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スリランカ


スリランカの国
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スリランカ民主社会主義共和国(通称スリランカ)は、南アジアインド亜大陸の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家
  首都スリジャヤワルダナプラコッテ1948年2月4日、イギリスから自治領英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、 
  英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。人口は約2120万(2016年)である[2]島国で、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島
  と呼ぶ。国名をスリランカに改称したシリマヴォ・バンダラナイケは世界初の女性首相である。また、国民の7割が仏教徒上座部仏教)である。

スリランカ同時爆発事件   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-2019.4.23
スリランカ同時爆発事件(スリランカどうじばくはつじけん)は、2019年4月21日にスリランカの最大都市コロンボをはじめとした国内の8か所で、同時多発的に
  発生した爆発事件の総称である。コロンボを含む、国内の複数の都市にあるキリスト教教会や高級ホテルが標的とされた。少なくとも36カ国の外国人と3人
  の警察官を含む290人が死亡し、500人以上が負傷した[1]

犠牲者国籍別犠牲者数2019年4月22日現在、290人の死亡者と重症を含む少なくとも500人の負傷者が確認されている。最も多く犠牲となったのはスリランカ人
  であり、その他少なくとも36人の外国人の死亡が確認された。 現在確認されている外国人の死者は、イギリス人が8名、インド人が6名、デンマーク人が3名、 
  中国人オーストラリア人トルコ人がそれぞれ2名ずつ、ポルトガル人オランダ人バングラデシュ人日本人がそれぞれ1名ずつである。 米国務省は、
  数人のアメリカ人が死亡したとしているが、具体的な人数は公表していない。また、パキスタンポーランドモロッコ国籍の死亡者もいるとみられている。

犯人
スリランカ政府報道官は、国内のイスラム過激派「ナショナル・タウヒード・ジャマア(NTJ)」の犯行との見方を示した[4]。22日までにスリランカ国籍の24人が逮捕
  された[5]

日本経済新聞
スリランカ爆破テロ、ISが犯行声明 
南西ア・オセアニア2019/4/23 20:44

【ニューデリー=黒沼勇史】スリランカの最大都市コロンボなどで起きた連続爆破テロ事件で、中東の過激派組織「イスラム国」(IS)が23日、系列メディアを通じて        犯行を認める声明を出した。ツイッター上に流した声明文には「各国市民を標的にしたのはISの戦士だ」と明記した。
  今回のテロ事件を巡っては、3都市でほぼ同時刻に自爆テロが起きた手口から、ISの関与が疑われていた。スリランカ政府も22日、自国のイスラム過激派組織
     「ナショナル・タウヒード・ジャマア(NTJ)」が関与したとの見方を示す一方、国際的なテロ組織の支援なしには実行できなかったとも指摘していた。
     スリランカ政府は米連邦捜査局(FBI)などに捜査協力を求めている。スリランカ警察は23日、高級ホテルやキリスト教会など8カ所で起きた一連の
     テロ事件で、これまでに外国人を含む死者が321人、負傷者が約500人に上ったと公表した。日本人1人も犠牲になっている。

タミル・イーラム解放のトラ
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タミル・イーラム解放のトラとは、かつてスリランカ武装闘争を行っていたタミル人テロ組織である。タミル・タイガーとも表記される。「イーラム」はスリランカ
  を意味するタミル語で、トラは獅子(シンハ)つまりライオンの子孫を意味するシンハラ族に対抗するものであり、かつて南インドに強勢を誇ったタミル族の
  王朝・チョーラ朝の紋章でもあった。
概要
  スリランカ北部と東部にタミル人の独立国家タミル・イーラムを建国し、スリランカからの分離独立の獲得を主張して設立された[2]インド共産党毛沢東主義派
     と連携している[3]という説がある。宗教的には世俗主義マルクス・レーニン主義の影響を受けている[4][5][6]
  リーダーはヴェルピライ・プラバカラン。兵力は約9,000名とされていたが、2004年カルナ派分離により、2006年時点で約4,000名と推定された[7]
     世界タミル協会、世界タミル運動、在カナダ・タミル人協会連盟等の国際組織から合法的に開設された銀行口座を通して資金援助を受け、外貨獲得の
     ために相手を問わない武器輸出を行っていた独立国家共同体(CIS)諸国や2006年から07年にかけて北朝鮮からも対戦車砲などの武器を調達していた。
  保有武器は小火器が主体だが、戦車や、高速艇や潜水艇等の船舶、COIN機を中心とした小型航空機も有していた。
  スリランカ北部と東部の沿岸州で軍事行動を展開していたが、ノルウェーを仲介して成立した停戦が破棄された後、政府軍の攻撃で組織的な軍事行動の
     範囲を狭め、2008年11月には約20年ぶりに政府軍が北部の西海岸を奪還、事実上の首都として機能してきたキリノッチも陥落した。
  そして2009年5月17日にLTTEは敗北宣言をし、スリランカ政府とLTTEの四半世紀以上に亘る内戦は事実上終わりを告げた。19日にはプラバカラン議長の
     遺体が発見された[8]。24日にはLTTEの国際関係部門のトップが声明を出し、議長の死亡を公式に認めた。声明では「我々は暴力に頼ることを諦め、
     民主的なプロセスを経てタミル人の民族自決権獲得を目指すことで合意した」としている[9]
設立の背景
  スリランカ
は多民族国家であり、人口の約74%がシンハラ人、約13%は古くから住んでいる「スリランカ・タミル人」、約5%がイギリス植民地時代に
  プランテーションへの労働力として移住させられてきた「インド・タミル人」である[10]。植民地時代、シンハラ人(主に仏教徒)はイギリスの支配に対立・抵抗
     を続けたのに対し、比較的従順だったタミル人(主にヒンドゥー教徒)がイギリス政府に重用されていた[11]
  1947年の議会選挙では1人1票制が採用され、シンハラ人がセイロン(当時)政府で多数派を得た。1944年に設立されていた全セイロン・タミル会議(ACTC)
     はレバノン型の権力分割(50:50)を主張していたが、高地ではシンハラ人よりもインド・タミル人が多数派であり、独立直後の政府にとって脅威であった
     ため、受け入れられることはなかった[12]。その後インド・タミル人は1948年制定の『セイロン市民権法』により公民権を失い、1949年の『国会選挙法』
     により選挙権を失った。[13]さらに1956年ソロモン・バンダラナイケ政権は「シンハラオンリー法」を採択し、タミル人への差別が始まった[11]
  セイロン政府は、悪化するスリランカ経済に対する不満をそらすために、シンハラ政策を推し進め[14]、1965年にはシンハラ人による反タミル人・キャンペーン、
     民族浄化を提唱するスリランカ人民解放戦線が創設された。1970年に就任したシリマヴォ・バンダラナイケも、1978年に大統領に就任した
     ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナもタミル人政策には着手しなかった[11]。1972年制定のスリランカ共和国憲法でも、
     1978年制定のスリランカ民主主義共和国憲法でも、『仏教に至高の地位を与える』という条項は残り、タミル人への差別は続いた。
  「スリランカ#国民」も参照

