SARSと中国-1(医療)
2023.12.03-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20231203-5MDN5TW6KRF6XFFGVLSFOEG7EQ/?outputType=theme_weekly-fuji
中国で急増する「呼吸器疾患」 悪夢の4年前とそっくりだ
(有本香)
まさにデジャブである。ネット上に流れている
中国東北部・遼寧省の病院だとする画像には既視感がある。
廊下にまでベッドが置かれ、「呼吸器疾患」急増で外来診療がパンクしかけている様子は、4年前(2019年)の今ごろ、中国湖北省の武漢で流行していた「謎の肺炎」のときとそっくりだ。
19年の年末には、人が突然倒れる映像や、病院内での大混乱といった「武漢での死の肺炎」を伝える映像はネットに多くあったが、日本の大メディアでは完全に無視されていた。筆者は20年の年明け一番の本コラムでこの疫病について寄稿したが、日本の大メディアが本格的に報じ始めたのはさらに遅く、1月下旬のことだった。
その後、この疫病は日本で「新型コロナウイルス(コロナ)」と呼ばれるようになった後の展開は皆さまご存じの通り。そしてこのとき、残念なことに日本政府の初動は他国に比して遅かった。
あえて振り返るが、20年1月末には米国が、中国からの航空便をすべて止めた。しかし、日本が同じことに踏み切るには、さらに2カ月を要した。1月末からマスクの買い占めが起き、ドラッグストアの棚から消えたが、マスク確保の対策にも日本は遅れた。
それどころか、2月中旬となってものんきに、都知事や一部の県の知事らは中国にマスクを献上していた。これに私を含む一部の論者は怒り心頭となり、当時は安倍晋三政権だったが、その初動を厳しく批判した。
あの悪夢の再来か―。
いま、中国の北部からは4年前の武漢を思わせるような情報が流れてきているが、果たしてわが国は、過去に学んで果断な初動を取れるだろうか。
11月24日、
日本の国立感染症研究所は
「中国で小児を中心に増加が報じられている呼吸器感染症について」という標題を付して、次のような発信をしている
(概要3点)。・・・●23年11月22日に中国北京市、遼寧省で小児を中心に肺炎像を伴う呼吸器感染症の増加がメディアで報じられた。・・・●報道では病原体診断についての言及がないものの、中国全土でマイコプラズマ肺炎、インフルエンザなどの呼吸器感染症が増加していると以前より報道されている。・・・●WHO(世界保健機関)は中国当局との会談を実施し、既知の病原体による呼吸器感染症によるものとして矛盾はないとしている一方で、今後冬季に入ることでさらに感染者が増加する可能性を指摘している。
中国当局の発表がまったく信頼に足るものでないことは痛いほど学んだはずだ。
WHOの発信も然り。一方、中国内部の状況に詳しい台湾当局はすでに、空港での水際対策を強化していると発表した。
台湾の衛生福利部によれば、
「空港や港湾では検疫所の警戒を強化したほか、中国や香港、マカオからの入国者に対し、症状がある場合は医療機関を受診するよう注意喚起している。また医療従事者らに対しては、受診者に関連する症状が見られた場合は渡航歴を確認するよう通知した」そうだ。
東京都心には今、19年当時を思い起こさせるインバウンド客復活の光景がある。岸田文雄首相に申し上げたい。疫病対策は初動が肝心。初動に「過剰」はない。いまただちに、中国からの入国制限を検討すべきときである、と。
有本香(ありもと・かおり)
ジャーナリスト。1962年、奈良市生まれ。東京外国語大学卒業。旅行雑誌の編集長や企業広報を経て独立。国際関係や、日本の政治をテーマに取材・執筆活動を行う。著書・共著に『中国の「日本買収」計画』(ワック)、『「小池劇場」の真実』(幻冬舎文庫)、『「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史』『「日本国紀」の天皇論』(ともに産経新聞出版)など多数。
2007 年度修士論文-
https://crmsj.org/document/SARS_china.pdf
SARS 事件から見た中国の危機管理に関する一考察
(A Study of China’s Crisis Management: In Case of SARS)
研究指導主査 川村仁弘教授 -研究指導副査
秋山昌廣教授 -
教大学大学院 21 世紀社会デザイン研究科 比較組織ネットワーク学専攻 06VM010Z
加藤洋子
(1)
序章 研究の背景と目的 本研究は、2002 年 11 月に中国で発生し、多くの人的被害と経済的損失をもたらした新 興感染症・SARS(重症急性呼吸器症候群)を事例にして、中国の危機対応を検証し、危
機拡大の要因を分析することにより、中国の危機管理を考察することを目的とする。 危機管理の定義は、多様であり定着した考え方はないが、本研究においては日本の内閣
法第 15 条で規定されている危機管理の定義を用いる。日本の内閣法第 15 条では、危機管 理とは「国民の生命、身体又は財産に重大な被害が生じ、又は生じるおそれがある緊急の
事態への対処及び当該事態の発生の防止をいう」と規定されている。また、中邨章による と、危機管理に長い経験を積むアメリカでは、危機管理を①事前準備(Preparedness)、
②応答性(Responsiveness)、③復旧性(Recovery)、 ④減災性(Mitigation)の 4 つの 要件から成り立つ概念と規定している(1)。この危機管理の要件に基づいて言うと、本研
究では主に「②応答性」の問題を取り扱い、その他要件に関わる問題についても論ずる。 中国について、あるジャーナリストが「見える中国」と「見えない中国」があると評し
ている(2)。見える中国とは公式に報道されるなどする世界であり、見えない中国とは公 式に報道されず、中国の一般大衆や外国人が容易に立ち入れない世界であるという。この
基準で見ると、日本における中国に対する理解は、ほとんど「見える中国」の範囲にとど まっている。特に、危機管理の分野はその性質上からも見えない部分が多い。しかし、SARS
事件では、一地方の公衆衛生問題が国際問題に発展するなど幾つかの条件が重なったため、 断片的ではあるが、中国の危機対応に関する少なからぬ情報が外部にもたらされた。また、
SARS の流行には、地方都市で発生し、主に広州市や北京市などの都市部で拡大したとい う特徴が見られた。中国には、都市と農村という異なる世界が存在し、都市戸籍者と農村
戸籍者という異なる身分等級が存在していると言える(3)。都市に住む人々にとって、そ れまで「得体の知れない疫病」とは立ち遅れた農村で流行るものであり、自分たちとは無
縁のものだという意識があった。ところが、SARS は都市部で発生し拡大したため、都市 住民、特にインテリと呼ばれる人々が大きな衝撃を受けた。このため、中国国内の様々な
分野の研究者が、それぞれの専門の視点から SARS の問題を論じた。この二点から、SARS 事件は中国の危機管理を研究する得がたい事例であると考える。
SARS は、国際社会におけるプレゼンスを高め大国としての自負を持ち始めていた中国 に、危機管理の脆弱性を露呈させ、国際社会での信頼を失墜させた。流行が拡大した主な
