宗教の問題


2019.11.3-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/west/news/191103/wst1911030022-n1.html
ローマ法王来日前に合同慰霊祭 「潜伏キリシタン」聖地の長崎・枯松神社

江戸期の禁教下で信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」の聖地として知られる長崎市下黒崎町の「枯松(かれまつ)神社」で3日、布教活動を行った外国人宣教師「サン・ジワン」らを慰霊する神社祭が開かれた。現在はカトリックや仏教徒となった潜伏キリシタンの子孫ら約200人が一堂に会し、思い思いに祈りをささげた。
 地元・黒崎地区の潜伏キリシタンの多くは禁教令が出た江戸時代、曹洞宗天福寺(同市)の檀家として身を隠しながら、サン・ジワン神父らの下で信仰を続けた。明治になって禁教が解かれると、人々は当時の信仰を継ぐ「かくれキリシタン」とカトリックに復帰した人、仏教徒の3者に分かれた。
 同祭は平成12年、3者の「融和」を図る目的で始まった。過去2回は別々に開催したが20回目の今年、ローマ法王の38年ぶりの長崎訪問を控えていることもあり、3年ぶりの合同開催となった。
 この日、「カトリック黒崎教会」主任司祭の橋本勲さん(77)がミサを執り行い、かくれキリシタン帳方(ちょうかた、最高責任者)の村上茂則さん(69)が、禁教時代から口伝で受け継がれる「オラショ」(祈り)を奉納。会場は神秘的で厳かな雰囲気に包まれた。
 ローマ法王来日に合わせて作詞作曲した「ビバパパ」も合唱。村上さんは「信者の少ない日本には来ないと思っていた。今日は感謝も込めて臨んだ」。橋本さんは「ローマ法王と同じように、互いの違いを認め合う黒崎地区から平和を発信できれば」と話していた。


http://kirishitan.jp/
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

(Ⅰ)宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられ、その後に続いて来日した宣教師たちの活動や、南蛮貿易の利益を求めて改宗したキリシタン大名の保護によって全国に広まった。しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放された。1637年、禁教が深まる中、圧政をきっかけにキリシタンが蜂起して「原城跡」に立てこもった「島原天草一揆」に衝撃を受けた幕府は、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船を追放し、海禁体制(鎖国)を確立した。1644年には最後の宣教師が殉教。残されたキリシタンは、民衆レベルの信仰の共同体を維持しながら「潜伏」して信仰を続けた(彼らを「潜伏キリシタン」と呼ぶ)。これらの共同体は17世紀後半に起こった大規模なキリシタン摘発事件によって順次崩壊し、潜伏キリシタンの多くが棄教、殉教した。

(Ⅱ)潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み
日本各地の潜伏キリシタン集落は途絶えていったが、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、18世紀以降も共同体がひそかに維持され、独自に信仰を実践する方法を模索していった。それは、山や島(平戸の聖地と集落(春日かすが集落と安満岳やすまんだけ、中江ノ島))、生活・生業に根ざした身近なもの(天草の﨑津集落)、聖画像(外海の出津集落)、神社(外海の大野おおの集落)など、独自の対象をひそかに拝むというものであった。

1-原城跡
キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原天草一揆」の主戦場跡です。
原城跡は、キリシタンが何をきっかけとして「潜伏」することになったのかを示す構成資産である。
 全国的に禁教政策が進む中、原城を主戦場として起きた「島原天草一揆」は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、カトリック宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航の禁止と2世紀を越える海禁体制(鎖国)の確立、これに続く国内宣教師の不在という状況をもたらした。
 これによってキリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくこととなった
原城跡は、長崎地方の南東部、島原半島の南部にあるキリシタン大名有馬氏の居城の跡である。海に突き出た丘陵の地形を利用して築かれた城で、北、東、南の三方は海に囲まれ、西は低湿地に面する要害の地であった。1637年に起こった「島原天草一揆」の主戦場となり、今日まで行われてきた考古学的な調査によって、禁教初期のキリシタンが一揆のときに組織的に連携していたことが明らかにされている。
 イエズス会宣教師たちの報告によると、原城は1598年から1604年にかけてキリシタン大名有馬晴信によって築かれたことが知られている。その後、有馬氏に代わって領主となった松倉氏が新たに城を築いたため、1618年に原城は使われなくなった。

