タイの問題




2019.7.14-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190714/wor1907140012-n1.html
タイ、残る軍政の影響 新政権で主要閣僚留任へ

【シンガポール=森浩】タイで3月に実施された総選挙(下院選)を受け、軍出身のプラユット氏が首相を務める新内閣が近く発足する。新閣僚名簿が13日までにワチラロンコン国王に承認され、宣誓式が行われる予定だ。2014年5月のクーデターを受けて成立した軍政から形式上は民政に移行するが、主要閣僚が留任するなど軍政の影響を色濃く残す顔ぶれとなった。
 総選挙では、タクシン元首相派の「タイ貢献党」が第一党となったが、第二党のプラユット首相を推す親軍政党「国民国家の力党」が「民主党」「タイの誇り党」などとの連立交渉を成功させ、過半数の勢力を確保した。
 新内閣では、プラユット氏が国防相を兼務。プラユット氏同様に陸軍出身であるプラウィット治安担当副首相と、アヌポン内相の2人も留任した。経済担当副首相だったソムキット氏も続投が決まった。
 新政権は多数派工作の結果、19党による大規模な連立となり、各党の意見に配慮すれば、迅速な政策立案や意思決定に影響を及ぼす可能性がある。
 軍の影響力が維持される中、国内では軍政を批判してきた活動家が襲撃される事件が相次ぐ。6月28日には、軍政の汚職を追及した若手活動家のシラウィット氏が何者かに頭や顔を殴打され、重傷を負った。シラウィット氏は6月2日にも襲撃を受けたばかりだった。プラユット氏は政権の犯行への関与を否定しているが、人権団体などは言論弾圧の可能性を訴え、警戒を強めている。


タイ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


タイ王国は、東南アジアに位置する君主制国家東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都のバンコクは正式名称が長いことでも知られる。国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。
 2014年にプラユット将軍率いる国軍軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している
 2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王崩御[1]。同年12月1日にワチラーロンコーン国王即位した
 2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された

歴史

国家成立
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族クメール人が先住していた小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立したタイ語のアルファベットであるタイ文字が完成したのは、3代目ラームカムヘーン大王の時代であると言われている
王朝の変遷
その後、アユタヤー王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、1782年に首都をトンブリーからバンコクに移したため、「バンコク王朝」とも呼ばれ、また、バンコクの非常に長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる
近代化
チャクリー改革によりタイ王国の近代化に努めたラーマ5世(チュラーロンコーン大王)の像。ラーマ5世は1868年から1910年までタイを統治した。ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。それまでは多様な生産であったが、商品としてのコメ、錫、チーク、ゴムなどが輸出されるようになり、モノカルチャー経済に移っていった。当時周辺地域の大半は欧米の植民地・保護領であったが、タイは国土の一部を割譲したに留まっている。英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持、植民地化を免れた。
ラーマ5世(チュラーロンコーン)は、1873年国政改革に着手し、1892年4月1日12省からなる近代的統治組織を創設した。国王が立法、行政、司法の三権を掌握する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放(1874年)など、タイの近代化をすすめるチャクリー改革を行った
ラーマ6世(ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じはじめ、1912年3月初め、立憲制・共和政を望む青年将校らによるクーデター計画が発覚した ラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)が即位したあと、1932年にはプリーディー・パノムヨンプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。この時期に第一次世界大戦が発生しており、連合国として参戦している。