原因は初動の遅れにあるが、中国が流行初期段階において有効な封じ込め措置を講ずるこ とができなかったのは、SARS が新興感染症で当初病原体が不明であったこと及び情報隠
蔽、公衆衛生に対する意識の低さなどが原因だと認識されている。そして、それらは中国 共産党一党支配の政治体制による構造的問題或いは発展途上国としての問題に起因してお
り、さらには危機管理に問題があったとも指摘されている。しかし、それ以上の考察はほ とんどなされておらず、中国政府と中国社会がどのように SARS
に対処したのかについて も、断片的な報道があるのみで、あまり明らかになっていない。
(2)
中国の SARS をめぐる危機管理についての先行研究は、日本においては医学分野以外で は、唐亮ら 3 人の研究者の論文しか見あたらなかった。唐亮は、責任感と危機意識の欠如、
情報規制といった複合的な要素によって、中国が危機管理体制不在の状態に陥ったと分析 しているが(4)、主に情報操作の問題を取りあげており、複合的な要素に対する考察は詳
しくない。一方、伍国春は、SARS 事件によって「危機管理」という概念が中国に登場し たことは、危機管理の概念が社会システムの安全維持に拡大したことを意味すると指摘し、
さらに「人民日報」を材料に中国政府の SARS に対する認識の変化を分析しているが(5)、 SARS 事件の狭い事象を分析したにとどまっている。これ以外に、郝暁卿が人権と民主主
義の視点から SARS 事件の背景を分析している(6)。日本においては、郝の論文が最もま とまった研究であると考えられるが、そこからも SARS
危機拡大の問題構造全体を把握す ることはできない。中国においては、様々な分野の研究者が多角的な視点から SARS 事件 を分析しているが、断片的な研究ばかりである。中国共産党内部では体系的な研究がなさ
れているものと推察されるものの、公表されている先行研究は見あたらなかった。このほ か、台湾においても断片的な研究が散見されるのみである。 中国の
SARS 危機への対応に関する情報は断片的であるため、それだけでは得た情報が 何を意味するのか、その背景に何があるのかを理解することは困難である。しかし、断片
的な情報を組み立てて考察することにより、中国が SARS 危機にどのように対処したのか を明らかにできるものと考える。また同様に、断片的或いは限定的な研究や分析から
SARS 危機拡大の全体像を把握することは困難であるが、先行研究から危機拡大に関わる要因を 抽出し、それぞれの要因の関係を考察することにより、問題構造の全体像を把握すること
が可能となる。このような考察をもとに、幅広い角度から中国の危機管理を考察すること により新たな知見を得られるものと考える。また、このような観点に立って行う本研究は、
中国の危機管理研究の序論として一定の役割を果たせるものと考える。 次に、研究の方法と本論文の構成を簡単に述べる。
第 1 章においては、SARS の特性を述べたうえで、中国における SARS 流行の経過を概 観し、中国の公衆衛生体制と感染症行政の概況を述べる。流行の経過については、中国、
日本、世界保健機関(WHO)の複数の資料を照らし合わせ、流行の拡大につながった事 柄に焦点をあてながら、①発生から広東省内での流行の拡大、②他地域への拡散と北京市
での拡大、③国家的対応から制圧までの 3 段階に分けて概観し、検証する。次に、中国の 公衆衛生体制と感染症行政について、特に SARS 事件に影響を与えた医療保険制度及び都
市と農村格差の問題に重点をおいて基本概況を述べる。
第 2 章においては、中国の SARS への対応について、中国政府、マスメディア、都市住 民の視点から検証する。中国政府の対応では、政府の対応措置を概観し、さらに中国の意思決定メカニズムの特徴を述べたうえで、共産党中央の重要決定が実際にどのように下達
されたのかを検証することにより、SARS 危機対応の指揮系統を明らかにする。
(3)
また、緊 急対応組織の設置と緊急対応マニュアルなど緊急措置の発動についても論ずる。マスメデ ィアの対応については、中国政府による情報公開と報道統制の状況を明らかにしたうえで、
マスメディアがどのように対応したのかを検証する。また、国民の情報入手手段とマスメ ディアへの信頼度についても考察する。都市住民の対応では、市場経済化にともなう「単
位」社会の崩壊の問題を論じ、都市住民の対応と中国共産党の社会動員について考察する。
l 第 3 章においては、SARS 危機拡大の問題構造を明らかにし、危機拡大の要因を分析、 考察する。まず、中国、台湾、日本の論文と雑誌・新聞記事を材料に、危機拡大と関連の
ある要因を抽出し、構造モデル化手法の ISM 法(Interpretive Structural. Modeling)を もちいて危機拡大の問題構造を明示する。そして、問題構造に示された危機拡大に直接作
用した要因とその背景にある要因の因果関係を分析、考察する。さらに、問題構造の分析 及び第 2 章での考察を踏まえ、危機認知や意思決定など危機管理のプロセスの視点から考
察を加える。最後に、SARS 事件以降の中国における危機管理体制の整備状況と課題を述 べる。 ■注 (1)中邨章『危機管理と行政』ぎょうせい
2005 年、p.9 (2)焦国標(坂井臣之助訳)『中央宣伝部を討伐せよ』草思社 2004 年、pp194~195 (3)中国の戸籍は都市戸籍と農村戸籍に分かれており、都市への人口流入を抑えるため
に農村戸籍者の都市戸籍の取得は厳しく制限されている。1950 年代からの厳格な戸 籍制度によって、都市と農村を分割する二元的な社会構造が形成された。以前は、食
糧の配給制などがあったために農村戸籍者が都市に居住することは難しかった。 (4)唐亮「SARS をめぐる中国政治と情報」『国際問題』2003
年 12 号(525)、pp.56~ 70 (5)伍国春「中国における「危機管理」コンセプトの登場―「SARS」をめぐる「人民日 報」記事を手がかりに―」『名古屋大学社会学論集』2005(通号
26 号)、pp.117~134 (6)郝暁卿「SARS から考えたこと」『法政研究』Vol.71, No.4(20050309)九州大学法
政学会 pp.693~721
(4)
第1章 SARS 流行の経過と中国の感染症危機管理体制 1.1 SARS とは SARS とは、新型肺炎・重症急性呼吸器症候群(SARS:
Severe Acute Respiratory Syndrome)のことで新型のコロナウイルスにより発症する疾患である。2002 年 11
月、 中国広東省で原因不明の肺炎が発生し、短期間に世界 29 カ国・地域に流行が拡大し、2003 年 7 月に制圧されるまでに、世界 29 カ国・地域で感染者
8,098 人(死亡者 774 人)、中国 本土で感染者 5,327 人(死亡者 349 人)という人的被害を出した。WHO は 2003 年
3 月 に、この肺炎を SARS と命名し、その病原体が新型のコロナウイルスであると特定した。
