天安門事件-1



2021.06.04-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210604/k10013067031000.html
天安門事件から32年 党や政府への批判 徹底して抑え込み

  中国の北京で民主化を求める学生らの運動が武力で鎮圧され、大勢の死傷者が出た天安門事件から4日で32年となります。事件の見直しや責任を問う声は封じ込められ、中国共産党の創立100年を来月に控える中、党や政府への批判は徹底して抑え込まれています。

  32年前の1989年6月4日に起きた天安門事件では、民主化を求めて北京の天安門広場やその周辺に集まっていた学生や市民に対し、軍が発砲するなどして鎮圧し、大勢の死傷者が出ました。

  中国政府は当時の対応は正しかったとする立場を変えておらず、徹底した情報統制のもと事件を公に語ることは今もタブー視されています。4日朝の天安門広場では、多くの観光客の姿が見られましたが、周辺には大勢の警察官が配置され、広場に向かう人に職務質問をしたり、手荷物を検査したりしていました。
  一国二制度のもと言論や集会の自由が認められてきた香港では毎年この日に合わせて市民団体が主催する大規模な追悼集会が開かれてきましたが、去年に続きことしも新型コロナウイルスの感染防止を理由に警察が開催を許可しませんでした。
  中国では、事件の見直しや責任を問う声は封じ込められ、中国共産党の創立100年を来月に控える中、党や政府への批判は徹底して抑え込まれています。
米国務長官「真相究明 求め続ける」
  アメリカのブリンケン国務長官は天安門事件から32年となったのに合わせて声明を発表しました。
  このなかでブリンケン長官は「人々は人権の尊重を求めただけなのに中国政府は暴力で応じた。6月4日に肩を並べて立ち向かった人々は勇敢だった。だからこそわれわれは犠牲になった人や拘束された人、行方不明になった人たちのことを含め、あの日に何が起きたのか完全に明らかにするよう求めることを決してやめてはならない」として、中国を非難し、真相究明を求め続けると強調しました。
  またブリンケン長官は、香港で行われてきた追悼集会の開催を当局が認めなかったことについて「天安門での民主化運動は民主主義や自由を求める香港の闘いにつながっている」と指摘しました。
  そのうえで「アメリカは、中国の人たちが中国政府に普遍的な人権の尊重を求めるのを支え続ける。32年前に殺害された人たちと、今も中国政府の抑圧に対抗し続ける勇敢な活動家たちに敬意を表す」として、アメリカとして中国の民主活動家などへの支援を続けると強調しました。
  バイデン政権が天安門事件について声明を出すのは今回が初めてですが、これまでの政権と同様に中国を厳しく非難する内容となりました。
加藤官房長官「今も誠に遺憾と受け止め」
  加藤官房長官は、閣議のあとの記者会見で「日本政府としては、事件発生直後に発出した官房長官談話で示しているとおり、軍の実力行使による衝突の結果、多くの人命が失われるという痛ましい事態に至ったことは誠に遺憾と言わざるをえないと今でも受け止めている」と述べました。
  そのうえで「自由、基本的人権の尊重、法の支配は、国際社会における普遍的な価値で、中国においても保障されることが重要だと考えており、一貫して中国政府に直接伝達してきている。中国の人権状況に関する懸念も表明しており、引き続き国際社会と緊密に連携し、中国側にも強く働きかけをしていきたい」と述べました。
香港ではこれまでにない厳戒態勢か
  香港では、反政府的な動きを取り締まる香港国家安全維持法の施行後、初めてとなる天安門事件の日を迎え、警察がこれまでにない厳戒態勢で臨むと見られます。
  天安門事件について中国本土では、公に語ることがタブー視されていますが、一国二制度のもと、言論や集会の自由が認められてきた香港では、市民団体が6月4日の事件の日に合わせ、毎年、犠牲者を追悼し真相究明を求める集会を開いてきました。
  しかし、警察は去年に続き、ことしも新型コロナウイルスの感染防止を理由に開催を許可しませんでした。このため、SNS上では「それぞれが自分のやり方で犠牲者を追悼しよう」とか、「黒い服を着て気持ちを表そう」といった呼びかけも行われています。毎年、集会が開かれてきた香港中心部の公園では、4日午前、市民がジョギングや体操をする姿が見られ、ふだんと変わらない様子が見られました。
  警察は、繰り返し「違法な集会には厳しく対処する」として、市民に集会に参加しないよう警告しています。地元メディアは、警察が市民の集まりを阻止しようと、各地で合わせておよそ7000人の警察官が動員されると伝えており、当初、追悼集会が計画されていた夜にかけて異例の厳戒態勢がとられると見られます。



2020.8.22-産経新聞 THE SANKEI NEWS -https://www.sankei.com/world/news/200822/wor2008220022-n1.html
天安門も雨傘も削除…香港教科書、出版社が“自己検閲” 教師ら反発

  【香港=藤本欣也】香港で高校の教科書をめぐり、出版社側の“自己検閲”が問題となっている。香港への強権統治を進める中国に配慮し、1989年の天安門事件や2014年の雨傘運動など民主化デモに関する記述の削除・削減が加速したためだ。教師ら学校関係者は21日、「洗脳教育を断固拒否する」との声明を発表、反発を強めている。
推薦教科書」指定のため
  問題化しているのは、高校の必修科目「通識」の教科書。通識は、社会問題などさまざまな課題を生徒に与え、生徒の考える力を育成する「探求型学習」だ。「愛国心ではなく、批判的思考を育んでいる」として中国政府が昨年来、非難してきた経緯がある。
  通識の教科書は本来、香港政府の審査を受ける必要はない。ただ、政府は今回、政府の専門家や学者から参考意見を聞ける「専門家相談サービス」を始めた。
  ある高校教師は産経新聞の取材に、「サービスを受けるかどうかは出版社の自由だが、政府から推薦教科書に指定してもらうためには受けるしかない」と明かす。各出版社は、9月からの新学期で使用する教科書の原本を同サービスに送り、専門家の意見を取り入れて「自発的修正」(同教師)を迫られた形だ。
イラスト差し替え、写真も消え…
  改訂前後の各教科書を比較した香港メディアによると、「中国からの批判を避けるために行われた」(蘋果=ひんか=日報)としか考えられないような改訂が多い。
  ある教科書では、中国民主化運動を武力弾圧した天安門事件をめぐり、(1)戦車の前に立ちはだかる男性を描いたイラスト(2)「武力鎮圧」や「中国人民解放軍が天安門広場に進駐」の文言-が削除された。

  香港民主化運動の雨傘運動や、中国の禁書を扱う香港の「銅鑼湾書店」関係者らが15年に失踪した事件の説明と写真を、ばっさり削除した教科書もあった。
 また、ある教科書では「私は香港人だ」と記された旗を持つデモ参加者のイラストが、「中国の経済発展の成果を享受できて、私は中国人であることが誇らしい」と説明されたイラストなどに差し替えられた。
  中国政府の非営利教育機構「孔子学院」の政治性が海外で問題になっている-と説明されたイラストを削除した教科書もあった。
  中国国営新華社通信は21日、「ようやく“消毒”が行われた」などと評価する論評を発表。これに対し、香港の学生や教師ら学校関係者の諸団体は同日、「事実上の政治的審査だとして改訂の撤回を求めた


