今日、伝えられているこの時の最終的なソ連側の要求は、 ・レニングラード湾上の4つの島嶼の割譲 ・上記の代償として、
ラドガ湖の北の
東カレリアで、フィンランドとの係争地の一部をフィンランドへ割譲 というものであった。しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春には行き詰まってしまった。
1939年5月には、ソ連では比較的西側と協調路線であった
マクシム・リトヴィノフは外務人民委員(外相相当)を更迭され、スターリンは、後任に
ヴャチェスラフ・モロトフを起用した。
外交交渉(1939年秋)
1939年
8月23日、ソ連と
ナチス・ドイツの間に
相互不可侵条約が調印されたが、この協定には、
東欧を独ソの勢力圏に分割する
秘密議定書が含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。
ソ連のポーランド侵攻から、まもなくバルト三国の外相は、モスクワに呼ばれ、
9月29日にエストニア、
10月5日に
ラトビア、
10月10日には
リトアニアが、領土内にソ連軍基地の設置を認める自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。
バルト三国との交渉より、やや遅れて、ソ連からフィンランドに二国間の懸案の問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉が10月11日からモスクワで始まった。この時に提示されたソ連側の要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であった。
・レニングラード湾(フィンランド湾)の4つの島嶼の割譲 ・カレリア地峡のフィンランド国境を、
ヴィープリの東30キロメートルまで西へ移動 ・カレリア地峡の防衛線(
マンネルハイム線)の防衛設備の撤去 ・ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5000人のソ連軍の駐留
上記、駐留ソ連軍の交代の為のフィンランド領内の鉄道による通行権
以上の代償として、ソ連は、ラドガ湖の北の東カレリアでフィンランドと係争となっている領域を大きく上回る地域をフィンランドへ割譲ーこのソ連側の要求については、フィンランド側では、2つの考えがあった。
ユホ・エルッコ外相らは、この要求が最後という保証はなく、マンネルハイム線を撤去してしまえば、次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。よって、ソ連側の要求には、応じられない。
一方、パーシキヴィ(モスクワ派遣交渉団代表)、ベイノ・タンネル(蔵相、社会民主党党首)、マンネルハイムらは、フィンランド軍の現状や欧州の情勢からして、ソ連の要求を峻拒することは出来ないので、ソ連の要求を受け入れよ、という意見であった。
結局、フィンランド政府は、レニングラード湾口の島嶼の割譲とカレリア地峡の国境線を若干西へ移動させる、譲歩案を示したが、ソ連側はそれには応ぜず、交渉は決裂し、11月13日にフィンランド交渉団は帰国した。
マンネルハイムは、交渉の決裂後も政府に再交渉を求めていたが、11月26日には、とても現政権の国防外交政策について責任は持てないとして、国防評議会座長職の辞表を政府に提出した。
両軍の戦闘序列(1939年11月30日)
フィンランド軍
・国軍最高司令部 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥 ・第6師団(司令部予備)
・カレリア地峡軍
フーゴ・オステルマン中将 ・II軍団
ハロルド・オーキュスト中将(地峡の南、フィンランド湾側) -・第1師団・第4師団・第5師団・第11師団
III軍団
エリック・ハインリッヒス中将(地峡の北、ラドガ湖側) ・第9師団 第10師団IV軍団
ユホ・ヘイスカネン少将(ラドガ湖北岸からIlomantsiまで) ・第12師団 ・第13師団北方グループ
ヴィリオ・ツオムポ中将(バレンツ海沿岸からIlomantsiまで) ・種々の独立大隊、国境警備大隊
ソ連軍
・レニングラード軍管区 キリル・メレツコフ大将 ・第7軍(レニングラード → ヴィープリ → ヘルシンキ)
・第8軍(ラドガ湖北岸→ヴィープリ、ルウキ → スオムッサルミ → オウル) -第139師団 第163師団 第168師団
・第9軍(カンダラクシャ → サッラ → ケミヤルヴィ → ロヴァニエミ) -第88師団 第122
・師団第14軍(ムルマンスク → ペツァモ → ロヴァニエミ) -第104師団
推移
1939年
1939年
11月26日午後、カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村でソ連軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。この事件は
マイニラ砲撃事件と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。しかしソ連は、
11月27日にソ芬不可侵条約の破棄を通告。
11月29日に国交断絶が発表された。
11月30日、ソ連は宣戦布告なしに
23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機[要出典]を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。ソ連は、白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のパンフレットが大量にばらまかれた。その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。