SARS ウイルスに感染すると 2~10 日の潜伏期を経て、インフルエンザ様の前駆症状で 発症する。主な症状としては、38℃以上の発熱、咳、呼吸困難、下痢などがある。感染経
路は、気道分泌物による飛沫感染が中心であると考えられているが、排泄物からの経口感 染、特別な条件下での空気感染、一部の動物との密接な接触による感染の可能性なども否
定されていない。致死率は、症例の年齢群によって 0%から 50%以上に及ぶと推定され、 全体としての致死率は 9.6%と発表されている。 SARS
ウイルスは、従来知られていたコロナウイルスの突然変異であり、かつ動物由来 のウイルスであると考えられている。これまでに、中国で食用として売られている野生動
物のハクビシンから SARS コロナウイルスが検出されたほか、コウモリが自然宿主である とする報告があるものの(1)、いまだ断定されていない。
(5)
2003 年 7 月に流行が終息したのち、翌年 1 月、広東省において 3 例の市中感染が疑わ れる症例が再び報告された。さらに、同年 4
月にも北京市および安徽省において、実験室 内での感染と考えられる症例とその二次感染による 9 人(死亡 1 人)の患者が確認された が、どちらのケースも大規模な流行拡大には至らなかった。2004
年の感染で流行が拡大し なかった背景には、中国の感染症対策が進んだこと、そしてウイルスの変異により感染力 が弱まったことなどがあると考えられている。
中国政府は、2002 年 12 月中旬に広東省で集団感染が確認された直後、原因不明の肺炎 を非定型肺炎と特定し、その後、WHO が正式に SARS
と命名したのちも、非典型肺炎の 名称を使い続けている。なお、非定型肺炎は中国語で「非典型肺炎」といい、中国国内で はよく「非典」という通称が用いられている。
1.2 流行の経過 広東省で発生した SARS は、チベット自治区などを除く、全国 24 の省・自治区・直轄 市に拡大した。中国における
SARS の流行の経過を、①発生から広東省内での拡大、②他 地域への拡散と北京市での拡大、③国家的対応から制圧の三つの時期に分けて概観する。
1.2.1 発生から広東省内での流行拡大 (1)集団感染の発生 2002 年 12 月 15 日と 16 日、広東省河源市人民病院に、原因不明の肺炎患者が
1 人ずつ 入院した。患者はすぐに深圳市と広州市の病院にそれぞれ移送されたが、その直後、河源 市人民病院の医療従事者 8 人が院内感染により発症した。このため、河源市は広東省衛生
庁に支援を依頼し、2003 年 1 月 2 日、省から派遣された専門家チームに治療の指導を受
(5)
けた。河源市内では、この頃から既に「怪病(得体の知れない病気)」流行の噂が広まって おり、市内のドラックストアでは医薬品を買い求める人の長蛇の列が見られるようになっ
ていた。市民の動揺を抑えるため、1 月 3 日、河源市疾病予防対策センター(河源市 CDC) は地元紙『河源報』を通じて深刻な感染症ではないと発表したが、翌日、広州市の各メデ
ィアが河源市で原因不明の肺炎流行のニュースを報道したため、市民の動揺は広がり続け た。 その後の調査で、2002 年 11 月 16 日に仏山市で最初の症例が発生していたことが確認
された。11 月 14 日に閉会した中国共産党第 16 回大会で、胡錦濤が党総書記に選出され たばかりのことである。 (2)河源市が緊急対応
1 月 4 日午前 1 時半、河源市長が副市長及び人民病院、河源市 CDC、教育局、地元メデ ィア 4 社の責任者らを緊急招集し、市長の自宅で対応策を協議した。そして、その数時間
後に開かれた市の優良品創出大会で、市長自らが市民に対し動揺しないよう呼びかけ、さ らに翌 5 日、河源市と広州市のメディアを通じて、「気温が急激に下がったため、空気中
の雑菌による非定型肺炎が発生しているが、心配はない」と発表した。河源市政府のこの 発表の後、原因不明の肺炎に関するマスメディアの報道は一時的にほとんど消えた。そし
て、有効な対策がとられないまま、1 月 17 日から春節(旧正月)の帰郷や旅行の特別輸送 期間(2 月 25 日まで)に入った。 (3)中山市でも集団発生
中山市内の病院にも、1 月 2 日までに 10 人ほどの原因不明の肺炎患者が入院していた。 その後、患者はさらに増え、医療従事者 13 人も治療中に感染し発症した。中国疾病予防
対策センター(CCDC)の専門家チームが広東省衛生庁の関係者とともに、1 月 20 日から 23 日にかけて中山市に赴いて指導と調査を行い、その結果を衛生部(日本の厚生労働省に
相当)へ報告した。また同日、広東省衛生庁は「中山市の原因不明肺炎の調査報告配布に 関する通知」を省内の関係部門に送った。 1 月 27 日、広東省衛生部門に非定型肺炎対策に関する機密文書が中央の衛生部門から届
くが、3 日間放置された(2)。広東省衛生庁は、31 日になってようやく、機密文書の指示 にしたがって省全域の衛生部門と医療機関に「非定型肺炎患者の取り扱いに関する緊急通
達」(緊急機密文書扱い)を出すが、すでに春節休暇(2 月 1 日~7 日)体制に入っていた ため、ほとんどの医療機関において対策がとられなかった。
(4)広州市で爆発的流行 春節を迎えた広州市で、爆発的な流行が発生した。2 月 2 日、広東省衛生庁は広州市衛 生局と合同緊急会議を開き、専門家とともに対策を協議し、対策調整小組(対策本部)を設置した。
(6)
翌 3 日に「原因不明肺炎の予防治療に関する通知」を公布し、各市の衛生局に 対して対策本部の設置を指示した。2 月に入ってから、広東省では毎日
30~50 人の新規 患者が増え続けていた。このような中、インターネットや携帯メールを通じて「広東省で 死に至る感染症が流行している」との風評が広まり、広東省内では医薬品と日用品の買い
付け騒ぎがおこった。特に SARS 予防に効果があるとされた漢方薬、酢、マスクを買い求 める人が多く見られた。 広東省衛生庁の通達文書には、症例報告、予防措置、検体採集などについての指示が添
付され、抗生物質が有効ではないことが記載されていた。また広東省衛生庁が省政府に提 出した報告書には、医療従事者が治療中に感染していることなどが記載されていた。2
月 10 日以降、WHO が中国側に何度も情報の提供を要請したにも拘わらず、この文書の内容 が WHO に伝えられたのは 4 月上旬になってからであった。このため、WHO
関係者はこ れらの情報が早い時期に伝えられていれば、世界各地での流行を早期にコントロールでき た可能性があると指摘している(3)。 (5)広東省が本格的対応を開始
2 月 7 日、広東省衛生庁の緊急報告が、李鴻忠副省長を通じて省党委員会と省政府に伝 えられた。報告を受けた張徳江広東省党書記は SARS 対策の徹底を指示し、さらに翌日、
党中央と国務院へ報告をおこなった。この日から各医療機関に症例のゼロ報告制度(4)が 義務付けられ、省党委員会、省政府および衛生部に毎日報告がなされるようになった。そ
して 2 月 9 日、国務院の指示を受けた馬暁偉衛生次官が、専門家チームを率いて広東省で 調査を実施した。 2 月 10 日、省党委員会宣伝部が報道統制を実施し、党宣伝部が作成した統一原稿の使用