2020.6.4-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200604/k10012457571000.html
天安門事件から31年 香港の追悼集会 初めて開かれず

  中国の北京で、民主化を求める学生らの運動が武力で鎮圧され、大勢の死傷者が出た天安門事件から4日で31年です。毎年、大規模な追悼集会が開かれてきた香港では、新型コロナウイルスの感染防止を理由に開催が認められず、「国家安全法制」の導入など中国による統制が強まる中、今後、こうした活動が取締りの対象になるのではないかという危機感が広がっています
  31年前の1989年6月4日に起きた天安門事件では、民主化を求めて北京の天安門広場やその周辺に集まっていた学生や市民に対し、軍が発砲するなどして鎮圧し、大勢の死傷者が出ました。
  中国政府は、当時の対応は正しかったとする立場を変えておらず、徹底した情報統制のもと、事件を公に語ることは今もタブー視されています。
  天安門広場周辺では、4日、大勢の警察官が配置され、人々への監視を強めていました。
  一方で、「一国二制度」のもと、言論の自由が認められてきた香港では、毎年、この日に合わせて、市民団体主催の大規模な追悼集会が開かれ、中国の民主化などを訴えてきましたが、ことしは新型コロナウイルスの感染防止を理由に、警察が開催を認めませんでした。
  また、香港での反政府的な動きを取り締まる「国家安全法制」の導入が決まるなど、中国による統制が強まるなか、今後、こうした活動が取締りの対象になるのではないかという危機感が広がっています。
「中国政府に忠誠心」と批判
  「一国二制度」のもと、言論や表現の自由が保障されてきた香港では、天安門事件が起きた6月4日に合わせて、事件の翌年から毎年、市民団体の主催で、犠牲者を悼み、中国の民主化を訴える大規模な集会が開かれてきました。
  事件から30年となった去年の追悼集会には、主催者の発表で18万人の市民が参加しました。
  しかし、ことしは、新型コロナウイルスの感染防止対策として、9人以上で集まるのを禁止していることを理由に、警察が開催を許可しませんでした。集会の開催が認められないのは初めてのことです。
  これについて、市民団体の代表の李卓人さんは「ウイルスを言い訳に集会を禁止して、中国政府に忠誠心を示そうとしたことは明らかだ」と述べて、警察の対応を厳しく批判しています。
  一方で、香港の人々の間では、来年以降の集会についても、開催を危ぶむ声が広がっています。中国が、香港での反政府的な活動を取り締まる「国家安全法制」の導入を決めたことを受けて、こうした集会も取締りの対象になるのではないかと受け止められているからです。
  李卓人さんは「これまで、この集会を開けるかどうかは、香港で民主化を求める活動が続けられるのか、中国共産党を批判することができるのか、香港の一国二制度が機能しているかどうかをはかる物差しだった。『国家安全法制』の問題点は、どこまでが許される行為なのかが私たちには決められず、中国の考え方しだいであらゆることが対象になってしまうことだ」と話しています。
  主催団体は4日夜、SNSを通じたオンラインでの集会を開く予定で、市民の参加を呼びかけています。
台湾 蔡総統「中国で忘れ去られた1日」
  台湾の蔡英文総統は、天安門事件から31年になるのに合わせて、自身のフェイスブックにコメントをのせました。
  この中で蔡総統は、中国政府が天安門事件について、厳しい情報統制を敷いて人々の声を封じ込めていることを念頭に、「中国では、1年が364日しかなく、忘れ去られた1日がある。かつて台湾でも、カレンダーにのせられない日があったが、一つ一つ取り戻していった。歴史を隠蔽しなくなったことで、共に未来に思いをめぐらせることができるようになった。世界のどんな場所であれ、このような消された日がなくなるよう願っている」とつづっています。
  そして、コメントの最後に「自由な台湾は、香港の自由を支持する」というハッシュタグをつけて、香港の人々への連帯を表明しました。


2020.6.4-乗り物ニュース-https://trafficnews.jp/post/96887
香港混乱、体制に危機感=天安門事件から31年―中国

  【北京時事】中国で民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から31年を迎えた4日、共産党政権は、事件の犠牲者を追悼する集会を阻止するため厳戒態勢で臨んだ。昨年からの香港の混乱は体制の危機につながりかねず、習近平国家主席は反対意見を力で抑え込んでいる。
  毎年6月4日が近づくと事件の舞台となった天安門広場を中心に北京市内は警備態勢が強化される。今年も3日夜、事件で多くの人々が殺傷された地下鉄・木犀地駅周辺では多くの制服、私服の警官が厳しい表情で通行人を監視した。
  事件で家族を失った遺族の苦悩は30年以上が過ぎても続く。4日に先立ち、犠牲者の親たちの会「天安門の母」は声明を出し、「歳月が流れ、私たちの会の60人が既に世を去ったが、公平と正義を追求する信念は変わらない」と訴え、共産党政権に真相究明や賠償などを要求した。
  しかし習指導部が遺族の叫びに耳を傾ける気配はない。3日の記者会見で趙立堅外務省副報道局長は事件を「1980年代末に起きた政治風波(騒動)と呼び、武力鎮圧を改めて正当化した。

  民主活動家らに対する締め付けは強まる一方だ。米政府系放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)によると、人権活動家の蕭育輝氏や詩人の王蔵氏らが5月下旬、当局に拘束された。両氏らは、香港問題で習指導部を批判していたという。
  政敵を失脚させ「一強」体制を築いた習氏は、昨年から香港で行われている反政府抗議活動について「放置すれば共産党体制が揺らぎかねない」(北京の大学教授)と懸念しているもようだ。反体制的な活動を取り締まる国家安全法の香港への導入方針は、危機感の裏返しと言える。トランプ米政権が新型コロナウイルスや香港情勢をめぐり、対中圧力を高める中、「習氏は対外的な強硬姿勢と国内の思想統制をさらに強める」(外交筋)と予想されている。



2019.6.5-SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190604/wor1906040019-n1.html
天安門事件30年 中国当局が「追悼」封じ込め 透析患者を山間地で軟禁も