 江戸幕府が禁教政策を進める中、1637年に松倉氏の厳しい統治と飢きんをきっかけとして「島原天草一揆」が起こった。この一揆では、島原半島南部と天草地方の百姓からなる約2万数千人のキリシタンが参加したといわれており、益田四郎を総大将として原城跡に立てこもった。幕府軍は12万人を超す兵力で一揆勢を攻撃したが、激しい反撃によって8千人以上もの死傷者を出した。4ヶ月に及ぶ攻防の末、一揆勢は老若男女の別なくほぼ全員が殺された。
 この一揆では、かつてこの地を治めた有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名の旧家臣が主導的役割を果たした。彼らは、キリシタンの共同体の単位である「組」の指導者であったといわれており、原城跡に立てこもった際、城内に礼拝堂を建て、教えを説いていたことが幕府側の記録からうかがえる。
 これまで行われた原城跡の発掘調査では、戦没したキリシタンの人骨や信心具が大量に出土している。信心具の中には、キリスト教の伝来期に宣教師から授かり代々継承されてきたメダイをはじめ、城内にて鉄砲玉を原料に急ごしらえした十字架などが含まれており、城内に立てこもったキリシタンの信仰の有り様が考古学的に明らかにされている。

 また、本丸の西側では、規則的につくられた複数の半地下式の住居跡が確認されている。これらの遺構は、立てこもったキリシタンが禁教後においても信仰を維持し、家族、集落の単位で組織的に行動していたことを明確に示している。これらのキリシタン関係の遺構や遺物は破壊された石垣の中に埋め込まれた状況で発見されたことから、再び原城を一揆に利用されることを恐れた江戸幕府が徹底的に破壊したことがわかる。
 さらに一揆勢が原城跡へと持ち込み、陣中旗として利用した信心会の幟(のぼり)や、城内で使用していたラテン語を平仮名に音写した祈祷文が現存しており、これらは一揆の鎮圧後に幕府軍の武士が戦利品として持ち帰ったために今日に伝わったものとされている。
 なお、「島原天草一揆」の出来事は、その後の禁教期を通じて長崎地方の外海地域、浦上地区など、各地の潜伏キリシタン集落において彼らの記憶として長く伝承された。

2-平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
キリスト教が伝わる以前から信仰された山やキリシタンが殉教した島を拝むことによって信仰を実践した集落です。
「平戸の聖地と集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場とするとともに、キリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の対象であった安満岳なども併せて拝むということによって信仰を実践した。
 解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けたが、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

「平戸の聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが拝んだ山と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンの信心具を有する「納戸神のある住居」、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが併せて拝み、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳には、白山比賣神社とその参道、石祠(いしぼこら)西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として拝んだ中江ノ島がある。
 平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田(てこだ)氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。
 禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した。指導者の住居には仏壇や神棚があるほか、潜伏キリシタンの信心具納戸神)を「納戸」と呼ばれる部屋に隠し、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳を拝んだ。
 安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠(いしぼこら)、西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣(姫)神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んだ石祠もある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、安満岳は神道、仏教の信仰の山として、春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民が拝む対象となっていた。また、禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。
 平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として拝んだ場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
 このように、禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、山や島を拝むことによって信仰を実践した。。
 1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンも転機を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具(しんじんぐ)が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

3-平戸の聖地と集落(中江ノ島)
キリスト教が伝わる以前から信仰された山やキリシタンが殉教した島を拝むことによって信仰を実践した集落です。
平戸の聖地と集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として拝み、聖水を汲む行事を行う場とするとともに、キリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の対象であった安満岳なども併せて拝むということによって信仰を実践した。
 解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けたが、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