を義務付け、検閲を受けていない記事の報道を禁止した。宣伝部の指示に従った地元メデ ィアが統一原稿に基づいて、一斉に「広東省の一部で原因不明の肺炎が流行しているが、
専門家は予防に留意すれば心配はないとしている」と報道して沈静化を図ったが、人々の 動揺は収まらなかった。 この日、WHO 中国事務所に「広東省で奇妙な感染症が流行し、100
人以上が死亡して いる」とする電子メールが届くとともに、某国の中国駐在大使館からも問い合わせの電話 が入ったため WHO 中国代表はすぐに、衛生部に対し情報の開示と調査チームの受け入れ
を要請した。しかし、中国側は当初これに難色を示し、2 月 23 日になってやっと北京市に 限定した調査が許可されるという情況であった。しかも、広東省での調査は許可されず、
症例についての詳細な議論にも中国側が応じないという情況が 3 月に入るまで続いた。 (6)広東省が初めて公式発表 張徳江党書記が 2 月 11
日に、副省長、衛生部の専門家チームとともに情況を分析し、「流
(7)
行は既にピークを過ぎており、基本的に封じ込められている」との判断を下した。そして、 関係部門に対して「早急に記者会見を開き、権威ある専門家によって世論を誘導する」よ
う指示した。またこの日、公安部長からの指示により、省公安庁党委員会の会議が開かれ、 省の公安系統は高度警戒態勢に入った。さらに同じ日、省衛生庁と広州市政府が記者会見
を開き、初めて肺炎流行について公式に発表した。発表では、「感染者数 305 人、死亡者 5 人、そのうち医療従事者の感染者が 105 人であり、流行はすでに効果的に封じ込められて
いる」とされた。この発表を受けて、中国各地のメディアが一斉に報道を行い、その後、 広州市での買い付け騒ぎは下火になった。しかし、流行は依然として拡大を続けていた。
2 月 18 日、国営通信社の新華社は非定型肺炎の原因はクラミジアであると報道し、さら に CCDC の主任も CCTV(中央テレビ)の番組で病原体はクラミジアであると発表した。
これに対して、中国最高峰のアカデミーとされる中国工程院(工学科学の最高諮問学術機 構で政府の諮問機関)院士でもある鐘南山・広州呼吸器研究所長らの専門家は、新型ウイ
ルスの可能性を示唆し、病原体をクラミジアであると断定して治療をおこなう危険性を指 摘した。しかし、この警告が取り上げられることはなく、また、地元メディア
1 社がクラ ミジア説に否定的な専門家の見解を報道したものの、このニュースも広まらなかった。 かりに病原体がクラミジアであれば、抗生物質が有効であるが、先に通達された広東省
の文書には抗生物質が有効でないと記載されており、不可解な矛盾が生じていた。しかし、 人々はクラミジアによる肺炎の治療は容易であるとの報道を信じ、平静を取り戻した。ク
ラミジア説に否定的な見解を報道したメディアは、当局から批判されたと伝えられている。 この後、肺炎流行に関する報道は 3 月末までほとんどなくなる。
11 月下旬、広東省党委員会書記に就任した張徳江は、前共産党中央総書記の江沢民との 関係が深いと言われ、就任直後から広東省のメディア管理を強化し、SARS
に関する報道 も厳しく規制した。情報公開をめぐっては、黄華華省長と林樹森広州市長が、張徳江書記 と激しく対立したことが伝えられている。 1.2.2
他地域への拡散と北京市での拡大 (1)他地域への伝播が始まる 広東省政府によって「流行は沈静化している」とされ、関連の報道が消えた中で、SARS
は静かに拡散し続けていた。1 月 4 日に広西チワン族自治区で最初の患者が確認され、2 月 10 日に四川省、2 月 17 日に湖南省、2 月
27 日に山西省で患者が確認された。これらの 症例はいずれも広東省内で感染し、その後各地へ移動し発症したものであった。 2 月 12 日、衛生部が北京市内の
11 の病院を非定型肺炎の定点観測病院に指定し(4 月 13 日に公表)、さらに翌日、関係部門と医療機関に非定型肺炎の診断基準を通達した。ま
た、CCDC が 17 日から、広東省、湖南省、四川省、広西チワン族自治区、北京市、上海 市のサーベイランス情況を毎日電話で聴取し始めたが、有効な制御措置は講じられなかった。
(8)
1 月 17 日から 2 月 25 日までの春節特別輸送期間中に、中国全土で帰郷や旅行のため に移動した人はのべ 18 億人にものぼった。
(2)スーパースプレッダー(毒王)(5)の出現 2 月 21 日、広東省の医師が香港のメトロポール・ホテルの 9 階に宿泊した。この医師は、
広東省で SARS 患者の治療にあたり、2 月 15 日から身体に不調を感じていたという。病 状が悪化した医師は 22 日に香港の病院に入院し、3
月 4 日に死亡した。この医師と同時期 に同じホテルの 9 階に宿泊した数人がベトナム、カナダ、シンガポールへと移動し、その 直後、彼ら宿泊客とホテルを訪問した客が原因となって、ベトナム、トロント、シンガポ
ール、香港の医療機関で集団発生が起こった。WHO には 3 月 15 日までに 150 例を超え る症例(中国大陸は除く)が届けられ、その症例の疫学的分析から航空機による海外旅行
のルートに沿って広がったことが判明した。しかし、中国政府はこれに対して、中国と香 港などで流行している肺炎との間に因果関係は認められないという態度をとり続けた。
(9)
スーパースプレッダーとなった広東省の医師が香港のホテルに宿泊した 2 月 21 日、中 国軍事医学科学院は検体からコロナウイルスを検出していた。そして、2
月 26 日にウイル スの分離に成功していたが、この事実は 4 月 11 日まで公表されなかった。 (3)北京で最初の症例 北京市内にある 302
病院(人民解放軍の医療機関)で、3 月 1 日に北京市としては最初 の症例が確認されていた。しかし、この事実が公表されることがないまま(4 月
12 日に公 表)、3 月 3 日には全国人民政治協商会議(6)が、そして 5 日には全国人民代表大会(日本 の国会に相当)が開会した。全国政治協商会議において、政治協商委員をつとめる鐘南山・
広州呼吸器疾患研究所長が、病原体をクラミジアと断定することの危険性を再度訴え、さ らに非定型肺炎対策を強化するよう主張したが、やはり取り上げられなかった。6
日、『南 方都市報』(広東省の地元紙)が鐘南山の談話などを報道したが、他のメディアは依然とし て沈黙を保ったままであった。 CCDC は、3
月 4 日に初めて WHO と広東省の症例についての議論に応じた。WHO は、 この議論を通じて新興感染症の可能性を疑うようになっていった。
(4)WHO が渡航延期勧告 中国が沈黙する中、海外で感染が拡大し続けた。WHO は 3 月 12 日に全世界に警告 (Global Alert)を出すとともに、中国に対して調査団の受け入れを再度要請した。これ
に対し、中国側は全国人民代表大会が 18 日まで開催されていることを理由に、調査団の 派遣を延期するよう求めた。WHO は 15 日、原因不明の非定型肺炎を正式に
