ノーベル賞




2019.10.9-産経新聞 SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/life/news/191009/lif1910090035-n1.html
吉野彰氏にノーベル化学賞 リチウムイオン電池を開発

スウェーデン王立科学アカデミーは9日、2019年のノーベル化学賞を、リチウムイオン電池を開発した旭化成名誉フェローの吉野彰氏(71)ら3氏に授与すると発表した。小型で高性能の充電池として携帯型の電子機器を急速に普及させ、IT(情報技術)社会の発展に大きく貢献した功績が評価された。
 他の受賞者は米テキサス大教授のジョン・グッドイナフ氏(97)、米ニューヨーク州立大ビンガムトン校特別教授のスタンリー・ウィッティンガム氏(77)。
 日本のノーベル賞受賞は2年連続で、17年に文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏を除き計27人となった。化学賞は10年の2氏に続き計8人。
 吉野氏はビデオカメラなど持ち運べる電子機器が普及し、高性能の電池が求められていた昭和58(1983)年にリチウムイオン電池の原型を開発した。ノーベル化学賞を受賞した白川英樹筑波大名誉教授が発見した電導性プラスチックのポリアセチレンを負極の材料に使い、これにグッドイナフ氏が開発したコバルト酸リチウムの正極を組み合わせて作った。
 その後、負極の材料を炭素繊維に変更することで小型軽量化し、電圧を4ボルト以上に高める技術も開発。同じ原理で平成3年にソニーが世界で初めてリチウムイオン電池を商品化した。
 ウィッティンガム氏は1970年代初め、世界で初めて電極材料にリチウムを用いた電池を開発した。
 繰り返し充電できる電池はニッケル・カドミウム電池などが既にあったが、性能を飛躍的に高めたリチウムイオン電池の登場で携帯電話やノートパソコンなどが一気に普及。スマートフォンなど高機能の電子機器を持ち歩く「モバイル(可動性)社会」の実現に大きな役割を果たした。


山中伸弥
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山中 伸弥1962年昭和37年)9月4日 - )は、日本医学者京都大学iPS細胞研究所所長・教授カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上席研究員、日本学士院会員。学位大阪市立大学博士(医学)。その他称号としては京都市名誉市民東大阪市名誉市民、奈良先端科学技術大学院大学栄誉教授、広島大学特別栄誉教授ロックフェラー大学名誉博士、香港大学名誉博士、香港中文大学名誉博士など。文化勲章受章者。
「成熟細胞が初期化され多能性をもつことの発見」により2012年のノーベル生理学・医学賞ジョン・ガードンと共同受賞した