「平戸の聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが拝んだ山と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンの信心具を有する「納戸神のある住居」、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが併せて拝み、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳には、白山比賣神社とその参道、石祠西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として拝んだ中江ノ島がある。
 平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。

 禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した。指導者の住居には仏壇や神棚があるほか、潜伏キリシタンの信心具納戸神)を「納戸」と呼ばれる部屋に隠し、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳を拝んだ。
 安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んだ石祠もある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣(ひめ)神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、安満岳は神道、仏教の信仰の山として、春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民が拝む対象となっていた。また、禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。

 平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として拝んだ場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
 このように、禁教期の春日集落の潜伏キリシタンは、山や島を拝むことによって信仰を実践した。。
 1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンも転機を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰を実践し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在では個人的に信心具を祀る程度になっている。

4-天草の﨑津集落
身近なものを信心具として代用することによって信仰を実践した集落です
「天草の﨑津集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の﨑津集落の潜伏キリシタンは、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスに、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアにそれぞれ見立てるなど、漁村特有の生活や生業に根差した身近なものをキリシタンの信心具として代用するということによって信仰を実践した。
 解禁後はカトリックに復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

 「天草の﨑津集落」は、天草下島の西部に位置する漁業を生業とする集落で、キリスト教禁教期に潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた初代﨑津教会堂跡からなる。
 﨑津集落は戦国時代にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まり多くの信心具が伝来した。
 禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏」が行われるようになった。村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理された。﨑津集落の潜伏キリシタンは、在来の信仰を装うために表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となった。﨑津諏訪神社は1647年の創建以来、豊漁、海上安全を祈願する集落の守り神として今日まで存続している。

 集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡がある。﨑津集落では、禁教期においても16世紀から続く小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った。
 﨑津集落では、生業である漁業と信仰とが密接に結び付いている。潜伏キリシタンは、豊漁の神様である大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝し、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝むことによって信仰を実践した。また、白蝶貝を加工したメダイも製作した。「水方」の子孫の住居には、現在もメダイのほか、海にかかわる信心具が保管されている。
 1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収したが、村人は「心得違い」として処罰されなかった。

 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した。そして1888年、かつて水方を務めた潜伏キリシタンの土地であり、禁教期に彼らがひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てられた。そのことは、﨑津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。この木造教会堂は、その後の老朽化により移転、新築された。跡地には修道院が建てられ今日に至っている。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられた。これは、絵踏が行われた場所にカトリック復帰の象徴となる教会堂を建てたいというハルブ神父の強い願いによるものであった。教会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたといわれている。

5-外海の出津集落
「外海の出津集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の出津集落の潜伏キリシタンは、自分たちの信仰を隠しながらキリスト教由来の聖画像をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとすることによって信仰を実践した。
 また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになった。
 解禁後、潜伏キリシタンは段階的にカトリックに復帰し、集落を望む高台に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

「外海出津集落」は、西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に注ぐ出津川の流域にあり、潜伏キリシタンが禁教期にひそかに祈りをささげるために聖画像を隠していた屋敷の跡、潜伏キリシタンの墓地、禁教期に集落を管轄した代官所の跡および庄屋屋敷跡、「信徒発見」後に宣教師が上陸した浜辺、解禁後に祈りをささげた「仮の聖堂跡」と教会堂からなる。
 外海地域では、1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わった。それにともなって多くの者が洗礼を受けたのをはじめ、1592年には外海北部の神浦地区に宣教師の住居としてレジデンシアが置かれるなど宣教が進んだ。