SARS と命 名すると同時に、渡航延期勧告を発表し、SARS は「健康に対する世界的脅威」であると 宣言した。 SARS と命名されたその日、胡錦濤が国家主席に選出され、江沢民が中央軍事委員会主
席に留任し、翌 16 日に温家宝を首相とする新内閣が成立した。この頃から、インターネ ットの BBS で、「北京で SARS が流行している」との書き込みが多数見られるようになっ
た。WHO は 16 日に広東省と香港を感染地域に指定した。 (5)中国は沈静化を強調 3 月 18 日、外交部の記者会見が開かれ、中国政府は初めて公式の場で
SARS 流行につ いて触れ、「新たな情報はない。広東省の流行は効果的に封じ込められている」と発表した。 その翌日、張文康衛生相が WHO 中国代表と会見し、「流行は封じ込められており、ほと
んどの患者がすでに治癒している」との見解を繰り返した。WHO の調査団が 23 日に北京 に到着するが、広東省での調査の許可がおりず、北京に足止めされた。
北京市衛生局は、26 日、「市内で香港と山西省からの輸入例 8 例が確認されたが、すで に有効に封じ込められている」と発表した。この日、WHO
が北京市を感染地域に指定し、
(10)
SARS の病原体を探していた WHO の多施設共同研究ネットワークの複数の施設から、新 型のコロナウイルスが検出されたと報告された。このネットワークに3月下旬から参加し
た中国は、この報告を知ったのちも、病原体はクラミジアであるという主張を一貫して曲 げなかった。 3 月 31 日、米ウォールストリート・ジャーナルに「中国を隔離せよ」と題する中国の対
応を批判する社説が掲載されるなど、この頃から中国に対する国際的な非難が徐々に高ま っていった。 1.2.3 国家的対応から制圧まで (1)新政権の始動と布石
4 月に入ると、中国政府の対応に変化が見られるようになった。4 月初めから、国の指 導者が SARS 対策を重要課題と位置づけ積極的に対応する様子が、共産党機関紙『人民日
報』や国営テレビ局 CCTV などのメディアで報道されるようになる。 1 日、呉儀副首相が CCDC を視察し、2 日に、温家宝首相が主催する国務院常務会議に
おいて、SARS の制御が当面の保健衛生事業の最重要課題として位置づけられ、衛生相を トップとする SARS 対策指導小組(対策本部)と省庁間連絡会議を設置することが決定さ
れた。また、WHO の広東省での調査が 3 日から 8 日までの日程で許可されたほか、CCDC の SARS に関する広報活動も活発に行われるようになった。そして、呉儀副首相が
5 日に 再び CCDC を訪れ、6 日には温家宝首相も CCDC を視察した。この様子は、主要メディ アを通じて全国に報道され、中国政府が
SARS 問題を重要視していることを強く印象づけ た。さらに、呉儀副首相は 5 日の視察の際に、「突発性公衆衛生事件応急対応体制」の構 築の必要性を強調し、緊急対応時の指揮一元化へ向けた布石を打った。7
日、SARS 対策 指導小組の下に作業グループが設置され、北京市も党委員会と政府の会議を開いて SARS 対策の徹底を指示し、具体的な制御措置を講ずるようになった。また、7
日以降、重慶市 や安徽省を初めとする各地、そして各部門で相次いで対策指導小組が設置された。 しかし、この一方で、中国政府は依然として事態を楽観視する姿勢も見せていた。例え
ば、4 月 1 日の外交部の定例記者会見では「すでに沈静化している」とし、2 日には、張 文康衛生相が CCTV の番組で沈静化したことを強調している。さらに翌日の国務院の記者
会見でも、衛生相が「すでに沈静化している」と述べ、WHO の旅行延期勧告が撤回され るとの見通しを示している。また 4 日には、国家観光局が外資系旅行社向けのブリーフィ
ングにおいて、中国の安全性を強調し、「WHO の勧告は誤りである」と述べている。 このような中、5 日、出張で北京を訪れていた国際労働機関(ILO)のアロ局長が
SARS で死亡した。アロ局長はタイから中国に向かう飛行機内で感染したと見られているが、ア ロ局長の北京での客死は、国際社会や国際機関にとって中国に情報開示を迫る大きな契機
となった。
(11)
(2)老医師の告発 4 月 8 日付けのアメリカの雑誌『TIME』(WEB 版)が、301 病院(解放軍総参謀部直 轄の医療機関)の蒋彦永医師の「感染者数や死者数を過少に偽って公表している疑いがあ
る」とする内部告発文書を掲載した。これにより、中国に対する国際社会の非難の声が一 気に高まった。同じ 8 日、衛生部が内部文書の形式で、SARS
を法定伝染病に指定する通 達を出し(国内メディアの報道は 14 日)、北京市が市民向けの 24 時間ホットラインを開 設した。9 日、CCDC
と軍事医学科学院との研究協力が始まり、解放軍側から関連資料が CCDC に提供されるようになった。また 11 日には、国務院台湾事務弁公室の記者会見で、
鐘南山が広東省の情況について、「症例が増加し続け、病原体を解明できていない段階で、 SARS を封じ込めたとするのは不適切である」との見解を示した。この頃から、少しずつ
ではあるが、SARS 封じ込めのための措置が着実に実行されていくようになった。しかし、 この一方で、衛生部と北京市は依然として「沈静化している」との主張を繰り返していた。
(3)国家的対応へ 4 月 13 日、国務院が初めて全国 SARS 対策会議を開催した(メディアがこのニュース を報道したのは 4 月 21
日)。その会議で、温家宝首相は、「SARS 制御が依然として厳し い情況にあり、国を挙げて対策に取り組む必要がある」とし、さらに「観光、交通、ビジ
ネス、対外往来に一時的に影響がでるのは避けられないが、これに対して長期的な視野で 対応することが必要である」と指摘し、SARS 対策の強化を強調した。一方、この日、胡
錦濤は広東省 CDC を視察し、広州市の街角で市民らと交流した。国務院の会議に先立つ 11 日には、「交通機関による SARS 感染の予防強化に関する通達」が出されており、この
頃から各部門において相次いで具体的な措置がとられるようになった。 17 日、胡錦濤総書記が共産党中央政治局常務委員会会議を緊急招集し、SARS
対策を党 と国の最重要課題として取り組むことを決定した。この会議で、各級党・政府に対し情報 の隠蔽を許さないことが強調されるとともに、北京市の
SARS 聨合指導小組の設置が決定 された。この会議を受けて、同日、北京市党委員会常務委員会拡大会議が開催され、中央 政治局常務会議の指示が伝達されたうえで、SARS
との戦いを「人民戦争」と位置づける ことなどが確認された。翌 18 日、党中央弁公庁と国務院弁公庁が「SARS 対策強化に関 する通知」を公布し、各地に
SARS 対策指導小組を設置し、各所轄地域における一元指揮 体制を実施することを指示した。これにより、ようやく SARS 対策の指揮系統が一元化さ
れ、軍を含めた挙国一致体制ができあがった。 4 月上旬、胡錦濤や温家宝など最高指導者たちが、楽観的な現状認識をもっていたとす る分析があるが(7)、少なくとも