12月1日、開戦当日の夕方にはソ連軍に占領された国境地帯の町
テリヨキ(
フィンランド語:
Terijoki、現在の
ゼレノゴルスキで、
1918年の内戦で敗れてソ連に亡命していた
共産党員オットー・クーシネンを首班とする
フィンランド民主共和国が、ソ連のお膳立てで樹立され、ソ連は、この政府がフィンランド人民を代表する唯一の正当な政権であると宣言した。
ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入。第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し第8軍は、ラドガ湖北岸から西進しカレリア地峡の背後への進出を計った。第9軍はフィンランドを南北に分断するため
スオムッサルミの攻略を目指し第14軍は
ラップランドへと進撃した。
マンネルヘイムは第9師団にソ連軍第9軍への反撃を命じ第16連隊を主力とする独立作戦集団を編成、タルヴェラ大佐に指揮を任せラドガ湖北岸を進撃中のソ連軍第8軍に反撃を命じた。
ソ連軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線の突破を試みたが、フィンランド第10師団の反撃により攻撃は失敗し甚大な被害を受けた。ラドガ・カレリア方面では
トルヴァヤルヴィに進出したソ連軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され1000名以上の犠牲者を出し敗走した。そこで第8軍はコッラー河を渡河して守りの手薄なロイモラへ4個師団+1個旅団の大戦力を投入し突破作戦を開始した。
しかし
コッラ防衛陣地を守るフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ第8軍は進撃停止を余儀なくされた。ラーテ街道(
ラッテ林道)を進撃中だったソ連軍第9軍の第163師団はフィンランド軍第9師団に包囲され孤立した。こうしてソ連軍の攻勢は全戦線でくいとめられ一部の部隊は分断され包囲殲滅の危機にさらされていた。
戦果をあせったレニングラード軍管区司令官メレツコフは12月16日マンネルヘイム線への総攻撃を再開。ソ連軍第7軍が
スンマ要塞線への攻撃を開始したがフィンランド軍の守りは固く甚大な損害をうけ総攻撃は失敗に終わった。
その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され損害のみが増え続けた。一方ソ連軍第9軍は包囲された第163師団を救援するため第44機械化師団を派遣した。第44機械化師団はラーテ街道で雪に進軍を阻まれ立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受けて壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され12月9日から開始された
スオムッサルミの戦いはフィンランド軍の完全勝利に終わった。
ソ連軍第9軍の損害は戦死・行方不明者2万4000人に達し壊滅的敗北を喫した。スターリンは、すべての攻勢作戦の中止を命令した。
1940年
スターリンは、ジダーノフ、ヴォロシーロフを軍事作戦から外し、
北西方面軍司令官には、
セミョーン・ティモシェンコを選んだ。ティモシェンコは、新任務を受ける際に、マンネルハイム線の突破を約束したが、それは高価なものになるだろう、とスターリンに告げた。
新司令官のもと、28センチ榴弾砲やKV重戦車を含む大量の重火器と兵力の集積が進められた。また、マンネルハイム線と似た地形陣地を自領内に作り、攻撃演習までした。1940年1月、初期の敗戦の責任を取らされる形でヴォロシーロフは罷免され他にも数名の将校が銃殺された。
そして、新しい総司令官にが任命され、態勢の立て直しが図られた。12月末には第7軍に加えて第13軍が増援として送られており、この2個軍はさらに砲兵などの増援部隊を加えて
北西方面軍として再編制が行われていた。
これらの兵力をもって
カレリア地峡のマンネルヘイム線に対して、攻勢作戦の準備が完了した2月1日に、カレリア地峡で攻勢が再開された。2月10日までは空爆と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、フィンランド軍を圧倒しマンネルヘイム線の突破に成功した。
国際社会の反応
国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。フィンランドからの提訴を受けて、12月14日に、国際連盟はソ連を追放した。当時、第二次世界大戦は「
まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。
イギリスでは
労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤い
ツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。
アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方、ソ連に対しては同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。
また、
アメリカや