【北京=西見由章】中国当局が民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件から30年を迎えた4日、北京の天安門広場周辺では
     武装警察や警察犬が出動し厳戒態勢が敷かれた。当局の厳しい規制によって現場での追悼や抗議活動はなく、広場の入り口にある検査場
     では海外メディアの記者らが足止めされ、追い返されていた。
 中国当局の取材規制に対し、北京在住の特派員らで組織する「駐華外国記者協会」(FCCC)は4日、海外メディアが天安門広場で取材するのを
     根拠なく禁じたとする声明を出した。
 天安門事件を知る民主活動家らは4日を前に、当局によって北京から遠ざけられた。事件当時、建設労働者として現場に居合わせ、広場近くで
     戒厳部隊から銃弾2発を浴びて左足を切断した斉志勇さん(63)とも5月下旬に連絡が取れなくなった。
 記者(西見)が、腎不全の斉さんが人工透析を週3回行う病院を訪ねると、透析を終えた斉さんが疲れ切った様子で出てきた。5月20日から
     「家族で山間地に軟禁され」、透析時だけ警察車両で病院に連れて来られるという。事件後、当局の脅迫や暴行を受けながら犠牲者の名誉回復
     を求めてきた斉さんは「この30年、多くの苦難があった。でも絶対に闘いはやめない」とつぶやき、警察車両に乗せられていった。
 民主化運動を主導した学生21人の一人として指名手配され、3年間服役した馬少方さん(54)も4月、実家のある江蘇省揚州に戻るよう警察に求められ、
     今も監視状態が続く。電話取材に「公民の権利や自由を認めない社会では常に人々が権利を求めるデモが起こりうる」と語った。
 民主活動家の胡佳さんは4月3日に軟禁が始まり、5月28日からは河北省への「旅行」を強制された。
     遺族グループ「天安門の母」創設者の丁(てい)子(し)霖(りん)さんも北京を離れるよう求められた。
 中国は事件の正当化を図る。共産党系の環球時報は4日付で「30年前の中国社会は痛い予防接種をしたようなものだ。重大な政治的過ちを
     出現させない免疫力がついた」と主張した。

米下院、天安門事件の犠牲者追悼決議を採択 中国の人権侵害も非難
 【ワシントン=黒瀬悦成】米下院本会議は4日、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件から30年となったのに合わせ、
     事件の犠牲者を追悼する決議案を全会一致で採択した。決議は「民主化デモに参加したために殺害され、拷問を受け、投獄された人々の家族に
     同情と連帯の意を表する」とし、中国政府に対して「暴力的な弾圧の最中に政府が何を行い、何人が死亡したのか、全面的かつ明瞭で独立した
     報告を求める」と訴えた。
 決議はまた、イスラム教徒の少数民族ウイグル族への弾圧など現在の中国で横行している人権侵害を非難したほか、事件を受けて中国国外
     での生活を強いられている民主活動家らが帰国しても罰せられることがないように促した。
 ペロシ下院議長は採決に際し議場で演説し、「私たちは事件について忘れず、世界最大の人口を抱える中国が最大の民主体制になる日まで、
     天安門での活動家の精神を胸に刻んで頑張り続ける」と強調した。
 ワシントンの連邦議会議事堂前ではこの日、民主化運動の元学生指導者、王丹(おう・たん)氏らが集会を開き、中国民主化の実現に向けた
     国際社会の支援を訴えた。
 集会には天安門事件で走行する戦車の車列の前に立ちはだかり、後に「タンクマン」と名付けられた男性の像も運び込まれた。


2019.6.4-THE SANKEI NEWS-(https://www.sankei.com/world/news/190604/wor1906040006-n1.html) 
天安門事件30年 ポンペオ国務長官、中国政府に事件の全容解明とウイグル族などへの弾圧停止を要求

【ワシントン=黒瀬悦成】ポンペオ米国務長官は3日、中国共産党体制が民主化運動を武力弾圧した天安門事件から4日で30年となるのに合わせて
     声明を発表した。ポンペオ氏は、民主化を求めて当時立ち上がった人々を「英雄だ」と称賛した上で、中国政府に対し「(事件による)死者や
     行方不明者に関する全容を開示し、この歴史上の汚点の犠牲となった人々に慰めを与えるよう促したい」と訴えた。
  ポンペオ氏はまた、「事件から数十年を経て中国が国際秩序に組み入れられ、より開放的で寛容な社会になることを期待したものの、
     希望は打ち砕かれた」と批判した。
  特に、イスラム教徒の少数民族ウイグル族弾圧を中心に「市民は新たな弾圧にさらされている」と指摘し、「たとえ共産党が強固な監視体制を構築
     したとしても、中国の一般市民は人権を行使し、独立した組合を結成し、法的制度に基づく正義を希求し、自らの意見を表明し続けるだろう」と述べた。
  ポンペオ氏はさらに、事件の全容開示は「共産党が人権や基本的自由を尊重する意思があることを示す契機となる」と指摘し、中国政府に前向きの
     行動を促す立場を示した。
  同時に、中国政府に対し「権利や自由の行使を求めて拘束された全ての人々を釈放し、恣意的(しいてき)な拘束をやめ、宗教および政治的表現を
     テロと十把一からげにする逆効果の政策をやめるべきだ」と要求した。
天安門30年でEU上級代表「人権活動家らの早期解放を期待する」
ゲリーニ外交安全保障上級代表は4日、中国の天安門事件から30年となったことに関する声明を発表し、事件で有罪となったり、民主化を求める活動
     をしたりして拘束されている人権活動家や弁護士の「早期解放を期待する」と表明した。
  声明は事件の犠牲者やその遺族への哀悼の意を表明。中国当局が事件の全容を明らかにしていないことを踏まえ、「事件で殺害、拘束され、
     行方不明になっている人々を認知することは将来の世代にとって重要だ」と対応を求めた。
  モゲリーニ氏は、EUとして「中国における表現、結社、言論の自由に対する弾圧への監視を続ける」とも強調した。


2019.6.4-産経新聞-https://www.sankei.com/politics/news/190604/plt1906040020-n1.html
河野外相「基本的人権は中国でも保障されるべきだ」 天安門事件30年で

河野太郎外相は4日の記者会見で、中国で学生らの民主化運動が弾圧された1989年の天安門事件から30年を迎えたことに関し、
     「自由、基本的人権、法の支配といった国際的に共有されるべき価値観は中国でも保障されるべきだ」との考えを示した。
 中国の人権状況については現在も各国から懸念が声が上がっており、河野氏は「普遍的な価値観については日中の間で議論していきたい」と述べた。


2019.6.3-産経新聞-https://www.sankei.com/world/news/190603/wor1906030021-n1.html
天安門事件30年を前に各地で中国政府に批判の声

【台北=田中靖人】中国の民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から4日で30年。市民に銃口を向けた暴挙に反省の色を示さない
     中国政府に対し、世界各地で批判の声が上がっている。
 香港では4日夜、ビクトリア公園で恒例の追悼集会が開かれ、約6万人が参加する見込み。学生指導者の一人で米国在住の
     封従徳(ほう・じゅうとく)氏(53)は2日、集会のため香港に到着したが、当局に入境を拒否された。封氏は週刊紙「香港01」(電子版)に
     「香港の一国二制度は完全に詐欺。(事件に向き合わない)中国共産党の姿勢は自らの過ちを認めている証拠だ」と述べた。
 台湾で対中政策を主管する大陸委員会は3日、「北京当局は歴史の誤りを正視し、誠実に謝罪せよ」との声明を発表した。声明は、
     中国の魏鳳和(ぎ・ほうわ)国防相が事件の対応を正当化したことは、習近平国家主席の「中国人は中国人を攻撃しない」との発言が
     「全くの偽りだと証明するものだ」と批判した。
 台湾の蔡英文総統は同日、海外で暮らす民主活動家と総統府で面会し、30年前は台湾も中国も民主化の過程にあったと指摘。台湾が「自由民主の道」
     を歩んだのと対極に、中国では「自由と人権が大幅に制限を受けている」と話した。
 事件当時、広場にいたカナダ人記者のアーサー・ケント氏は5月中旬、自身が撮影した「広場掃討」の映像をネット上で公開。遺族グループ「天安門の母」
     が習氏に事件の真相公開を求める場面で映像を締めくくった。