4 月初めからは、胡錦濤と温家宝は危機感をもって、4 月 17 日までの間、国家的対応体制の構築に向けて着実に布石を打っていたものと考える。
確かに、4 月に入ってからも胡錦濤、温家宝、呉儀はともに楽観的な見通しとも受けとれる発言をしているが、それと同時に、中国政府が SARS 対策を重視していることを印象づ
ける報道も、官製メディアによってなされている。
(12)
また実際に、4 月 1 日から胡錦濤、温 家宝、呉儀が SARS 対策の前線に姿を見せ、4 月 7 日以降、相次いで各組織や各地で SARS 対策本部が設置され、本格的な対応へ向けて始動している。 さらに、4 月 9 日には、胡錦濤の権力基盤の一つである共産主義青年団の機関紙『中国 青年報』に、突発事件において人々の知る権利を尊重すべきであるとする論評が掲載され、 11 日には、上述したように国務院の記者会見で鐘南山が「まだ封じ込めたとは言えない」 との見解を述べている。このほか、10 日から 14 日にかけて、過去の SARS に関する幾つ かの重要な事実が公表されている。例えば、2 月から 3 月にかけて広東省で公布された幾 つかの重要な文書や通達の内容、軍事医学科学院による検体からのコロナウイルスの分離、 北京市の定点観測病院の指定などである。これら一連のことは、政権の意向を踏まえなけ ればできないことであり、胡錦濤の指導下にある権力の意思を反映したものと考えられる。 また、国家指導者の現場視察などのパフォーマンスや官製メディアによる報道は、党と政 府の国民に対するメッセージの発信や世論誘導のためによく利用されている。このような 情況から、少なくとも 4 月初めから、SARS 対策の分水嶺となった 4 月 17 日の会議まで の間、胡錦濤らが相当の危機感をもって、政権内部の調整と世論形成を行っていたものと 分析される。 当時、軍事委員会主席を留任した江沢民と胡錦濤の間に権力闘争があったことが、多く の研究者によって指摘されているが、上述したように 4 月初めから 4 月 17 日の会議まで の経過から、二つのパワーがせめぎ合う中で、胡錦濤が着実に布石を打っていった様子が 窺える。このような視点から見ると、蒋彦永医師の告発もこの流れの中の行動であったと も推察できる。蒋医師の告発の動機が、純粋に個人的な正義感によるものなのか、それと も何らかの政治的背景があったのかは不明であるが、結果として胡錦濤の追い風になった ことは興味深い。 (4)人民戦争「硝煙なき戦い」 4 月 20 日、張文康衛生部長と孟学農北京市長が解任された。張文康は、上海の軍病院の 出身で、江沢民の健康管理を担当していたこともあると言われ、孟学農は共産主義青年団 の出身で、胡錦濤に近い人物であると目されている。このため、この人事は、双方のバラ ンスをとったものであるとの見方が多い。後任の衛生部長には呉儀副首相(兼任)、北京市 長には王岐山・前海南省党書記が任命された。この日の国務院の記者会見で、高強衛生次 官が感染者数を大幅に修正して公表し、さらに衛生部の SARS 対策に失策あったことを認 めた。公式の場で次官が失策を認めるたことは、異例のことである。この日を境にして、 情報が積極的に公開されるようになり、メディアによる報道も急激に増加した。 4 月 23 日には、国務院常務会議で国家 SARS 対策指揮部(「国家防治非典型肺炎指揮部」) の設置が決定され、呉儀副首相が総指揮に就任した。また同時に、SARS 対策のための基金として 20 億元を拠出することも決定された。
(13)
この頃から、メディアが「硝煙なき戦争」 という言葉を使い始め、医療従事者などSARSとの戦いの第一線で奮闘する人々を賞賛し、 人心を鼓舞するための報道が目立つようになった。報道の増加を背景に、北京市が封鎖さ れるとの噂が流れ、市内で生活必需品の買い付け騒ぎがおこり、物価の高騰を招いたり、 市内の大学生や出稼ぎ労働者が故郷に避難したりする現象も一部に見られたが、官製メデ ィアとそれに追従した各種メディアによって、一致団結して SARS と闘うという世論が急 速に形成されていった。 江沢民・中央軍事委員会主席が、4 月 26 日に上海市でインドのフェルナンデス国防相と 会談し、「一連の SARS 対策を講じた結果、SARS 制御において顕著な成果をあげた」と し、さらに「人々が心を一つにして取り組めば最終的に勝利できる」と発言して、波紋を 呼んだ。表 1‐2 で示すように、この頃、患者数は増加し続けていた。北京市内では 4 月 下旬から 5 月 9 日まで、毎日新規患者が 50 人以上にも達し、大学の宿舎、コミュニティ、 病院などが集団発生のために相次いで隔離されるという情況にあった。
江沢民は、4 月上旬から SARS が流行してない上海市に避難していたと見られていたが、
この会談の様子がメディアで伝えられると、インターネット上では、自分だけ安全な場所
に避難していながら、SARS 対策に全力をあげていると語った江沢民への批判が殺到した。
(14)
また、胡錦濤、温家宝、呉儀が連日のように現場へ赴いてリーダーシップを発揮していた 一方で、江沢民に近いと言われていた呉邦国・全国人民代表大会常務委員長、賈慶林・政
治協商会議主席、曾慶紅・国家副主席、黄菊副首相は、4 月末から 5 月初旬になって初め て SARS との戦いの前線に姿を現した。このため、SARS
対策に積極的に取り組んでいな いとの印象を人々に与え、胡錦濤ら第一線で奮闘する指導者へ国民の支持が集まった。 香港の『成報』は大陸の消息筋の情報として、中国政府が戦時指導体制をしいて、第一
線で指揮にあたる A グループ(胡錦濤、温家宝、呉儀)、感染の機会を減らすため公の場 には出ない B グループ(曾慶紅、呉邦国、黄菊)、地方へ避難するリタイヤ組の
C グルー プ(江沢民、朱鎔基、李鵬)に分けたとしている。また、曾慶紅らは保身のために事態の 推移を見守っていたとする見方もあるが、真相は不明である。
(5)制圧 4 月下旬から、移動の自由の制限、物価安定、医療、経済的救済など様々な措置が講じ られ、SARS 制圧のための必死の戦いが繰り広げられた。北京郊外では、4
月 24 日から SARS 治療専用の小湯山病院(病床数 1000 床)の建設が始まり、5 月 1 日から患者の受 け入れを開始するなど、患者の隔離治療体制も一層強化された。
4 月 29 日、シンガポールのゴー・チョクトン首相の発起により、SARS 対策を協議する ための東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国の特別首脳会議がバンコクで開かれ、温家
宝首相が出席した。会議では、中国に対する厳しい発言が相次いだものの、中国は SARS 対策への積極姿勢を示し、国際的に一定の評価を受けた。 5
月中旬になると、河北省が WHO の渡航延期勧告地区に指定されたり、新疆ウイグル 自治区で初症例が確認されたりするなど、流行が拡散する地域もあったが、表
1-2 で示 すとおり、全国的には新規症例数が徐々に減少していった。5 月 13 日に、「突発性公衆衛 生事件緊急対応条例」が公布され、緊急対応体制の法的な整備も進められた。そして、5