 1614年、全国に禁教令が出されたが、出津(しつ)集落は比較的取り締まりが緩やかな佐賀藩に属していたため、庄屋をはじめとする村役も潜伏キリシタンであった。潜伏キリシタンは、表向きは出津代官所の管轄のもとで仏教寺院に属し、宣教師に代わる共同体の指導者を中心として組織的に信仰を続けた。
 出津集落の共同体は「お帳(ちょう)」と呼ばれる禁教初期に伝えられた教会暦を所有する複数の小さな「組」からなり、これらを統括する「ジヒサマ」(正、副、弟子の3名から構成)という出津集落全体の「組」の指導者を役員会において選出した。「ジヒサマ」は、集落内の洗礼、葬儀などの儀礼をつかさどり、「ご誕生」(クリスマス)にはジヒサマの家で夜を徹して祈りがささげられた。
 また集落内には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪(むげんざい)のプラケット」をはじめ、中国由来と推測される銅製の仙人像をイエズス会創始者のイグナティウス・ロヨラに見立てた「イナッショさま」、日本人が描いた「聖ミカエル」や「十五玄義」などの複数の聖画像を隠し、ひそかに拝むことによって信仰を実践していた。他にも、出津集落を含む外海地域に伝わったと考えられる絵画「雪のサンタ・マリア」や、もともと出津集落に所在し、ド・ロ神父を経てフランスへと渡ったが、近年再び長崎に戻った絵画「無原罪の聖母像」がある。さらに1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていた。出津集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承で伝えており、日常的に各自が無音か小声で唱えた。

 出津集落の潜伏キリシタンの墓は、一見すると仏教徒の墓と区別がつかないが、潜伏キリシタンを埋葬する際には仏教徒のような「座棺」ではなく、ひざを曲げて寝かせた「寝棺」の方式をとり、頭部を南に向けて埋葬した。さらに棺内には、禁教期の外海地域の潜伏キリシタンの間で神聖視されたツバキの木片も副葬され、潜伏キリシタン固有の方法で埋葬されていた。
 禁教期の出津集落には、家屋、畑地、墓地をひとつの単位とする集落構造が見られ、人々は斜面地に石積みを築いて段々畑を造成し、サツマイモ栽培を中心とする農業を営んでいた。この集落構造は、現在もほとんど変わることなく残されている。貧しい土地ながらも人口が多かった外海地域では、五島藩と大村藩との協定によって18世紀末から五島への開拓移住が行われ、出津集落もその拠点のひとつとなった。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。出津集落の潜伏キリシタンの指導者も接触し、信仰を告白するとともに教理の指導を受け、ひそかに宣教師を集落へと招いた。小濱浦は、その宣教師の最初の上陸地である。
出津集落の潜伏キリシタンは、最終的に16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰する者と禁教期の信仰形態を継続する者(かくれキリシタン)に分かれ、伝承してきた聖画像の所有を巡る対立にまで発展した。これは「野中騒動」と呼ばれている。

 カトリックに復帰した潜伏キリシタンは、キリスト教が解禁された1873年に禁教期に拝んでいた聖画像を所有していたキリシタンの屋敷の隣に「仮の聖堂」を建てた。その後、1882年にはパリ外国宣教会の宣教師であったド・ロ神父が集落を見下ろす高台に出津教会堂を建てた。それは、出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。出津教会堂には海からの強風を避けるために低い屋根や天井が採用され、1891年と1909年の増築にともなって前後にふたつの塔が建つなど外観に特徴がある。
 ド・ロ神父は村民の貧しい生活を改善するために、教会堂に隣接する場所に授産施設である出津救助院も建てた。そこは、禁教期に潜伏キリシタンの取調べを行った代官所が存在していた場所でもあった。
 キリスト教の解禁直後、出津集落でカトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人であった。しかし、その後カトリックに帰依する人々は徐々に増加し、20世紀中頃にはカトリック信徒とかくれキリシタンとの人数の割合はほぼ等しくなった。現在では、かくれキリシタンの多くは仏教徒またはカトリック信徒へと移行している。

6-外海の大野集落
神社にひそかにまつった自らの信仰対象を拝むことによって信仰を実践した集落です。
「外海の大野集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 禁教期の大野集落の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象をひそかにまつって拝むことによって信仰を実践した。
 また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになった。
 解禁後はカトリックに復帰し、「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていたが、その後、大野集落の中心に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。