天安門30年でEU上級代表「人権活動家らの早期解放を期待する」

【ベルリン=宮下日出男】欧州連合(EU)のモゲリーニ外交安全保障上級代表は4日、中国の天安門事件から30年となったことに関する声明を発表し、
     事件で有罪となったり、民主化を求める活動をしたりして拘束されている人権活動家や弁護士の「早期解放を期待する」と表明した。
 声明は事件の犠牲者やその遺族への哀悼の意を表明。中国当局が事件の全容を明らかにしていないことを踏まえ、「事件で殺害、拘束され、
     行方不明になっている人々を認知することは将来の世代にとって重要だ」と対応を求めた。 モゲリーニ氏は、EUとして「中国における
     表現、結社、言論の自由に対する弾圧への監視を続ける」とも強調した。


2019.5.31-産経新聞-https://www.sankei.com/world/news/190531/wor1905310014-n1.html
【天安門事件30年】米報道官、中国当局の締め付け「恐ろしい迫害」 

【ワシントン=黒瀬悦成】米国務省のオルタガス報道官は30日、中国で民主化運動が武力弾圧された天安門事件から6月4日で30年を控えて中国当局が活動家を拘束するなど取り締まりを強めていることに関し、「中国共産党による組織的で恐ろしい迫害行為だ」と非難した。

 同報道官はまた、天安門事件では「平和的に抗議していた人々が徹底的に虐殺されたことを忘れてはならない」と強調。その上で「米政府は、殺され、拘束され、行方不明になった人々に関する全容を白日の下にさらす取り組みを国際社会とともに続けていく」と訴えた。

 一方、米CNBCテレビによると、ペンス副大統領は天安門事件30年に合わせ、中国による信教の自由や人権の抑圧を非難する演説を6月中旬にも行う。

 トランプ政権は、数百万人規模とされるイスラム教徒の少数民族ウイグル族を新疆ウイグル自治区の再教育施設に強制収容していることに懸念を強めており、ウイグル人弾圧に関与した中国企業が米企業と取引するのを禁じる懲罰措置も検討しているとされる。

 米政権は今後、貿易や安全保障に加え、人権問題でも中国との対決姿勢を強めていく構えとみられる。

【北京=西見由章】中国外務省の耿爽(こうそう)

報道官は31日の記者会見で、天安門事件を「虐殺」とするなどした米国務省報道官の発言について、「中国政府に対するゆえなき非難で内政干渉だ」と反発し、「強烈な不満」を表明した。

 耿氏は天安門事件に関して「前世紀80年代末に発生した政治風波(騒ぎ)」と、従来の主張を展開。さらに建国70周年を今年迎えることに触れて「新中国が発展し巨大な成果を得られたのは、国情にあった発展の道を歩んできたことを証明している」と述べ、中国の統治体制を正当化した。



2019.5.31-CNN NEWS-https://www.cnn.co.jp/world/35137833.html-
天安門事件、「弾圧ではない」と中国政府

北京(CNN) 1989年に起きた中国の天安門事件から30年を迎えるのを前に、同国国防省の呉謙報道官は30日、記者団に対し、事件を中国政府による「弾圧」ととらえるべきではないとの認識を示した。30年前の6月4日、中国軍は天安門広場で数週間にわたり続いていた民主化要求の抗議集会を実力行使で終了させた。参加者に向けた発砲が行われ、死者数は数百人とも、数千人とも言われている。事件での逮捕者は推計で約1万人。処刑された人は数十人に上る。

呉謙報道官は月例の記者会見で、民主化を求める学生らを弾圧したことについて人民解放軍としてのコメントを求められた際、「『弾圧』という言葉には同意しかねる」と述べた。

そのうえで「この30年、わが国は改革と発展の道をたどってきた。国内は安定し、数々の成果をあげた。質問の答えはすでに出ている」との見解を示した。
多くの血が流れた天安門事件について、中国政府が言及することはほとんどない。国内では事件に関する発言や記述が長らく検閲の対象となっている。
事件当日となる6月4日も、公的な記念行事や事件に抗議する集会などが中国本土で開かれる見通しは全くない。


https://www.sankei.com/world/news/190529/wor1905290001-n1.html
【天安門30年】天安門事件学生リーダー・王丹氏 中国、事件前より「はるかに悪く」

中国の首都・北京で民主化運動が弾圧された1989年の天安門事件は、6月4日で30年の節目を迎える。当時、運動を主導した学生リーダーの一人で、米国に亡命している王丹氏が来日し、東京都内で産経新聞のインタビューに応じた。王氏は共産党一党独裁政権について「必ず崩壊する」との認識を示し、習近平政権が主導する巨大経済圏構想「一帯一路」に関し、「国内の財政破綻を引き起こして、政権崩壊のきっかけになる可能性がある」と主張した。

 現在、米国で中国の民主化に関するシンクタンクを主宰する王氏は、今の中国国内の人権状況について「天安門事件前と比べて、はるかに悪くなった」と語り、「今は完全な監視社会になった。宗教や少数民族への弾圧もひどくなった」と指摘した。

 国際社会が注目する米中貿易戦争については「中国がこれまでさまざまな不正を行ったため、国際社会の怒りを買った」と指摘し、米国との衝突は「起るべくして起きた」と分析した。その上で「習近平政権はこれまでの政権と比べて経済を発展させる能力が低く、政権が続く限り、中国の経済はさらに失速し、中国国民の生存環境はますます悪化する」と予測した。

 中国の将来に関しては、「独裁政権は対外拡張のなかで財政破綻を引き起こし、やがて崩壊するケースが多い」との見方を示した上で、一帯一路構想は「まさに対外拡張だ」とし、「中国崩壊の兆しといってもいい」と語った。

 王氏は日本政府が中国の民主化運動に無関心だとし、「大きく失望した」とも語った。また、「北京の独裁政権に配慮する理由が全くわからない」と不満も口にした。(矢板明夫)


2014.6.4-沖縄タイムス-https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/40364
社説「天安門事件25年]民主化の動き止めるな