生い立ち〜学生時代
大阪府枚岡市(現:東大阪市枚岡地区)に生まれる。小学3年生まで枚岡東小学校。青和小学校に転校。小学校時代から大学1回生まで、奈良県奈良市学園前に転居[3]し同地で育つ。]
大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎時代、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし徳田虎雄の著書『生命だけは平等だ』を読み、徳田の生き方に感銘を受けて医師になることを決意したという。中学高校から大学2年まで柔道、大学3年からはラグビーをし、高校時代に柔道二段を取得。中学3年では生徒会副会長も務めた
臨床医志望から研究者志望へ
神戸大学医学部医学科卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務。学生時代、柔道やラグビーで10回以上骨折するなどケガが日常茶飯事だったため整形外科の道を選んだが、研修では「この世の物とは思えないくらい怖い先生(本人談)」が待ち受けていて、他の医者と比べて技術面において不器用であったことから、指導医からは時に罵倒され、周囲からは「ジャマナカ」と呼ばれることもあり、「向いていない」と痛感したという。重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになった
iPS細胞の研究
すぐに新しいことをやりたくなる飽きやすい性格であるといい、整形外科の仕事を単調に感じてしまったこともあり、病院退職、1989年(平成元年)に大阪市立大学大学院に入学。山本研二郎が教授を務めていた薬理学教室で、三浦克之講師の指導の下、研究を開始。当初はいずれ臨床医に戻るつもりだったという。指導教官の三浦は「非常に優秀ながら時間を効率的に使い、適当な時間になると研究を切り上げ帰宅していた。誰にでも好かれるさわやかな性格だった。」と述懐する。1993年、論文 "Putative Mechanism of Hypotensive Action of Platelet-Activating Factor in Dogs"(「麻酔イヌにおける血小板活性化因子の降圧機序」)を提出し、博士(医学)の学位を取得。しかし、学位取得後は、どうやったら人の3倍研究できるかを考えて研究に従事。ほとんど寝ずに研究を行うことも多く、ハードワークでは誰にも負けない自信があったという。
科学雑誌のあらゆる公募に応募し、採用されたカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所へ博士研究員として留学。トーマス・イネラリティ教授の指導の下、iPS細胞研究を始める。
その後、帰国して日本学術振興会特別研究員 (PD) を経たのち、日本の医学界に戻り、岩尾洋教授の下、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、(就任直後当時の)研究環境の米国との落差に悪戦苦闘の日々が始まるようになる。アメリカ合衆国と異なりネズミの管理担当者がおらず、ネズミの管理に忙殺された。また当時としてはiPS細胞の有用性が医学研究の世界において重視されておらず、すぐに役立つ薬の研究をしなかったため、周囲の理解を得られずに批判される毎日が続き、半分うつ病状態になった。基礎研究を諦め、研究医より給料の良い整形外科医へ戻ろうと半ば決意した中、科学雑誌で見つけた奈良先端科学技術大学院大学の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために。」と考え、応募したところ、採用に至り、アメリカ時代と似た研究環境の中で再び基礎研究を再開した。奈良先端大では毎朝構内をジョギングして、体調管理に努めた。
2003年から科学技術振興機構の支援を受け、5年間で3億円の研究費を得て、研究に従事。研究費支給の審査の面接をした岸本忠三は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した。」という。奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功し、2004年(平成16年)に京都大学へ移った。2007年8月からはカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上級研究員を兼務、同研究所に構えた研究室と日本を月に1度は往復して、研究を行う。
iPS細胞の開発
2006年(平成18年)8月25日の学術雑誌セル京都大学再生医科学研究所教授である山中と特任助手だった高橋和利(現、講師)らによる論文が発表された。論文によると山中らはマウス胚性繊維芽細胞に4つの因子 (Oct3/4, Sox2, c-Myc, Klf4) を導入することで ES細胞のように分化多能性を持つマウス人工多能性幹細胞(iPS細胞:induced pluripotent stem cell)を作成した。この作成には、高橋和利と共に山中伸弥研究室の第一期の博士号取得者であった徳澤佳美奈良先端科学技術大学院大学において山中伸弥の下で作成していたFbx15ノックインマウスの存在が、同じく徳澤佳美が見つけていたKlf4の知見と共に重要であったと山中伸弥は回顧している
2007年(平成19年)11月21日、山中のチームはさらに研究を進め、人間大人皮膚に4種類の発癌遺伝子などの遺伝子を導入するだけで、ES細胞に似たヒト人工多能性幹 (iPS) 細胞を生成する技術を開発、論文として科学誌セルに発表し、世界的な注目を集めた
また同日、世界で初めてヒト受精卵から ES細胞を作成したウィスコンシン大学教授のジェームズ・トムソンも、山中のマウスiPS細胞生成の研究成果を基に、人間の皮膚に発癌遺伝子などの4種類の遺伝子を導入する方法でヒトiPS細胞を作製する論文を発表した。
これらの功績により、韓国ソウル大学校教授黄禹錫の論文捏造によって一時停滞していた幹細胞研究が、一気に進むことが期待されている。アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、研究が発表された2007年11月21日、すぐさまウィスコンシン大学研究に支持を表明するなど世界中で注目を集めた。日本政府も、同年11月23日、5年で70億円を支援することを決定し、同年11月28日には総合科学技術会議で当時の福田康夫内閣総理大臣は資金支援強化を表明した。
iPS細胞の研究資金募金活動と趣味のマラソン
マラソンを趣味とし、奈良先端大時代は毎朝構内をジョギング、京都大学に移ってからも鴨川沿いを昼休みに30分走る[20]。日本に寄付文化を根付かせる事を目的に、寄付募集のためのマラソン大会出場も恒例となっていて、2012年(平成24年)3月11日の京都マラソンで山中自身が完走することを条件に クラウドファンディングと呼ばれる募金方法によるiPS基金へ寄付を呼びかけたところ、金額は1000万円以上の寄付が集まった。マラソンは4時間29分53秒で完走した。なお山中の研究グループには2007年度から2011年度の研究予算として6億円以上が日本学術振興会より拠出されている。2013年10月27日の第3回大阪マラソンに再び募金活動を支援する「チャリティーアンバサダー」として出場。4時間16分38秒で完走した。2015年の京都マラソンでは3時間57分31秒でサブ4を達成した。さらに2017年の京都マラソンでは54歳で3時間27分45秒、2018年の別府大分毎日マラソン大会では55歳で3時間25分20秒と自己ベストを更新した。
ノーベル賞受賞後
授賞式後に預けていた賞状とメダルを受け取った後、記者の一人から「もし可能だったらかじってもらっていいですか」との問いに「そういうことはできません。貴重な物ですから。」と返している。賞状やメダルについては「展示はしません。大切な所に保管しておきます。もう、見ることはないと思います。また一科学者として自分がやるべきことを粛々とやっていきたいと思います。」と述べた。2013年1月、安倍内閣下村博文文部科学相は山中伸弥京都大教授の表敬訪問を受け、iPS細胞研究に対して今後10年で1100億円規模の長期的な支援を行う意向を表明した
また、受賞の記者会見で「自宅の洗濯機の修理をしている最中に報せが入った」と語っていたことから、野田内閣が閣僚懇談会でノーベル賞受賞の祝い金として洗濯機購入費16万円を贈ることを決定した
事 件

iPS細胞研究所の附属動物実験施設で、2011~13年、飼育室などで管理されていた実験用の遺伝子組み換えマウスが施設内の別の部屋で見つかり、2013年の年末に文部科学省が京大に対して口頭で厳重注意を行った。2014年の3月にこの件で謝罪会見を行った。マウスの施設外への逃亡は確認されなかった。