カナダに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り
義勇兵となった者もいた。後に俳優となった
クリストファー・リーもその一人である。世界各国から、総計11000人あまり(うち、スウェーデン人が約9000)が義勇兵として、フィンランド側で参戦した。隣国スウェーデンからは、軍事物資、資金、人道支援も供与された。
ドイツは、歴史的には、フィンランドの建国に深く関与しており、深い結びつきがあったが、
秘密議定書の内容を遵守する方針で、ソ連側に肩入れもしないかわりに、傍観する姿勢だった。
フランスでは反ソ感情が高まり、
エドゥアール・ダラディエ首相はドイツに石油を供給しているソ連の
バクー油田を
トルコの協力を得て爆撃する計画をイギリスに提案した。しかし英仏両国は対独戦の最中であり、ソ連にも宣戦布告をして戦線を拡大することは避けたく、イギリスはこの提案を拒否した。
英仏は、12月からフィンランド支援を検討していたが、1940年2月に、
ポーランド亡命政府の部隊も加えた連合軍でノルウェーの
ナルヴィクに10万人の兵士を上陸させ、スウェーデン経由でフィンランドを支援することを名目にドイツへの
鉄鉱石の輸出を停止させる作戦計画で一致した。英仏は国際連盟の決議を根拠にノルウェーとスウェーデンの両国に領内通過を要求したが、3月3日にノルウェーとスウェーデンは英仏の計画をはっきりと拒否した。
1940年1月に、フィンランドのヴァイノ・タンネル外相がスウェーデンの支援を求めストックホルムを訪問した際には、スウェーデン政府の冷淡な対応が国民に知れ渡り、スウェーデン国内に政府非難の声が広がり、沈静化の為に、国王が国民向けに声明を出す事態となった。
また、世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式兵器ばかりで数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついに行われなかった。 3月12日にモスクワ講和条約が結ばれると、フランスのダラディエ政権はフィンランド支援失敗の責任を議会で追及され辞職に追い込まれた。
停戦
ソ連指導部は、戦争開始から1か月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。死傷者増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。
しかし、スウェーデン王
グスタフ5世がフィンランド支援の正規軍派遣をしないことを公式表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的判断により、講和による決着を考えていた。これを受け政府は2月29日より講和交渉再開を決定した。同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点である
ヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。
和平交渉の結果、両国は3月6日に
停戦協定に達した。4か月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。ソ連軍戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。
フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。
モスクワ講和条約(詳細は「
モスクワ講和条約」を参照)
1940年3月12日、
モスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当する
カレリア地峡の割譲を余儀なくされた。カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。その他にも、サッラ地区、
バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。
フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも大きいのではないかとさえ言われた。
影響
モスクワ講和条約を結ぶために、ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年
3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国である
カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合され廃止された。その後、なんとか独立を維持していたバルト三国は、1940年6月から8月の間に、武力でソ連により併合され、それぞれソビエト連邦内共和国となった。
1940年6月には、フランスはドイツに降伏し、西側でドイツと戦っているのは、イギリス連邦諸国だけとなった。フィンランドは、冬戦争後、中立維持のためのスウェーデンとの軍事同盟を模索したが、ソ連とドイツの反対で、これは実現しなかった。その結果、フィンランドは、軍事経済援助の見返りに軍事基地の提供などを行い、ドイツ軍はフィンランド領内に駐留を始めた。これは、明らかな独ソ不可侵条約の秘密議定書に対する違反で、のちに独ソ間の外交問題になった。1941年6月22日のドイツのソ連侵攻にはフィンランド軍は参戦しなかったが、ソ連軍がフィンランド領を空爆した為、6月25日に、フィンランドはソ連に宣戦し、
継続戦争が始まった。