民主化を求める学生、市民のデモは中国全土に広がり、6週間以上も続いた。中国当局は1989年5月20日、首都北京に戒厳令を施行し、
     ついに6月4日未明、重装備の人民解放軍を天安門広場などに投入し、学生や市民を武力で鎮圧した。
  国際社会に大きな衝撃を与えた中国の天安門事件から、きょうで25年になる。
  中国政府は、軍側を含め319人の死者と約9千人の負傷者が出たと発表したが、正確な数は今もはっきりしない。天安門事件で子供を亡くした
     親の組織「天安門の母」は今年2月、事件の再評価と真相究明を求める書簡をネット上に発表した。
  だが、中国政府の対応は全く逆だ。人権派弁護士や民主化を求める活動家を相次いで拘束し、事件に関する記念行事や追悼の動きを徹底的に
     抑え込んでいる。国内の記者らに対しては、短文投稿サイトの微博(ウェイボ)に「事件を含むいかなる書き込みもするな」と指示した。
  当局が、抗議行動の動きに異常なほど神経をとがらせているのはなぜか。
  実力者☆(登の右に郊のツクリ)小平は、中国にとって最も重要なのは安定した秩序であり、「不安定をもたらしかねないものは何であれ警戒し、
     抑え込まなくてはならない」と天安門事件を総括したという。
  武力による鎮圧は、中国という国家を分裂させないための唯一の方法だった、との解釈だ。だが、ここにこそ、現代中国が抱える根本的な危うさと
     困難が露呈しているというべきだろう。
    ■    ■
  この四半世紀に中国経済は驚異的な発展を遂げた。2013年の国内総生産(GDP)は56兆8845億元(約950兆円)と1989年の33倍以上に達する。
     都市化が進み、富裕層が増えた。
  その半面、経済格差の広がりや汚職の横行、環境破壊、民族問題など、経済力や軍事力の増大とは裏腹に、社会問題は深刻化する一方だ。
     治安維持のため毎年、膨大な国家予算を投入しているにもかかわらず、社会の安定にはつながっていない。今の中国は、社会の発展があまり
     にもいびつである。
  中国政府が「新疆ウイグル自治区の分裂主義勢力による組織的な暴力テロ事件」と位置づける無差別テロが多発しているが、テロ対策を強化
     するだけでなく、少数民族政策の見直しが必要なのではないか。
  東シナ海や南シナ海での強硬姿勢といい、国内外で強権的、大国主義的な対応が目につく。
    ■    ■
  中国当局が「民主化」よりも「体制維持」を優先するのは、天安門事件から1年もたたないうちにベルリンの壁が壊され、東欧の社会主義政権が
     相次いで崩壊するという「恐怖」を味わったからかもしれない。
  だが、市場経済が浸透した中国で、いつまでも強権的、抑圧的な手法で体制を維持し続けることはできない。民主化を推し進め、法の支配と
     国際協調を根付かせることが国際社会の信頼を勝ち取る唯一の道である。


六四天安門事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

通常「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指す。
六四天安門事件は、1989年6月4日(日曜日)に、同年4月の胡耀邦元党総書記の死をきっかけとして、中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した事件である。

  この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。
  統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。

  デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。
  1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。

  衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。
  1989年夏以降、一般に「天安門事件」という場合はこの事件を指す。他の天安門事件、特に1976年4月5日周恩来総理が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。

  略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて、「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」、「VIIVローマ数字の6と4を並べたもの)」や、「82(8の2乗を表す数学記法で、答えが64=6月4日)」などを、隠語として使うことがある。
  抗議者に対する中国共産党による武力弾圧に対しては、国内はもちろんのこと広範な国際的非難が集まった。犠牲者の数は後述のように諸説あるが、100万人とも、200万人とも言われている。

事件概要
「百花斉放・百家争鳴」
  1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、ソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すために「ペレストロイカ」を表明して、同国の民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進、胡は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まった。

  これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。

  12月に、北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも、反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は、経済の主導権を保守派の李鵬国務院総理(首相)らに渡すことになる。
胡耀邦死去
  胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。
  胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

  これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。
 19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬国務院総理との面会を求めた声明を出すと、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。
四・二六社説
  学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安長沙南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。
  趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。

  北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

  上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。

中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。

  4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。
デモの拡大
  趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。

  五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。

  鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、楊尚昆国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。
  この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリス植民地であった香港日本アメリカなどの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。

  この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹柴玲ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映閻明復陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。
ゴルバチョフ訪中
  このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。

  中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。

  このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、

     “鄧小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,
     退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。我告訴你一个秘密,在十三届一中全会有一
     个正式的决定,雖然這个决定没有公布,但是它是一个很重要的决定,就是說,我們在最重要的問題上需要他掌舵。”」-

     鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、
     政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。
     第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を
     必要とするというものだ。

と「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かしたが、学生たちの矛先を鄧小平に向けたとして、第13期4中全会で「罪状」に数えられることとなった。
  外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義大使」として歓迎する一幕が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。

  ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日北京首都国際空港から帰国した
戒厳令布告
  この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。

  5月16日夜、趙紫陽李鵬胡啓立喬石姚依林の5人の政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する「四・二六社説」の修正について話し合われ、趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。
  
  5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定した。

     「事態の進展を見ればわるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。すなわち、
     趙(紫陽)が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、
     統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」— 鄧小平

これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を拒否したため、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を戒厳令実施の責任者に任命した。

     「決定を下さないよりは下した方が良いけれども、今回の決定が招くであろう深刻な事態を大変憂慮している。総書記として、
     この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」— 趙紫陽

  5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。5月20日、鄧小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した。

  5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。党中央、全人代、国務院、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部及び、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。
  これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。

  こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。


  武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
報道管制
  戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本イギリス西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカ合衆国 CNN は、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。

  これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生放送を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも、そのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオテープ収録による録画中継と、固定電話公衆電話を使用した、音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港台湾など、国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクシミリを使って、北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたといわれている
武力弾圧
  6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。
  実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。
  複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したと伝えられた。

  この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた。広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。
  或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。人民軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった。
  天安門事件を研究している二十一世紀中国総研のディレクターで横浜市立大学名誉教授の矢吹晋はこの状況について、人民軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。
  また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまったと述べている。しかし大量の虐殺が広場でなかったとはいえ広場での数名の死者や多くの重軽傷者、そして広場以外で少なくとも300人以上が殺害されたとの厳しい指摘が存在する。

  広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した。また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた。なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、事件発生時に既に脱出していた学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた(其实我们期待的就是流血)。

  中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した。現場に居なかった柴玲は広場で戦車が学生を押しつぶしたと泣きながら証言したが、最後まで現場に残って学生が脱出するためのトラックを手配していた候徳健(台湾から亡命してきた有名作曲家)は、戦車は広場の外に居たし広場で虐殺など全く起きなかったと証言している。また、学生側リーダーの一人だったウーアルカイシも広場で千人が殺されたと証言したが、これについても候徳健は、「自分は午前6時半まで現場にいたが、広場では一人の死者も見ていない。ウーアルカイシは既に現場から脱出しており、事件を目撃していない」と証言している

武力鎮圧の模様は、イギリスBBC香港亜洲電視アメリカ合衆国CNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継された。その映像は無差別発砲による市民の虐殺と看做され、世界中から多くの非難が中華人民共和国に浴びせられた。

武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性の映像も放映された(無名の反逆者)。

武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、「北京に知人、友人が少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗が少ない」という理由で戒厳令の施行後に地方(新疆ウイグル自治区など)から動員された部隊が中心と報道された[要出典][21]