「外海の大野集落」は、西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に面する急傾斜地にあり、潜伏キリシタンが氏子として神道の信徒であることを装った神社、自分たちの信仰対象をひそかにまつった神社、潜伏キリシタンの墓地、解禁後に建てられた教会堂からなる。
 大野集落一帯では、1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わった。大野集落は大村藩に属する神浦地区の一部であり、多くの者が洗礼を受け、出津集落と同様に宣教が進んだ。

 1614年、全国に禁教令が出されたため、大村藩でも藩主が棄教し、領内ではキリシタンに対する弾圧が行われたが、大野集落の潜伏キリシタンはひそかに信仰を続けていた。禁教が進み、宣教師が不在となる一方、大野集落の潜伏キリシタンは表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社の氏子としても振る舞いながら、組織的に信仰を続けた。
 大野集落の南に位置する大野神社は、3つの神社の中でも集落全体の守り神として最も社格が高く、代々庄屋が神主を務めた神社であり、その氏子は集落民の大多数を占めた。そのため、大野集落の潜伏キリシタンも神社の氏子として神道の信徒であることを装った。また、より身近な存在であった門神社と辻神社を潜伏キリシタンの信仰の場として利用し、自分たちの信仰の対象をひそかに祭神としてまつり、祈りをささげることによって信仰を実践した。大野集落の南西に位置する門神社には、もともと様々な神がまつられていたが、その中に「島原天草一揆(いっき)」の際に大野地区に逃れてきた「本田敏光」というキリシタンも含まれていたという。大野集落の潜伏キリシタンは、この祭神を禁教初期に外海一帯で活動したとされるポルトガル人宣教師と同名の「サンジュワン」と呼び、ひそかに崇拝の対象とした。一方、大野集落の東端に位置する辻神社は古来の自然信仰に基づく山の神をまつった神社だったが、潜伏キリシタンはその祭神に門神社と同じく「サンジュワン」を重ね、ひそかに信仰の対象とした。

 大野集落では、大野岳から海浜部に至る急斜面に石積みを築いて耕作地とし、サツマイモ栽培を主体とする農業を営んでいた。18世紀末には五島藩と大村藩の協定により外海地域から五島への開拓移住が行われ、それにともなって大野集落からも移住が行われた。
 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。外海地域の潜伏キリシタンも大浦天主堂の宣教師と接触を図り、大野集落の南に位置する出津集落に宣教師がひそかに来訪した。これにより大野集落の潜伏キリシタンも宣教師と接触し、多くの村人たちが洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した。
 辻神社から北東の山域へと連続する傾斜面には潜伏キリシタンの墓地がある。これは、解禁直前に自分たちの信仰を表明した潜伏キリシタンが、集落の共同墓地に埋葬することを拒絶されたために新たに設けた墓地で、現在も13基の積石墓が残されている。
 当初、大野集落のカトリック信徒は、約3km離れた出津集落に建てられた出津教会堂に通っていたが、1893年には洗礼を受けた村人が200名を超えた。また、離れた場所にあることから出津教会堂に通えない26戸の信徒のために、1893年、集落の中心に出津教会堂の巡回教会として大野教会堂が建てられた。それは、大野集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
 大野集落では、1912年までにさらに200名を超える多くの村人が洗礼を受けたが、その後の変遷により現在ではカトリック信徒の世帯数が数戸にまで減少し、集落民の大半は仏教徒となっている。

7-黒島の集落
平戸藩の牧場跡の再開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落です。
「黒島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
 19世紀、長崎地方各地の潜伏キリシタンの一部は、黒島の牧場跡の再開発のために移住が奨励されていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、表向きは所属していた仏教寺院でマリア観音に祈りをささげながら、ひそかに共同体を維持した。
 解禁後はカトリックに復帰し、島の中心部に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。





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