STAP細胞問題が社会的な大騒動となっていた2014年の5月1日に、新潮社が、週刊新潮ゴールデンウィーク特大号の目玉記事として、2000年にEMBO Journal誌に発表された論文についての指摘を報道した。この指摘は、STAP騒動の中で知名度を高めていた11jigenが2013年に自身のブログで「捏造指摘ではない」という言葉とともに記載していたものであり、元ネタは2ちゃんねるのスレッド「捏造、不正論文 総合スレネオ2」の240番目のレス(2013年3月30日)と511番目のレス(2013年4月6日)である。広報が指摘を認識していたため事前に調査を済ませていたiPS細胞研究所は、新潮社から連絡されたのを受けて週刊新潮が発売される直前に記者会見を行い、山中が捏造改竄を行ったとは認定されなかったことを発表した。ただし、14年前の実験ノートの一部が見つからなかったことについて山中は謝罪した。謝罪会見の後に、11jigenはこの指摘をしたのは匿名Aだとツイートし、2ちゃんねるで指摘したとされた匿名Aは、ウェブサイト「日本の科学を考える」の中の「捏造問題にもっと怒りを」というトピックにおいて、なぜ謝罪する必要があるのか分からないと言及した(この発言は、2017年1月に管理者によって削除された)。論文を掲載したEMBO Journal誌は不正なしの見解を支持した。この指摘の妥当性や、14年前の実験ノートの保管の不備に謝罪がなされたことについては一部の研究者から疑問が呈され、九州大学中山敬一教授などは「言いがかり」と批判した。一方、ディオバン事件が発覚する契機を作った由井芳樹助教授が、指摘された図7Bの右側の8つの標準偏差の一致は非常に奇妙だとInternational Journal of Stem Cells誌で主張した。ただし、11jigenは、図7BについてはExcel操作のうっかりミスの可能性があると述べている。山中は2014年の新経済連盟イノベーション大賞の授賞式や2016年の近畿大学の卒業式で、この謝罪会見がマウス管理不備の謝罪会見と共に辛かったことを言及した。iPS細胞研究所の年報やニュースレターには、この謝罪会見の報道が行われたことが伏せられずに記載されている
共著者になっていた2報の論文に研究不正があったとの認定が2015年に熊本大学から発表されたが、山中の研究不正への関与は認められなかった。
iPS細胞研究所の特定拠点助教が研究不正行為を行ったことが2018年1月に認定された。その監督責任で処分されるとともに、当面の給与を自主返上した


ノーベル賞
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ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・ 医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としているが、一般にはノーベル賞の一部門として扱われることが多い。

沿革
ノーベル賞は、スウェーデン語では Nobelpris(et)(ノベルプリース/ノベルプリーセット)、ノルウェー語ではNobelpris(en)(ノベルプリース(ン))という。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。
  賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)はスウェーデンの発明家企業家であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のリュドビックカンヌにて死去するが、このときフランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリスウェーデン人ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。
  この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布された。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった。
  ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われることがある(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。
部門
以下の部門から構成される。
    ノーベル物理学賞  ノーベル化学賞  ノーベル生理学・医学賞  ノーベル文学賞  ノーベル平和賞  ノーベル経済学賞
特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。
経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。
  複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度(Prize share)に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などが受賞している。
選考
選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会[13]が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。
ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイター社は旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだクラリベイト・アナリティクスクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。
資格
1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。
  1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。
授賞式
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手賞状、メダルがそれぞれ贈られる
晩餐会・舞踏会
授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会はお開きとなり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる[17]。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000USドルの費用はインドコルカタ(旧名:カルカッタ)の2,000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例である。
1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザインゆえに仕上げ研磨ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市山崎金属工業に依頼した。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。
ドレスコードは燕尾服もしくはナショナルドレス(民族衣装)であるため、川端康成本庶佑紋付羽織袴で出席している。
その他のイベント
受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「蛙跳び」をするのが慣例となっている。
授与
受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。そのため、この賞は正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合も多い。
ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した。2001年から現在まで賞金額は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8,900万円)とすることを決めた。賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半する。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば3分の1ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が2分の1、共同受賞の2人が残りの2分の1(1人あたり4分の1)を得る形になる。
なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条第1項第13号ホにあるように、所得税は非課税となっている。これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである
ノーベル賞受賞者を特別待遇する国も多く、アメリカ合衆国では「卓越技能労働者(EB1-EA)」として永住権が取得できるなど、移民や移住に関して簡単な手続きで許可する国が多い。
メダル
受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。
メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。
メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。
2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。
ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコレートを600個も買い込んで話題となった








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