また、AFP通信によると、2014年6月に機密解除されたアメリカ合衆国連邦政府の公文書の中に、当時の天安門広場の様子を目撃したとされる匿名の人物の話が記載されている。それによれば、楊尚昆の甥が指揮した、河北省石家庄から招集された第27集団軍北京軍区所属)に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと主張した内容だった。しかし公開された機密文書の原文では、この匿名の情報提供者は事件発生当時は現場でなく北京市内のホテルの一室に滞在しており、第27集団軍の虐殺行為に関する一連の情報は「確認の取れない噂」であるとしている。また、当時現場付近に居たワシントンポストの北京支局長ジェイ・マシューズは、 「何百人もの外国人ジャーナリストは天安門とは別の地域か、或いは天安門広場から離れたホテルに避難していたので、広場中央での様子を目撃する事は出来なかった」 と指摘している。マシューズは広場での虐殺についても、 「ウーアルカイシは銃撃で200名の学生が倒れたと言うが、彼は既に数時間前に現場から脱出していた。

  伝聞や噂ではなく現場からの確かな証言から判断すれば、広場では誰も死んでおらず広場に通じる道路で散発的な死者が出た」と述べている。天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。

  相馬がその学生の言葉をメモに残してから天安門広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。鄧小平を許さない」と語ったという。アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは、9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子について、 「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」 と語っている。マンローは広場ではなく他の場所で起きた虐殺に注目すべきだと問題提起している。
  広場での虐殺の有無や報道の矛盾について、中国研究家の矢吹晋は、「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘し、広場に居た無抵抗の市民達は一人も殺されなかったが、広場に至る路上で人民軍に攻撃を加えていた市民には多数の死傷者が出たと分析した。

  当時オーストラリア外務省の中国デスクを務め、ジャパンタイムズにも天安門事件についての論考を度々寄稿しているグレゴリー・クラークは自身が運営する個人HPの中で、「不確かな伝聞を排除すれば広場で虐殺が起きなかった事は明らかであり、むしろ学生側から人民軍への火炎瓶等を使った暴力が全く報道されない事は西側メディアの偏向を表している。兵士が銃撃した後で学生が放火したのではなく、群衆が先に兵士を火炎瓶で焼き殺した。群衆による破壊行為が兵士の仕業であると報道され、群衆の死体写真を報道する一方で群衆に攻撃された兵士の焼死体写真は報道していない。」と指摘している。
死傷者
  中国共産党の公式発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない。

  ジェームズ・R・リリーは自らの著書の中で、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、中国人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたと述べている。事件後に中国共産党によって、多くの死体が隠匿されたという報道もある。また、約300名の民主活動家がパリに亡命した。

  1989年6月4日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電では、現場に居た市民が感情的に怒って「天安門広場で10000人が殺された」と主張した事を報告している。

  1989年6月5日に作成され、2017年12月23日に機密解除された英国政府の公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は10000人以上が中国軍により殺害された。」と報告している。公文書は当時の駐中国アラン・ドナルド英大使(en:Alan Donald)が6月5日に本国政府へ送った外交機密電報。ドナルド大使によると、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた」情報であり、この情報源とされる人物を事件以前から信頼しており、「事実と憶測と噂を慎重に区別」して書いたという。文書には「鎮圧にあたったのは山西省を主力とする第27軍」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後には装甲兵員輸送車による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPC(装甲兵員輸送車)は何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍銃剣で刺されてしまった」と記載されている。フランス人の中国研究家ジャンピエール・カベスタン(fr:Jean-Pierre Cabestan)氏も、最近機密解除された米国の文書も類似した死者数を割り出しており、当時の英大使によるこの推定値には信ぴょう性があると述べている。しかし、中国系英字メディアサイト"SupChina"の編集者アンソニー・タオ(Anthony Yixing Tao)は、2017年12月に自社サイトの記事において「10000人という数字は匿名の、しかも米国側の発表した情報だけが根拠であって信用出来ない」と反論を述べている。

  クレア・バーリンスキーは、ソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では3000人の抗議者が殺されたと見積もられていると述べている。

  1989年6月22日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電は、それまでの混乱した情報を整理する目的で時系列で記述されており、銃撃の主な被害は従来の報告とは違って広場ではなく広場に続く道路で発生したとしている。死亡者数は当初の予測であった3000人を下回る可能性が高く、中国赤十字の発表である死者2600人が妥当な数字としている。ただし、当時の天安門事件に関する報道でピューリッツァー国際報道賞を受賞したニコラス・クリストフによれば、2600という数字は行方不明になった学生が2600人居るという噂が死亡した学生の数だと勘違いされて出来た根拠の無い数字であり、中国赤十字は2600という数字を即座に撤回しているとされている。

  1989年7月に作成され2011年6月に公開された米外交公電によれば、広場に進行した兵士の大部分は銃ではなく暴徒鎮圧用の木の棒の様な物で武装しており、群衆に向けた大量発砲は見られなかったとされる。現場に居たチリの外交官は広場で大規模な銃撃は無かったと証言している。これは兵士が非武装の市民がいる広場に突撃したという複数の記者の証言と矛盾するし、死者の数は1000人を遥かに下回る事を示唆している。

  1989年7月12日に作成され2011年8月30日に公開された米外交公電によれば、現場に居たチリの外交官であるカルロス・ガロの証言では広場に入った兵士は棍棒で武装しており大規模な発砲は起きなかったとしている。広場にゆっくりと入って行った装甲車が広場のテントを踏みつける頃にはテントは既に無人だった様に見えた。学生が撤収した後の広場に人民軍のヘリコプターが降りてきて大きなプラスチックの袋を上に引っ張り上げていたが、彼はその中身が負傷者や遺体ではなくゴミだと思った。彼は大規模な銃撃を目撃しなかったが、広場に負傷者が大勢集まって来た事から人民軍によって数百人が殺害された事に疑いは無いと判断した。

  1990年3月26日に作成されウィキリークス2011年8月に公開した米外交公電には、現場で鎮圧にあたった人民軍38軍に所属した兵士の母親とされる人物による匿名での証言が記載されている。彼女の証言によれば、38軍は当初は空中に威嚇射撃をしていたが、学生の襲撃を受けて仲間の兵士が数百人も行方不明になったか、或いはおそらく殺害されたという情報が部隊に伝わると38軍の兵士達は興奮した。その状況で出された発砲命令に従い群衆に向け機銃掃射を行い、1000人以上の市民が殺害された。兵士は死体にガソリンを掛けて燃やし、その死体をヘリコプターで運び去ったという。一連の証言について公電作成者は文末で、「彼女の証言が伝聞とは思わないが、時間が経過しており相当な誇張が含まれる」「我々には目撃情報が少なく誇張された天安門の情報が循環している」とコメントしている。