LTTEの設立
  タミル人の穏健派は、ACTCタミル統一戦線(TUF)→タミル統一解放戦線(TULF)という変遷を経て、政治的手法を用いながらインドタミル・ナードゥ州
     及びスリランカのタミル人居住区から成る統一タミル人国家の創設を主張した[12]
  一方、1970年になると、タミル人に著しく不利な「大学入学の標準化政策」の阻止を目的に、武装した若者による過激派も形成されていく。1972年、タミル人の
     言語と教育を守るためには武器をとるのが唯一の方法と考えた当時18歳のプラバカランは、タミルの新しいトラ英語: Tamil New Tiger, TNT)を設立、
     1975年にジャフナ市長を暗殺する。
  1975年5月5日、TNTを母体にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が設立され、ヴェルピライ・プラブハカランが議長及び軍司令官に指名された。その後、
     1977年1981年シンハラ人によるタミル人への暴動が起き、タミル人のLTTEを始めとする武装団体への支持が高まっていった[13]

闘争の経緯
1980年代
に入ると、スリランカ政府は穏健タミル政党であるTULFを非合法化し、タミル人との対話を完全に断絶してしまう[14]。一方、LTTEはゲリラの訓練を
     インド南部で行い[11]、訓練キャンプを各地に設立し、本格的な武装闘争を展開し始める。
  1983年7月23日、LTTEは地雷を用いた初めてのゲリラ攻撃を行い、政府軍兵士13人を殺害する。これをきっかけに7月25日、コロンボで大規模なシンハラ人
     によるタミル人への暴動(7月暴動、黒い7月)が起き、LTTEは分離独立運動を活発化していく[12]。当初劣勢だった政府軍は、装備の充実に努め、
     1987年までにはLTTEを北部のジャフナに追い詰めることができた。
  しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、タミル人に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。当時のスリランカ大統領ジャヤワルダナは、
     これに激怒し一時は宣戦布告も考えたが、結局交渉に入った。交渉での合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、武装解除の義務を負うことと
     なった。停戦の監視には、インド平和維持軍英語版(IPKF)が当たった。停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度はシンハラ人民族主義者が
     テロ活動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。インド平和維持軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることに決め、
     1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。
  1989年に当選したラナシンハ・プレマダーサ大統領は、大きくなりすぎたインド平和維持軍のプレゼンスを排除するために、LTTEとの交渉を再開し、
     休戦が発表された。存在意義を失ったインド平和維持軍は、スリランカ政府の執拗な要請の下、1990年3月に撤退した。同時にプレマダーサは、政府
     や与党統一国民党(UNP)要人へのテロを繰り返していたシンハラ人民族主義者組織であったスリランカ人民解放戦線(JVP)への掃討作戦を行い、
     4,500人から20,000人以上の死亡者が出たものの、JVPは武力闘争を放棄した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には
     元インド首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはプレマダーサ大統領を暗殺した。
  1994年チャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に当選し、三度LTTEとの交渉を再開したが決裂し、政府軍は大攻勢を展開して、1995年にLTTEの拠点
     ジャフナを奪取した。攻勢は継続されたが、決定的な勝利を収めることはできず、LTTEのテロにより治安情勢は顕著に悪化し、1998年には非常事態
     導入された。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これによりクマーラトゥンガは視力を失った。
  2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたが、LTTEの爆弾テロが止まらなかったため2006年スリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は
     停戦破棄を否定したがLTTEは停戦崩壊を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。
     インドのライバルである中華人民共和国パキスタンの大々的な援助をとりつけたマヒンダ・ラージャパクサ政権はLTTEの完全殲滅を目指し、
     各所で攻勢を掛けた。最終的に2009年5月17日、LTTEは敗北宣言を出したがその後も政府側の攻撃は続き、プラバカラン以下23名のLTTE幹部
     は19日までに全員死亡した。





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