月 30 日、北京市が段階的な成果をおさめたと宣言し、6 月 2 日には、遼寧省を視察中の温 家宝首相が「党中央と国務院の指導のもと、全国人民の努力により、SARS
対策は顕著な 成果をおさめ、新規症例数は顕著に減少し、流行は一層沈静化した。これは中央が講じた 措置が正しかったことを証明している」と述べて、これまでの成果を評価した。6
月中旬 には、閉鎖されていた北京市内の学校も相次いで再開された。 6 月 14 日、『北京晩報』が 1 面トップに「SARS との戦いに基本的に勝利し、日常の生
活が戻ってきた」とする記事を掲載した。6 月 24 日、WHO は最後まで残っていた北京市 の渡航延期勧告を解除した。そして、7 月 5 日に、WHO
は台湾の「最近の域内伝播」地 域の指定を解除し、ついに「SARS の集団発生は、世界中で封じ込められた」と発表した。 こうして 2002 年
11 月に始まった SARS との戦いは終わりを告げた。
(15)
1.3 中国の公衆衛生と感染症 中国は、中華人民共和国成立直後から、本格的に公衆衛生の整備に着手しているが、特 に近年の経済発展や教育水準などの向上に伴い、公衆衛生水準は大きく向上した。しかし、
農村部においては、いまだ公衆衛生が十分に整備されていない地域もある。地域間の経済 格差が広がる中で、公衆衛生資源の不均衡や医療費の上昇の問題が深刻になりつつある。
1.3.1 公衆衛生体制 (1)行政組織 公衆衛生行政を担う主たる国家機関は衛生部であるが、表 1‐4 で示すとおり、その他 国家機関も関与しており、権限は分散している。感染症行政の主管部門は衛生部疾病予防
コントロール司であるが、感染症の研究やサーベイランスなどについては、衛生部の直属 機関である CCDC(元中国医学科学院)が担当している。省・地区(市)・県級政府にも
それぞれ衛生庁(局)と CDC が設置されている。しかし、軍の衛生系統については、軍 が管理をしているため、SARS 対策の初期段階において、行政の衛生部門と情報が共有さ
れないという問題が発生した。このほか、公衆衛生の改善のために、1952 年から「愛国衛 生運動」(8)も展開されている。この活動は、中央政府の指導のもとで実施され、国民の衛
生意識向上に大きな役割を果たしてきた。
(16)
(2)保健医療資源の情況 2006 年末の全国の医療提供施設総数は 30.9 万施設、1,000 人当たり病床数は 2.5 床(都 市部
3.7 床、農村部 1.5 床)で日本の約 6 分の 1 である。医師総数は 199 万人(そのうち 医師(士)資格をもつのは 161 万人)、都市部
134 万人(有資格者 115 万人)、農村部 65 万人(有資格者 46 万人)、1,000 人当たり医師数は都市部 2.20 人(有資格者
1.88 人)、農 村部 0.96 人(有資格者 0.68 人)となっている。有資格者には大学医学部卒業者だけでな く、医療専門学校の卒業生などもいる。有資格者以外にも、正規の医学教育を受けずに、
中学や高校卒業後一定期間の研修・実務を受けて診療に従事している郷村医とよばれる医 師もいる。このように医師の教育背景が大きく異なるため、中国の保健医療資源の水準を
(17)
測るさいには、医師の数だけなく、医師資格の種類(9)や教育背景も考慮する必要がある。 都市部には、総合病院や専門病院のほかに、地域連携医療における一次医療と地域リハ
ビリテーションサービスを提供するコミュニティ衛生サービスセンター(ステーション) がある。全国に、2,077 のコミュニティ衛生サービスセンターと
20,579 のコミュニティ衛 生サービスステーションがあり、一部のセンターには病床が設置されている。 一方、農村部では、県・郷鎮・村の三つのレベルからなる衛生サービス・ネットワーク
の整備が進んでいる。県レベルの施設には、診療機関である県級病院のほか、県 CDC(防 疫ステーション)、母子保健所(院)、県衛生監督所があり、基本的にこの三つの組織で日
本の保健所の機能を担っている。郷鎮レベルには、この三つの組織と診療機関の機能を備 えた衛生院が設置され、行政村には村衛生室が設置されている。2006
年末現在、全国 1,636 県に県級病院 5,673 施設、CDC1,726 施設、母子保健所 1,141 施設、衛生監督所 1,141 施
設があり、34,700 の郷鎮に 40,000 の衛生院がある。郷鎮衛生院の医師数は 39 万人で、1 院当たりの病床数は 17.4 床である。村衛生室は、全国
624,680 村のうち約 88%の 550,365 村に設置されている。村衛生室には郷村医 91 万人、衛生員 5 万人が配置されているほか、
近年、村衛生室への医師(士)資格者の配置を推進するようになったため、2006 年末現在 で、10 万人の医師(士)資格者数が診療に従事している。郷村医と衛生員を合わせた数は、
1 村当たり 1.53 人、人口 1,000 当たりでは 1.11 人である。郷鎮衛生院と村衛生室が農村の一部の一次診療や予防接種等を担当している。
(18)医療資源は都市部への集中が見られ、人口の約 56%を占める農村部では低水準となって いる。表 1-5 は、病院と郷鎮衛生院の医師の教育背景を示したものであるが、この表か
らも医療資源配分不均衡の一端が分る。
(3)医療保険制度 中国の医療保険制度は、都市と農村の二元構造になっている。都市部には、公務員、事 業組織、企業の従業員及びその退職者に対する都市基本医療保険制度がある。従来は、公
務員を対象とした公費医療制度、公有制企業従業員を対象とした労働保険医療制度に分か れていたが、1999 年に統合され、さらに被保険者の対象が都市部の非公有制企業従業員に
も拡大された。統合後、公務員に対しては、従来の公費医療制度の水準を維持するために、 基本医療保険に上乗せ給付を行う公務員医療補助制度を実施している。しかし、経済的な
理由などから、医療保険に加入していない都市住民が 40%以上にものぼっている(10)。ま た、一部地域では、高額医療費の補填や特定困窮者への医療補助制度などを実施している
が十分ではなく、地域間の格差も大きい。 一方、農村部では、1950 年代から互助共済医療保険である農村合作医療制度が導入され、 人民公社の設立にともなって急速に発展し、1970
年代前半には全国の約 90%の村に普及 した。しかし、1970 年代後半から人民公社の解体によって制度の維持が難しくなり、1985 年には普及率が約
5%にまで低下した。このような情況のなか、病気になっても治療を受 ける経済力のない農民が半数にものぼるともいわれるようになり、農村の医療保険改革が
急務となった。中国政府は、2003 年から新型農村合作医療制度の導入を初め、その後、順 調に普及が進み、2006 年末には全国で4.1 億人が加入している。しかし、この制度で受
けられる保障は、都市基本医療保険制度と比べるとかなりの格差がある。このほか、法定 伝染病や一部の風土病などについては、無償治療や医療費補助の制度が実施されている。