  2019年5月29日、当時在中華人民共和国日本国大使館にて情報収集を統括していた笠原直樹1等陸佐防衛駐在官による詳細なメモが残っていたことが分かった。それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射はほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、APC(装甲車)にてひき殺されたり、一斉発砲する兵士など当時の流血の北京の状況が判明した。中国出身の政治学者である朱建栄は、天安門事件は解放軍の出動途中に起こった発砲事件に過ぎず、虐殺はなかったと主張している
国内における反応
批判
  事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシ柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。
  また、中国共産党首脳部の強硬派が密かに行った自国民の虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。
  中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である薛飛杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。杜憲は1992年に中央電視台を退社し、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。
中国共産党による監視統制
  上記の様に、西側諸国だけでなく、東側諸国を含む世界各国では、この事件は報道されたものの、国内においては、事件後には、平常時にも増して情報統制が強化されたため、事件に対する詳細な報道はほとんど行われなくなった。事件から30年が経過した2019年時点でも、以下のような当局ぐるみでの当事件の情報操作が行われてきた。
  ・当事件の名称や当事件の発生日「6月4日」、画像などに対する人工知能機械学習声紋画像認識技術を利用したグレート・ファイアウォールによる自動ネット検閲。これにより、香港澳門を除く中華人民共和国内の検索エンジンYahoo!GoogleMSNなど)では、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると、接続不可能になる。このことから、当事件を意味する「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の64)や、「82(=64)」などの隠語を生んだ。また、Twitterhotmailウィキペディア接続遮断された。
  ・国内向けの衛星放送などで海外メディアが天安門事件を報じると突如放送を停止させる。
  ・外国人カメラマンが6月4日前後に天安門広場を撮影しようとすると、目の前でを開いて天安門を写させないようにする。
  ・当事件における学生運動の主要メンバーであった劉暁波ノーベル平和賞受賞の際、中国共産党政府は2010年10月下旬以降に、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、12月10日にオスロ市庁舎にて行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。書簡では式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないようにも求めた。また、北京においても数カ国の外交官に対して、同様の要請を行った。
  そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は、事実をほとんど知らない。知っている者でも、暴徒が中国人民解放軍を襲ったための自衛行為という程度で、中には海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者もいた。

  当事件の結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平を始めとした活動家が、中華人民共和国外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。天安門事件以降、天安門広場には顔認識が可能な大量の監視カメラが設置され、活動家は音声認識による盗聴DNA収集で徹底的に追跡と特定を行われている。
  最終的に事態を掌握した強硬派と、その一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証報道は、これまで一切行われておらず、中国共産党政府最大のタブーの一つでもある。中華人民共和国国防部部長の遅浩田は、1996年アメリカ合衆国を訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言して、世界各国から反発を受けた。事件から30周年を迎えた2019年6月には国営の環球時報は「ワクチンとして将来どんな政治的動揺にも対処できる免疫力を中国に与えた」と事件に言及する異例の論説を発表し、中国国防部部長の魏鳳和も訪問先のシンガポールで「騒乱を治めるために正しい対応をした。中国は安定と発展を享受している」と異例の言及を行った。
世界の反応
香港の反応
  この事件に対して最も早く反応したのは、当時イギリス植民地であるものの、その住人の大半が華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主主義的な行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。
  1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っている。たとえば学校では、小学校なども含め校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。

  同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、1997年に香港がイギリスより中国へ返還後も、同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が、毎年香港島ヴィクトリアパークで開催、2007年6月4日には5万5千人の参加者を集めた。2012年6月4日、約18万人の参加者を集めて歴年の記録を破った。
  また、この事件を受けて、香港人イギリスカナダオーストラリアなどのイギリス連邦諸国や、アメリカ合衆国などへの移住ブームに火がついた。その後、宗主国イギリス中華人民共和国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」という一国二制度により、政治的に安定していた香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。

  だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。
  また事件当日から6日にかけて明報新晩報などの香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、「鄧小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した。
  なお、香港では2020年9月の新学期以降の高校の必修教科書から、天安門事件など中国共産党にとって都合の悪い項目が削除されることになった[68]。これは一国二制度に基づき、自由と民主主義が根付いている香港の歴史と文化を否定することで、中国共産党の価値観を植え付けて香港の若者が反政府活動に傾く土壌を排除する思惑があるとみられる。
国際社会の反応(詳細は「en:Reactions to the 1989 Tiananmen Square protests」を参照)
  民主主義国である西側諸国の政府が次々と、事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対して譴責あるいは抗議を発表し、G7による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。
  1989年6月4日の武力制圧後の国内情勢が安定的でないことから、日本をはじめとした西側の外国企業が一時的に中華人民共和国から社員を引き上げる事態に至る。事件後、日本では外務報道官談話や官房長官談話を発表して、この流血事件に対する事態の悪化防止を中華人民共和国政府に求めた。加えて6月20日にODAによる対中経済援助の凍結を発表し、翌1990年から予定される「第3次円借款」並びに「中日友好環境保全センターの建設」など一部の対中ODAを保留とする見直しが行われた。

  同年7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、議長国フランスをはじめとした西側諸国が残虐行為を厳しく非難した。 日本宇野宗佑内閣総理大臣は対中円借款を凍結する一方で、外務大臣の三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派の中曽根康弘元総理、鈴木善幸元総理、竹下登前総理と会談した。日本が中国孤立化に強く反対した背景には対中貿易を重視している経済界の要請やサミット直後に第15回参議院議員通常選挙が控えているにも関わらず、当時の宇野内閣は総理の女性スキャンダル発覚で窮地に陥っており、サミットを政権浮揚に利用したい首相官邸の思惑もあったとされる。実際に宇野は対中非難声明の素案に記述されていた「中国における野蛮な鎮圧」に難色を示し、その結果「激しい抑圧」に修正され、「中国当局が孤立化を避け、協力関係への復帰をもたらす条件をつくり出すよう期待する」との一文も加筆されたことが後年(2020年)の外務省外交文書の公開により明らかになっている。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中華人民共和国の江沢民から、このサミットでの対応に感謝されている。
  1989年7月21日、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は鄧小平に送った書簡で「親愛なる鄧小平殿。先日のサミットの先進国首脳会議の共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言がありましたが、アメリカと日本が取り除きました。米議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めていますが、私は波風を立てないよう全力を尽くします。今は厳しい時期ですが米中は世界の平和と両国の繁栄の為共に前進しましょう」と述べていた

  1990年7月の第16回先進国首脳会議では、日本の海部俊樹総理が対中円借款の再開に言及、国内・西側諸国共に多様な議論がある中で、西側の現職政府首脳として事件後初めて同年8月に訪中した。また、1992年8月に中華人民共和国政府の要請を受け、10月に宮沢内閣が「天皇皇后両陛下の中国御訪問」を閣議決定、同月に天皇皇后夫妻が中国を訪問し、西側各国で国際ニュースとなる。
  天安門に集まる一般市民を最初は非難していたシンガポールリー・クアンユーは、武器を持たない一般市民の騒動に対しては最低限の治安目的の対応を期待していたため、「今回の中国共産党の対応に衝撃を受けるとともに悲しみを受けた」とニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えた。

  1997年江沢民の訪米が実現し、1998年6月には民主党のビル・クリントン大統領が訪中。米国をはじめとする各国も時期をおいて中華人民共和国との外交関係の回復を行っていった。しかし、この事件が中国共産党による一党独裁とその異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる、大きな原因の1つとなった。
  2007年6月1日アメリカ合衆国国務省副報道官のトム・ケーシーが、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した。また、2009年6月3日にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官は、中国共産党政府に「過去の事件を検証し、死者や行方不明者についての報告を行うように」と要求し、事件の検証や拘束中の人権活動家を釈放するよう求めた。