第二次世界大戦1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約ヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると、日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。
経済成長
第二次世界大戦後の東西冷戦期は、ベトナムカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた
また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。
なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命が発生したものの、プミポン国王の仲裁により収まった
現在
1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増え、現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。しかし、2006年頃からタクシン派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。
2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン・チナワット政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、直ちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。
2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより、同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。
これ以降、2009年から2010年ごろには、タクシン元首相派(通称赤シャツ隊)を中心とする市民による総選挙を求める大規模なデモが起きたが、アピシット政権はデモを徹底的に弾圧し、数百人の犠牲者が出た(暗黒の土曜日)。
2011年の総選挙では、タクシン元首相派のタイ貢献党が大勝し、インラック・シナワトラが首相に就任した。だが、2013年下旬からは約5年ぶりに反タクシン派の武装デモ隊による反政府デモが発生した。そして、2014年5月、憲法裁判所はインラック政権の政府高官人事を違憲として、インラック首相を失職させる司法クーデターを起こした。
2014年5月22日、国軍は軍事クーデターを決行し、インラック前首相やニワットタムロン・ブンソンパイサン首相代行など、政府高官を相次いで拘束した。憲法と議会を廃止して実権を掌握すると、陸軍大将のプラユット・チャンオチャを首班とする軍事政権の樹立を宣言した。
2015年、タイ王国は政治改革のため腐敗防止法及び関連法を改正し、腐敗行為に関与した場合は外国人でも死刑の対象となりうること、また国外逃亡した腐敗行為者に関する公訴時効を10年延長し20年とすることを定めた(2015年7月9日施行)。なおこの時点ではタクシン元首相はタイ国外におり、またインラック元首相については処分保留とされている
政情不安
タイでは発展途上国でしばしば見られる政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定し、東南アジアの「民主主義の優等生」と称されていた。しかし、2006年に軍が政治関与を再開して2006年タイ軍事クーデターが発生した。また議会派の間でも第31代首相タクシン・チナワットの処遇を巡って反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と民主市民連合(PAD、黄服軍団)という二つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり、2010年以降の情勢は極めて不安定な状態にある。
2011年、総選挙で旧タクシン政権を支持する議員が所属するタイ貢献党(新党プアタイ)が勝利し、タクシン元首相の妹インラック・シナワトラが第36代首相に就任、議会派の対立に一応の決着が付いた事でUDDとPADの活動も沈静化した。インラック政権は過去の清算を図るべく敵味方双方への大規模な恩赦(国民和解法)の実施を検討したが、タクシン元首相にも恩赦を与えるかどうかで対立が再燃するという皮肉な結末を生んだ。更に反タクシン派議員の大物であったステープ・トゥアクスパン元副首相が、反タクシン派の野党からも離れて議会外での暴動直接行動を扇動するに至って混乱は頂点に達し、2013年末に行われた総選挙が正式に実施できずに終わる異常事態となった(2013年タイ反政府デモ)。
軍はタクシン派と反タクシン派の対立には介入しない姿勢を見せていたが、インラック政権が親族の閣僚登用で退陣に追い込まれる一方、普通選挙の廃止や人民議会の設立など反タクシン派の要求も過激化するなど情勢の混迷が深まる中で遂に16度目のクーデターを実行した(2014年タイ軍事クーデター)。クーデター後、タイ王国軍が全土に戒厳令を発令、同時に憲法を停止して基本的人権を一時的に制限するとし、政府については陸軍総司令官プラユット・チャンオチャが議長を務める国家平和秩序維持評議会による軍政に移行した。治安回復を目的とする軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官・評議会議長が暫定首相を経て第37代首相に任命された。
現在、反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限し、タイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュースNHKワールドTVNHKワールド・プレミアムCNN等、海外衛星放送ニュースチャンネルやケーブルテレビサービスを切断、配信させない報道管制を敷き、ソーシャル・ネットワーキング・サービス検閲なども強化している。さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動し(パタヤプーケットなど一部の観光地は現在解除)、許可なく外出すれば拘束や射殺もありうるとした[41]。 これ以外にも不敬罪の廃止を巡る議論、バンコク首都圏のデモ活動に対する非常事態宣言の頻発発令、タイ南部のゴムプランテーションのゴム買い取り価格への不満、深南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争及びマレーシアに続く南本線鉄道線路の破壊、カンボジアの世界遺産であるプレアヴィヒア寺院(タイ語名:プラヴィハーン)周辺の国境線問題において、カンボジアとの両軍同士の睨み合いによるタイとカンボジアの国境紛争など、治安の悪化が続いている。
日本外務省は、バンコクには注意喚起情報を、前述当該地域(ナラティワート県ヤラー県パッタニー県ソンクラー県(以上 タイ南部)・シーサケート県(北東部))において、「渡航の是非を検討して下さい」という旨の、危険情報を出し続けている。在タイ日本国大使館は、反独裁民主戦線・民主市民連合の一員と誤解され、トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、双方のイメージカラーである「赤色黄色衣服を身に着けない様」注意喚起を行っている。
2016年10月のラーマ9世の死を経て軍政による新憲法制定作業が行われたものの難航し、新国王ラーマ10世の権限が強化された新憲法が2017年4月に施行された







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