(4)保健医療事業支出 改革開放後、保健医療事業の支出は急激に増加し、1980 年には 143 億元であったのが、
(19)
1990 年には 2,155 億元となり、さらに 2000 年には 4,586 億元に増加した。その後も大幅 な増加を続け、2005 年には
8,660 億元に達した。保健医療事業の支出の増加の背景には、 国や地方による保健医療サービスの強化だけでなく、医療費の高騰という問題がある。現
在、医療費高騰は、保健医療インフラの整備不足とともに大きな社会問題となり、「医療難」 問題と呼ばれている。中国政府もこの問題を重視し、2005
年と 2006 年の全国人民代表大 会で温家宝首相が行った政府活動報告において、「看病難、看病貴(診療を受けるのは容易 ではなく、受けられても高すぎる)」問題の解決に努めることを強調している。
保健医療事業支出に占める個人支出の割合を見ると、1980年には21.2%であったのが、 2000 年には 59%まで上昇している。この点からも、家計の医療費負担が増加しているこ
とが推察される。その後、保健医療事業への中央財政支出を大幅に増加させるとともに、 医療制度改革を進めるなどした結果、2005 年の個人支出の割合は
52.2%に減少したもの の、依然として高い水準にある(12)。また、医療機関の整備や公衆衛生サービスの提供を、 医療機関の医業収入からの自己負担と地方財政に大きく依存しているため、地域間格差が
広がっている。都市と農村、沿海部と内陸部の格差の問題が顕著で、特に内陸部の医療保 険が未整備で所得の低い農村においては、「医療難」がより大きな問題になっている。なお、
2006 年の 1 回当たり外来の平均診療費は 128.7 元、医薬品費 65 元、1 回当たりの入院治 療費は 4,668.9 元、医薬品費は
1,992 元であった。
1.3.2 中国の感染症行政と感染症危機管理体制 (1)中国の感染症の情況 経済発展と保健衛生水準の向上を背景に、全国的に感染症の発病率は減少傾向にある。
特に都市部では、慢性疾患患者が増加しつつあり、先進国型の疾病構造に近づいているが、 農村部では、結核を含む感染症、新生児感染症などが依然として多い。また、都市部でも
農村部からの流入人口の増加やペットの犬や猫の増加などによって、肝炎や狂犬病など一部の感染症が増加傾向にある。
(20)
2006 年の甲・乙類法定伝染病(27 種)の発病率は 266.83/10 万人(2003 年は 192.18 /10 万人)、死亡率は
0.81/10 万人(同 0.48/10 万人)であった。発病率の上位 5 位は ウイルス性肝炎(102.09/10 万人)、肺結核(86.23/10
万人)、赤痢(32.36 人/10 万人)、 梅毒(12.80/10 万人)、淋病(12.14/10 万人)で、死亡率は、狂犬病、鳥インフルエン
ザ、HIV、新生児破傷風、流行性脳炎の順に高くなっている。現在、HIV 感染者は 83 万 人、肺結核患者は 450~500 万人にのぼり、年間約
13 万人が肺結核で死亡している。 (2)感染症法制 「伝染病防治法」が 1989 年から施行されているほか、「伝染病防治法実施弁法」(1991
年施行)、「国境衛生検疫法実施細則」(1989 年施行)、「国内交通衛生検疫条例」(1999 年 施行)など一連の感染症法令が定められている。「伝染病防治法」は、感染症の予防、制御、
撲滅を目的とし、感染症を甲、乙、丙類の三種類に分けているが、分類ごとの対応につい て細かく規定しておらず、どの感染症においても、隔離・封鎖などの措置をその時ごとに
通達し、実施することができるようになっている。 SARS の反省を踏まえて、2004 年に「伝染病防治法」が改正された。この改正によって 感染症分類が変更されたほか、院内感染防止の強化、サーベイランス制度の整備、感染症
流行時の制御措置の充実、財政保障の強化、人権保護と社会公共利益の維持の均衡などの 規定が整備された。改正後の規定によると、甲類はペストとコレラの
2 種類、乙類は SARS、 鳥インフルエンザ、ウイルス性肝炎、HIV など 25 種類、丙類はインフルエンザ、流行性 耳下腺炎、住血吸虫症など
10 種類である。SARS と鳥インフルエンザは、2004 年の改正 によって法定伝染病に新たに加えられた。 (3)予防接種体制 予防接種は
1950 年代からすでに都市部を中心に実施されていたが、1978 年に衛生部が 「予防接種強化に関する通知」を公布し、本格的に推進されるようになった。1980
年代に 入ると、中国は WHO が提唱する拡大予防接種計画(EPI)に参画し、BCG、ポリオ、DPT (ジフテリア・百日咳・破傷風)、麻疹、B
型肝炎ウイルス(1992 年以降)の予防接種事 業を強化し、一連の関連法を整備した。現在、これら 5 種の予防接種については、流動人 口を含めた接種対象者全てが、原則として無償で受けることができるようになっている。
また、2004 年の伝染病防治法の改正を受けて、2005 年にワクチン費用などの明確化を図 る法令が定められている。 (4)感染症サーベイランス体制
感染症の発生動向を監視、調査するサーベイランスは、感染症の制御にとって極めて有 効な手段となる。感染症サーベイランスには、疾病サーベイランス、病原体サーベイランス、血清疫学調査が含まれ、疾病サーベイランスは、全症例の報告を義務づける全数報告
と定点指定機関のみが報告する定点報告に分けられる。
(21)
またサーベイランスの方法として、 関連機関から報告を受け、そのデータを分析する受動的サーベイランスと担当者が現場へ 赴いて調査をおこなう能動的サーベイランスがある。感染症の専門家は、サーベイランス
の基本は、目的に応じた情報の収集、解析、還元であるとし、そのサーベイランスを、① ルールに則って淡々と行う、②感染症対策のために、常にサーベイランスの改善を考える
ことなどが、感染症危機管理の第一歩であると指摘している(11)。 中国でも 1950 年代に、サーベイランスシステムである全国法定伝染病報告・フィード
バックシステム(受動的サーベイランス)が構築されている。さらに 1979 年からは、イ ンフルエンザ、日本脳炎、流行性出血熱など疾病ごとのサーベイランスシステムが徐々に
構築され、1980 年に、予防接種や慢性疾患なども対象に含めた長期総合疾病サーベイラン スシステム(能動的サーベイランス)ができあがった。また、独立行政法人国際協力機構
(JICA)が、1991 年から 1999 年まで中国でポリオ対策プロジェクトを実施し、中国全 土の急性弛緩性麻痺(AFP)サーベイランス体制の構築を支援し、2000
年から始まった 予防接種事業強化プロジェクトでも感染症サーベイランス体制の整備に対する協力を行っ ている。このような協力を通じても、感染症サーベイランスのノウハウが蓄積されている。
(5)感染症危機管理体制 中国衛生部の資料及び SARS 事件以降に制定された「国家突発性公衆衛生事件緊急対応 予案(マニュアル)」などによると、予防、準備、応急、復旧の各ステージにおいて主に以
下のような危機管理措置を講ずる体制が整備されている。