  2019年5月30日、アメリカ国務省のオルタガス報道官は記者会見にて、間もなく30周年を迎える中国の天安門事件について「徹底した虐殺行為だった。罪のない命が失われた痛ましい事実を忘れない。抗議参加者や遺族らへの弾圧がいまだ続いている」と批判した。4日、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官も天安門事件を批判したこともあわせて、中国外務省の耿爽報道官は「先生気取りで民主や人権を掲げて他国に内政干渉しているバカな人間のゴミ山の戯言」と猛反発して「中国は発展した。政府の当時の行動は完全に正しかった」と事件を正当化した。
  中華人民共和国と同じ東側諸国東ドイツ北朝鮮チェコスロバキアキューバルーマニアや友好国のパキスタンと多数のアフリカ諸国が中国共産党による武力弾圧を支持した。同じ社会主義国でも中国と緊張関係にあったベトナムは事件を報道するも直接コメントしなかった。フィリピンは事件に遺憾の意を表明した
指名手配された21名の中心人物
中華人民共和国政府より指名手配されたものは21人。うち、亡命生活を送っているのは14人いる。
(・王丹 - 名簿第1位・ウーアルカイシ - 名簿第2位・劉剛 - 名簿第3位、逮捕、投獄を経て米国に亡命
 ・柴玲周鋒鎖翟偉民梁擎暾王正雲鄭旭光馬少方楊涛王治新封従徳王超華王有才張志清張伯笠張銘熊煒熊焱
劉暁波のノーベル平和賞受賞
  2010年10月8日劉暁波ノーベル平和賞受賞が発表された。ノルウェー・ノーベル委員会は、劉暁波の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことであると発表した。また、劉暁波への授与の決定は「有罪確定時の今年2月には不可避の状況になっていた」こと、「選考は全会一致であった」ことなどであると発表した。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々のに贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。
国外への影響
  アフリカリビアで起こった2011年の騒乱では、カダフィ大佐が「天安門広場では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする]」と述べ、反体制派に対する虐殺と民主化の弾圧などを正当化した。それに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった。なお、当時の中国は首都トリポリとカダフィ大佐の故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱え、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させており、中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起き、中国政府にはカダフィ政権への武器供与疑惑も追及されていた。
  2016年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬した共和党ドナルド・トランプ大統領候補が、天安門事件の弾圧を肯定するかのような過去の発言CNNのテレビ討論会で追及を受けて天安門事件を「暴動」と表現した際には「まるで中国共産党の指導者」「中国共産党による抑圧に反対する者への侮辱だ」「アメリカの価値観の敵」であるとして王丹魏京生ウーアルカイシ ら天安門事件に関係した民主化運動家が抗議を行っている。

  南米ベネズエラでは、2017年ベネズエラ国家警備隊の中国製装甲車VN-4の前に立ってニコラス・マドゥロ独裁政権に抗議する女性の映像が全世界に流れた際は天安門事件を想起させるとして話題になって、「無名の反逆者」にあやかって「ラ・ダーマ(あの女性)」と呼ばれた
  日本では1989年の7月に参議院選挙を控えていたため、当時の日本共産党はこの事件においてイメージダウンに繋がった。選挙期間中は他党から演説において、『資本主義か社会主義か、体制選択の勝負はついた』といったネガティブ・キャンペーンが行われ、反共攻撃に利用された。そのため、従来日本共産党を支持した有権者が日本社会党や(社会、公明、民社、連合が推薦する)連合の会に票が流れてしまい、第15回参議院議員通常選挙では改選前8に対して改選後5へと議席数を大幅に減らした


百花斉放百家争鳴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


百花斉放百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめいˊ)とは、1956年から1957年に中華人民共和国で行われた政治運動。中国語では百花運動(簡体字: 百花运动)とも呼ばれる。「中国共産党に対する批判を歓迎する」という主旨の内容であり、これを受けて国民は様々な意見を発表したものの、百花運動の方針は間もなく撤回され、結局この運動に釣られて共産党を批判した者はその後の反右派闘争で激しく弾圧された。その後、共産党は「この運動は毛主席の共産党に反発する不満分子をあぶり出し、刈り取るための名策であった」と強弁した。
概要
  毛沢東は1949年ソビエト連邦(ソ連)の独裁者ヨシフ・スターリンの協力も得て中華人民共和国(中国)を建国し、独裁体制を布いた。しかしその後1953年にスターリンが死に、後を継いだニキータ・フルシチョフ1956年スターリン批判を始めたことで、毛沢東独裁体制を貫こうとする中国とソ連との間に対立の可能性が生じてきた。一方、中国共産党第八回党大会(zh:中國共產黨第八次全國代表大會)で採択された綱領に極めて異例なことに「毛沢東思想」という文言の削除と(毛沢東独裁でなく)党中央政治局による法の支配が明示され、毛沢東の権威はやや揺らぎを見せていた。

  このような背景の中、1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放百家争鳴とは「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」ということである。
  毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じられてきたが、定説は無い。日本では、周辺国との対立を前にして、中国の国力を増すための手段の一つとして実施されたとの見方が比較的有力である。また、毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、国内の「民主的諸政党」や知識人に対して党の官僚主義を批判することを求め、それにより、劉少奇鄧小平らの力を削ごうとしたためとも言われている。あるいは、作家のユン・チアンは百家争鳴運動とは始めから毛沢東が反対派を炙り出すための巧みなだったと断定している。

  百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、当初は三反五反運動胡風に対する弾圧などで自由に意見を言うことは憚られ、あまり盛り上がらなかった。そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部を呼んで最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。

  これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていった。知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判されるようになった。当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」と呼ばれた小規模な集会に限られていた。これは、批判の声に呼応して民衆が蜂起を企てることがないようにとの配慮であった。運動の中で、ある教授は憲法を紙くず同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベートーベンを指導できるのか?」と述べた。共産党幹部の一人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」と要求する者もいた。挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

  百家争鳴運動は地方でも行われた。内モンゴル大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、むやみに漢化すべきではない」と主張した。逆に言えば、これまで周辺の占領地ではこの程度の発言も許されていなかったということである。
  1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。ただし、この時毛沢東は「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べている

  1957年5月23日、北京大学の学生林希翎は教員学生集会で「胡風など中国政府に捕らえられている作家は、人民政府の矛盾の犠牲になっている」と批判した[9]1957年6月8日、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。1957年6月19日、人民日報に毛沢東が2月27日に行った演説を「転載」したとされる記事が掲載された。しかし、掲載された記事は毛沢東が行った演説を改変したものだった。記事は2月27日に行った党に対する批判を奨励する演説ではなく、その批判に様々な制約を付けたものだった。これによって党を思い切って批判した知識人たちは毛沢東によって社会主義政権破壊を画策した「右派」というレッテルを貼られた。知識人の粛清運動である反右派闘争は、この時から始まった。以後1976年に毛沢東が死ぬまで、中国で自由な言論が許されることはなかった。

第二次 百花斉放百家争鳴の挫折
  1986年5月当時、総書記であり中国国家での言論の自由化浸透を望んでいた胡耀邦により、再提唱が試みられる。しかし、同年9月に開催された六中全会にて保守派と長老グループにより棚上げされ、翌1987年1月16日の政治局拡大会議失脚した事で実現は叶わなかった。








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